サザンカ咲いたら

  蒲原ユミ子

 

   1 怪しい母

 青山サザンカはかなりおこっていた。

(サツキったらいくらていねいに教えても、底の抜けたランドセルのように忘れてしまう。五年生のくせに掛け算がやっとだなんて…。わたしの夏休みが、サツキの家庭教師をしているうちに終わってしまうわ)

 ここはちょっとこぎれいな屋根裏部屋。レースのカーテンが真夏の暑い風にけだるく揺れ,ている。サザンカはソファに腰をおろし,ほお杖をついていた。

 サザンカの後を追いたがる妹のサツキもここまでは来ない。太っている上に高所恐怖症だから、この細くて急な階段は登れないのだ。

 まぶしいくらいの濃い青空に真っ白な入道雲が日本海の水平線からもくもく湧いている。サザンカはその入道雲さえ憎らしくなってしまう。

 サザンカは考えた。

(サツキのヤツめ、どうやったらプロの家庭教師になじんでくれるかなあ? ひょっとしておじさんタイプがいいのかも知れない)

 前、家庭教師派遣センターでサザンカが優しそうな女子学生をみつくろって頼んだことがある。けれど、サツキは一回で断ってしまった。「ネエちゃんの方がずっといい!」と言って。

 一つ違いのサツキは姉と違って超とろい。だから、サザンカはつい怒ったりサツキの頭をごぎごぎしたりしてしまう。優しくなんか教えていられない。それでも,サツキはサザンカがいいと言う。サザンカはもういいかげんサツキの家庭教師の役を降りたいと思っているのに。

 サザンカは両人差し指でこめかみをぐりぐりした。

(これから家庭教師派遣センターに行ってこようかな)

 立ち上がった時、ずっと向こうの雑木林の手前にばあちゃんの姿が見えた。広い庭には、山茶花や皐・椿といった常緑樹と花水木・梅・銀杏などの落葉樹がバランスよく植えられている。草花も、さも手入れしてますよという感じではなくごく自然に植えられている。青山家の庭は四季の花が絶えることがない。全てばあちゃんの労作であるけれど。この陽盛りに今もばちゃんはガーデニングの真っ最中だ。

 サザンカはそんなばあちゃんにも腹を立てた。

(ばあちゃんたら、植物だけでなく、たった二人しかいない孫ももっとかわいがったらどう?)

 ばあちゃんは七十才で、まだしゃんとしているけれど、あまり多くのことを語らない。ガーデニング以外はほとんど自分の部屋に閉じこもっている。そして、大きな悲しみを抱えているような暗い目をしている。サザンカはばあちゃんに話しかけにくい。サツキは気にしないで学校のことなんかをしゃべっているけれど、ばあちゃんは、「ああ」とか「そう」とかと言うくらいである。

 植物の好きなばあちゃんが、特に好きな山茶花と皐を孫娘の名前にしたくらいだから、全く愛情がないとは言わない。けれど、サザンカにとってばあちゃんは謎であり、遠い人である。

 サザンカが窓から離れようとした時、土蔵に向かう母の姿が目に入った。サザンカはびっくりして目をこらした。

(な、なんなの。超いそがし屋のお母さんが今ごろあんな所にいるなんて!)

 母は青山製菓の社長だ。それも三代目。ひいじいちゃんがこの地方つまり越後平野でとれるコシヒカリを利用して煎餅会社の青山製菓を創立した。二代目のじいちゃんは早く亡くなったので、ばあちゃんが会社をついで大きくしたのだそうだ。サザンカたちの父はサツキが生まれてすぐ死んでしまったので、母が受け継いだ。いつも、

「一日、三十時間ほしいわ」

が、口癖である。社長業に忙しくて母親業はお手伝いのタマエさんにお任せだ。サザンカは母に母親らしいことを期待するのは、とっくにやめている。母が仕事にがんばってくれないと、青山製菓がつぶれてしまうし、たくさんの従業員の生活もかかっているから。

 母はいつもセンスのいいスーツを着て背筋をしゃんと伸ばしている。ところが、今の母は大きな箱を抱えてこそこそ土蔵に入っていった。

 少しして、母は出てきた。辺りをはばかるように見回してから、車庫に急いだ。

(おかしいわ)

 サザンカは家庭教師派遣センターのことより母のことが気になってしまった。あんなに落ち着きのない母を見るのは、初めてである。

(それに、あの大きな箱は何だろう)

 サザンカは、家庭教師のことはちょっとおいといて、先にその箱を調べたくなった。母が車で慌ただしくまた出かけるのを見届けてから、屋根裏部屋の細い階段を降りた。

 土蔵へ行くには勝手口から出るのが近い。台所に入ると、案の定、サツキが電子レンジの前にいた。アンマンのように白く膨れた顔をうっとりさせ、むちっと肥えた体を籐椅子におさめている。浅黒く引き締まった体つきのサザンカとは姉妹と思えないほど共通点がない。サツキはサザンカを見ると、嬉しそうに言った。

「お姉ちゃん、もうすぐアップルパイができるからね」

「ううっ」

とおおげさにうめいてから、サザンカは手を振った。

「あたしは結構。こんなに暑いのに冗談はやめてね」

 サツキはめげない。

「タマエさんがね、今年初生りの紅玉を手に入れてくれたのよ。メープルシロップをたっぷりきかせたから、おいしいよ」

 不思議なことに、勉強は超苦手なサツキは、お菓子作りが天才的にうまい。ひいじいちゃんやばあちゃんの血だろうか。小学五年生が作ったとは思えないほど美味なクッキーとかケーキも作ってしまう。けれど、サザンカは冷たく断った。

「いらないってば!」

 サザンカはサンダルをひっかけ、勝手口から飛び出した。目ざすは土蔵だ!

