The End of Evangelion への雑記。 7/27 昼過ぎに新宿にて、何人かと映画を鑑賞。 メンバーに EVA なホームページを持っている人もいたりして、 そこそこ名も知られている人の筈だが、名は秘す。 逆に、 このメンバーは私がページを持っていることを多分知らないと 私は想像しているという、かなり微妙な集団である ^_^; さて、感想。 要旨。 映画は、壮大な駄作である。 第一の理由。 TV アニメ 24 話終了時点で、普通の意味でエヴァを終らせる方法は確定する。 つまり、補完計画 - それがゲンドウのものにせよ、ゼーレのものにせよ それが完遂寸前で破綻する - という形をとるのはほとんど明らかであった。 この条件の下では、視聴者、読者が注目すべき点は、結末 として「何が起こるか」では無い(それは分かり切っている)。 そこに至るまでに、主人公が何を考え、どう対処したか.. という道筋そのものが 眼目である。 主人公シンジの最大のターニングポイントとなった「補完計画の否定」 という結論をだすにいたるまでの過程を、 映画は、ほとんど描くこと無しにすませた。 補完計画は否定されるべきものである。そんなことは分かり切っているのであって、 では *どの理由をもって* これを否定したのか... を描かなかった。 他の何をさし置いても、まずこれを描くことなしには、話の骨格が崩れる。 第二の理由。 夢と現実の関係。 The End of Evangelion まで本放送終了から 1 年半。それだけの時間を 掛けて Evangelion を終了させた。 ところで、Fanjin 達もまた、その期間遊んでいた訳ではない。 映画は 25-26 話を素直な形に造り直されたものである - という情報から、 映画が どのようなものであるべきか どのようなものであってはならないか といった研究が方々でなされてきた。 そして、映画はこの枠の中に収まった。 監督は、できれば期待を裏切りたい.. と語っていたにもかかわらず。 我々(Fanjin = ゲンドウ)の計画の枠を、監督(= シンジ)の自由意志は 乗り越えることができなかった。 監督が、映画を通じて「現実に帰りなさい」と語る形で、我々の上に立とうとした、 それそのものでさえ、箱の中のできごとにすぎない、ということを結局は 監督は意識しないで終った。この程度の自己撞着の解決なしに、 他人にメッセージを語ってみても、説得力はたいしたことはない。 第一の理由のところで述べたように、基本的に結末は動かしようが無い。 これ以外にもゲンドウ(ゼーレ)の補完計画の完遂、人類滅亡などいくつかの パターンが無いでもないが、映画で描かれたケースを含めて、 すでになにがしらの映画で描かれた結末に似る。 それ自体は避けがたい。そういう不利が監督にあったことは認める。 しかし、それならば、... 監督もそのことを認めるべきである。 枠を越えたつもりの孫悟空ではなく、壁をぶちやぶらんとする囚人として 振舞うべきであった。 映画は、監督はシンジそのものをいくらも越えることができなかった。 にもかかわらず! 25 話 AIR "Love is destructive" も 26 話 まごころを君に "I need you" も 十分に楽しむことができた。 25 話において、結局はミサトの説得が失敗するあたりは 19 話で加持の説得が 成功したことへの裏返しであり、また、救援が間に合わなかったのも、19 話に おける初号機暴走の裏返しであろう。 TV アニメの要となった 18 - 19 話に対するこうしたオマージュは、18 - 19 話の アニメ的な御都合主義に対する反発、アンチテーゼとして、映画の実写シーンを 通して直接に監督が語ったことの、アニメ側での表現となるのであろう。 ただ、すでに第一の理由として述べてしまったことだが、 20 話ではシンジが現実世界に戻るにあたってシンジの心の変化、説得、理由等が しっかり描かれているのに対し、「まごころを君に」で補完計画を否定、現実世界 へ復帰する過程での理由が描かれなかったことは、やはりこの観点からも私は疑問を 投げかけたい。 