連載童話「北の空」 第3部(31〜45)

    31 お墓そうじ

 

 白々とした早朝の空。

 まだ太陽が山の端から顔を出していない。

 花世は正夫と友子の三人で墓そうじに行く支度をしていた。草ぼうき・ちりとり・びびら(大きなくまで)・竹ぼうき・草取り鎌などを持って行く。やかんに水も用意した。人間用ではなく、暑い陽射しにさらされている墓石にかけるためだ。

 三人は手に余るほどの道具を分担して持ち、山道を登って行った。父も母もとっくに田んぼに出かけている。もちろん、みんなはまだ朝食前だ。

 墓地への山道はきれいにそうじされていた。村の大人たちが朝仕事に出かける前にやったものだ。花世ははずんでいた。きれいな山道は、お盆が目の前に近づいているしるしだ。

 ふだんは貧しい食卓だが、お盆には腹いっぱいのご馳走が食べられる。それは、盆と正月の年二回だけのものなのだ。それに、町からはお客様が訪ねてくる。お客様は必ず花世たちにおみやげを持ってきてくれる。だから、きれいな山道を見ると、条件反射のように体が喜ぶ。

 墓地についた。すでに、あちらこちらに墓そうじをしている姿が見える。ここは明るい高台にあり、村の田んぼが見渡せる。今から二代前の人達がこの山地に墓地を開いたそうだ。区割りした場所をくじで決めた時、花世の曾祖父が最後に引き、陽のあたるいい場所にあたったと母が自慢していた。花世から見ると、特別にいいとも思えないが。母のもう一つの自慢は、お墓が村で一番立派だということ。たしかに、墓石を支える台が形よい蓮の花で一番丈が高い。灯篭も品がある。けれど、墓石の大きさとか広さで一番といったら、マリちゃんちだ。新しくてつやつや光っている。マリちゃんちは一代前に旅(関東地方)からやって来てこの村に住み着いたそうだ。お金持ちで村の大部分の山はマリちゃんちの物だ。母からすれば、マリちゃんちは特別だから勘定には入れないのだろう。

 陽が出るとたまらなく暑くなるから、三人はせっせと草を取り始めた。正夫は一年間で伸び放題伸びた欅や萩の枝を切り落としている。花世と友子は草取り鎌で草取りだ。墓地は固い赤土なのに、けっこう草の根が張っている。畑はしょっちゅう耕しているので、草も取りやすいけれど、墓地の地面は庭のように固く根がなかなか抜けない。力を入れて抜いたり刈ったりしているうちに汗ばんできた。朝日も射してきた。三人は無言で必死にそうじをした。墓そうじが終わり帰りかけている人もいる。

 小一時間過ぎ朝日がすっかり墓地を照した頃、三人の墓そうじがやっと終わった。腹も相当すいてきた。

 正夫はびびらや竹ぼうきを持ち、さっさと山を下りていった。花世はおなかが鳴っているけれど、よその家の墓を見たかった。それで、やかんや鎌を持ちながら友子と墓めぐりを始めた。

 家によって墓石の形や大きさが違っていておもしろい。植えてある草木も違う。萩や桔梗、ツツジや松などが各家の墓を特徴づけている。

 きれいになった墓地をぴょんぴょん弾みながら見歩いて行くと、ルミちゃんとカナちゃんにばったり会った。ルミちゃんはおごそかに言った。

「朝ご飯を食べたら、関に泳ぎに行こう」

「うん」

 花世はどきっとしたけれど、深くうなずいた。関は遠くて深い。五・六年生は行くけれど、花世はまだそこで泳いだことはない。

 山を下りようとして外れの墓地を通り過ぎた時だ。花世の目の端に光るものが映った。通り過ぎてからもう一度振り向くと、硬貨の十五円が墓に供えられているではないか。花世はどきんとした。どんどん山を下りているルミちゃんを呼ぶかどうか迷った。友子が立ち止まり、花世に声をかけた。

「どうしたの」

「うん」

 ルミちゃんも振り向いた。

「何してんの」

 花世は十五円を指さしてしまった。

「ちょっと来てみて」

 ルミちゃんは山猫のようにすばやくやって来て、十五円を見つけた。

「おおっ!」

 ルミちゃんは一瞬も迷うことなく十五円をつかみとり、にやりと笑った。

「これでキャラメルを買って食べよう!」

 花世は「うん」とは言えなかった。(バチがあたったらどうしよう)と思ったが、ルミちゃんは嬉しそうにぴょんぴょんはねながら山道を下りて行く。花世はルミちゃんの後を追うしかなかった。

 

「うんまいなあ!」

 花世たち四人はハサ木(稲を干す木)に腰かけ足をぶらぶらさせながらキャラメルをなめていた。朝ご飯を食べた後、ルミちゃんが買ってきたのだ。花世はびくびくしながらキャラメルを口に入れたけれど、味はいつものようにとろけるように甘くておいしかった。一人三個ずつなめ終わった時、ルミちゃんが叫んだ。

「やった! アタリだっ!」

 ルミちゃんはキャラメルの箱の中底を指さした。そこにはまさしくアタリのはんこが押してある。花世は驚いた。バチがあたるかと思ったのに、アタリのキャラメルだったとは。ルミちゃんは得意満面で命令した。

「花世ちゃん、交換してきて!」

「うん」

 花世は年下のルミちゃんに素直に従った。ここまでくれば、バチがあたってもどうでもいい気分になった。花世は一人で村の万屋に走った。

 驚いたことに、その後三回続けてアタリのキャラメルだった。ふだんはめったにアタリなど出たためしはないのに。四人は関で泳ぐことなどすっかり忘れ、うそのようにおいしい夏の一日を過ごしたのだった。

 

 

   32 お盆のお客様

 

 夕闇が近づいている。

 けれど、花世は辺りの空気が華やいでいるように感じた。

 花世と友子は新しい水玉のワンピースを着て墓参りから帰ったばかりだ。花世はおもちゃの箪笥の引出しを開けたり閉めたりしているし、友子はぴかぴかのままごとセットに土や水を入れている。きょう旅(関東地方)から来た二人の伯母からもらった物だ。二人の伯母は仲がよく、いつも二人いっしょにやってくる。

 駄菓子屋をやっている年上の叔母は太っている。家賃収入で生活している年下の叔母は、やせていて髪をきれいに結っている。二人とも連れ合いを早くに亡くしている。

 二人は田舎にはないようなみやげをいつも持って来てくれる。言葉遣いも上品で、花世は二人の伯母が大好きだった。

 母が台所から呼んだ。

「花世、笹の葉を取ってこい!」

「はあ〜い」

 花世は上機嫌で返事した。きょうは押し寿司を作るのだ。押し寿司はご飯が二升くらい入る寿司箱の中で作る。ご飯の上に五目を乗せ、笹の葉で区切り、七層くらいに積み上げて重しの石を乗せて作る。お盆や祭りには必ず作る。押し寿司は花世も大好きだけれど、旅の人達は「押し寿司こそが故郷の味」と言って喜んで食べるのだ。

 花世と友子は普段着に着替え、奥の家の裏から山に入った。種池を通り、花世の家の山に着いた。屋敷内にも笹はたくさん生えているが、山の笹は育ちが良く、花世の肩ほどもある。葉も大きくつやつやしている。花世はきれいな笹を選んでポキポキと折り始めた。友子もまねをしたが、友子の力ではなかなか折れないようだ。それで、花世が折ったものを持たせることにした。

 四十本ほども折り、もう帰ろうかと思った時だ。

「あ、いたっ!」

 すねに鋭い痛みが走った。ブーンと羽音をたてて小さな蜂が飛んでいる。

「友子、動かないで!」

 蜂が向こうに飛んで行ってから、二人はそろりと山道にもどった。さされたすねが赤く腫れている。非常に痛いけれど、友子の前で泣くわけにはいかない。頭の隅で、

(蜂に刺されたら、小便をつけたら治る)

ということを思い出したけれど、汚そうで迷ってしまう。花世の心を見抜いたように友子がパンツを下げながら言った。

「ションベンをかけてやろうか」

「う…ん」

 その時、のどかな呼び声がした。

「花世ちゃあ〜ん」

 見ると、笹薮の向こうに二人の伯母がいるではないか。浴衣姿の二人が近づいておっとりと言った。

「おそいから心配したわよ」

 花世は着物を来て山に入る人を見るのは初めてだったが、二人は若くもないが絵のように山にもよく似合っていた。伯母たちは花世の足を見てやさしく言った。

「あらあら、大変。帰ったらすぐアンモニアをつけましょうね」

「笹は、わたしたちが持つわ」

 花世はぼうっとするくらい嬉しくなった。

 

 伯母たちの帰る日になった。

 さっき母がハイヤーを呼びに行った。花世は寂しくてたまらなかった。ふと見ると、座敷の入口に年下の伯母の小さなバッグが置いてある。その中には財布や大切な物が入っているのを、花世は知っていた。花世は思いついた。四年生としてはあまりにも浅はかではあるが…。

(あのバッグがなかったら、伯母さんは帰れない!)

 それで、すばやくバッグを座敷の隅に積み上げられた布団の後ろに隠した。

 プップー。

 ハイヤーが木戸先についた。父母にいとまごいをし終わった伯母がゆったりと言った。

「あら、ここに置いたバッグが隠れちゃったわ」

 犯人はすぐにばれてしまった。花世は仕方なくいやいやバッグを伯母に返した。

 伯母たちと一緒に華やかな空気までハイヤーに乗って行ってしまった。

 カナカナカナ…

 蜩も鳴き出した。花世はお盆の終わりを感じ、胸がすうすうした。

 

 

   33 里帰り

 

 川面が朝日にきらきら光っている。

 花世と友子は川底の石を見ながら歯を磨いていた。ここは母の実家のある山里だ。あと三日で夏休みも終わるという昨日になって二人で泊りに来た。バスで十五分ほどの距離だけれど、子どもだけで来るのは初めてだ。また、お盆でなくこんなに八月の末になって泊りに来るのも初めてだ。お盆には旅(関東地方)から二人の伯母が来ていたからだけれど。

 きのうの夜、実家の主婦である叔母から嫌味を言われた。

「どうせ来るならお盆に来ればいいのに。こんな時分に来られると、またごっつおを作らんくちゃあなんねえ」

 母の妹である叔母は、花世と友子のために蚊よけ用の蚊帳を張りながら二人にしっかりと聞こえるように言った。

 二人は黙って聞いていたけれど、花世は、

(そう言えばそうだな。お盆ならどうせごっつおを作るから、客がいてもそれほども苦ではないけれど、時期はずれは二度手間で大変なんだ)

と、認識した。母は叔母とは姉妹である気安さから残暑にうだっている花世たちに、

「そんなにぐだらぐだらしているなら、三十一日まで実家に泊って来い。あそこん家なら、沢風が入って涼しいから」

と言ってよこしたのだ。祖母もまだ元気だし、叔母の婿さんも優しい。けれど、花世は叔母の愚痴を聞いて、

(来年は、やっぱりお盆に来よう)

と思った。

 友子はすぐ歯磨きを終わらせ、はだしになって川に入った。

「ヒャアッ!」

 嬉しそうに声をあげ、チャップチャップと水をはねあげながら歩き出した。

「グフフフッ!」

 細い目を糸のようにし、おだんごパンのような丸い顔になって笑っている。川底の小石が足の裏をくすぐっているらしい。

 花世はゆっくり歯を磨きながらあたりの景色を見た。花世の村は平地だけれど、ここは山や谷が多い。遠くに薄紫色の連峰が雲の上に浮び上がっている。近くの濃い緑の山々は幾重にもいりくんでいる。田んぼや畑は段々で小さくて様々な形をしている。

 朝日が草の葉先の露にあたり、宝石のように煌めいている。花世は見とれながら思った。

(本物の宝石なんて見たことないけれど、これはきっとそれより何十倍も美しいわ。太陽光線の角度の具合でこんなに美しく輝いているのは、数分かも知れないけれど、だからこそ美しいのだわ)

 その美しい朝露を踏んで女の人がやって来た。近づいて来たのは、花世の家の大田植えに来てくれる若くてきれいな娘さんだ。この川に一番近い家に住んでいる。娘さんも葉を磨きながら歩いてきた。花世はどきどきして歯ブラシを外した。娘さんは花世たちを見ると、歯ブラシを口に入れたままにいっと笑った。花世は恥かしそうに笑った。

 娘さんは口を川の水でゆすぐと、花世たちに言った。

「上の家に遊びに来てるのね。よかったら、うちにもいらっしゃいよ」

 娘さんの家と実家とは県道をへだてているだけだ。実家は県道より五メートルほど高い所にあり、娘さんの家は県道より三メートルほど下がった地所に建っている。それで、「上の家」「下の家」という単純な屋号がついている。

 花世は娘さんの言葉をきいてぼうっとするくらい嬉しくなってうなずいた。そして、娘さんの後ろ姿を見ながら、

(やっぱり、泊りに来てよかったな)

と思った。

 花世も友子も歯磨きを終えてした時、坂道を登ってくる実家のばあちゃんの姿が見えた。ばあちゃんはしょい篭に山盛りの野菜を入れ、腰を曲げて坂をはい登るようにしてやって来た。

 ちょうどその時、いとこの幸ちゃんが手拭いを持ち、あくびをしながらやって来た。幸ちゃんは花世より一つ年上で五年生だけれど、三人姉妹の一番末っ子だ。

 ばあちゃんは花世たちを見ると、歯のない口元でにかっと笑った。そして、前まで来ると、「どっこいしょっ!」としょい篭を下ろした。中から採り立ての真っ赤に熟れたトマトを取り出し、二人に差し出した。

「食ってみろ。うんまいど」

 花世はトマトは嫌いだ。くせのある強い匂が鼻につく。けれど、せっかくばあちゃんがくれたトマトだからどうしようと思いながらながめていると、側で幸ちゃんが花世よりずっと大きいトマトにかぶりついた。トマトの汁を口のまわりにつけながらあっという間に食べてしまった。残ったのは、小さな緑のへただけである。

 卵焼きや魚などのぜいたくなおかずも平気で残す幸ちゃんがあんまりおいしそうにがぶりがぶりと食べたので、花世はつられてしまった。

(トマトってほんとはうまいんだ!)

