駆け足日本史総説

縄文時代
 この時代、人々は文明も文化もなく、木や草で作った掘立小屋に住み、(現代の日本人もこの習慣を引き継ぎ、木や紙で作った家に住む。論者によっては、文明や文化もいまだにないと言う)裸で生肉や生魚を食らっていた(現代の日本人も生魚を好んで食うことは有名である)と、かつて言われていた。
 ところが最近、サンナイマルヤマを初めとして巨大な木造建築物を備えた大規模な集落が縄文時代に既にあったことがわかってきた。そして、この時代の人間こそ自然と調和して平和に生活することを知っていた高貴な人々だと言われるようになった。私としてはどちらの説が正しいか判定しがたい。ただ、どんな時代にせよ日本人が高貴で平和であったとは信じがたいのだが。
 この時代についてはいろいろな説がある。縄文人は現在の日本人の祖先であるという説と、全く違った人種であるという説が対立している。昔ある学者は、縄文人とはコロボックルという、日本人よりずっと小さい人種だったという説を唱えたが、日本人より小さい人種がいたという説はちょっと信じがたい。あれより小さな人間は生存できないのではないかと思う。
 しかし縄文人は、世界で最初に土器を作ったという栄光を、世界一好みの日本人によって与えられている。これもちょっと信じがたい。なにしろ、いまだに縄文土器と同じような焼き物を作っては、薩摩焼だとか備前焼だとか珍重している国家の人間が唱えた説だから。

弥生時代
 この時代に米作が日本に入ってきたと信じられている。西洋の我々からすれば米を食っていない日本人と言うのは想像し難いが、そういうものらしい。では弥生以前の日本人は何を食べていたのか。
 かつて日本のイケダ総理は「貧乏人は麦を食え」と言ったことから、縄文人の常食は麦だったとする人間が多いが、しかし麦はオリエントの原産である。米よりも遅く日本に伝わったものと考えられている。
 私としてはかつての日本人は「カスミ」というものを食っていたと信じたい。ヤナギダ・クニオという日本人の説では、いまの日本人が日本を征服する際に、山人という先住民族が追われて山に逃げ込んだそうだ。山人はやがて仙人に進化した。仙人は五穀を食わず「カスミ」を常食するという。おそらくプレ弥生の食文化を、ここに残しているのだろう。

古墳・大和時代
 実はこの時代については、縄文時代より知られていない。この時代の研究はタブーになっているからだ。原因はテンノーにある。
 ヒロヒトの血筋であるテンノー家は、いまだに多くの日本人の信仰の源となっている。ところが、この時代、テンノーより勢力のあった土豪が多くいた。彼らは当然のことながら、テンノーに従わなかった。テンノー家はそれら土豪を攻め滅ぼして、日本を征服した。このような事実が研究により明らかにされることは、日本人にとって困ることなのだ。英国人は英国王室が近隣を切り従え、戦争に勝ってきたことを王室の武勇の現れとして誇るが、日本人にとってそのような野蛮な行為はテンノーの手下であるショーグンの役目であり、テンノーは手を血で汚さず、テンノーの前では万人が戦うことなくその威光にひれふす、ということでなければならない。テンノーが自分で手を汚して戦っていたこの時代は、従って日本人にとっては都合の悪い時代なのだ。
 おまけにテンノーの墓とされていた巨大な陵墓が、実はテンノーの敵だった土豪達の墓だ、という証拠がどんどん集まってきたことも、多くの日本人を当惑させた。これまで崇拝していたあの陵が、テンノーのものでないと分かったら、我々の信仰は誰に向けられていたことになる? こうした信仰の危機に際し、日本の政府は賢明にも、こうした研究を続けていた学者を迫害し、テンノーの墓とされる陵墓のそれ以上の研究も拒否した。
 こういった理由でこの時代は研究されてこなかったし、おそらくこれからも研究は控えられるだろう。

