"To Heart" #10, #11 の感想

(Last updated: Jun. 17, 1999)

粗筋
メイドロボ HMX-12 通称マルチがテストとして学校にやってきた。 人間そっくりだが、テスト期間が終わればマルチはマルチでなくなることを 浩之達は知った ──
概観
... 視聴者をナメきった出来 -_-#

こういう粗筋ならそれなりのストーリーになるところではないだろうか。 ともかく対象層のことさえ意志分裂していて、非常に見苦しい。

長瀬が来栖川エレクトロニクスでマルチを造っているあたりの設定をいっさい見せずに 長瀬の語りを入れているということから、対象をゲーム人に限っていることは ほぼ明らかだ。
それでいて、ゲームの one idea story としての贅肉をそぎおとしたシンプルな造りから アニメの水膨れして中身を何にも無くした展開にしてしまって、 アクアプラスの人達はこんなの作っていて一体何が楽しかったんだろう。

マルチの話を 2 回に渡らせる、というセンスそのものは嫌いではない。 他の人の話と比べれば同じ密度で描こうとすると 2 回というのは明らかに長すぎるので これまでの出来からすれば酷いものになりそうな予感は無いでもなかったけれど、 "To Heart" はあかり、志保を除けばマルチで成り立つ物語であり、 そこに資源を投入すること自体は悪くないと思う。

しかし、マルチの絵を描くためだけに 30 分余分につっこんだというのは センス以前の問題として理解不能の神経である。

浩之とマルチの距離
もっとも理解不能だったのは浩之のマルチへの距離感であろう。 戸惑いがほとんど感じられないから、距離は安定しているはずなのに 扱いがバラバラである。
「メイドロボってセリオみたいなのを...」
というからにはマルチはメイドロボとしては規格外の扱いになる。 長瀬に語る言葉から、とりあえずハトと区別する必要なし、というところもわかる。

にもかかわらず「マルチがマルチでなくなる」と聞いていて「卒業式」からバスの停留所の あの明るさは何なんだろう?

人間ではないが、部分的に「人」として扱うことも可能な「機械」への態度、 というものを描こうとした空気がある ── たとえばラストでは、 マルチがマルチでないことを一切の負の感情無しで受け入れていることがみてとれるし、 その直後にマルチであることを知った時の正の感情が弱い。 これはマルチがマルチでなくなることを 「死」という生物的な思想の下に見ていないことを表す。

しかしここから逆算すると 料理を教えるとか、洋服をプレゼントするといったことの意味が狂う。 車を買い替える時に下取りに出す車を渡す前日位に一応綺麗にして渡す、 にかなり近い論理になるんではなかろうか。

こういう論理で描くのもかまわないけど、でもマルチの話でこれをやるとすごく寒いんだけどな。


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