 それで、がぶりとかみついてみた。それはたしかに花世の家で採れた赤青い半熟のトマトよりずっと甘く、トマト特有の青臭さはあまり感じなかった。それでも、花世は青臭さから逃げるように大急ぎでトマトを食べ切った。トマトを一個全部を食べたのは、これが初めてだ。友子はもともとトマトが大好きなので、うまそうに食べた。そんな二人を見てばあちゃんは満足そうに笑い、川で顔を洗った。

 幸ちゃんは一回だけジャブッと顔に水をかけ、すぐ手拭いで拭いた。歯を磨く気はないらしい。

 花世たちはしょい篭を背負い直したばあちゃんの後にくっつき家に向かった。幸ちゃんはつんと顎をあげ、よく通る声で花世たちに言った。

「きょうは淵に泳ぎに行こう」

 花世も友子も深くうなずいた。この山里の淵は、花世の村の川よりずっと深くて広い。河原には巨大な岩石がごろごろしていて迫力がある。花世は、

(ああ、やっぱり泊りに来てよかったな)

と、しみじみ思った。

 家に着くと、じいちゃんが納屋の横で薪わりをしていた。顔も体も赤銅色のじいちゃんは、いつも口をぎゅっと結び恐い顔をしている。めったにしゃべらないが、じいちゃんの気に触ることをすると、恐ろしげな声と顔でおこられる。花世はなるべくじいちゃんに近づかないようにしている。

 

 昼ご飯がすんだ後、花世たちは淵にでかけた。幸ちゃんの姉さんのアキコさんも一緒だ。アキコさんは中学生である。隣近所何となく誘い合い、中学生と小学生、それに男の子も混ざって十二・三人で田んぼ道をずっと下って行った。三十分歩いて着いた淵は、緑たっぷりの自然の中にあった。車はもちろん自転車さえ近づけない。日盛りの中、三十分も歩いたので、小学生も中学生も水を見て歓声をあげた。

 形だけ準備運動をすると、自信のある者はさっそく背が立たないような深い所ですいすい泳ぎ始めた。泳げない花世と友子は浅いところでバシャバシャとバタ足をしたり、石をどかして蟹を見つけたりした。

 淵の真ん中に巨大な石が突き出ていて、そこに幸ちゃんが腰かけて「この世の花」なんかを歌っている。小学生とは思えないほど大人ぽくて艶のある声だ。けれど、花世は幸ちゃんの歌より水着に目を奪われていた。幸ちゃんだけきれいな花柄の水着を着ているのだ。あとの子どもたちは年下も年上もシャツやパンツ姿で泳いだり遊んだりしているのに。幸ちゃんは末っ子だからかわいがられ、人の持っていない物を買ってもらったりしている。

 花世は幸ちゃんの着ている水着をよく見たかった。それで、岩を伝いながらやっと幸ちゃんのいる巨石にたどりついた。幸ちゃんと同じように足をぶらんぶらんさせてみた。足は水面まで届かない。深い淵は底なしのように暗い色をしている。花世はぞくっとしたけれど、お目当ては幸ちゃんの水着だ。何気なく隣の幸ちゃんの水着に目をやった。ところが、花世はどきっとした。なんと、幸ちゃんの水着の胸の部分がずれていて、乳首が見えるのだ。それはぷっくりとふくらみ始めていてとがっていた。まだ男の子の胸と同じような花世とはずいぶん違う。

 花世は見てはならぬものを見てしまったような気がして慌てて目をそらせた。もう水着どころではない。幸ちゃんにずれた水着のことを言おうか言うまいかと迷ったけれど、黙っていることにした。わがままな幸ちゃんに教えても、感謝されるどころか憎まれるだろう。それで、花世は幸ちゃんの側から早々に退散することにした。

 大きい子も小さい子も思い思いにたっぷりと淵で楽しみ、いよいよ帰ることになった。水着代わりにしていた濡れた下着を脱ぎ、乾いた洋服に着替えたらさっぱりといい気持ちがした。

 大人が十人かかっても持ち上げられないような岩石がごろごろしている河原を通って帰った。

 花世が岩石から岩石までぴょんと跳んだ時、草履がぬるりとすべった。そのまま花世は石から落ちてしまった。ちょうどそこに水たまりがあり、花世はボチャンとはまった。しかも、水たまりは深く、花世はたっぷり首までつかってしまった。

 水中から首だけだしている花世を見てみんな大笑いした。花世は恥かしいやら困ったやらで身動きが取れない。上がろうにも手がかりがないのだ。友子が心配そうに見ているが、友子では小さすぎてどうにもできない。

 すると、あのきれいな娘さんの妹のマサちゃんが膝をついて手を差し出してくれた。マサちゃんは中学生なので、なんなく引きずりあげたが、花世の洋服はびっしょりだ。でも、誰も気にしない。日盛りの中を歩くので、家につく頃には大方乾いてしまうからだ。

 けれど、花世はすっかり気落ちしていた。みんなのいい笑い者になったことが恥かしくてたまらない。ところが、マサちゃんが自分の家の木戸先に入る時に言った。

「夕ご飯を食べたら、遊びに来な。今年最後の花火をやるから」

 子どもが夜遊びをしていいのは、年に一度の祭りの夜くらいだ。落ち込んでいた花世の気分はすっかり回復してしまった。

 

 夕ご飯が終わった後、花世は友子と幸ちゃん、それにアキコさんと下の家に行った。きれいな娘さんは茶の間で縫い物をしていた。娘さんは大人だからいっしょには遊ばないが、花世たちに優しく、

「いらっしゃい」

と言ってくれた。

 近所の男の子や女の子も集って来た。みんなで花火を楽しんだ後、かくれんぼをした。昼と違って暗い場所でのかくれんぼは、スリルがあってぞくぞくするほどおもしろかった。自分の家にいたら、夏休みが終わってしまうやるせなさを味わっていなければならない時期なのに、花世は母の実家に来たおかげで楽しい思い出をたくさん胸に焼きつけた。

 八時をまわったので、みんな解散し、アキコさんたちと家にもどった。花世は自分の家で「ただいま」と言うようにしつけられていないので、(家に帰る時間に親がほとんどいないせいもあるが)

「ああ、おもしろかった!」

「ネズミ花火がしけててさ」

などと、にぎやかしく茶の間に上がって行ったアキコさんたちの後ろからこっそり続いた。叔母さんは不満そうに花世と友子をじろりと見た。

 

 花世と友子が蚊帳に入って寝ようとした時、叔母さんが聞こえよがしに言った。

「人んちへ来てるのに遅くまで夜遊びなんかして! かあちゃんはいったいどういう躾をしているんだろう」

 花世はびっくりした。花世たちより年上である自分の子のアキコさんや幸ちゃんには何も言わなかった。そのくせ、自分の姉である花世たちの母の悪口を目の前で言うとは…。

 二年生の友子も頭にきたらしく、叔母さんをこわい目でにらんだ。叔母さんは友子や花世とは目を合わせないようにして、さっさと茶の間にもどって行った。花世は友子のような勇気はなく、叔母さんの後ろ姿だけにらんだ。叔母さんの姿が見えなくなると、二人で顔を見合わせたが、何も言葉は出てこなかった。二人は曲がりなりにも叔母さんの世話になっている立場上、いくら何でも叔母さんと同じ屋根の下で叔母さんの悪口は言えない。それに、叔母さんに対する不満をどういう言葉にしてよいかもわからなかった。

 花世は思い出した。母がこう言っていたことがある。

「実家のかあちゃんは末っ子だから甘やかされてねえ。ばあちゃんはわしら四人の姉妹を平らにかわいがってくれたけれど、じいちゃんは実家のかあちゃんだけしか目に入らなくてね。実家のかあちゃんだけ飴をもらったりきれいな着物を着せてもらったりしていたもんだよ」

 実家のばあちゃんは三度結婚し、じいちゃんの血を分けた子は叔母さん一人だけだと聞いている。あの恐ろしげに固まった顔をしているじいちゃんがどういう顔をしてかわいがったか、花世には想像しにくい。

 母は叔母さんがわがままなのは仕様がないという口ぶりだったけれど、花世は自分の無愛想を棚に上げ、固く決意した。

(実家のばあちゃんには会いたいけれど、もうここんちには泊りに来ない。あしたの朝早く友子と家に帰ろう!)

 

 

   34 夏の終わり

 

 きょうで夏休みが終わりだ。

 八月三十一日には、いつもクラブ(公民館)に薬草を持って行くことになっている。花世は夏休み中に採り集め乾燥させたヨモギやオオバコなどを種類毎に袋に入れて運んだ。

 クラブには農協のおじさんがいて半畳ほどもある大きなずた袋に集めていた。看貫という米俵も計れる秤に乗せてからずた袋に入れている。

 ヨモギ・ゲンノショウコ・ドクダミ・キランソウなど、それぞれ独特の乾いた匂を放っている。花世はむせかえるほどの薬草の匂をかぐと、

(ああ、これで夏休みも終わるんだなあ)

と思い、もの悲しくなった。

 六年生の敏子さんは大きな麻袋に入れて肩に担いで来た。

(こんなにたくさんなら、四キロはあるかなあ)

と、花世は目測した。生ならともかく、乾燥した薬草をこれだけ集めるのは容易ではない。三キロ以上の人は、表彰される。それはわかっていても、花世は三キロも集める根性というか、勤勉さと言うべきか、そういうものを持ち合わせていない。たくさん集めた人の袋を見てびっくりするだけである。

 薬草採りの名人のような敏子さんが、クラブに集っている子どもたちに言った。

「きょうは最後の『火の用心』だから、三班の人は遅れちゃあだめだよ」

『火の用心』に参加することになっている三年生以上は素直に、

「はあ〜い」

と返事した。

 花世が空の袋を持って帰ろうとした時、仰天した。マリちゃんが一輪車に山のように薬草を積んで来たではないか。マリちゃんちには時々遊びに行って、夏休み帳をいっしょにやったり、本を読ませてもらったりもしていたけれど、薬草採りの話はしたことがなかった。花世と同じ四年生のマリちゃんが、学校のそうじも嫌いでしょっちゅうさぼっているマリちゃんが、六年生の敏子さんと同じくらい薬草を集めたなんて信じにくい。

 マリちゃんは目を丸くしている花世に声もかけず他人のように通り過ぎ、農協のおじさんの所へ行った。

 花世は、

(マリちゃんはいつの間にあんなに薬草を採ったんだろう。人に採ってもらったんだろうか…)

と考え考え、家に帰った。けれど、マリちゃんが薬草採りをしているところを見たこともないし、いくら考えてもどうにもならなかった。

 

 夕ご飯を食べ、風呂にも入り、八時半をまわった。もう寝る時間だが、きょうはこれから『火の用心』がある。花世と正夫は出発点のお宮まで行った。

 三班の十二・三人が集まると、敏子さんが先に立って拍子木を鳴らした。

 カチカチ

「マッチ一本、火事のもと!」

 続けてみんなも唱和する。

「マッチ一本、火事のもと!」

 カチカチ

「タバコ吸っても、火事だすな!」

「タバコ吸っても、火事だすな!」

 旧道から県道に出た時だ。道から少し離れている畑に赤いものが見えた。男子が確かめてみると、何か燃やした残り火だった。

 すわっ!というばかり、上級生たちが畑の持ち主である近くの家に走った。家の中からあまり驚いたふうでもないおじさんが出て来た。

「やあ、どうもごくろうさん」

と言って、川から水を汲み畑に持って行った。「火のことは知っていたんだよ。でも、夜回りの子どもたちに言われたのでは、すぐ消さないわけにはいかないからな」とでも言いたそうな顔つきであった。それでも、子どもたちは(夜回りが役に立った!)と思い、いっそう大きな声で、

「マッチ一本、火事のもと!」

を繰り返して三班の村内を回った。

 夜回りにルミちゃんもマリちゃんも参加したことがない。ルミちゃんは薬草採りもほとんどしたことがない。だからといって、上級生にいじめられることもなければ、先生に叱られることもなかった。

