連載童話「北の空」 第1部

(1〜15)

   1 大田植え

 

 それは、六月三日の夜明け前から始まった。

 ドッドッドッ…

 花世は床の中で、家に近づいてくる足音を感じ、闇の揺れを感じ、わくわくしながらはね起きた。子犬のように花世にいつもくっついている妹の友子も目をこすりながら起きた。

 隣の茶の間には、こうこうと電気がついている。さっき、広間の柱時計が午前四時を知らせたばかりだ。

 上着を着て、茶の間へ出ていくと、十歳年上の姉と祖母がいろりと台所で忙しくおさんどんをしていた。大田植えに来てくれた女衆男衆が午前八時ころ食べるこびり(小昼ー実質的には朝食)を作っているのだ。

 両親は既に外に出ていて、苗採りと田植えの準備をしている。朝まだきのひんやりとした空気の中で、

「おはようございます」

「ごくろうさまです」

と、あいさつが交わされている。きょうの大田植えに来てくれた女衆の声だ。今年の女衆は八人、苗採りをする男衆は四人と聞いている。大田植え以外の日は家族だけだから、田植えは母親と姉と花世のせいぜい三人でする。一年生の友子はまだ小さくてできない。一反(十アール)の田んぼの広さが果てしなく続く。中腰で苗を植えていくものだから腰が痛くて痛くてぷつっともいでしまいたくなるほどだ。それが大田植えだと大勢の女衆の手で一反くらいあっという間に緑の早苗の田んぼに変わっていく。

 それに、水の張られた水田に、赤いたすきを締めた女衆が八人も横に並びながら中腰でどんどん早苗を植えていく風景は自然と人間がぴったり合っていてすてきだった。特に、母の実家の隣の家から来てくれる若い女衆は都会的なはっきりとした顔立ちであり、絣の着物に白い襟をのぞかせていてどきどきするほどきれいだった。田植えも上手だった。

 花世が女衆を見たくて外に飛び出ようとした時だ。姉が台所からよく通る声で用を言いつけた。

「花世、ポンプ、こいで! 水がなくなっちゃったから」

 そんなことしてたら、女衆は田植えに出かけてしまう。花世は側の友子に命令した。

「お前、やってて!」

 すると、いろりで煮物を煮ていた祖母が、エビのように曲がった腰をくいと伸ばして花世をにらんだ。

「言われたことはちゃんとするもんだ。友子にはいろりの火の番をしてもらう」

「はい」

 花世は塩をかけられた菜のように萎れ、不平いっぱいの顔で台所に入った。姉は赤飯用のもち米を入れた桶に赤い着色剤を入れていた。姉は機嫌よく言った。

「四〇〇回こいだら、『少女』を買ってやるよ」

「ほんと!」

 花世はすぐ上機嫌になった。花世は十歳だけれど、本なら大人の『家の光』でも読んでしまう。姉の約束は守られたことがないことも忘れ、バットの形をしたポンプの柄を一生懸命こぎ始めた。花世の頭上にあるドラム缶半分ほどの水槽は約四〇〇回でいっぱいになる。父親が取りつけたこの手こぎのポンプのおかげで、花世の家は蛇口から水が使える。よその家はまだ井戸しかないので、柄杓で水を汲みながらの台所仕事だ。

 姉は小さな体に似合わないほどの大きな肉付きのいい手で赤飯をふかすためのせいろを土間のかまどに持っていった。

 

 ワオオ〜ン ウワオオ〜ン

 夕方六時のサイレンは仕事終了の合図だ。

 よその家の田植え衆もぞくぞく田んぼから引き上げてきた。これからどこの家でも無事大田植えが済んだ祝いも兼ねて宴が始まる。

 姉と祖母は大勢の夕餉や酒の肴作りでてんてこ舞をしている。母はほかの女衆より一足先に帰ってきて、泥だらけの田んぼ着を家の前の小川で水洗いして物干し竿にかけた。今度は宴を取りしきらなければならない。母は、庭で白い柿の花を藁に通していた花世に言いつけた。

「ハサギの田んぼに一輪車を置いてきたから、持ってこい」

 花世は、

(もう少しで柿の花の首飾りができるから、それをつけて女衆が田んぼからあがってくるのを見たかったのに…)と思ったが、母の命令は断れない。朝は暗いうちから田んぼ仕事、夜は夜で野良仕事の後始末やあしたの準備などが山のようにある母を見ているからだ。

 花世は作りかけの首飾りをコンクリートの四角い水槽の端に置いた。その下にはお寺のルミちゃんに誘われて採ってきたフキがどさりと置いてあった。けっこう肉厚ないいフキだけれど、姉も母も忙しくてフキの皮などむいていられない。だから、このまま枯れてどぶ行きだろう。

 花世は友子を連れてハサギの田んぼに向かった。

 道々、よその家の大田植えに来た女衆に会った。ここへくるまでにある大川で洗ってきた女衆たちのはだしの足がどきりとするほど白かった。

 ハサギの田んぼに着いた。三枚が段々に重なっていて一反分の広さだ。隣の部落が川向こうに見える。三角の緑の空地にぽつんと一輪車が置いてあった。中に、苗を運ぶ籠が入っている。花世は慣れた手つきで一輪車を押した。

 まわりの田んぼはほとんど田植えが終わり、小さな苗が水面に心細そうに揺れている。気持ちいい夕風が水面を渡って花世を友子を通りすぎる。

 大川まで来た。もう部落の家々が近くに見える。

「友子、せきに行ってみようか」

「うん」

 友子は二歳年上の花世にさからったことがない。

二人は一輪車を田んぼ道のはしに置き、大川沿いの細い畦道を行った。五枚ほどの田んぼを通りすぎると、川をせき止める堰が見えてきた。その手前にある黄色いショウブが花盛りだった。水辺からすっくりと伸びた茎、ぽったりしたまっ黄色の花はまわりの緑やゴボゴボ流れる水としっくり合ってしみじみときれいだった。すぐ側の田んぼは花世の家の田んぼで、このショーブは二年前に亡くなっている祖父が植えたものだ。だから、このショーブは親近感のある美しさだった。

 二人はしばらく眺めると、また一輪車のおいてある田んぼ道に向かった。ゆったりといい気もちで畦道を歩いた。家は宴の真最中だろう。

 西の空に赤みがかった金色の夕陽がまわりの雲を錦色に染めていた。夕陽は植え終わったばかりの緑の水面にも映っていた。それは水面からずっと空との境まで伸び華やかな金色の柱になっていた。

 

 

 翌日、花世は友子とぼんやり縁側に座っていた。一年中で一番人が集まるにぎやかしい宴は終わってしまった。田植え休みはまだ三日残っている。父母や姉はよその部落の大田植えに行っている。

 また白くて手触りのいい柿の花でも集めようと思った時、木戸先から奥の家の婆ちゃんが曲がった腰をひょこひょこ上下させながらやって来た。婆ちゃんは花世の前に立ち、きつい目でにらんだ。

「おまんな、人の家の大事なフキを採ったな。人が丹精したものを採り散らかしてまあ、おまんは泥棒だぞ。学校の先生にも言っておくからな」

 婆ちゃんは言うだけ言うと、また腰をひょこひょこさせながら行ってしまった。水槽の側の枯れかけたフキには気づかず。

 花世はびっくりして言葉も出なかった。

 おととい、一歳年下のルミちゃんは奥の家の裏山でこう言った。

「このフキ、太くてうまそうだね。フキって自然に生えているものだから採っちゃおうよ」

 奥の家の裏山ではあったけれど、畑の畝ではなく、土手のような所に生えていた。ルミちゃんがどうどうと採っているので、花世もつられて一生懸命腕にかかえられるだけ採ったのだった。

 辺りのゆったりした空気が急にとげとげしてきた。学校が始まったらどうしよう。みんなの前で、

「フキどろぼう!」

と、責められたらどうしよう。花世は暗く重い気持ちに震えた。

 初夏だというのに、きょうの空は雪空のように鉛色だった。

 

 

  2 牛ガエル

 

 花世の一週間の田植え休みが終わった。きょうから学校へ行かなければならない。

 姉は東京の医師の家に女中奉公に行ってしまった。ポンプこぎのお駄賃のはずだった雑誌『少女』を買ってくれないまま。姉は来年の大田植えまで帰ってこない。

 今朝の空は目に染みるような青、木戸先に咲いている紫陽花と同じ色だ。

 広間の柱時計が八つ鳴った。けれど、花世は縁側に腰を下ろしたままだった。いつも一緒に出かける妹の友子はとっくに行ってしまった。両親は花世たちより早く朝ご飯を食べて田んぼに行った。家にいるのは、喘息もちの祖母だけだ。祖母はゼイゼイと咳をしながら台所で洗い物をしている。

 花世は恐れていた。教室のみんなの前で先生に、

「フキどろぼう!」

と、ののしられることを。

 花世は柱時計を見て深いため息をついた。そして、のろのろと腰を上げた。もう歩き出さないと遅刻をしてしまう。そうしたら、もっと恥ずかしい。

 花世には学校をさぼるとか仮病を使うとかということは、思い浮かばなかった。親が汗まみれ泥まみれになって必死で働いている姿をいつも目の当りにしているので、そういう考えは話の外のものだった。「勉強しろ」と言われたことはないけれど、学校はどんなに嫌でも「いくべきところ」だった。

 花世は走って走ってやっと始業のチャイムに間に合った。

 担任の松木先生が大きな声で五十人の生徒の出席を取り始めた。松木先生は黒くて強そうな髪を真ん中で分け、頬まで垂れ下げている。髪で隠されているあたりにやけどの跡があるという噂で、あだ名は「コッパちゃ」(コッパはやけどの意)である。この前、悪ガキの光男が体育の時間に準備運動をでれでれとやっていたら、コッパちゃに足げりされた。光男は一メートル飛んでずでんと倒れた。光男はひどく痛そうにしててしばらく起き上がれなかった。

 花世はコッパちゃに怒られたことはないが、非常に怖い先生だと思っている。出席を取り終わった後、「フキどろぼう!」と、どなられたらどうしよう。花世は怖くて気が遠くなりそうだった。こめかみがき〜んとひきつってきた。

 学校に上がる前、花世は一人で田んぼ道をを歩いていた時大きな黒い犬に会ったことがある。犬は口を開けハアハアと牙をむき出しながら迫ってきた。花世は蛇に睨まれた蛙のように体が動かなくなり、ただじっと突っ立っていた。牙を見るのは恐いので、犬の目を見た。茶色の目が暗く孤独に光り、噛みつかれるなと思った。その瞬間、あたりが真空になりわけがわからなくなった。

 気がつくと、花世は田んぼ道に突っ立ったままだった。恐い犬はいなくなり、どこも噛まれていなかった。

 あの時は体中が恐かった。今は、「どろぼう」という汚名で呼ばれる、身の置き所のないほどの恥ずかしい怖さだった。

 四五番目に花世が呼ばれた。

「杉山花世」

 はい、と返事をした。そのつもりだった。ところが、声が出ていなかった。松木先生は花世の方を見てもう一度呼んだ。花世はさっきより口を大きくあけて返事をした。ところが、やはり声は出なかった。

 松木先生はちょっと首を傾げたが花世はちゃんといるので、次の人の名前に移った。

 花世はウホンウホンと咳をした。乾いた力ない咳が出た。

 出席を取り終わった後、松木先生は花世を「フキどろぼう」と責めることもなく算数を始めた。

 

 三時間目は国語だった。ちょうど新美南吉の「てぶくろを買いに」をやっていた。花世は新美南吉が好きだった。図書室で、「おぢいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」「花の木村のどろぼうたち」など、あるだけの南吉の本を夢中で読んだ。

 松木先生は花世のいる窓側の席を順に指して朗読させた。花世の番になった。子ギツネが手ぶくろを買うために、まちがえて本物の自分の手を店のおじさんに差し出してしまう場面だった。花世は、子ぎつねが人間につかまりそうでどきどきするけれど好きな場面なので、力んで立った。

 ところが、読み出しても声が出ない。まわりが、

「聞こえません」

と言い出した。花世はウホンウホンと空咳をしてもう一度読もうとした。喉がヒューヒュー言うだけだった。

「聞こえませ〜ん!」

が大きくなった。松木先生は大きな声で、

「うるさいっ」

と怒鳴った。教室はぴたりと静まった。花世はまっ赤になった。

 松木先生は不思議そうに花世を見た。

「杉山は朗読が上手なのに、きょうはどうしたんだ? 風邪でもひいたか」

 花世は首を振った。松木先生は首をひねってから言った。

「まあ、きょうはよし。後ろの木村、続きを読め」

 花世は腰を下ろした。体が鉛のように重く鈍く椅子に沈んだ。

 

 五時間目が終わって、花世は一人で家に帰った。同じ村の子がいるのだが、ふだんも遊ぶことなく、いつも一人でさっさと帰って来る。

 庭でばあちゃんがむしろに干したワラビを袋に取り込んでいた。藁灰で灰汁抜きされたワラビは乾いて黒くちぢんでいる。これは冬の大切な保存食になる。

 ばあちゃんは仕事の手を休めず花世に言った。

「にぎりめしでも食ったら、ヤギを土手に連れていけ」「は〜い」

 自然に声が出た。梅の木の下で、友子が地面に絵をかいていた。

 花世は兄のお下がりの茶色のランドセルを茶の間のラジオの下に置き、もんぺにはきかえた。土手にいく時はもんぺに限る。動きやすいし、もんぺなら汚しても自分で洗える。それから、茶箪笥の中にあった大きなにぎりめしを一個食べた。残りの一個は兄の分だ。まわりに味噌をつけただけのにぎりめしだが、とてもうまかった。 花世はゆったりしてほっと息をついた。そして、きょう学校で体験したはずかしい恐怖感を記憶の隅に追いやった。

 さて、ヤギを外に連れ出さなくてはならない。これが厄介だ。ヤギも牛も人間と同じ屋根の下にいて、土間の一角に住んでいる。しかも、ヤギは牛部屋の奥の小部屋にいるのだ。

 牛はふだん外の方を見ているが、土間の方の戸を開けると、餌をもらえると思ってか必ず向きを変えて、間仕切り用の二本の横棒の間から顔を出す。牛の太くて立派な二本の角がにゅうっと近づくと、花世はふるえてしまう。けれど、ヤツが顔を突き出している半畳ほどの狭い場所に立ってヤギ部屋を仕切っている格子を外さないと、ヤギを外へ出せない。

 十才年上の姉は、平気でそこを通りヤギ小屋へ入った。そして、ヤギの乳をしぼり、花世たちに飲ませてくれた。ヤギの乳は甘く草のにおいがして、花世は好きだった。けれど、花世はあと十年たっても姉のように平気で牛の側へ行けないと思っている。

 そこで、花世は牛の角が届かない壁の横板を利用することにしている。床から半間上にある横板に乗り、忍者のように伝ってヤギ小屋に行き、格子を外す。この作業も、今ではだいぶ慣れた。

 今は二匹の子ヤギも一緒だ。花世は親子三匹を土間から外へ連れ出した。友子がすぐ寄ってきて子ヤギを抱いた。

 メヘヘヘエ〜ン

 子ヤギは甘い乳くさい声でかわいく鳴いた。真っ白でふかふかした毛が太めの足までたっぷりおおっている。澄んだうすい空色の四角い瞳。やわらかくて気持ちのいい耳たぶ。花世には世の中にこんなかわいい生き物がいるなんて信じられないくらいだ。自分も早く土手に行って子ヤギにさわりたい。

 親ヤギの首につないだ綱を持って木戸先を出ようとした時、お寺のルミちゃんが花もようのスカートをひらひらさせて走ってきた。

「おれもいっしょにいく!」

 ルミちゃんも子ヤギが大好きである。お寺は、花世の家から五軒先にあり、長い石段を上りきった所だ。花世が子ヤギを連れ出すと、ルミちゃんはまるで見ていたようにやってくる。

 ルミちゃんもすぐ子ヤギを抱き上げた。まるで自分の持ち物のように。親ヤギの綱を引いている花世は、ルミちゃんがひどく恨めしかった。

 三人は田んぼ道を通って土手に向かった。道の両側には根づき始めた早苗が水面にそよいでいる。緑の早苗は縦にも横にも斜めにもまっすぐ一本の線にそろってずっと続いている。

 親ヤギは花世に引かれておとなしくついて来る。友子やルミちゃんから開放された子ヤギはぴょんぴょんはねながら親ヤギの前になったり後になったりしている。

 大川沿いの土手に着いた。ここにはヤギの好きな柔らかな青草がたっぷりある。花世は桜の木の幹に綱をつないだ。これで花世も遊べる。

 ルミちゃんはヤギにも飽きて土手の上で側転を始めた。右手からゆっくり地面につき両足を思い切り伸ばして広げて半円を描く。まるで扇を開いたようなきれいな側転だ。花世はルミちゃんより一つ年上だけれど、できない。友子がルミちゃんをまねしてやってみた。ルミちゃんにはとても及ばないが、へっぴりごしであいきょうのある側転だった。

 花世は子ヤギをたっぷりなぜてから、クローバの白い花を摘んだ。甘いにおいもいいが、この花でいろいろなものを編める。きょうは長く編んで電車ごっこをしようと思った。三本の花を芯にして二本づつくるりとまわして編み始めた。クローバの花は、緑のふかふかじゅうたんの上に白い星を散りばめたように無数に咲いているので、花世はすぐに五十センチほど編んだ。

 器用な花世の手つきを見てルミちゃんも友子もまねして丸いクローバの花を編み始めた。

 花世の花ロープは二メートルをこえた。友子は花世ほどはやくないけれど、ていねいに編んでいる。ルミちゃんのはごつく、固まったりゆるんだりしている。電車ごっこにはとても使えそうもない。

 とつぜん、

 ンモ〜 ンモ〜 

と、牛のような下腹に響く鳴き声がした。ルミちゃんは編みかけの花をぽうんと放り投げた。

「うしガエルだわ!」

 見ると、土手の下の田んぼに大きなカエルが茶色の三角の頭だけを水面に出している。花世は牛ガエルの声は聞いたことがあるが、見るのは初めてだった。今まで見たことないほど大きなカエルだ。花世はトノサマガエルの五倍はあると思った。とてもおいしいとも聞いているが、食べたことはない。花世の村でも高級な珍味とされている。

 ルミちゃんは勇敢に宣言した。

「つかまえて食ってやる!」

 ルミちゃんはそっと土手を滑り降り、ゴムの短靴を脱いで畦に置いた。そして、田植えが終わったばかりのよその家の田んぼに入った。

 牛ガエルは巨大な体を誇るようにボチャーンボチャーンと二度水面を跳び、姿を消した。花世はそのまだらもようのグロテスクな姿にぎょっとした。けれど、ルミちゃんは恐れるふうもなく牛ガエルがもぐったあたりをえいっとつかんだ。空振りだった。二回・三回と続けた。牛ガエルはつかまらない。

 頭にきたルミちゃんは四つんばいになってめちゃくちゃに田んぼを歩き回り泥を掬った。牛ガエルはあの大きな体をどこにかくしたのだろう。もう鳴き声もしなかった。ルミちゃんは手当たりしだいに早苗を引っこ抜いて投げた。

「ああ…」

 花世には信じられないような光景だが、注意できなかった。お寺のルミちゃんは田植えなどしたことがないから、その苦労がわからない。それに、ルミちゃんは次から次とおもしろい遊びを思いつき運動神経もいい。花世は三年でルミちゃんは二年だけれど、三人の中では一番いばっているのはルミちゃんだ。

 とつぜん、泥に足を取られたのかルミちゃんが田んぼの中にビチャッと転んだ。ルミちゃんはすぐ起き上がったが、きれいな花柄のスカートも白いブラウスもびしょびしょで泥だらけだった。花世は心の中で、