奈良時代
 この時代、日本は先進国である中国の文化を吸収することにつとめた。衣食住のみならず、宗教から政治から文学までを中国から輸入した。
 ただしその一端で、「マンヨーシュー」という膨大な詩編集が残されている(「マンヨーシュー」の編纂はのちの平安時代だが、詩の多くはこの時代に作られている)。意訳すると「万詩篇」だが、べつに予言などしているわけではない。もっともこれが予言の書だという説をとなえるのは、梅原猛のような碩学者から有象無象のあやしげな論者まで、山ほどいるのだが。

平安時代
 この時代については、「ゲンジモノガタリ」と言う小説に尽きる。ムラサキシキブという女性の手になるこの作品は文学作品として世界的に有名であるが、当時の支配層の生活を如実に現している。
 主人公であるヒカル・ゲンジは当時のテンノーの息子で、大臣を務める政界の大物である。それにもかかわらず、彼の活動は恋の冒険に限られ、政治の話はまったく出てこない。我等が愛すべきサミュエル・ピープス氏でも、もうちょっと仕事をしていた。しかし、ヒカル・ゲンジが特別に怠惰あるいは無能だった訳ではない。当時の支配者は実際、遊んでばかりいたのだ。
 軍備は放棄していたので軍事がない。外国との交易もなかったので外交がない。政府高官達が争って国有地を私物化していたので国有地もなくなり、内政もやりようがない。やることがなかったのである。しかしこれでは人民はたまらない。人民は支配層の奴隷と化し、盗賊に襲われても助けてくれる者はなく、惨めな暮らしを強いられていた。その辺の事情を書いているのが後世の作家、アクタガワ・リュウノスケの「ラショーモン」である。これは高名な映画監督、クロサワ・アキラが映画化した。
 最後にヒカル・ゲンジは政争と恋に破れ、関東地方に下って行った。そこで彼は遊びにうつつを抜かした前半生について反省し、これからは人民のためになる政治をしようと決心した。彼の息子達はその決心を受け継ぎ、ついには数代後の子孫がテンノーに代わって日本を制覇することになるのである。ゲンジがショーグンとなって統治したカマクラ時代がやってきたのだ。

鎌倉時代
 有名無実化したテンノーと貴族の権力を、まず奪ったのはヘーシというサムライの一族であった。そのライバルであったのがゲンジという一族で、鎌倉時代の主役である。ヘーシは西日本を基盤とし、ゲンジは東日本を基盤とした。西日本の人間は闘いには弱い。「またも負けたか八連隊(大阪連隊)、それでは勲章九連隊(京都連隊)」と歌われたように、予想通りヘーシは負け、ゲンジの棟梁ミナモトノヨリトモは鎌倉にバクフという独裁専制機関を作った。
 しかしゲンジは三代で滅びる。バクフの部下として隠忍自重していたヘーシの支族、ホージョーが陰謀でつぎつぎにゲンジ一族を暗殺していったのだ。西日本の人間は、こういう陰謀は得意である。
 ホージョー政権は歴代倹約をこころがけ、緊縮財政でやっていこうとした。その代表的な人物がトキヨリである。彼は一汁一菜(腐った豆のスープと半野生の蔬菜だけの質素な食事)を部下に強制し、ディナー・パーティのオードブルに腐った豆だけを出したと言われている。薪を惜しむあまり盆栽を砕いて火にくべたり、川に落としたコインを人足に捜させたり、とにかく常軌を逸した節約狂であった。いつの時代も日本人というものは、こういう政治家を賞賛するが実際にこういう政治家の下になることを好まない。ホージョー政権はようやく飽きられはじめた。

