連載童話「北の空」 第2部

   16 罪

 

 丸い飯台をかこんで夕ご飯を食べていた。この頃はばあちゃんの顔が見えないのは、当たり前になっていた。一年中で一番冷えこむこの時期、ばあちゃんは喘息の咳がひどくて一日中布団の中にいた。

 雪道の中、市場へ買い出しに行ってきた母が、得意そうにしゃべり始めた。

「林檎を買った時にな、店を出しているおやじに、『勉強してください』と言ったのさ。大概なら二・三個負けるのに、そのおやじはいばって、『うちの林檎は味も色もとびきりの上物だから駄目だね』と言うのさ」

 町で買物をする時、母は大概、「勉強してください」と言って値切る。特に、市場などでは、おばさんたちはそう言って一円でも安く一個でも多くしてもらい、もうけた気分になって喜んでいる。

 母は続けた。

「それで、癪にさわったからな。買った林檎を風呂敷に入れる時、肱で林檎の山をくずし、転げた林檎も四つ入れてきた。人混みでいっぱいだから、誰もわかりはしない」

 家族の者は母の自慢話に相槌を打つわけでもなく、「よしなよ」と注意するでもなく、黙って聞いているだけだ。

 花世は、母が買ってきた林檎を見た。茶の間の隅に、ざるに一山入っている。真っ赤な紅玉で、ぴかぴか光っている。そこだけ百姓家の茶の間ではなく、花世がよく空想する物語の部屋の一部分のように明るく華やかだった。

 

 その夜、花世は隣の布団にいるばあちゃんのゼイゼイという咳で目が覚めた。他のきょうだい達は、火事になっても気付かないだろうと思われるほどぐっすりとよく眠っていた。

「風が寒い、寒い!」

 ばあちゃんは半分泣いていた。花世はびっくりして起き上がり、ばあちゃんを見た。布団やその上に掛けてあるマントがずれていた。花世は布団を引っ張ってまっすぐにし、マントでばあちゃんの肩のすきまをおおった。ばあちゃんは泣きながら喜んだ。

「花世は優しいなあ」

 それで、花世も安心してまた眠りについた。

 ところが、またすぐばあちゃんの怒り声で目が覚めてしまった。

「マントの帽子が顔にかかって苦しい、苦しい」

 花世は、(帽子はボタンで外れるのだから、取り外してやろうか)と思った反面、(ばあちゃんたら、文句ばかり言ってうるさいなあ)と心の底で思い、帽子のボタンも外せないほど弱っているばあちゃんを手助けすることなく、深い眠りに誘われていった。

 

 花世はばあちゃんに何度か飴買いを頼まれているうちに、ばあちゃんのお金の在り場所を見てしまった。寝間の箪笥の上にある黒い引出しの中だった。

 ある日、寝間や茶の間に誰もいなかった。花世はそろりと黒い引出しを開け、中を見た。中には、十円玉が六個入っていた。花世はそのうち三十円を盗ってポケットに入れてしまった。それで、何を買いたいということもなかったのに。それがばあちゃんの残された最後のお金だったかもしれないのに。

 そして、その後はもうばあちゃんに飴買いを頼まれることはなくなった。

 

 

   17 冬遊び

 

「エイヤッ!」

 びょうーん!

 ルミちゃんが跳ね上がり、自分の背より高く張ったゴムを跳びこえた。

 ゴムは、御堂の窓側にある柱と柱の間にしばってある。腰くらいの高さまでは、ゴムに触れないで跳びこえ、それ以上は片足とびか両足とびでゴムを跳びこえればよかった。少しずつ高くして、ルミちゃんと花世がかわりばんこに跳びこえてきた。

 今ルミちゃんが跳んだ高さは、花世の頭の少し上の高さで最高記録だ。それを、ルミちゃんは今までは片足跳びしかできなかったのに、今は両足とびで跳びこすことができた。こんどは、花世だ。

 花世は両足とびではとても無理だ。けれど、片足だけをゴムに引っ掛けるオオサカとびならできるかも知れない。

 花世はゴムをにらんで突進した。ゴムの少し手前でくるりと回って暴れ馬のように右足を思いきり振り上げ、両手は畳についた。しかし、足はむなしく空を切っただけだった。二度目、三度目も同じことだった。ルミちゃんはじれた。

「花世ちゃんには無理無理。こんどはおれだよ」

 そして、背伸びしてゴムの高さを三センチほど上げた。ルミちゃんの新しい挑戦だ。

 ルミちゃんははっしとゴムをにらみ、身構えた。それから、山猫が跳躍するように駆け出した。ゴムの前でしなやかに回り、片足できれいな半円を描いた。ルミちゃんの体は、振り上げた足のつま先から畳に向かって伸ばした両手の指先までのびやかな一体の芸術品のようであった。そして、つま先はちゃんとゴムを引っかけ、足が畳についた時、ゴムはきれいなV字形になった。

 ルミちゃんはそのままの姿勢で得意満面の笑顔で言った。

「こうやって、とぶんだよ」

 花世はルミちゃんが憎らしかった。ルミちゃんはすぐいばる。花世はどうあがいても、ルミちゃんのようにはできない。わざわざ見せつけなくてもいいのに。

 ルミちゃんがもう少しゴムを上げようと、御堂の板の間に置いてあった踏み台を運ぼうとした時だ。重い引き戸が開けられ、男の子たちがドドドッと十人ほど入ってきた。一年生から四・五年生の近所の男の子だ。花世の兄の正夫は五年だけど、こういう遊び仲間にはあまり入ったことはない。

 男の子たちは先客の花世たちを気にもかけなかった。花世と同級生の政司が仲間を二組に分け、騎馬戦を始めた。

 騎馬の上に乗る大将は身軽ではしこい奴でなければならない。片方の大将はアキラだった。アキラは花世の姉が編んだ若草色のセーターを着ていた。それは、姉が注文通り身ごろを長くしなかったため、全く色の違う黒っぽい毛糸で編み足されていた。アキラの母か誰かが編んだのだろうが、おしゃれなセーターにぼろをつけ足したような違和感があった。けれども、アキラはそんなことはものともせず勇敢に戦っていた。

 ルミちゃんはおもしろくなかった。広い御堂なので、ゴムとびがじゃまされることはないが、男の子の勇壮な騎馬戦に比べると、ゴムとびは迫力に欠ける。ルミちゃんは長靴をはいて表に飛び出した。

「雪遊び、しよう!」

 花世も後を追った。外は、雪は降っていないが、北陸の冬特有の重い鉛色の空だった。

 椿の木のかげで、友子とカナちゃんが雪だるまを作って遊んでいた。ルミちゃんは銀杏の木の側で、渦巻きを踏み始めた。渦巻き鬼をするのだ。花世は踏まれていない雪の真ん中へ行き、渦の中心から踏み始めた。母に小屋への雪道を作るようによく言い付けられるのだが、その時のようにていねいに固く踏み固めていった。

 ルミちゃんの渦とつながった時、ルミちゃんが呼んだ。

「友ちゃん、カナ子! うずまき鬼だよ」

 カナちゃんはそれは嬉しそうににこっと笑った。めったに遊び仲間に入れてもらえないので、ルミちゃんの気が変らないうちにと犬ころのように飛んできた。 

 ルミちゃんは命令した。

「じゃあ、おれとカナ子。花世ちゃんと友ちゃんが組んで競争するよ。はじめは小さい者からね」

 花世たちは中心から、ルミちゃんたちははじっこからと、それぞれ自分が踏み固めた場所からスタートだ。

「ようい、ドン!」

 友子とカナちゃんが走り出した。友子はけっこうすばやく渦の雪道を走った。カナちゃんはずぼずぼと足が雪にうまり、走りにくそうだった。ルミちゃんの踏んだ雪道はしっかり踏み固めてないので、ざかざかしているのだ。

 カナちゃんがいくらも行かないうちに、友子がどんどん進んで、ドンとカナちゃんと両手を合わせた。そこで、じゃんけんだ。

 カナちゃんが負けた。カナちゃんが雪道をよけ、友子が進んだ。ルミちゃんがスタートからこわい顔でつっ走ってきた。ルミちゃんはどすどすと雪に埋るけど、かまわず猪のように走ってきた。

 友子と出会い、ドンをしてじゃんけん。ルミちゃんが勝った。花世がスタート。三分の一くらい行ったところで、ドン。じゃんけんは花世の勝ち。花世はルミちゃんの陣地めがけて突進し、カナちゃんが四・五歩行った所でドン。カナちゃんの負け。ルミちゃんが阿修羅の顔でバン!と花世にぶちあたってきた。じゃんけんは花世の勝ち。カナちゃんがまだ陣地にもどれないでいたので、花世はルミちゃんの陣地に走りこんだ。

 ルミちゃんは怒って銀杏の太い幹を蹴飛ばした。

「ヘン、のろまでやくたたずのカナ子め…アッ!」

 ルミちゃんが悪口雑言を言い終わらないうちに、ドドドッと銀杏の木から雪が落ちてきて、ルミちゃんは頭からたっぷり雪をかぶってしまった。ルミちゃんは真っ赤になってわめいた。

「もうカナ子なんか、遊びに入れてやらない!」

 カナちゃんは悲しそうだった。しかし、ルミちゃんは遊びのたびにカナちゃんをいじめるけれど、友子と組むことはなかった。なにか競争する時は、いつもきょうだい同士だった。そして、たいがい花世チームが勝った。カナちゃんは負ける度、ルミちゃんに怒られて悲しい思いをするけれど、それでも、ルミちゃんに仲間に入れてもらえた時はひどく喜ぶ。

 ルミちゃんは体中の雪をふるい落としながら玄関に入って行った。

「はねつきでもやろうかな」

 もうすっかり機嫌の治った声だった。三人もルミちゃんの後について玄関に入った。その時、ごりょんさん(住職の妻)のかん高い声が辺りの空気を震わせた。

「おまん(あんた)でなけりゃあ、誰が栗饅頭を食べたというの!」

 度が強くてぶ厚い眼鏡をかけたごりょんさんが顔をひきつらせて広間の真ん中で仁王立ちになっていた。すみっこで、大ごりょんさん(姑)がとまどった顔を見せていた。

「わしは栗饅頭など知らんよ」

 ごりょんさんの怒りが髪の毛の先まで達し、ショートカットのパーマの毛がびりびりと逆立つようであった。

「子どもたちは食べてないと言っているのだから、あとはおまんしかいないでしょ!」

「そんなこと言われても食べていないのだから、しょうがないよ」

 大ごりょんさんは目をしょぼしょぼさせてこまりきっている。ごりょんさんは切れた。

「そんな子どもでもすぐわかる嘘ついちゃってさ。ちゃんちゃらおかしい、ヘソが茶を沸すわ!」

 おとなしい大ごりょんさんはごりょんさんの沸騰した怒りの前になす術がなかった。

 ルミちゃんはどこへ行ったのか姿を消していた。

 花世は身が縮まる思いがした。

 きのう、ルミちゃんがつやつやした栗饅頭を二個も御堂に持ってきた。そして、花世と友子にもちゃんと分けてくれたのだ。栗饅頭など、花世の家ではめったに見ることはないが、お寺では客が多いので、用意しておくのだろう。

 それは、甘く柔らかくておいしかった。ヘンデルとグレーテルがお菓子の家を食べている気分になれた。

 ところが、そのおいしい体験のせいで、穏やかな年老いた大ごりょんさんが身の置き所もないほど責められている。花世はいたたまれず、そっと玄関から逃げ出した。友子も主人に怒られた犬のようにうなだれてついてきた。

 

 

   18 子牛誕生

 

