あなたに今夜はワインをふりかけ

「おれ、今度サイトを閉じるんだ」
 とあの人は言った。
 あたしはちょうどフライパンで羊の脳味噌にブランデーをぶっかけてフランベしているときだったので、聞き違えたのかと思い、
「ほえ?」
 と、間の抜けた声をあげてしまった。

 男にしてはわりと片づいているあの人の部屋。久しぶりにあたしが訪問するので、いちおう掃除はしたのかもしれない。本棚に入りきらない本が積み上げているのは、これはしかたがないか。机の上にある描きかけの原稿は、これは見ないふり。
 テーブルに買ったばかりのクロースをかけて、今晩はちょっとおしゃれに食事。回教徒用の肉屋で買ってきた羊の脳を香草とソテーして、右脳はあの人に、左脳はあたしに。実は左脳の方がきめこまかくて美味しいの。ワインはフェラン・セギュール。血のように赤く、血のように濃厚なワイン。このメニュー、なんとかいう鬼畜映画からのうけうり。本当ならシャトー・ペトリュスを使いたかったのだけど、とても買える値段じゃなかったので。
「さっき、なんて言ったの?」
「サイトを閉じるんだよ」
「なぜ?」

 あたし、あの人のものではじめて見たのは、実はあの人のサイトだった。
 そこに載せられていた文章。けっして上手じゃないけれど。ウケを狙ってのたうちまわっているようなギャグ、子供が駄々をこねているような理屈、飲んだくれがわめいているような愚痴、なんとなくほほえましかった。地べたに寝ころんで吼えているようなそのサイトを見て、作者に会ってみたい、と思った。こういう人は、頭の中で百人の子鬼が飛び跳ねているような感じじゃないかしら、なんてね。
 実際に会ってみて、この人はサイトの見かけ以上に無益無害、おまけに手のかかる人だということがわかった。なんとなく、放っておけないような気がした。ずっと年上ではあったんだけど。
 それが気の迷い。気がついたら、こんな関係になっていた。

「めんどくさいからかな」
 あの人は脳味噌を食いちぎりながら呟いた。
「それだけ?」
「時間もかかるしな」
 ワインを飲み干して、唇のはじに垂れる真っ赤なしずくを舐めながらあの人は言った。
「仕事も忙しいし」
 それは嘘だと、あたしは知っていた。あの人に時間がなくなったのは、あたしのせい。だって最近、休みの日は、ずっとあたしと一緒にいるんだもの。

「そうね」
 あたしは、この人のサイトのことを思い出しながら、反射神経だけで返事をしていた。
「やめたほうがいいかもね」
 この人からサイトを取ったら、あたしにとってこの人は……。
「そうだろ」
 バゲットを囓りながら、勝ち誇ったようにあの人は言った。

「さよなら」
 あたしの言葉を、あの人は最初、冗談だと思っていたらしい。
 けれど、コートを着はじめたあたしを見て、本気で慌てだした。
「おい、なんで……」
 抱き留めようとするあの人に、あたしは残ったワインをふりかけてやった。頭から。瓶ごと。どぼどぼと。
「さ・よ・な・ら」
 頭の中で百人の殺人鬼が暴れ回った結果のような姿になりはてたあの人を残し、あたしは部屋を出た。

 駅への帰り道、あたしはほろ酔い心地で口ずさみながら歩いた。
「歌を忘れたカナリアは 柳の鞭でぶちましょか
 いえいえ、それは生ぬるい」


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