 小川の草蔭から蛍が一匹よろよろと飛び立った。尻の光がいかにも弱々しく消えたり光ったりして暗い空に消えた。

 畑の方から、コロロロロ…とコオロギが眠たげに鳴き出した。花世は、

(ああ、夏が終わるだけでなく、秋も始まっているんだ)

と感じたら、やるせなさだけでなく、何かしら少しはずむような気持ちになった。

 

 

   35 いなご採り

 

 畦の朝露を踏んで花世はイナゴをつかまえていた。

 朝日が山の端から出たばかり。花世はまだ眠い目をこすりながら稲の穂や葉にとまっているイナゴをつかまえては手拭いを半分に折って作った袋に放り込んだ。早朝はイナゴの動きが鈍いので、つかまえやすい。日中はとてもじゃあないけれど、つかまらない。ばねの効いた後足でぴょんぴょん逃げてしまう。

 きょうは学校にイナゴを持って行く日なのだ。昨日までに全く採っていなかったので、今朝は仕方がなく早起きしてつかまえに来た。兄の正夫も一緒に家を出たのだが、他の田んぼに行った。

 四年生の目標額は二キロだけど、とても採れそうもない。きのう、近所のアキラが長いたもを持ち、道沿いの田んぼの稲穂にたもの口をあて、ドドドッと走って大量収穫をしていた。あれは便利だけれど、花世はたもを持っていないから、地道に一匹ずつ素手でつかまえるしかない。

 半分眠っているイナゴをつかまえながら、花世は思った。

(こんなイナゴを学校はどうするのだろう。佃煮屋さんにでも引き取ってもらうのかな。でも、イナゴの佃煮はうまくはないなあ。まあ、イナゴが少しでもいなくなれば、百姓は助かるけれど…)

 家で時々ばあちゃんがイナゴの佃煮を作ってくれるが、花世は進んで食べたいとは思わない。イナゴの足のぎざぎざが口の中にさわって不快なのだ。内臓も苦い。

 担任の松木先生は何のためにイナゴ採りをするのかについて話してくれたのだろうが、花世がぼうっとして聞いていなかった可能性の方が大きい。花世は一年生の時からずっとイナゴ採りはしてきたが、どこに持って行くかがわからなかった。それで、せっかく採ったイナゴを家の物置の大桶の後ろに隠したり藁の間に入れたりしてきた。わからなければ、友達にでも聞けばいいものを、花世は人に何か尋ねたり話しかけたりするということができなかった。先生に質問するなどということは、死んでもできそうになかった。だから、学校でわからないことは、勉強でも他のことでも自分なりに考えて済ませている。

 ところが、今年は一つ進歩して、松木先生が、

「イナゴは朝のうちに体育館に持って行くんだぞ」

と言ったのを聞き取った。

 花世はイナゴが手拭いで作った袋の半分ほど集まると、家に帰った。朝食をすませると、急いで学校へ行った。

 体育館には六年生が半畳ほどもある大きな布袋をいくつも広げていた。そこへ、花世はイナゴをあけた。何匹かは袋の外へ飛び出した。体育館中、イナゴがぴょんぴょん飛回っている。けれど、誰も気にしない。

 花世は今までずっとせっかく採ったイナゴを家に隠していたので、きょうはほっとした。四年生になって初めて人並なことができたのだ。しかし、誰かが、

「花世はちゃんとイナゴを袋に入れました」

などと記録しているわけではない。そう言えば、薬草採りは三キロ以上は表彰されるけれど、イナゴ採りの表彰はなかった。そして、やはりルミちゃんやマリちゃんがいなご採りをしているのを見たことはない。花世もイナゴ採りはしても学校に出さなかった時、叱られたわけではない。

 花世はほっとしたような気が抜けたような気分で教室に向かった。

 

 

   36 四年生の稲刈り休み

 

 花世は両親と友子の四人で山道を登っていた。

 きょうは山の田んぼの稲刈りだ。稲刈り用のノコギリ鎌を持ち、稲を束ねるための藁をしょっている。

 山の木や草は紅葉の真っ只中で明るく乾いている。

 村の墓地を過ぎ、大きなブナの木まで来た時、花世はぎょっとした。腰ほどの高さの山土手に茸がいっぱい詰ったてごが置いてあり、そこに蝮が二匹いた。いや、口から木の枝をつっこまれ、太い胴体を枝に巻きつけられて死んでいる。

 布を混ぜて作ってあるこのてごは、奥の家のばあちゃんの物だ。ばあちゃんは重くなったてごを置いて、また他の山に行ったのかもしれない。

 それにしても、二匹も蝮をつかまえるとはすごい。蝮は焼いて食べても非常にうまいが、猛毒を持っているので恐い。花世にはとてもつかまえられない。奥の家のばあちゃんは、長年の野良仕事のため腰が九十度にも曲っている。それでも、てごいっぱいの茸と二匹の蝮を収穫できるのだ。

 花世は去年の春、畑荒しの件でこのばあちゃんに叱られた。それ以来、奥の家にはあまり遊びに行っていないけれど、ばあちゃんのパワーに圧倒された。

 山の田んぼに着いた。

 稲は黄金色に輝いている。山田んぼは水が冷たく日射時間も平地に比べて少ないため、株全体が小さく穂も軽い。だから、稲が倒れることも少ないし、葉や茎がきれいだ。

 よその家の田んぼは半分ほど刈り入れがすんでいる。きょうは花世の家だけのようだ。花世は短靴を履いたまま田んぼに入った。このところ天気続きだったので、田んぼがよく乾いていて助かる。

 ノコギリ鎌でサクサクと四株刈っては切り株の上に置く。また四株刈って前の四株の上にバツ印の形に置く。合わせて八株で一束に束ねるのだ。

 母と花世が刈り、父がそれを束ねる。束ねるのは刈るよりずっと難しい。四・五本の藁で八株のバツ印の部分を一回転させてくくるのだが、八株は重いし、ぎゅうっと締め上げるのも力とこつがいる。花世は四年生になってやっとできるようになった。それでも、両親の結んだ束に比べるとぐしゃっとしている。

 友子はまだ二年生なので、父が束ねた稲を十束ずつまとめている。あとで、父が大束にして縛り、道に運び出す。山田んぼにはリヤカーも一輪車も入れられないので、全て人力だ。

 山の田んぼは三枚あるが、小さいので合わせて二畝(約二アール)ほどしかない。田んぼが乾いていたので、一時間ちょっとで刈り入れが済んだ。あと、稲束を平地のハサ木まで運ばなければならない。

 母の助けをかりて花世は太い縄で大束二つを背負った。友子は大束一つだ。父と母は残りを山のように四つも五つも背負った。一回で運び出したいからだ。

 帰りは下りが多いけれど、四人はゆっくりゆっくり下りて行った。

 稲はずっしりと大岩のように重く、縄が肩や胸をぎゅっと締めつけていて息を普通に吸い込めないほどだが、花世は誇らしかった。去年よりたくさん背負えるようになって、父母の背中の稲の山を少しでも減らしているという自負があるからだ。

 途中一回だけみんなで休んだ。奥の家のばあちゃんのてごが置いてあった山土手は、ちょうど腰の高さなので、休むのに都合がいい。四人は背中の稲の山を山土手に押しつけて一息ついた。ばあちゃんのてごはもうなかった。

 数分休んで息を整えると、四人はどっこいしょと立ち上がった。

 平地のハサ木まで運び、稲掛けを済ませて家にもどった。まだ夕暮れ前だった。

 縁側で蒸かし芋を食べながら休んでいると、木戸先を紙芝居のおじさんが足早に拍子木を鳴らしながら子どもたちを集めに来た。

 花世は紙芝居は好きだ。

 子どもたちがたくさん集まると祭りのようににぎやかしくて嬉しい。ぎょろっとした目つきのおじさんがたくさんの声色で語って聞かせ、最後に、

「ああ、主人公はいかなる運命になりましょうか!」

と言われると、次も見たくなるのが人情だ。

 おじさんが売っている水飴もうまそうだ。甕の中から二本の割り箸で軽くすくって十円だ。水飴を買った子どもは、二本の割り箸を繰り返しこね、透明な水飴を白濁させてから舐める。その作業が特別な儀式のようで、花世は羨ましかった。けれど、花世は、一分の時間も休むのを惜しんで忙しく働き続けている母に、

「あの水飴を舐めたいから、十円ほしい」

とは言えなかった。

 おじさんは飴を買わない子どもたちに、

「見ちゃあ駄目」

などとは言わないが、いつも只見するのも気が引けて、このごろは行きたいとは思わなくなっていた。

 ところが、きょうはどういう風の吹き回しか、母が花世と友子に十円づつくれて言った。

「紙芝居に行って来い」

 二人とも夢でも見てるようでぼうっとしてしまった。すると、母は、

「早く行かないと始まってしまうぞ」

と急かした。二人はバッタのようにびょうんと跳ね、木戸先へ飛び出した。

 紙芝居が行われるクラブには既に十五・六人の子どもが集まり、飴を買っていた。花世と友子は最後におずおずと十円玉を差し出した。おじさんは無表情に二本の割り箸でどろりと水飴をすくってよこした。

 紙芝居はすぐ始まった。花世は水飴をこねる大切な儀式を忘れ、すぐ舐め始めた。水飴はとろりと甘かった。

(ああ、これが紙芝居の水飴か!)

という感慨はあったが、それは素晴らしくうまいというほどの物でもなかった。

 紙芝居をこのところ続けて見ていなかったこともあり、花世は思った。

(紙芝居より、普通の本がずっといいなあ。自由に頭の中で想像できるもん)

 この日、花世は紙芝居と水飴に対する憧憬から卒業したのだった。

 

 

   37 ぼた餅持って

 

 空が高く薄水色に澄み渡っている。すっかり晩秋の空だ。

 花世と友子が田んぼでツブ(田螺)拾いをしている。朝飯を食べてすぐやって来たのだ。

 稲の切り株は秋の長雨にさらされてすっかり黒くなっている。ツブは人間の足跡が作った水たまりによくいる。水の中で気持ちよさそうにひらひらした足を伸ばしている。つかむと、きゅっと微かな音をたて、あわてて足をひっこめて蓋を閉じる。

 ツブは鶏の好物だ。石で殻ごとつぶして鶏にやると、滋養のある卵をたくさん産んでくれる。母の言い付けで二人はツブ拾いに来たのだけれど、もうバケツの半分くらいとれた。これだけあればもう帰っていいのだが、花世はぐずぐずと拾い続けた。ついでに、水分を吸ってふくらみかけた落ち穂も拾っている。落ち穂拾いは、いなご採りと同じように学校の行事でもあるけれど、提出期日はとっくに過ぎているので、家の鶏にやるくらいである。

 実は、きょうの日曜日、久しぶりに母の実家に行くのだ。稲の収穫も終わり、畑仕事も見通しがついたので、母が言い出した。

「今年は一回もばあちゃんの顔を見てないし、実家の父ちゃんにハサ木作りの礼も言わなくちゃあならん」

 稲を干すためのハサ木の組み立ては父母だけではできない。秋の初めに毎年必ず実家の父ちゃんが手伝いに来てくれるのだ。

 それで、今家では母が得意のぼた餅を作っている。ぼた餅はばあちゃんと父ちゃんの好物だ。

 花世はばあちゃんと父ちゃんは好きなのだが、母の妹の叔母さんが嫌いだ。夏休みに泊りに行った時、嫌味を言われたので、行きたくない。嫌味のことは母に言ってないし、(なにしろ、母の悪口だったから)花世は今まで里帰りを喜んでいたものだから、急に自分だけ行かないとも言いにくい。それに、きょうは母と一緒だし、夕方には帰ってくるのだからそんなに気にしなくてもいいのだが、花世は気が重かった。友子は別に嫌だとも嬉しいとも思っていないのか、普通の顔で花世に付き合ってツブを拾い続けている。

 しばらくして、ツブはバケツの八分目ほどになり、持ちながら拾い続けるのが難儀になってきた。こんなに拾ったら、三日分もあり、ツブが腐ってしまう。仕方なく、花世は帰ることにした。

 

 

 村の万屋前にある停留所で、花世たちはバスを待っていた。珍しく正夫もついて来たので、四人連れだ。

 バスがなかなか来ないので、母はぼた餅がたっぷり入って重い重箱を欅の切り株に置いた。正夫は近づいて来た野良犬の頭を撫でている。花世と友子は空き地の崖に生えているグミの実を食べていた。十一月の今ごろになると、グミはルビー色に透き通り、とろりと甘い。夢中で食べていたら、母が呼んだ。

「バスが来たよ。早くッ!」

 二人は空き地を走り、県道にもどった。母が手を上げていたので、バスがちょうど目の前で停まった。四人はあわてて乗り込み、奥の方に進んだ。バスは混んでいて座るどころではないが、二十分ほどで着くので、たいしたことはない。

 バスの窓から切り株のそろった田んぼがずっと広がっているのが見える。晩秋の静かな風景だ。一ヵ月ほど前までは黄金色に輝き、人々が忙しく立ち働いていたことが夢のように思える。今は人影ひとつない。春の田起こしが始まるまでの半年近くの休養に入っている。