 編み物教室から帰った姉が大急ぎで夕飯の支度をしていた。

 野菜の油炒めや漬物が飯台に乗せられ、

「花世、みんなを呼んできな」

と言われた時だ。

 ウモモモオオ〜 モオオ〜ン

と、牛部屋から切なそうな鳴き声がした。両親が藁仕事をしている土間をのぞくと、母が土間の隣にある牛部屋の戸を開けていた。

「牛が産気付いたぞ!」

 父も仕事の区切りをつけ、牛部屋をのぞいた。花世も縁をおり、牛部屋に走った。友子もすぐついて来た。動物や野良仕事には興味を持っているとは思えない兄の正夫までやって来た。姉も手をエプロンで拭き拭き興味しんしんの顔でのぞきに来た。たった半間ほどの入口で、ばあちゃんを除いた家族中ががん首ををそろえて牛部屋をのぞいた。

 牛はンモモオオオ〜ンと苦しそうに鳴き、しきりに後足をふんばらせている。そうでなくても大きな牛の腹が分娩直前のためはちきれそうに張っている。

 姉が嬉しそうに言った。

「今年は牝かねえ」

 去年は雄だったのだ。いや、おととしも一昨々年も雄だった。牝の方が雄より二倍は高く売れる。母が慎重に言った。

「この牛はどうも雄腹だからなあ」

 姉は不満そうだった。

「馬喰の種付けのやり方が悪いんじゃあないの」

 誰も「そうだ」とも言わず、ひたすら、力んでいる牛を見続けている。

 姉はさっさと茶の間に引き上げた。続けて正夫も広間にもどった。

 残った四人はじっと母牛を見続ける。花世は去年の種付けを思い出していた。

 田植えが終わって一段落した後だった。遠くの村から来た馬喰がぴかぴか光る金属の筒のようなものを牛の尻の下に差しこんでいた。花世は変な気分がした。あんなに太い筒を突っ込まれてよくおとなしくしているなとも思った。けれど、牛は痛がるふうでもなくその作業はじきに終わった。

 あのことで、今これから牛の赤ちゃんが生まれるのだ。

「あっ!」

 母が短く叫ぶと、花世と友子を土間の方に向かせた。

「そろそろ生まれるから、お前たちは居間に行ってろ」

 花世は子牛が生まれるところを見たことがないので、ずっとそこにいたかった。けれど、母が恐い目で拒絶しているので、あきらめるしかない。友子と土間の隅に折り重ねてある莚の上に腰かけた。両親はじっと見続けている。

 そういえば、おなかがすいたなと思った時、母が手招きした。

「生まれたぞ」

 花世と友子はとび跳ねるようにして莚から下り、牛部屋をのぞきこんだ。二十ワットの裸電球の下、薄暗い藁どこの中に黒い固まりがあった。それはぬらぬらとした膜のようなものでおおわれていて、しきりにもぞもぞ動いている。母牛がゆっくりと体の向きを変え、黒い固まりをなめ始めた。大きくて厚いピンクのべろでぬらぬらをなめ取っていく。

 次第に黒い固まりが頭や手足をはっきりさせてきた。確かに、それは生まれたばかりの子牛だった。子牛はなめられながらもひっしにもがいて立とうとしている。そして、子牛はじきに前足と後足をふんばらせて立ち上がった。立ち上がると、すぐ母牛の乳房に吸いついた。小さな顔を乳房にぐいぐい押しつけながら乳を飲み始めた。母牛は濡れた瞳で、「ウモオ〜」と小さく鳴いた。母がほっと息をついた。

「じゃあ、わしらも夕飯にしようかね」

 急に花世の腹が猛然とへってきた。走って縁に上がり、茶の間に飛びこんだ。姉がさめてしまった味噌汁を囲炉裏であたためていた。

 腹のすききった家族が声も無く夕飯をむさぼり食った。花世はご飯やたくわんをよくかみもしないでどんどん飲みこんだ。四杯もおかわりした。

 途中、父がぼそっと言った。

「今年も雄だったよ」

(フウ…)

 声のないため息と共にみんなの箸がいったん止まった。それから食べる勢いがゆっくりになった。飯台のまわりの空気が重く感じられた。

 姉が明るく言った。

「でも、死産よりは良かったんではないの。編み物教室に来ている人の姉さんがこないだ赤ちゃんを産んだんだけれど、一週間もしないうちに死んじゃったんだって」

 人間の子と子牛をいっしょに考えた姉に家族はぎょっという顔をしたけれど、母が気を取り直したように言った。

「まあ、そうだな。来年もあることだし、あの子牛は骨太で丈夫そうだわ」

 花世もほっとして箸を置いた。

 

 夕飯の後、花世は囲炉裏のまわりで図書室から借りてきた「十五少年漂流記」に熱中していた。正夫と友子はもう風呂からあがり、寝間に引っ込んでいた。姉は古いセーターをほどいていた。

 台所にいる母が花世を急かした。

「早く風呂に入りな。湯がさめるで」

「うん」

 母におこられないうちにと思い、立ち上がろうとした時、腹が痛み出した。便所に行きたい時の痛みではない。

 母が怒った。

「花世、早くしな。入ってないのは、お前だけなんだから」

 ところが、痛みがどんどん激しくなってきた。腹を押さえてうずくまっていると、母が台所から出てきて花世をにらんだ。

「いつも風呂に入るのをしぶって手間かけさせる」

 けれど、花世は腹が痛くて立ち上がることもできなかった。側で新聞を読んでいた父が苦しそうな花世の様子を見て、自分の手を囲炉裏の火にあぶった。それから、熱くなった手を花世の腹にあてて暖めた。さめるとまた火であぶり、暖めた。しばらく繰り返しているうちに、腹の痛みがすうっと消えていった。

 薬も飲まず医者にも行かないで、あんなに激しかった痛みが取れて、花世はとても不思議だった。ふだん無口な父親が特別な存在に見えた。おまけに、母がこう言った。

「きょうは風呂はいいから、早く寝ろ」

 本が読めないのは惜しいけれど、しちめんどうくさい風呂に入らないですんだのはもっけの幸いだった。花世は少しふらつきながら立ち上がり、寝間に向かった。

 

 

   19 学芸会

 

 三月一日。一年から六年まで総出で真向かいにある中学校へ行く。小中合同の学芸会があるのだ。小学校も中学校も一学年が一〜二クラスずつの小さな学校なので、文化祭や運動会も合同でやる。

 花世はどきどきしていた。ちょっとだけれど、出番がある。中学生の劇も楽しみだ。

 小学校より明るくて広い体育館に一年生から順に座った。花世たち三年生は一クラスしかないので、横に男子女子一列ずつ座った。花世の斜め前にハンサムな岡昌也が座った。話ができるわけではないけれど、花世は嬉しかった。

 学芸会はまだ始まらなくて、みんなざわざわと興奮状態だった。岡昌也が花世の方を見て言った。

「なんか、きょうは顔が白いみたいだな」

 田舎では、色が白いのは美しいということなのだ。岡昌也は側の男の子に同意を求めた。

「そう思うだろ、なっ」

 男の子たちは興味なさそうに返事をした。

「うん。そうだな」

 花世は跳び上がりたいほど嬉しくなった。好きな岡昌也にほめられるなんて。

 きょうの花世は若草色のフランネルの上着を着て来た。姉が自分の物を花世が着られるように縫い直してくれたものだ。いつもは暗いモスグリーンのコールテンの上着を着ている。花世はあまりおしゃれに気を遣う性格ではないし、家の経済もそんなことを許さない。必要最低限の物を母が用意してくれるだけだ。たまに、気紛れに姉がお下がりをくれたり、奉公先から帰る時にみやげとして買ってきてくれたりすることはあるけれど。

 舞台のスクリーンが開いた。花世はわくわくした気持ちで見入った。舞台には同じクラスのユキちゃんが立っていた。ユキちゃんの前には珍しい貝がたくさん並べられている。冬休みに遠い南の海辺に住むおばあちゃんの家に遊びに行った時に採集してきたとのこと。その貝の名前を紹介したり特徴を説明したりするのだ。

 花世はじっと待った。しかし、ユキちゃんはなかなかしゃべり出さない。舞台からみんなの方を空ろな目で見ているだけだ。小学校一年生も中学三年も辛抱強く待った。小中学生の後ろにいる家の人達もじっと待った。けれど、ユキちゃんはしゃべろうとしない。普段は元気のいいユキちゃんなのに。誰かが助けに行くでもなく、みんなはひたすら待った。

 何十分待ったか分らないが、終わりの時間がきてユキちゃんは退場した。花世は心配した。自分だったら一人で壇上にだって立つことはできないから、ユキちゃんのような種目には出ない。ユキちゃんはみんなの前でやるべきことができなかったので、この後どういう顔をしてみんなの前に出たらいいのだろう。花世だったら、とても表に出られないような気がした。

 花世の心配をよそに、次からの演題はスムーズに進んで行った。そして、花世たち三年生の劇の番が近づいた。「鞠と殿様」をやる。みんな楽屋裏へ行った。松木先生はクラスの五十人が全員出られるようにした。ユキちゃんもだ。最初の貝の紹介は特別出演だったのだ。だから、そんなに練習できなかったのかもしれない。ユキちゃんはさっき何も言えなかったことなどけろりと忘れてしまったかのように嬉しそうに「奴さん」の衣装に着替えている。花世はほっとした。そして、その他大勢役の「腰元」の支度を始めた。

 浴衣を着て帯を結んだ。帯は、足が長く見えるように普段より上の方で結んだ。

 主役は近所のマリちゃんだ。マリちゃんはお母さんからちゃんと子ども用の羽織りと袴を着せられていた。紫色の立派な衣装だ。マリちゃんは女だけれど、紙で作った殿様の鬘を被って堂々としていた。

 劇が進み、花世の出番が近づいた。殿様の篭がお城についた時、出迎えるのだ。大勢の「腰元」と一緒に舞台の一番後ろをおじぎをしながら横向きに進んで行くことになっている。

 きょうは母も見に来ている。岡昌也は「小姓」の役で殿様の刀を持っている。花世ははりきって深々とお辞儀をして進んだ。それは一分もかからないで舞台に引っ込んでしまったけれど、花世は満足だった。

 最後に、中学三年生の「馬鹿一」という劇があった。主人公は同じ村の信夫だ。年が離れているので、遊んだことはないが顔はちゃんとわかる。小学三年生ともなれば、大人の話を聞きかじれるから七十世帯ほどの家の家族構成と名前・学年、それに大体の性格までわかる。信夫は川縁にある家に住んでいる。姉さんが四人いて一番下だった。花世の家と同じ班なので、夏休みには道路掃除と火の用心の見回りを一緒にやった。信夫は大きな声を出さずおとなしい。

 信夫は劇の間中、舞台に拵えられた屋根の上にいた。側には柿の木があり、大きな柿の実がなっていて田舎の屋敷の感じがとてもよく出ていた。信夫は映画に出てくる役者のように上手だった。「馬鹿一」になりきり、どこから出てくるかと思うほど体育館中によく響く声で台詞を言っている。最後の場面で遠くの空を見ながら、

「おらもおっとう(父)について東京サ、行きてえなあ…」

と言ったところが真に迫っていて、胸がしめつけられるほど切なかった。普段の信夫からはこの演技力は想像できなくて、花世は仰天した。けれど、花世は思い出した。信夫は早くに父を無くし、母親の手で育った。上の姉さんたちも中学を出ると、次々と遠くに働きに行ってしまっているのだ。今は川縁の家で母親と二人住いである。

 