 

   2 土蔵の秘密

 ゴギギギィ〜

 サザンカは体重をかけ土蔵の重い漆喰作りの引き戸を開けた。

 ここは使わなくなった古いものばかりを入れておくので、鍵がない。中へ入ると、念のため、引き戸は十センチほど残して閉めた。強い夏の陽射しの中から闇に入ったので、自分だけ光のもやのカプセルの中にいるようだった。

 だんだん目が慣れてきた。入口の細い光と天窓からの光が交錯している。中の物も姿を現わしてきた。機織り機や長持、古い箪笥、とうみや大八車。サザンカは急に懐かしい感情に襲われた。

 小学校に入るまでは、ここでサツキとよく遊んだものだ。長持の上でままごとをしたり、古道具の間でかくれんぼをしたり。千歯こきや縄ない機はお伽話のちょうどいいセットになった。

 学校に上がったら、だんだん二人の性格の違いがはっきりしてきて、一緒に遊んでも、おもしろくなくなってしまった。サザンカは読書とかぼうっとしているのが好きだし、サツキは料理に目覚め、キッチンが居場所である。サザンカはもう小さい頃のように無心にサツキと遊ぶことはないのかと思い、まぶたがじんとなった。

 ジッ、ジジー

 ジジジッ、ジジッ

 突然、油蝉が土蔵の近くの木で鳴き出した。サザンカは我に返った。

(そうそう、お母さんはあの大きな箱をどこにしまったのかしら)

 サザンカは懐かしい土蔵の中をそろそろと歩き出した。ほこりが皮膚のようにしっかりとなじんでいる古道具たち。しんと静まり返ったいる分だけサザンカは古道具たちにじっと見つめられているような気がしてぞくっとした。

(早いとこ見つけなくちゃあ)

 大小の木の箱もたくさん積まれている。昔使っていた茶碗とか膳などが入っているのだ。サザンカたちが遊んだ時の位置と全く変っていない。

 奥に進んで行くと、千歯こきという農具の蔭に新しい箱が見えた。近づくと、確かに母の持っていた大きさの物だ。立派な木の箱である。包装はしてない。サザンカはごくりと唾を飲み込んだ。

(よし、開けてみるべし!

 ダイナマイトとかの危険物ではないもんね)

 サザンカは自分に言い聞かせながら両手で蓋を持ち上げた。蓋はスムーズにすっと持ち上がった。中に花瓶のような物が入っている。サザンカは蓋を置き、花瓶をそっと持ち上げた。ずしりとした重量感がある。割らないようにサザンカは緊張して薄暗がりの土間に置いた。まあここでも見えないことはない。それは薄い青磁に淡い桃色がさあっと刷毛で履いたようにあしらってあった。

(なかなか感じのいい花瓶だわ)

 サザンカは首を傾げた。

(お母さんはこの花瓶をどうしてこんな所に隠したのかしら。玄関とか床の間に飾ったら素敵なのに)

 そして、サザンカは少しがっかりしてした。どんな秘密が隠されているのかと期待していたのに。花瓶とはおもしろくもおかしくもない。それにしても、サザンカは合点がいかない。

(花瓶くらいだったら、タマエさんに任せればいいのに。売れっ子のタレント並に忙しいお母さんが、どうしてわざわざ自分でこんな所に今ごろ隠しに来たのかしら)

 取り合えず、サザンカは花瓶を割らないようにそっと箱の中にもどした。箱には名前も地名も何も書かれてない。桐の上等な箱をぼうっと見ていたサザンカは思い出した。

(高価な器などには、名が刻まれている!)

 サザンカは探偵気分でもう一度蓋を開けた。どっしりと手ごたえのある花瓶を両手で取り出した。ここよりよく見える場所に移動することにした。天窓からの明りが届いている所まで花瓶をしっかりと抱えて持っていった。

 土蔵内の薄墨色をバックに夏の強い陽射しがが斜めに流れている。その光の中で見る青磁の花瓶は、ひそやかで神秘的なまでに美しかった。サザンカは心を奪われみとれてしまった。そのうち、

(そう、似たようなものをどこかで見たことがある…)

と思ったが、場所は思い出せなかった。それから、

(名前名前っと)

 サザンカは花瓶をぐるっと見回した。

「あった!」

 底に近い所に濃い青で模様のような字があった。サザンカはじっと見た。

(これって『泉』という漢字よね)

 サザンカが聞いたこともない名前だ。

(有名な人の名前かな? あたしにはわけわからんけど)

