索敵の素敵な索敵さ加減

 索敵という言葉は素敵だ。

 私はこれから索敵の素敵さ加減をじっくりと味わう人生を送ることを決意しようと思っている。
 索敵は素敵である。
 どうしてこんなにも索敵なのだろう。そして何故こんなにも四面楚歌なのだろう。
 嗚呼、この私が現時点においてこの胸の内に思い描いている索敵にまつわるもごもごとした思いを、どうやって読者諸賢にお伝えすれば良いのか、それが今はまだ分からない。
 しかし、しかし、しかし。
 これは是非とも伝えておかなければならないと思うのである。
 書き記しておかなければならないと思うのである。
 ということで、今回はこの索敵の素敵な索敵さ加減をまずは解説しておきたい。

 まず、索敵のその魅力の一つは漢字にあると強く主張したい。
 あらゆるもの全ての調査であり、もつれた糸を意味する「索」。
 それに憎むべき「敵」という字を接ぐ、そのセンスというか感性というか雰囲気というか、そういう何がしかが既にして索敵そのものではないか。
 悪しきもの、ありったけの憎しみをこめて打ち倒すべき、自分とは倶に天を戴くべからざる生涯の仇である「敵」。
 この「索」と「敵」とを組み合わせることで索敵は成り立っているのだ。
 もちろん、この索敵というのは当て字ではなく、何がしかの意味をもってこの二つの字は組み合わされているわけだ。だからこそ更に索敵が素敵であると言えるわけなのだ。やはり索敵は素敵だと思うのである。

 索敵の素敵さは、その意味にも現れている。
 なにしろ索敵という単語は、それ自身で索敵ということを意味しているのだ。
 まさに自己言及的、索敵は索敵ゆえに索敵を自ら宣言できるのであり、索敵は索敵以外に索敵を索敵たらしめないとも言い得るわけである。
 索敵は索敵を索敵と言うためだけに存在しているのではもちろん無いのだが、しかしながら索敵が索敵を素敵と述べることには何ら矛盾したところは無く、全ては完全なる円環に内包されたぐるぐるの中身として索敵足り得ているわけであり、索敵は索敵以外には何ら自身の存在の流れのようなものを必要としない確固とした索敵なのである。
 その孤高さすらも、やはり索敵が索敵たるゆえんであるのかも知れない。
 かの孫子も言っている。「敵を知り、己を知れば百戦しても殆うからず」と。

 ここまで、索敵が如何に根源的に索敵であるのかを探求してきたが、しかしここまではあくまでも索敵の索敵理論展開に過ぎないわけで、言ってしまえば机上の論理、畳の上の索敵、ビルマで水島が唱えたであろうお経の境地には至らぬままの索敵に過ぎない。
 やはり索敵が素敵であると理解するには、索敵がどのようにして現実世界に働きかけ、その素敵さを索敵として人々に認知されるかが重要なのではないだろうか。
 知識としての索敵はあくまでも空想めいた索敵でしかなく、たとえ軍務要諦を暗誦していても、それは経験的ななにものかに裏づけされなければ真の索敵とは言えないと思う次第である。
 頭でっかちな索敵理論は死んでおり、体験に基づいた索敵こそ活路である。

 では、今から索敵を実施しようではないか戦友たちよ。
 世界に大きく足を踏み出し、索敵をもって索敵世界を体験する、それこそが私たち人類を更なる索敵ワールドへと導くほとんど唯一とも言い得る手段なのである。
 索敵の対象は野に放たれている。そしてそれを見出す術はまた、索敵の内にあるのである。
 さあ、まずは唱えてみよう。索敵と。
 玄関の扉を解き放った時、恐らくは諸賢の目の前にあるであろう街路でまずは索敵するのだ。
 なに、簡単なことである。街路で索敵するだけでよいのである。
「索敵街路」
 ああ、何ということであろうか。
 今までは全く何の変哲も無い、少しばかりうらぶれた街路が、索敵のお力によって瞬く間に第一級危険地帯の一部と化してしまったではないか。
 索敵街路、その言葉の響きはどことなく匪賊との出会いを運んできそうな、そんな街路を私たちに思い起こさせはしまいか。

