女海賊怒りの脱出(前篇)

 寒くしめった風が、遠くの大陸から海をこえて流されてくる。どんよりとした雲が空をおおいつくしている。
 この季節になったら海賊はお休みだ。この季節は海が荒れる。だからほとんどの商船は、帆をたたんで港で春を待つ。獲物がいなければ海賊も動きようがない。ニーナの部下たちも、てんでに酒場でのんだくれたり、商店に働き口を求めに行ったり、他国へ渡っていったり。
 いま、この船にいるのはニーナと安之進だけだ。船に浸水や破損がないか、定期的に見回る。春、また船出するときに備えて。

 たいしたこともない仕事はすぐ終わり、ニーナと安之進は並んで甲板に腰をかける。さむざむとした空を見上げるが、なんということもない。
「ヤスは故郷へ帰る気はないのか?」
 とつぜん、ニーナは安之進のほうを向いて訊ねた。
「いや……」
「船が心配ならなんとかするぞ。お前がここに来たのは、あたしのせいでもあるのだからな」
「いいや、船のことではない。おれの国は、港を閉ざしてしまった。たとえ戻っても、殺されるだろう。それに……」
 安之進は、ニーナから目をそらしながら答えた。
「それに?」
「おれは……なんというかな、ニーナを見ていると、故郷を思い出すんだ。そして、故郷にいるような気になるんだ」
「あんたの故郷?」
 ニーナは安之進の故郷、はるか東にあるという黄金の国を想像してみた。その国に安之進とふたりでいる自分の姿を想像してみた。なぜだか急に、胸の鼓動が早くなった。
「うん。なんというか、おれの故郷の女に似ているような気がしてならないんだ、ニーナが」
「どんなところが?」
「そうだな……まず優しくて、そのくせ勇敢で」
 ひょっとしたら、安之進はあたしのこと……。
「どんな姿をしてるの?」
「そう……顔はのっぺりと平板で、身体もそれに合わせてつるぺたのずん胴で」
 げし。
 ニーナ・サキイカ怒りの一撃を顔面に食らった堀川安之進は、痛む顎をなでながら、船を駆け下りてゆくニーナを見送るしかなかった。

 その男が奇妙な話をもちこんできたのは、ニーナの怒りさめやらぬ翌日のことだった。
 ドン・ヤーマ司教と名乗るその男は、妙に年齢を感じさせないのっぺりとした顔で、歌うような口調でニーナに話をもちかけた。
「お恥ずかしい話ですが、わがスペインを代表するウノ・ミール枢機卿の動向が、なんだか最近怪しくなってきたので……」
 男の話によると、スペイン王室のおぼえめでたく、ローマに送り込まれたミール枢機卿が、最近スペイン離れしはじめている節があるという。いま、法王は高齢で、次期法王の選出へと水面下でさまざまな動きがある。ミール枢機卿は次期法王の有力候補のひとりである。そしてどうやら、フランス系の司教を抱き込んでフランスの票を狙いにいっているらしい。それが単なる票集めならよいが、ミール枢機卿がスペインの庇護をはなれてフランスに鞍替えするとしたら一大事だ。
「ミール枢機卿はこのたび、ローマからマルセイユに船旅にお出でなされます。ですからニーナ様は」
「なるほど、その航海に同行し、ミール枢機卿の真意をたしかめればよいのだな」
「そして、もしも」
 ミール枢機卿にスペイン離れの確かな証拠があるか、あるいは疑わしいところがあっても、どうか枢機卿の身柄を拘束してわれわれに与えてほしい、なんだったら殺してもかまわない、そうヤーマ司教は求めるのだった。
 最後に握手したヤーマ司教の手は、冷たいくせに脂ぎっていた。司教が去ったあと、ニーナは急いで手を洗いに走った。

「この話、断った方がいい」
 首を振って安之進は断言した。
「なんでだよ。いい商売じゃないか。船に乗るだけで金貨二千枚だぞ」
「こういう政治がらみの話は、裏にいくらでもヤバい筋が通っているもんだ。へたに手を出すと命取りになる」
「おまえ、いつからあたしに命令するようになった」
「おい、つっかかるなよ……」
 安之進は肩をすくめた。ニーナはそれを忌々しげににらみつけてから、
「とにかくやるぞ。船の修繕費用が必要なんだ」
「やれやれ」
 こうして、ふたりはミール枢機卿の船に乗り込むことになったのであった。

「ところで」
 安之進は腕を組んだ。
「乗組員に化けて忍び込むということは……ニーナは男装しなければならないな」
「え、男に化けるのか?」
「そうしないと……髪は、まあ男でもそのくらい長い奴はいるから、そのまま……背はちびだが、少年ということで……問題は体型だが……まあこれなら、なんとでもごまかせるか……」
 げし。


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