(せっかく植えた苗をあんな目にあわせたので、バチがあたったんだわ)

と思い、黙って見ていた。ルミちゃんは小鬼のような真っ赤な顔になっておこり、

「くそっ! くそっ!」

と言って、バシャバシャ水音を高くあげ畦の方にもどってきた。そして、畦に上がろうとした時、またすべって田んぼに尻もちをついた。

「アハッ」

 花世の後ろで、友子が笑った。

 ルミちゃんは短靴を持ち、こわい顔して土手に上がってきた。泥だらけのまま友子に近づき短靴でなぐろうとした。友子はするりと逃げた。追いかけようとしたルミちゃんの前にクローバの花ロープがびゅうんと蛇のように飛んだ。花世が思わずライオン使いの鞭のように地面を叩き、友子との間をさえぎったのだった。

 ルミちゃんはお寺の御堂にすえられている阿修羅のような恐い顔で花世をにらんだ。しかし、自分より背が大きい花世にはかかってこなかった。そして、

「チックショウ!」

と怒鳴り、短靴を持ったまま裸足で帰っていった。姿が遠くなると、花世は友子と顔を見合わせた。

 友子は嬉しそうににやっと笑った。花世もにいっと笑った。いつもいばっているルミちゃんの泥だらけの姿は哀れでこっけいだった。

「アッハハハハ…」

 二人は声を合わせて思い切り笑った。そしたら、奥の家のばあちゃんに「フキどろぼう」と言われて以来重くつかえていたものが少しふき飛んだような気がした。

 問題は土手の下の田んぼだ。苗が無残に倒れたり浮いたりしている。自分の家の田んぼではないけれど、苗がかわいそうでもありもったいなくもあった。花世は植え直してあげようかなあと思った。でも、自分かってなルミちゃんのしりぬぐいはしゃくにさわる。けれど、このままだと……

 迷っている花世に、友子がぽつっと言った。

「こんどは田んぼあらしっていわれるかもね」

 花世はどきっとした。一年生のくせに、花世の心を見抜いたようなことを言う。花世に、「フキどろぼう」で味わったいやな記憶がよみがえった。二度とあんなはずかしくて辛い思いはしたくない。

 花世はおこったように土手をすべりおりた。友子もついてきた。

 花世はもんぺのすそをひざまでたくしあげ、短靴を脱いではだしで田んぼに入った。友子もまねをした。ルミちゃんが荒らしたのは三畳ほどの広さだ。花世はしゃんと立っているまわりの苗に合わせて外側から植え直すことにした。

 友子は花世の植え方をじっと見た。それから浮いている苗を拾い、箸を持つ三本指で水の下の泥にぎゅっとさしておさえた。踏まれて傷ついた苗だが、垂直にしっかり立った。友子は嬉しかった。一年生の友子にとって生まれて初めての田植えだった。

 土手の上で、親ヤギが二人を応援するかのようにメエエエ〜ンと鳴いた。二匹の子ヤギも合わせるように、メヘヘヘンと鳴いた。

 緑の若草の中でたわむれる真っ白なヤギたち、目にしみるような青空に白いわた雲。花世は苗を持ったまま、

(わたしのとても好きなけしき!)

と、強く感じた。

   

 

   3 桑いちごとり

 

 あと三日で夏休みだ。

 授業も午前中で終わりだから、午後いっぱい思い切り遊べる。

 花世は大急ぎで昼ご飯を食べると、外へ飛び出した。友子も後を追った。真夏の日ざしはきつく、二人の濃い影を作っている。ばあちゃんが大事に育てている百日草や向日葵は、きぜんと顔を陽に向け、赤や黄の原色の花びらをほこっている。

 花世はルミちゃんちに向かって走った。ところが、お寺の石段の手前にある奥の家まで来た時、がっかりした。ルミちゃんが奥の家のユリちゃんと川遊びをしているではないか。

 ユリちゃんは友子と同じ一年生だが、二人だけで遊ぶことはない。ユリちゃんは大柄な体で花世くらいの背たけがある。色白でかわいい目鼻立ちだが、男の子のようにさっぱりしている。

 遊びの組合せは、ルミちゃんと花世、またはルミちゃんとユリちゃん、まれに花世とユリちゃんである。三人がいっしょに遊ぶことはなかった。友子はいつも花世と込みだ。

 奥の家の川は山の沢から流れてきていて、冷たくてきれいな水だ。そのまま飲むこともできる。ときどき、カジカとか沢ガニもいる。

 ルミちゃんたちは川に関を作って水をためていた。涼しくて楽しそうだ。でも、仲間に入るわけにいかない。花世と友子は肩を落として家に帰った。

 仕方がないので、花世は梅の大木が日陰を作っている下で十六石を始めた。地面に十六マスの正方形を書き、斜めの線も入れる。小石を交差点に置きながら相手の石をはさみうちにして陣地を広げていく遊びだ。

 何回やっても、花世は二歳年下の友子に勝ってしまいつまらなくなった。友子は、

「もう一回やって!」

をくりかえし、もう十回以上やった。花世はすっくと立ち上がり、

「お・わ・りっ!」

と宣言した。友子が物足りなそうな顔をしているのもかまわず、花世は蟻地獄をさがそうと思った。蟻地獄は南天や椿の根元に、小さなすり鉢状の落とし穴を作って獲物を待っている。

 花世が蟻地獄の小さなすり鉢に細い枝を突っ込んでいると、とつぜん、

「わっ!」

と言う声とともに、背中を思い切りたたかれた。びっくりして振り返ると、ルミちゃんだった。顔からすんなり伸びた手足までおいしそうなチョコレート色に焼けている。ルミちゃんはきれいな白い歯並びでにいっと笑い、ずるそうに目を光らせて言った。

「桑いちごとりに行こうよっ」

「うん!」

 友子と二人なら行く気はしないけれど、ルミちゃんとなら行きたくなるからふしぎである。

 花世は家に入ってアルミの弁当箱を持ってきた。蓋の真ん中は、梅干しの酸で穴があきかかっている。それでも、花世にとって立派な入れ物だ。ルミちゃんはから手だった。

 三人は強い日ざしの中、帽子もかぶらず栃が原に向かった。栃が原は村の外れにある小高い丘の上にある桑畑だ。

 三人は栃が原に続く坂道まで来たら、のどが乾いてしまった。それで、坂の手前の平らな道を行き、杉林の中にある水場に走った。そこには湧水が流れ出ていて中鍋くらいの大きさのたまりを作っている。側に、欠けた湯飲み茶碗まで置いてある。のどの乾いた大人も利用しているのだ。 花世たちは茶碗を使わず、近くの笹を取り三角すいの入れ物を作って飲んだ。水は冷たくて甘くてうまかった。飲み終わると、近道になる崖をよじ登って栃が原に向かった。

 台地の栃が原は灼熱の日ざしだった。けれど、三人は喜々として桑いちごとりを始めた。枝に直接生っている黒紫の粒つぶの実。ルミちゃんはとっては食べ、とっては食べしながら木から木へと移って行った。花世は友子と実がたっぷり生っている木陰にしゃがんでもぎ始めた。すぐ食べたいのを我慢してアルミの弁当箱に入れた。

 弁当箱は三本目の木でいっぱいになった。二人は葉陰に腰をおろして食べ始めた。真夏の日ざしをたっぷり浴びた桑の実は、今まで食べたどんな山の実よりとろりと甘く、おいしかった。べろや口の回りが桑いちごの黒い紫色に染まって、二人とも小さな山姥のようであった。二人は顔を見合わせてイヒヒヒ…と笑った。

 いきなり、ルミちゃんが飛び込んできた。

「あっちちち」

 日盛りの中桑いちごを食べ回ったルミちゃんは、赤茶けた髪の先までさわるとやけどをしそうなほど熱気を放っていた。

 ルミちゃんは木陰で一息つくと、花世の弁当箱に目をつけ当たり前のように手を差し出した。

「オレにもおくれ」

 花世はちょっと間を置いてから一粒だけ乗せてやった。ルミちゃんはあっという間に食べ終わると、すぐまた手を差し出した。今まで花世はルミちゃんの言う通り自分の採ったサクランボやキイチゴをあげてきた。けれど、きょうはもうあげる気はしなかった。ルミちゃんはいらだった。

「はやくウ !」

 花世はじっとしていた。友子が近くの桑の木を指して言った。

「あそこにいっぱいなってるよ」

 ルミちゃんは(何を!)という顔で友子をにらんだ。花世は思い切って言った。

「食べたかったら、自分でとりなよ」

 ルミちゃんは仁王様のように眉をつりあげ恐い顔をしたが、そのまま向こうに走って行って桑の木の陰に見えなくなった。

 花世はどっと肩から力が抜けた。年下のルミちゃんに逆らったのは初めてだったのだ。花世はまた友子と桑いちごを食べ始めた。さっきよりずっと甘くておいしかった。

 全部食べ終わり弁当箱のふたも閉め、何気なく向こうの山に目がいった。すると、なんと山の中ほどに蛇の太い胴体があって、にゅるにゅると横に動いているではないか。向こうの山までは間に谷があるのでかなりの距離がある。青大将くらいの蛇ならここから見えるはずがない。日本にはいないニシキヘビだってあんなに太くはないだろう。花世はぞっとして側の友子に指さして教えた。友子は目をみはった。

「なに、あれ?」

 花世は巨大ヘビにおそわれないうちに家に帰ろうと思った。それにはルミちゃんも呼ばなくては。

「ルミちゃ〜ん、ちょっと来てエ !」

 ルミちゃんはすぐやってきた。

「なあに、ニワトリが首しめられたような声出して」

 ルミちゃんはさっきのおこり顔はどこかに置いてきてけろっとしていた。花世は向かいの山を指さした。

「あそこ、見てっ!」

 ルミちゃんはきょろっとよく動く瞳で見た。

「あそこがどうかしたの」

「でっかいヘビがいるでしょ」

 ルミちゃんは不満気に言った。

「なあんにもいないよ」

 花世は仕方なしにもう一度見てみた。けれど、いくら目をしばたいてよく見てもさっきの巨大ヘビはいなかった。ヘビってそんなに速く動けるものだろうか。花世は友子に確かめた。

「さっき、すごい太いヘビがいたよね」

 友子は力強くうなずいた。ルミちゃんは残念そうだった。

「早くよんでくれればよかったのに」

 花世は驚いた。できることなら、あんなものは見たくない。弁当箱を持ってルミちゃんをせかした。

「とにかく、はやく帰ろうよ」

 ところが、ルミちゃんはとんでもないという顔をした。

「きょうはまだ早いから栃が原の奥をたんけんしようよ」 花世はルミちゃんという人種がわからなかった。

「あのでっかいヘビにおそわれたらどうするのっ! こんなに大きかったんだから」

 花世は両手をいっぱいに広げた。ルミちゃんは桑の木の根元に生えていたドクダミを二・三本引っこ抜いた。

「ヘビってこれによわいんだ。オレがこれでおいはらってやるよ」

 花世は絶望的になった。こんなドクダミの二・三本でどうしてあの巨大ヘビをやっつけることができるだろうか。

 ルミちゃんは花世の気持ちも考えず、木立ちにおおわれている涼しい山道に向かって走り出した。

 花世は友子と二人だけでも帰りたかった。友子を見ると、小犬が「ご主人さまの言うとおりにしますよ」とでもいうような顔をして花世の指示を待っている。ルミちゃんの姿はもう緑の奥に消えようとしている。ルミちゃんが巨大ヘビに飲まれたらどうしよう。花世はルミちゃんの後を追った。

「待ってえ〜、家へ帰ろうよっ!」

 友子も後について走ってくる。三人まとめてヘビに飲まれたらどうしよう。花世は恐怖でいっぱいのまま走った。

「待ってよオ ……」

 けれど、ルミちゃんは初めての山道を猟犬のようにひょいひょい走っていく。

 山道を、登っては下り登っては下りをくり返した。

 とうとう、花世は息が切れて走れなくなった。地面にへたりこんで、はあはあと息をついた。友子もやっと追いついてすわりこんだ。ルミちゃんの姿はとっくに見えなくなっていた。

 あたりはまったく知らない初めて見る山の形だった。道沿いにはナラやブナの大木が立ち並んでいた。しんとして物音がない。まわりの山や木にじっと見つめられているようだった。花世はぶるっと震えた。友子に(帰ろう)と目で合図して立ち上がった。

 もと来た道を歩きかけた時、背中をバシッと打たれた。花世は山の魔性のものにでもやられたのかと思い、ぎょっとしてふり向いた。

 そこには、いつのまにかルミちゃんが立っていて山猿のような真っ赤な顔で笑っているではないか。さすがにおとなしい花世も怒ってルミちゃんをぶちかえそうとした。しかし、ルミちゃんはひらりと交わしてまた奥山の方へ逃げた。

 花世は追いかけた。走って走って、やっと登り坂でルミちゃんのブラウスをひっつかんだ。その時、とつぜん、空を切り開いたように明るい別世界に飛び込んだ。

 坂道を登り切ったところには、果てが見えないほど満々と水をたたえた湖が広がっていたのだ。湖面は静かにまわりの山や青い空、白い雲を映していた。この世のものとは思えない神秘的な美しさだった。

 ルミちゃんの手からしなびたドクダミがぽろっと落ちた。三人は息もできないほど湖の美しさに打たれて立ちつくしていた。

 

 

    4 台風の夜

 

 一、二、三、四、…… 十三匹!

 花世は喜んだ。ハサ木(刈った稲を乾燥させるために組み立てた横木)の斜めのつっかい棒に十三匹も赤とんぼが止まっている。

 花世ははだしでそっと近づき、十センチおきくらいに並んで止まっている赤とんぼを次々につかまえていった。けれど、八匹までがやっとで、あとは高すぎて届かなかった。花世は八匹の赤とんぼの羽を重ねながら持っていたので、ぐるりと赤とんぼの半円ができていた。花世はそれを持ってハサ木の反対側に行った。

 そこには、ルミちゃんと友子がやはり赤とんぼをねらっていた。ルミちゃんはガアッという気迫で迫るものだから、赤とんばはすぐ察して逃げてしまう。ルミちゃんの手には一匹もえものはいなかった。友子は二匹つかまえていた。

 ルミちゃんは花世の手に扇のように半円を描いている赤とんぼを見て、「チッ」と舌打ちして言った。

「ハサ木から飛びおり競争しようよ」

「いいよ」

 花世も友子もハサ木から飛びおりるのは、好きだった。二人は赤とんぼをそっと放した。赤とんぼたちは、初めよろよろと、けれど、だんだんしっかりとした羽ばたき方で澄んだ青空の中に消えていった。

 ここの花世の家のハサ木は八段あった。まだ稲刈りが始まったばかりなので、半分以上のハサ木が空いていて子どもたちの絶好の遊び場だ。太い横木で学校の鉄棒のようにぐるぐる回ったり鬼ごっこをしたりするのだが、高い段からの飛びおりは、ぞくぞくして格別に気持ちがよかった。

 三人ともまず二段から足慣らしをした。三人そろってはだしで一五〇センチくらいの高さから刈取りの終わったやわらかい田んぼにグチャッと着地した。友子が嬉しそうに片えくぼを作って笑った。年上のルミちゃんや花世と同じことができるのは、すごい快感だ。

 次は、三段目。これも三人そろって着地。

 その次が問題だった。四段目はニメートル以上ある。一年生の友子が自分の背の倍くらいの高さから飛びおりるのは、かなりの勇気と技術がいる。

 今まで、友子は三段でやめていた。けれど、きょうは、(飛んでみたいな)という気持ちになってしまった。きょうは初めてトンボを二匹もつかまえたではないか。ルミちゃんは一匹もつかまえてないのに。

 友子は花世たちといっしょに四段目のハサ木を登った。ルミちゃんがからかった。

「友ちゃん、から元気出してるね」

 花世は四段を飛ぶ気の友子を見てびっくりした。

「やめときな! 足、おるから」

 友子はルミちゃんがバカにしたので、にらんだ。ルミちゃんは友子のにらみなんか屁とも思わず自慢した。

「おれは一年のとき、四段は軽かったけどね。花世ちゃんは二年になってやっと四段飛べたんだから、友ちゃんもむりむり」

 友子はもう何がなんでも飛びおりようと思っているらしい。そう、担任の草間先生が、鉄棒から飛びおりる時はひざを曲げて着地すれば大丈夫と言っていたではないか。田んぼは校庭よりやわらかいし。

 目を吊り上げ歯を食いしばっている友子に、花世はもうやめろとは言えなかった。友子が強情出したら、だれが何と言っても聞かないのだ。

「着地する時、両手も田んぼにつくんだよ」

「うん」

 三人はいっしょに四段を飛びおりた。

 フワアッ!

 空中を飛び、重力の法則通り落下する瞬間は、お尻の穴がきゅんとすぼまりすばらしい心地だった。

 友子は、ひよこが卵から生まれ出た時のように自分の殻が飛び散り、心と体が自由な世界に飛び立ったように感じた。

 グチャッ。

 やわらかいはずの土が足全体に相当のショックを与え、じいんとしびれたけれど、がまんした。

 花世が心配そうに友子を見た。

「だいじょうぶ?」

 友子は大人っぽい顔つきでゆっくりうなずいた。

 ルミちゃんは目をみはったけれど、すぐ何でもない顔をした。

「まぐれだよ」

 ルミちゃんはすぐハサ木を登り始めた。五段を飛びおりるのだ。五段を飛べるのはルミちゃんだけだ。早く飛んで友子の快挙を薄めなくてはならない。

 花世はすぐルミちゃんの魂胆がわかった。せっかく友子ががんばったのに、それをやっかんでいるルミちゃんがにくらしかった。友子がかわいそうだ。

 花世はルミちゃんの後に続いた。何かしなくてはならない。

 ルミちゃんは五段目に乗り、飛びおりるポーズになった。かっこいい。くっきりした二重まぶたで前を見すえ前傾の姿勢をとったルミちゃんは、何かの選手のようにフォームがばっちりと決まっていた。

 フワアッ!

 ルミちゃんは見ている方も気持ちがいいほどのきれいな弧を描いて飛んだ。

 飛び終わったルミちゃんは、五段目に乗っている花世を見ておどろいた。

「なにしてんの!」

 花世はだまって飛びおりる格好になった。

 切り株がそろっている着地面ははるか遠かった。下から見上げると、それほどではないけれど、上から見下ろすと足がすくむほど高い。運動神経がいい方ではない花世にとっては危険な挑戦だ。足でも折ったら、もうすぐ稲刈り休みだというのに手伝いができなくなってしまう。

 花世はやめようかと思った。飛ぶことができないでいる花世を見て、ルミちゃんは安心した。

「花世ちゃん、おれのまねなんかできるわけないさ。四段にしなよ」

 友子が叫んだ。

「ねえちゃん、おととい柿の木から落ちたけど、そこより高かったよ!」

 そうだった。あの時は痛かった。尻をいやというほど地面にぶつけた。柿の木の上で柿を食いすぎ、おなかがいっぱいで足もとがすべってしまったのだ。

 でも、骨折はしなかった。それに、田んぼは地面よりやわらかい。

 花世はもう一度見がまえた。

 エイッ!

 体中が風を受け、筋肉が収縮し、このままこのままずっと落ち続けたいほど全身がぞくぞくした。ずう〜んとまっしぐらに危険なゴールに向かって突進する。

 ドチャッ!

