できてる男女はココが違う

 たとえばいつも顔をあわせていても、同じ課の女性社員がオトコとつきあっているかどうか、なかなかわからなかったりする。同じ課の男性社員がオトコとつきあっているかどうかとなると、これはもう絶望的にわからない。
 むろん、これには個体差とか性差とか民族差とか時代差があるので、たとえば男性に比べ女性はそういうのに敏感だったりする。「黒田さん、いつもはヒーロー印の香水なのに、最近は天狗印の香水に変えたわ。プレゼントね」とか、「栗田君、きのうとネクタイは変わっているのに、ワイシャツが一緒だわ。外泊ね。しかも髪の匂いがいつもと違う。ラブホテルの整髪料ね」などということをやすやすとかぎあてるのだ。
 また日本人に比べるとモンゴル人などは「テムジンのやつ、新しいパオをたてやがった。ヨメさんもらったな」などと、秘密保持がかなりむずかしかったりする。今はどうか知らないが、ポリネシア人なども女性は初体験をすますと頭の右につけていた花飾りを左につけなければならぬという規則があるので、一目瞭然だったりする。
 さらに中世のヨーロッパでは、「まあ、ジャンヌが火あぶりにされているわ。やっぱり悪魔とつきあってたのね」などと公開されてしまったりする。もうちょっと昔のフランスとかギリシャでは、ノストラダムスとかデモクリトスだとかいう賢人たちが処女と非処女を見分ける眼力を鍛え、きのう出会って「こんにちは、娘さん」と挨拶した同じ女性に翌朝「おはよう、奥さん」などと挨拶したりする。かなり便利だ。さらにさらに昔にさかのぼると、ナメクジウオかホヤのような人間のご先祖さまは、オスが海中で精子をまきちらしてそのあたり一帯のメスを妊娠させるので、つきあっているといえばオスのまわりすべてのメスとつきあっているので、推測するまでもなかったりする。いやまあ、そこまでさかのぼる必要もあまり感じないし、推測するような知性もそのころはなかったと思われるし。昔はよかった。
 そしてまた、私はどうも他の人間よりも、つきあっているとかできてるとか、そういうことにうとい体質であるらしい。はっきりいってわからない。

 どのくらいうといかというと、むかし勤めていた会社で同じ課の男性社員と女性社員がつきあっていて、もちろんできていて、それを同じ課で一緒に仕事していて、一緒に徹夜なんかもして、一緒に飲みにいってカラオケで嘉門達夫を熱唱したりして、それでも最後まで気づかなかったことがあった。嘉門達夫がいけなかったのかもしれない。丹波でルンバ。
 そしてある日、就業時間後に課長が課員を集め、「ええと、皆さんももうご存じだと思いますが、栗田君と黒田君はこのほど結婚するはこびとなりました……」などと発表したのだ。私は衝撃の事実に驚愕して「ひゃァ」などと奇声をあげて注目を集めてしまい、みんなから笑われてしまったのだ。
 実は私は黒田さんをほのかに恋していたので、衝撃で奇声をあげずにはおれなかったのだ。そして傷心の私としては、その会社を辞めずにはおれなかったのだ。

 しかし日本というのはありがたい国で、そういう鈍感な人物でもなんとか棲息できるように、昔からさまざまな格言とかことわざとかおばあちゃんの知恵袋とかいうものがある。そのひとつであるありがたいお言葉に、

 いっしょに焼き肉を食っている男女はできてる。

 というものがある。
 なにも焼き肉食っただけで性行為まで推測されちゃたまったもんじゃない、それじゃおちおち安楽亭にも入れないぢゃないか、と悲鳴をあげる人もいるだろうが、しかしながらかなり説得力に富んだ説なのである。

 焼き肉よりももっとできてそうな料理があるだろう、たとえば弁当。行楽地で一緒にひざを並べて座り、しかもひざの上にショールなんかかけちゃったりして、女が作った可愛らしい弁当を一緒に食べている男女。タコの形に切ったウインナーとか、ハートの形に切ったニンジンとか、ブタの形に切ったゆで卵とか、カニの形に焼いたパンとか、猫の形に編んだゆりかごとか、神の形に彫った偶像とか、なんかそういうちんまりした食品を、ちんまりした箸で、あーんとか言って女が男のだらしなく開いた口に入れてあげる、ああいう風景。絶対できてるぞこいつら。コノヤロメッ。
 あるいは鍋。女がかいがいしく火の調節をし、アクをすくい、味付けをして、男のお椀によそってあげるという風景。ちゃんと仲居さんがいるというのに、調理ならびに配膳ならびに分配の役目の人がいるというのに、それを断って、罪もないおばさんの職を奪ってまで女が男の世話をするという、あの風景。おまけにカニなんかむいてやったりもするのだ。だらしなく開いた男の口にまで運んであげちゃったりするのだ。ふーふーなんてさましてやったりもするのだ。絶対できてるぞこいつら。コンニャロメッ。