 その日の夕食を準備している時だった。姉はまだ編み物教室から帰ってきていないので、花世は友子と飯台や茶碗を出す手伝いをしていた。

 花世はきょうの劇の出来栄えーと言ってもほんの一分足らずの出番だったがーを聞きたくてうずうずしていた。けれど、母の方から言ってくれそうもないので何気なく聞いた。

「『まりと殿様』、よかった?」

 すると、母は顔をしかめた。

「お前の帯の締め方、あれは何だ。てるてる坊主みたいでみっともなくて、穴があったら入りたかったよ」

 花世は得意の鼻をボキッと折られたように恥かしくなった。岡昌也もそう思っただろうか。母は追いうちをかけた。

「お前はいつも姿勢が悪いけれど、マリちゃんは堂々と胸を張っていて立派だな。同じ三年生なのに、どうしてこんなに違うのだろう」

 泣き面に蜂だ。マリちゃんは体格がよくて、背も男の子より高くクラスで一番だ。お父さんは隣町の高校の校長先生で、子ども部屋には山のように本をそろえてくれている。そんな女の子と比べられても仕様がない。花世は力なく箸を飯台に並べた。

 同じ学芸会を見ていた友子が突拍子もない声で叫んだ。

「かわふちのノブオちゃん、すごかった! すんごいじょうず!」

 花世は哀愁のこもった信夫の表情を思いだし、あした図書室で「馬鹿一」という本があるか、さがしてみようと思った。すると、気分が少しだけ軽くなった。

 

 

   20 映画教室

 

 三月のまぶしい陽射しに雪解けが進み、県道の雪はほとんどなくなった。屋敷の裏とか山の日蔭には少し残っているが、それも泥やごみ、朽ち葉などがついた汚い雪だ。

 花世はうきうきして学校へ行った。きょうは土曜日で二・三時間目が映画教室だ。勉強は一時間しかない。

 映画はいつも畳を敷いた礼法室で上映される。四百人ほどの全校生徒が一緒に見られる広い部屋だ。暗幕で部屋を暗くし、先生たちが映写機を動かして見せてくれる。

 初めはディズニーのアニメーションだった。動物や小人たちの動きがとても可愛らしくおかしかった。しかも、珍しいカラーだった。目が覚めるほど鮮やかできれいな色で、花世はアニメーションが終わった後もぼうっと夢見心地でいた。

 次の映画まで間がある。フイルムを巻き取り用のリングから巻き戻さないと、次が映せないのだ。まわりはざわざわしている。息抜きだ。この間に便所に行く子もいる。

 突然、花世は男の子たちに取り囲まれていることに気がついた。真ん前にいじめっ子のケンジがどっかりと座っている。ケンジは背が高くドッジボールが強い。勉強もできるのに、何故か意地が悪い。そのケンジが目の前にいる。ケンジの取り巻きのシゲルとかトシオもいる。後ろにハンサムな岡昌也がいる。

 ケンジがにやにやしながら花世の左右のほっぺたを両手でひねり始めた。ほっぺたの肉をぎゅっとつかんでねじっているので、鈍くてしつこい痛みが襲った。花世は何でケンジにこんなことをされるのか、わけが分らなかった。

 花世が泣かないので、ケンジは今度は花世の頭に拳固で力いっぱいぐりぐりをした。後ろの岡昌也がずるそうに笑った。

「何度も、本返せと言いやがって」

 それで花世は分った。岡昌也が、花世をいじめるようにケンジをそそのかしたのだ。

 花世は兄の正夫の「冒険王」三月号を岡昌也に貸した。ところが、一週間経っても十日経っても返してくれないので、正夫に責められた。

「早く返してもらえ!」

 正夫にすれば、年に一回くらいしか買ってもらえない雑誌なので、怒るのは当たり前だ。やたらな人には貸さないのだけれど、花世は岡昌也が見たがっているのを知ってつい貸してしまったのだ。正夫にしつこく責められて、花世は二度だけ岡昌也に、

「本…」

と言った。花世は今でも学校ではほとんどしゃべっていないので、その一言を言うにも大変な勇気がいった。

 そして、岡昌也はそのことを根に持って、全く逆恨みもはなはだしいけれど、きょうの映画教室をねらっていたのだ。薄暗い中でいじめていても、先生には見つからない。まわりに分らないように、つねったりぐりぐりしたりと陰険な方法で。

 花世は逃げればいいものを、ただひたすら痛みに耐えていた。取り巻きがにやにやしながらささやいている。

「こいつ、ちっとも泣かないな」

「おもしろくねえな」

 花世はあまりの痛さにぼうっとしていた。けれど、花世は我慢強いから泣かなかったのではない。泣くというきっかけがなかっただけ。ひどいことをされただけでは、涙腺がゆるまなかったのだ。それで、薄暗い中、男の子たちが花世をいじめるのに飽きるまでずっと痛みに耐えていた。

 

 

   21 カタクリの山

 

 燦々とふる春の陽射しの中、ルミちゃんは小天狗のように山道を駆け登って行く。ここは栃ガ原の畑の奥にある山の中だ。この道は去年の夏初めて見た美しい湖に続いている。あの時、花世は友子と一緒に巨大な蛇を見ているので、怖いのだがあの湖を見たい気持ちも強くてつい来てしまう。友子も必死に花世の後を追っている。

 奥に行くにつれ、あたりは樹齢を何百年も重ねたと思われる木々がどっしりと太く苔むしている。枝は柔らかな黄緑色の若葉をつけ、神々しいまでにきれいだ。日蔭は朽ち葉にまみれたがさがさの粗い雪を残している。

 湖に近づくと、道の脇は湿地のようにじぶじぶし、水芭蕉のような白い花が咲いている。

 湖をせき止めている土手を駆け登った。

 ガツーンと打たれるような美しさと静けさだ。まわりの芽ぶき始めた山々や明るい春の空を鏡のように映し出している。夏以来、四・五回来ているが、感動は変らない。

 土手には猫柳がふくらみ、たっぷりした銀色の尾に金色の花粉をつけている。ルミちゃんは猫柳をガツッと折り、それを振り回しながら湖沿いの左側の道を進み始めた。今までは、土手で寝転がったり馬跳びをしたりするだけで満足していたのだが。

 道脇からは山木が湖に向かってうっそうと枝を伸ばしているので、湖に落ちる心配はない。それに、しっかり踏み固められた赤土の道だ。花世はどきどきしながらルミちゃんの後をついて行った。

 湖の反対側の山にはつやつやした葉のイワカガミがピンクの花を咲かせていたり、小さなワラビが蛇のような頭をもたげていたりしている。

 ルミちゃんは黙ってどんどん進み、山の腹をいくつも過ぎた。こんなに遠くまで来るのは初めてで、花世は恐かった。けれど、自分だけもどるのも恐い。友子も黙って後をついてくる。花世も歩き続けるしかない。

 終わりがないと思っていた湖が入り江のように入り組んだ姿を見せてきた。水平線上の向こうに薄紫がかった新緑の木々が見え始めた。ルミちゃんの足が速まった。花世も友子も走り出した。

 しばらく走ると、巨大な恐竜のしっぽのような湖の終わりがあった。山の奥から流れてくる川が湖を作っているのだった。だから、湖の奥の方ほど底は浅くなっていて、水の中に長い緑の草が生えているのが見える。

 谷川の水をせき止めて作った農業用水用の湖なので当然なのだが、花世は少し興ざめした。湖の入口は底知れず深く、果ては水平線しか見えなくて神秘的だったのに、花世は湖の後ろ姿を見てしまったような気がした。

 ルミちゃんが叫んだ。

「すごい!」

 見ると、ルミちゃんは湖から離れ、脇の山に登っている。そして、そこには薄紫色のカタクリの花が優しくうつむいて咲き乱れていた。山間の低いところから尾根にかけてびっしりと。

 人家に近い山にはカタクリはほとんどない。かなり山奥に入っても数本生えている程度だ。花世の家の裏山にはオトコカタクリがたくさん生えている。もみじ葉のような葉で、このカタクリとは似ても似つかないが、花は白くてとても可愛らしい。けれど、残念なことにそれは食べられない。

 花世は夢中になって採り始めた。根元をつかみすいっと引き抜く。土中の白い茎がぷつっと切れて簡単に採れる。花はおいしくないので、まだ花が咲く前の若い葉をめがけた。今までならカタクリなら生えていただけで有難く、なんでも採っていたのに、今はとても贅沢に柔らかな片葉ーまだ若く一枚の葉だけで花芽がないーに的をしぼった。これなら茹でる前の蕾を取る作業が省ける。

 すぐに両手いっぱいになったので、ポケットから風呂敷を取り出した。きょうは、本当はゼンマイを採りにきたのだ。それが途中で遊びになり、どんどん奥山に入ってくるうちにゼンマイのことはすっかり忘れていたが。いつものように風呂敷の四隅を縛り袋状にしてカタクリを入れた。友子も同じことをしている。ルミちゃんは二・三本のカタクリを持ったまま突っ立ってもっと山の奥の方を見ているが、花世の知ったことではない。ひたすらカタクリを採り続けた。

 ずっと前、母が採ってきたカタクリの酢みそ和えを食べたことがある。それは甘酸っぱくてとても上品な味がした。つるりとした歯ごたえもたまらなく良かった。友子と風呂敷いっぱい採っていけば、また母が作ってくれるだろう。今まで十本かそこら持ち帰ったことがあるが、相手にもしてもらえなかった。カタクリは茹でると、驚くほどかさが小さくなってしまうのだ。

 風呂敷がだいぶ嵩ばってきた。とつぜん、ルミちゃんが宣言した。

「帰るよ、ハラすいちゃった!」

 花世はこの山全部のカタクリを採りたかった。まだまだ帰りたくないけれど、仕方がない。きょうは弁当を持ってこなかったから。花世は友子の方を見た。花世よりいくらか少なめだが、二人分合わせれば家族中がゆっくり味わえるだけはあるだろう。友子は花世を見て嬉しそうににいっと笑った。花世もほっぺたがゆるんだ。

 立ち上がると、田植えをした時のように腰がずきずきと痛む。けれど、嬉しい。

 ルミちゃんは空手のまますでに湖沿いのもと来た道をとっとと帰っている。花世は風呂敷袋を片手で抱えて走った。こんな山奥に取り残されてはたまらない。例の巨大蛇が頭をかすめた。花世は一番最後にならないよう友子の前を走り、必死でルミちゃんに追いついた。追いついてから友子を振り返ると、友子は小さな両手で風呂敷袋を抱きかかえ花世のように慌てず普通の顔で走ってくる。

 途中、道が分れていた。今までは右の下道を通って栃ガ原の畑にもどっていた。ところが、ハラがすいている筈のルミちゃんが何を思ったのか、少し遠回りになる上道を選んだ。

 初めての上道は、下道より少し高いところを通るので明るい。落葉樹の新緑がきれいだ。

 どんどん歩いていくと、人声がした。花世は緊張した。

(今ごろこんな山奥にだれがいるんだろう)

 進んでいくと、かん高い子どもの声がはっきり聞こえてきた。近づくと、見覚えのある隣の村の女の子たちだった。五・六人で火を燃やし鍋や飯盒をかけている。

 そこは杉の大木が四・五本あり、ちょうど屋根のようになって小さな広場を作っていた。地べたは厚く苔むし、絨毯のようにほっかりしている。しかも、この素敵なおあつらえ向きな場所の後ろに、きれいな小川まで流れている。そこで、四年生の太った女の子がじゃが芋を洗っている。花世は、

(この小川はあの美しい湖から流れてきている)

