大避神社に岡山県人ユダヤ人説のルーツを訊ねて

司馬遼太郎トンデモ説の検証

 というわけで今回は大避神社に行ってきたのだ。
 大避神社といっても知らない人の方が多いだろう。かくもうす私も昨年十二月二十七日あたりまで知らなかった。Qさんに教えてもらったのだ。そのQさんも赤穂の生まれだが、そんな神社が地元にあることをちっとも知らなかった。昨年、司馬遼太郎の初期小説集が文庫で出て、そのなかの「兜卒天の巡礼」にこの神社が登場するのを読んで、はじめて知ったという。そのくらいの神社なのだ。

 というわけで大避神社について勉強してみる。「兜卒天の巡礼」によると、大避神社は兵庫県赤穂郡比奈にあるという。赤穂といえば、忠臣蔵と赤穂の塩で有名な、あの赤穂だ。兵庫県の西端、岡山県との県境近くにある海沿いの街だ。ちょっと西に走ると日生がある。アナゴの刺身がおいしいところだ。シャコも江戸前の倍くらいの大きさがあって、値段は半分以下。冬は殻付きの牡蠣がバケツ一杯千円で売っている。そういうところだ。
 ちょっと日生の宣伝に走りすぎた気もするが、大避神社は赤穂郡南部のひくい丘陵群が海に落ち込むあたりにあるという。海に面した貧寒たる社屋だという。ま、どこにでもある田舎神社といったところか。
 ところがこの神社、ただものではない。この神社は、秦河勝が創建した。聖徳太子のパトロンだったことで有名なこの男は、むかし京都にいた。中国伝来の機織りをいとなんで巨万の富を持っていた。また中国の音楽にも堪能だった。しかし聖徳太子に肩入れしすぎ、太子没後は蘇我入鹿の圧迫を受け、京からこの赤穂に逃げたのだという。蘇我氏も渡来系の氏族だったので、これは天皇系渡来氏族と独立系渡来氏族との抗争だったのかもしれない。ともあれ秦氏は赤穂にこの神社を造り、機織りと神楽をこの地に伝えたという。

 秦氏はもともと渡来系の氏族で、秦の始皇帝の血筋を汲むと称していた。ところが始皇帝の一族は、唐の時代に中国に伝来したキリスト教ネストリウス派の集団であり、またユダヤの失われた十二師族のひとつでもあるという。つまり秦河勝は、ユダヤ人だったのだ。このへんの考証は時代や宗教や民族が錯綜してムチャクチャな気がするのだが、司馬遼太郎がそう書いているのだから仕方がない。
 そして大避神社は、かつて大闢神社と書いた。だいびゃく、つまりダビデのことである。なんと大避神社は古代キリスト教の礼拝堂だったのだ。例証はほかにもある。大避神社の向かいにある生島には秦河勝の墓と井戸がある。この井戸、やすらい井戸、と呼ばれていたという。やすらい、つまりイスラエルの意である。つまり秦河勝は、井戸にみずからの民族を、神社にみずからの宗教をきざみこんでいたのだ。
 大避神社は同じ著者の「日本歴史を紀行する」の京都の巻にも登場する。都落ちする前の秦氏が京都につくった神社は大酒神社だった。これも昔は大避神社と書き、さらに昔は大闢神社だったという。その境内にもやすらい井戸と呼ばれる井戸がある。三脚の石鳥居もある。これはユダヤの「ダビデの星」を模したものだという。さらにこの神社では京都三大奇祭のひとつである「牛祭り」というものがおこなわれる。牛の面をつけたマンダラ神というものが祭壇の前で奇妙な祭文を唱えるが、これはユダヤ人が犠牲獣を神に供えた風習のなごりだという。祭文もヘブライ語だという。そもそも京都の太秦はイエスを意味するヘブライ語「イシュ・マシャ」から来たものであり、秦氏の「ハタ」も、司教を意味するヘブライ語「パトリアーク」からきたものだという。
 秦河勝と彼に従ったユダヤ人集団は、赤穂から隣の岡山へその血を伝えた。岡山県人はその勘定高さ、冷酷さ、頭脳明晰さなどの特徴から「日本のユダヤ人」と呼ばれ忌み嫌われてきたのだが、実際にユダヤ人だったのだ。岡山県人の特徴は、ユダヤの血筋のなせるものだったわけだ。
 こんな主張はどう考えてもこじつけか妄想にすぎないし、こんなことを真面目に主張する人間はどうかしていると思うのだが、なにしろ司馬遼太郎がそう書いているのだから仕方がない。

