養子三昧

 武田信玄。「風林火山」の旗のもと天下取りを志し、京へのぼる途上でいのち尽きた無念の覇王。
 上杉謙信。毘沙門天に祈り、一生不犯とひきかえに一生不敗を手に入れた正義の明王。
 北条氏康。創業の早雲、守成の氏綱のあとを嗣いで関東平野になだれこみ、関八州をわがものとした関東の王。
 いずれも英雄豪傑。戦国時代、東国の覇権を争った三者である。
 この三人を父に持った、数奇な運命をもつ男がいた。

 北条氏秀。子供のときの名を竹王丸という。
 関東の王、北条家当主の氏康の七番目の息子である。
 生まれたときには、長男の氏政がすでに元服していた。さらに母親の身分が低いこともあり、北条家のあとつぎにはなれないことが確定していた。
 そういう息子たちの道はふたつある。
 ひとつは、どこかあとつぎのいない大名の養子にもぐりこむこと。
 もうひとつは、寺に入れられて坊主になること。
 竹王丸は、まずはあとのほうの手段として、箱根の早雲寺に預けられた。
 まだ六歳のときであった。

 箱根早雲寺は、北条家の創建者、北条早雲の菩提をとむらうために作られた、北条家の菩提寺である。
 そんなところに北条直系の子孫が送られたのだ。当然、たいせつに扱われただろう。
 家柄だけではない。竹王丸には、人目をそばだたせる特徴があった。
 竹王丸を預かった明叟禅師は、「ほう」と眼をみはった。
「これは利発そうなお子じゃ。学問も、さぞやお進みなさるじゃろう」
 そう、竹王丸は、幼いながらも目鼻立ちの整った、美しい子供だったのである。

 幼くして寺に送られたのも、竹王丸の義母、氏康の正夫人である瑞渓院のさしがねであったという。
 自分の息子、長男の氏政がボンクラでのっぺりした顔なのに、竹王丸はこんなに美しい。成長して美しいだけでなく賢くなり、
「やはり大北条家の当主たるもの、筋目や家柄よりも能力と識見が大事。凡庸なる長男の氏政どのよりも、利発で文武にすぐれた七男の竹王丸どのこそふさわしい」
 などと言われないか、と心配してのことだったという。
 ときには、美しいことがわざわいを呼ぶ。

 竹王丸は早雲寺で、出西堂という名を与えられた。
 寺じゅうの評判になったという。
 「相州一の美少年」とまでもてはやす僧もいた。
 当時、衆道という文化があった。ひらたく言えばホモである。
 妻帯できぬ僧侶、戦場暮らしが長く女に接する機会の少ない武士、これらの人々は、身辺に美少年を置き、女の代わりに寵愛した。
 当時はそれが罪でも変態行為でもない、ごくあたりまえのことだった。
 豊臣秀吉などは、「あの人はあんなに女好きなのに男にはまったく興味がない。ヘンタイなんじゃなかろうか」と言われたくらいである。
 そんなわけで竹王丸は僧たちに狙われた。
 しかし、まだ六歳である。
(まだ早い)
 僧たちは、じっと時期を待った。
(あと四年。四年たてば、竹王丸も成長して蕾ほころぶことであろう。そのときこそ、拙僧が)

 ところが竹王丸は、すぐ寺を出る。
 このとき北条家は、甲斐の武田、駿河の今川と同盟をむすんでいた。おもに、北の上杉と対抗するためである。
 同盟のあかしとして、たがいに人質が送られた。
 北条氏康の娘を今川氏真の嫁として今川家へ、今川義元の娘を武田義信の嫁として武田家へ、そして武田信玄の娘は北条氏政の嫁として北条家へ、それぞれ送ることになった。この時代、嫁は人質と同じである。
 それでも足りないと思ったのか、氏康は、竹王丸を武田家に送ることにしたのである。
 おそらくこれも、瑞渓院のさしがねだったろう。他家に送り、息子の競争相手を完全に潰そうという狙いである。
 僧たちの悔しがる姿が目に浮かぶ。
(こんなことなら、こんなことなら)
(蕾のうちに散らしておけばよかったものを)