 バスは十分ほど走り、花世たちが時々通ってくる床屋の前の停留所を過ぎた時、母が突然叫んだ。

「あっ、ぼた餅、置いて来ちゃった!」

 そういえば、四人もいるのに、誰も重箱を持っていない。母は大声で運転手に頼んだ。

「すまんけど、ここで停めてくんなさい。ぼた餅、取りに帰らんくちゃあ」

 バスは停留所でない所で停まった。

「さあ、お前たちもおりろ」

 母は財布から小銭を出し、四人分のバス代を払った。四人はあわててバスを降りた。急な状況に対応できずにぼうっとしている三人の子どもたちに、母は言い含めた。

「わしがぼた餅を取りに行っている間に、お前たちはゆっくり実家に向かえ。そのうち、追いつくから」

そう言って、母は走り出した。ぼた餅を置いてきた停留所まで三キロ強はある。そこを往復したら、七キロ近くになる。バスは一時間に一本あるくらいだから、母にはバスを利用する気は全く無い。第一、二回もバス賃を使うなど、締まり屋の母にとっては考えの外のことだ。

 子どもの三人は脳天気にぶらぶら歩き始めた。家から実家まで約六キロの道のりを通して歩き続けたことはないが、この辺は歩いたことがある。ここは山手に入りかけた集落だが、床屋も洋服屋も金物屋も、郵便局まである。暮れの大売り出しには時々来る。

 それに、もう少し行くと、大きな寺がある。ちょっとした名刹らしく、数年毎に大きな行事が催される。実家に帰った時、そこから寺の行事を見に来たことがある。ぎっしりと黒山のように集まった善男善女の中を、金銀を散りばめた豪華な袈裟を着た僧が何人もしずしずと歩いて本堂に入って行った。僧たちに陽射しが当たらないように従者が真っ赤な巨大なカラカサを高く掲げていた。その様がとてもえらぶって見えて、花世は不愉快だった。それに、こんな田舎にこんなに人が集まってくるというのが不思議だった。

 三人はとんぼを捕まえたり、寺の境内をのぞいたり、道べのコスモスを手折ったりしながらぶらぶらと歩き続けた。だんだん山に入って行くので、平地が狭くなり、段々畑や棚田になってきた。県道は山の中腹に沿って作られているから、片側は人家や山、もう片側は崖か坂になっている。

 正夫が叫んだ。

「あっ、蛇がいる!」

 二人は正夫の指さす方を見た。ずっと坂下に田んぼがあり、その畦に青大将が這っている。花世は蛇が嫌いなので、別に見たくもない。けれど、正夫は近くにあった棒を拾って枯れかかった雑草が生い茂った坂を下り始めた。友子も棒を見つけて正夫の後に続いた。花世は一人で待っているのも嫌なので、仕方なく二人の後を追った。

 普段、正夫はあまり男の子らしい遊びをあまりしないのだが、この時ばかりは他の男子と同じように蛇を見て興奮し、棒で叩いた。青大将は逃げようとするのだが、逃がさないように頭をなぐったりしている。友子も負けずに棒で突っ突いている。花世は気持ち悪いので、

(早く、二人とも止めないかなあ…)

と思いながら、少し離れた所で突っ立っていた。二人はなかなか止めない。花世は坂の途中に生えている柿の木を見つけた。胡麻が寄っていて甘柿のように見える。近くに人家はないから、採っても叱られないだろう。辺りを見回して古い棒を見つけ、柿の木に近づいた。柿の枝を叩くが、棒の長さが足りなくてとても実まで届かない。柿の木に登って採ろうと思い、登りかけた時、上の道から声がした。

「そんなとこで何してんだ?」

 母だった。もう、追いついたのだ。三人はバスから降りていくらも歩いていないのに。子どもたちはびっくりして、蛇のことも柿のことも忘れて坂をよじ登り、母のもとに走った。

 母の手には重箱の入った風呂敷包がしっかりとあった。三人はほっとした。七キロも歩いたのに、疲れも見せずに母は言った。

「蛇もそろそろ土の中にもぐるなあ」

「うん」

 三人はうなずいて何となく笑った。やっと四人揃って嬉しかったのだ。母もほっとしてゆったりと笑った。

 羊雲が、実家のある山の端までもこもこと続いている。四人は傾斜のある県道をゆっくり歩き出した。

 

 

   38 かまくら遊び

 

 花世はせっせせっせと雪穴を掘っている。花世が掘りだした雪を友子とカナちゃんが遠くに運んで捨てている。かまくらを作っているのだ。ルミちゃんは自分で、

「かまくら作って、その中でなんか食べよう!」

と言いだしたのに、五分も経たないうちに飽きてしまったようだ。シャベルを放り投げてどこかへ行ってしまったまま帰ってこない。

 花世たちは雪穴がだんだん大きくなってきたらおもしろくなったので、止められなくなった。今はまだ一人くらいしか入らないけれど、もっとどんどん掘ったらじきに三人は入れるだろう。

 今年の雪は早かった。十一月中は冷たいみぞれがときどき降っていただけだけれど、十二月に入ると、白い花びらのようなボタン雪がしんしんと降り出した。母家の大屋根からもドドドッと雪が滑り落ちるくらい降った。大屋根から一階のトタン屋根に落ちた雪は、人間がどかさないとなかなか落ちない。それで、この冬はもう二回も雪下ろしをした。もちろん、花世も友子も手伝った。

 花世の家の屋根の構造上、雪が一番たまる風呂場の窓の外は、雪下ろしの前に雪掘りをしなければならない。雪がたまって屋根と地面の雪がつながってしまっているので、その部分の雪を切り取って遠くに捨ててくる。それから屋根の庇までたまった雪をある程度掘ってどかさないと、雪下ろしさえできない。

 ぽんぽんと雪を下に落とす雪下ろしだけならまだいいのだけれど、北陸特有の湿った重い雪を重力に逆らって掘って持ち上げて運ぶのは、大変な重労働だ。半日もむきになってやっていると、体中が筋肉痛になり動けなくなるほどだ。

 この前の日曜日に花世も友子も雪掘りをしたため、腰が痛くて腰を曲げてあるくおばあさん歩きをしなければならなかった。けれど、一週間たったきょう、また雪がたまってもう屋根に届きそうになっている。

 きょうは雪国では珍しいほどの青空だ。雪がちかちかと銀色に反射してきれいだ。母に、

「雪掘りをやれ」

と言われないことをいいことに、かまくら作りをしているのだ。かまくらは、屋根から雪が落ちて斜めになっている雪の山を横にどんどん掘っていけばいい。屋根の下の雪は、固く詰っているからかまくら作りに合っている。足元の雪を掘って持ち上げては運ばなければならない雪掘りよりずっと楽だ。カナちゃんは一年生なのに姉のルミちゃんと違って黙々とよく働く。

 しばらくして、三人が入れるほどのかまくらができあがった。三人とも顔中に汗をかいている。もちろん、背中などにもだ。花世は手の甲で額の汗を拭きながら言った。

「じゃあ、なんか食い物を持って来ようか」

 友子もカナちゃんも嬉しそうに笑った。

「甘酒、のこっていたかなあ」

と言って、友子が雪坂を滑り下りて行った。花世はぎくっとした。けれど、友子の後を追う前にカナちゃんに言わなくては。

「作業所から藁束をできるだけ運んでね。その上に、ビニールと座布団を敷いたら濡れないし気持ちいいから」

 カナちゃんはお寺の子だ。お寺は石段を五十段も登らなければならない。カナちゃんをそんな家まで帰して何か持って来させるのはかわいそうなので、用を言い付けたのだ。カナちゃんはこくっとうなずいて友子と同じように雪坂を滑り下りて行った。けれど、一口に作業所といっても、冬はそこへ行くまでが大変だ。玄関前の雪道にいったん出てそこから枝のように雪踏みしてある作業所までの細い雪道を通るしかない。雪がない時のように最短距離は歩けない。そして、雪踏みしてあるとは言ってもへたに歩くと、ずぼっと埋って長靴に雪が入ってしまう。特に、利用率の少ない雪道は細心の注意で歩かないと、あとが大変だ。そこを藁束なんか持って運ぶのだ。しかし、子どもの世界でも『働かざるもの食うべからざる』なのである。

 花世も家に入り、台所に行って食い物を探した。先に来た友子が四角い鍋の蓋を開けて諦め悪そうにのぞきこんでいる。

「もう少しのこっていると思ったんだけれどな」

 そこに入っていた筈の甘酒がすっからかんになっている。母が米麹を買い、蒸した米と一緒に炬燵の中で発酵させて作った甘酒の元だ。甘酒作り専用の四角い鍋で一冬に二回ほど作る。家族で飲む甘酒は、甘酒の元に水を足して沸してから飲むのだけれど、濃くてどろどろした甘酒の元を舐めてもかなりいける。強烈な甘さがいいのだ。

 今朝、花世が残っていた甘酒の元をこっそりと、(もう一口だけ、もう一口だけ)と思いながら全部舐めてしまったのだ。花世はいつまでも鍋をのぞきこんでいる友子の気を紛らわせたかった。

「友子、戸棚に菓子が入ってなかったけ?」

「ん?」

「さがしてみよう!」

「うん」

 ある筈のない菓子を、花世は一生懸命さがすふりをした。友子は気のないようすでさがしていたが、いつまでも探し続けている花世に言った。

「つけ菜でいいよ、ねえちゃん」

 花世はほっとしてさも残念そうに、

「そっか」

と言った。そして、戸棚から昼食の食べ残しのたくあんと漬け菜を取り出した。友子にせんべい座布団を三枚持たせ、花世は漬物が入った皿とビニールを持って外に出た。

 かまくらのある雪坂を登ろうとした時、花世の目に梅の木の下の藁にょうが見えた。

「そうだ!」

 花世は秋の終わりに隠しておいたものを思い出した。

「友子、これ持ってって!」

 花世は皿とビニールを友子に押しつけようとした。けれど、二年生の友子は雪坂で三枚の座布団だけであっぷあっぷしている。それで、花世は雪の上に置いて藁にょうに向かった。藁にょうまでは普段用がないので雪道がついていない。花世はずずずっと埋ってしまわないように一足毎に四・五度踏み固めながら慎重に進んだ。たった数メートル先の藁にょうまでけっこう時間がかかってしまった。

(確か、あそこに…)

 花世は記憶していた藁にょうのへこんだ部分に片手を突っ込んだ。藁ではないぼてっとした手ごたえがあった。つぶさないようにそっとつかんで取り出した。

 透明がかった濃い朱色に色づいた熟し柿が一つ出て来た。ここまで熟すとほっぺたが落ちるほど甘く、ぽたぽたした舌触りが逸品のうまさの筈だ。ただし、一口かじった跡がある。花世だ。

 晩秋の頃、花世は腹を空かせて学校から帰ってきた。蒸かし芋も何もない。庭にたくさん生っていた甘柿もほとんど食べつくした。渋柿だけは残っていた。いい色合いの渋柿を見て、

(もしかして、食べられないこともないかな)

と思い、もいでかじってみたのだが、やはりまだ渋みが強すぎたのですぐあきらめた。以前、すごく腹が空いていた時に渋柿を無理して食べ、ひどい便秘になったことがあるからだ。その時は、人に言えない苦労をしてウンコを出した。けれど、一口かじった渋柿を捨てるのももったいないので、側の藁にょうに突っ込んで置いた。それが一カ月ほどでこんなにうまそうに変身した。

 花世はいつか一人で食べるつもりだったけれど、黙々と雪運びをしていた友子とカナちゃんにも分けてあげようと思った。それで、ポケットに入っていた新聞紙に包みそっとポケットに入れた。

 また注意深く来た時の足跡をたどりながらもどった。

 かまくらにはカナちゃんが運んだ藁束の上に、友子がビニールを敷いているところだった。漬物もちゃんと運んである。花世は、

「あとで、いい物をあげるからね」

と言いながらせんべい座布団を敷いた。友子とカナちゃんは「?」という顔をしたが、特に聞き直しもしなかった。

 三人は雪穴の中でくっつき合って座り、お互いの顔を見合った。こんなにちゃんとした大きいかまくらを作ったのは初めてなので、三人は嬉しくて自然ににやりと笑い合ってしまった。

 かまくら作りはかなりの力仕事でもあるので、三人とも猛烈に腹がすいてきた。花世は漬物の皿を真ん中に置いた。

「さて、食べようよ」

 三人一斉に手をのばし、食べ始めた。

 ポリポリポリ…

 シャキシャキシャキ…

 残り物の漬物でもこういうところで食べると、とてもうまい。皿はあっという間に空になった。けれど、まだまだお腹には隙間がある。花世はとっておきの熟し柿をポケットから取り出そうとした。

 その時、青空をバックに雪穴の横からぬおっと顔をのぞかせた者がある。にやりとずるがしこい子鬼のように笑ったのは、ルミちゃんだ。陽が八重歯にあたってきらきら光っている。花世は憎たらしくなった。

(ろくに雪運びさえしてないのに、都合のいい時だけ現れちゃってさ)

 花世は思いきりルミちゃんに仏頂面をした。そして、

(熟し柿はルミちゃんがいない時に出そう)と決心した。

 けれど、ルミちゃんは花世の仏頂面なんかまるで気にしないで愉快そうに三人の前に両手を突き出した。なんと、そこにはミカンと飴玉とビスケットが乗っていた。

「キャア、すごい!」

 友子とカナちゃんは歓声を上げた。花世の力みが一挙に消えてしまった。花世はつくづく、(ルミちゃんにはかなわない)と思った。

 三人は詰め合ってルミちゃんの座るところを作った。ルミちゃんは当然のようにドスンと座った。

 ミカンは一個しかなかったけれど、ルミちゃんは惜しげもなく四等分してみんなに分けた。飴玉とビスケットは一個ずつあった。四人はグフフフと満足そうに笑いながら出所不明のルミちゃんの戦利品をちびちび味わった。

 花世は、(熟し柿は、またいつか四人で食べることにしよう)と思いながら甘い飴玉をほろ苦く口の中で転がした。

 

 

   39 元旦の朝

 

 そこら中、雪がすっぽりとおおっている。陽も出ていない。

 花世は雪踏みを言い付かったので、かんじきを履いて外に出た。元旦だからといって特別空気が新鮮なわけでもないが、なんとなく気分が新しい。花世は、

(四月から五年生になるんだな。なんか、いいことがあるかな?)

