夢の印税生活

 尾崎紅葉の時代の文士がなぜ貧乏だったかというと、ひとつは読者人口がまだ限られていたことと、もうひとつ、印税制度がなかったことがあげられる。
 455万枚という売上記録を樹立し、最近またCDで再発売された「およげ! たいやきくん」を歌った子門真人は、買い取りで5万円しかもらっていない。印税契約していれば、たとえ1%の印税でも、500円(単価)×455万枚×1%=2,275万円という収入があったはずなのだ。
 これと同じ目に尾崎紅葉もあっている。「金色夜叉」シリーズは版を重ねてベストセラーになったが、紅葉の手元に入るのは最初の買い取り価格(いちおう100円と仮定したが、不明)のみ。現在の印税(10%)を適用していれば、仮に1万部売れたとしても、60銭(定価)×1万部×10%=600円は入ってくるはずだったのに。「金色夜叉」の次から印税契約にしようとしていたらしいが、完結前に死んでしまった。残念。
 逆に言うとそれだけ、博文館や春陽堂といった出版社が儲けていたわけだ。

 それにひきかえ、印税生活を満喫したのが夏目漱石。尾崎紅葉の次代を担うベストセラーライターである。
 夏目漱石といえば、いまでは近代を代表する作家のように思われている。司馬遼太郎などは「夏目漱石が近代日本の日本語をつくった」とまで極言している。
 たしかに漱石の文体で社会現象も女性心理も描写できるようになったわけだが、それまでには先人たちの、まさに身を削るような血みどろの努力があった。二葉亭四迷と山田美妙の言文一致体、幸田露伴や尾崎紅葉の雅俗折衷体、森田思軒の周密文体など、さまざまな試みがなされていた。尾崎紅葉などは「どうも言文一致だと、情緒がないんだなあ」とぼやきながら、一作ごとに苦吟しながら文体を変えていたほどだ。
 そういう先人の努力をみんなひっくるめてひとりの偉人の手柄とし、それによって周囲の人物をボンクラに見せるというテクニックは、坂本竜馬だとか織田信長だとか児玉源太郎だとか、司馬遼太郎がしばしば(洒落じゃなく)使っている技法なので、くれぐれもうかつに信じたりしないように。あれは小説なんですから。

 それとは逆に、漱石が生きていた時代には、本の売れ行きに比例して悪評も高かった。主に自然主義派からだが。
 こんな話がある。自然主義の田山花袋、岩野泡鳴、正宗白鳥が集まった席で、たまたま森田草平(漱石の弟子のひとり)の新作「煤煙」の話題になり、テーマがつまらんとか思想が未熟だとかさんざんけなした後で、泡鳴が「しかし、漱石の比じゃない」と決めつけ、花袋が「それはそうだね」と軽く同意した。現在の読者からしたら、森田草平は漱石に遠く及ばないという意味に受け取りそうだが、まったく逆で、「煤煙」にはいろいろ欠点もあるが、漱石が書いているようなくだらない物とは比べものにならないという意味で3人は話していたのだ。
 岩野泡鳴などは漱石批判の第一人者で、「漱石や鴎外なんて通俗作家だ」「夏目漱石は二流作家」「漱石のは文学というものじゃない。読物とでも呼ぶべきだ」などと盛んに悪罵を投げかけていた。
 まあ通俗作家と呼ばれるほど、漱石の本が売れていたわけだが。

 夏目漱石の金銭面については、夫人の夏目鏡子が「漱石の思ひ出」、娘婿の松岡譲が「漱石の印税帖」という本を書いてくれているので、ひじょうに助かる。
 夏目漱石の作家生活は、兼業作家時代と作家専業時代に大きく分けることができる。
 兼業作家時代は、明治38年に「吾輩は猫である」を発表してから、明治40年に朝日新聞社に入社するまで。この間に「倫敦塔」「坊っちゃん」などを執筆している。
 この時代の主な収入は、一高教授、東京帝大講師、明大の講師としての収入である。一高が年700円、帝大が年800円、明大が年360円で、合計1,860円が年間の定収入となる。
 それ以外に小説家としての副業収入がある。「吾輩は猫である」は正岡子規の俳句雑誌「ホトトギス」に連載したものだから、友人の同人誌に書くようなもので、原稿料はあまり出なかった。1枚50銭で、全部で3〜40円くらいらしい。しかし本は売れた。大正3年に本人が「上巻は35版刷った。初版2,000部で再版以降はだいたい1,000部。中、下巻はそれより落ちる」と書いてあるから、夫人の「印税は1割5分」と、上巻95銭、中・下巻90銭という単価から、
 上巻=36,000部×95銭×15%=5,130円
 中、下巻=30,000部(推測)×90銭×15%=4,050円
 となってトータルで13,230円となる。十数年にわたる売上のトータルだとしても、これは凄い。尾崎紅葉なら金色夜叉を正、続、続々……と続けて全130巻出さないと入ってこない金額だ。
 「猫」が売れたため、「ホトトギス」も原稿料を1円に倍増した。春陽堂の「新小説」も同じ1円、「中央公論」は1円20〜30銭だったという。
 それでも漱石が洋書を大量に買い込んだりするため、月200円はかかる生活で、かつかつだったと鏡子夫人は語っている。本人も「小説を書くようになってから、丸善の借金は済ませた」と語っている。