七つの星と大避神社

 私は年末年始に津山に帰省していたのだが、知人のQさんもちょうど同じ頃、赤穂に帰省しているということだった。いっしょに初詣に行こうということになり、それがこの大避神社になった、というわけなのだ。
 Qさんとは大阪で知り合った。新進気鋭の民俗学者である。かつてクリスマスに登場するサンタクロースという人物について精力的な調査を行い、ようやく研究の成果を発表する直前になって、古代宗教の流れを汲む謎の組織に襲われ暗殺されかけたこともある。今回の調査には心強い援軍である。

姫新線の電車

 林野から姫新線で佐用へ。姫新線は絶滅寸前の路線で、電車は二時間に一本、しかも一両編成である。佐用から智頭急行に乗り換え、上郡駅で待ち合わせ。
 駅前にはいかにも上方らしく、傍若無人にだらしなく乗用車が止まっている。ここに止めたら奥の車が出られないのではというような配慮はみじんもない。そんな中、奥に閉じこめられて息絶え絶えのQさんがいた。
 まず、地図を開いて作戦を練る。めざす大避神社は赤穂から海岸沿いにすこし東に行ったところにあるが、Qさんの言うところによると、上郡の近辺にも同名の神社がいくつかあるという。
 いくつか、どころではなかった。地図でみつけた限りで七つある。大避神社だらけだ。大避神社バブルだ。ええい、こうなったら、かたっぱしから行ってしまえ。

大避神社

 まず上郡の駅から近い大避神社へ。わりと広い境内である。しかし初詣客はいない。賽銭箱もない。神主のおかみさんらしい女性がたき火をしていた。説明文によると秦河勝公創建、元禄時代に忠臣蔵で有名な浅野長矩が社屋を再建とのこと。鳥居は明治時代のものらしい。

初老記念奉納絵馬

 ここの絵馬堂がおもしろい。今の小さな絵馬ではなく、オリジナルの絵を描いた額をささげるものだ。金がかかったろうなあ。江戸時代の播州は算術がさかんで、「因数分解を解いた」とか「フェルマーの最終定理を解いた」とかいって絵馬を掲げる人が多かったそうなのだが、あいにくと江戸時代の絵馬はどこにも見えなかった。それでも明治時代にさかのぼるものは多い。「日露戦勝記念」などというまじめなのもあれば「お伊勢参り記念」などという個人的なものもある。中に「初老記念」などという、おもいっきり神社を私物化しているものがあった。
 ここは絵馬もそうだが、発起人名簿にも「寄付 金七〇円」などという記念碑にも三浦という名字の人がやたらに多い。三浦一族がかなり羽振りをきかせていたようだ。三浦からいくらでも金が来るから、チンケな賽銭など欲しくないわ、というところなのだろうか。

矢車と百度石の謎

矢車紋章

 この神社の屋根瓦にある紋章は矢車。これが大避神社の社紋らしい。このあと行ったすべての大避神社には、この紋章があった。
 この紋章は、神社としては珍しいものである。矢をつかった紋章は武家紋と相場がきまっている。たとえば足利氏の一門荒川氏、松平氏の一門深溝氏、忍者で有名な服部氏など。ちなみに秦氏の紋章はかたばみか釘抜。となると、この矢車紋はどこから来たのだろうか。
 服部氏が鍵ではないか、と思われるふしがある。服部氏は伊賀の土豪。ちなみに同じ伊賀の出で能楽の観世氏も矢車紋。観世と服部は繋がりがあった、観世氏も忍者の流れだったとする説の根拠となっている。
 この服部氏、もとを辿ると大和の国服部郷から出た。大陸から機織りの技術を伝え、機織りをもって朝廷に仕えた氏族と言われる。「ハタオリベ」が訛って「ハットリ」になった。
 ということはだ。服部さんは秦氏とおなじ職業だったということになる。機織り。音楽。すべてご同業である。これはもう、秦氏と服部氏が同根であると言い切っていいのではないかと思う。つまり山城の秦氏が大和に移住して服部氏になった。その逆かもしれない。そういえばハタとハットリは音が似ている。そして機織り、音楽、忍術を家に伝えた。そう、忍術もだ。
 わが国の忍術の源流には諸説ある。仏典にまぎれて入国したバラモンの秘法とする説。安倍晴明で有名な、中国の陰陽五行説からくる陰陽道だとする説。インド密教と古来の山岳信仰とを折衷した役小角が元祖だとする説。これらすべてに共通なのは、ともかくも外来のものだということだ。秦氏が大陸から機織り、音楽とともに忍術も持参した、としてもおかしくない。そして秦氏ということになれば、おそらく忍術にはカバラの秘法が影響していたのではないか。そういえば安倍晴明の五星紋は、ダビデの星によく似ている。