と思った。人参や葱の陰に白い卵まである。花世は羨ましかった。卵なんてそうそう食べられない。食べたとしても、友子と半分づつだ。花世の家には、ニワトリが十五・六匹いて毎日卵を産むけれど、それは卵買いのおじさんに渡してしまう。唯一の大切な現金収入なのだ。花世は毎日夕食分の餌をニワトリにやっているけれど、卵は集めるだけだ。

 急にルミちゃんが野うさぎのようにびょうんと走り出した。こうなると、花世はとても追いつけない。自分たちより後ろに人がいることも分って恐くなくなったので、友子と歩きながら栃ガ原に向かった。

 栃ガ原の入口にルミちゃんが真っ赤な顔して腰を下ろしていた。花世はルミちゃんが山道を走ったので、赤い顔をしているのだと思った。けれど、ルミちゃんは花世たちを見ると立ち上がり、吐き捨てるように言った。

「あいつら、いいことしやがって!」

 花世はぽかんとルミちゃんを見た。その花世に、ルミちゃんが命令した。

「あした、おれたちがあそこでキャンプするからな」

 今は春休み中だ。花世はルミちゃんの負けず嫌いが単純に嬉しかった。友子と顔を見合わせにやりと笑い合った。

 デデッポー デデッポー

 のんびりした鳴き声を残し、野鳩が薄水色の空に飛び立った。

 

 

   22 春の日溜まり 

 

 花世は四年生になった。けれど、特に変ったことは何もない。五十人で一クラスしかないから、クラス替えはないし、担任の松木先生も同じだ。相変わらず、花世は学校ではしゃべらず、家へもどると元気に遊んでいた。

 きょうも暑いくらいの陽射しの中、浮き浮きしながらルミちゃんを待っていた。十円持って学校の近くにある店までニッキを買いに行くのだ。貴重な十円はこの間の日曜日に一日畑の草取りをしてもらったものだ。田んぼや畑の仕事をしたからといって駄賃をもらうことはめったにないけれど、その時は何故か母の機嫌が良かったのだ。

 庭には古道具屋のおじさんがいた。ばあちゃんが小屋から使わなくなった高膳や鉄瓶・古着などを山のように出している。厳しい寒さが続いた冬には喘息でひどく苦しんでいたばあちゃんだが、陽気が暖かくなると共に布団から出られることが多くなった。きょうのように気温が高い日には、庭の草取りをしたり、ダリアの球根を植えたりすることができるようにまでなっていた。

 古道具屋のおじさんはばあちゃんの出した古物を値踏みした。

「全部で十円だな」

 花世は驚いた。まだまだ使おうと思えば使える物ばかりで一山もあるのに、自分の駄賃と同じ十円だなんて…。しかし、ばあちゃんは特に文句も言わず無表情だった。長年ばあちゃんが大事に使いこなして来た物ばかりだから、思いはいろいろ深いだろうに…。

 古物を積み終わったおじさんが叫んだ。

「おう、これはみごとだ!」

 花世は近づいてみた。おじさんは便所の前の下水溝に生えている一本の赤紫蘇に見とれていた。それは栄養たっぷりの下水溝の中で、四月のまばゆいほどの光を凛と受け、堂々と枝を張らせていた。黒に近い紫色のくっきりしたぎざぎざの葉がとても形よかった。ばあちゃんは下水溝の草取りをした時、その一本の紫蘇だけは残しておいたのだ。

「これを五十円でゆずってくれねえかね」

 おじさんの提案にばあちゃんの顔がほころんだ。

「いいがね」

と言ったばあちゃんの笑い顔は泣き笑いのようだった。厳しい百姓仕事と持病の喘息に耐え続けてきたばあちゃんの顔には深い皺が刻まれていて、いつも暗いしかめ面をしている。そのばあちゃんがたまに笑うと、泣いたような顔になって、花世は何とも言いようのないような悲しい気持ちになる。

 それにしても、山のような古物が一本の赤紫蘇の足元にも及ばないことを知って、花世は驚いた。そして、ばあちゃんの丹精が実ったのだと思った。庭の四季の花々は、ばあちゃんが全部世話をしているのだから。父や母は田畑の仕事が手一杯でとても庭いじりまではできない。

 古道具屋のおじさんは赤紫蘇の根を深くえぐり、土ごとビニールでしっかり包んで車に乗せた。

 奥の道からルミちゃんが走ってきた。きょうは珍しく妹のカナちゃんもいっしょだ。カナちゃんはこの四月から一年生になった。

「花世ちゃん、早く行こうよ!」

 自分が待たせていたのに、花世を急かしている。けれど、花世は怒る気もせず木戸先に走った。鶏小屋の近くでつやつや光る草の芽を集めていた友子も寄ってきた。

 ルミちゃんは格好良くスキップしながら県道まで駆けて行った。花世は雑誌の入った手提げ袋を持っているので、うまくスキップできなかった。友子も今採ったばかりの芽を持っているので、もたもたと走った。カナちゃんは一番最後に転びそうになりながら走った。

 県道まで出ると、三人は道路脇の花を摘んだりモンシロチョウを追いかけたりしながらのんびり進んだ。春の陽はぽかぽかと暖かく、眠くなりそうなほど気持ちが良かった。

 途中にポンプ小屋があった。その脇にコンクリートで固めた三角形の台がある。一畳ほどの広さで、腰を下ろしたりするのにちょうどいい高さだ。三人は台に跳び乗った。ルミちゃんは台の端に突き出ている鉄のポールにつかまりぐるぐる回り始めた。花世は手提げから「少女」の雑誌を出して読んだ。ずっと前に買ってもらったもので、もう何十回も読んだけれど、また飽きもせず同じ頁をめくった。

 友子はポンプ小屋の後ろへまわり、キンボイを採り出した。黄緑色した柔らかいキンボイはさやを取ると白い穂が出てくる。まだ若い穂は柔らかくて甘い。お腹が空いているときのいいおやつになる。カナちゃんは友子の側へ行って真似し始めた。

 しばらく、四人は思い思いのことにふけっていた。けれど、突然ルミちゃんは台から跳びおりて駆け出した。

「ニッキを食いたあーい!」

 友子とカナちゃんはキンボイを食べていたので、心残りそうに県道にもどった。花世は直射日光の下で漫画を読みふけっていたので、顔を上げたら目がくらくらした。それで、三人はゆっくりと店に向かった。ルミちゃんの後ろ姿がずっと先に小さく見えた。

 三人が店につく前に、ルミちゃんはピンク色の細いニッキの棒をかじりながらもどってきた。ルミちゃんは満足そうに言った。

「いいのを、みんな買っちゃった」

 そして、カナちゃんにあげるのをしぶった。

「一年ぼうずなんかにあげるのは、もったいないなあ」

 カナちゃんは泣きそうになった。花世は嫌な予感がして急いで駄菓子やに入った。ニッキの色は、白と黄色しかなかった。花世はピンク色のニッキが好きなのだ。外側はビニールの色で、中身はみんな白いニッキだ。味はもちろん同じなのだけれど、ピンクが断然おいしく感じられて人気がある。ニッキはこのごろ流行り始めたお菓子だ。

 仕方がないので、黄色と白を混ぜて五本買った。そして、友子と二本半ずつに分けてなめ始めた。つんと癖のある甘みのニッキはお腹がふくれるわけではないけれど、妙に魔力がある。細いビニールのつつを歯でかじりながら少しずつ出して飴を舐めるようにねぶっていると、外国のお菓子でも食べている気分になる。ふだん身の回りにある木苺とか柿、食い花、さつま芋などとは全く異種の味がする。

 花世はルミちゃんたちに追い着いた。カナちゃんもピンクのニッキを幸せそうにかんでいる。四人はニッキを味わいながら家に向かって県道をぷらぷらと歩いて行った。

 途中、県道から分れている裏道がある。そこは昔からの道で細い上に遠回りではあるが、木陰があって涼しい。いい休み場になる忠魂碑もある。裏道を少し入った草地に真っ黒な若牛がいるのが見えた。けれど、すぐ側に飼い主のおじさんもいたので、四人は迷うことなく裏道の方へ進んだ。

 四人はニッキを舐めながらいい気持ちで歩いていた。若牛まで五メートルほど近づいた時だ。今まで草をおいしそうに食べていた若牛がむくっと顔を上げたかと思うと、突然、角を振り立て花世たちに向かってきた。

 四人はびっくりしている間もなく今来た道を死物狂いでもどった。若牛は闘牛のように勇ましく追いかけてくる。四人は、ルミちゃん・花世・友子・カナちゃんの順で一列になって命懸けで走った。

 百メートルほど走ると、県道沿いに坂を登っていく家があった。ルミちゃんは何故か県道をそれ、その坂を駆け登った。花世たちも必死で後を追った。坂の途中、左下にどぶがあった。ルミちゃんはまっすぐ行ったが、花世は急左折してどぶに跳び込んだ。もう、限界だったのだ。ほとんど同時に友子とカナちゃんも跳び込んだ。すぐ後ろを若牛がまっすぐドドドッと地響きを立てて駆け登って行った。ほっとしたのも束の間、すぐに、

 ワワワワア〜ン! 

という激しい犬の鳴き声がしたかと思うと、Uターンした若牛の坂を駆け下っていく姿が見えた。

 そうだ。この家には犬がいたのだ。おばさんは百姓をしているけれど、おじさんはこの辺では珍しい勤め人のせいか、屋敷の樹木がきれいに手入れされている。この家にはルミちゃんと同い年の女の子もいて遊びに来たいのだが、犬がいるので坂の下からしか見たことがない。

 おじさんは姉が冬の間通っていた編み物教室の先生と噂があり、周りの百姓家とは違って秘密めいたところがある。花世はとても興味があるのだけれど、苦手な犬がいてはどうにもならない。

 ルミちゃんは意気揚々とニッキを舐めながら坂を下りてきた。残りの三人は短靴やすねにどぶの肥しをつけていてくさかったけれど、命拾いした思いでどぶから這い上がった。

 驚くべきことに、カナちゃんまでがちゃんとニッキを握りしめていた。花世は一年生になったばかりのカナちゃんがよく牛のひづめにかけられなかったものだと思い、ぞっとした。

「おっかなかったな」

「うん。死ぬかとおもった」

 相槌を打ったのは、友子だけだった。ルミちゃんもカナちゃんもニッキに夢中だ。仕方なく、花世も友子もニッキを舐め始めた。

 そして、花世にとってもあんなに恐かった体験が過ぎてしまうと、じきにどうでもよくなった。それで、四人はけろりとして家路に向かっていた。

 若牛はおじさんのところにもどっていて、何事もなかったかのようにのんびりと草を食べていた。四人はさすがに今度は県道をまっすぐ行った。おじさんは一枚の田んぼを間に幸いにも無事だった四人の姿をちゃんと見ているのに、あやまりもしなかった。

 四人はそのことを不満に思うよりも、のんびりした陽光の中、ニッキの味に浸っていた。

 山沿いの県道の片側は、平野が地平線まで広がっている。遠くに田起こしをしている豆粒ほどの姿がちらほらと視界に入った。花世は、どきどきするほど嬉しい大田植えが近づいていることを感じた。

 

 

   23 山田んぼ

 

 原々とした明るい道。若緑色の木々。

 花世は両親の後を急ぎ足で追った。後に友子がついてくる。きょうはこびり(小昼)を持って山田んぼの田植えだ。山田んぼは水が冷たいので、一番最後に植える。熱に浮かされたように嬉しい大田植えも終わってしまい、姉はまた奉公に出かけた。前の奉公先は肌に合わず、早く帰ってきてしまったので、今度は伯母の紹介で病院に勤めることになった。