 思ったほど足のショックもなかった。すぐ側にいた友子がにやっと笑った。

「やったね」

 花世は嬉しかった。友子と両手をパチッと合わせた。

 ルミちゃんはおこったようにまたハサ木に登っていった。今度は六段まで登った。花世はたまげた。いくらなんでも、二年生のるみちゃんが二階建ての屋根のてっぺんくらいの高さから飛びおりるのは、無謀だ。

「やめなよ、ルミちゃん!」

 けれど、ルミちゃんはみがまえた。

「けがしても知らないよ!」

 友子はおもしろそうに見ている。花世はあせった。

「やめなってば!」

 ルミちゃんはわめいている花世をからかうように今にも飛びおりそうなポーズをとっている。

 花世はルミちゃんが怪我するところなんか見たくなかった。友子の手を取り、人家に向かってかけ出した。

「帰るからね!」

 花世は走った。後ろをふりかえらないで走り続けた。

 もうふり返ってもハサ木の見えない所まで来てから、やっとほっとし、友子の手を放して歩き始めた。二匹つながった赤とんぼがついっと二人の前を飛んでいった。花世は急にコスモスが見たくなった。近くに花世の家の畑がある。その一畝に、母が植えたコスモスが今ちょうど花盛りなのだ。

「よっていこうか」

 友子はうなずいた。

 遠くからもコスモスは目立った。まわりは濃い緑なのに、そこだけ白・ピンク・赤紫色の花が咲き乱れている。近づくにつれ、優しげな八弁の花びらが青空に映えていて、夢のようにきれいだった。

 母はいつも忙しく今まで花など畑に植えたことはなかったのだが、今年はどういう風の吹き回しか一うねだけ花園を作った。まわりの家の畑も野菜だけで花を植えるよゆうはない。

 二人はコスモスの側にねころんだ。深く澄んだ秋空に、コスモスの花がたおやかにゆれ、心がしみじみとなるほど美しかった。

 しばらくして、コスモスが大きく揺れ出した。風が出てきたのだ。おなかもすいてきたので、花世は起き上がった。友子も起きた。二人は追い風を受けながら家に向かってかけ出した。

 

 その夜、空は吠え、荒れ狂った。台風が急に進路を変え、北陸の空を直撃したのだ。

 ゴゴゴオッ!

 ザザアッ、

 ゴギッ、バタッ!

 風と雨音の合間に何かが倒れたりぶつかったりする音がする。

「みんな、起きろっ!」

 夜中に、母がこわい顔で花世たちを起こしに来た。 「早く合羽着て、沖のハサ木に来い! 先に行ってるからな」

 花世と友子、それに兄の正夫が寝ぼけまなこで服に着がえ、ゴム合羽を着た。

 父はリヤカーを引いてとっくに出かけたようだ。三人はぜん息持ちの祖母だけを残し、横なぐりの雨の中、頭を下向けて走った。

 正夫はどんどん先に走っていく。ふだん、「田んぼに行け」と言われると、「便所に行きたくなった」とか言ってさぼるのがじょうずな兄なのに。

 花世は強風に吹き飛ばされそうな友子の手をにぎって走った。

 昼、ハサ木の飛びおりをして遊んだハサ木に着いた。このハサ木が村中でも一番沖にあり、風を受けやすかった。

 すでに、父がハサ木に乗り、せっかくかけてある稲束をどんどん外して下に投げていた。母は下の段から外している。正夫は父の反対側のハサ木に登って外し始めた。

 一時も早く稲束を外さないと、ハサ木がまともに強風を受けて倒れてしまうのだ。外しそこねた稲束がびゅうんと風に乗ってよその家の田んぼの方に飛んでいった。

 花世と友子は外した稲束をリヤカーに積む役目だ。花世は片手では握り切れない太い稲束を七束も八束も両腕に抱えて運んだ。早くリヤカーに乗せないと、せっかく乾きかけた稲に田んぼの泥がついてしまい、農協へ供出する時、米の等級が下がってしまう。

 吹きすさぶ闇の中で、五人とも無言で汗だくになって台風と戦った。

 ガガッガア〜ン! バッシ〜ン!

 闇を引き裂くような強風がおそった。

 二間ほど外し残しているハサ木の端がゆっくり倒れ、つっかい棒にぶつかって斜め四五度で止まった。父と兄は斜めになったハサ木にしがみつき、残りの稲束を外し続けた。

 とっくにリヤカーに積み切れなくなっている稲束は、少しでも雨が当たらないようにと、母が道端に一ヵ所山のように固めている。

 ハサ木から全部外し終わると、父はリヤカーに積めるだけ積んで家に向かった。残りの四人は、リヤカーの後押しである。

 途中、やはり稲を取り込んでいる家の人たちがいた。空っぽでも倒れかけているハサ木があった。

 空じゅうが狂ってしまったかのように黒く激しくうねっている。

 ふと、花世は、夏栃が原で見た巨大なヘビを思い出した。あのあと村人が巨大ヘビを見たといううわさは聞いていないが、あれはヘビなんかではなく、竜なのかも知れないと、花世は思った。その竜が風と雨を呼んで暴れているのだ。もしかして、空に登っていくとちゅうなのかも知れない。

 花世はおそろしかったけれど、不安ではなかった。家族五人が一つのリヤカーでつながっているから。

 吹き飛ばされなかったのが不思議なほどの強風の中、花世一家は四回もリヤカーでハサ木まで往復した。

 

 翌朝、風はすっかりおさまっていた。空を大掃除した後のようにきれいで明るい青空が広がっていた。

 ほとんど寝てないはずの両親は、すでに田んぼに出かけている。

 花世は朝ご飯もそこそこに外に出た。屋敷中、葉っぱや青い柿の実・枝切れなどでいっぱいだった。

 傷ついた葉っぱに混じって、見たことがないほど大きな栗のいがが三個転がっていた。

「友子、来て!」

 山ぎわでナツメを拾っていた友子が走ってきた。

「すんごい!」

 いがはぱっくりと口を開け、茶色のつやつやした栗が顔をのぞかせている。

 花世は思い出した。となりの家のじいさまは植木が大好きで、大栗の木を植えていた。友子もすぐわかった。二人はにこっと顔を見合わせた。そして、ゴムの短靴をはいたままの足でいがをこじ開け、中の栗を取り出した。全部で八個もあった。大きいので、二人の両手でやっと持てるほどだった。

 両手いっぱいにつやつや光る宝物。台風のすてきなおきみやげに、二人は十分満足した。

 

 

     5 稲刈り休み

 

 田んぼが黄金の海になり、一週間の稲刈り休みがやってきた。

 花世は嬉しかった。田んぼ仕事を手伝わなければならないけれど、遊べる時もある。

 朝ご飯がすむと、さっそく一輪車を引っ張り出した。友子を乗せて屋敷を回っていると、近所の小さな女の子が集まってきた。

「花世ちゃん、のせて!」

 近くに花世の同級生もいるのだが、どういうわけか、その子とは遊ばないでいつも年下の子どもと遊んでしまう。小さい子に頼りにされると嬉しくなる。

「いいよ」

 まだ学校にあがっていない女の子四人と一年生の友子で五人だ。三年生の花世が五人も乗せるのは、初めてだ。友子を一番前に一輪車の荷台からはみ出させて腰かけさせた。

 花世は一輪車の二つの柄をぐっと握りしめ、バランスを取りながらそっと持ち上げた。友子が前の方にいるので、重さの釣り合いが取れてそう重くはなかった。けれど、一輪しかないタイヤがきしんだ。見ると、一ヵ所ゴムが破れている。父が何かのゴムで接いだ跡があるが、それも破れて内側のすべすべのゴムまで見えている。花世は、

(タイヤが痛いと言ってるみたいだなあ…)

と思ったけれど、やめるわけにはいかなかった。

 花世はそろそろと一輪車を押し、木戸先を出た。

 今朝の空は、

「これが本物の秋空だよ!」

と言っているような素晴らしい秋晴れだった。

 花世は機嫌よく一輪車を押していった。じゃり道の県道を横切って田んぼ道に出た。田んぼ道はリヤカーの二本のわだちの跡がずっと続いている。そこは草が生えていなくて平らなので、花世は片方のわだちに沿ってどんどん進んでいった。小さな女の子たちはキャアキャア言いながら喜んでいる。

 沖の堤防まで来た。堤防の外側の田んぼはかなり低い位置にあり、堤防から降りる道は急な坂になっている。

 花世は坂を降りようかどうしようかと迷った。うまくおりられるかわからない。だいぶ疲れてもきた。

 友子が叫んだ。

「いけっ、いけっ!」

 小さな女の子たちも嬉しそうにキャラキャラと笑った。かわいかった。

 花世は柄を強く握りしめ、両足をかけっこの「用意!」の形にした。

 ゴロゴロゴロ…

 一輪車はだんだんスピードをあげ、風を切って走り出した。すごいスピードになった。一輪車に乗っている五人は興奮し、喜んだ。

「すんごい!」

「やるウ !」

 ところが、花世は五人の重さで転がるように走っている一輪車の柄を必死で引っ張っていた。足がもたついて一輪車の速度に間に合わないからだ。花世はブレーキをかけるようにして柄を全力で引っ張っているのだけれど、五人分の重さは非情だった。

 花世は足も手も自分のものではないような感じで一輪車に引っ張られていた。

 ガツッ

 花世が草の根につまずいた。花世は転び、一輪車を放してしまった。

 ギギギギッ!

 一輪車は不愉快な音をあげて横倒しになり、中の五人が放り出された。

 遊び慣れている五人は怪我もしなかったけれど、一人が小川にはまった。

「ああ〜ん、あ〜ん」

 その子はパンツもスカートもびしょぬれになってしまった。花世はひざを打ち、血が出ている。花世も泣きたいくらい痛かったけれど、小さい子の前でなくわけにはいかない。

 友子が女の子を小川から引っ張りあげた。けれど、女の子は泣きやまない。すると、友子はスカートを脱ぎ、パンツだけになった。

「ほら、これかしてやるから、はきかえなよ」

 女の子はのろのろとスカートを脱ぎ、パンツも脱いだ。友子が自分のスカートをはかせてやると、女の子はほっとした顔になった。

 花世は近くにあったヨモギの葉を取ってもみ、それで自分の膝の血を拭いた。それから、小川沿いにびっしり生えている丸いつやつやした葉の血止め草をはりつけた。血は止まったけれど、ひざがひどく痛かった。

 けれど、花世はやせ我慢してそろっと立ち上がった。横倒しになった一輪車のタイヤの傷がぱっくりあいている。前より大きくなったような気がして、花世は、

(あ〜あ、むちゃしちゃったな)

と、気がとがめた。花世はそっと一輪車を起こした。女の子たちが寄ってきた。花世はつい言ってしまった。

「じゃあ、帰ろうか。乗りなよ」

 五人は懲りもせずまた一輪車に乗り込んだ。花世は澄んだ秋空のもとゆっくりと一輪車を押した。

 

 

 昼ご飯を食べ終わると、母が言った。

「ハスヌマの田んぼの稲刈りをするから来い」

 花世は絣のもんぺに着がえ、鋸のような刃の稲刈り鎌を持って友子と田んぼに向かった。母はすでに風のようにすばやく出かけてしまっていた。

 一反歩もある広いハスヌマの田んぼに着いたが、まだ誰もいない。父や母はハサ木を直しているのだろう。この間のすごい台風でハサ木の端が斜め四五度に傾いてしまった。それを直すのは大変だ。八段ものハサ木を建てる組み立てる時は、親戚の男衆が来てくれる。けれど、台風などで余分な仕事が増えた場合、お互い手いっぱいで手伝い合うことができない。だから、父と母と二人でなんとかするしかない。

 花世はそのことはよくわかっているので、自分だけで稲を刈ろうとした。ところが、稲が縦横に乱れ倒れている。これも台風のせいだ。こんなにめちゃくちゃになっている稲を刈るのは、しゃんと立っている稲を刈る場合の三・四倍の手間がかかる。

 しかし、四の五の言っていられない。この間のは雨台風でもあったから、田んぼにどっぷり水がたまり、たわわに実った穂がその中につかっている。もう芽を出しかけているのもある。これでは品質が下がって農協へ供出できなくなってしまう。

 花世の両親は、夜は花世たちが寝たずっと後まで脱穀や精米をし、朝は朝で花世たちが起きる前に田んぼに出かけてしまっている。その苦労のかたまりである米が供出できないかす米になってしまうのでは、両親がかわいそうすぎる。

 花世は裸足になって田んぼに入った。そして、腰を曲げ、はじから刈り始めた。

 ザクッザクッ。四株で一束分だ。けれど、花世の左手で四株は持ちきれないので、二株でいったん置く。穂がぬれないように切り株の上に置いた。それからまた二株刈ってさっきの稲の上に重ねた。

 友子は田んぼ道でバッタを追いかけて遊んでいる。いくらなんでも一年の友子に稲刈りは無理なのだ。

 小一時間も刈り続けると、腰をもいでしまいたくなるほど痛くなった。花世は腰を伸ばしてトントントたたいた。そこへ、母がやってきた。

「大変だな。稲が倒れちゃっているから」

「うん、芽も出始めている」

「いそがなくちゃあな」

 母は藁草履を脱ぎ、はだしで田んぼに入った。

 ちょうどそこは稲が行儀よくしゃんと立っていた。サクサクサク…。気持ちいいほどの音を立てて母は進んでいった。とつぜん、

「アッ!」

と、母が声をあげ、稲束を振り放した。そして、すぐさま鎌を田んぼにつき刺した。

 友子が走り寄った。

「どしたの?」

 母はこわい顔でぎりぎりと鎌を押している。花世も見に行った。母の鎌の先に蝮がいる。母はにゅるにゅるとのた打つ太い胴を裸足の足で踏みつけ、蝮の首根っこを鋸鎌で切っている。

 ころっと、やっと首が切れた。母はほっとして蝮から離れた。首のない胴がまだ盛んにくねっている。

「稲といっしょにつかんじゃったんだよ」

「かまれたら、死ぬんだよね」

「ああ、危ないところだった」

 花世はぞっとした。もし、母の来るのがもう少しおそかったら…… 蝮をつかんだのが自分だったら… 花世はしみじみ思った、今日の自分はなんと運がよかったんだろうと。

 母は蝮の頭を鎌で田んぼに埋め、まだ動いている蝮の胴を気持ち悪そうに草で持って畦に置いた。そして、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「これは上等の肉なのだから、父ちゃんにさばいてもらおう」

 そして、また忙しそうに稲を刈り始めた。花世は母のように蛇でもつかんだら大変なので、よ〜く稲株やまわりを見ながら刈ることにした。

 やっと一反の半分ほど刈り終わると、母が藁束を刈ったばかりの稲の上にぽいぽいと投げた。

「きょうはもうこのくらいで稲をたばねるど」

 母は四・五本の藁で稲を束ね、くるりと円を描いてねじり、どんどん稲束を作っていく。友子はできた稲束を十個ずつ藁紐の上に乗せていく。大きな束にしてからリヤカーにのせるのだ。

 花世は今年習ったばかりなのだが、必死で稲を束ねた。母のように稲株をくるりと回すことはできないので、下において締めた。

 三人の母娘はだまって稲束の山を作っていった。こういう時、どういうわけか二歳年上の正夫がいない。正夫の方がずっと力もあるのだろうが、いつものことなので花世は不思議にも思わず仕事を続けた。

 太陽が西の空で真っ赤に燃え始めた時、父がリヤカーを引いてやってきた。父は友子が固めておいた十個の稲束をまとめて縛った。そして、その大きな稲束を二個両脇に抱えリヤカーに運んだ。田んぼさえ乾いていたら、一輪車を田んぼに入れて花世だって三つくらい運べる。だけど、こんなにぐしゃぐしゃの水たまりだらけだと無理だ。人の手で運ぶしかない。

 リヤカーに稲束を山ほど積んだ。今度はハサ木まで運ばなくてはならない。父がリヤカーを引っ張り、花世と友子が後を押した。母は田んぼに残り、必死で稲を束ねている。

 リヤカーがハサ木の近くまできた時、リヤカーがぴたりと止まった。片方のタイヤが深いわだちにはまってしまったのだ。この間の雨台風のためにぬかるんだ田んぼ道がまだ所々乾いていないのだ。

 花世と友子は落ちたタイヤの方を全力で押しあげた。けれど、リヤカーはびくとも動かない。

 父がリヤカーを置いて向こうの方へ行った。花世と友子が腰を下ろして休んでいると、父が両手いっぱいに石を拾ってもどってきた。そして、深いわだちに石を入れた。道端の草も土ごとごそっと抜いて入れ、わだちを浅く固めた。

 それから、リヤカーを引っ張るとなんなくぬけた。

 稲束をハサ木の下におろし、また三人はハスヌマの田んぼにもどった。四回ほど往復してきょうの午後刈り取った分を運び終えた。太陽はすっかり沈んでしまっていた。西の空に、錦色の夕焼けの名残りがあった。

 父がハサ木に登りながら言った。

「きょう中に稲をかけておかないとな。穂がびっちょりぬれているから」

 それで、花世も稲指し棒を持った。長い竹ざおの先に鉄の芯がついている。それで稲束を一つ一つひっかけてハサ木の上にいる父に差し出す。受け取った父は、稲束を縛り目のところから二分し、ハサ木にどんどんかけていく。

 夕闇が押し寄せてきた。縛り目がはっきり見えなくなってきたけれど、花世は勘でぐさりと差しては上に持ち上げた。 母は低い段にどんどんかけていく。友子は遠くの稲束を運び、花世や母が取りやすいようにしている。

 稲束を全部かけ終わった時には、半月が東の空に上っていた。四人の親子はぼろぞうきんのように疲れ切っていた。

 父はリヤカーを引き、花世は稲差し棒を持って家に向かった。母は夕食の支度があるので、小走りに先に行ってしまった。

 花世の腹の虫がグググッと鳴った。相づちを打つかのように友子の腹がグーと鳴った。二人は顔を見合わせてクフッと笑った。

 半月が父娘三人を煌々と照らし出し、くっきり三人とリヤカー一台の影を作っていた。

 

 

   6 稲刈り休み

 

 コト コト コト コト …

 花世は心地好いリズムの包丁の音で目が覚めた。

 着替えて茶の間へ行くと、ばあちゃんがいろりで火を燃し、鍋をかけていた。台所では、母が野菜を刻んでいる。朝ご飯までもう少し時間がある。友子も正夫もまだ寝ているので、花世は一人で外へ出た。

 東の空が輝くように明るく、静かで新鮮な朝の空気は少し冷やっこかった。上空は薄青く澄んでいた。

 木戸先に流れている小川の側で、父が腰を下ろして何かしていた。近づいてみると、まな板の上に頭のない蝮が乗っていた。きのう、母が稲刈り中に仕留めたヤツだ。父は砥石の上で出刃包丁を研いでいる。

 シュッ、シュッ、シュッ…

 鈍く光る包丁の刃を押さえ、辺りの空気を切り裂くような音を出している。

 研ぎ終わると、父は包丁を側の小川で洗った。それから、ぴかりと光る出刃包丁の先で蝮の首の皮に切れ目を入れた。次に、左手で中身を持ち、右手で首のまわりの皮をざっと引き下ろしてしっぽまで剥いでしまった。

 皮なしの蝮は白く頼りなかった。

 父は白い筋肉の固まりを五センチくらいずつにトントンと切って串に刺した。

「これは精がつくぞ。きょうは俵運びをしなくちゃあならんからな」

 父は出来上がった串を花世に渡した。

「いろりでばあちゃんに焼いてもらえ」

 串に刺されてしまった蝮は、もうおそろしくもなんともない。おいしくて貴重な蛋白質のかたまりだ。花世は串刺しの蝮を持ち、喜んで家に走った。

 いろりでは、ばあちゃんが火の番をしていた。花世が串を差し出すと、ぜん息持ちのばあちゃんは、

「これが咳に効くといいんだがの」

と言いながら火の回りの灰に突きさした。串は家族の人数分の六本あった。

 花世は串をじっと見つめた。白い肉に、オレンジ色の火が映ってきれいだった。それがだんだんジュルジュルという音を出し、油がしたたり流れ、香ばしいにおいを放ってきた。

 ほどよいキツネ色になったところで、ばあちゃんは串を裏表に返した。もう片方もみるみる焼けてきた。

 母が台所から叫んだ。

「花世、お膳を出せ!」

「はい」

 きょうの朝ご飯は特別なご馳走つきだ。花世は急いで家族六人が座れる丸いお膳を出し、茶碗を並べた。

 