南北朝・室町時代
 ホージョーが実権を握った鎌倉幕府であったが、モンゴルからの侵略などで疲弊し、だんだんと力を失ってきた。ひとつにはホージョーに人気がなかったということがある。日本人は真珠湾に見るように謀略や陰謀が大好きだが、それを行う人間は嫌い、という矛盾した性格を持つ。
 ここに登場したのはアシカガ・タカウジである。あけっぴろげで陽気な性格だった彼は、ホージョーのアンチテーゼとして人気を集めた。ホージョーは破れて小田原に逃げ、そこでダイミョーになった。
 ホージョー亡きあとタカウジに対抗したのは、ゴダイゴ天皇とクスノキ・マサシゲのコンビである。彼らはナンチョーと名乗り、ゲリラ戦や言論戦でタカウジを苦しめた。ホー・チ・ミンのような存在であったろうか。しかしあえなく破れ、ゴダイゴ天皇は「ゴダイゴ」という楽曲グループに、クスノキ・マサシゲは「カワチノオッサンノウタ」という楽曲に名を残すのみとなった。
 ライバルを倒したアシカガ・タカウジはキョートの室町にバクフを開く。しかしバクフの領地が少なすぎるため、当初から弱体政権であった。八代目のヨシマサのとき、部下のダイミョーたちが私闘をおこない、ついにバクフは有名無実化する。戦国時代の始まりである。

戦国時代
 戦国時代には各地のダイミョーたちがときに闘い、ときに組んで別なダイミョーと闘い、ときに部下に裏切られて殺されるというわけのわからない時代であった。百年戦争にジャンヌダルクが現れなかった事態を想定してもらえばいいかと思う。
 それでもカオスのごとき情勢の中から、ようやく統一者が現れる。ノブナガ、ヒデヨシ、イエヤスの三代である。彼らは三人とも今でいう愛知県の出身である。ところがみんな、愛知県から出ていってしまった。ノブナガは滋賀県の安土城、ヒデヨシは大阪府の大阪城、イエヤスは東京都の江戸城を国家の中心とした。愛知県によほど不都合があったことが、この事実からでもわかる。いまだに愛知県からは、これといった政治家が出ていない。逆に愛知県には、全国から変な政治家が流入してくる。どうしたことだろうか。有権者がよほど馬鹿なのだろうか。それだけではない、深刻ななにかが愛知にはあるような気がする。

江戸時代
 イエヤスが開いた江戸時代は約三百年続いた。日本がもっとも平和だった時代である。
 この時代は市民のカーストが厳格で、軍人の子は軍人、農民の子は農民と定められていた。もっともこれには唯一の例外があった。男は剣士、女はゲイシャになることだった。平和な時代に剣士の才能が求められるのは奇妙なようだが、この時代、罪を犯した人は自ら罪を認めてハラキリ自殺を行うのが一般だった。そのため、ハラキリ指南、ハラキリの手伝いをする人材が求められたのである。
 最下位のカーストの女もゲイシャになれば、その美貌とコケットリーでカムロ、シンゾーと出世し、ついにはオイランと呼ばれる最高位にまで昇りつめるのも夢ではなかった。そのためあらゆる女は、マクラエと呼ばれる猥褻画でコケットリーの勉強をした。浮世絵画家達がその需要に応えていた。ウタマロ、ホクサイ等がその代表である。彼らはマクラエの合間に、デッサンの勉強のために風景画や街道を往来する人々の絵を描いていた。それが後世、芸術としてこんなにもてはやされるとは画家も思わなかっただろう。
 江戸時代が崩壊した原因は、政府が米に経済の基盤を置いていたからだった。市民達が初めの頃のように米と干した小魚で食事をしていた頃はそれで良かったが、平和の中で次第に贅沢になり、そのシーズン最初の鰹(既婚女性と交換に売られることもあった)や、逆にシーズンをはずした真夏の蜜柑(ひとつ千枚の金貨で売買された)を求めるようになっては、この時代も終わりである。それにこの政府を作った軍人達が平和な時代の間にすっかり戦争のやり方を忘れてしまったのも崩壊に拍車をかけた。