 武田家に送られた竹王丸は、武田信玄と対面した。
 やはり信玄も、竹王丸の美貌にまいってしまったらしい。
 信玄は女好きで有名だが、出家して信玄と名乗るくらいだから、むろん衆道にも通じている。竹王丸に手を出したかどうかは、わからないが。
 ともかく、三郎という名前を与えられ、信玄の養子となった。
「……さぶろう」
 竹王丸はその厚遇に、よろこぶよりも驚いた。

 武田信玄には、実の息子が七人いた。
 長男は太郎義信。母親は正夫人の三条氏。当時はあとつぎと定められ、今川の娘を嫁にもらっている。
 次男は次郎信親。長男と同じく三条氏の子だが、生まれつき盲目のため、寺に送られた。竜宝と名乗る。
 三男は三郎信之。長男と同じく三条氏の子だが、幼くして死んだ。
 四男は四郎勝頼。母親は妾の諏訪氏。のち長男の義信が信玄に逆らって殺され、武田家を嗣いだ。
 五男は五郎盛信。母親は妾の油川氏。信玄が滅ぼした仁科家を嗣ぐ。
 六男は十郎信貞。母親不明。これも信玄が滅ぼした葛山家を嗣ぐ。このへんになるとどうでもよくなったのか、六郎でなくいきなり十に飛んでいる。
 七男は信清。母親は妾の禰津氏。もう数字を考えるのもイヤになったらしい。
 つまり竹王丸は、三郎という名前を与えられることで、死んだ信之と同格、勝頼よりも上に置かれたのである。実質的には次男格。

 このような厚遇もながくは続かなかった。
 戦国に限ったことではないが、同盟など破るためにむすぶもの。今川義元が織田信長に殺され、息子の氏真が馬鹿者と見るや、武田信玄は今川を攻める。これに怒った北条は武田と断交。
 かくして三国同盟はあっけなく崩れ、武田三郎こと竹王丸はふたたび早雲寺へ出戻る。
 ときに十五歳。ますます美しくなり、「東国一の美少年」と、その名をとどろかせていたという。
 僧たちの喜びは想像にかたくない。
(蕾どころか、みごとな満開の花じゃ)
(わしらも信玄の兄弟じゃ)
(信玄もおなじ禅門、構うまい)
(禅門の狼、肛門の虎じゃ)

 このころ、あまりにめまぐるしい運命の転変にグレたのだろうか、それとも尻が痛かったのだろうか、酒におぼれ、随所で乱暴をはたらいていたらしい。
「酒は朝だけにしろ。それも三杯までだ。勝手にそこらをうろつくな。よその家で酔っぱらって暴れるなどもってのほか。これを破ったら、養子どころか北条の縁も切るぞ」
 という、氏康の叱責の手紙が残っている。

 素行の悪さを忌まれたのか、それとも尻の危機を感じたのか、竹王丸は早くも翌年、寺を出される。
 還俗して北条幻庵の養子となる。
 北条幻庵は早雲の三男。竹王丸の父、氏康の叔父にあたる。早くに出家して箱根権現の別当を勤めながら、父の初代早雲、兄の二代氏綱、甥の三代氏康を助けていた。
 息子ふたりが武田信玄と闘って戦死し、後継ぎがいなくなったため、竹王丸を養子にむかえたのである。
 ここで元服、北条氏秀と名乗り、幻庵の娘を妻にむかえる。ここでようやく、尻の危機から開放されたような気がしただろう。
 そして武蔵の国、小机城の主となる。
 小机城はいまの新横浜駅の近く。北条家の関東経営の重要拠点である。
 ちなみに北条幻庵は氏秀に家督を譲ってから隠居して幻庵と名乗るので、「幻庵の養子になる」という言葉は正確ではない(それまでの名前は長綱)。が、ここでは有名な方の名前で通させてもらう。