 

 朝飯がすんだ後、花世と友子は柿の木に登っていた。木の上から側に積んである藁山の上に飛び降りてはまた柿の木に登っていた。

 そこへ、ズボンをはいたルミちゃんがやってきた。ルミちゃんはじっと柿の木を見ていたかと思うと、花世に命令した。

「長いナワ、持ってきて!」

「なにするの?」

「ぶらんこ、作るんだ」

「ふうん」

 柿の木は折れやすいので気をつけろと言われている。花世は大丈夫かなあと思ったけれど、ぶらんこを作るのは初めてでおもしろそうだったので、小屋から縄を持ってきた。

 ルミちゃんはその縄を口にくわえてするすると柿の木に登り、水平に伸びている二股の太い枝のところに縄の両端を縛りつけた。縄は長すぎて地面についている。ルミちゃんは猿のように木をすべりおりると、長すぎる縄をちょうどいい高さに結んだ。

 それから、小屋のわきに走った。そこには竹ざおや板や杭などが山積みされている。ルミちゃんは三十センチほどの板切れを見つけて持ってきた。その板切れをぶらんこの台代わりに置き、尻を乗せた。

 板は縄の上に乗せてあるだけなのに、ルミちゃんは上手にバランスをとって漕ぎ始めた。だんだん大きく漕いでいく。結んだ縄のあまりが、ルミちゃんの尻の下から猿のしっぽのようにぶらんぶらん揺れておかしかった。

「気持ちいい!」

 ルミちゃんは小リスのように目を光らせて笑っている。花世も友子も乗りたかった。

「かわって!」

「あと、十分」

 仕方がない。ぶらんこはルミちゃんが考え出して、ルミちゃんが作ったものだから、花世と友子はじっと待った。

 しばらくして、二人は叫んだ。

「もう時間だよ!」

 けれど、ルミちゃんは知らん顔して気持ちよさそうに漕いでいる。このごろの花世は、ルミちゃんのわがままを我慢するのがいやになっていた。それで、思い切ってぶらんこの後ろに飛びついた。ズズズッと引きずられたけれど、手を離さなかった。ぶらんこは止まった。ルミちゃんは、

「あ〜あ、ぶらんこなんかあきちゃった」

と言いながら降りた。板切れも地面に落ちた。

 花世は板切れをひろって縄に乗せ、腰かけた。板がぐらりとして心もとなかった。けれど、無理して漕ぎ出した。すると、板切れがぽとりと落ち、花世は前へつんのめって転んだ。

「アハハハ、花世ちゃんのへたくそ」

 ルミちゃんは板切れをひろって縄に乗せ、また腰かけて漕ぎ出した。

 ルミちゃんの尻はちゃんと板切れに乗っている。ルミちゃんは体を前後に揺らせて大きく漕いだ。たっぷりある赤茶けた髪の毛がびゅんびゅんと風を切ってなびいている。かっこいい。ルミちゃんは遊びの名人だ。花世はとてもかなわない、くやしいけど…。花世は藁山に腰をかけてルミちゃんを見ていた。

 友子が叫んだ。

「かわって!」

 ルミちゃんは軽くいなした。

「むりむり、友ちゃんには」

「いいから、かわって!」

 ルミちゃんは無視して澄んだ青空にとびこんで行くように気持ちよく漕いでいた。

 すると、友子は何を思ったか、するすると柿の木を登っていった。二股のところまで行き、なんと、結んである縄をほどき始めたではないか。

 その時、木戸先を奥の家のユリちゃんが、籠を背負ったばあちゃんと一緒に通った。薄紫色のおいしそうなアケビの実が重なり生っている蔓を持っている。

 ルミちゃんは足を地面につけザザザアッと引きずってぶらんこを止めた。そして、ぶらんこを放り出し、

「ユリちゃ〜ん! あそぼ!」

と、叫んで走っていってしまった。

 花世はいいことを思いついた。

「友子、上の方、しっかり結び直して」

「うん」

 花世は小屋から鎌を持ってきて、縄がたれている所で二等分した。そして、その二本の縄を板の両端に縛りつけた。もう、手を離しても板が落ちない。立派なお手製ぶらんこができあがった。

「友子、先に乗ってみな」

「うん!」

 友子はにこにこ顔で腰かけた。漕ぎ始めると、ぶらんこは快適に揺れ出した。

 学校のぶらんこはたいがい人が乗っていて、乗れるチャンスはめったにない。自分の家の庭に乗りたい時乗れるぶらんこを作ることができて、花世は非常に満足した。

「花世、ちょっと来い」

 母が土間で呼んでいる。まだブランコに乗る前だったけれど、花世は行った。母が秤の上の俵を押さえている。

「これ、持っていろ」

 花世は、俵に米が入りやすいように両手で俵の口を広げるようにして持った。そこへ、父が金箕に入れた米をザアッとあけた。六回七回と繰り返し、目盛りが六〇キログラムになるまで入れた。

 六〇キロになると、秤からおろし、丸いさんばいしで蓋をし、中の米がこぼれないようにぎゅうっと縛り上げた。さんばいしも俵も両親が冬の間にこしらえておいたものである。

 土間では、籾すり機がゴーゴー鳴り、もみ殻を取り除き、玄米を流れるように吐き出している。

 母が籾すり機の口に、どんどん籾を入れている。ばあちゃんも喉の具合がいいのか、米の吐き出し口の隣から出ているもみ殻を集めてかますに入れている。

 かますがいっぱいになったので、花世は友子を呼んだ。二人で小屋まで運び、もみ殻置き場にぶちまけた。このもみ殻は、だるまストーブ風のかまどでご飯を炊くための一年間分の燃料になる。

 とにかくも、兄の正夫をのぞいた五人のせいいっぱいの働きで、午前中かかって十表の米俵が出来た。

 

 

 午後も運よく晴れていた。

 昼ご飯もそこそこに両親は、農協へ米俵を供出する準備を始めた。

 牛に引かせる大八車に六俵、リヤカーに四俵積んだ。大八車は、父が牛の手綱を取り、リヤカーは母が引いた。リヤカーの後を花世と友子が押して行った。大八車は鉄の車輪なので、キーキーとうるさい音を出して進んでいく。

 県道まで出ると、同じように米俵を積んだリヤカーや大八車が見えた。

 だんだん農協へ近づくと、供出用の車が列をなして進んでいくようになった。

 父たちは農協の倉庫からはるか離れてバスなどをよけるために川沿いにずらりと並んで待った。

 小一時間かけてのろのろと牛の歩みよりもずっとゆっくり進み、検査官の前に来た。検査官は先がスプーンのようになっている鉄の長い差しを俵にずぶりと刺した。取り出した差しには米が入っている。検査官はじっと見た。それから米を二・三粒噛んで言った。

「二等!」

 父母の顔がほっとゆるんだ。供出した米は、どちらかというと三等が多いのだ。一等はめったにない。

 帰り道、花世と友子は母の引くリヤカーに乗せてもらっていた。母の足取りも軽かった。友子が嬉しそうに叫んだ。

「十表とも二等だったもんね!」

 母は嬉しさを押さえるように言った。

「この間の台風にやられた米は、三等もあぶないけどな」

 花世も弾んだ気持ちでリヤカーに寝転び、仰向けになった。空いぱいの鰯雲だった。

 

 

  7 晩秋の収穫

 

 労働と楽しい遊びにふけった稲刈りやすみはとうに過ぎ去った。

 山の広葉樹があらかた葉を落としたころの土曜日、花世はうきうきして学校から帰ってきた。前から読みたかった「宝島」がやっと図書室で借りられたのだ。担任の松木先生は図書担当で本が大好きなので、いろいろな本を紹介してくれる。花世が読んでしまった本もあるが、「宝島」はまだだった。上級生がきょう返すのを待って借りてきた。

 お昼を食べるのもそこそこに、花世は茶の間に座り柱に背中を寄りかからせて読み始めた。その途端、無情な母の声が飛んできた。

「きょうは栃が原へさつま芋掘りだ」

 いやもおうもない。花世は心残りいっぱいのままのろのろと出かける支度をした。

 父がリヤカーに土を掘りやすいように三本のくまでをつけた三本鍬やかますや太いロープなどを積んでいる。

 ふだんあまり手伝わない兄の正夫がもそっと出てきたので、花世は、

(きょうの仕事は大変なんだ)

と感じた。

 ルミちゃんが木戸先を通って声をかけた。

「あとで、ズミ採りね!」

「いいよ」

 このところ毎日、花世は夕暮れの前にルミちゃんと栃が原へガマズミの実を採りにいっている。まるで晩秋のおごそかな儀式のように。

 それにしても、ふだんはそんなに思わないけれど、きょうばかりは、花世はルミちゃんのことが羨ましかった。田んぼや畑を手伝っているのを見たことがない。お寺は田んぼを所有してないが畑はあるのに、いつもやりたいことをやっていられるルミちゃん。お寺の子っていいなあと思った。

 支度が出来て栃が原へ出発だ。父がリヤカーを引き、三人の子どもはリヤカーのまわりに群がりながら歩き始めた。たくさん働くのが何よりの美徳と信じている母は鍬をかつぎ、急ぎ足で一人先に行ってしまった。

 栃が原までは平らな砂利道だけど、高さ百メートルほどの台地である栃が原の入口からはでこぼこの山道だ。以前は、一輪車がやっと通れるくらいの道幅で急な坂道だったけれど、少し前に村の人達が切り開いたので、リヤカーがゆっくり通れる。勾配は一箇所をのぞいてなだらかで、カーブも大きい。その分、遠くなりはしたが。

 山道に入ってからは、三人はリヤカーの後押しをした。道とは言っても、大きな石のでっぱりがごろごろしている。おまけに、ずっと登り坂だ。平らな田んぼ道の数倍労力と神経を使う。三人は無駄話をやめ、必死にリヤカーを押した。

 三十分ほどかかってようやく栃が原の台地に出た。

 平地よりも百メートルも高いと視界をさえぎるものがなくて、高く澄んだ晩秋の空が広く感じられた。四人はほっと息をついて、今度は田んぼ道のような平らな道をらくちんな気持ちで進んだ。

 栃が原はかなり広く、ほとんど村中の家の畑がある。夏にはよく桑いちご採りに来たが、栃が原は栄養たっぷりな黒土ではないので、桑とかさつま芋を育てている家が多い。花世の家は、真ん中と奥の方に三か所畑があるが、きょうは真ん中の畑でさつま芋掘りだ。

 先に来ていた母が畝の間を歩きながらさつま芋の蔓を寄せている。さつま芋の畝は特別に高く盛られている。父が芋を傷つけないように三本鍬で蔓の根元をたくしあげるようにそっと畝を掘った。こげ茶色の土の中から濃い赤紫色のさつま芋が顔を出した。

「いた!」

 友子は喜んだ。あとは子どもたちの出番だ。根元を引っ張り手で根をさぐって芋を掘出していく。子どもの両手に余る大きな芋、一握りしかない芋などが混ざって一本の蔓から五・六本はとれる。ほどよく湿った土の中にいた赤紫色のさつま芋は新鮮で美しかった。こげ茶色の土がはらりときれいに落ちる。花世と友子は食べられそうもない親指くらいの小さなさつま芋まで採ってかますに入れた。

 さつま芋は全部でかます五つ分あった。花世は一生懸命働き続けたので、おなかがすいてきた。父や母は蔓も集めてリヤカーに乗せている。牛と山羊の飼料にするのだ。

 花世は道の反対側の薮に走った。木が生い茂り、葛の蔓が中に人が入れないようなこんもりとしたジャングルを作っている。その上に、めざす山葡萄の実があるはずだ。友子もついてきた。

 あった! 黒紫色の山葡萄が。葡萄の蔓は杉の木にからまり、実は高い方にしか生っていない。花世は葡萄の蔓につかまり葛のジャングルの上に乗って実を採った。友子もまねした。

 山葡萄は店先の葡萄のように大きくもないし、粒もそろっていない。せいぜい花世の小指の先くらいだけど、口に入れると、甘酸っぱい味がじゅわっと広がった。少し渋みが残るけれど、濃い甘みはまちがいなく晩秋の味だった。

「帰るぞ」

 道から正夫が呼んだ。

 たった十粒くらいのおやつだったけれど、花世と友子は満足してリヤカーにもどった。

 リヤカーには一冬分のさつま芋が入ったかますと山のようなさつま芋の蔓が乗せられている。こぼれないようにぎっちりと縄で結んである。リヤカーの後ろに太いロープが一本結び付けられていた。これがきょうの仕事の山場で役にたつ。

 父がリヤカーを引っ張り、残りの四人が後ろを押して行った。

 栃が原の出口の坂を少し下りた所が、問題の急坂だった。五十度ほどの傾斜だろうか。上から見ると、六十度にも七十度にも見える。しかも、崖の片側は木も生えていない。山盛りいっぱいの荷を積んだリヤカーは加速度がつくので、降りるのは命懸けだ。急坂は三十メートルほどの距離だけど、失敗は許されない。

 荷を半分にして二回往復すれば危険は少なくなるけれど、手間が大変だ。これで終わりということがないほど仕事に明け暮れている両親は、安全より時間を惜しむことがある。

 いったんリヤカーを停め、母がリヤカーの後ろに縛りつけたロープを引っ張り出した。それをリヤカーのしっぽのように置き、正夫・花世・友子の順につかまらせた。母はリヤカーの後ろを押さえた。四人で力いっぱいブレーキの役目をするのだ。父が叫んだ。

「いいか、降りるぞ!」

「いいよっ!」

 父は足をしっかり踏み締め、両手でリヤカーの柄を押さえ、体をやや斜めに倒し、全身をブレーキ代わりにして進み始めた。

 リヤカーが暴走したら、危険なのは父だ。崖からリヤカーもろとも落ちてしまう。雪が解けるか解けないうちに庭で苗を作り始め、半年以上かけて太らせた一冬分のさつま芋、それも崖中に飛散してしまう。

 花世は体を後ろに倒し、全身に力をこめて死物狂いでロープを引っ張った。母も正夫も友子も、みんな命の限り加速度に逆らってリヤカーを引っ張った。

 五人の必死の力でリヤカーはゆっくり急坂を降りて行った。

 

 

 家にもどりついて縁側で一休みしていると、ズボンをはいたルミちゃんがやってきて木戸先から手を振った。

 どんな遊びにもついてきたがる友子はちょうど家の中に入っていた。花世は友子に黙ってそっと木戸先に走った。

 ガマズミ採りはなぜかいつもルミちゃんと二人だけで行く。場所が危険なせいもあるかもしれない。花世はルミちゃんと二人でうきうきとさっきもどったばかりの栃が原に向かった。ガマズミの木は、栃が原の東側の崖にたくさん生えている。その崖はまるで垂直なのだ。木が生えているので、枝や突き出た根っこにつかまり、ちょっとしたくぼみに足を置き、まるで曲芸師のように崖を伝ってガマズミにたどりつく。一年生の友子には無理だろう。

 さつま芋掘りと同じように栃が原の上まで登り、よその家の畑に入り、崖を下りやすいところを見つけて降り始めた。

 途中、アオキがこんもりと茂っていた。まわりの木々はほとんど裸んぼうなのに、アオキはつやつやした葉をつけ、実も赤らみかけている。家の近くのアオキならままごと用に喜んで採るのだが、きょうの目的はアオキの実ではない。

 ルミちゃんは猿のようにすばしこく崖を降りていっている。花世は太い根っこを伝って横に崖を進んだ。さっそくガマズミの実が見つかった。一つの柄にこんもりと小さな実を十数粒つけている。ガマズミは九月ころから赤い実をつけているが、そのころのものは固くてすっぱい。十一月も終わりころになると、やわらかくなり、とろりと甘くなる。花世はすぐ口に入れた。ジャムのように甘かった。

 花世もルミちゃんも一本の木の実を全部食べつくすのではなく。おいしそうなところだけいただき、またすぐ別の木をさがす。もっと甘くておいしいガマズミの実を。

「花世ちゃ〜ん!」

 いつのまにか、ルミちゃんが向こうの大きな岩の上に乗っている。

「なあに」

「こっちにすごいズミの木があるから来なよ」

「うん」

 花世は用心しながら崖を横に伝ってルミちゃんのいる岩に近づいた。

 しかし、ルミちゃんはどこからどうやって登ったのだろうか。その岩はなめらかで手がかり足掛りがなくて、花世の位置から登れそうもない。しかも、岩の下の崖には木が生えていない。落ちたら途中にひっかかる物がないので、何十メートルも下に墜落してしまう。

 困っている花世にルミちゃんが片手を差し伸べた。もう片方の手はしっかり藤蔓につかまっている。花世は安心してルミちゃんにつかまり、そろそろと大岩を登り始めた。

もう少しで大岩を登り切ろうとした時だ。ルミちゃんは何を思ったのか、いきなり花世の手を振り払った。

 花世は声も出ず、ずずずずっと大岩を滑り落ちていった。花世は必死ででっぱりをさぐった。けれど、もうあとがなくなり、両足が大岩からはみだしてぶらさがった。その時、ようやくわずかなでこぼこにしがみつくことができた。そこからどうやったら安全な所まで行けるだろうか。花世は上を見た。ルミちゃんがのぞいていて目が合った。ルミちゃんはにやりと笑った。花世はぞっとした。

 はい登っていく手がかりが見つからないまま、花世の手がしびれてきた。

 もう終わりか、これで死ぬのかと花世が思った時、目の前に太い藤蔓が降りてきた。ルミちゃんがよこしたものだ。花世は死物狂いでそれにしがみついた。ルミちゃんは上からその藤蔓を花世の足が崖の地べたにつく所までずらした。足が地についたらこっちのものだ。花世は藤蔓につかまったまま崖を登って大岩に上がった。

 はあはあと肩で息をしている花世を見ながらルミちゃんはにやにやしている。思わず、花世がルミちゃんをたたこうとしたら、ルミちゃんはひょいとよけ、大岩の横を指さした。

 そこにはそびえたつ満開の赤い花があった。いや、花と見まごうほどみごとなガマズミの実だった。葉はすっかり落としてしまっていた。

 花世は見惚れた。枝振りがりっぱで実の粒も大きく、手を出すのがためらわれるほど豪華なガマズミの木だった。一つ一つの実が赤く透き通っていてルビーのように美しかった。

 ルミちゃんは遠慮なく枝をぼきっと折って食べ始めた。むしゃむしゃ実をついばみ、ペっぺっと種を吐き出していく。

 秋の日はつるべ落としだ。すでに、乳白色の夕闇がしのびよってきている。花世は枝を折るのは惜しいので、実のついている柄だけ採って食べ始めた。甘さと酸っぱさがちょうどいい塩梅に混ざっていて、最高の秋味だと思った。

 思う存分食べ終わった後、花世は実がたっぷり生った枝をポキリと折った。友子へのみやげにするために。ルミちゃんは手ぶらだ。

 栃が原から降りたら、二人はじきに濃い夕闇につつまれた。山に寄り添うようにして建っている家々の灯りが蜜柑色にともり始めた。

 花世は灯りを見てほっとし、あったかくて懐かしい気持ちになった。ルミちゃんと手をつないで仲よく家に向かった。

 

 

   8 きのこ汁

 

 小春日和の土曜の午後だった。

 さっき、学校から帰ってお昼を食べたばかりなのに、花世は弁当をつめて友子と外に出た。茸採りに行くのだ。ルミちゃんを誘いたいので、お寺の石段を登った。

 ルミちゃんは、御堂の板の間で妹のカナ子ちゃんと鞠つきをしていた。カナ子ちゃんはまだ五才で小さく、鞠がすぐ転がってしまっていた。ルミちゃんは器用に左足と右足を交互に上げて鞠を通している。花世が声をかけた。