 たいした収穫でもなさそうでサザンカは拍子抜けして花瓶を箱の所にまで運んだ。初めにあったようにもどし、土蔵を出た。

 イイ〜ン、イイ〜ン

 イイイッ〜ン

 近くのハナミズキの木で、すぐ隣の銀杏の木で、あっちの柿の木でと油蝉が互いに張り合うように鼻詰り声をあげている。

 ばあちゃんがずっと向こうの梅の枝の剪定をしている。サザンカは、

(暑いのに、御苦労さんなこって)

と思ったが、近づいて話しかける気はしない。まして、ばあちゃんの園芸を手伝うなんて夢の中でも考えたことがない。せっかくのサザンカという愛すべき名前が、サザンカにとって何の意味もない。サザンカは、

(ばあちゃんは孤独が好きだもんね)

と思いこんでいるので、土蔵で見つけた花瓶のこともばあちゃんに聞くことなど考えの外だ。

 タマエさんが玄関の前を掃いている。サザンカは寄って行った。

 タマエさんはサザンカを見て薄い紫色が入っている眼鏡をずり上げた。何か小言を言う時のタマエさんの癖である。

「お嬢様、もう勉強がおすみですか」

 まだ、十時前ではある。夏休み中は十時までが学習時間としている。それでも、サザンカは少しむっとした。サツキが勉強もしないでお菓子作りに精出していてもあまり怒らない癖に、タマエさんは姉のサザンカには厳しい。

 サザンカはタマエさんの気持ちが分らないではない。サツキったら、相手に甘える才能がある。それに、人を憎むという能力がない。シビアに言ったら、「バカ」と言えなくもない。学力面でいったら完全に落ちこぼれである。しかし、サツキに対したら、大概の大人たちは優しい手を差し伸べたくなってしまう。けれど、サザンカは、そんなに甘やかされたらサツキの将来のために悪いと思っている。それに、可愛がられやすいサツキに嫉妬する気持ちもある。サザンカは皮肉をこめて言った。

「おすみよ! もう夏休みの宿題は全部おすみになったの」

 これは本当だ。サザンカは学業ではサツキと違ってクラスのナンバー一である。タマエさんは驚きもしないで竹箒をシャカシャカ動かしている。

「まあ、それはようございました。でも、自由研究をもっと深めてもよろしいと思いますよ、わたくしは」

 研究と言われてサザンカは試しにタマエさんに花瓶のことを聞いてみようと思った。

「さっきお母さんが土蔵に大きな箱を持っていったけど、あれは何?」

 タマエさんはちょっと手を休めた。

「業者さんからの贈り物じゃあないでしょうか」

 タマエさんは何でもないことのようにまた竹箒を動かし始めた。サザンカは合点がいかない。

「そんな物、タマエさんに頼めばいいのに、なんでお母さんはわざわざ自分で運んだの」

 すると、タマエさんはサザンカが無理なことを言った時になだめるお母さん声で穏やかに言った。

「わたくしはですね、年のせいか右腕が腱症炎になってしまいましてね。あまり重いものを持てなくなってしまったんですよ。二・三日前にお母様にそのことを言ったもので、ご自分でなさったのでしょう」

「ふう〜ん。わざわざ今頃ね、夜帰ってきた時でいいのに」

「あの土蔵は電気がつきませんからね」

 なんか怪しいが、これ以上タマエさんに聞いても無駄と言うものだ。タマエさんは母の味方であるから、知っていたとしても母の不利になるようなことは言わない。

 サザンカは喉が乾いてきたので、麦茶でも飲もうと家に入った。

 タマエさんが磨いたばかりのぴかぴかの廊下を通ってキッチンに入った。サツキがちょうどアップルパイを切っている。サザンカを見て嬉しそうににっこり笑った。サザンカは無視して冷蔵庫に近づいた。

 家族五人としては大きすぎる四ドアの若草色の冷蔵庫。タマエさんがサツキのために家計をやり繰りして買った物だ。ここには強力粉・薄力粉・バニラエッセンス・ラズベリーなどサツキ用の様々な食材が入っている。

 そんな食材には針の先ほども興味がないサザンカは麦茶を出し、自分だけコップについで飲み始めた。ほどよい冷たさと香ばしい麦の香りがいい。もちろん、ティバッグなんかではなくタマエさんお手製のちゃんと炒った麦を沸した麦茶だ。タマエさんは炭酸入りの物は一切買ってこない。糖分が多すぎると言って。けれど、サツキ特製のケーキで糖分も脂肪分もしっかりオーバーしている。

「はい、お姉ちゃん」

 サツキが可愛い小皿にアップルパイを乗せて差し出した。サザンカは麦茶を飲みながらうるさそうにあごをテーブルの方にしゃくった。

「そこに置いときな」

 サツキはアンマンの顔で嬉しそうに笑った。

「大成功なの、このアップルパイ」

 サツキは小皿をテーブルの上に置くと、お盆に二人分のパイを載せていそいそとキッチンを出た。タマエさんとばあちゃんに持っていってやるのだ。もうそろそろ十時になるが、二人とも午前中はお茶など飲まないで働き続ける。けれど、サツキが届けてやると、その場で食べたりはする。

 サザンカは椅子に腰を下ろして残りの麦茶を飲んだ。それから、目の前のアップルパイを見た。格子模様のパイ生地がおいしそうにつやつや光り、りんごの甘酸っぱい香りが微かに漂ってくる。

(一口くらい食べてやるか)

 サザンカはフォークを持った。尖っている角の方を切って口に入れた。とろりとしたりんごが舌に心地好い。

(うまい!)