と思った。けれど、花世たちの学年だけ一クラスなので、クラス替えはないし、担任についてもあまり興味を持っていないので、考えることがない。花世は相変わらず学校ではしゃべっていないが、それで困ることもない。つまり、年が新しくなっても、花世に何か特別いいことが起こるわけでなさそうである。花世はひたすら雪踏みに励むことにした。

 きのうの夜は、しんしんとぼたん雪が降り続いたからそこら中真っ白だ。音もない。

 花世は丸い輪のついたかんじきで一・二・一・二とリズムをとりながら歩き始めた。右足左足とゆっくり力を入れて固く踏まないと、長靴で歩いた時にずぼっと埋ってしまう。木戸先に向かいながら、まず、鶏小屋への道を踏んだ。ギシッギシッと雪がうめいているような音がする。けっこう気持ちがいい。

 雪道は平地よりかなり高いので、鶏小屋の戸口の敷居と一メートル以上の段差ができている。だから、戸口のまわりは広く踏んで階段を作らなければならない。ギシッギシッと一生懸命踏んでいると、汗ばんでくる。

 鶏小屋が終わって、今度は作業所だ。ここには大根や芋や炭などが置いてある。一日一回くらいしか入らないけれど、踏まないわけにいかない。

 二十分ほどかかって作業所への雪道作りも終わったので、木戸先に向かった。

 一・二・一・二と踏んで行くうちに奥の家の父ちゃんがやって来た。百合ちゃんの父ちゃんだ。公民館に新聞を取りに行くんだろう。冬になると、雪のため新聞配達は大変なので、新聞によっては公民館にまとめて届けてあるのだ。花世の家の新聞は新聞屋さんが届けてくれるけれど、奥の家の父ちゃんは毎朝公民館に取りに行っている。

 父ちゃんと花世の目が合った。けれど、二人はそのまま自分の目的の仕事を続けた。この村では大人と子どもが会っても、挨拶する習慣はほとんどない。

 ところが、なぜか、百合ちゃんの父ちゃんは少し行ったところでバタリと倒れた。そして、どういうわけか、起き上がらない。花世は変だなと思ったけれど、百合ちゃんの父ちゃんとは話したことがないので、そのまま玄関に向かって二度目の雪踏みを続けた。木戸先から玄関までが一番よく通るからしっかりと踏んでおかなければならないのだ。一・二・一・二と踏み続け、玄関までたどり着いた。その時、女の人の声がした。

「あれ、奥の家の父ちゃんでねえか。どしたの?」

 少しして、女の人が絶叫した。

「父ちゃ〜ん! 父ちゃ〜ん!」

 花世はぞくっとして慌てて玄関に入った。

 

 

 奥の家の父ちゃんは死んだ。脳溢血だった。

 奥の家は元旦だというのに、慌ただしく葬式の準備に取りかからなくてはならなかった。

 花世は雑煮を食べながら思った。

(あの時、百合ちゃんの父ちゃんに近づかなくてよかった。死んだ顔なんか見たら、一生忘れられないもん。おっかなくて、夜便所に行けなくなってしまうもん)

 そして、百合ちゃんのことを思うと、切なくなった。

(父ちゃんが死んじゃってどうなるんだろう。田んぼの仕事も勉強も…)

 百姓の仕事は力仕事の重労働なので、大黒柱の父ちゃんがいないとどうにもならない。花世は毎日両親が忙しく立ち働く姿を目の当たりにしているし、父から勉強もよく教わっている。だから、父がこの世からいなくなるなどということは、恐ろしくて考えられない。

 百合ちゃんは男の子のようにさっぱりとした気性だけど、まだ友子と同じたった二年生だ。父ちゃんが死んだ後はどうなっていくんだろう。百合ちゃんちの突然の不幸に、花世の家族みんなが暗い顔している。人事ではないからだ。

 せっかくの正月の雑煮が機械的に喉を通っていく。花世たちは奥の家の不運を重く感じながら雑煮を食べ続けた。

 

 

   40 花合わせ

 

 パシッ!

 花世は花札の山からめくったカードを「萩の猪」にぶつけた。

 違った。残念ながら、それは「萩」ではなく「あやめの青たん」だった。けれど、それで花世の花札は三枚の「青たん」がそろった。「青たん」の役は二十点ずつもらえる。しかし、問題は「萩の猪」が誰にいくかだ。正夫にいったら、猪鹿蝶がそろい、猪が山荒らしをして青たんの役がパーになってしまう。「青たん」をして合計四十点をもらうより、花世は「猪鹿蝶」の役に払う十五点の方が惜しかった。花世は目をらんらんとさせて猪の行方を見守った。

 猪は、次の友子にもいかず、最後の正夫にいってしまった。正夫に運がついたのだ。

 花世は「猪鹿蝶」の役をした正夫に十五点を渡し、残りの点数を数えた。七十点だ。八十点だと勝ち負けなしだが、七十点だと飴を二つ出さなければならない。隣の友子は六十五点だから三つ出している。今回は「猪鹿蝶」の役がついた正夫が圧倒的に勝った。

 正夫は親になり、ほくほく顔で花札を同じ花同士で対になっている花札を混ぜ合わせた。花世と友子は炬燵の席を変った。今度花世は父と組む。友子は母と一緒だ。この花札は三組で戦うから両親とは順番に組んでいる。ばあちゃんは隣の寝間でもう寝ている。正月三日のきょうは持病の喘息の咳も出ず楽なようだ。

 花世は喜んだ。父と一緒だと勝つことが多い。しかし、手元にいくらいい札がきても、真ん中に置かれた花札の山からうまく合う札が出てくれないと負けてしまう。相手の札を想像し、手元の札でどんな役ができそうかを考えながら合う札がない時は捨てていく。単純で運の比重も大きいが、小学生にはちょうどいいギャンブルだ。しかも、花世の家では去年花札を買ったばかりで、まだそれほど遊び慣れていない。両親がついてくれると、抜かりなく進めることができる。

 初めに、花札を持ってお寺に遊びに来たのはマリちゃんだった。それまで普通のカルタしかやったことがないので、きっちりした作りの小型の花札は驚きだった。絵がきれいで役もいろいろあり、普通のカルタよりギャンブル性がずっと高く、花世たちは花札の魅力にとりつかれた。

 すぐルミちゃんも花札を買ってもらった。マリちゃんのと同じで百七十円だと言っていた。安い金額ではない。雑誌が二冊買える。

 人の家で花札をやっているうちに、花世は自分の家でも花札をやりたくてたまらなくなった。花世と友子はせがんでせがんでやっと買ってもらった。花世や友子が物をせがむというのは珍しかった。「本、買って!」ということはあっても、遊び道具を買ってほしいと言ったことはなかった。言っても買ってもらえないからだったかも知れないが。

 農家には秋に米を供出した時以外現金は入ってこない。普段の財布はとても軽いということをよく見ている。ところが、去年の正月のことだ。どういう風の吹き回しか、母が花世たちに百円ずつお年玉をくれた。生まれて初めてお年玉というものを手にし、花世はきょとんとするばかりで、嬉しさの実感が湧かなかった。ぼうっと百円玉をながめている花世と友子に母が言った。

「特に欲しいものがないなら、預っておこうか」

 結局、花世と友子の手に百円玉が乗っかっていたのは、四・五分だった。正夫は百円玉を持ってすぐにどこかに行ってしまったので、無事だった。しかし、お年玉を取り上げられても花世は、(しまった)とも思わなかった。物を買って楽しむという習慣があまりなかったからかも知れない。

 それから大分たってマリちゃんやルミちゃんの花札を見せつけられた。あんな楽しいカードで家でも遊びたいという思いが膨れ上がった。それで、ずいぶん前のお年玉のことを思いだし、母に強くせがんだのだ。母は、花世たちと厳しい取り決めを交わしてからからやっと買ってくれた。 つまり、花札で遊ぶんでいいのは正月の三日間、それも夜の十二時までということで。

 なぜかその花札は三百円もした。しかも絵がまずい。猪とか鹿とか桜もみんな変な形でルミちゃんたちの花札のようにすっきりと形よく描かれていない。けれど、桜や月など二十点のカードには金銀が塗られているし、見ようによっては絵も芸術的と言えなくもない。だけど、マリちゃんは花世の家の花札をさんざんバカにした。

「変なのっ! 三百円もしたなんてウソみたい」

 だから、花世はよそに家には持っていかないでもっぱら家で楽しむことにした。特に、父や母と組んでやるとおもしろい。まるで真剣試合をしているみたいで、ぎらぎらと燃えてしまう。

 父と組んだ勝負は誰も役をしなかったので、点数のやり取りはなかった。花世は八十五点だったので、飴を一個だけ友子からもらった。時計を見たら、ちょうど十二時をまわったところだった。除夜の鐘も鳴り響いている。もう止めなければならない。来年の正月までお預けだ。花世と友子の目が合った。二人の声がそろった。

「もう一回だけ、もう一回だけやらせて!」

 父と母は眉をしかめた。けれど、花世は勝って親になったのでどうしてもカードを配りたかった。

「頼むからもう一回だけ。あしたは雪踏みと雪掘りをするから!」

 父と母の頬がゆるんだ。花世は逃さず花札をカシャカシャと音高く混ぜた。その時、ふと百合ちゃんのことが思い浮かんだ。

(あしたは父ちゃんの葬式だな。正月もカルタどころではなかっただろうな)

と思ったが、花世は急いで百合ちゃんのことをふっ切り、花札を威勢よく配り始めた。

 

 

   41 吹雪の中

 

 しんしんと雪が降り積もっている。

 花世は学校からの帰り道だ。空を見上げると、重い灰色の空から無数の灰の塵が花世めがけて落ちてくるようだ。灰の塵はほんの近くまでおりてくると、やっと白く変る。

 きょうはストーブ当番だったので、いつもより帰りが遅くなってしまった。だるまストーブの灰の後始末はけっこう時間がかかる。それに、明日の分の石炭や火付けのマツボックリも石炭小屋から運んでおかなければならなかった。

 降りしきる雪道を一人黙々歩いていると、向こうから男の人がやって来た。分家のおとっちゃんだ。おとっちゃんは花世を見とめると言った。

「ばあちゃんが死ぬぞ。早く帰れ」

(えっ!)