 さあ、どんどんと索敵を体験しよう。
 索敵街路を歩くうちに、諸賢は道端の雑草などにも敵を見出すだろう。
 「敵性雑草」だ。敵と付くだけで、なにかおぞましい毒物でも分泌しそうな植物に早変わりである。
 おっと、道の向こうから腐った魚のような目をしたおばさんが歩いてくる。
 しかし、彼女もまた索敵で瞬く間に変身である。そう、「敵性おばさん」だ。
 どんなテロリズムもたちまち実行、おひとり一つまでの特売卵を三つ買い、傍若無人に試食のソーセージを食い荒らし、場所をはばからずぺちゃくちゃと立ち話をして交通を妨害し、雨が降ると傘を片手に掲げママチャリを片手でふらふらと無灯火運転し良民を恐怖のどん底に陥れる、ゲリラも裸足で逃げ出す敵性おばさん。
 彼女の敵性工作が、明日の軍事広報に載ってしまいそうである。
 そして諸賢はやがて敵性バス停に到着し、そこで敵性バスに乗り込むのである。

 敵性バスは敵で混雑しているのだが、敵性混雑だから命にかかわることがある。いたるところに落とし穴やブービートラップが仕掛けられている。うっかり吊革を握ってはならない。毒が塗られているかも知れない。うっかり座ってもならない。体重で突き出される毒針が仕込んでいるかも知れない。うっかり妊婦に席を譲ってはならない。単なるどすこい姐ちゃんかも知れない。うっかり料金を払ってはならない。十円玉が足りずに恥をかかされるかも知れない。それら無数に仕掛けられた陥穽を見抜くことこそ、索敵の素敵なところである。
 敵性バスは敵性道路を風のように走り抜け、敵性駅で諸賢を降ろす。
 敵性駅には無数の敵性サラリーマンが敵性スーツに身を包み、索敵歩きで各々の索敵を行いながら国賊会社に向かって敵性通勤をしているだろう。昔から言うではないか。「男子一度門を出れば七人の悪魔超人がいる」と。
 敵性電車はいつものように敵王朝の敵で満員だが、諸賢は敵性吊革に捉まり(むろん事前の索敵は充分に行うべきなのは言うまでもない)敵性吊り広告の敵性プロパガンダ(騙されてはならない)でしばらく索敵時間を過ごすことが出来る。
 そうこうしている内に諸賢は何時の間にやら敵性職場で索敵仕事を開始し、敵上司と敵部下との強制労働に支えられながら索敵作業を素敵に進めることになるのである。むろん敵性職場であるから、諸賢の義務はできるだけ社内の円滑なる業務を停頓かつ破綻せしむることであるのは言うまでもない。

 サボタージュ工作を終えて帰宅する途上でも索敵は怠ってはならない。行軍でもっとも危険なのは、敵陣より帰還する途上である。
 ほら、諸賢の先方五十メートルほどのところにうら若き女性が歩いている。きっと敵性OLだ。女だからと言って侮ってはならない。マタハリかも知れない。くノ一かも知れない。ロックバンドのボーカル兼ハーモニカストかも知れない。
 女性の後方三十メートルの距離を保ちながら尾行すべし。尾行も索敵の一部である。できれば敵女が帰宅するまで尾行を続け、住所氏名電話番号を索敵すべし。そして後刻、その電話番号に無言電話を掛けよ。おまえの敵性行動はすでに承知している、生命を危険に晒したくなければすぐさま敵性行動を止めよと警告するためだ。
 決して気取られてはならない。敵女が敵性交番に駆け込む危険性があるからだ。ただし、ことさらに暗く細い街路に敵女が入りこんだとき、靴を鳴らす、咳払いをするなどの威嚇行為を行うことは、威力偵察としてモルトケも推奨している。ツツツと追い抜いて振り向きざまにニヤリと笑うのは、ボー・グェン・ザップの得意な索敵だった。
 嗚呼、素敵なるかな索敵ワールド。

 では問題です。
 この索敵雑文に、素麺という単語は幾つ出てきたでしょう?

 雨谷の庵は今日も徳田さんごめんなさい


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