百度石

 鳥居のそばに「百度石」という道祖神のごとき石がある。Qさんによると、これに手を置きながら、石のまわりを百度まわると御利益があるそうだ。どのような御利益があるかは不明だが。
 あるいは百度石の「ひゃくど」とはヘブライ語の「ヤークーム・ダーニ」が訛ったものかもしれない。すなわち、「裁きの立石」。古代ユダヤの民は、キリスト教徒が聖書に手をのせて宣誓するように、聖なる石に手を置いてから真実を語った。それがこの石だったのではないか。やがて年月は流れ、その真意は失われたが、この石に手を置くことだけが伝えられた。そう考えると辻褄が合う。

禁じられた食事

大避神社

 そこから南下し、大避神社へ。こちらは公民館と隣接、というか社務所が公民館になっている。こちらにも初詣客はいない。説明文はない。鳥居は享保の時代のもの。ここにも百度石があった。

オープンな境内

 さらに南下を続け、採石場近くの大避神社へ。がらんとした空き地に鳥居だけがあり、その奥に社屋がある。境内が仕切られていないので、どこからどこまでが神社だかよくわからない、不思議なつくり。
 鳥居は天保のもの。なんだか享保、天保と、幕政の改革があるたびに鳥居を作っているようだ。政治に敏感でなければ生きられなかった、ユダヤの民の血のなせる業であろうか。

 ここでドライブインに寄り食事をとる。ここすらも客がいない。赤穂には人がいるのだろうか。やはり安息日には商店すら仕事を休む、ユダヤの掟がここ赤穂ではいまも厳密に守られているのであろうか。
 客はいないが、メニューは豊富だった。もっとも、うどん、そば、飯、ラーメン、カレーの基本と、コロッケ、豚カツ、牛煮込み、鶏カラの具の順列組み合わせで百に近いメニューを生んでいる。いかにも論理的思考を重んじるユダヤ人らしい。
 Qさんは中華丼、私はトンカツラーメンというけったいな食事を頼む。これで「街道を行く」の司馬遼太郎の気分になれたが、トンカツを食ってはユダヤ人の気分にはなれない。失敗したかな。トンカツはかなり固めに揚げられていて、スープで衣がはがれるような失態はなかった。

 ドライブインから南下し、西有年の街道からやや奥にはいる。ここの大避神社はちょっと民家と見分けがつかない。このへんは田舎に行くほどに民家が立派になり、社寺が鄙びてくるので、だんだんと区別がつかなくなってくるのだ。とうぜん神主もいない。初詣客なども来るとは思えないのだが、念のためか「賽銭泥棒不要、天罰必定」などと書いたお札が貼られていた。いかにもお金に執着するユダヤ人らしい貼り紙である。

天罰必定

船渡りの根源

坂越の風景

 さらに南下し、坂越の海岸沿いに走ると、いよいよメインの大避神社だ。たしかに、海を見おろす丘陵の上に建っている。
 さすが小説に登場するだけあって、いままでの大避神社とは違う。ちゃんと社務所でおみくじや破魔矢も売っている。絵馬も売っている。初詣客もいる。境内にはなぜか大避神社のほかにも稲荷大明神、恵比寿、竈の神様、天神様、海神、聖徳太子、天照大神まで祀っている。神社なのに大門に仁王像がいる。まるで神様仏様のデパートだ。Qさんは「これじゃ観光神社だよなあ」と落胆していたが、これも諸神混淆のユダヤ的風景なのかもしれない。ヤハウェ以外は、どうだっていいのだ。
 天神さんのところで合格祈願の絵馬を売っていた。ちょっと願いの筋が違うかも知れないが、「あいばさんと新屋さんの雑文が復活しますように」と書いてぶらさげておいた。