 甘い物が好きでもないサザンカだが、またフォークを伸ばした。

 ついつい全部食べてしまったところへサツキがもどってきた。サツキは空になった皿を見て嬉しがった。そして、

「これはお母さんの分」

と言って、大きめのパイをラップに包んで冷蔵庫にしまった。最後に、やっとテーブルにつき、自分の分を食べ始めた。

 サザンカは口の中が甘くなったので、もう一杯麦茶を飲みたくなった。冷蔵庫を開けると、サツキが入れたアップルパイがかしこまっている。サザンカは意地悪な気持ちになった。

「ダイエットしているお母さんが、こんなにカロリー超過のパイを本当に食べるかしらね」

「もちろん、食べてくれるわ。甘いアップルパイは疲れを取ってくれるもの」

 サザンカは疑いもせず幸せそうなあんまん顔でパイを食べている。けれど、サザンカは知っている。時々、サツキの労作がキッチンペーパーで厳重に包まれごみバケツに捨てられているのを。しかし、いくらサザンカでもそこまではサツキには言えない。サザンカはさっきの母の姿を思い出して独り言のようにつぶやいた。

「それにしても不思議だこと。お母さんが土蔵へ花瓶を運ぶなんて」

 すると、サツキがパイを食べる手を休めて言った。

「あたしもお母さんが土蔵へ行くのをみたことがある」

「えっ!」

 予期しないサツキの反応にサザンカはびっくりした。

「きょうのこと?」

 サツキは首を傾げ少し考えてから言った。

「ううんと、一カ月くらい前かな」

「何か持っていった?」

 サツキは首を傾げたまま言った。

「それは覚えていないけれど、タマエさんが土蔵に何か運んでいたのは見たわ」

「ほんと!」

「ばあちゃんも運んでた」

「ええっ!」

 サツキはサザンカを驚かせたのが嬉しいのか、一重の目を三日月のように細めて笑った。

「ここから土蔵の入口がよく見えるのよ」

 サザンカはサツキの座っている位置へ行き、外を見てあんぐり口を開けてしまった。まさに、一幅の額縁の絵のように土蔵への小道や山茶花や花水木が調和して収っている。サザンカは十二年間このキッチンでおやつを食べたり食事したりしてきたけれど、窓からの眺めには興味がなかった。

 普段バカにしているサツキから思わぬ情報を得て嬉しいというより複雑な気持ちでサツキを振り返った。

「ばあちゃんたちが土蔵に出入りしていたのは、いつのこと?」

 サツキは邪気のない顔で答えた。

「四月頃からかな、花周防が満開だったもの」

「そう」

 おかしい。ばあちゃんもタマエさんもあの土蔵には用がない筈だ。ばあちゃんの大事な園芸道具の一式は屋敷の北にある物置に置いてあるし、タマエさんの家事用品は家の中の用具室に納っている。だから、サザンカは今まで二人が土蔵に出入りしている姿は見たことがない。

 サザンカはコップを流しに置き、また勝手口から外に出た。

 蝉時雨が降りそそいでいる白壁の土蔵。あそこに、大人たちが秘密を隠しているのかも知れない。サザンカは一歩一歩足を意識して運びながら土蔵に向かった。

 

   3 脅迫状

(あららら!)

 サザンカは初めに見た箱のずっと奥に新しげな包みを五つも見つけてしまった。

 土蔵は暗いので、思い直して懐中電燈を取りにもどり、それを照しながら見つけ出したのだ。

 サザンカはぞくぞくしながら包みを開けた。けれど、出てきたのは、濃い藍色の大皿・飯茶碗セット・銘々皿…。どんなに高級そうでも、六年生のサザンカが陶器に興味など持つわけない。

(なんだ、花瓶と似たり寄ったりじゃあないの)

と思い、がっかりした。意気込んでいた分だけ気が抜けてしまい、土間にぺたりと腰を落とした。サザンカは落胆しながら自分に言い聞かせた。

(まあ、ずいぶんと立派な器だこと。こんな所にしまい込んでしまうのは、もったいないわ)

 そして、思い出した。

(そうそう、問題はお母さんとばあちゃんとタマエさんぐるになってここに隠したということだわ)

とは思っても、サザンカは開けてまた仕舞う作業を四回繰り返したら、最後の一つはしんどくなってしまった。開けた分はきっちりと元の通りに仕舞い直さなくてはならない。サザンカは、

(これが乗りかかった舟というところね)

と言い聞かせて開けた。

 最後に、ずしりと重い直方体の桐の箱から出てきたのは、一対の陶製の内裏びなだった。サザンカが持っている華やかな五段の雛人形に比べると非常に地味である。それでも、今までの皿なんかに比べるとましである。サザンカは雌雛と雄雛の顔をじっと見た。線のようにすっとひかれた目と少し上向いた鼻が可愛らしくて懐かしい気がする。十二一重の裾にやはり「泉」の文字が押印されている。サザンカは、

(誰かに似ているわ)

と思いながら雌雛の着物の模様にひっかかった。淡い五弁のピンクの花びらは確かに山茶花の花だ。サザンカは花にほとんど興味がないけれど、自分と同名の山茶花くらいは覚えている。「サザンカ」はちょいと変った名前なので、時々人に聞かれることがあるから。まあ、特に努力しなくても、青山家の広い庭は山茶花だらけなので嫌でもおぼえてしまうけれど。

 サザンカは少し不審に思った。

(どうして、山茶花の模様なのかしら?)