「きのこ採りに行こう!」

 すると、ルミちゃんはすぐ鞠つきをやめた。

「いいよ!」

 ルミちゃんとしても、小さなカナ子ちゃんより花世たちと遊ぶ方がずっとおもしろいのだ。

「弁当持ちだよ!」

「オッケー」

 ルミちゃんは気分よく返事して、庫裏の廊下を走り、台所へ飛び込んだ。

 ルミちゃんはじきに花世たちと同じように弁当の入った風呂敷包みを腰に巻きつけて外に出てきた。カナ子ちゃんの分はない。小さなカナ子ちゃんは家に置いてきぼりだ。おとなしいカナ子ちゃんは駄々もこねず、さびしそうに三人を見ているだけだ。そんなカナ子ちゃんに一声もかけず、三人は鐘突き堂のわきから山に入った。

 ルミちゃんを先頭に三人とも慣れた山道をとっとと走って登って行った。

 息切れがし始めたところで、花世は歩きだし、山道から外れて薮の中に入った。カサカサと落葉が乾いた音をたてた。花世は木の根元や落葉の陰を細かく見ながら進んだ。

 あった! 傘の上がずべずべとぬめっているズベ茸だ。この辺でもっともよく採れる平凡な茸だけど、傘が厚ぼったく茎は太くて、茸らしい茸で採りがいがある。味もいい。

 後ろからついて来た友子が腰に巻きつけた弁当入りの風呂敷をほどいている。友子の足下を見ると、ズベ茸をもう四つも採って置いてある。花世の後ろを歩いてきたのに。友子は風呂敷を二隅ずつ結んで袋状にし、その中にズベ茸を入れた。もちろん、弁当といっしょだ。

 花世もすぐに友子よりたくさん採るつもりで風呂敷で袋を作った。それから、少し坂になっている林に入り込んだ。

 斜めに進んでいた友子が小さい声で鋭く叫んだ。

「姉ちゃ〜ん」

 近づいていくと、腐りかけた倒木のまわりにびっしりとミミ茸が生えていた。真っ白で耳たぶのような形の茸だ。しこしことした歯ごたえがあり、美味である。二人はそっとミミ茸の根元をつかんでどんどん採り始めた。ルミちゃんに気がつかれないうちに全部採ってしまわなくては。

 あともう少しで採り終わるというところへ、ルミちゃんがやってきた。

「ミミ茸、おれも大好き!」

と言って、乱暴に耳の部分をつかんで引っ張った。ミミ茸はつかんだところから切れ、一番うまい根元が残った。ルミちゃんはその根元をもう一度採ろうともせず、ふくらみかけた二人の風呂敷を見て、くやしそうな顔をした。そして、松の木の方へ走りながら叫んだ。

「松茸でもとろうっと!」

 この山にも松茸が生えやすいというアカマツがところどころに立っているのだけれど、花世はまだ松茸を採ったことがない。花世だけでなく、近所でも松茸を採ったといううわさを聞いたことがない。だから、花世は松茸を採ろうなどという大それた望みは持たなかった。

 山の木々は葉をすっかり落とし、すっきりと枝を天に向かって伸ばしている。その間を、花世はそっと登って行った。

 湿った落葉の陰に、黄土色の傘が見えた。花世はどきっとした。近づいてみると、期待通りアワ茸だった。傘の裏が泡のように網目状になっている。茸の中では、花世は歯触りの良さと旨味の強いアワ茸が一番好きだった。おまけに、小さいけれど、三つも落葉の陰から顔を出している。

 その後、花世は牛ゴケを採った。大きいごわごわした茸で、固まって生えている場合が多い。苦みが強くて子どもの口に合う茸ではない。

 友子が近づいてきたので、風呂敷の中を見せ合った。量は同じくらいだけれど、友子の風呂敷には、薄紫色のきれいなネズミ茸まであった。ネズミの足のように細かく枝分かれをしていてかわいい。この辺では珍しい茸だ。突然、

「ああ〜あ〜!」

という雄叫びが聞こえてきた。林の中をすかして見ると、ルミちゃんが長い藤蔓にぶらさがってターザンのように木に飛び移ったところだった。二人はルミちゃんの所に走った。ルミちゃんはまた勢いをつけ、元の木に振り子のようにしてもどった。

 木と木の間は十メートルもある。よくもあんなに長い藤蔓を見つけたものだ。それに、猿のように身軽く飛び移っている。花世は、今更ながらルミちゃんの運動神経に憧憬ののため息をついた。まねをしてみたいが、花世の腕力と運動神経ではまず無理だ。友子も羨ましそうにルミちゃんを見ている。ルミちゃんは得意満面で二度三度と飛び移りの曲芸を披露し続けた。

 そのうち、藤蔓がずるずると上の方から抜けてきた。すると、ルミちゃんはぞうきんでも捨てるかのようにあっさりと藤蔓を放り出し、二人に近づいてきた。

「弁当、食べようか」

「うん!」

 待ってましたとばかり、二人は近くにあった倒木の上に腰をおろした。そして、風呂敷包みの中の茸の間から弁当を取り出した。ルミちゃんも同じ倒木に腰かけ、風呂敷包みを開けた。ルミちゃんは一個も茸を採っていなかった。もともと、ルミちゃんは茸採りが好きなわけではなく、山遊びが目的だから少しも気にしていない。花世と友子の茸を見るでもなしに弁当を広げた。

 ルミちゃんの弁当には、昆布の佃煮とラッキョウが入っていた。花世たちのおかずは、たくあんと漬け菜だけだった。それでも、山で食べる弁当はとてもおいしい。花世がたくあんをポリポリとうまそうな音をたてて噛んでいたら、ルミちゃんが二人にぽいとラッキョウを一つずつ入れてくれた。

 花世の家ではラッキョウを作っていないから、ルミちゃんからもらった時だけ食べられる。花世は、ちょっと甘みのある酸っぱさで歯ごたえがいいラッキョウが大好きだった。花世は、

(もうけた!)

と思いながら、たった一つのらっきょうをゆっくりかみしめた。

 

 その日の夕方、いつの間に出かけたのか、母が風呂敷いっぱいに茸を採ってきた。肉厚な牛ゴケが一番多かったが、ズベ茸・アワ茸・ホウキ茸などもかなりあった。

 花世と友子が採った茸だけでは、家族中が楽しめる茸汁とまではとてもいかないけれど、母の分と合わせると十分過ぎるくらいだ。二人は土間で茸と落葉や土を選り分け、台所に運んだ。

 その晩は、この秋三度目の茸汁だった。茄子やネギなどといっしょに油で炒めて作った茸汁は、秋最高のご馳走だ。花世はどろっと焦げ茶色に光ったアワ茸を口に入れた。アワ茸の気持ちいい歯触りと旨味が口の中いっぱいに広がった。

 その花世のひざ元に飼い猫のクロが寄ってきた。クロは、お膳の陰にある花世の膝に前足をそっと乗せて座った。前足を行儀良く組み、おなかを花世のふくらはぎにくっつけている。

 今、クロのおなかが大きい。赤ちゃんがいるのだ。近所で一番敏捷なクロは、ネズミ取りの名人だが、その動きは少し鈍っている。

 花世は父と母の目を盗み見た。二人とも、熱い茸汁をふうふう吹きながらうまそうに食べている。花世はおなかの赤ちゃんネコにもやるつもりで、ためておいた茸汁のだし煮干しをそっとクロにやった。クロは前足を乗せたまま静かに煮干しを食べた。

 友子がそれを目ざとく見つけ、羨ましそうだった。どういうわけか、クロが前足を乗せて甘えるのは、花世だけなのだ。

 

 

   9 子猫さがし

 

 花世と友子は作業所の二階で藁にまみれていた。稲の脱穀も精米もすっかり終わり、二階は大きく束ねた稲藁でぎっしりだった。

 そのどこかに、クロが子猫をかくしているらしいのだ。母が花世にこう厳命した。

「子猫の目が開かないうちに、大川に捨てて来い! 秋に生まれた子猫は弱くて、もらい手がないからな」

 母に言われなくても、花世は子猫を抱きたいから、クロのおなかがすっきりへこむと、すぐ子猫さがしを始めていた。きょうでもう一週間目だ。

 クロはかしこい。花世たちにすぐ見つかるような場所にはかくさない。

 花世と友子は、両手でも抱え切れないような稲藁の大束を一つ一つどかしながらさがした。と、言っても藁束の上に乗ってわざと転んだり飛び移ったりしながらの遊び半分だ。二階には、さつま芋の蔓や縄の巻き束、かますや莚などもしまってあり、猫にとってはいい隠れ家だった。また、花世たちにとっても、いい遊び場だった。

 遊び半分ではあるけれど、子猫のいそうな所をねらってかなり丁寧にさがしたが、見つからなかった。それで、作業所の二階はあきらめて、降りることにした。

 降りると言っても、一階への階段はない。梯子も立てかけていない。出入り口にそのような物があると、一階での物の出し入れのじゃまになるので、置いてないのだ。

 花世は板壁の横木や斜め木を伝って猿のように降りていった。いつもこの様にして降りているので、慣れたものだ。友子も花世に続いて降りた。

 花世はもう子猫さがしをあきらめようと思って、母屋に入った。腹がすいたので、祖母がふかしてくれたさつま芋でも食べようと思ったのだ。土間から茶の間に続く縁に上がろうとした。その時、風に乗ってかすかに、

「フニャ〜」

という鳴き声が聞こえたような気がした。花世は、はっと二階を見た。母家の二階はやはり物置になっていて、藁束や種籾、俵編み機などが置いてある。ネズミがいるので、クロのいい仕事場でもある。この二階も三回ほど遊びながらさがしたのだが、見つからなかった。でも、今聞こえたのは子猫たちの鳴き声に違いない。

 花世は後ろにいる友子を振り返った。友子はたった今戸口に入ったばかりだった。

「今、子猫の鳴き声がしなかった」

「ン?」

 友子には聞こえなかったようだ。けれど、さっきのは確かに子猫の鳴き声だ。

 作業所や小屋は、もう五・六回さがしている。特に、きょうは一番怪しい作業所を念入りにさがしたけれど、いなかった。母家の二回は広い。窓のある南側は明るいが、東側や奥の北側は暗い。自然と暗い方には足が向かない。花世は懐中電燈を持ってさがすことにした。

 茶の間の戸棚から懐中電燈を持ってきて、花世はニ階へ続いている梯子を登り始めた。梯子は丈夫ではあるけれど、直径五センチほどの細さだ。しかも、コンクリートの床の上から二階の床を二畳ほど切り取った部分に立てかけてあるだけだ。慎重に登らないと、足を踏み外してしまう。

 花世は梯子の上から三段目まで登って行った。そこから二階の板の間に移るのに、かなりの緊張感が必要だ。梯子がくるっと反転しないように体重を上手に移動しなければならない。これは何十回やっても神経を使う。花世は懐中電燈を持っているので、よけいにゆっくりと気を付けて板の間に移った。

 梯子が立てかけてある二階の切込み部分は、作業所の二階と同じで、藁束などを上げ下げする都合もあって墜落防止用の柵など一切ない。だから、足を踏み外して落ちるなどのドジをやらかしたら、自分が痛い思いをするだけだ。へたしたら、コンクリートにぶちつけて死んだり半身不随になったりする。けれど、花世も、続いて登ってきた友子もその辺は慣れているから大丈夫だ。

 もう何回もさがした南の明るい窓側には目もくれず、奥の暗い方へ行った。そこには藁束がうずたかく積まれている。牛や山羊の飼料にしたり、冬中かかって来年用の俵やかます、莚などを作ったりするための物だ。

 二階の天井には板が張ってないので、太い梁や柱が縦横に組まれているのが見える。花世は懐中電燈で暗闇を照しながら進んだ。端の方は、藁束も置けないほど屋根がだんだん低くなっている。花世は初めてのぞくような暗い隅も見てまわった。子猫の鳴き声はニャンともしない。

 ずっと奥に行くと、床が四角く切ってあって、下は茶の間の囲炉裏だ。その辺は囲炉裏から上がった煤だらけで手足が真っ黒くなった。そんなところに子猫がいるわけがない。花世は手足を藁にこすりつけて煤の汚れをいくぶんか落としながら、

(あの鳴き声は気のせいだったかなあ)

と思った。猛烈に腹もすいてきたので、さつま芋が食べたくなった。俵編み機の後ろをさがしていた友子に言った。

「降りるか」

「うん…」

 二人が梯子を降りて、縁に上がろうとした時、

「ミャア〜」

と、かすかに聞こえてしまった。友子が目を丸くした。

「いる!」

 二人はそうっと足音を立てないようにもう一度二階の物置に登った。懐中電燈もつけずに暗いところでじっと息を殺し、また鳴き声がするのを待った。

 十分ほど待っただろうか。すぐ後ろで可愛く、

「ミュウ」

とはっきり鳴き声がした。後ろには、豆とか菜種を選りすぐる機械のトウミしかない。トウミの後ろにまわって懐中電燈で照しても、何もいなかった。花世ははっと思ってトウミの中を照してみた。すると、風の吹出し口に三匹かたまっていた。懐中電燈の光が当たると、ニャーとも鳴かず外へ逃げ出した。

 友子が滑り込みセーフのかっこうで一番先に逃げ出したブチをつかまえた。残りの二匹は、花世が懐中電燈を放り出してつかまえた。子猫たちは二人の手の中でもがいたが、首根っこをもたれてはニャンとも鳴けなくなった。

 二人は窓の明るいところは行って座り、ゆっくり子猫を抱いた。子猫たちは初めのうちこそ、けなげにもフーと怒ってしっぽの産毛をおったてていた。けれど、二人に喉をさすられると、母猫の、

「母さん以外に気を許しちゃあいけないよ」

という言い付けをすぐにわすれ、ゴロニャンしてしまった。子猫は小さくて柔らかくて、もう目が開いていた。そのつぶらな瞳がこの上なく可愛かった。二人とも、お腹のすいたのも忘れ、幸せな気分にひたった。

 

 

 翌日、花世は茶の間の柱にもたれて本を読んでいた。片手にはしっかり子猫を抱きながら。その花世に、母が命令した。

「三匹とも大川に捨てて来い。猫の秋子は弱いから、もらい手のあるはずがない」

 花世はぞっとした。一晩抱いて可愛がってしまったら、捨てるなんてことはできない。花世は、兄の正夫が仕事をさぼる時の口実を思い出した。本と子猫をそっと置いて立ち上がった。ズボンのウエスト部分のゴムを引っ張り上げながら便所に向かって走った。

「ちょっとウンコしたくなっちゃった!」

 花世は便所へ入ったけど、すぐにそっと出た。裏庭にまわり、外から寝間の引き戸を音を立てずに開けて入り、障子の破れ目から茶の間をうかがった。母が逃げそびれた友子に、言い渡していた。

「早いとこ、捨てて来い。遅くなればなるほど、かわいそうになるからな」

 友子は三匹の子猫を抱いたまま途方にくれていた。けれど、母が険しい顔でにらんでいるので、仕方なく、ゴムの短靴をはいて外に出た。

 友子がのろのろと大川の方へ歩いて行くのを、花世は作業所の陰から見ていた。

 友子は何かに無理に歩かされているような格好で大川の前まで来てしまった。あたりは人もおらず、空は暗い鉛色だった。

 土手の上から見下ろすと、暗い浅葱色の流れが音も無くうねっていた。

 この流れに、子猫たちを投げ込んだら…。ミャーと鳴く暇もなく、流れに飲み込まれてしまうのだろうか。そして、魚たちにつつかれて食われてしまうのだろうか。それとも、川底なんかにぶつかりぶつかりして傷だらけになり、果ては腐ってしまうのだろうか。

 今は、腕の中で確かに息をしていて、安心して抱かれている子猫たち。この子猫たちを大川に投げ込んだら、数秒後には恐ろしい末路をたどらせることになる。

 友子は頭を振りながら土手を駆け降り、家に向かった。母にどんなにか怒られることだろう。でも、そんなことより、腕の中の子猫たちのあたたかい体温が辛かった。

 家にもどると、父が大根の葉を干すために縄目に入れる作業をしていた。友子の腕の中の子猫を見て、眉をぴくりと動かしたが、叱りはしなかった。大根の葉がずらずらぶら下がった縄を作業所横の物干し用の釘にかけてから、子猫を引き取った。花世が作業所の陰から見ていたのは、ここまでだった。

 その晩から子猫たちの可愛い姿を見ることはなかった。その夜は、一晩中、クロがギャオ〜ンギャオ〜ンと胸が張り裂けるような悲しい鳴き声をあげながら子猫たちをさがしまわっていた。

 

 

   10 木枯し

 

 ゴゴオーッ、ゴゴゴオ〜!

 三角にとがって連なっている裏山の杉の木が、吹き荒ぶ鉛色の空の中でうなりをあげている。それは冷たくて恐ろしくて、心がつうんとするほど淋しかった。けれども、それはまた、杉たちが来るべく長い冬に向かって、

「負けまいぞ!」

という雄叫びをあげているようでもあった。

 赤いマントを着た学校帰りの花世は、かじかんだ手で戸口を開けた。

 土間で、母が縄ない機で縄をなっていた。兎の耳のような二本の筒の中に二・三本ずつ藁を入れていくだけなのだが、同じ太さの縄にするためには藁の入れ加減が大切で、一時も目が離せない。また、ちょっとした油断で指を機械の中にでも巻き込まれたら、あっという間に指を失ってしまう。下の家のおばさんが、若い頃縄ない機で右手の親指・人差し指・中指を半分くらいずつやられてしまった。大事な右手の指先がないおばさんは、何をするにもずいぶんと不便そうだ。

 母は花世には目もくれず、短く言った。

「炭を起こしてあるからな」

「うん」

 花世は信じられない思いでマントを脱ぎ、板壁の釘にかけた。

 茶の間に上がると、六十センチ四方の小さな炬燵に炭が赤く起きていた。とは言っても、赤いのは真ん中の四分の一くらいで、まわりは黒くて固く、まだまだ起き立ての若い炭という感じだった。炬燵布団もまだかけてなかったが、花世が帰る少し前に、母が炭の芯だけ起こして置いたくれたのだ。炭の赤みがほどよく広がってきている。囲炉裏で杉っ葉などを燃やして炭を起こすのは、花世の役目だ。煙が目にしみたりして、けっこう大変だ。

 花世は嬉しくてランドセルを背負ったまま両手を炭の上にかざした。その両手とも霜焼けのため包帯でぐるぐる巻かれていた。兄妹の中で花世の霜焼けが一番ひどかった。花世は炭の熱より、茶の間のしんとした冷たい空気の中で、炭の赤い明るさにほっとした。そして、忙しい母がわずかな暇を盗んで炭を起こしてくれたことがとても嬉しかった。

 手が少し暖まると、花世はランドセルを下ろした。そして、炬燵にやぐらを渡し布団を掛けた。

 両手の包帯がすっかりずるずるとほどけかかっているので、巻き直した。そこへ、友子が帰ってきた。一年生なのに、花世より遅かった友子がこう言った。

「ユリちゃんチへあそびにいこうよ。ユリちゃん、外でまってる」

「へえ」

 友子が同級生のユリちゃんと帰ってくるのは、珍しかった。それに、自分から遊びに行こうと言うのは、初めてだった。花世はすぐその気になった。

「いいよっ!」

 友子はランドセルを下ろすと、炬燵にあたろうともせず、土間にもどった。花世は火箸で炭の回りにたっぷりと灰を掛けた。こうしておけば、炭が長持ちするし、危なくない。最後に炬燵布団をやぐらにかけた。

 花世がマントを引っ掛けて外に出ると、友子とユリちゃんはずっと前を歩いていた。

 ユリちゃんの家は三軒先の一番奥にある。坂の上にあるユリちゃんの家が見えてきた。

 横手にあるモウソウ竹の林がザザザッ、ヒュルルル〜と鳴いていた。ずっと後ろにそびえている木立が、

 ゴゴゴオッ!