 大勢の早乙女が集った大田植え。

  ーおばさん達の方が多かったけど、大田植えにだけ会えるきれいな娘さん達もちゃんと来てくれたー

 朝方の五時から苗を植え始める大田植え。

 蒸篭いっぱいにこびり用の赤飯を炊く大田植え。

 大田植えが終わった夕餉にはご馳走が山ほど出て、男たちは酒に舌鼓を打つ。

 家の中も外も大勢の男衆女衆で賑わう大田植え。花世の大好きな大田植えも終わってしまった。そして、今は大田植えの華やかな喧騒の後の気だるい落ち着きを感じていた。

 夏至が近づいている。強い陽射しの中、山道を歩いていると、汗ばむほどである。

 途中、ホウの大木がまわりの潅木からぬきんでて天を仰いでいた。花世はホウの木を見ると、どきどきして嬉しくなる。ホウの葉はよい香りがするし人の顔より大きいので、大田植えには欠かせない。こびり用の皿代わりにするため、大田植えが近づくと、子どもの仕事としてホウの葉採りを言い付かる。ホウの木は家の裏山にもあるのだが、大木のため葉が小さめである。若木の方が葉が広く柔らかくて使いやすい。それで、友子やルミちゃんたちと毎年山を駆けめぐって若くてみごとなホウの葉集めをすることが、花世にとって大田植えの前夜祭なのだ。だから、ホウの木を見ると、花世は条件反射のように気持ちが弾んでくる。

 どんどん山道を行くと、今度は道沿いのナラの木にマンジュウの蔓がからみついていた。マンジュウの葉は丸くつやつやしている。今はまだ花世の手の平の半分ほどの大きさだが、八月の旧盆には倍以上の大きさになるだろう。この葉は、旧盆に母が小麦粉をこねて作ってくれる饅頭を包むのに使う。マンジュウの葉集めも花世の仕事なので、

(これはりっぱな葉になりそうなので、場所をおぼえておこう)

と思った。

 山田んぼに着いた。山間に、小さいのは二畳くらいからの田んぼが段々になって奥まで続いている。水が張られた田んぼはそれぞれに初夏の青い空を静かに映している。山田んぼは十軒分ほどあるが、きょう田植えをするのは花世たちだけのようだ。父が短く言った。

「畦塗りしてある所だけを歩くんだぞ。湿った草地には蝮がいるからなっ」

 花世はぞっとした。「蝮に噛まれたら、数十分後に死ぬ」ということは、繰り返し聞かされている。山沿いの畦は目に染みるような美しい若草がたっぷり生えているが、そこには近づいてはいけないのだ。

 花世は、前に父が田起こしをし泥土を押しつけて整地してある畦にやかんやにぎりめしの入った風呂敷をを置いた。そして、田んぼを見た。山田んぼは狭いので、線を引かずに大体の見当で苗を植えていく。きれいに澄んだ水田に真っ黒な蛭がくねくねとバタフライで元気に泳いでいる。花世は背中がぞわっとした。

 平地の田んぼにも蛭はいるが、少ないしこんなに元気ではない。動作がのろくてじとっと動くだけだ。だから、避けるのは簡単である。けれど、山田んぼの蛭は敏捷で数も多い。これを避けながら苗を植えるのは、至難の技だ。去年はなぜかこれほど多くはいなかったので、幸いにも蛭の洗礼は受けなかったけれど、今年は無理かもしれない。

 一生懸命仕事をすることだけが何よりも美徳だと思っている母が、山田んぼから帰ってきた時など蛭の吸い口跡だらけである。母が吸いついた蛭を引っ張って取っているのを見たことがあるが、蛭の口は鈎のようになっているから、なかなか離れない。やっと取れたにしても、蛭の毒で跡が非常に痒くなるそうだ。

 花世は蛭の姿を見るだけでも気味が悪いのに、吸いついた蛭を引っ張って取ることなど想像しただけでも卒倒しそうになる。山田んぼは景色が良くて水もきれいなので、大好きなのだが、蛭だけは御免だ。だからといって自分だけ、

「山田んぼの田植えは嫌だ」

などとごねることは考えられなかった。父や母が蛭に吸われ、朝は花世たちが寝ているうちから、夜は月が出るまで田んぼを這いずり回っているのを不断に見ているから。

 花世が腹をくくって短靴を脱ぎ、素足で田んぼに入ろうとした時、母が言った。

「もんぺの裾を藁で縛れ。そしたら、すねは蛭に食われんから」

 花世は頭の中に百ワットの電球が灯ったように気分が明るくなった。平地の田んぼではもんぺに泥がつかないように膝下までまくって田植えをする。そうやっても、泥はあちこちつくが。泥田の中に大根を並べたようににょきっと白いすねがあるのだから、蛭にとって格好の餌場となる。

 けれど、足首の所でもんぺを縛ったら、蛭害はあらかた避けられるだろう。もんぺから出ている足の部分は泥の中に入っていて、蛭はそこまでは行けないのだ。ただ、もんぺが泥だらけになって洗うのが大変だけれど、蛭に吸いつかれるよりは千倍いい。

 どうしてもっと早くこの方法を考えつかなかったんだろうと思いながらも、花世は嬉々として苗束をほどいた藁でもんぺの裾を堅く縛った。側で、母が友子の裾を縛ってやっていた。

 武装はしたけれど、花世は細心の注意を払って山田んぼに入った。水は平地の田んぼよりずっと冷っとしているけれど、あたりは暑いほど暖かいので、返って気持ちが良かった。花世は蛭を避けながらどんどん植えていった。友子も母も、苗束を田んぼ中に投げ終えた父も無言でひたすら苗を植え続けた。

 一時間ちょっとで三ヵ所の田んぼの田植えがすべて終わった。山田んぼは狭いので、曲げ続けた腰が痛くならないうちに終わるので助かる。きょうは友子も蛭に食われなかった。

 母が水をたっぷり張ってあるよその家の田んぼで手の泥を洗いながら言った。

「さて、こびりだ、こびりだ」

 花世と友子はこの瞬間を待っていた。急いで泥だらけの手足を洗っているうちに、母が風呂敷包みを広げてくれた。敷物などないから、四人はあまった藁束の上に腰かけた。

 風呂敷の中から出てきたのは、味噌をつけたでっかいにぎりめしだ。まだ午前九時をまわったくらいだけれど、にぎりめしはうまかった。

 青い空。日一日と濃さを増す緑。新鮮な空気。煌めく陽光に木漏れ日が美しい。

 植え終えたばかりの田んぼや静かに田植えを待っている水田。

 おかずもない味噌にぎりめしだけだけれど、このような場所で家族と食べるこびりは、花世にとって極上の味であり、ひとときであった。

 

 

   24 食い花

 

 ケーン、ケーン

 近くで雉子が鳴いている。

 けれど、それには露ほどの興味も持たず、花世はムシャムシャと可憐な薄赤色のクイバナ(食い花)をむさぼり食っていた。花世の胸ほどの背丈の木に花だけがびっしりついている。それを両手で採りながらどんどん口の中へ入れていく。クイバナは甘酸っぱく癖のない味だ。いくらでも食べられる。

 少し離れた所で、友子とカナちゃんがそれぞれ自分の木を見つけて食べている。田植えがすっかり終わったこの時期、山の緑はますます濃くなり、花をつけている木も多い。猫のしっぽのように垂れ下がって咲いている栗の白い花、誰も見てくれないのがもったいないほど美しい藤の花、清楚な山ユリ…など。けれど、花世たちにはまず口に入るものしか目に入らない。クイバナの木はいくらでも生えているのだが、花が鈴なりにびっしりとついているのは少ない。それで、きょうも枝いっぱい花をつけているうまそうなクイバナの木を求めて山の奥まで駆け登ってきた。

 五弁のクイバナはツツジのように形良く色も美しいのだが、野山を駆け回っている花世たちはすぐお腹がすくので、観賞より格好のおやつになる。

 採りやすい枝を食べつくした花世は、一休みして友子とカナちゃんを見た。二人はじれったいほどゆっくり花を採り、口に運んでいる。と言っても、花世の方が異常に食べ方が速くてたくさん食べるのだが。

 花世は奥の方の道を見た。ルミちゃんがずっと先に行っている筈だ。花世も、

(そろそろ、行こうか)

と思った時、五十メートルほど離れた山の背に茶色の野兎の姿が見えた。野兎はすぐ薮の中に消えてしまったけれど、花世はどきっとした。山遊びをしていて、野兎を見たのは初めてだ。

 もういる筈ないとは思いながら、花世は野兎がいた山の方へ通じている細い道を選んだ。この道は初めてだ。いつもは走りやすい太い道を駆け登っているから。

 花世はどきどきしながら静かに進んで行った。野兎がいた辺りに着いたけれど、ただしんと静かだった。花世が元の道にもどろうかとした時、赤い固まりが目の端に入った。

 近づいて見ると、それは柄が長くさくらんぼのような赤い実だった。さくらんぼと違うのは、実が粒状であることだった。ちょうどまわりに薮がなく、その木はすっくりと草地に立ち、童話の絵の中にでも出てくような丸く形の良い木だ。そして、枝中に真っ赤な実をつけている。それは毒々しいまでに赤くきれいだった。

 花世は食べてみたい気がするけれど、恐さが先に立った。食べられるものかどうか父母から教えられてない。もし、毒だったらとんでもないことだ。花世は退散することにした。ここへルミちゃんが来たら大変だ。ルミちゃんなら食べてみるに違いない。こんな山の奥でルミちゃんに死なれたら困る。

 元の道にもどると、まだ友子とカナちゃんがゆっくりとクイバナを食べている。乳白色の夕闇が近づいてきた。奥からルミちゃんももどって来た。ルミちゃんは太くて長い枝を両手で抱え、引きずっている。何にするつもりかわからないけれど、それでまた新しい遊びを見つけるのだろう。

 ルミちゃんは先に立って帰り始めた。

 途中、道が二手に別れている所で立ち止まってから宣言した。

「きょうはこっちから帰ろう」

 花世たちはその道をめったに使わないけれど、確か村の神社の裏に出る筈だ。花世たちの家までは遠回りだけれど、山からは早く出られる。村に下りてしまえば多少暗くなっても怖くはないので、花世も異存はなかった。

 四人が思い思いにぶらぶら山道を下って行くと、急坂があった。みんな喜んで駆け降りた。ルミちゃんは長くて重い枝を持っているので、花世が一番先に駆け下って行った。急な傾斜が長く続いたので、勢いがつき過ぎた。足が自分の意志ではなく、目まぐるしく両足が交互に動き、これ以上ないという速さで下って行った。ちょっとでも何かにつまづいたら転倒してしまう。だからといって速度を緩めることもできなかった。

 突然、すぐ前に五十センチも鎌首をあげた蛇が目に入った。都会の悪漢のような冷たい目でじっと花世をにらんでいる。

「グェッ!」

 花世は心臓がのどから飛び出るほどたまげ、急カーブして薮の中へ飛び込んだ。蛇を避けた後、また道にもどり、無我夢中で駆け降りた。後ろの三人がどうなったか考えるよゆうもなかった。神社の屋根が見える所まで来てほっとし、立ち止まった。

 少しして、友子が追いついた。その後にルミちゃんがやって来た。驚いたことにちゃんと枝を持っている。花世はどっと疲れが出て、山の縁腰を下ろした。

「おっかなかったな、あのヘビ」

「きみわるかったよ」

 友子が相槌を打った。ルミちゃんは立ったまま後ろを振り返った。

「カナ子が来ないなあ」

 そういえば、カナちゃんの姿が見えない。花世たちの後ろの道はしんとしているだけだ。ルミちゃんは枝を置いてもどりかけた。

「見てこようっと」

 花世はぶきみな蛇のいた道にもどりたくなかった。第一、もう山道を登る元気が残っていなかった。しかも、さっきよりもずっと濃い灰色の薄闇が広がってきている。

 ルミちゃんは花世たちに、

「ついて来て」

とも言わずに一人でさっさともどって行く。ルミちゃんの姿が曲がり角に消えて時、花世は友子を見た。友子は、(行ってもいいよ)という顔をしている。暗くなる山の中にルミちゃんたちを残して帰るわけにいかない。花世は重い足を引きずるようにしてルミちゃんの後を追った。友子もついてくる。