 そして、気がついた。

(この顔、お母さんに似ている!)

 けれど、思い直した。

(まさかね。お母さんはばりばりの女社長だから、こんなに可愛くないって)

 ともかくも雛を箱に仕舞おうとした。その時、白い物が目に入った。

(あれっ?)

 箱の底に白いカードのような物がひっついている。取り出して懐中電燈で照してみた。そこにはなんと、

「わが娘、サザンカへ」

と書かれているではないか。サザンカは仰天した。

(「わが娘」って、お母さん以外にこういう呼び方する人って誰?)

 そして、どうしてサザンカに贈られた物を本人に渡さないで土蔵なんかに放り込んでおくのだろうか。しかも、たった一才年下のサツキの分はない。サザンカの頭はパニックに陥った。

(う〜ん、これはいったいどういうこと?)

 

 それから一週間たった。

 サザンカは土蔵の秘密をサツキにも誰にも打ち明けなかった。サツキに言っても協力者になるとも思えない。あの日だってサツキは土蔵からふらふら出てきたサザンカに何も尋ねようとはしなかった。サツキの頭の中は、料理のレシピだけが占拠しているらしい。

 あれからサザンカは家族の様子を気を付けて探っているけれど、三人の大人はいつもと変りはない。

 午後四時をまわり、陽射しがいくらか弱まった。サザンカはいつもの屋根裏部屋でね転がり、内裏雛の箱に入っていた「わが娘、サザンカへ」のカードに見入っていた。

(わが娘なんて言うのは、お母さん以外お父さんしかいないけれど、お父さんはわたしが一才の時死んじゃったし…)

 母にもばあちゃんにも聞けないということが何とも歯がゆい。

(今度、何か送られてきたら、送り先をチェックしなくては)

 それはいつのことになるかわからないが、あの日以来サザンカは郵便物にとても気をつけている。

(会社に送られたら、お手上げだけれど)

と、サザンカは三日間屋根裏部屋で同じことを考え続けている。

 サザンカは少しも考えが先に進まないので疲れてしまった。

(市の図書館で陶器のことを調べてみようかな)

 サザンカはよっこらしょと起き上がった。頭がくらくらする。こめかみを両人差し指でぐりぐりっと押してから狭い階段を降りた。

 二階にある自分の部屋にもどった。ここは広くてベッドも本棚もスタンドも物がよくてセンスがいい。ここが居心地悪いわけないけれど、サザンカにとって屋根裏部屋は思考を邪魔されないですむ大切な空間なのである。

 サツキとペアで買ってもらった麻製の帽子をかぶり、図書カードをウエストポーチに入れた。部屋を出て吹き抜けの階段を降り始めた時、一階のフロアにあるファックスが動き出した。

 サザンカは条件反射のように近づいていった。ファックスは大体母からの伝言が多い。帰りが遅くなるとか宿題がすんだかとか。母が急いで書いた手紙を秘書が送ってくれている。読んで嬉しいファックスはあまりないけれど、姉としての務めだ。いくらタマエさんが世話好きだからといっても人任せにしてはいけないことがあるくらいは、サザンカにもわかっている。

 六年生のサザンカは、母の代わりに一家の主のような責任も負わされている。母は人扱いが上手だ。

「サザンカ、あなたは青山家の大黒柱なのよ。青山製菓をどうしても継ぎなさいということではないけれど、お母さんが外で働いている間はあなたが青山家の責任者なの。あなたはそれだけの力もあるし、頼りにしているわ」

と、小学校に入学した時から言い聞かされている。

 サザンカも、孫とか家事の世話役から降りてしまっているばあちゃんや厳しい競争世界には到底生き残れないようなサツキを見ていると、母に言われなくても背筋をしゃんと伸ばさなくてはと思ってしまう。だからと言っていつもしっかり頑張っているわけではない。頭の隅っこにおいているということである。

 今のファックスは短かかったようだ。すぐに終わった。サザンカはファックス用紙の端に力を入れ、ぴりっと破った。

 短い文章だった。しかし、初め何のことか理解できず文面をじっとにらんだ。にわかには信じ難い内容だ。

「青山製菓の製品に毒物を混入する」

 数秒後、やっと意味が飲み込めてサザンカは震えた。発進先はもちろん母の会社ではない。

 サザンカのまわりの風が止まり、けだるい夏の午後から真空地帯のように隔絶された。

 

   4 尾行

 サザンカは人影に隠れながらばあちゃんの後をつけている。

 ここは隣町の繁華街だが、サザンカの町よりずっと大きい。新幹線も停まる。

 ばあちゃんは七十歳という年の割に敏捷に歩いている。それも人目を避けるように辺りをちらちら確かめながら進んでいる。まるで、知っている人に出会ったら困るという感じである。だから、サザンカはずっと後ろから細心の注意でついていっている。実は、今までばあちゃんの尾行に二回失敗しているのだ。