 ゴゴ〜 ゴゴゴオ〜ン!

と、鉛色の雪空をうならせていた。

 ユリちゃんの家は、百姓家には珍しい大きな二階建てで瓦屋根だった。まわりの家は、茅葺きだ。

 花世はユリちゃんの家の前を通る度、あの二階には何があるのだろう、登ってみたいなと思っていた。花世の家は、藁束がいっぱいつまっている作業用二階と屋根裏しかないので、ちゃんとした二階に憧れていた。

 けれど、ユリちゃん家の後ろにはお墓と火葬場がある。それに、春先、ユリちゃん家の裏庭で遊んでいたら、横穴の近くから蝮の子がうじゃうじゃ出てきてぞっとしたことがある。だから、ユリちゃん家は、行きたいような行きたくないような気がしていた。が、きょうは友子につられて家に入った。

 茶の間で、ユリちゃんと友子は何がおかしいのか、クククッと笑い合っていた。

 茶の間の北口の床の上で、花世と同級生の政司が冷飯を食べていた。お櫃を抱え、漬け菜だけをおかずにしてかっこんでいた。部屋には火の気がなく、冷たい空気の中で、冷たいご飯と漬け菜では震えてしまいそうなのに、政司は漬け菜を音高く噛んでうまそうに食べていた。花世も食べてみたくなるほどだった。政司はクラスで一番背が大きいし、がき大将でもある。暴れ回ってお腹がすいているから、何でもおいしいのだろう。

 政司は同級生の花世に気付いて赤くなった。学校へ上がる前は、よく遊んだものなのに、今では口を聞くこともない。政司は近所の子どもを集めては騎馬戦や野球をしたり、いたずらしたりしている。いばりん坊なのに、花世を見ると、赤くなって黙る。

 政司は急いで食べ終わると、お櫃を片付け、木枯しが吹き荒れている外に飛び出していった。

 茶箪笥の前に、雑誌が転がっていた。男の子向けの物だが、政司はあまり読まないので、兄の一夫の本だろう。本に目のない花世は、すぐ読み出した。とにかく、本でさえあれば童話でも漫画でも大人の本でも何でもよかった。花世は雑誌に顔を埋めるようにして没頭していた。

 突然、ブオッという音が目の前でした。びっくりして顔を上げると、すぐ前にユリちゃんの尻があった。プーンとキャベツが腐ったようなにおいが流れた。側で、友子が困ったような顔をしている。ユリちゃんがおかしそうに言った。

「花世ちゃんたら、いつもすぐ本なんだから」

 ユリちゃんは政司に似て体が大きく、名前の通り百合のように色白で目元が涼しくてきれいな子だ。けれど、気性は男の子のようにさっぱりとしている。

 花世は目の前でおならをされたのでは、本を読み続けるわけにはいかず、本を閉じた。しかし、外は寒いし、人の家の中では何をするか思い浮かばない。ルミちゃんといっしょだとすぐ次から次と遊びが変っていっておもしろいのだが。

 花世が思いあぐねていると、ユリちゃんが茶の間の奥にある薄暗い階段の方へ走った。

「二階であそぼう!」

 花世はどきっとした。願ってもないことで、後に続いた。もちろん、友子もついてきた。

 階段を登り切ると、薄暗い板の間が広がっていた。南側の廊下に、窓があった。花世の家の二階と違ってちゃんと天井が張ってあった。いくつもの部屋に分れていて、古い家具とか農機具とかが置いてあった。どうやら、二階はあまり使ってないようでほこりっぽく人の気配がなかった。

 二つ目の部屋に入った時、衝立の影から大きいトラ猫がびょうんと飛び出してきた。ユリちゃん家の飼い猫だ。口にネズミをくわえている。ユリちゃんはおもしろがって後を追いかけた。

「まてえっ!」

 友子もついて行った。トラは階段を飛ぶように降りた。二人もドドドッと音高く駆け降りた。

 花世は後を追おうかなと思ったけれど、踏みとどまった。せっかく二階に登ったのだから、もう少し探検してみようと思ったのだ。

 三つ目の部屋には、古い長持とか、「舌切りすずめ」に出てくるようなつづらが重ねてあった。ほこりだらけだったけれど、物語の世界に踏み込んだようだった。

四つ目の部屋は廊下の灯り窓から遠く、薄暗かった。何に使うのか、大小の甕が雑然と置いてあった。それもたくさん。花世は「アリババと四十人の盗賊」を思い出してしまった。

 五つ目の部屋は窓もなく、ほとんど真っ暗だった。花世はなぜかぞくっとした。でも、引き込まれるようにして入らずにはいられなかった。

 部屋に入った時、足元から冷気が登ってきた。部屋の空気は、氷の穴にでも入ったように冷たく寒かった。花世は廊下に出ようとしたが、足が動かなかった。

 そのうちに、暗い床がうねる波のように盛り上がってきた。びっくりして目を見張ったら、うねっている床に数え切れないほどの目がついていて、それがみんな花世を見つめているのだった。蛇のようにまばたきしない目が、冷たくうつろに花世を見ているのだ。

「!」

 花世は声も出ないまま、金縛りから弾丸が破裂するように廊下へ飛び出た。そのまま、転がるように階段へ走った。階段では足がもつれて尻からドドドッと落ちていった。花世はそのままはうようにして茶の間の明るいところへ出た。

 ユリちゃんと友子がやってきた。腰が抜けたようになって両手をついている花世を見て、ユリちゃんが不思議そうにたずねた。

「どしたの?」

 花世は尻をさすった。

「ん、…」

 きょとんとしている二人にあの不気味な目のことは言いにくかった。花世はやっと息をついてから言った。

「二階に部屋がいっぱいあるね」

「そうかね。あんまりつかってないんだけど」

「五つもあるから、たまげちゃった」

 ユリちゃんは変な顔をして花世を見た。

「四つしかないよ」

「ええっ、五つあったよ!」

「なに言ってんの、四つ目のかめの部屋でおわりだよ」

「!」

 花世はぞっとした。では、花世が見た五つ目の真っ暗な部屋はなんだったのだろう。あのたくさんの目は何だったんだろう。不思議でたまらなかったが、また上って確かめる勇気はとてもなかった。それより、体中がぞくぞくして寒かった。クションとくしゃみも出た。花世はよろよろと立ち上がった。尻が痛いが、なんとか歩けそうだ。

「帰るわ」

「ええっ!」

 ユリちゃんはまだ遊びたそうだった。ガラリと戸口が開き、誰かが帰ってきた。薄暗い土間からぬっと顔を見せたのは、腰が九十度曲ったばあちゃんだ。花世はこのばあちゃんが苦手である。大田植えの時、ばあちゃんの蕗を盗んでからずっとだ。

「またね」

 つまらなそうにしているユリちゃんを残して、花世はさっさと外に出た。友子もついてきた。

 外は、冷たいみぞれが降り始めていた。

 みぞれの中を走りながら、花世はユリちゃんの家を振り返った。お墓と火葬場のある暗い山を背に、いつもの大きな二階家がしんとおさまっていた。

 

 

   十一 餅つきの日

 

 大晦日の前の十二月三十日は、餅つきと決まっている。

 正月用の餅だけでなく、一冬分のおやつであるあられや固餅用の餅までつく。四臼も五臼もつく。

 ばあちゃんはぜいぜい言いながらもち米を蒸すかまどの火の当番で、母はついた餅を広げるのし板やむしろを用意している。父は小屋から臼と杵を運んできた。

 外は冷たいみぞれが降っているけれど、土間中に蒸篭から出る湯気とかまどの煙が入り交じり、家族の声が飛び交い、生気がみなぎっている。

 花世はこの日を楽しみにしていた。子どもが手伝うような仕事はあまりないので、友子と土間で意味なく飛びはねていた。

 臼と杵がきれいに洗われ、もち米も蒸け上がった。父が上着を脱ぎ、母が腰を曲げて三升のもち米が入った重い蒸篭を運んできた。それをばあっと臼に空け、隅にべったりついている熱い餅ご飯をしゃもじで臼に落とした。

 花世と友子はこの瞬間を待っていた。あらかた空っぽになった蒸篭が目当てだ。二人は母から蒸篭を受け取り、餅つきのじゃまにならないように隅に敷いてあるむしろの上に置いた。

 四角い蒸篭の隅や縁にあったかい餅ご飯が少し残っている。二人は指ではぎとり、口に入れた。餅ご飯のちょっと強い香り、ご飯用のうるち米より粘り気も濃もある。餅になる直前の熱く新鮮な味がこたえられない。

 花世は餅ご飯を食べながら父母を見た。父は臼のまわりを回りながらまだご飯粒の形をしている餅ご飯をぎゅうぎゅう押している。母は臼の真ん中へ餅ご飯が集まるようにしゃもじで寄せている。

 もう杵を振り上げても餅ご飯が飛び散らないほどに粘り気が出た時、やっと父は杵を少しだけ振り上げた。

 ペッタン

 ポタン

 母はお湯をつけた素手で餅をペシッと叩いた。杵に餅がつかないようにだ。

 十回ほど繰り返して、ようやく父は高々と杵を振り上げた。

 ペッタン!

   ペシッ(合の手)

 ポッタン!

   ペシッ

 気持ちのいい、おいしい音。無駄のない息の合った父母の動き、いくら見てもあきなかった。

 けれど、蒸篭の中の餅ご飯が一粒もなくなった。花世は蒸篭を持ち、戸口を開けて外に出ると、大急ぎで戸を閉めた。外の冷たい空気が土間に入ると、餅米が固くなってしまうからだ。

 みぞれの中、花世は傘もかぶらず走って前庭にある水槽の中に蒸篭を突っ込んだ。すぐにもどって戸口を開けた時、クロがするりと出てきた。花世はチョッチョッと舌を鳴らしてクロを呼び止めた。

「どこ行くの、みぞれが降っているのに」

 クロは花世を振り返ってニャオ〜ンと甘えるように鳴いた。けれど、すぐに体が濡れないように家の板壁伝いに奥の家の方に向かって行った。

 土間に入ると、一臼つき上がったところだった。母は三升分のすべらかな餅の固まりを側ののし板に乗せ、かたくり粉をつけた。それから、一メートルほどの丸いのし棒で平らにのし始めた。のし棒にも餅がつかないようにかたくり粉をつけながら、何回も何回ものしてのし板と同じ四角の形にした。

 そのうち、かまど番のばあちゃんが声を掛けた。

「蒸けたよ!」

「あい!」

 今までやったことをまた繰り返す。花世も友子も飽きずにじっと見ている。

 朝ご飯を食べてすぐ始めて、お昼過ぎに四臼分の餅をつき終わった。四角に広く伸ばされた餅が土間と広間に並んだ。

 ほっとして父母が蒸篭や臼を洗い始めた時、戸口がガラリと音高く開けられた。花世はぎくりとして戸口を見た。そこには、ゴム合羽を着た裏の家のおじさんが恐い顔して立っていた。

「まあまあ、どうしなすったかね」

 母がタワシを持ったまま腰を伸ばした。おじさんは苦々しそうに言った。

「おまさんたちのクロがおらとこの小鳥を食っちまった」

「あれまあ…」

 父は黙ったまま眉根を寄せた。おじさんは言うだけ言うと、すぐ出て行ってしまった。裏の家のおじさんは小鳥が好きで、青や黄のインコやセキレイ、十姉妹などの他に花世が名前を知らない珍しい鳥もたくさん飼っている。広間の縁側の一角に金網を張り、いくつかの巣箱を置き、大小の止まり木を渡らせて観賞していた。

 ちゃんと戸が閉っていたのに、クロは自分で開けたのだろうか。賢くて足の速いクロならそれくらいのことは出来るかもしれない。でも、本当にクロがやっているところをおじさんは見たのだろうか。母がぶつぶつと怒った。

「ちゃんと戸を閉めておいたら、クロだって中に入れないんだから、自分の手落ちもあるだろうに」

 父は低い声で言った。

「そうであっても、クロをこのままにしておくわけにいかんな」

 花世は不安になった。このままにしておけないということは、どうすることなんだろう。クロはどうなってしまうのだろう。

 花世はクロを探さなくてはと思った。マントも着ないで長靴を履いて外に飛び出た。友子は、祖母がかまどの灰出しをするのを手伝っていたので、ついてこなかった。

 クロはずっとさっき奥の家の方に行ったはずだ。自分の家を一歩出てしまうと、花世にも他人の顔をするクロだが、花世は探しに行かずにはいられなかった。みぞれが降る中、裏の家の庭や作業所の陰をきょろきょろ見ながら、奥の家まで行った。

 奥の家のあたりにもクロの姿はなかった。それで、花世はみぞれでつるつる滑る石段を登ってお寺へ行ってみた。みぞれが降っているので、誰も外に出ていない。みんな、正月や年越しの準備をしているのだろう。

「クショ〜ン!」

 夢中でここまで来てしまったけれど、花世の体はみぞれですっかり濡れて冷えてしまっていた。歯がガチガチしてきたので、家にもどることにした。

 ビシャビシャとみぞれを踏みながら帰り、木戸に入った。作業所の前を通った時、

「ニャア〜ン」とクロの甘えた声がした。花世ははっとして作業所へ飛び込んだ。藁の大束の上にクロが行儀よく座っていた。小鳥を殺戮した後とはとても見えない静かなたたずまいだった。

「クロ!」

「ニャアワ〜ン」

 花世はかがんでクロの喉をさすりながら聞いた。

「おまえ、裏んチの小鳥、食っちまったの?」

 ゴロロロロ…

 クロは気持ちよさそうに喉を鳴らしているだけだ。花世はなでるのをやめ、真剣に聞いた。

「クロ、裏んチの小鳥、ほんとに食っちゃったの?」

 クロはぱっちりとした大きな瞳で花世をじっと見つめてから、

「はい、そうですよ」

とでも言うように、ゆっくりまばたきした。花世はがっくりした。

「クロ…」

 クロは相変わらず落ち着いていて、

「それがどうしたんです。わたしはネコなんですから」

と言わんばかりである。

 花世は思い直した。クロはネズミ捕りの名人だ。たまに、スズメも捕って食べたりしている。それは猫の習性だ。よその家の小鳥を捕ったとしても、猫だから仕方がない。小鳥を狭いところに押し込めて飼う人間の方が悪い。どうしても小鳥を側で可愛がりたいのなら、猫くらいにやられないように小鳥小屋をしっかりしておく責任があると思った。やわな作りにしておいて、猫にやられたなどと言うのは勝手すぎると思った。

 けれど、残念なことに、

「そうだ、クロは悪くない」

という理屈は、大人には通りそうもない。クロはどうなるのだろう。

 花世はクロの側に腰を下ろし、またクロののど元を撫でた。

 ゴロロロロ…

 クロは食事の時のように花世の膝に前足を乗せ、花世が撫でやすいように首を伸ばして気持ちよさそうにした。

 ゴロロロロ…

 こんなに可愛くておとなしいクロなのに、クロが生んだ子猫と同じように大川に投げ込まれてしまうのだろうか。それとも、どこか遠い所に捨てられてしまうのだろうか。これから冷たくて厳しい冬に向かうというのに…

 花世は体中がぞくぞくしてきた。それなのに、頭だけがかあっと熱かった。でも、せっかくクロが前足を花世の膝にあずけて安心し切っているので、動きたくなかった。花世はクロの喉を撫で続けた。

 そのうち、頭がだんだん朦朧としてきた。

 

 花世は一人で砂漠の中を歩き続けていた。暑くて喉が乾いてたまらなかった。

(水、水が飲みたい)

 頭の上には強い日ざしががんがんとふり注ぎ、行けども行けども木陰一つない。脳みそが沸騰するかと思うほど暑かった。

 そのくせ、体はぞくぞくしている。見ると、砂漠はいつの間にか氷原に変っている。一面、銀色に光った氷の世界だった。体は寒いのに、頭は暑くて、倒れそうだった。

 そんな花世の目に、氷原の果てに一点黒いものが映った。花世は体中の力をふりしぼって近づいた。それはクロだった。

「ニャア〜ン」

 クロはいつもの甘えた鳴き声をあげた。花世は思い出した。

「クロ、ずっとさがしていたんだよ!」

 すると、クロは静かに答えた。

「ええ、だから、ずっと待っていたんです」

 花世はどうしても知りたかった。

「クロ、ほんとに裏んチの小鳥を食べたの?」

 クロはちらりとさげすむように花世を見てきっぱりと言った。

「あんな派手な毒色をしたまずそうな物は、食いたかありません」

「よかった…」

 花世はほっとしてクロを抱き上げようとした時、クロはぱっと逃げ、黒い鳥になってしまった。そして、燦々とふり注いでいる太陽めがけてヒバリのように一直線に飛んで行き、太陽に吸い込まれるように見えなくなってしまった。

「クロ!」

 自分が出した大声で、花世は目が醒めた。ばあちゃんが心配そうにのぞき込んでいる。花世は布団の中にいた。もう夜だった。茶の間では、みんなが夕食を食べているようだ。

 ばあちゃんは花世の額の手拭いを取り、側の洗面器でしぼり直した。

「さっき医者さまが来て注射打ってくれたからすぐ治るさ」

 そして、また手拭いを額にそっと乗せながら聞いた。

「熱も少し下がったから、りんご汁でも飲むか?」

 冷たい手拭いが気持ちよかった。それに、花世は熱が出た時だけ飲める貴重なりんご汁より水が飲みたかった。

「水がいい」

「わかった」

 祖母は枕元に置いてあった病人用のガラスの水差しを花世の口に当ててくれた。

 ごくんと、それは命の元が喉を通って体中に広がっていくようだった。花世はふうっと息をついた。そんな花世を見てばあちゃんは安心したように言った。

「たまげたど、お前。びしょびしょになって作業所に倒れていたからな」

「うん」

「ひどくクロが鳴いていたから行ってみたんだけど、ほんとにたまげた」

 そうだ、クロだ。

「クロはどうした?」

 ばあちゃんは目をしばたたき、

「ン…」

と言ったきりだった。

 

 その夜、毎夜一度は花世の布団を訪ねるクロが来なかった。その夜だけでなく、花世は永遠にクロと会うことがなくなってしまった。

 

 

 

   十二 大晦日

 

 しんしんしんしん…

 ボタンの花びらのような雪が音も無く降り積もっている。まわりの生き物の音がすべてきれいで冷たい雪の中にとじ込められていく。

 そんな中、花世は赤いマントを着て、屋敷の前の道に沿って流れている小川でゴボウのあか取りをしていた。雪はもちろん小川にも落ちて、すぐ溶けはするが手がちぎれそうに冷たい水で、垢のようなこげ茶色のゴボウの皮を縄たわしでごしごしこすってむいていた。霜焼けだらけの手はもう神経が麻痺してしまって冷たさも感じなくなってしまった。

 けれど、花世は浮き浮きしていた。家では、母やばあちゃんが大晦日のご馳走を作っている。一年中で一番たくさんのご馳走が並ぶのが、大晦日だ。この日は、昼過ぎからご馳走を作り始める。友子も芋の皮剥きなんかを手伝っているはずだ。

 このゴボウはきんぴらごぼう用だ。垢取りをしたら、水につけてあく抜きをしておかなければならない。

 四・五本のゴボウの垢取りが終わったので、前庭の水槽に持って行こうとした時だ。

「花世ちゃん」

 見ると、ピンクの傘をさしたマリちゃんだった。マリちゃんは花世と同じ三年生だが、この道を通るなんて珍しい。マリちゃんの家は県道沿いにあって、花世の家から歩いて五分位のところにある。ルミちゃんの家と同じくらいの距離だけれど、お寺は石段がある分大変なのに、花世はマリちゃんの家には行ったことはなく、もっぱらルミちゃんの方に目が向いていた。