 おとっちゃんはまた忙しそうに行ってしまった。葬式の準備だろうか。花世は、

(どうして? このごろは元気だったのに…)

と思いながら雪道を急いだ。

 家につくと、大勢の大人がいた。近所や親戚の人達だ。

 普段は暗い照明しかつかないばあちゃんの寝間に煌々と明るい電気がともっていた。父や男の大人たちがばあちゃんを囲んでいる。その真ん中にばあちゃんが口を開け、目を閉じていた。喘息もちのばあちゃんはもう喉をぜいぜい言わせてはいなかったが、いくぶん眉をしかめ、少し苦しそうだ。枕元には蜜柑の缶詰や水差しがおいてある。

(もう末期の水も飲めない状態なのだろうか)

などと思いながら、花世は茶の間の隅に座り込んだ。花世にはばあちゃんの苦しい顔しか思い出せない。

 冬の真夜中、咳が出て眠れずマントを羽織って囲炉裏にかぶさるようにしながら火を炊いて湯を沸している姿。

 咳が止まらず、布団の中で泣いているばあちゃんの声。

 ある時、花世は母から二つ飴をもらった。何気なくばあちゃんに一つやった。その飴はばあちゃんの喉をなめらかにうるおしたらしく非常に喜んだ。そして、

「花世はやさしい子だ。花世はやさしい子だ」

と繰り返した。その後、時々花世に金を渡して飴を買ってくるように頼んだ。自分でも舐めるが、大半は花世にくれた。ところが、あろうことか、花世はばあちゃんのお金の在りかを知り、なけなしのばあちゃんのお金を盗んでしまったことがある。花世は、ばあちゃんが今生の世界から去ろうとしている時、苦い想いに浸らざるを得なかった。

 

 夜、ばあちゃんは息を引き取った。花世はその知らせを言い付かった。

「下の家五軒に知らせて来い」

 普段は夜出かけるなどおっかなくてできないが、その日はそんなことを言っていられなかった。花世はマントを羽織って友子と出かけた。

 五軒は学校の近くまで行かなければならない。雪がずっと降り続いているので、こんな時間になると家々の木戸先からは雪踏みをしていないのと同じくらいにずぶずぶ長靴が埋ってしまう。花世と友子は黙って雪踏みをしながら五軒にばあちゃんの死を知らせた。

 用を終えて県道にもどった。さすがに県道は歩きやすい。ほっとしながら二人は相変わらず吹雪が舞っている中、家に急いだ。

 向こうから誰かやって来る。大人の二人連れなので、花世は雪道の端によけた。二人が通り過ぎる時、何気なしに顔を見上げてはっとした。

 ちょうど街灯に照されたその顔は、この世の者とは思われないほど美しかった。きりっと結んだ真っ赤な唇と向かい風をきっとにらみすえる涼やかな二重。二人が二人ともそれぞれに美しくて花世は息を呑んだ。

 友子に二人を見たかどうか聞きもせず、花世は夢の中を歩いている気分で家に帰った。

 

 葬式が終わって花世は学校へ行った。

 休み時間、花世は運動場のはじっこにいた。花世は学校では遊び仲間に入らない。子どもたちは、冬はたいがい外ではなく中の運動場で遊んでいる。普段学校を休んだことのない花世が、葬式のために一日休んだためかどうか、マリちゃんが近づいてきた。

「ばあちゃん、死んじゃってさびしいね」

 マリちゃんらしからぬ優しい言葉をかけられて花世はどぎまぎしてしまった。そして、思ってもいない言葉が口から出てしまった。

「ううん。ばあちゃんの分、炭も減らなくなるからいいんだ」

 どうしてそんな冷酷なことを言ってしまったのか、花世はわからなかった。そして、そのことをずっと悔やみ続けた。

 

 

   42 しみわたり

 

 夜明け方、特別に冷え込んだ。

 そして、今朝は太陽が雪上に燦然と光をまき散らしている。

 ランドセルを背負った花世たちが、石ころが見え始めた道ではなく田んぼの雪の上を歩いている。しみわたりをしているのだ。

 三月が間近くなってくると、しみわたりの絶好の機会がある。普段は道しか歩けないけれど、しみわたりは雪さえあればどこへでも行ける。田んぼはもちろん小川の上だって大丈夫だ。日中の陽射しに照され、表面ががさがさになった雪がかちんかちんに冷えて凍っているので、全く滑らないし埋りもしない。

 花世はキリストが水上を歩いているような気分でまだ一メートル以上もある雪の上を進んでいる。雪を考えないと、田んぼや小川の上を一メートル以上も浮かんでいることになるので、おもしろくてたまらない。一年に数回しかないチャンスだ。しかも、今朝の用に固く引き締まっているのも珍しい。これならどこまででも行けそうだ。

 少し離れた所で友子が百合ちゃんとカナちゃんの三人で影踏みをしている。きらきら光った雪の上にできたくっきりとした黒い影は生きているようにすばやく動いたり形を変えたりしている。

 この正月に父ちゃんを亡くした百合ちゃんも屈託なく笑っている。中学を卒業して以来ずっと田んぼを手伝っている十八才の兄ちゃんが父ちゃん代わりのようにますます一生懸命に働いている。ばあちゃんもまだ元気でおさんどんはできるし、近くの村にいる親戚の人達も大田植えとかに来てくれるので、仕事の手はなんとかなるようなのだ。

 雪原のずっと向こうに遠くの部落が見える。花世たちは行ったことがない。地平線上にあるその家々に夕日が沈む。特に、秋、稲運びなどをしながら見た夕日がみごとだった。太陽が率いる雲を黄金色や錦色に輝かせてゆっくりゆっくり地平線に下りていく様は、言葉にできないほどの美しさだった。だから、その地平線上の家々は花世にとって特別に意味のあるファンタジックな夕日の家なのだ。

 そして、きょうはどういう光線の具合かその集落がとても間近に見えている。少しだけがんばって歩くと、行けてしまいそうな気がする。普段ならずっと回り道しかないけれど、きょうはなにしろまっすぐ直線距離を行ける。

 雪上でランドセルを背負ったまま側転なんかしていたルミちゃんが寄ってきた。花世がぼうっと眺めている先を見てにやりと笑った。花世はうなずいた。ルミちゃんはずんずんと歩き出した。花世もだ。

 ルミちゃんは花世も頭半分くらい小さいのに足は速い。花世の方が遅れ気味になるほどだ。

 ツァクツァクツァク…

 しみ渡りの雪は金属音に近い音がする。

 ツァクツァクツァク…

 影踏みをしている友子たちの姿は、もうずっと遠くになった。

 ツァクツァクツァク…

 ルミちゃんも花世も黙ってまばゆい宝石のような氷の上を歩き続けた。

 ツァクツァクツァク…

 

 全く普段と違う行動エリアの雪上を二人は歩き続けた。土手も畑も簡単に横切って。

 しみ渡りは、雪国の人間に許された特別なチャンスだ。重力を考えないでいい。二人はいい気分で歩き続けた。

 ところが、歩いても歩いても地平線上の家に到着しない。すぐ近くに見えるのに…。花世は内心密かに心配し始めていた。まわりにランドセルを背負った子どもなどもう一人もいない。もちろん、大人の姿もない。朝日に煌めく雪原上に息をしているのは、ルミちゃんと二人だけだ。

 とっくに学校の始業時刻も過ぎている感じがする。太陽が山の端から大分上がっているもの。

 けれど、ルミちゃんは花世のように心配しているふうもなく、何かに取りつかれたようにただ地平線上の家をめざしている。花世は一人で学校に引き返す勇気はないので、ルミちゃんについて行くしかなかった。

 ようやく、目前にその家が見えてきた。と思ったら、すぐ前に大川がとうとうと流れている。花世は、

(いくらルミちゃんでももう引き返すだろう)

と期待した。けれど、ルミちゃんはきょろきょろ見渡して、ずっと遠くにある橋に向かった。花世はため息をついて追いかけた。

 

 二人はめざした家の前に立っていた。足が棒のように固くなっている。

 そして、美しい夕日の家である筈の家が、どこにでもある普通の百姓家だった。母家の板壁に吊り下げられた大根の葉が、茶色に縮んでカラカラと風に揺られている。わびしくてどっと力が抜けてしまった。

 花世は疲れて重い頭を学校の方に向けた。ずうっと遠くを見はるかすと、学校の立っている丘が小さく小さく見えた。建物などとても見えない。今から歩いてどのくらいでたどり着くだろうか。しかも陽も高くなって雪が柔らかくなりつつある。もう道を歩くしかない。花世はしゃがんでしまいたくなった。

 ルミちゃんは側の雪を掘って一口食べると、ぷらぷら学校に向かって歩き出した。さっきのように取りつかれた感じは全くなくなって、のんきな顔だ。遅刻を心配している様子もない。

 花世もまわりの子も、普段学校に遅刻することなどほとんどない。だから、どうやってしんと静まり返った授業中の教室へ入ったらいいか、想像がつかない。

 花世はただ(困った、困った!)と思いながら歩き続けた。

 

 

   43 蕗採り

 

 重いいぶし銀のような空が広がっている。

 雪は大地にしがみつくように残っているが、田んぼはほんの所々黒い土をのぞかせ始めてきた。

 花世と友子は長靴を履いて大川の土手まで蕗採りに出た。道もまだほとんど雪におおわれているけれど、たまに土が黒い顔をのぞかせている所があると、嬉しくてそこを歩く。ぐちゃっとした泥の感触が久しぶりでおもしろい。春がそこまで来ている。とはいっても、日蔭や吹きだまりなどはまだ相当雪が深い。でも、二人はビニール袋をポケットに突っ込んで蕗採りにやってきた。

 まわりに人影はない。外での農作業はまだ始まっていない。

 ゆるくカーブした堤防に着いた。雪がすっかり溶けて暖かくなると、キンボイが生えて子どもたちのお八つ代わりになる。田植え時には堤防の上でこびり(小昼)を食べる。土手の青い草はヤギや牛たちの格好の餌になる。土手沿いの桜の木には真っ黒で甘いさくらんぼが生る。堤防は大人にも子どもにも大事で楽しい生活の場だ。

 けれど、今はまだ雪の下でじっと休んでいる。

 いや、もう恵を授け始めているのだ。

 花世はめざとくほんのわずか出ている黒土を見つけた。ザクザクと雪を踏んで近づき、じっと見た。濡れた枯草が盛り上がっている。花世は素手で枯草と土をそっとどかした。

 出てきた、出てきた。丸くて固い蕗の蕾が。泥にまみれて土団子のようだ。けど、先っぽは黄緑色の葉が固くきっちりと折り畳まれていて正真正銘の蕗だ。花世は今年初めての蕗を大事にビニール袋に入れた。そして、またすぐ近くの雪をガリガリ掘ってどかし、地面を出した。そこをジャリジャリ掘っていくと、また丸い土団子が出てきた。さっきより小粒だけれど、蕗には違いない。蕗は根でつながっているから、一つ見つけると近くでいくつか収穫できることが多い。友子も熱心に雪と土をじゃりじゃり掘っている。

 しばらくの間、二人は無言で早春の土手を掘り続けた。土だらけの蕗が数十個袋にたまった。指は土まみれになり、冷たさもわからなくなるほど感覚がなくなってしまった。

 こんなに苦労して採った蕗を家に持って帰っても、母が蕗味噌を作ってくれるとは限らない。たまに、手のあいた時に作るくらいだ。しかも、蕗味噌はほろ苦いので子どもの舌に心地良いものでもない。それでも、花世は蕗採りが大好きだから、春先になると友子を連れては堤防にやってくる。春の息吹きを感じられるからだろうか。

 堤防をぐるっとひとまわりし、大川を挟んで隣部落が目の前に見えてきた。ここまで来ると、蕗採りの儀式は終わりだ。二人は中身のつまったビニール袋を下げ、家の方に向きを変えた。

 歩き出すと、友子が嬉しそうに花世を見た。

「ねえ、家の話をしようよ」

 これを待っていたという顔である。花世は蕗採りのためにずっとしゃがんでいて痛くなった腰を伸ばすと、気持ちも伸び伸びした。花世の頭に自分の家のような茅葺きなんかではない立派なニ階建ての家が現れた。

「マリちゃん家よりずっと大きくて新しいんだよ。子ども部屋だってあるの。そこにはベッドがあってフリルのついたカーテンで囲まれているんだよ」

 花世は雑誌で見たことのある外国の豪華な部屋を思い出しながら言った。友子が心配そうに聞いた。

「ベッドはいくつあるの?」

 友子の心配は花世にすぐ通じた。去年の夏、どういう風の吹き回しか、しまり屋の母がコーヒーカップを買ってきた。それもたった二つ。家族は七人だというのに。花世は母におそるおそる聞いた。

「二つのカップで家族みんながどうやってコーヒーを飲むの?」

 母は事もなげに言った。

「順番に飲むのさ」

「……」

 コーヒーとかお茶はみんながそろって飲むからおいしいのにと、花世は思うのだが、超しまり屋の母にとっては無用の情緒なのかも知れない。

 だから、花世は友子に言い聞かせた。

「ちゃんとみんなの分のベッドがあるんだよ。もちろん、子ども部屋だって、一人一室ずつだよ」

「ほんと!」

「もう長持の上になんか寝なくていいんだよ」

 花世はずっとベッドに憧れている。それで、寝間の隅に置いてある一畳くらいの大きさの長持の上に寝たことがあるのだ。長持の蓋は中央が盛り上がっているから、夜中に十回以上も転げ落ちた。

「一人一人の勉強机もあるよ。スタンドと鉛筆削りもついているし、引き出しの中にはノートやきれいな鉛筆がたくさん入っているんだ」

「漫画本は?」

「本はね、ちゃんと図書室にあるの。それも漫画専門の図書室なの。お話や勉強の本の図書室はちゃんと別々に一個ずつあるし」

「三つも!」

「どの図書室も床から天井までびっしり本がつまっていて、一日中読んでいてもしかられないの」

「『少女』はどこ?」

「雑誌は漫画本の部屋。本屋さんが毎月新刊号を届けてくれて、古くなったのは倉庫にしまうの。米蔵とは別にでっかい本の倉庫があるんだから」

「他にどんな部屋があるの」

「図書室の隣は、映画室ね。寝転んでもいいようにふかふかのじゅうたんが敷いてあって、ディズニーのアニメをいつでも見られるんだよ」

「『白雪姫』はあるかなあ」

「もちろん。続・『白雪姫』もあるんだ。白雪姫と王子が結婚した後海底探検に出かけるの。七回くらい死にそうになるけれど、最後には沈没した難破船の中から世にも不思議な魔女の壷を見つけるの」