 きょうこそ三度目の正直と思い、視力二・0を生かして必死だ。ぞくぞくしながら。なにしろ、サザンカはこのところ青山家の三人の大人たちについてわからないことだらけでいらいらしてきた。

 十日前、青山製菓の製品に毒物を混入するという非常に危険な脅迫のファックスが届いたのに、三人とも対策を取ろうとしない。警察にも届けてない。母は少しも慌てず、

「単なる嫌がらせよ。どうしろという条件を出していないし、お金も要求していないもの」

で、済ませてしまった。せっかく、サザンカが仕事中の母を大急ぎで家に呼び戻したというのに。

 社長である母がそういう方針なら、タマエさんは従うしかないだろう。けれど、元社長のばあちゃんまで黙って母の言う通りにしている。

 サザンカは非常に心配だ。もし、脅迫ファックスを送りつけたヤツが本気で青山製菓の製品に毒物を入れたらどうなるだろう。そして、毒入りの煎餅―煎餅には毒は入れにくいかなあ―を食べた人が死んでしまったら? 青山製菓は地元の越後平野のコシヒカリを生かした煎餅が中心だが、このごろは新製品で胚芽ジュースも売れすじになっている。ジュースなら毒を入れるのは簡単である。とにかく、青山製菓の製品を食べて死者が出たらえらいことだ。中小企業の青山製菓は大打撃を受ける。食品メーカーとしての信用を失い、倒産するかもしれない。

 そしたら、サザンカたちの生活はどうなる? 先祖代々続いたこの広い屋敷も人手に渡り、狭いアパートに引っ越さなければならなくなるかも知れない。サツキはのんきにアップルパイなんかを作っている暇もお金もなくなり、質素な三度の食事作りに精出す羽目になるだろう。ばあちゃんは趣味の園芸どころではなくなる。なにしろ庭がなくなってしまうから。

 そして、ばあちゃんは今だって園芸に気が入らなくなってしまったようだ。脅迫状が届いてからだ。ばあちゃんは脅迫状に対して何も言わなかったけれど―普段もあまりしゃべらないが―庭木を消毒している最中など、ふと仕事の手が止まりぼうっと考え込んだりしている。それに、きちんと和服を着て出かけるようになったから怪しい。

 前は園芸関係の買物くらいだったから、作業着のままバイクで駅前通りにあるホームセンターとか園芸店に行く程度だったのに。

 サザンカはばあちゃんには秘密があるとにらんだ。それで、一週間前にまたばあちゃんの正装姿を見た時、思いつきで気軽に後をつけたけれど、駅前で見失ってしまった。その次は、ばあちゃんが大通りでタクシーを拾ってしまったので、やむなし。

 きょうの三度目は力を入れ、何があってもいいように小遣いもたっぷり持ち、きのう買っておいた顔が深く隠れる帽子を被って尾行している。

 幸い、ばあちゃんは駅まで歩いて電車に乗ったので、サザンカは隣の車両に乗った。

 ばあちゃんはサザンカの町から三つ目の長岡駅で降りた。長岡市の駅前は高いビルが続いている。行き交う若い男は耳に二つも三つもピアスをしている。女性はまばゆい小麦色の肩を出し、靴底が十五センチくらいのサンダルを履いてひょこひょことアヒルのように胸と尻を突き出して歩いている。この町は、雑誌やテレビで見るファッションがそのまま見られておもしろい。うきうきする。サザンカはばあちゃんから目を離さないようにしながらお上りさんのように都会直送のはなやかな空気を楽しんだ。

 すぐ側を山村から買い出しに来たらしいおばあさんが歩いている。海老のように丸く曲った腰に唐草模様の風呂敷包みをしょっている。顔もむき出しの二の腕も焦げ茶色に焼けている。長年の農作業の跡だろうか。サザンカのばあちゃんと同じ年くらいなのに、背筋をしゃんと伸ばした和服姿のばあちゃんとはあまりにも風体が違う。サザンカは、(うちのばあちゃんは格好いいなあ。恵まれているんだ…)と思いながら、ばあちゃんに目をもどした。

 ところが、いない!

 サザンカは慌てた。ほんのちょっと目を離したばかりなのに。サザンカはばあちゃんが歩いていた方に走った。そして、ばあちゃんが消えた辺りできょろきょろ見回した。日盛りの舗道には人々が三々五々行き交っている。

(せっかく、ここまで来たのに…)

 サザンカは頭がくらくらするほど悔しかった。土蔵に陶器を運んでいた母の姿を見て以来、青山家の不思議に気がついた。「わが娘サザンカへ」という謎のカードを見つけたり、脅迫状を受け取ったりと変な出来事が続いている。ばあちゃんの態度もすごく怪しい。きょうこそ何かの糸口が見つかるかもしれなかったのに。

 サザンカはずっと先まで走ってみた。舗道からの路地ものぞいた。けれど、ばあちゃんの姿はない。サザンカは照り返しの強い舗道でうろうろとばあちゃんの姿を探し続けた。今どき和服姿の人は珍しいから目につく筈だけれど、見当たらない。