「!」

 びっくりしている花世に、マリちゃんが笑って聞いた。

「何してんの」

 屈託のないマリちゃんに、花世は思わず答えた。

「ゴボウのあか取り」

 すると、こんどはマリちゃんの方がびっくりした。

「花世ちゃんて、家ではちゃんとしゃべるんだ!」

 そうだったのだ。田植え休みの時起こした畑荒し事件で、花世はひどくおびえてから学校では口をきかなくなっていた。けれど、もともとおとなしくて学校ではあまりしゃべらなかった花世だ。それに、勉強の方はけっこうできていたので、担任の松木先生は花世に無理にしゃべらそうとしなかった。第一、一クラス五十人もいたので、しゃべらないくらいの子どもにかまっている暇もなかった。花世はそんな状態を良しとしていた。おこられるより放っておかれるほうがずっといい。

 けれど、同じ村でそれほど遠くない家に住んでいるマリちゃんは、花世を見て何気なく話しかけてしまったのだろう。花世はマリちゃんのびっくりした顔を見て、赤くなった。マリちゃんはもの珍しそうにゴボウを見た。

「それ、どうするの」

「大晦日のゴッツオにするの」

「へえ!」

 マリちゃんは浅黒い顔で大仰に驚いた。

「うちはいつも料理屋からとっているよ」

「えっ?」

 花世には何のことか呑み込めなかった。

「料理屋って?」

 マリちゃんはえらそうに言った。

「町の料理屋が作ったゴッツオ、食べたことないの?」

 花世にはどうもわからなかった。

「自分の家で作らないの?」

 マリちゃんはバカにしたように言った。

「料理屋のほうがずっとうまいのッ」

「ふうん」

 信じられない顔をしている花世にマリちゃんが言った。

「そろそろ料理がとどくころだから、見にきなよ」

「うん!」

 花世は走ってゴボウを水槽に入れてもどった。

 マリちゃんはピンクの傘をくるくる回して積もった雪を落としていた。村の子どもたちはみんな黒い傘しか持っていない。

 マリちゃんは花世が近づくと、先に立って歩き出した。花世は少し離れてついて行った。冷たい手を服で拭きながら。

 マリちゃんの家は、大きな二階家だった。奥の家のユリちゃんの二階家よりずっとずっと大きかった。登るのが恐いほどの高くて広い瓦屋根にはすっぽりと雪が積もっていた。

 マリちゃんの家は地主だった。戦後の農地開放で小作に田んぼをあらかたゆずったけど、今でも部落の山はほとんどマリちゃんの家の所有で、非常な財産家だ。お父さんは高校の校長先生をしている。だから、屋敷も広いし、家もまわりの百姓家と比べて格段に立派だ。

 マリちゃんは台所口から家に入った。あまりにも大きくてしっかりした造りの家に、花世は気後れした。そんな花世に、マリちゃんはあごで「入れ」と促した。花世はおそるあそる敷居をまたいであがりかまちで長靴を脱ぎ、黒光りしている床に上がった。近くに家の人はいなかった。

 マリちゃんの後に続いて、やや薄暗い台所に入った。広い台の上に、ご馳走の山があった。

 人参や大根の煮物や昆布巻などが、艶良く見た目良く皿に盛つけられていた。美術品のような立派な皿に初めて見る豪華な料理が所狭しと並んでいた。一人で持てるかしらと思うほど大きな皿に、絵でしか見たことのない鯛が跳ねる形で固まっていた。そのまるい目がどよんと光り、恨めしそうに花世を見た。花世はぞくっとした。自分がこの鯛のように裸にされて盛つけられて、人間より優位な生き物のご馳走にされたらと想像してしまい、ぞっとした。

 外で、人の声がした。すると、マリちゃんは花世に、

(こっち!)

と、手招きし、急いで台所を出た。

 広い廊下を通り、いくつかの広間を通って南側の明るい小部屋に入った。マリちゃんは花世に命令した。

「ここから出ると、家の人に見つからないの。長靴を持って来るから待ってて」

 何で見つかっちゃあいけないのかと思いながらも、花世は小部屋に魅せられた。そこには、花世の家にはない可愛い机と椅子が置かれ、机のわきにはマリちゃんのランドセルがかかっていた。机の上には、置時計やスタンドまであった。花世は絵の世界でしか見たことのない勉強部屋にぼうっとなった。

 何よりも、花世の好きな本がびっしりと並んでいて夢のようだった。それも、学校の図書館にもない漫画シリーズや新しい世界名作全集がきれいにそろっていた。

 花世がむさぼるように背表紙を読んでいると、マリちゃんが自分と花世の長靴を持ってきた。

「こっち」

 マリちゃんは小部屋から外に通じるドアを開けた。マリちゃんはコンクリートの土間を通って庭に出た。

 庭には、荘重な庭石や池があり、花世が見慣れている近所の家の庭とは全く違っていた。庭石や樹木には雪がほどよく積もり、一幅の絵のようであった。花世は立ち止まって見とれていた。

 すると、なんとしたことか、マリちゃんはそんな花世の顔につばをひっかけた。花世がびっくりして反射的に袖でつばを拭いながらマリちゃんを見ると、マリちゃんはいじわるばあさんのような目で花世をにらんだ。突然態度の変ったマリちゃんに言う言葉が出ず、花世は心の中で、

(ルミちゃんはわがままだけれど、マリちゃんみたいに根性が悪くないな)

と、比べた。

 マリちゃんはとっとと駆け出した。

「早くきなっ!」

 花世はついて行くしかない。

 黒い板塀のところまで来ると、マリちゃんは作り笑いをした。

「また、遊びにきていいよ」

 花世はマリちゃんという女の子がわからず、不思議だった。あんなご馳走や本に囲まれて幸せなはずなのに、どうして意地悪なのだろう。また遊びに来いと言われても、つばをかけられるのはたまらない。でも、あの美しい装丁の本は読んでみたいなあ。

 花世は複雑な気持ちで家に向かった。

 ヒュルルル〜

 ゴゴゴオオッ!

 鉛色の雪空がうねり、轟き、木々が枝をふるわせはじめた。大晦日の晩は決まったように吹雪くのだが、今夜も免れそうもないようだ。

 

 

 夜になり、いつもの丸い飯台に大晦日のご馳走が並んだ。焼いた鮭、蛸の酢の物、野菜の煮付け、和え物など、一年中で一番たくさんのご馳走が並んだ。

 家族の顔は、嬉しさで輝いている。ゼンソクのための痰に苦しんでか、今までの人生が苦しすぎたのか、いつも額に深い縦じわを寄せているばあちゃんまで曲った腰を心持ち伸ばし、穏やかな顔して飯台についた。

 花世はいつもひっそりと寄ってきて前足を膝に乗せるクロがいないので、膝が軽すぎて心許なかった。

 父の、

「じゃあ、食べるど」

を合図に、みんなの手が思い思い目指すご馳走に伸びた。マリちゃんの家の立派なご馳走に比べたらいかにも貧弱だけれど、あったかくて親しみやすくてほっとする。質も量も花世にとって満足すぎるほどのご馳走だ。

 みんなはふだんよりずっと時間をかけてゆっくりと食べていた。

 外で、一段と激しく、

 ガガガ〜ン

と、空が破れてしまうのではないかと思うほどの豪音で風が吹き荒れた。

 ぷつっと勢いよく電気が消え、家の中も外も真っ暗な暗闇になった。その中、木立を揺する激しい風音が我が物顔に気炎をあげている。

 けれど、家族の誰も怖がらないし、慌てない。母がすぐ神棚の上の小さな蝋燭立てを下ろし、父が用意した踏み台に置いた。細い蝋燭に火がともると、洞窟の中で松明でも燃え出したようにみんなの顔とご馳走が現れた。みんなは喜んでまた箸をご馳走に伸ばした。

 楽しい晩餐が終わった頃、ようやく風もおさまってきた。飯台の上の皿を片付け始めた時、ぽっと電気がついた。さすがに、みんなはほっと息をついた。そして、今まで暗闇の中の光明だった小さな蝋燭が、急に色あせた光になってしまった。

 と、その時、兄の正夫が蝋燭に向かって尻を向け、ブウッ!と音高く屁を放った。すると、ばあちゃんが青くなり、

「罰当たりメッ!」

と言い、手を振って火を消した。それから、転がるようにして蝋燭立てを風呂場に持って行った。

 花世が見に行くと、ばあちゃんはしきりに、

「なんまんだぶ、なんまんだぶ…」

を唱え、ゼイゼイと咳をしながら、蝋燭立てを洗っていた。

 しばらくたっても、ばあちゃんは止めず、ごしごしと洗い続けている。花世は腰を曲げ、咳をし続けているばあちゃんがかわいそうになった。

「まだ、だめなの?」

 ばあちゃんは余計にごしごしと力をこめた。

「ロクサン(六三)になったら、大変だからな。正夫はお前と違って体が弱いのに」

「ロクサンて何?」

「神様の祟りだ」

「ふうん」

 そう言えば、兄の正夫はよく学校を休む。理由も分らず熱が上がったり、腹痛を起こしたりするのだ。食事も、年下の花世の方がよくおかわりする。花世は、正夫は兄なのに花世ほど田んぼの仕事をしなくても両親が怒らないわけが今ごろ分った。

 ごしごし洗い続けているばあちゃんの皺だらけで節くれ立った手が真っ赤になった。花世は手を伸ばした。

「代わるよ。また、夜中にばあちゃんの発作が起こるから」

 ばあちゃんは首を振った。

「クロも浜で寒い思いをしているだろうて」

 それで、花世は分った。クロは大川ではなく、海岸の部落に捨てられたのだ。

 花世は切なくなった。慣れない海岸部落でどうやって餌を見つけるのだろう。夏なら、浜辺に魚を干しているかもしれないけれど、こんな雪の中じゃあ虫一匹いないだろう。雪や風をよけるねぐらがうまく見つかるだろうか。

 自分は暖かい家の中でおなかいっぱいのご馳走を食べた後だから、余計にクロのことがかわいそうでたまらなかった。

 ばあちゃんはしつこくろうそく立てを洗い続け、花世は隙間風がすうすう吹きつける敷居に腰を下ろしたまま動けなかった。

 

 

   十三 スキー

 

 ザザザザアッー!

 風を切り、舞いおりるぼたん雪を巻き込み、花世は急坂を滑りおりた。

 途中、なんとか体のバランスをとって広い平地に曲った。花世は格好よくシュプールに直角に両足を揃えて止まれない。それで、平らなところでストックでブレーキをかけて止まるつもりなのだ。ところが、ズデーンと雪の中に倒れてしまった。

「アッハハハ!」

 側でルミちゃんが愉快そうに笑った。

「ちゃんとおれの止まり方を見てなッ」

と言いながら、まだ倒れたままの花世からスキーを外した。二人は一台のスキーを代わり代わるに乗っていたのだ。スキーは、女中奉公に行っている花世の姉の物だった。高校生の時、体育のスキーの実習用に買ったものだ。この辺の子どもは、自分用のスキーなどはとても買ってもらえない。

 ルミちゃんはスキーを持ってたっぷり雪でおおわれた急な石段を駆け登った。曲がり角の踊り場でスキーを履くと、ストックで雪をけちらし滑り始めた。途中、数回ストックを押し上げ、勢いをつけた。平地に曲る時も、器用にストックを使いきれいなシュプールを描いて花世の前を通り過ぎた。

 ルミちゃんは最後までブレーキをかけることなく膝を上手に屈伸させ、崖っぷち間際で自然に止まった。

 今まで二人で何回か乗っているが、ルミちゃんは初めの二・三回転んだだけであとはストックを使っても使わなくてもきれいに止まることができた。花世は自分の家のスキーなのだからルミちゃんよりはるかにたくさん乗っているのに、転ばなかったのは一回だけだ。花世はおこったようにルミちゃんの長靴からスキーを外し、また水っぽい雪の坂を登り始めた。

 

 

 ザッザッ、ザザアッ

 ザッザッ、ザザアッ

 広い雪原の中、花世はスキーに乗っていた。雪の下は田んぼだ。右足、左足と歩いた勢いで三歩目に滑っている。前を同級生のマリちゃんが同じようにして進んでいる。

 二人のスキーは新しくて立派な金具がついていた。蝋も塗ったばかりだ。もちろん、マリちゃんの家のスキーだ。マリちゃんのお父さんは高校の校長先生なので、まわりの農家と違って現金収入がある。だから、持っているものも着ているものも百姓たちとは違っていた。

 マリちゃんに誘われて、一々取り外さなくていいスキーを借りたのはいいけれど、平らなところを滑っているのは物足りなかった。勾配といったら、はさぎをまとめて置いてある所くらいだ。おかげで転ぶこともないけれど。

 花世は一回だけ入ったことのあるマリちゃんの勉強部屋を思い出した。

(ああ、スキーよりもあの新しい世界名作全集が読みたいなあ)

 マリちゃんが止まって振り返り、ストックで遠くの部落を指した。

「ずっと向こうの診療所からニ軒目の家、見える?」

 それは小造りではあるが、この辺には珍しい瓦屋根の二階家だった。

「あれが原光男の家なの」

 その子なら花世も知っていた。一年下でルミちゃんと同じ二年生の男の子だ。花世の学校は、一学年一クラスか二クラスなので、目立つ顔はすぐわかる。原光男は面長で鼻筋の通った顔立ちをしていた。マリちゃんはきっぱりと言った。

「原光男はきりりとしていてかっこいいよ。田舎っぽくないし、うちのクラスにはあんなハンサムいないわ」

 花世は、(へえ、そうかなあ?)と思った。花世は同じクラスの岡昌也の顔に密かに憧れていた。岡昌也は色白で眉が濃く、切れ長の二重瞼は武者人形のようであった。岡昌也に比べると、原光男は平凡な顔立ちだ。けれど、花世は自分の好みをマリちゃんに言うつもりはない。マリちゃんは花世が黙っているのを同意と受け取ったのかどうか、陶然としゃべり続けた。

「原光男の家も小さくてかわいいなあ。あんなしゃれた二階家に住んでみたい。原光男といっしょにくらしたい。原光男とスキーに乗りたい。

 原光男、原光男、原光男…」

 マリちゃんは原光男の名前を唱え続けた。

 花世はあんぐり口を開けてマリちゃんを見た。自分の気持ちをこんなふうにあからさまに言うマリちゃんが不思議な生き物のように見えた。

 

 花世はぐったりとして家に入った。マリちゃんに原光男のことをずっと聞かせられて疲れてしまった。

 茶の間の囲炉裏端で友子とルミちゃんが遊んでいた。隣の部屋からは、ゼイゼイという弱々しいばあちゃんの咳が聞こえた。二人はばあちゃんが作ってくれたお手玉をしていた。二人とも一個ずつ代わり代わりにぽんぽんと上げるだけで、二個とも空中に放り投げる器用な芸当はできなかった。

 花世もやってみた。二人よりはましだが、ちょっとスピードがあるだけだ。

 友子がくやしそうに言った。

「東京に行っている姉ちゃんは、上手なんだよね。こつをおそわりたいなあ」

 姉はお手玉を四つでも五つでも両手で器用にはねあげていた。姉は平気で約束を破るけれど、縫い物とか料理とかの手先のことは上手だった。花世は姉のことを思い出して懐かしくなった。

「姉ちゃんは春になったら、帰ってくるんだよ。大田植えに間に合うようにね。その時は、おみやげをいっぱい買ってきてくれるんだ」

 ルミちゃんが不満そうに言った。

「春じゃあなくて今帰ってくればいいのに。花世ちゃんチはいつもいそがしいんだから」

 ルミちゃんの言う通りだ。きょうも父や母は、大田植えに来てもらう人手を集めるために、雪の中遠くの部落まで結いを頼みに行っている。外にでかけない時も、俵やかます作りなどの藁仕事が山のようにある。

 けれど、このあたりでは学校を出た女性は、冬の間都会へ出稼ぎに行っている。女中奉公や暖かい地方で蜜柑もぎをして現金を得るためだ。

 花世はルミちゃんに言い聞かせた。

「だめなの。冬はちゃんと出稼ぎをしてゼン(銭)をためなくちゃあならんの」

 ルミちゃんのお父さんである住職は、役場にも勤めているから暮しには困らない現金収入がある。ルミちゃんはなぜ出稼ぎをしなければならないのかぴんとこなかった。それで、出稼ぎが楽しいことのように感じてしまった。

「東京じゃあ、うまいゴッツオ(ごちそう)が食べられるからいいなあ」

 花世はうまいゴッツオのことは聞いたことがなかったけれど、姉が出発する前に約束してくれたことを思い出した。

「春に帰ってくる時はね、きれいな洋服と本とチョコレートを買ってきてくれるんだって」

 友子もうっとりした。

「早く春になるといいなあ」

 花世も遠い目をして繰り返した。

「春が早く来るといいなあ」

 二人の頭の中はもう若葉いっぱいの春で、姉のきらきらした土産物にかこまれていた。姉ちゃんのいないルミちゃんはそんな二人を羨ましそうに見ていた。

 その時、土間につながっている引き戸がガラリと開いた。ぬっと顔を出したのは、春に帰ってくるはずの姉だった。

 気持ちのいい夢を見ていたのに、花世は顔をひっぱたかれてたたきおこされたように驚いた。現実に姉とは急に信じられなかった。ところが、姉は平然と、

「ただいま」

と言って、山のような荷物といっしょに茶の間に上がりこんできた。花世はやっと声が出た。

「ど、どうしたの。今ごろ」

「帰ってきちゃった」

 姉はあっけらかんと言った。花世はルミちゃんの手前、体裁が悪くて囲炉裏の灰の中にでももぐりこんでしまいたかった。あまりにうろたえている花世を見てかわいそうに思ったのか、ルミちゃんはすうっとさよならも言わず帰って行った。

 姉は茶の間いっぱいに土産物を並べ始めた。

 

 夕方、父と母が帰ってきた。姉からどういう話があったのか、期限前に帰ってきた姉を叱りはしなかった。姉は家族に出稼ぎ先の悪口を家族に言うわけでもなかったが、花世なりに、

(姉が奉公した医者の家は、いやなところだったんだろうな)

と、想像した。その前の年に行った奉公先の店ではきっちりと期限まで務めたし、店の主人をとてもほめていたからだ。

 そして、姉の土産物は素晴らしかった。きらきら光るガラスの靴下とかわいいハート型の針刺し、それに、レースのついたカーディガンだった。約束の品とは違ったが、花世は十分満足した。金持ちの家の子のマリちゃんでさえ持っていないようなものだった。

 夜、久しぶりに家族全員がそろって夕食を食べた。このところずっと寝た切りだったばあちゃんでさえ起きてきた。両親が忙しいため、姉はばあちゃん子だったのだ。

 ご飯を食べ終わった時、姉が思い出したように立ち上がった。

「あっ、そうそう。ばあちゃんの好きなものがあるんよ」

 姉は隣の広間に置いたバッグからきれいな箱を取り出してきた。開けると、黒い小さな粒の甘納豆だった。花世はご飯を食べたばかりなのにごくりとつばを呑みこんだ。姉が神々しくさえ見えた。

「ばあちゃん、大好きでしょ。甘いものを食べると、喉のすべりがよくなるから」

 ばあちゃんはひとまわり小さくなったしわだらけの顔でそれは嬉しそうに笑った。笑ったのに、泣いたような顔になった。

 姉はばあちゃんに渡す前に一粒つまんで食べた。が、首をかしげた。そして、いきなり北口の戸を開けたかと思うと、大切な甘納豆を外の暗い雪の中に放り投げた。花世は悪い夢でもみているようだった。姉は明るく言った。