 明るい時は親しみやすくて楽しい山も闇が濃くなると、ぶきみで怖い。何かわからない本能的な恐怖心が襲う。花世は歩きながらばあちゃんから聞いた祖父の話を思い出していた。亡くなった祖父は、村から村をまわり種売りをしていた。ある日、帰りが遅くなったので、近道である山越えをした時、狐に化かされたそうだ。いい気持ちで菜の花畑を歩いていたのに、気がつくと大きな沼の真ん中まで入っていた。たまたま、そこを通りがかった人が声をかけてくれなかったら、どうなっていただろうか。

 とうとう、蛇のいた道までもどった。もう蛇はいなかったけれど、カナちゃんもいなかった。ルミちゃんが首をかしげながら辺りを見回している。

「ここではいっしょにいたのに…」

 もう暗くて十メートル先も見えない。ここまでは花世も確かにカナちゃんを見ている。ここから先、どこへ行ってしまったのだろうか。ルミちゃんが薮に入りかけた。こんなに薄暗い中、薮に蝮でもいたら大変だ。花世はルミちゃんを引っ張った。

「やめなよ。危ないから」

 ルミちゃんは花世を振り払った。

「でも、カナ子がその辺についらくしてるかもしんない」

 それはそうかも知れないけれど、それにしてはカナちゃんの気配がしない。花世は怖いけれど、叫んだ。

「カナちゃーん、どこ?」

「カナっ! いたら、返事しろ!」

 しんと返事はない。ルミちゃんは薮に踏み入った。

「どこかで気絶してるんだ」

 花世はルミちゃんの足にとりすがった。

「蝮がいたらどうするのっ! それより早く家の人を呼んで来ようっ!」

「仕方ねえな」

 やっとルミちゃんは道にもどった。そして、

「カナっ、まってろ。またすぐ来るからな!」

と、暗い山にどなると、山道を駆け降りて行った。花世はルミちゃんから離れないよう必死で後を追った。三人は一固まりになって山を下って行った。

 花世は田んぼから帰っていた両親にカナちゃんのことを伝えるとそのまま茶の間に崩れるように倒れ、眠り込んだ。

 

 翌朝になって、花世はカナちゃんがお墓の石を枕にして寝ていたところを発見されたと聞いた。近所の人達が総出で山狩りをし、やっと明け方見つけたそうだ。お墓はルミちゃんちからは近いけれど、蛇のいた山とは方角が全く違って二山も間がある。一年生のカナちゃんがどこをどう歩いてそこまでたどり着いたかは、誰にもわからなかった。もちろん、本人の記憶にもなかった。

 とにかくも、カナちゃんが怪我もせず無事だったことを知って、花世は深く安堵した。

 みんなに迷惑をかけた罰として山遊びをしばらく禁止されたけれど、花世自身山はこりごりで当分見たくもなかった。

 

 

   25 「柿の種」の味

 

 青くぷくんと太った梅の実が葉陰から顔をのぞかせている。もうピンポン玉に近い大きさの物もあるが、父母からは、

「『お引き上げ』の六月二十日が過ぎてからだぞ。今食べたら疫痢になる」

と、きつく言われているので、見ているだけだ。

 花世は梅の木の近くにある清水に米の入ったを持って行った。米とぎは花世の仕事だ。道の側にあるこの清水は豊富に湧き出ていて、風呂の水や歯磨きなどにも利用している。夏でも枯れないので、近所で井戸の水が干上がりそうになった家の人が天秤をかついで水をもらいに来るくらいである。

 花世はまず柄杓で一杯だけ水を入れて米をシャリシャリと研ぎ始めた。そこへ、同じ四年生のマリちゃんがやってきた。マリちゃんはのしっのしっという感じで歩いてくる。マリちゃんは男の子より大きくてクラスで一番だ。浅黒い顔の中の細い一重まぶたでねめつけるようにして人を見る。そうされると、花世は何も言えなくなる。前は、花世を自分の大きな家に呼びつけていたのに、最近は自分からやってくる。はっきりした目的があって。

 マリちゃんは花世を見てお稲荷様の狐が笑ったように不自然に笑い、百円玉を差し出した。

「『柿の種』買ってきて」

 花世はマリちゃんの姿を見た時から、(まただな)と期待はしていた。マリちゃんは『柿の種』をおすそ分けしてくれるからだ。花世の家では『柿の種』を買ったことはない。

 けれど、マリちゃんのお使いは何か引っかかった。『柿の種』はマリちゃんちの隣の駄菓子屋に売っているのだ。マリちゃんちから花世の家まで百メートルもある。どうしてわざわざ遠道して花世に頼むのだろうか。自分で買えば、花世に分ける必要もないのに。しかも、このごろしょっちゅうだ。

 花世にとって百円の小遣いは、年に一回『お引き上げ』の時くらいだ。マリちゃんはどうしてそんなにお金を持っているのだろう。まあ、お父さんが校長先生をしていて金持ちだからかも知れない。でも、自分のお金だったら、どうして自分で買わないのだろう。毎日のように百円も『柿の種』を買っていたら、店の人に怪しまれるからだろうか。花世だってそれは同じだ。

 けれど、花世はマリちゃんの使いを断らないで、駄菓子屋に向かった。県道に出てから四軒目にある。そこには、バス停があり、町へ出かける時のスタート地点だ。

「ごめんください」

と言って、店に入って行ったら、兄の正夫と同級生の澄子さんが出てきた。澄子さんは色が白く六年生とは思えないほど大人っぽい雰囲気を持っている。学校から帰った後は大体澄子さんが店番をしている。

「柿の種を百円ください」

と花世が言ったら、澄子さんは、

「はい」

とだけ言って柿の種を量り始めた。

 澄子さんは口数が少ないので助かる。毎日のように百円も持って柿の種を買いに来る花世に対して、

「どうしてそんなにお金をもっているの?」

とかは聞かない。それで安心したら、今度は柿の種の量のことが心配になった。柿の種は百グラムで九十五円だ。百円だったら何グラム量っているのだろう。五円分の量を厳密に計算しているのか。おまけしているのか。もしかして、百グラムしか袋に入れていないのか。人の柿の種だから心配することないかとも思ったり。

 とりあえず、黙って袋を受け取りマリちゃんが待っている清水にもどった。柿の種の袋を渡すと、マリちゃんは袋から柿の種をひとつかみ取りだし、花世にくれた。

 同級生からもらったお駄賃代わりの柿の種。何か後ろ暗い。それでも、花世はポリポリと食べ始めた。マリちゃんは招き猫のような嬉しそうな顔でバリバリと食べた。この上なく香ばしくておいしいにおいが辺りに流れた。花世は、ぴりりと辛みもきいている柿の種が大人のような味だと思った。

 花世はすぐ柿の種を食べ終わった。マリちゃんはまだたっぷり入った袋を抱え、食べながら家へ帰って行った。花世は、袋いっぱいの柿の種を食べられるマリちゃんを羨ましいと思うよりいろいろ考えてしまった。

 マリちゃんは三人姉妹なのに、どうしてその人達と一緒に食べないのだろうか。もしかして、家のお金を盗んでいるのだろうか。マリちゃんはそんなに仲がいいわけでもない花世に毎日のように使いを頼み、ありがとうも言わないですぐ帰って行く。花世はマリちゃんから時々まんが本も見せてもらったりするけれど、ルミちゃんと一緒の時のように屈託なく遊ぶことができないでいた。柿の種もまんが本も魅力的だけど、花世はマリちゃんの家来のようで晴れ晴れしない。

 さて、また米を研ごうと思って桶を見ると、水がいっぱい入っていた。花世を待っている間にマリちゃんが入れたのだ。使いの礼のつもりだろう。けれども、こんなに水の量が多いととぎにくい。花世はすっかり水をこぼしてから、シャリシャリとぎ始めた。

 

 

   26 お引き上げ

 

 花世は学校から家までの近道を必死で走っていた。

 きのうもきょうも、親鸞上人様の「お引き上げ」なので学校は午前中で終わった。二年の友子も六年の正夫ももう帰った後だった。花世たち四年生だけ「帰りの会」が長引いて遅くなってしまった。

「お引き上げ」には近郷近在の人達が親鸞上人様のお寺や商店街に集り、身動きができないほどの人であふれる。サーカス小屋が建ち、見せ物小屋が出、綿菓子・金魚・ヨーヨー・烏賊焼・桜んぼ売り…など、子どもの好きな出店がずらりと並ぶ。小遣いがもらえ、それを自由に使っていいのは一年中でこの時だけである。商店街も売り出しをしているので、大人はこの機会をねらって鍋とか鍬などの日用必需品を手に入れる。

 きのうは、友子と正夫と三人で行った。それぞれ百円玉を握りしめて好きな物を買った。花世は心太が好きで、十円の心太をもう一杯もう一杯と食べ続けた。最後に、バス台の五円を残さなければならなくなった時、兄と妹の顔を見た。二人はしかたがないという顔をした。

「あと、三ばいください」

 正夫も友子も花世の心太につきあったのだ。三人は店のわきにある石段に腰掛けて食べた。前にサーカスの小屋があり、大きなオートバイがベルトの上をすごい爆音をたてて乗っていた。ベルトは猛スピードでバイクと反対の方向に走っているので、前に走り出すことはないが、どきどきするほどの危険な迫力がある。花世はバイクとベルトの絶妙のバランスに驚いた。

(いつかサーカス小屋に入ってみたいな。中にはもっとすごいものがあるんだろうなあ)

と、憧れた。

 そして、三人はぶらぶらと家までの四キロを歩いて帰った。正夫はヨーヨーを飛ばしながら、友子は小さなセルロイドの人形を抱きしめ。小遣いの全部を心太にあてた花世は空手で。

(あしたは母ちゃもいっしょだから、こんどは烏賊焼きが食べたいな。もしかして、今年はサーカスを見せてくれるかもしれない…)

と、わくわく想像しながら帰ったのだった。

 今、花世が走っている近道は、学校の裏手から出て山に沿っている。だから、裏道とも呼ばれている。片側は田んぼで、田植えから二・三週間たっているので、苗も太く青々と根付いている。道沿いの小川にはショウブが黄色い花を咲かせている。忠魂碑の石段もみえてきた。普段ならこの道は人がほとんど通らず車も来ないので、花世たちに子どもにとっては道草専門の道だ。石段で一休みしたり草遊びしたりで。

 けれど、きょうはそれどころではない。一秒でも早く家にたどり着かなければならない。花世は必死で走り続けた。ほんとは一人では裏道は怖いので通らないのだが、きょうは仕方がない。母が待っているし、花世は少しでも早く「お引き上げ」に行きたい。

 六月末、梅雨入り前の陽射しは暑く、ランドセルの下のシャツは汗でべったりとひっついていた。額の汗が目に入って辺りの景色がぼやけたが、立ち止まらず平手でこすっただけだ。

