女海賊怒りの脱出(後篇)

 ニーナと安之進のふたりは、まんまとミール枢機卿の乗る船に忍び込んだ。
 安之進はそのまま、船大工として乗り込んでいった。
 ニーナは胸に固くサラシを巻きつけ、男装して十四才の少年雑役夫として登録した。これなら背が低いのも髭がないのもごまかせる。
 その格好で船に乗り込んだニーナに、安之進はささやきかけた。
「うまく化けたな。それならみんな少年と思うだろう。ただ……」
「ただ?」
「サラシのせいか、いつもより胸がふくらんでいる気が……」
 げし。

 ニーナが連れていかれたのは、下甲板にある厨房だった。
「おぅ、てめえが新入りのガキか」
 ニーナの上役になる賄頭は、砲弾で片足を吹き飛ばされた元兵士だった。
「いいか、すぐに晩メシになるからな」
 賄頭はニーナを船底に連れていくと、ひとかかえはある麻袋の山を指さし、
「あのジャガイモの皮をむいておけ。二袋分だ」
「え?……あ、あの……」
「頭って呼べ。なんだ?」
「あれを……あたし、いや、おれひとりで?」
「当たり前だ。夕方までにできてなかったら、たっぷりとぶん殴ってやるからな」

 ニーナはしかたなく皮むきをはじめた。おぼつかない手つきで、ようやく六つばかりむいたころ、賄頭がやってきた。
「てめえ、まだこんだけしかできてねえのか! この……な、なんだこれは!」
「ジャガイモ」
「こんなのはジャガイモじゃねえ! 豆みてえにちっちゃくなってるじゃねえか! てめえという奴は、ジャガイモの皮も満足にむけねえのか! ……しょうがない、後はおれがやる。てめえはカマドに行ってシチューを作ってろ! いいか、きょうは水曜日だから、豚肉と豆とジャガイモのシチューだぞ。豚と豆だからな!」
 怒鳴りつけられたニーナは、こっそりと上部甲板に忍び込み、マストの修理をしている安之進に苦情をいった。
「おい、なんだってあたしを料理番のところに送ったんだ!」
「厨房の下働きがほしいと言っていたし、おまえも女だから料理くらいできるだろうと思ったんでな。できるだろ?」
「……う……ま、まあな」
 ニーナは、しょんぼりと厨房に戻っていった。

 じめじめとかび臭く腐った匂いもただよう厨房の中で、ニーナは命じられたとおりシチューを作ろうとした。
 豚と豆を求めて、いたるところに転がっている樽をあけてみた。虫のわいた小麦粉やぐじゃぐじゃの塩魚やウジが這いまわるチーズをいくつも開けてみたのち、ようやく悪臭を放つ緑色になりかかった塩漬けの豚肉と、黒褐色のにぶい輝きを放つかちかちの乾燥豆をみつけた。
 ニーナは鼻をつまみながら豚肉を斬りきざみ、大鍋に海水を注いでカマドの火にかけた。沸騰した海水に、どぼどぼと豚肉と豆をほうりこんだ。
 賄頭がジャガイモを抱えて厨房に戻ってきたときには、ニーナは大鍋の前で煮立つシチューをぼんやりと眺めていた。
 カマドじゅうを埋め尽くし、湯気をあげる無数の大鍋の列を前に、しばし呆然としたのち、賄頭は吼えたてた。
「このトンチキ野郎! なんだってこんな大量のシチューを作っちまったんだ!」
「え……だって三百人分って……」
「いくら三百人分っていったって、この半分もありゃ充分だろうが!」
「あた、いや、おれはそのくらい食うけどな……」
「こんだけありゃ、バレンシアじゅうの乞食にだってほどこしができるぜ」
「バレンシアって、乞食が少ないのか?」
「馬鹿野郎、バレンシア人の半分は乞食、残りの半分が船乗りとオレンジ作りっていうくらいだ」
 ぼやきながら賄頭は、椀でシチューをすくい、味見したが。
「…………!」
「ど、どうしたんだ頭!」
「ど、ど、どうしたって……て、て、てめえはこの船の全員を毒殺するつもりか!」
「そうか、その手もあったな……あ、いえいえ、とんでもない」
「塩豚の塩抜きをしてなかったろ!」
「あ……」
「しょっぱくて食えたもんじゃねえ!! それになんだこの固い豆は! てめえ、あそこでふやかしてる豆を使わなかったな!」

 睨みつける賄頭と乗組員の轟々たる不平のなか、それでもなんとかビスケットとチーズの夕食が終わり、後かたづけも終わったころには、陽はとっぷりと暮れていた。
 くたくたに疲れたニーナは、ようやく得た安堵感と共に、ある衝動が訪れてきているのを感じた。
「あ、あ、あの……」
「頭と呼べ」
「え、えと、えと、……頭、ト、トイレはどこ?」
「糞か、糞だったら舳先の手前でやれ」
「で、でも、あそこは穴があいているだけ……」
「それで充分じゃねえか、何か問題があるか?」
「あの、船室の中にトイレとかは?」
「馬鹿野郎、あれはお偉いさん専用だ! てめえなんぞが使えるか!」

