女海賊危機一髪

 ニーナの船は、すべるように地中海をゆく。
 雲ひとつない空。青い空。その空の下にある、波ひとつない海。藍を通り越して、葡萄酒の色にさえ見えそうな海。そんな海に、ときおり起こる波紋は、トビウオかカマスが跳ねたしるし。
 ニーナは甲板に寝そべって、ぼんやりと海と空を見ている。日焼けするのも意に介さず。
「きれいな海だ」
 とつぜん聞こえた男の声に、ニーナはびくっとして立ち上がり、ふりむく。
 あの男だ。いつぞやの航海で捕虜にし、そのまま居着いてしまった、ヤスとかいう若い男だ。
「おい……おまえ、いつの間に船に乗り込んだ!」
 ニーナの問いにも答えず、安之進は海を見ている。
「おれの故郷はいまごろ大変だろうな。この季節になると、いつも暴風がくるんだ」
「おい、答えろ。密航者は、鮫の餌なんだぞ!」

「親方、あの人には、わしらから頼んで乗ってもらったんで」
 懐剣を抜いて振り回そうとするニーナを、水夫たちが後ろから抱き止める。
「船長と呼べぇ! だいたい、てめぇら、あたしのどこ触ってるんだぁ?!」
「し、失礼、胸でしたか。あっしはてっきり胴だと」
「てめぇら、全員メシ抜き!」
 そんなとき、マストの先に登っていた見張りが、頓狂な大声を上げた。
「前方、島影に船発見! どうやら武装船のようです!」

 黒く塗ったフリゲート艦は、岩礁や島々が続く、海の難所の末端に停泊していた。ちょうどそこを閉じれば、航路を通る船が袋小路に追い込まれるようなところに。
「ふははははは。ニーナ、ここで待っとったら会えると思ったで。おまえは西に行くときは、かならずこの航路をとるからな」
「あいつ、誰だ?」
 フリゲート艦から大声でわめく男を指さし、安之進は尋ねた。
「まずいところで会っちまったよ」ニーナはぼやいた。
「あいつは『海の猛虎』号を率いる、メグマレン・ド・ムーラ艦長。変な海賊でな、ほかの海賊のデータばっかり集めて、どうやったら勝てるか研究ばっかしてやがる」
「それ、変なことか? おれの国では言うぞ、敵を知りおのれを知らば百戦して危うからず、と」
「あいにくと、あたしゃ東洋人じゃないんでな。そんなことわざ知らないよ」

「ニーナ、おまえの船は30ノットは出るやろ。ワシの船は25ノットがせいぜいのとこや。追っかけでは勝ち目がない。だからこのような場所で、お待ち申し上げたわけよ」
 ド・ムーラ艦長は勝ち誇る。
「くそっ、撃て撃て、大砲撃て!」
 ニーナの船から砲弾が打ち出されるが、なぜか砲弾の進路をあらかじめ知っているかのごとく、「海の猛虎」号は前進し、砲弾はその後ろにむなしく落ちる。
「ふふふ。ニーナ、おまえの初弾は75%の確率で高めにくる。マストを狙って、航行不能にしようという狙いやな」
 ド・ムーラ艦長は不敵に笑う。

「それ、こっちからお返しや」
 ド・ムーラ艦長の号令一下、「海の猛虎」号乗組員は、お世辞にも手慣れたとはいいがたい手つきで砲弾を大砲にこめ、照準を合わせる。
「ニーナの船はスループ艦や。メインヤードを折れば航行不能になるで。右舷、一斉砲撃開始!」
 もたもたと乗組員は点火し、大砲は轟然と火をふく。しかし、砲弾の飛んだ先は、船にまるで届かず、いたずらに浪しぶきを立てるのみ。
「まるっきり逆ダマやで。しゃあない、横腹を狙え。あのタイプの船は腰高やし、大砲を積みすぎとるから、バランスを崩せばひっくり返りよるで」
 しかし、ふたたび発射された砲弾は、ニーナの船のはるか上方。老練なる艦長は、思わぬ失態に激怒する。
「ええい、なにしとる! 仰角を13度にとれと言っておいたやろが!」
 しかし若造の乗組員は、不機嫌に振りむいて言い返す。
「すいません、ボク、ごちゃごちゃ言われると調子が出ないんですよね」
「お、おのれら……」
「サインなしで撃たせてくれたら、ボク、二割七分は当てる自信ありますよ」
「ドアホ! サインなしで二割七分なんて砲手の使い道がどこにあんねん! そういう偉そうなゴタクは、三割か四十本打ってから抜かせ! あほんだら!」

「なんだかもめてるようだな」
 安之進はすばやく振り向くと、ニーナに聞いた。
「ニーナ、つぎの砲撃までの隙に、あの船に接舷できるか?」
「できると思う」
「なら、やってくれ」
「よしきた。アボルダージ・ボールディングだな」
 みるみる近づいてきたニーナの船から吐き出される水夫たちのきらめく剣に、「海の猛虎」号の乗組員は情けなくも震えあがり、逃げまどうのみ。なかでも恐怖を呼んだのは安之進で、その奇妙に湾曲した細身の剣が動くたびに血がしぶき、肉が飛んだ。
 さしもの狡猾なるド・ムーラ艦長もいまや打つ手なし。
「ううむ、身体能力と基礎体力に差がありすぎや。せめて新大陸に逃げたシンゼイロがおってくれたら……それになんや、あの変な剣の男は。あんなんデータにないぞ」
「その剣の男ですが」
 安之進はド・ムーラ艦長の喉元に、刀をつきつける。
「わが師匠、堀川国広鍛えし二尺三寸。味わってみたいか」

 ようやく危機を脱したニーナは、ふたたび甲板に寝そべる。
「礼は言わんぞ」
「礼などどうでもよい」
 安之進はふと微笑う。
「なにがおかしい」
「素直じゃないな」
「おおきなお世話だ」
 ニーナはあおむけになって、空を見上げる。
 まだ夏は終わらない。


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