 やがて当時の人気作家の常として、新聞社から入社の誘いが来る。最初に声をかけたのは読売新聞だったが、漱石は朝日新聞を選んだ。条件は月給200円。他に年2回のボーナスを月俸3ヶ月分程度。その代わりに年2回程度の新聞連載小説を書くこと、朝日新聞以外の新聞雑誌には書かぬこと。ただし「ホトトギス」だけは子規と漱石の関係だから書いてもよい。というものだった。
 明治40年、漱石はこの条件を飲み、教職を辞して朝日新聞社に入社。当時は新聞記者といえば総会屋もどきのゴロツキか、暴露・捏造専門の無頼漢のように思われていたから、世間では「なにも帝大教授がそこまで身を落とさずとも」という意見が大半だった。
 しかし金には代えられない。これで漱石が手にした年間の定収入はおよそ3,600円。教職時代のおよそ倍にあたる。
 それにプラスして印税収入がある。朝日新聞入社の同年、「鶉籠(坊っちゃん、草枕、二百十日所収)」を春陽堂から出版する際の契約はえらく細かい。「初版3,000部の印税は15%、ただし100部は免税、別に献本として30部を著者に渡す。再版から第5版(各版1,000部以内)の印税は20%。第6版以降の印税は30%」というものだった。
 この「鶉籠」が定価1円30銭、トータルで12,171部売れたから、漱石の印税収入はおよそ3,360円。
 のちの契約もだいたい同じ条件だが、初版1,000部、第4版以降の印税30%と変わった。

 この印税30%というのは破格だった。さすがの春陽堂主人和田篤太郎も、「出版の純利益は定価の31%。そのうち30%を漱石に持っていかれるんだから、こっちの儲けは1%しか残らない」とぼやくしかなかった。しかし漱石は、「その条件でも飲むんだから、出版社にも儲けはあるってことだろう」と澄ましたもの。
 この印税率がなぜか1%上乗せされて文壇の噂となり、近松秋江は長田幹彦に「いくら漱石だからといって、三割一分は暴利だ。三割一分ですからね。一円の本で三十一銭だよ。しかし、長田君、三割一分はうらやましいねえ」と、やたらに三割一分にこだわってぼやいていた。なんだか野球選手の会話のようだ。鳥谷はさっさと三割打ちなさい。

 漱石の出版社は、初期(「吾輩は猫である(上中下)」「漾虚集(倫敦塔、カーライル博物館等の短編集)」「文学論」「行人」の6冊)が大倉出版、中期(「鶉籠」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」など合本含め15冊)が春陽堂、後期(「心」「硝子戸の中」「道草」「明暗」の4冊)が岩波書店と、だいたい時期によって分かれている。
 漱石の生前の売上は全部あわせて10万部くらいというから、単価1円として平均印税率を20%(ちなみに夏目漱石普及版全集の印税が一律20%)と計算すると、ざっと2万円の印税が入ってきたことになる。

 しかも漱石の本は尾崎紅葉と同様、死後の方がよく売れた。大正5年に漱石は死ぬが、死の直後、「漱石全集」が岩波書店から出て、これがよく売れた。岩波書店主の岩波茂雄が漱石の弟子だったこともあるが、つくづく春陽堂は全集に縁のない会社だ。
 漱石死後、大正6年から12年にかけての売上部数がざっと54万部(うち26万部を春陽堂から発行)、大正13年に春陽堂から夏目家へ支払った印税だけで24,000円。大正14年が12,500円という。
 もっとも、死後のバブルに浮かれた鏡子夫人は高級な着物や宝石をやたらと買いまくり、漱石の親友だった鉄道院総裁の中村是公が「俺という者がついていて、あんな真似をさせたんじゃ、死んでから漱石に顔向けできんよ」と男泣きすることになるのだから、あんまり金を残しすぎても、いいことはないようだ。
 最近、著作権の期限を死後50年から70年に延長しようという動きがあるが、これでまた男泣きする旧友が増えるかもしれない。


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