 そっと舳先に忍んでいったニーナは、そこでふたりの水夫が下半身を丸出しにしてしゃがんでいるのを見て、断念した。
 それから深夜までじっと我慢していたニーナは、みなが寝入ったのち、こっそりと上部甲板に向かった。めざすは船長や士官の船室が並ぶ奥。そこに、お偉いさん用の便所があるはずなのだ。

 便意と緊張感で冷や汗を流しながら、忍び足で船長室の前までやってきたニーナに、いきなり小声でささやきかけた者がいる。
「おい、どこへ行くつもりなんだ」
 あやうく悲鳴をあげそうになったニーナは、かろうじて声を飲み込み、闇の中へ目をやった。そこには安之進が立っていた。
「なな、なんだ、ヤスかよ……おどかすなよ、漏れるじゃないか」
「漏れるって、なんのことだ?」
「う、うるさい。それよりヤスこそ、何をしにここへ?」
「枢機卿の様子を窺いにな。船長となにやら話しているようだ」
「そうか、じゃ、あたしは急ぐので」
 と奥に行こうとしたニーナの腕を、安之進はつかんだ。
「そっちの方角は駄目だ。警備の兵隊がいる」
「そ、そんなぁ……」

 ニーナの事情を聞いた安之進は、苦笑しながら腕組みをした。
「それはしかたないな。では……」
「奥に忍び込むか?」
「いや、俺が見張っているから、舳先で用を足せ」
「そ、そんなあ!」
 この叫び声が聞こえないはずがない。わらわらと警護の兵士が出てくる。
「あやしいやつ」
「神妙にしろ」
 安之進は相手の人数と体勢をすばやく確かめ、斬り抜けるのは不可能と判断した。力を抜いた安之進と、抵抗するニーナを兵士がつかまえにかかる。
 ニーナを羽交い締めにした兵士は、ふと妙な肉体の感触に気づいた。そしてまじまじとニーナの顔を見つめ、
「やや、こっちのちっこい奴は女だぞ」
 と、頓狂な声をあげた。
「男に化けるとはますますあやしい」
「スパイにちがいない」
「斬れ、いや船端からつきおとせ」
「いや、船長のもとに連行するんだ」
「縛りつけろ」
「牢につなぐんだ」
 口々に言い騒ぐ兵士たち。
「やーん」
 ニーナは泣いた。
「縛っても牢に入れてもいいから、とりあえずトイレに行かせてぇ」

 ニーナと安之進は縛られ、翌朝、船長立ち会いのもと、枢機卿の前にひきすえられた。
「たったふたりで船に忍び込むとは大胆不敵。しかも男装するとはな。惜しい奴じゃが、儂に刃向かう奴には容赦せぬ事にしておる」
 ことが路頭したうえはどうしようもない。枢機卿の言葉の前に、ふたりはうなだれた。さて、牢に何年も放り込まれるのか、それとも蛮人の島に流罪か。あるいは護衛兵のあの剣で、いきなり首をはねられるのだろうか。
「ところでニーナとやら」
 ミール枢機卿の鋭い視線がニーナを射る。
「……は、はい」
「ひとつだけ聞いておきたいことがある」
 安之進はニーナに目くばせした。枢機卿を誘拐もしくは殺そうとしたことだけは、ぜったいに言うな。いいか、誘導尋問にひっかかるんじゃないぞ。
「儂は不思議でならぬのじゃ」
 いよいよおいでなすったか。ニーナは極度の緊張のなか、枢機卿のつぎの言葉を待った。
「そなた、男装していたとき、胸をサラシで巻いておったそうじゃな……いま見れば巻く必要もないと思うのじゃが、なぜに巻いた?」
 げし。
 安之進の止める間もあらばこそ、船長の守る間もあらばこそ、ニーナはどういう手管でか瞬時に縄をすりぬけ、護衛の腕をふりほどき、つぎの瞬間には枢機卿の顎にその鉄拳をお見舞いしていた。

 いま、ふたりはボートの中。
 ニーナの一撃をくらったミール枢機卿は、
「いままで儂が殴ってきた奴は星の数ほどもいるが、儂を殴ったのはおまえが最初で、たぶん最後ぢゃ。いや天晴れな勇気ぢゃ。ウチの部下にもそのくらい気概のある奴がおればのう」
 となぜか非常に喜び、ニーナと安之進を無罪放免、しかも「法王になった折りには、母国のスペインにも相応の待遇をする」旨の念書まで下され、ふたりを備え付けのボートで港に帰してくれたのだ。
「ま、なんにせよ仕事はうまくいったわけだ」
 オールを漕ぎながら呑気に呟くニーナに、安之進は苦笑しながら、
「ずいぶん危ない橋を渡ったけどな。うちの故郷では、そういうのを怪我の功名というぞ」
 と、つけくわえた。

 ふたりの乗るボートは港に近づく。
 陸地がだんだんと大きくなり、木々の姿も見えてくる。
 しばらくの沈黙のあとで、安之進は口を開く。
「なあ……」
「なんだよ」
「俺も、ずっと思ってたことがあるんだ……おまえのこと」
「……え?」
 隣にいる安之進の体温が、とつぜんなまなましいものにニーナには感じられてきた。なんだって、こんなに近づいているんだろう。なんだって、胸の鼓動がきゅうに早くなるんだろう。
「おまえ……不思議だよな、やっぱり……」
「…………なに?」
「なんだって、意味のないサラシなんか巻いていたんだ?」
 げし。


戻る          次へ