これは TV 版 26 話にて、シンジが「僕はここにいてもいいんだ!」という結論をだした その理由が明らかでないことと同種の問題であり、監督はこの点に対する問題意識を 実は持っていなかったのではないか - と疑わざるをえなかった。 映画のラストもいかにも庵野監督らしいものであった。 しつこいようだが、結末そのものは初めから決っていたようなものである。 監督がその creativity を発揮できるのは、ほぼその演出/表現だけになる。 単なるハッピーエンドでない、不協和音の余韻を残す終り方はいかにも庵野監督 らしく、とてもよかった。 # ... が、この、いかにも謎解き屋さんが喜びそうな終り方は... # 謎解き屋の嫌いな監督にしちゃ話が逆になるんでないかい...? ところで、 27 日まで東京では EVA の再放送がなされており、ところどころ見る機会があった。 EVA 前半から半ば、いわゆる「幸福な時代」は、各話の終り方がわりに協和音で 終っている ... なんてことはきれいさっぱり忘れていた ^_^; 以下、各論。 まず主題について。 映画の主題はすでに TV アニメの主筋からかなりずれてしまっている - たとえば、ゲンドウとシンジは映画の中で一度も顔を合わせることなく終った。 父子対決の解決を何もしなかった。もちろん、19 話すぎてこれは副筋に それてしまっていたから、90 分そこそこの映画にこれをつめこんで主題を 割るわけにはいかなかったのは明らかである。 映画の主題は、きわめて素朴な疑問であり、かつその疑問の存在意義を 語ることが無かっただけに、その意義を認めないかつまらないとおもう人にとっては、 この映画を楽しむすべはないはずである。簡単に言えば、 「ここに居てもいいの?」 に対して、 「あんたバカ?」 と答える人にとっては、この映画を面白く思う理由は無いであろう... 「それは切実な問題かもしれないね」 と発言しないまでも、一瞬なりとも思う人であって、はじめてこの映画は意味を持つ。 # が、肝心のシンジというケーススタディの描写不十分。 アスカについて。 弐号機が喰われるところは、じつは、弐号機の電源が落ちた時に、いったん 弐号機への(私の)シンクロ率をゼロに落した関係で、何の感慨もなかった。 電源が落ちれば弐号機はただの箱、これから何がおころうとアスカに影響ない からである。 弐号機の腕が伸び、つまり暴走していたことに気付いたところで、シンクロを 戻して... ものすごく痛かった!!!! # ので、すぐシンクロ解いちゃった ^_^; 暴走中に神経が繋がっていた設定かどうかよく覚えていないが、腕がアスカの 思考通り動いていたからには感覚神経も繋がっていたのであろう。 ずっとシンクロしてたらこっちも発狂してたかもしれず、 ひでーとかかわいそーとか言う第三者的感想はとうてい出せない。 この後、アスカはラストで再生されるまで話から退場するが、 これで地上に戻って言うことが「気持ち悪い」の一言で済むとは信じがたい。 ゆえに、この一言には形而上な意味が含まれていたのだ、とする説に私は賛成できない。 アスカは、その心情はともかく発言はきわめて明確な形をとってきた。 シンジの内心世界でも 「絶対、嫌!」 等、実に明確な発言のオンパレードである。ラストでアスカが宗旨変えした理由は ないから、この単純な発言は、アスカにとって必要十分に明確な発言であったと 捉えるべきであり、単純に自分の体の不調を訴えた、という説を私は採る。 これと違い、頬に触れた方は多少、解釈に幅が許されるだろう。 「シンジなんかいらない」 と主張し、そしてアスカからみて何の役にもたたなかったシンジに対して、 アスカの態度が好意側に振れる理由はない。 ただ、「シンジが生きていたこと」そのものを嫌う理由はアスカに無いので、 無事を喜ぶことはありえる。 # ただ、それとこれは別で、 # 「絶対、嫌!」 # なだけだ :-) 最後に。 悪いが ... やっぱりこれは助かった... というところが見終ったあとの第一印象だった。 こういう映画なら、意見は割れる \^_^/ 演出にせよ、シナリオにせよ、それぞれの描写の解釈にせよ。 -- 終り。