 などと凡愚の私などからすると思えるのであるが、人生の機微に通じた賢者はそれを否定するのである。いや。そんなことはござらぬ。弁当も鍋もまだまだ青いよ。甘いよ。未熟だよ。
 そもそも弁当にしろ鍋にしろ、そこにあるのは「疑似家族を演じたい」という情熱である。女が調理、調味した食品を男に食べさせたいという、いってみれば夫婦ごっこである。まだ夫婦になっていないからこそ、夫婦ごっこで楽しむのである。すなわち、弁当や鍋の男女は、まだ夫婦ではない。まだできてない。
 とくにカニはいかん。なんか変なスプーンみたいな器具で、細いカニの脚をほじって肉を取り出す作業をしている男は、いつもより器量がひとまわり小さく見えるものだ。カニをほじほじしている姿と転がる帽子を追いかける姿と白くなった陰毛を抜いている姿、これだけは男が女に見せてはいけないぶざまな姿だ。たとえ女がむいてやったとしてもだ。カニという食品には冷却作用がある。これは中国でいう五行思想からきているものだが、カニは身体を冷やし、情熱を醒ます作用があるのだ。たとえ鍋にしてもだ。カニを共に食ってしまえば、百年の恋も冷めること必定。

 それに比べ焼き肉はどうか。
 焼き肉は弁当や鍋のような甘っちょろい遊び感覚で食べるようなものではない。肉。それはもっとも効率よく各種アミノ酸を摂取できる究極のエネルギー源であり、もっとも効果的に元気を与える究極のスタミナ源でもある。文豪の永井荷風は毎日カツ丼を食ってストリップの踊り子とたわむれ八十一まで長命したが、これは肉さえ食っていれば栄養は足りるという、荷風散人の信念によるものだったと研究者は認めている。ああ肉。これこそ生の根源であり、性の根源でもある。これに比べれば、朝鮮人参がなんであろう。クコがなんであろう。ガラナがなんであろう。ニンニクがなんであろう。そんなものは衰弱した老人の、最後の頼みの綱にすぎない。そんな綱は切ってしまえ。肉を食え。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。肉だ。
 その肉を食うにもいろいろな方法がある。刺身。踊り。女体盛り。シチュー。フリカッセ。煮込み。ステーキ。ハンバーグ。ソテー。フライ。カツ。天ぷら。鶏はむ。饅頭。餃子。カレー。牛丼。しかしなんといっても、肉というものをもっとも露骨な形で食う料理といえば、焼き肉をおいてほかにない。鉄板の上でじゅうじゅう音をたてる肉片。加熱され凝固するタンパク質。溶融する脂肪。褐変し芳香をはなつアミノ酸。死した牛の豚の鶏の筋肉の内臓の皮膚のひとかけら。おお、かつて大地に生きていた、おまえのエネルギーをわれに与えよ。鉄板の上でおこなわれる犠牲と再生の祝宴。それに比べれば、皿の上でソースをかけられたステーキがなんだというのだ。ハート型のバレンタインハンバーグがなんだというのだ。暗褐色の汁の中で肉がいじけているカレーがなんだというのだ。玉葱に隠れて肉が煮え崩れている牛丼がなんだというのだ。焼き肉こそ肉の精髄。命のみなもと。生の饗宴。性の歓喜。死へ至る病。エロスとタナトスの戯れ。ああ生きるよろこび、死するたのしみ。まぐわえ若人よ。……ぜいぜい。ちょっと気合いが入りすぎました。
 つまり焼き肉とは、生と性のエネルギーとしてもっとも露骨な肉というものを、もっとも露骨な形で摂取する手段にほかならないのだ。ということは、男女で焼き肉屋に入るとはどういうことか。「私たち、これからやります」と全世界に宣言する行為にほかならない。これを平然とできるということは、つまりその男女はできてる。そう考えていささかも誤りはない。

 という話を聞いてしまった私としては、今後エバラ焼き肉のタレのCMを、顔を赤らめずに見ることはできない。あの夫婦はできとったんか。松井もあのおばちゃんとできとったんやな。母子とばかり思ってたのに。フケツ、フケツよ。
 などと考えながらきょうの夕食は焼き肉である。ひとり炭火をおこし、ひとり網に特売のオージーカルビをならべ、ひとり煙をあおぐ。背を丸めてひとり焼き肉を食う中年男。煙が目にしみる。きょうの酒は妙に薄いぜ。違わい。泣いてなんかないやい。キムチが辛かったのさ。
 そうさ、俺はオレとできてるだけだよ。


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