「それで二人はどうするの」

「世界中のふしあわせな人間たちを救ってやるの」

「くふふふ…」

 二年生の友子は花世の他愛ない作り話を喜び、目も口も糸のように細くして笑った。

「映画室の隣は音楽室。白いグランドピアノがあって子どもが弾いても怒られないの。明るい部屋で小鳥が飛び込んでくるくらい気持ちのいい部屋なんだよ」

 花世は学校の暗くて陰気な音楽室が嫌いだった。けれど、花世のイメージは無意識のうちに身近な学校が土台になっていることに気付かなかった。

「二階の一番奥は家庭科室。大きな鍋がいくつもあって、お客さんが百人来ても大丈夫。そこでパーティもできちゃう」

 早春だというのに北陸特有のどんよりとした空の下、二人は楽しい空想をふくらませながら家に向かった。

 

 

   44 雪解け水

 

 春休みに入ってすぐ雨が降り続いた。これでまた田んぼの雪が消える。

 雨が降り止むのを待ってルミちゃんが木戸先から飛び込んできた。

「ネコヤナギ、採りにいこうよ!」

 願ってもないことだ。友子が百合ちゃん家に行ってしまったので、花世は一人で退屈していたから。

 明るい春の陽射しを浴び二人はぴょんぴょん弾みながら県道に出た。県道を横切ると田んぼ道だ。田んぼは地平線まで続いている。

 集落の近くの田んぼからは煙が立ち上っている。籾殻をもやしているのだ。灰になる直前の黒くなった籾殻は、苗代のいい苗床になる。黒い籾殻の上に冬の間大事に保管してきた種籾を蒔く。だから、今頃から雨の降らない時は家の庭でも籾殻を燃やし始める。円錐形の山状に積まれた籾殻のてっぺんに煙突の筒を立てて燃やす。中から順に燃えてくるのだが、外側も燃えて黒ずんできたら、まだ燃えていない籾殻をかけて灰にならないようむらなく燃やすのがコツだ。籾殻燃やしは、この辺りの苗代作り前の風物詩でもある。

 花世は籾殻が灰になってしまわないようによく見張りを言い付かるのだが、きょうは大丈夫だ。

 二人は走って走って走り続けて大川の土手に着いた。

 土手を駆け降り、枯れた葦をバキバキ踏みしだいて岸辺に出た。岸辺からネコヤナギが川面に身を乗り出すようにしてふわふわの銀色の花を咲かせている。すぐ側まで雪解け水がうねって流れている。夏より水位が一メートルくらい高い。暗く濁った水面はぶきみで底が知れない。落ちたら、大人だって這い上がるのは難しそうだ。

 花世は怖いので岸辺から離れているネコヤナギを採った。けれど、ルミちゃんは平気で岸辺から身を乗り出してネコヤナギを折っている。

「危ないよ、ルミちゃん。雨降り後だから足元がずずっと崩れるよ!」

「平気、平気」

 ルミちゃんは全く気にしない。いくらルミちゃんが運動神経がよくても、てっぱずり(うっかり滑ること)ということがあるではないか。ここには自分たち二人しかいないので、花世は不安になってきた。ルミちゃんが花世の言うことを聞きそうもないので、こう言った。

「橋の方へ行こうか。あそこにはもっと大きくてきれいなネコヤナギがあったよ。この前、蕗採りに来た時に目をつけといたんだ」

 この場しのぎの口から出任せだったけれど、ルミちゃんはこっちを向いた。

「よしっ!」

 そして、あんなに危ない思いをして採ったネコヤナギを惜しげもなく放り投げてこっちにやって来た。花世は、(いいのがなかったら、どうしよう)と心配だったけれど、橋に向かった。

 大川の橋の袂もゴーゴーと雪解け水が渦を巻いて流れている。夏はこの辺で泳ぐのだけれど、今は水位も上がっていて怖いほどだ。

 少し離れた所にみごとなネコヤナギが咲いている。山猫のしっぽのように威勢のいい太い銀色の房が水面に揺れている。ルミちゃんは走り寄り、

「ウオオッ!」

と、獣のような声を上げて採り始めた。花世は出任せ通りのいいネコヤナギがあったことに喜んでいられなかった。

「ルミちゃん、もっと手前のを折ったらどう? 落ちちゃうよ!」

 けれど、ルミちゃんは花世の言うことなんかまるで耳に入らないようだ。ネコヤナゴの太い幹につかまり、身をぐうんと迫り出し、片手で川面に突き出た枝をグキッと折った。その瞬間、ルミちゃんの両足がずずっと滑った。

「ギャァ〜」

 叫んだのは花世だ。ルミちゃんは片足が川に落ちたけれど、もう一方の足を幹にからめて踏みとどまった。それから、「よいしょっ」と掛け声をかけ、体全体を猫のようにしなやかに振り、反動で陸にもどった。そして、全くこりないでまた川面に身を乗り出した。花世は怒鳴った。

「もうっ! 落ちても知らないからね。助けてやらないよ!」

 花世はルミちゃんを見てるとはらはらするので、橋の袂へ行った。そこに突き出ているコンクリートの上に乗った。ここなら崩れことも滑ることもなく安全だ。花世はほっとして大川を見た。雪解け水は上流から大きな枯れ木や腐った板なんかをゆっさゆっさと運んでくる。大川は巨大な大蛇のようにうねりながら一瞬もとどまることがない。花世は川の猛々しいパワーに圧倒され、ふと真下を見た。

 ちょうどそこには大きな渦が巻いていた。ぐるぐるとでっかいすり鉢状に回っている。こんなにすごい渦巻きを見るのは初めてなので、花世は魅せられてしまった。そして、あっという間に目が回った。花世は渦巻きに吸い寄せられるように一声も上げることなく、落ちていった。

 

 花世は落ちた瞬間のことも、濁流に流された時のことも全く記憶に残らなかった。花世が落ちていくのを見たルミちゃんが、大声をあげながら助けをよんで走ったそうだ。運のいいことに、近くの川下の洗い場で樽を洗っているおじさんがいた。

 そのおじさんに助けてもらったお陰で、花世は無事五年生に進級することができたのだった。

 

 

45 授業参観

 

 陽のあたらない山辺の雪もようやく消えた。明るい若葉が日毎に濃さを増している。

 花世は五年生に進級した。と言っても、先生もクラスも同じで変り映えがしない。この時代、五十人学級制で花世たちはぴったり五十人しかいないのだから仕方がない。

 よその学年は三十人足らずで二クラスある。だから、花世たちの学年は担任としては割りが悪い。松木先生はそれを三・四・五年と三年間もの間一人で引き続き持ってくれているわけだ。

 そしてきょうは、五年になって初めての授業参観だ。松木先生は親たちが来る前にこう言った。

「お前たち。五年生にもなったんだから、親に今までと違うところを見せてやろうじゃあないか」

 坊主頭の腕白どもとおかっぱ頭の女の子たちは、松木先生が何を言い出すのかと耳をそばだてた。松木先生はおもむろに言った。

「お前たちは普段決まった奴しか手を挙げない。親は自分の子が手を挙げてないとつまらんもんだ。それでだな」

 花世は自分も手を挙げたことがないので、小さくなった。

「答えが分って手を挙げる人はパー、分らない人はグーにしておけ。グーは指名しないから」

 今まで張り詰めていた教室の空気が一気に弛んだ。どんな高尚な話が聞けるかと期待し緊張していたみんなは、「なあんだ」という顔をした。

 

 いよいよ五時間目。『読書指導』の授業参観だ。

 教室の後ろに入り切れないほどの親たちが並んだ。花世の母親も後ろから伸び上がるようにして花世を見ている。

 花世たちの村は越後平野の片隅にあり、親たちはほとんど百姓をしている。四月のこの時期は田起こしや苗代作りで猫や孫の手も借りたいほどの忙しさだ。けれど、授業参観には親たちは葬式騒ぎでもない限り欠席しない。普段家で我が子に勉強を教えてやる暇はほとんどないけれど、学校の行事にはなんとか仕事をやり繰りしてくる。

 松木先生は『三銃士』の本を手にしながらごく真面目な顔して言った。

「ここんところ、ずっとお前たちに読み聞かせしてきたこの『三銃士』を書いたのは、誰だったかな」

 すると、打ち合せ通り全員が手を挙げた。花世一人を除いて。花世はびっくりしてまわりを見渡した。みんなにやにやしている。松木先生も心なしか頬が弛んでいる。

 花世は松木先生とみんなが取り交わした妙な約束を忘れたわけではない。ただ一年生からずっと手というものを挙げたことがないから、手を挙げる動作ができないのだ。花世は自分だけ手が挙げられなくてとても恥かしかった。この場を逃げ出したいくらいだが、それはもっと目立つからできるわけがない。だから、小さく小さくなって俯いた。

 松木先生はアキラを指名した。アキラは自信たっぷりに答えた。

「はい、アレキサンダ・デュマです」

 みんなの手が下がり、花世もほっとした。

 次に松木先生はもう一冊の分厚い本をみんなに見せた。

「これも同じデュマが書いた『岩窟王』だ。『モンテ・クリスト伯』とも言われている名作だ。大変冒険と野心に富んでいておもしろい」

 松木先生は図書の先生でもある。毎日図書室に通っている花世は、本の整理をしている松木先生によく会う。けれど、花世は松木先生に近づかないよう見つからないようにしている。花世は松木先生に叱られたことはないが、クラスの悪童が準備体操の時でれでれしていたら思いきり蹴飛ばされた。普段いばり散らしている悪童がもんどり打ってぶっとんだ。それで花世は松木先生が恐いのである。今まで自分から口をきいたこともない。

 松木先生は『岩窟王』の表紙をみんなによく見えるようにしながらしゃべくった。

「お前たち、ごっつお(ご馳走)をいっぱい食べて腹を膨れさせるだけでは駄目なんだぞ。血が腹だけに行って頭がからっぽになっちまう。本はな、心の栄養だ。たくさん読めよ、読書は質より量だからな」

 みんなは神妙な顔してうなずいた。そこへ松木先生はさりげなく聞いた。

「この本、読んだことある人?」

 誰も手を挙げない。こういう質問では例の約束が生きにくい。次にどんなことを聞かれるか分ったものではないからだ。花世はとうに読んでいるが、もちろん手は挙げられない。松木先生は焦ることもなく裏表紙のブックポケットに入っている貸し出しカードを取り出した。

「ええと…、あっ、このクラスでは杉山花世が借りているぞ!」

 花世はびくっとした。

(しまった! こんなことなら借りるのではなかった)

と深く後悔したが、今さら自分の名前を消すことはできない。松木先生は何でもないことのように言った。

「杉山の感想を聞こう。杉山、立って」

 花世は立たないわけにはいかない。しかたがなくのろのろと立ち上がった。自分だけまわりより高い位置にいるので、身がすくむ。松木先生は容赦なく聞いた。

「主人公のエドモン・ダンテスが波乱に富んだ人生に挑戦していくが、杉山はどこがおもしろかったかね」

 花世は非常に困った。こんな大勢の親がいるし、みんなの注目の中でしゃべることなどとてもできない。松木先生はじっと待っている。

 花世は「窮鼠猫を噛む」気持ちで逃げ道を思いついた。

「岩窟王が岩牢から逃げるところまでしか読んでないからわかりません」

 自分の考えを言わないでいい、目立たないでなるべく早く座るための最小の言葉だった。松木先生はそれ以上花世を授業に引っ張り出すことはできなくなったが、別に困った顔はしなかった。ほんの一言ではあったけれど、保護者もいるみんなの前で花世がしゃべったのである。担任としては三年目にしてようやく「してやったり」だったのかも知れない。

 花世としてはもうこの時間に指名される危険性はなくなったので、大きく安堵していた。もう力を使い果たしたので、いつものようにぼうっとしていた。

 授業参観も最後に近づいてきた。

 松木先生は図書の貸し出し用の個人カードをトランプのようにぱらぱら見ながら感心したように言った。

「五年になってまだ一カ月もたっていないのに、もう九冊も借りた人がいるぞ」

 まわりがザワッとなった。みんなきょろきょろ見合いながら誰だろうという顔をしている。花世は思った。

(誰かなあ? 自分も九冊借りたけれど)

 図書の貸し出し規定として一冊を三日間借りていいことになっている。花世は借りた本は一日で読んでしまう。すぐ返して次の本を借りたいのだが、融通が効かない性格なのでじっと我慢して三日たってから借りている。それにしても、あの恐い松木先生が感心するほど立派な子は誰だろうと花世はまわりをうかがった。

「ええと、それはだな」

 松木先生は十二分に五十人の教え子と保護者の注目を引きつけてから発表した。

「杉山花世だ!」

 みんなが「ええっ!」と言って花世を振り向いた。花世は、(どうして自分の名が?)というような間の抜けた顔でみんなを眺めた。

 目立たないようにひっそりとずっと大人しくしてきた花世が急に華やかな脚光を浴びてしまった。花世はどんな顔をしてよいか分らず落ち着きなくきょときょとするばかりだ。そんな花世を斜め後ろの席にいるマリちゃんがくやしそうににらんでいる。