 しかし、その幸福な日々もながくは続かなかった。
 こんどは北条家が、上杉家と同盟をむすんだのである。
 武田信玄は北条、今川との三国同盟を破り、今川を攻め滅ぼした。徳川家康とはかって今川領の西半分を徳川が、東半分を武田が領有した。信玄は海岸沿いの三島や田子の浦を拠点として、北条のもつ伊豆や小田原を攻めにかかったのである。
 北条はこれまで敵対していた上杉謙信に助けを求める。天下統一を狙う武田信玄に不安を感じた謙信は、ここで北条と連合し、北から武田を牽制することを約束する。
 同盟のあかしとして、またも氏秀は上杉家に送られてしまったのである。
 おそらくは新妻とも離縁させられてしまったことだろう。哀れなものである。

 ふつう人質としては娘を送るか、次男以下の当主でない男を送る。
 わざわざ一家の主である氏秀を送ったことには、理由がある。
 はじめは氏政の次男、国増丸を送ることになっていた。
 ところが反対した者がいる。国増丸の祖母、瑞渓院だった。
 そう、氏秀を早雲寺に入れたり武田家に送ったりした人物である。
「国増丸はまだ幼少。他国に送るのは可哀想です」
 国増丸はたしかにまだ幼いが、六歳である。氏秀が武田家に送られた年齢と、さほど変わらない。
 これは表向きの理由であった。
 上杉謙信が毘沙門天に祈り、古今無双の名将となることを求めたことは有名である。
 そのひきかえに一生不犯を約束した。その通りに生きた。謙信は生涯妻を持つことなく、実子もない。
 ただし「不犯」というのは、女色を断つ、という意味である。男色のほうは禁じていない。
 謙信はかなりの男好きだった。そのへんから真性ホモだとか、女だったとか奇想天外な説がとなえられたくらいだ。
「上杉との盟約はけして破られてはなりません。上杉の助けなしには、北条の家は武田に滅ぼされてしまいます。だから」
 瑞渓院は主張した。
「上杉謙信がけっして約束を破ろうと思わないよう、送る人質は謙信の気にいる人物でなければなりません。それには、東国一の美少年こそ」
 というわけでまたも氏秀を厄介払い。
 それにしても、美貌でつくづく損をしている。

 氏秀の幸不幸はともかく、瑞渓院の狙いはみごとに当たった。
 上杉謙信は、氏秀をひとめ見て惚れこんだ。
 自分の養子に定め、なんと自分の昔の名前「景虎」を与えた。ここで上杉景虎と名乗る。これは、謙信の後継者と発表したことに等しい。ときに景虎、十八歳。
 そして自分の姪を嫁がせる。これはおそらく、世間をあざむくカムフラージュだったのだろう。謙信は景虎を寵愛した。
 その翌々年、北条氏康の死によって同盟は破れるが、謙信は景虎をそのまま養子としつづけた。愛情のほどがうかがわれる。
 景虎はノーマルだったらしく、謙信の姪に息子を産ませている。それにしても景虎、男に愛されているばかりで、美男子だったわりには女との縁はふしぎに薄い。ひょっとすると天性の受体質で、そこを女性には嫌われていたのかもしれない。性的にノーマルで受ってのは、まことに不幸としか言いようがない。

 このままなら謙信の跡を嗣いで大上杉の当主となり、めでたしめでたしだが、そうはいかないのがこの男の人生。
 養子となって八年後、上杉謙信は死ぬ。突然のことだったので遺言もなかった。
 ここで後継者は誰がなるか、上杉家の世論はまっぷたつに分かれた。
 ひとつは謙信に愛された景虎を推す意見。
 もうひとつは、謙信のいとこ長尾政景と謙信の姉との間に生まれ、政景の死後、やはり謙信の養子になった景勝を推す意見。
 さらに景虎を、実家の北条家が支援し、それに対抗して武田家は景勝を応援した。
 しかし景勝は養父謙信を心から尊敬し、謙信に少しでも近づきたいと、立ち居振る舞いまで謙信の真似をしたほどの男。沈着冷静で果断、そして武勇にすぐれている。
 しかもその景勝を、上杉きっての名臣といわれた直江山城守がバックアップしている。
 養子巡りに忙しく、ろくに戦場にも出ていない景虎がかなう相手ではなかった。
 先手を取って首府の春日山城に入った景勝に対抗し、御館城に立てこもった景虎だったが、たちまち破れて自殺。享年二十七。

 美しく生まれついたことがなんの得にもならなかった人生を振り返り、彼はなにを思っただろうか。


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