 花世は学校から一キロほどの道を走り続けた。裏道は途中で県道に合流し駄菓子屋前のバス停を通ったが、誰もバスを待っていなかった。

 やっと木戸先に着いた。

 ところが、家には人の気配がなく、しんと静まり返っていた。花世はガーンとショックで梅の木の下にへたりこんだ。みんな出かけてしまったのだ。遅い花世を置いて。

 いや、きっとみんなで県道を歩いて行ったのだろう。途中で花世に会える筈だと思って。学校下にもバス停がある。そこから町行きのバスに乗ったに違いない。

 花世が無理して裏道など通らず県道を帰ってきたら、ちゃんと家族と出会って一緒に「お引き上げ」に行けたのに。

 花世は悔やんだ。少しでも早くと考えて怖い思いをして裏道を走り続けてきたのに…。努力が全く仇となってしまい、花世は茫然となってしまった。それに、これから家族を追いかけようという気にはなれなかった。裏道は半分ほどで、あとは県道につながっている。そこを走って通った時はすでに家族が通り過ぎた後だから出会わなかったのだ。バス賃もない。町までの四キロを一人で歩いていけないことはないが、あの人混みで家族を見つけることは奇跡以上だ。

 花世の目の前に美しく黄色に熟れた梅の実が転がっていた。お引き上げが来たからやっと食べられる梅の実。いつもなら狂喜して拾って食べるのに、花世は手も出なかった。

 初夏の真っ青な空の下、花世は汗だらけでうずくまっていた。

 

 

   27 どじょう取り

 

 梅雨が明け、すっかり夏のまぶしい空になった。

 花世は帽子もかぶらず裸足でいそいそと田んぼ道を歩いていた。両手にブリキのバケツと大きな竹ざるを持って。

 両わきの田んぼの稲は目にしみるほど生き生きした緑で、尖った葉先を一斉に天に向けている。穂はまだだ。

 きのうは友子やルミちゃんと一緒だったけれど、きょうは一人だ。一緒も悪くないけれど、一人の方が行きたい場所に行けていい。なにしろ、ルミちゃんはどじょう取りなどすぐ飽きて他の遊びをしたがる。でも、ルミちゃんと一緒だとずっと遠い小川へ行けるし、新しい穴場を発見したりすることがある。一人だと怖いので遠くへは行けないけれど、近間の穴場で心ゆくまでどじょう取りを楽しめる。

 十センチ以上ある太く大きいどじょうは、カマクラと言う。もちろん花世が目指すのは、カマクラだ。けれど、運が悪い時はカマクラが一匹もかからない。いい時で四・五匹だ。母が年に一・二回どじょう汁を作ってくれる。卵と豆腐入りのどじょう汁は、田舎では大変なご馳走だ。姉をのぞいた六人家族が満足できるどじょう汁のためにはカマクラが五十匹以上は必要だ。だから、この時期花世は毎日のようにどじょう取りをしているが、食べるわけではない。バケツに入れたまま外にうっちゃっておく。すると、どじょうは二・三日で死んでしまう。

 ところが、きょうはどじょう汁を作ってもらえそうなのだ。というのも、どういう風の吹き回しか、兄の正夫が竹筒でどじょう取りを始めたのだ。一升瓶ほどの大きさの竹筒にじゃが芋を薄く切って入れ、夕方小川に仕掛ける。竹筒の底はワインの瓶のように大きく盛り上がって開いている。どじょうはそこから入って餌にありつく。ところが、餌を食べた後、筒から出ようとしても筒の先は草でふたをしてあるので出られない。入ってきた穴はしっかり開いているのに、どじょうはそちらには向かない。竹筒は、どじょうが鮭のように流れに逆らって遡上する特性を利用して作られているのだ。この仕掛けだと、運のいい時は竹筒一本で二・三十匹のカマクラが取れる。どうやって手に入れたのか、正夫は竹筒を二本持っているのだ。

 それで、今朝竹筒を引き上げて来たところを見たら、カマクラだけでも四・五十匹はいた。今はバケツに大豆も入れてどじょうを元気にさせている。

 だから、花世は勇んでいた。自分の取ったどじょうも足したどじょう汁にしたい。花世は最低でも一・二匹は取れる小川にやって来た。

 関のあたりから取り始めた。この辺は五十センチほどの深さがあって水量がありすぎ、草もきちんと刈られていて、どじょうの隠れ家になりにくい。けれど、試しに花世はざるを川辺にあて、片足で川のヘリをドコドコ叩いてからざるを上げた。獲物は三・四センチの細いどじょうが二匹だけ。それでも、花世はバケツに水を入れ、大事にどじょうを入れた。小さなどじょうは内臓の苦みが少ないので、食べやすいのだ。

 どんどん進んで花世の家の田んぼまでやって来た。これまで中くらいの大きさのカマクラが三匹取れた。田んぼの水の出口には鮮やかな黄色の菖蒲が咲いている。亡くなった祖父は花が大好きで、こんな所にまで植えたのだそうだ。菖蒲の根元はどじょうのいい隠れ家になりやすい。花世は菖蒲の下手にざるをしっかりと当てた。もう川巾は狭くなっているので、ざるは厳しい関所のようにしっかりはまった。

 それから、花世は二メートルほど上流から川の両縁と底を素足でていねいにドコドコとどじょうを追い出しながらざるに近づいた。菖蒲の根元もしっかり足で叩いた。そして、ざるをまたいで下手からざるを持ち上げた。

 たっぷり泥水の入ったざるは、腰が曲ってしまうほど重たかった。けれど、重ければ重いほど花世は嬉しい。それだけ素晴らしい獲物が入っている可能性が大きいから。ゆっさゆっさざるをゆすると、泥水が少しづつ少なくなっていく。そして、泥水がだんだん大波のようにうねり始めた。こんなに大きくうねるのは、初めてだ。今まで取ったこともないような大きなカマクラがかかったに違いない。泣きたいほど腰が痛かったけれど、花世は期待で頭がキーンと鳴っていた。

 ところが、泥水が半分近くになった時、異様に太い胴が見え隠れしてきた。そして、泥水の中からにゅうっと鎌首を持ち上げたのは、大きな青大将だった。花世は、

「ギャアッ!!」

と叫んで、ざるを田んぼに放り投げた。青大将の方もとんだ災難に逢ったものだ。頭をぶるっと振ってからゆっくりと稲の間に消えていった。

 花世は青大将が消えた後、しばらくしてからやっと我に返った。それから、投げ飛ばしたざるを拾い、バケツを持ってすごすごと畦道を歩き出した。

 帰る道すがら、花世は気味が悪くてたまらなかった。どじょうを追い出すのに川底や川縁を残すところなく足でさぐったのだからあの大きな蛇にさわったに違いない。よくも巻きつかれなかったものだ。幸運と言えば、幸運なのだろう。真夏の強い陽射しの中、花世は青い顔して家に向かった。

 

 

   28 夜のおしおき

 オレンジ色に灯った茶の間の電燈の下。花世は泥のように重い眠気に誘われていた。遠くで母の声がする。

「花世、早く風呂に来い!」

 夕飯の後片付けをすませた母が先に入って花世を呼んでいるのだ。正夫と友子はとっくに入り、もう寝間にひきこもっている。

 花世は遊びつかれ、夕飯を食べたらもうひたすら眠かった。花世は夕食の時、ご飯を口に入れたまま居眠りをすることも少なくなかった。

 きょうはルミちゃんとアタパチの実を採りに山を駆け巡った。久しぶりに二人だけだったので、妹たちを心配することなく思いきり遠くの山まで行ってきた。

 しんと静まり返った山。あたりの木々は真夏の強い陽射しをたっぷり受けて成熟に向かっている。アタパチは小指の先くらいの丸い実だ。春には緑色で固かったのがだんだん赤くなり、今はすっかり黒く熟れて食べ頃なのだ。

 山の奥へ行くほど、日当たりのいいところにアタパチの木がある。アタパチはまだ七・八十センチの細い若木の方がたくさん実をつける。枝にびっしりと隙間がないほど実をつける。アタパチは口の中でプチンとつぶれ、ざらめがかった歯触りで甘みが濃い。子どもたちの真夏の山の味覚だ。

 花世はとりわけおいしい枝先の実だけを食べ、またどんどん次の木に移って行った。

 とつぜん、花世の目の前に欅の大木のようなアタパチの木が現れた。大木なのに枝中に黒い実をつけている。花世はびっくりして見上げた。すると、枝中のアタパチの実が花世めがけて降ってくるではないか。

 花世の体はどんどん埋っていき、首までつかってしまった。そして、大木の実がひとく残らずなくなったと思ったら、今度はてっぺんから何か大きな物が飛んでくる。

 近づいてきたのは、口中アタパチの染みで真っ黒にしたルミちゃんだった。ルミちゃんは黒い口を鬼のようにかあっと開け、花世めがけて落ちてくる。花世は逃げようにもアタパチの実に埋まっているので、動けない。ルミちゃんが眼前に迫ったので、目をつぶった。

 ガッツウーン!!

 ものすごい衝撃だった。あまりの痛さに花世は気を失い、目が覚めた。

 鬼のように目をつりあげ恐い顔でにらんでいたのは、母だった。母が平手で花世をぶち、うたたねから起こしたのだ。

「早く風呂に入れというのに、言うことを聞かんで」

 母はうめくような抑えた声で怒った。そして、まだぼうっとしている花世から、あっという間に服をはぎ取りまっぱだかにしたかと思うと、手を引っ張って土間に下りた。それから、戸口の戸を開け、花世を闇の中に放り出した。そして、戸の鍵をガチャッとかけ、茶の間にもどってしまった。

 一人裸で残った花世は、やっと目が醒め自分の状況を認識した。そしたら、死ぬほどの恐怖が襲ってきた。

 花世は夜中に便所に行く時、一人で行けないので必ず友子を起こしてついて来てもらう。便所は戸口の手前にあり、戸口のガラス戸から暗い闇が見える。そこに、もしもぬおっと何かお化けでも映ったらと思うと、怖くてとても一人では行けないのだ。二年生の友子はちゃんと一人で行けるというのに。夜、蛍取りとか花火とかの時も、いつも人にくっついている。ちょっとでも人から離れて暗い木の蔭とかにも行けない。

 そんな花世が暗い闇に放り出され鍵をかけられたものだから、パニックに陥った。夏だから裸で寒いということはないが、四年生にもなって裸じゃあ恥かしいことの方が先かもしれないのに、花世はひたすら怖かった。頭の栓が外れたように号泣した。

「ワワワワーン

 かんべんして!

 かんべんして!

 かんべんして!

 ………………!」

 母は来てくれない。土間は真っ暗のままだ。花世は戸を叩きながら叫び続けた。

「かんべんして!

 かんべんして!

 かんべんして!

 かんべんして!