 サザンカの喉はからからに乾いてきた。汗をぐっしょりかいた。そして、その汗も乾いて体中の水分がなくなってしまった感じでふらふらする。

 サザンカは、きょうのところ、ばあちゃんの尾行を諦めることにした。そしたら、猛然とひりひりするほど喉の乾きを覚えてしまった。サザンカは近くにあったティールームによろよろと入った。

 一人でこんな所へ入るのは初めてだ。店の人に、「小学生は駄目」と断られるかも知れない。でも、サザンカは冷たい水一杯だけでももらいたかった。

 幸い、店の人はサザンカを咎めなかった。きょうはたまたま大人っぽいデザインの白のワンピースを着ていたからかも知れない。サザンカは早く座る所を見つけて腰を下ろし、冷たい飲み物を注文したかった。

 空いている窓側の席に急いだ時、サザンカははっとした。目の前に、こつぜんと消えた筈のばあちゃんがいるではないか。ばあちゃんは誰かに向かって必死の形相でしゃべっている。サザンカが横を通り過ぎたのに、気付かない。

 サザンカはばあちゃんの向きからは見えにくい席を選んで腰を下ろした。残念ながら、相手は見えない。声はもちろん聞こえない。聞こえそうな隣の席には人がいる。

 サザンカは注文を取りに来たウエイターにサイダーを注文している間もばあちゃんから目を離さなかった。普段、無口で無表情なばあちゃんが一生懸命しゃべっている。何か相手に哀願している感じさえする。商売も家事も一切嫁であるサザンカの母やタマエさんに任せ、浮世離れしているところがあるばあちゃんなのに、今はとても人間くさい。

 それにしても、サザンカはこんなふうに哀れっぽいばあちゃんを見るのは、初めてだ。サザンカはばあちゃんが少しかわいそうになってきた。家ではばあちゃんとあまり関わりなく暮しているが、ばあちゃんはわざと家族から離れ園芸に精出しているように見えないこともない。どうしてかはわからないけれど。

 ばあちゃんはもう一時間以上話している。相手はどんな人だろうか。悪いヤツではないだろうか。サザンカは相手の顔が見たくなった。こっちからレジカウンターに向かうふりして歩いていけば見られる位置にいる。今のばあちゃんはあんなふうだからサザンカには気がつかないだろう。見つかったら居直るまでだし。サザンカは残りの気の抜けたサイダーを飲み干し、立ち上がった。

 と、その時、ちょうど相手の人間が立ち上がった。思わずサザンカは相手に見られないように腰を下ろしてうかがった。相手は痩せた中年の男だった。床屋にいったばかりのようだけれど、何か薄汚れていて貧相な感じがする。男はばあちゃんを暗い目つきでにらんでからレジにも寄らず店を出た。ばあちゃんは座ったままだ。

 サザンカは迷った。このままばあちゃんをそっとしておこうか。男を尾行しようか。

 ばあちゃんを俗な人間世界に引き戻した男も非常に気になったけれど、サザンカは怖かった。六年生の女の子には危険すぎる。サザンカはサイダーの伝票を持ち立ち上がった。そして、ゆっくりばあちゃんのいる席に向かって歩いた。心臓が高鳴り、ドックンドックンと胸が大きく上下している。

 

   5 青山家の秘密

 サザンカは全校集会でみんなの前にでも出るような緊張感でばあちゃんの斜め前に立った。ばあちゃんはサザンカには気付かずほうけたように空ろな目をして座っている。普段は姿勢のいいばあちゃんががっくり肩を落としていて一回り小さく見える。サザンカはばあちゃんがかわいそうになった。

「ばあちゃん」

 ばあちゃんはけだるそうに顔を上げサザンカを見とめると、驚いてくわっと目を見開いた。それから、一瞬目をそらせたが、すぐに観念したように言った。

「そこにお座りよ」

 サザンカは男の座っていたソファに腰掛けると聞いた。

「今の男の人は誰?」

 ばあちゃんの目が遠くを見つめた。ずっと時間をさかのぼり昔の思い出に浸るような目をしている。その思い出も楽しいというものではなさそうで、悲しげに見える。そう言えば、一人で園芸をしている時のばあちゃんはいつもこんな目をしていたっけ。

 サザンカは孤独な世界にひきこもってしまったばあちゃんを黙って見続けた。人を拒絶しているようでとても話しかけられない。妹のサツキならこんな時でも全く気にしないでお手製のお菓子をあげたりするけど。そして、心なしかばあちゃんのサツキを見る目だけは優しげな気がする。

 友達のばあちゃんじいちゃんは大体が孫に甘く、すぐ小遣いをくれたりゲームを買ってくれたりする。けれど、サザンカのばあちゃんはそういうことは一切ない。お金持ちなのに冷たいとも思えるほど何もくれない。しかし、サザンカはばあちゃんをケチとは思っているわけではないし、友達は大甘なばあちゃんじいちゃんを尊敬しているわけでもなさそうだ。サザンカのばあちゃんは威厳もあるけど、影もあって親しみにくい。

