御用だ誤用だ

 「最近の若い者はことわざひとつマトモに使えん」というのは、昔からよく言われている。まさに、後悔あとを絶たず、である。
 というベタな前置きはともかくとして、確かに世間では、けっこう言葉の間違いが多い。特にウェブの世界では、だれも編集や校正をしてくれないので、言葉遣いの間違いが王手を振って罷り通っている。
 よく見かけるのは、「的を得る」という言葉。言いたいことはだいたいわかるのだが。「的を射る」という言葉と「当を得る」という言葉がごっちゃになって、融合してしまった結果だ。どちらも似たような意味だから、混同する気持ちもわかる。
 この手の混同シリーズは他にも多く、「名誉挽回」と「汚名返上」をごっちゃにして、「汚名挽回」というのもよく見かける。汚名を挽回しちゃいかん。まあ、これはスポーツ新聞でも見かけるので、間違えてもそんなに恥じゃない。やっぱり恥か。他にも、「侃々諤々」と「喧々囂々」から「喧々諤々」というのもある。

 いままで何気なく使っていた言葉が、ぜんぜん反対の意味だった、という経験は私にもよくある。
 たとえば「確信犯」という言葉。これはずっと、「犯罪であることを確信して犯罪をおかすこと」という意味だと思っていたし、そういう意味で使っていた。ところがこれ、本当は、「罪でないと確信して犯罪をおかすこと」なのだそうだ。つまり、サリンを撒いたオウム信者は確信犯と呼べるが、メリッサウィルスをばら撒いたフィリピンの犯人は確信犯と呼べない。
 「招かれざる客」というのも、ずっと、「ああ、呼んでもいないのにあいつ来ちゃったよ。あいつ話がつまらないし、酒癖悪いし、来ると雰囲気が悪くなるんだよなー。なんで呼びもしないのに来たんだ、あいつ」という意味だと思っていた。ところが先日、「来てはもらえないと諦めて招待状も出さなかったのに、高貴な珍客が思いがけずもやって来た、嬉しい現象」という意味だと知って驚いた。そうか、じゃあこれから、オレも「招かれざる客」になるよう努力しよう。
 夫のことを罵って「宿六」、妻のことを奉って「山の神」というのだと思っていたのだが、これもまったく逆なのだそうだ。「宿六」とはもともと、「宿、すなわち自宅に六つのものを備えている者」という意味。六つのものとは、門、玄関、うだつ、欄干、床の間、倉のこと。これだけのものを自宅に持っているということは、江戸時代なら殿様にお目見えできる武士階級ということであり、転じて「世間的に認められた、りっぱな人物」ということなのだそうだ。反対に山の神は、嫉妬深く不機嫌で、とても醜いため人前に姿を現さない。だから妻を「山の神」と呼ぶのは、思いっきりののしり言葉なのだ。
 気づいているだけでこれだけ間違えていたのだから、いま使っている言葉もいったいどれだけ間違えているのか、考えると恐ろしくなってくる。

 世間でよく言われる誤用の例として、学生が恩師などに、「枯れ木も山の賑わいだと存じますので、ぜひご足労を……」と招待状を出すものがある。「錦上花を添える」と間違えているのだ。
 「役不足」を「その役目を果たすには荷が重すぎる」という意味で間違って使うことも多い。本来はその逆で、「立派な人が軽すぎる役目につくこと」なのだ。たとえば高倉健が通行人のチョイ役で出演するとか。あるいは元総理の宮沢氏が大蔵大臣になるとか。いや、待て、ううむ、この場合はどっちなのだろう。
 「流れに棹さす」という言葉も、よく時流に抵抗する意味で使われているが、これもまったく反対で、時流にうまく乗る意味なのだ。
 「あっけらかん」という形容は、とんでもないことをしでかしてもまったく我関せず、のほほんとしている人間に対して使われることも多いが、これも、もともとは、あまりの驚きで開いた口がふさがらなくなっている状態のこと。
 しかし、ここまで反対の意味が通用するようになってしまったら、もはやこういう用法も、認めるしかないのではないだろうか。だから私も、上品で潔癖で高潔な人間と呼んでさしつかえないと思う。昔から言うではないですか。「立ってるものは息子でも使え」と。

 ここで問題です。冒頭のことわざ二つと末尾を別として、言葉の解釈で嘘をついているのが一カ所あります。さて、どれでしょう。


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