   ーーーー!」

 夜こんな大きな声でわめかれたら、近所に聞こえて母も体裁が悪いだろうに、茶の間から出てくる気配がない。言うことを聞かなかった花世を、よほど怒っているのだろう。真夏の太陽の下、田の草取りなど昼の激しい労働で疲れ切っている母だから。

 しばらくして、カチャッという鍵の音がして戸が開いた。よろよろして海老のように腰を曲げながら花世を家に入れてくれたのは、ばあちゃんだった。夏は喘息の具合がいいのか、ばあちゃんは夕飯の後もけっこう起きていることがある。花世はぐしゃぐしゃの顔でばあちゃんのふところに飛び込み、しがみついた。

 

 

   29 川泳ぎ

 

 空中に小さな光の玉がはじけているような青空だ。

 夏休みが近づき、学校は午前中で終わった。

 昼ご飯を食べ終わった花世たちの足は自然に大川に向いて行く。大川と言っても巾二メートルくらいの中くらいの川だ。

 大川の洗い場は一輪車やリヤカーが洗えるように三十度ほどの傾斜でコンクリートで固めてある。そこでは、洗濯をしたり農機具を洗ったりする。晩秋には、たくあん用の大根や漬け菜洗いのため、川の両側に十人以上も並ぶことがある。

 花世と友子は側にあった縄たわしでコンクリートの洗い場のそうじを始めた。水が上がらない所は乾いているのですぐきれいになるが、水が流れ込むようになっている水平の低い洗い場はうっすらと泥が積もっている。その泥を、ぞうきんがけでもするように縄たわしで端から順に大川の本流に押し流す。

 二十分ほどでコンクリート部分はどこもかしこも座敷のようにきれいになった。それで、花世はざらざらして足ざわりのよい洗い場で自分のスカートを洗い始めた。と言ってもスカートを脱ぐわけではなく履いたままで前の部分だけを洗うのだ。暑い時の洗濯は気持ちがいい。友子とカナちゃんも真似し始めた。

 水が流れ込む低い洗い場でかがんでスカートを流れにまかせていると、四・五センチの鮒がスカートに入ってくる。急いでぱっとスカートの端を持ち上げるが、鮒は瞬間移動でもしたかのようにさっといなくなってしまう。何回やってもつかまらない。鮒にからかわれているような気になるが、鮒がスカートに入るとスカートを持ち上げずにはいられない。

 ルミちゃんはスカートのすそをパンツのゴムにはさみブルマーのようにして川の浅い所に入り、何かをさがしている。

 百合ちゃんのばあちゃんが通りかかった。一輪車に鍬やてご(縄で編んだ入れ物)を乗せている。てごから茄子や胡瓜がはみ出している。手拭いをかぶっているけれど、ばあちゃんは顔中びっしょり汗をかいていた。きっと背中なども汗だらけだろう。

 ばあちゃんは一輪車を洗い場のわきに止め、洗い場に下りてきた。そして、まず顔を洗い、次に着ていた絣を脱いで洗い出した。ばあちゃんは絣一枚しか着ていないので、上半身は裸だ。顔は畑の土のようにこげ茶色でしみだらけなのに、体は信じられないほど白かった。ばあちゃんは大きな乳房をゆらんゆらんさせて絣をぎゅうっと絞った。ばあちゃんは絞ったばかりの絣を気持ちよさそうに着ながら花世たちに言った。

「暑いのう。お前ら、泳げや」

「うん!」

 四人は同時に返事をした。ぱっと服を脱いで草の上に置き、パンツひとつで川に飛び込んだ。ばあちゃんは一輪車を引いて帰って行った。

 水の中は洗濯の百倍気持ちがいい。この大川は深い所でも一メートルはないので、おぼれる心配はない。その代わり、長い距離を泳げるという場所でもない。もともと花世たちは泳げないので、バシャバシャと小犬のように水遊びを楽しむのだ。

 友子とカナちゃんは浅いところで腹ばいになってワニのように頭だけ出して足を引きずりながら手で歩いている。

 ルミちゃんは橋の上から側転できれいな半円を描きながら川に着地した。

 そこへ、近所の小さな男の子たちがやってきた。楽しそうに水遊びをしている花世たちを見ると、

「ギャッ!」

と叫び、すぐにパンツ一枚になって川に入ってきた。男の子たちはあたりかまわず水をはね飛ばす。そんなに大きな川でもないので、花世はうるさくなった。それで、いったん岸に上がることにした。

 花世は岸でしこを踏むように膝に両手をあて前屈みになり、嬉しそうにはしゃいでいる男の子たちを眺めた。花世のパンツからジョーと水がしたたっている。急に小便がしたくなった。みんなの見えないところまで行くのは、めんどくさかった。ちょうどパンツから水が流れているからわからないだろうと思い、立ったまま小便をした。小便はなかなか止まらなかった。すると、川の中から二年生のトシオちゃんが花世を指さして叫んだ。

「花世ちゃん、ションベンしてる!」

 みんなの目が花世のパンツに集中した。花世は真っ赤になって打ち消した。

「してないっ! 水だよ!」

 みんなは笑った。

「アハハハ、ションベンだ、ションベンだ」

 花世は川の中へ飛び込んだ。みんなの興味はすぐ自分たちの泳ぎに移り、小さな大川は子どもたちのはしゃぎ声であふれた。

  

 翌日。「帰りの会」が始まる前、花世はミエちゃんに話しかけられた。

「これ、かしてやるよ」

 新しい「少女クラブ」の雑誌だった。花世はぼうっとなるくらい嬉しかった。花世は黙って受け取りながら、

(あしたはミエちゃんに「少女」を持ってきてやろう)

と思っていた。花世は相変わらず学校ではしゃべらなかったが、おとなしいミエちゃんとはいっしょに遊ぶようになっていた。

「帰りの会」が始まった。いつもなら、ぼうっと聞いているだけで終わるはずだった。学級委員の岡昌也が、

「もう、ありませんか」

と聞いた時、花世と同じ村のアキオが手を挙げた。

「きのう、花世ちゃんが川で泳いでました。まだ水泳は許可されていないのに」

 花世はびっくりした。いつから泳いでいいのかなどとは考えたことはなかった。きっと担任の松木先生が説明したのだろうが、花世が聞いていなかったのだ。

 自分のまちがいをみんなの前であからさまにされ、花世は心底恥じ入った。床に一センチほどの小さな穴があいていたが、できることならその穴の中に入ってしまいたかった。

 アキオの発表の後、司会の岡昌也や松木先生が花世に注意したのかもしれないが、花世は小さく小さく縮こまって固まり、あたりの音も光も入らなくなってしまった。

 

 

   30 青いホオズキ

 

 山の清い水で洗い上げたような瑞々しい朝の空だ。

 まわりの緑が朝のまばゆい光を受けてきらきら光っている。地面も朝露でしっとりしているし、小石さえもつやつやと粋がいい。

 きょうは夏休みの第一日目。

 花世と友子は夏休み帳の入った風呂敷を持ってお寺の石段を駆け上がった。今年は学校の方針で朝のうちにお寺とか公民館で集団勉強をすることになったのだ。

 お寺の庭は朝顔が真っ盛りだった。水色、ピンク、紫…と濃くて大きな花びらが豪華に咲き誇っている。こんなにきれいな朝顔はほかの家には咲いていない。街育ちの御寮人さん(住職の妻)が丹精したのだ。花世が、

(勉強が終わったら、この朝顔で色水を作りたいな)

と思っていると、六年生の敏子さんがやって来て、

「さあ、御堂で勉強を始めよう」

と、言った。

 近所の一年生から六年生までの十五・六人が御堂で夏休み帳を広げた。ところが、ふだん遊び転げている者同士が集ったものだから、たちまちおしゃべりが始まった。

「お昼食べたら湖に泳ぎに行こうか」

「いいね」

「関の川だとついでに薬草採りもできるね」

「今年は三キロも学校へ持っていかなくちゃあならんもんね」

「関だと木から飛び込みもできるし」

 五・六年の女子は薬草採りでよく表彰されている。泳ぎも上手だ。花世は泳げないので、湖や関ではこわくてとても遊べない。

 ふと見ると、敏子さんの尻の下に花世の生活表がある。夏休み帳のおまけだ。色刷りの生活表に夏の計画を書き入れるのだが、花世は計画を考えるのが好きだ。夏休み帳より計画表を先にやろうと思った。けれど、敏子さんは夢中になってしゃべっているので、声をかけにくかった。花世は引っ張って取ることにした。

 えいっと思いきり引っ張ると、敏子さんの尻の形に切れてしまった。思わず叫んだ。

「ギャッ!」

 振り向いた敏子さんは、

「ありゃ」

と言って尻の下から残りの生活表をつまみあげた。

「ふん」

 こんなもの大したことないのと言う調子で、ごめんも言わず花世に渡した。そう言えば、先生は生活表を出せと言ったことはないけれど、花世は夏休みの計画をいろいろ考えて書きたかったのだ。とても残念でたまらなかった。花世の夏休みの計画と言っても、ほとんど毎日が川遊びや山遊びでしかないけれど。

 板の間では一年生が寝転んでふざけている。敏子さんが言った。

「終わりにしようか」

 すると、みんなはさっさと夏休み帳を風呂敷に包み、外に飛び出た。一ページだって勉強した子はいなかった。五・六年生の女子はさあっと家に帰ってしまった。小さな子どもたちは境内で蝉の脱け殻なんかをさがしている。

 そこへ、集団勉強をさぼった男の子たちがやってきた。ボスはルミちゃんの兄のテツオちゃんだ。テツオちゃんは五年生だが、母親の御寮人さんに似て勝気で目つきがこわい。六年生にも負けない。

 珍しくテツオちゃんが女の子にも呼びかけた。

「缶けりしようぜ」

 花世たちは喜んだ。こんなに大勢で、しかも男の子たちと遊べるなんてめったにない。

 最初、花世の川泳ぎを告げ口したアキオちゃんがオニになった。テツオちゃんが思いきり遠くに缶を蹴った。みんな散り散りに去り、御堂や庫裏のまわりに隠れた。お寺は鐘つき堂や物置小屋の後ろまできれいに乾いているので、とても隠れやすい。

 アキオちゃんはあちらこちら走って次々と見つけていくが、缶を置いた基地から離れてしまうので、まだ見つかっていない人にまた蹴られてしまう。缶を蹴ると、見つかった者もまた隠れていいので、オニは大変だ。もう一度初めから見つけ直さなくてはならない。

 そのうち、花世がオニになった。

 遠くに蹴られた缶を基地にもどすと、花世は基地から離れないようにして見つけることにした。風通しのため庫裏や御堂の戸は開け放されているので、隠れている者がのぞいたり通ったりすると、基地から見える。隠れている者はオニがさがしに行かないとどうしたのかと思い、ひょいひょいと顔を出してしまう。

 花世は辛抱強くそれを待ち、基地からほとんど動かないで全員の二十人を見つけてしまった。だから、缶も最初の一回蹴られただけだ。花世は得意な気分だった。最後に出てきたテツオちゃんが憎々しげに言った。

「あ〜あ、おもしろくねえ。オニが一歩も動かねえなんて」

 それで、初めて花世は気がついた。つかまった者もずいぶんと白けていたことを。

「やめた、やめた!」

 テツオちゃんは子分を引き連れて石段を降りて行った。

 最後に、いつもの四人が残った。ルミちゃんが子リスのように目をきょろっとさせて言った。

「カンノ山にホオズキとりに行こうか」

「うん!」

 返事をした三人も子リスのように目を輝かせた。

 ルミちゃんを先頭にぴょんぴょんと山道を駆け登った。村の種もみをつけておく種池を通りぬけ、杉林に入った。ここはマリちゃんちの山だ。杉林の奥にカンノ山がある。杉は伐採され、藁がしかれている。暗い杉林の一画に後光がさしているような日溜まりがカンノ山だ。畑にでもするつもりかどうか。

 カンノ山の入口にホオズキがびっしり生えている。カンノ山は地力があるので、ホオズキの濃い黄緑は、まわりの山の乾いた感じがする緑とは違ってつやつやと柔らかくおいしそうなくらいだ。葉陰からホオズキの実が見える。まだ濃い黄緑色だが、ほんの少しオレンジがかっているのもある。黄緑の中のオレンジはとても鮮やかで宝石のようにきれいだ。

 実が熟すと、中の種を上手に取り出して食べ、空になった丸い実の袋を口の中で鳴らす。それができるのは、夏の終わり頃だ。

 今は、葉陰からうっすらとオレンジがかったかわいい実を見るだけでも嬉しい。中の実はまだ青くて苦くどうにもできないのに、花世たちは嬉々として青いホオズキを採り続けた。

(第3部へ続く)   

戻る

トップに戻る