船の模型

 この神社で有名なのは、毎年十月におこなわれる「船渡御祭」だ。無形文化財にも指定されている。
 海をへだてて神社の向かいにある生島に御分霊をお遷しするため、十二艘の船に神輿、獅子舞、神人、楽人などを乗せ、雅楽を演奏し獅子舞を踊りながら海をわたる行事である。なんだか諸星大二郎の漫画に出てきそうな行事で、いまにも船から人間の顔をしたどろどろの不定形生物が出てきそうでもあるが、ひょっとするとこれもユダヤの行事に端を発しているのかもしれない。
 ユダヤには「仮庵の祭」というものがある。秋の収穫を終えた頃、住民は普段の住居を出て、祭りのために立てた仮庵に住む。流浪していた時代を偲んでそうするのだという説があるが、よくわからない。そしてシロアムの池から汲んだ水を神殿に注ぎかける。このとき水を持つ者はたいまつを持ち、行列を作って歌い、あるいは踊りながら神殿へと進んでゆく。
 これがいつしか、人ではなく神が仮庵に住むようになり、池の水が海となり、船渡りの祭りとなったのかもしれない。とにかくこの船渡御祭はかなり特異なもので、日本には似た風習がないのだ。ユダヤ起源というのも、けっして突拍子もない仮説ではないように思う。他に説明のつけようがないのだ。

劣化コピーの末裔

 そうこうしているうちに夕暮れになってしまった。私の乗らねばならぬ姫新線の電車は、二時間に一本しか出ないのだ。六時半の電車をのがすと、八時半まで寒風の中待たねばならぬのだ。急がねばならぬ。この神社から山道を登ると南朝の忠臣、児島高徳の墓がある。さらにそこから山道があって、先にまだまだありそうなのだが、残念ながらタイムアップ。さらなる登山を断念して山を下りる。けっして登山に疲れ果てたからではない。

大酒神社

 来た道を戻り、鮎で有名な千種川をさかのぼるように北上する。山と千種川とに囲まれた、隠れ里のような村落の中に、大酒神社があった。
 なぜかここだけ字が違う。境内に句碑があったが、その裏はひょうたんと杯の形に彫られていた。鳥居の横の石碑にも「楽礼」とか「酒燗」などと書いてあった。どうやら大避神社がこの地に伝来する過程か、その後の伝承の過程で、なんらかの誤解が生じたようだ。酒好きだったのかもしれない。
 この近辺の住民は道路沿いに墓を立てたり(本当に狭い道路の両わきにずらりと墓が立っているのだ。妖怪バスかと思った)、正月にクリスマスのイルミネーションを飾るし、ひょっとすると日本人ではないのかもしれない。ユダヤの民かインスマウスの影か。へたをすると付近の民家から住民が出てきてケロケロとかウォーウォーとか言い出しそうな雰囲気だったので、そうそうに退散する。

ひょうたんと杯

 さらに北上し、上郡と佐用のあいだを結ぶ細い街道沿い、山と山に囲まれた小さな平地にも、大避神社があった。
 ここは神社そのものより、境内の天然記念物に指定された樹木で有名らしい。観光客用に説明プレートが立ててあったが、すべて境内のコヤスノキ樹林の説明に終始している。神社の由来など、どこにも書いていない。
 もうとっぷり日が暮れていて、絵馬堂も屋根瓦もまるで見えない。ストロボの光を頼りに、とりあえず写真だけ撮る。