 

 帰りの会も終わり、花世はマリちゃんやミッちゃんたち五人で帰った。同じ村か隣村なので、帰り道が同じなのだ。花世はずっと一人で帰っていたのだが、四年生の終わり頃から一緒に帰るようになっていた。一緒にいても花世は特になにかしゃべるわけではない。みんなの影のように後ろにいて話を聞いているだけだ。裏道に入り人影が途絶えた時、マリちゃんが言い出した。

「みんなサァ、パンツの見せあいっこしようか」

 ミッちゃんたちの目がよこしまに笑った。

「いいねえ」

「ウヒャヒャア…」

 花世は、(またか)と思った。マリちゃんはすぐ「お医者さんごっこしよう」とか、「あそこのみせあいっこしよう」とか言う。マリちゃんはクラスで一番体が大きく早熟なのだ。でも、そういうずれっこない(淫乱な)ことを言うのは、花世と二人きりの時だけなのに、きょうはどうした加減だろう。

 ひとしきり忍び笑いしたマリちゃんは言った。

「初めに花世ちゃんが見せな。次に、わし見せるから」

 花世はびっくりした。自分は賛成したわけでもないし関係ないと思っていたのだ。ところが、ミッちゃんたちも囃し立てた。

「早くぅ、早くぅ!」

「花世ちゃんが先!」

 そんなことを言われても花世は戸惑うばかりだ。なんで急にパンツなんか見せなくちゃあならんのだ。春とはいえ、まだ薄ら寒いこの時に。マリちゃんが善人そうに誘った。

「早く花世ちゃんが見せないと、わし、見せたくても見せらんないよ」

 花世は、

「そんなら、さっさと自分が先に見せたら」

と思っても、そういうきつい言い方は口から出なかった。マリちゃんはずるそうな目で言った。

「ほら、父ちゃんが買ってきてくれたシェイクスピア全集を貸してやるよ。わしはまだ読んでないけど」

 花世はくらあっとした。きのうマリちゃんちに行った時、マリちゃんの本棚に立派でぴかぴかの装丁のシェイクスピア全集が二十巻も並んでいたのだ。学校の図書室にもないきれいで新しい全集だった。「喉から手が出るほど」ってこういうことなんだと思いながら涎が出そうだった。この際、パンツなんかどうでもよくなった。花世はスカートのゴムひもを引っ張り履き古したパンツを少しだけ見せた。マリちゃんもミッちゃんたちものぞきこんだ。

 十分花世のパンツを見たはずのマリちゃんが、自分のパンツも見せずにこう言った。

「じゃあ、花世ちゃん。今度はへそも見せて!」

「えっ!」

 約束が違うよ!という言葉は、花世の口からは出なかった。なにしろ、言葉は頭の中で共鳴するだけで花世の外部には出ないのだ。そして、ミッちゃんたちも示し合せたようにそらとぼけて言った。

「パンツだけじゃあだめだよねえ」

「つまらん、つまらん」

 みんなはひどく身勝手なことを言っているのに、花世は怒るということもできなかった。学校の友達関係で怒ったり笑ったりという経験が花世にはないのだ。

 マリちゃんが冷たく言い放った。

「へそを見せなくちゃあ、シェイクスピアも貸すの止めようかな」

 花世はぎょっとした。ここまで来てシェイクスピアをふいにしたくなかった。それで、念を押した。

「じゃあ、本はきょう貸してね」

「うん」

 マリちゃんが気軽に言ったので、花世はスカートとパンツを少し下ろしてへそを見せた。ミッちゃんたちは花世のへそを見て、

「へえ〜」とか、

「なんだ、出べそじゃあないのか」

などとつまらなそうに言った。花世はパンツとスカートをずりあげ、マリちゃんにお医者さんごっこの時のように言った。

「じゃあ、今度はマリちゃんの番」

 すると、マリちゃんはしらばくれた。

「なんか、きょうは寒いね。早くうちへ帰ろうっと」

 ミッちゃんたちも叫んだ。

「わし、鶏のえさをやらなくちゃあ」

「夕飯の米とぎがあったわ」

 口々に用を作り家に向かって走り出した。

 一人取り残されて初めて花世は悟った。マリちゃんは初めから花世を陥れようと打ち合せていたのだということを。花世は非常に癪に触ったが、合点がいかなかった。

(マリちゃんはあんなに広い立派な家に住んでいて、自分の部屋も持っていて、本もたくさん買ってもらっている。両親も優しいのに、どうしてこんなに意地が悪いんだろう?)

 

 

   46 けんか

 

 かりかりかり…

 花世は算数の四則が混じった複雑な計算を解いていた。

 教室中しんとして計算に打ち込んでいるふうである。

 花世たち五年の家庭科は低学年担当の女性の佐々木先生が教えてくれる。その時間は非常にうるさい。佐々木先生の声が聞こえないほどだが、担任の松木先生の時は水を打ったように静かだ。悪童たちは松木先生が恐いので、授業がわからなくてもネコをかぶっておとなしくしている。

 佐々木先生は小さな声で上品にしゃべる。真ん中くらいの席にいる花世にも聞こえないくらいだ。男子は勝手なことを喋り出す。ますます聞こえない。それでも、佐々木先生は男子を全く叱ろうとしない。花世でさえ、男子が騒ぎ出すのはしかたがないなあと思ってしまう。それで、佐々木先生はほとんど聞いていない子どもたちの前で一時間何やらもぞもぞ喋り続け、終了のチャイムが鳴るとほっとして帰っていく。

 花世は、(佐々木先生は辛いだろうなあ)と同情する。そして、みんなの前でべらべら喋らなければならない教師という因果な仕事にだけは就きたくないと強く思ったりもした。

 それにしても、きょうの問題は一段と難しいようだ。まだ誰も鉛筆を置かない。松木先生は五十人もの子どもたちの間を順々に回り、何やら指摘している。

 花世は、ようやく四則と( )が混じった十問を松木先生が教えてくれたルール通りにやり終えた。ちょうどその時松木先生が花世の席にやってきた。花世のノートをじっと見ていた松木先生はほうっと息をついて顔をあげ、みんなに言った。

「十問、ちゃんとできたのは杉山花世だけだぞ!」

 苦戦奮闘していたみんなからわあっと声があがった。

「杉山、よく全部できたな」

 松木先生は本当に心から感心しているようだった。花世は恐い松木先生から褒められて嬉しくもあったが、なんだか落ち着かない気分だ。松木先生は、花世が全部できたのがよほど嬉しかったのか花世のおかっぱ頭を大きな両手でくしゃくしゃに撫でた。花世はびっくりして頭を引っ込め松木先生を見た。先生は眼鏡の奥で目を細めて笑っている。花世は初めて気がついた。松木先生は大きな声で恐いけれど、心は優しいのだと。

 

 

 放課後、花世は一人で帰り支度をしていた。図書室へ本を借りに行っている間にみんな帰ってしまっていた。

 花世がどっこいしょとランドセルを背負った時、マリちゃんがもどってきた。

「花世ちゃん、いっしょに帰ろう!」

「うん」

 花世が歩き始めた時、マリちゃんが耳元でささやいた。

「ミッちゃんたちがね、花世ちゃんがカンニングしたと言ってたよ」

「えっ、何だって?」

 マリちゃんは花世に同情するように言った。

「きょうの算数の問題、わしのノートを見て書いたってさ」

 花世は仰天した。自分の斜め後ろにいるマリちゃんのノートをどうやって見るのだろう。席を立って側に行けば見られるけれど、松木先生は立ち歩きを絶対許さない。また、花世は人のノートを見る要領良さなどは爪の垢ほども持ち合わせていない。それに、カンニングしていないことをマリちゃんに弁明する意気地もなかった。ただびっくりしながら教室を出た。マリちゃんも並んで歩く。

 放課後の廊下は静かだった。春の午後の長い陽光を受け、窓ガラスの四角い格子模様が廊下に映って不思議な空間にいるようであった。花世はミッちゃんたちの言ったことを忘れたかった。影の部分を踏まないよう明るい四角の面を石けり遊びのように歩いて行った。と、廊下の一番端の階段がある所からミッちゃんたちがひょっこりと出てきた。まるで待ち伏せしていたようである。花世たちとの間に教室が七つほどある。

 ミッちゃんたちが叫んだ。

「ずるっ!」

「カンニング!」

 花世はたまげた。どうしてやってもいないことをあんな大きな声で言うのだろう。花世がうなだれて立ち尽くしていると、ミッちゃんたちはにやにや笑い始めた。花世は悲しくて助けを求めるようにマリちゃんを見た。

 すると、マリちゃんが慌てて手を下ろした。けれど、花世は見てしまった。

 マリちゃんは花世の頭を指さして「くるくるパー」をしていたのだ。そして、鈍い花世も瞬時にわかった。カンニングのことはマリちゃんがミッちゃんたちに言い出したのだ。ミッちゃんたちは花世より前の席にいるから見えるわけがない。松木先生は、意味なく後ろを向くことを許していない。カンニング騒ぎは、先日の「パンツ見せ」事件と同じで、マリちゃんの謀略だ。

 花世は心の底から猛然と怒りが湧いた。そして、マリちゃんにどなった。

「このバカッ!」

 マリちゃんは大きな体を縮こませた。そして、上目遣いで花世をうかがっている。そんなマリちゃんはとても醜かった。マリちゃんを見ていると、反吐が出そうだ。

 花世は黙ってずんずんミッちゃんたちの方へ歩き出した。ミッちゃんたちはキャアッと言って階段を駆け降りて行った。花世はミッちゃんたちに何か言おうと思っているわけではない。ただ、昇降口がそちらだから向かっただけだ。

 昇降口につくと、もう誰もいなかった。ミッちゃんたちは走って帰ってしまったようだ。

 花世はとぼとぼと歩き出した。一人でも寂しくなんかない。今までの学校生活はほとんど独りぼっちのようなものだったから慣れている。最近、少しずつミッちゃんたちともしゃべるようになってきたけれど、さっきのように有りもしない嫌なことを言われるなら、

(やっぱり、一人の方がいいなあ)と思った。

 県道に通じている長い石段を降り始めると、マリちゃんが追い付いた。マリちゃんはにやっと笑って言った。

「さっきはかんべ(ごめん)」

 花世はマリちゃんの顔が下卑て見えたので、黙ってずんずん石段を降りて行った。少しして、またマリちゃんは追いついた。

「かんべね」

 花世はマリちゃんの声を聞きたくなかった。マリちゃんは少しも悪かったとは思っていないことは、声の調子で分る。珍しく花世が怒っているので、口先で謝っているだけなのだ。花世は石段を駆け降りた。

 百十段を降り切ると、マリちゃんがすぐ追い付いた。そして、呪文のように唱え始めた。

「かんべ、かんべ、かんべ、かんべ、かんべ、かんべ……」

 花世はマリちゃんの厚顔にびっくりして、ますます許す気持ちが失せた。ただ黙ってひたすら家に急いだ。

「かんべ、かんべ、かんべ、かんべ、かんべ、かんべ、……」

 マリちゃんの呪文は一キロほどの道中ずっと続いた。花世はうるさくてたまらなかった。走り出したかったが、マリちゃんは足が女子の中で一番速いので、すぐ追い抜かれてしまう。だから、ぐっと口を結んで歩き続けるしかなかった。

 マリちゃんちの門まできた。

(やっと嫌な声から逃れられる)

と思った時、マリちゃんが恨めしそうな声で言った。

「千回以上もかんべって言ったのに、花世ちゃんは許してくれない」

 花世はマリちゃんの妙な理屈にびっくりした。少しも心のこもっていない「かんべ」を何万回言ったところで意味がないではないか。一学年下のルミちゃんだって「かんべですんだら、巡査はいらん」とよく言っているではないか。

 けれど、マリちゃんは歩きだそうとした花世の袖をつかんでまた唱え始めた。

「かんべ、かんべ、かんべ、かんべ、かんべ……」

 マリちゃんは花世が許すと言うまで止める気はないらしい。

 花世はマリちゃんの強引な戦法に負け、仕方なく小さな声で言った。

「いいよ」

 マリちゃんは鬼の首でも取ったようににかっと笑い、手を放した。

「じゃあね」

 マリちゃんは立派な石の門に向かって走った。

 花世はほっとして家に向かった。そして、歩きながら気付いた。ともかくも、マリちゃんはマリちゃんのやり方で謝ったのだと。

 きょう花世は学校で初めて子どもらしいけんかをし、人間関係の葛藤の洗礼を受けたのだ。

 もうすぐゴールデンウィークが始まる。田植えの前の田起こしが一段と忙しくなる。花世は家に帰ったら、土手まで山羊を迎えに行って、鶏に餌をやって、友子と夕飯の支度をしなければならない。姉は奉公に行っているし、ばあちゃんはこの冬死んでしまったので、夕方の家事は全部花世と友子の肩にかかっている。

 花世は走った。その背をやわらかな午後の陽射しがたっぷりとあたった。

                                 (完)

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