「一週間前に買ったものだから、固くなっちゃったよ。ばあちゃんの腹をこわすといけんから、あした町へ行って新しいのを買ってくるわ」

 出来立ての甘納豆など食べたことのない花世は、甘納豆は固いものだと思っていた。一週間たとうと一月たっていようと、丈夫な花世の腹はこわれるわけがない。弱っているばあちゃんは無理かもしれないけれど、他の家族はいつだって甘いものに飢えているのに…。花世は姉が恨めしくてたまらなかった。ばあちゃんは風船がしぼんだような顔をしていた。

 

 その夜、花世はなかなか寝つけなかった。同じ部屋の一番入口に布団をしいているばあちゃんは、喉をヒュルヒュル鳴らせて苦しそうな息づかいで横になっていた。

 隣の茶の間では姉と両親のひそひそ声がしていた。姉は何事かを頼んでいるようだった。父の厳しい声が聞こえた。

「編み物より、女はまず和裁を習わなくては駄目だ」

 姉の声も大きくなった。

「でも、これからの時代は編み物の方がずっと流行っていくんよ。東京では編み物教室の方がずっとたくさん看板を出していたんよ」

「東京と田舎じゃあ違う。和裁がいやなら、編み物も駄目だ」

 母のとりなす声が聞こえたが、どちらかはっきりしないうちに花世は眠ってしまった。

 それから一週間後、どういう話し合いがあったのか、姉は町の編み物教室の方へ通い出した。

 

 

   十四 牛乳をもらいに

 

 夕食の後、花世はずっとぶち猫のチロを抱いていた。チロは二・三日前から元気がなかった。猫皿には口をつけていないし、好きな煮干しをやっても食べようとしない。

 チロはクロが浜辺に捨てられた後、一カ月ほどしてからもらってきた猫だ。まだ一才にもなっていない若い雄猫である。農家は一年間分の米を貯蔵しているから、ネズミの格好の標的だ。猫は百姓家にとってどうしても必要な一員なのだ。

 やはり、チロも花世に一番なついて、今は花世の膝の上でぐたあっとなっていた。

 夕食の後片付けを終えた母が言った。

「あったかい乳なら飲むかもしれんなあ。チロはもともと魚より牛乳が好きな猫だから」

「うん」

「でも、うちの山羊は乳が出ないしなあ…」

 秋おそくまで花世たちは家で飼っていた山羊の乳を飲んでいたが、さすがに今はひとったれも出ない。また、春先に子どもを産むまでおあずけだ。

 囲炉裏ばたで新聞を読んでいた父が顔を上げた。

「ウエンチ(屋号)なら、牛の乳があるな。あそこは冬もずっと出ているからもらいに行ってこい」

 ウエンチのおじさんと父はよく往来している。二人とも呑兵衛で気が合うようだ。おじさんは来る時必ずペコちゃんの飴を持ってくる。それをきょうだいみんなにあげるのではなく、花世だけにくれるのだ。

 初めのうち、花世は単純に喜んでいたが、ある時からおじさんが来ると寝間に隠れていて茶の間に出ないようになった。

 ウエンチのおじさんには子どもがいない。ある吹雪の晩、おじさんは囲炉裏ばたで酒を飲んでいた。酒で上機嫌になり囲炉裏の炎に染った真っ赤な顔で、ペコちゃんの飴をもらって喜んでいる花世に言った。

「花世ちゃんのえくぼ、かわいいねえ。とって食ってしまいたいくらいだよ。うちの子にならんかね」

 花世はすぐにはぴんとこなかったが、おじさんにしては冗談かもしれない言葉がだんだん重くのしかかってきた。いくらペコちゃんをたくさんもらえても、人の家の子になんかなりたくない。ここの家がいい。それで、道を歩いていて、遠くにおじさんの姿を見つけると、近づかないように道を曲がってしまうようになっていた。

 そのおじさんの家へ牛乳をもらいに行くのは、ひどく気が重い。しかも、夜の雪道はこわい。

 花世は膝の上でぐったりしているチロを見た。チロは夏子のためか、クロのようにしっかりした体格ではなく、華奢だ。それがこのところ何も食べていないものだから縮んでしまったように痩せた。普段のご飯の食べ方も勢いがない。オスなのだから、がんがん食べて大きくならないと、近所の野良猫にいじめられてしまう。

 花世は決心した。チロをそっと暖かい囲炉裏ばたに置いて立ち上がった。母が台所にあった空き瓶を渡してくれた。

 花世は赤いマントを着て友子と二人で外に出た。

 今夜は吹雪いていない。巾五十センチほどの踏み固められた深い溝のような雪道が、雪明かりでよく見える。ウエンチまでは一キロほどだ。

 二人はキシキシという雪音をたてて進んだ。ところどころ、街灯がオレンジ色のファンタジックな空間を作っている。

 花世は学校で見たアニメの映画を思い出した。それで、恐さを忘れるために楽しい空想に浸ることにした。

「シンデレラは幸せなお姫様になってお城に行ったね。うちもそのうち、きれいな部屋がいっぱいあるお城のような家を建てるの」

「どんな部屋があるの?」

 友子の目が輝き始めた。花世の空想を聞くのが大好きなのだ。

「まずね、新しい本がいっぱいつまっている図書室があるの。学校よりずっとおおきいのね。友子の好きな『少女』もずらりと並んでいて、毎月本屋さんが届けてくれるんだよ」

「うん」

 友子の目がうっとりした。

「音楽室には白くてかわいいグランドピアノがあるの。友子も弾いていいんだよ。ピアノの先生もちゃんといるし」

「へえ!」

「もちろん、一人一人の勉強部屋がちゃんとあって、机もスタンドも自分のがあるんだよ」

「やったあ」

「友子はベッドに寝たいと言ってたね」

「『少女』に出ていたもん」

「うちの者はみんなベッドで寝てるの。しかも、レースのカーテンつきのね」

「フウ〜」

 ウエンチの木戸先まで来た。深い溝の雪道を折れ曲がり、玄関に向かいながら花世の空想は続いた。

「最高なのはね、屋根裏に秘密の部屋があるの。そこには、なんでも言うことを聞いてくれる魔法使いが住んでいるんだ」

「すごい!」

と、友子が叫んだ時だ。

 ウワワワワーン!

 突然、わきの雪道から辺りの空気をつんざくような吠え声と共に黒い生き物が花世たちに襲いかかった。

 ギャアッ!

 二人は雪道を死物狂いでめちゃくちゃにもどった。黒い生き物は吠えながらずっと追いかけてきた。

 力つきた花世は、よその家の庭に飛びこんだ。友子も続いた。すると、やっと獰猛な生き物は踵を返した。

 家にもどってから恐怖の体験を語ると、花世は家族中に口々に言われてしまった。

「あそこの犬はおとなしくて人をかまないはずだよ」

「逃げると、犬は追いかけるものなんだから知らん顔して通り過ぎればいいのに」

「花世は臆病すぎるの」

 けれど、花世はもうてこでも動かなかった。ぐったりしているチロを見ると、胸がいたむけれど…。

 姉が花世の抱えている空き瓶を受け取り、気軽に言った。

「あたし、行ってくる」

 花世はびっくりして姉を見た。こんな恐い話を聞かせたばかりだというのに、どうして姉は一人で行く気になれたのだろうか。花世は姉が同じ姉妹だとはとても思えなかった。そして、きっと姉も空き瓶を抱えたまま戻ってくると、確信した。

 ところが、姉は三十分後にちゃんと中身の入った瓶を持って帰ってきた。花世は信じられなかった。

「犬に吠えられなかった?」

「なんも」

「犬に追いかけられなかった?」

「全然」

 姉はあっけらかんとしていた。花世は姉という人間が、別の生き物のように見えた。

 チロはあたためた牛乳をおいしそうになめた。

 そして、二・三日後にはだんだん元気を取り戻していった。

 

 

   15 編み物教室

 

 鉛色の空から風花のような細かい雪が舞っている。

 朝ご飯を食べたばかりだというのに、母が珍しく飴玉を二個ずつくれた。花世は嬉しくて飴玉を握りしめながら茶の間でぴょんぴょんはねていた。

 そこへ、便所からもどったばあちゃんが通った。ばあちゃんは今朝咳がひどくて朝ご飯も食べずに、布団の中で座っていたのだ。花世は、ゼイゼイと咳をしながら曲った腰でよろよろ歩いているばあちゃんがかわいそうだった。それで、手の中の大事な飴を一つ差し出した。

「これやる。なめていいよ」

 ばあちゃんはめやにと涙で汚れた目で花世を見た。

「ごっつおさん」

 ばあちゃんはよろよろと寝間に入って行った。入れ違いに姉がふくらんだバッグを持って寝間から出てきた。寝間には、きょうだい四人とばあちゃんが一緒に寝ているのだ。姉は気軽に言った。

「花世、きょうは日曜日だから、一緒に編み物教室に行こう」

「ほんと!」

 花世は信じられないくらいだった。姉がそれは嬉しそうに毎日町まで通っていて、それが花世には羨ましくてたまらなかったのだ。町には本屋・菓子屋・洋服屋などがずらりと並んでいて、憧れの場所だった。子どもの花世たちが町へ連れていってもらえるのは、六月に行われる「お引き上げ」というお祭りの時くらいだ。

 編み物教室から帰る度、町のことを根掘り葉掘り聞きたがっていた花世の気持ちを、姉は察してくれたらしい。

 花世は跳ね上がるようにして寝間に入り、よそ行きのセーターを着た。といっても、それは二年前に買ってもらったもので、今はきつく、かがむとすぐ背中が出てしまう。けれど、花世にとっては大切な一張羅のセーターだった。この間、姉が奉公先から帰った時に買ってきてくれたレースのカーディガンは、着て暖かいというものではなかった。花世は大切な宝物のようにして、一度も着て出かけたことはない。一日一回は箪笥を開け、見て楽しんでいた。

 花世は大急ぎで赤いマントもはおって外に飛び出た。姉は高校時代と同じ黒いコートを着て、もう木戸先を歩いていた。花世は姉に走りよると、後ろについて小犬のようにとことこと歩いた。きょうは風花が舞っている程度なので、帽子も被らなくてよかった。

県道に出た時、中ン家(屋号)のおばさんと会った。おばさんは足を止めて姉に念を押した。

「おまさん(あんた)に頼んだアキラのセーターだけど、身ごろはうんと長くしてな。背中が出んように」

 姉は編み物教室に通い始めてまだ一週間だというのに、もう村の人から注文をもらっているのだ。姉は自信たっぷりに答えた。

「はあい、わかりました。今日中にできあがります」

 おばさんはほっとして笑った。

「おまさんは手先が器用だから、頼りにしているよ」

 姉は赤いほっぺで人が好さそうに笑った。

「ちょっとしゃれたセーターにしているから」

 すると、おばさんは不安そうな目になった。姉はかまわずさっさと歩き出した。二人ともバス代を節約して町まで四キロほどの雪道を歩いて行くのだ。花世も姉の後を追って急ぎ足になった。

 町は小高い丘の上にあった。編み物教室は坂道を登り切ったところにあった。美容院の二階の一室が編み物教室だ。

 四キロも雪道を歩くと、体中が汗ばむくらい暑かった。けれど、姉は汗も拭かずコートを玄関の釘に引っ掛けると、急いで階段を上って行った。花世も続いた。

 二人が部屋に入った時には、既に七・八人の若い娘たちが熱心に編み機をザッーザッーと動かしていた。姉は明るく声をかけた。

「お早ようございまーす!」

 みんなの手がちょっと止まり、目を姉に向けた。

「お早ようございます。あらッ」

 みんなの目が花世に集中した。花世は恥かしくなり、姉の陰に寄った。娘たちは興味深そうに花世に笑いかけた。

「杉山さんの妹?」

 花世はこくんとうなずき、姉が答えた。

「当たり前でしょ」

 少し年配の娘が遠慮のない言い方をした。

「随分年が離れているんだね」

 花世は九才で、姉は二十才だ。姉はけろりと答えた。

「うん。間の男の子が二人とも病気で死んじゃったからね。三度目の正直で生き残ったこの子の兄もひ弱だけど」

「どうしてかね」

「あの戦争が影響していると思うよ。戦争中、母親がろくな物も食べないで一人で田んぼ仕事をやっていたから。父親は子作りに戦地から帰ってきただけで」

「そう言えば、私のところも戦争中に生まれた妹が一人死んでる。お上の『産めよ、増やせよ』政策で、母親が四十過ぎてから産んだ子だけどね」

 そこへ、奥の部屋から黒いセーターに黒いスラックスを履いた女性が出てきた。

「きょうはかわいいお客様も一緒ね」

 みんなの目がその女性に向いた。

「先生、お早ようございます」

「先生、妹がお邪魔します」

 先生と呼ばれた女性は、娘たちと違って泥臭くなく、洗練された都会者の匂がした。姉たちよりかなり年上のようだけれど、花世の学校の女の先生よりずっとセンスがよくてきれいだった。花世は挨拶もせず、ぼうっと先生に見とれた。先生は声を出さず(ウフフ)と花世に笑いかけた。それから、生徒たちの間を回り、編みかけの作品を手に取り小声で何か言い始めた。

 花世は姉の側に立って姉の手元をじっと見た。姉は中ン家のアキラのセーターを編んでいる。若草色の毛糸で、姉の手元だけに春が来ているようだった。もう、首の部分にさしかかっていた。太い網目模様が入っていて、百姓の子が着るとは思えないほど上品でかっこよかった。

 ところが、花世は(あっ!)と心の中で思った。セーターの形が大変かっこいいのは、身ごろの丈が都会風に短かったからなのだ。これでは、あの腕白盛りのアキラが暴れ回ったら、すぐ背中やヘソが出てしまう。花世は中ン家のおばさんの不安そうな表情を思い出し、そっと姉の顔を見た。姉は満足そうな顔で模様のために編み機の針を複雑に操作している。花世は開きかけた口をつぐんでしまった。

 けれど、器用に動く姉の手先を見ているのは楽しかった。じっと飽きずに見ていると、姉より大分年配の女性が椅子を持ってきてくれた。花世は驚いて「ありがとう」の言葉が出ず、頭をこくんと下げてから座った。

 お昼になった。みんなは弁当と椅子を持って達磨ストーブのまわりに集った。

 花世は姉が作ってきた弁当を分けてもらった。おかずは色のあせた漬け菜だけだった。周りの人の弁当を見ると、昆布の佃煮が入っていたり赤い田麩がご飯の上にかけてあったりして華やかだ。大体、町の出身なのだろう。

 姉は貧しいおかずを気にもせず音高くボリボリと噛んでいる。花世は恥かしかったし、おなかもすいていたので、大急ぎで食べた。

 先生が小皿にお菓子を入れて花世の側に置き、優しく言った。

「どうぞ、食べてね」

 タヌキやクマの形をしたビスケットはおいしそうだった。花世は姉と分け合った弁当でお腹がふくれたわけではない。食べたくてたまらないのに、ビスケットにどうしても手を伸ばすことができなかった。

 午後も娘たちのおしゃべりと編み物機の音が続いた。

 先生が近くの店に毛糸を買いに出かけた時だ。花世に椅子を持ってきてくれた人が意味ありげな目つきで言い出した。

「先生の旦那って杉山さんの村の人だよね。旦那の奥さんてどんな人?」

 姉は手元に神経を集中させていたので、上の空で答えた。

「普通の百姓のおかみさんだよ」

 他の娘たちも興味津々にしゃべりはじめた。

「奥さんとはすごい大恋愛して結婚したと聞いてるけど、この辺じゃあ恋愛なんて珍しいね」

 すると、姉が編み物の手を止めて憤慨した。

「今はすごーく仲悪いみたい。おかみさんだけ新聞紙の上でご飯を食べさせるんだって。自分は勤め人できれいなかっこしているけど、おかみさんは一人で田んぼをやってるから、いいかっこしていられないよね」

 花世にも、それは誰なのかすぐわかった。その夫婦は子どもの間でも評判になっているほど仲が悪かった。そして、その家にはルミちゃんと同じ二年生の女の子がいるので、一度だけ遊びに行ったことがある。

 庭や家の中が、まわりの百姓家と違ってとてもきれいだった。けれど、大きな犬が飼われているので、その後行ってない。花世は犬を飼っている家には恐くて遊びに行けないのだ。

 娘たちはあけすけに聞いた。

「奥さんて、きれいな人?」

「普通だよ」

 姉は簡単に答え、また熱心に仕上げに入っていった。うわさ話はあまり好きでないようだ。

 花世はそのおかみさんをしょっちゅう見る。おかみさんの家が学校の近くなので毎日のように側を通っているからだ。おかみさんは下駄がひしゃげたような顔をしていて、美人とはとても言えないけれど、さっぱりした気性でよく働く人だ。身なりもあまりかまわず、いつも一人で田んぼ仕事をしていた。

 娘たちは勝手にうわさ話に花を咲かせていた。

「やっぱり、男はきれいな女に目がいくよね。うちの先生が相手じゃあとても勝ち目がないかなあ」

「男ってずるいよね。ちゃんと離婚してからつきあえばいいのに」

「子どもがいたら、離婚もなかなか難しいよ。おかみさんだって、今更帰っていくところもないだろうし」

「先生はこの先どうするつもりなのかね。あんなに色気たっぷりなんだから、他のいい男を見つけた方がいいと思うけど」

「人のことより自分はどうなのよ。あたしらもいい年だよ」

 姉の隣にいる痩せぎすの女性がきっぱりと言った。

「私は結婚よりもまず手に職をつけるんだ」

 花世に椅子をかしてくれた人が、真顔で諭した。

「あんた、うちの先生みたいになっちゃうよ。へたに手に職つけたら、嫁にいきはぐって中年の妻子持ちしかいなくなってしまう」

「わたしは男に食わせてもらうだけなのは、どうしても嫌なの。だから、結婚したとしても男が浮気したらさっさと追い出して、自活するんだ」

 その人は語気荒く言い放った。お説教しようとした女性は、自活主義者の手元を見た。その人はみごとなアラベスク模様の絨毯のような物を編んでいた。お説教屋さんは嫉妬と憐れみの混じったような目になった。

「あんたは強いね」

 自活主義者は一時も手を休めずに言った。

「仲の悪い両親と二十五年も暮していると、こうなるよ」

 そこへガラリと引き戸が開き、先生が大きな包みを抱えてもどってきた。みんなは何事もなかったように迎えた。

「お帰りなさい」

「荷物、大変でしたね」

 先生は上気した顔で笑った。

「とてもいい編み物の本が手に入ったのよ。みんなも後で見てね」

「はあい!」

 

 午後四時で編み物教室は終わりだ。

 花世が手をつけなかったビスケットを、先生は紙に包んで持たせてくれた。花世は嬉しくて思わず笑ってしまった。先生は花世のかたえくぼのある笑顔につられて、口元だけ笑った。きれいな笑顔だったけれど、目が笑っていなくて淋しそうだった。

 帰りも四キロの雪道を家まで歩いて帰った。花世は先生からもらったビスケットを友子と食べようと思ったけれど、我慢できなくて、途中姉にわからないように一つ口に入れた。甘みが口いっぱいに広がった。その時、先生の寂しげな笑顔が浮んだ。

 家に着くと、ばあちゃんが起きてきて、花世に五十円玉を差し出した。

「朝もらった飴をなめたら、喉のすべりがよくなってとても楽だったんだよ。これで飴を買ってきておくれ。お前にもあげるから」

「わかった」

 花世は五十円玉を受け取って、すぐ家を飛び出した。村に一軒だけ小さな万屋がある。走って四・五分のところだ。いつもより元気な顔をしていたばあちゃんを見るのは、やっぱり嬉しかった。

(第2部へ続く)

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