夜の大避神社

 説明プレートによると、なぜかここだけ、「おおさりじんじゃ」と読むらしい。ここも伝来と継承の過程でなにか間違いが生じたのか。あと百年もすれば「大猿神社」などと字まで変わってしまい、「むかしこの地に住んでいた大猿が娘をかどわかすなどの悪事をはたらいていたが、旅の勇者が」などともっともらしい伝承をつくりあげるのではないだろうか。
 いや、ひょっとしたら。かつてこの地に住みついたユダヤの民は、あえて違う言葉をもって信仰の地にあてたのではないか。「エー・シャローン」とはヘブライ語で「平原の者たち」というほどの意味である。「エー・シャローム」だと「平和な人々」という意味となる。あるいは長旅と播州人との闘争に疲れたユダヤの民は、この辺鄙な地にある平原に至ってはじめて安息の地を得た気がしたのではなかろうか。そして「エー・シャローン」もしくは「エー・シャローム」が「おおさり」と訛った、そう考えるのはけっしてとっぴな考えではないように思う。
 そしてむしろ、「おおさり」に「大避」という字を当て、それがいつしか「おおさけ」と読まれるようになったのではないか。

違い矢車

 ここは社紋も他の神社とは違っている。矢車ではなく、違い矢羽であった。この形の方がダビデの星に近い。あるいはこれが原型か。ダビデの星の三角が、いつしか崩れて矢羽の形になった。あるいは矢羽に彼らの神「ヤハウェ」の言葉をおりこんだのかもしれない。
 これにさらに後の世、日本の日輪をあわせて矢車となったのかもしれない。矢車の紋章自体に、ユダヤの民の永い放浪がきざみこまれているのだ。

ユダヤの子ら

 ちなみにここからさらに北に一キロほど行くと、大鳥圭介の生誕地がある。大鳥圭介とは、手早く言ってしまえば生涯を脇役、引き立て役として過ごした人である。一流ではあるが、けっして超一流にはなれなかった人である。
 赤穂の村医者の子として生まれた圭介は、大阪の緒方洪庵が開く適塾で医学を学んだ。緒方洪庵の門下には幕末明治の偉人が綺羅星のごとく輩出した。松平春獄のブレインで安政の大獄に刑死した橋本左内、「学問のススメ」の福沢諭吉、倒幕戦争を指導した大村益次郎、日本赤十字をおこした佐野常民などがいたが、大鳥圭介はこれらに比べるとやや劣っていたらしい。橋本左内を「彼は私の弟子ではあるが、のちには私の手の届かないほど偉い人になるだろう」と嘆賞した緒方洪庵が、大鳥圭介を誉めたことばはひとつだけ、「お前はあんまがうまい」だった。
 それでもそこそこの成績を収めたのだろう、幕府にとりたてられ洋式部隊の隊長となった。しかしかつての先輩、大村益次郎の率いる長州軍にさんざんに破れ、大阪から江戸、さらに東北から北海道まで逃げる。このとき元新撰組副長、土方歳三と合流するが、土方軍がしばしば官軍に勝ったのに比べ、大鳥軍はつねに負け続けた。弱いだけでなく統率能力もなかったらしく、大鳥軍からは兵隊の脱走が相次いだ。
 ついに函館の五稜郭は陥落し、無敵の土方歳三は戦死。無勝の大鳥圭介は降伏し命を永らえた。のち赦されて新政府に出仕。顕職を歴任する。しかし残っているのは、やはりろくでもない功績ばかりである。たとえば学習院長を勤めたが、生徒にも政府にも評判が悪く解任されてしまった。後任の三浦吾楼は「前任の大鳥圭介が風紀をすっかり悪くしてしもうた」などと書いている。
 のち枢密顧問官、元老院議員になるが、この頃の逸話が残っている。相撲の親方、鞆の平と酒を飲んでいたとき、大鳥圭介は「横綱の西の海もすっかり衰えたのう」と悪口を叩いた。鞆の平はすました顔で、「西の海も年老いて、すっかり元老院に入ってしまいました。人間、元老院にはいるようになっちゃお終いです」とやりかえしたとか。
 上記のような大鳥圭介の生涯を追っていくと、なんというのか、とことん人徳というものがなかった人だな、という感がある。こういう「才あって徳なし」という性格は播州よりむしろ岡山人に多いのだが、ひょっとすると、これもユダヤの血のなせる業かもしれない。
 ユダヤの民は、やがて荒々しい播州人に追われて岡山に逃げ、その血筋と性格を残した。播州では山奥の民と神社にのみわずかに痕跡を残した。その血筋と習俗の永らえんことを。


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