明治時代
 西日本の公国が中心となってエドにいるショーグンを倒し、テンノーを皇帝とした絶対王政を打ち立てたのがこの時代である。彼らはショーグンを殺そうとしてエドに向かったが、中心人物の一人であるサイゴーは突然気が変わってショーグンを助命した。その後東北日本に立てこもる残敵との戦争の時も、土壇場でサイゴーは彼らを許している。こうしたスタンドプレイはサイゴーを民衆の人気者にしたが、政府要人は彼を危険視した。その結果がセイナン戦争である。
 その頃、隣国朝鮮を攻めるかどうかという論争があった。この時、サイゴーが朝鮮に使節として行きたいと言ったが、政府要人は許さなかった。彼がまた朝鮮を許すに違いないと思ったからだ。政府は朝鮮を属国にしたかった。自分の意志が無視されたサイゴーは怒って政府に反乱を起こしたが破れ、中国に逃れて李鴻章になった。
 こうした波乱はあったが明治時代は総体としては落ち着いた時代であった。西洋の文物がどんどん取り入れられ、日本人はもっと肉を食わなくては西洋人のように健康になれないなどと、今とはあべこべの意見が大真面目に言われた。

大正時代
 四十五年続いた明治時代と六十四年続いた昭和時代に挟まれた、取るに足りない十五年間であった。もっとも米騒動、関東大震災など災難には事欠かなかった。この時代にはデモクラシーが花開いたと言われているが、民衆が実際に使用しようとすると弾圧された。
 この時代のことがあまり語られないのは、テンノーにも原因がある。この時代のテンノーについて語ることは、いまだに日本国内ではタブーとなっている。この時代のことは統治者共々忘れてやった方が親切というものだろう。

昭和時代
 この時代を区切るエンペラー、ヒロヒトは六十四年間統治した。これは世界の国王統治期間ベストテンに優に入る長さである。余りにも長いため、昭和は便宜上二つの時代に分けられている。戦前と戦後である。ヒロヒトの側から言うと、戦前とは自分が全能だと言うことにして政治家が勝手なことをした時代であり、戦後とは自分が何もできない象徴だと言うことにして政治家が勝手なことをした時代であった。ヒロヒトとしては何も変わらない。
 経済的には戦前は、アメリカやイギリスのような国になりたいと行ってしゃかりきに働いた時代であり、戦後はアメリカやイギリスのようにはなりたくないといってしゃかりきに働いた時代である。そのおかげで日本は世界有数の金持ちになった。もっとも国家がである。国民は相変わらず貧乏だった。彼らはウサギ小屋という狭い住居に住む。この住居はカプセルホテルと呼ばれることもある。どのくらい狭いかというと、一人あたりの占有面積がアウシュビッツ収容所を下回るといえば想像がつくだろうか。
 彼らの主食はギュウドンという、コメの上に屑肉と玉ねぎをソーイ・ソースで煮しめた物を乗せた食品と、タチグイソバという、コメよりも下等な雑穀を紐状にした物をソーイ・ソースの薄めた汁に浮かせた物である。これらの食品はいずれも、立って食べることが求められる。そして無言で、できるだけ早く食べることが求められる。おそらくゼンの修業と関係があるのだろう。これらの食品を供する店で、ヨーロッパのように談笑しながら一時間もかけて食事をするキリスト教徒は、主人に一喝されて追い出されることを覚悟する必要がある。

平成時代
 日本ではこの時代が、いまもなお続いている。
 昭和時代は日本が、その能力の及ばない世界一に挑戦した時代であった。昭和の前半は軍事力世界一を目指して激しくアメリカに挑戦した時代であったし、昭和後半は経済力世界一を目指して激しくアメリカに挑戦した時代であった。そのどちらの野望も潰え、平成時代の日本は凡庸な人間の凡庸な国家として生存している。「平成」という元号を告知した凡庸な政治家が、のち凡庸な総理大臣になったのは、この時代を象徴する出来事であった。無理な背伸びをするよりも、そのほうが幸せかもしれない。


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