「サザンカや」

 ようやく、ばあちゃんが口を開いた。サザンカは緊張した。ばあちゃんの物言いは穏やかだけれど、芯のある声だった。

「さっきの人は、サツキのお父さんなんだよ」

「はあ?」

 サザンカにはばあちゃんの言っている意味が分らなかった。

「サツキのお父さんて、…あたしたちのお父さんは死んじゃったでしょうが」

「サツキのお父さんは生きているの。つまり、サザンカにとっては叔父さんになるね」

 サザンカは呑み込めず不審な目でばあちゃんをのぞきこんだ。ばあちゃんは大きく息を吐いてから言った。

「サツキのお母さんはサツキを産んですぐ死んでしまったから、お前のお母さんが引き取って育てているんだよ」

 サザンカは混乱した。

「あたしたちは本当のきょうだいじゃあないの?」

「いとこ同士ということになるね」

 ばあちゃんの突然の重大告白にサザンカの頭はメガトン級の強烈パンチをくらったように真空になった。しかし、サザンカは妙に納得できた。サツキとは顔は似ているところもあるけれど、性格が違いすぎる。ばあちゃんは話し始めた。

「サザンカはしっかりしているから打ち明けるよ。家の内情を知っておいた方がいざという時のためになるからね」

 サザンカはごくりと息を呑みこんだ。何かとても大事なこと、このと

ころ、サザンカが気にし続けてきた青山家の秘密が明かされるのだろうか。

「あの子…、サツキのお父さんはぐれて悪いことをして、今までずっと刑務所に入っていたんだ。それも私が青山製菓の仕事にかまけすぎた結果だけどね。あの子たちが小学校にあがる前にじいちゃんが死んでしまったので、私が引き継いだ。ちょうど高度経済成長の波に乗ったせいもあり、十人くらいの工場を五百人まで拡張できて仕事がおもしろくてたまらなかったんだよ。それで、子育てどころではなかったのさ」

「あたしのお父さんはぐれなかったの?」

 ばあちゃんは苦しそうな顔になった。

「そのことは、また後で話すことにするよ。とにかく、二つ年下の鉄夫、ああサツキの父さんの名前だけれど、鉄夫はとても甘えんぼだったのに家には甘えられる人が居なくて寂しい思いをさせてしまった。早い話が私は子育てに失敗した人間なんだよ。青山製菓の規模拡大と引き換えにね」

 サザンカは冷たい顔していた鉄夫という叔父さんの表情が気になった。

「さっきは叔父さんに何を頼んでいたの」

 初めて使う叔父さんという言葉がしっくりしないようなこそばゆいような感じだ。ばあちゃんは額の皺を一層深くして言った。

「会社の製品に毒を入れないようにとね」

 サザンカは仰天した。

「じゃあ、ファックスで脅迫したのはあの叔父さんだと言うの!」

 ばあちゃんはかすかに頷いた。サザンカにはわけが分らなかった。どうして自分の家の信用をなくすことをするのだろうか。

「なんでそんなことをするの?」

「鉄夫は青山製菓の経営を自分に任せろと言ってきたんだけれど、私が断ったからさ」

「お母さんはこのことを知っているの?」

 ばあちゃんは頷いた。さすが、母は社長だ。家庭内のごたごたをサザンカたちに気取らせない。

「叔父さんは信用できないの?」

「あの子を放っておく代わりにお金だけは何不自由なく使わせたのがまちがいの元でもあった。我慢するとか何かのために頑張るということができない人間にしてしまった」

 ばあちゃんは苦しそうだ。

「それに鉄夫は私を恨んでいる。それもしかたがない。私が約束を破ってきたのだから」

「どんな約束だったの」

「数え切れないほどあるけど…。例えば、五年生の時の授業参観。鉄夫の得意な体育のミニバスケットだったから絶対来てくれと頼まれた。結局、急な取り引きが入って行けなくてね。その後も前も、授業参観は一回も行かないでしまった」

「それはかわいそうだわ」

 サザンカは深く同情した。サザンカも母にたくさんは来てもらってないけれど、二・三回はある。また、母の代わりにタマエさんが必ず来てくれているからぐれるほどではない。そして、母の「サザンカが頼りなの。あなたが青山家の大国柱なの」の呪文も効いている。

「全く私はひどい母親だった。」

 ばあちゃんは独り言のように続けた。

「私の全財産をやると言っても鉄男は聞いてくれない。会社は株主や役員会の考えで動いているから、簡単に鉄夫を社長にできるわけがない。第一、五百人の従業員の生活がかかっているから、これだけはうんとは言えない」

 サザンカは考えた。なんかいい方法がないものだろうか、叔父さん―まだ全くぴんとこないけれど―の気持ちを和らげるための。ばあちゃんも叔父さんも可哀そうすぎる。

 

   6 残暑

 サザンカはキッチンの椅子に座り、サツキを見ている。

 サツキは牛乳を弱火にかけ、バニラビーンズをしごきながら入れている。流し台にはつやつやの苺が置いてある。サツキはアイスクリームを作っているのだ。きょうはストロベリーアイスだそうな。サツキが作ったアイスクリームを食べると、買ったアイスは食べられなくなる。

 今のサザンカは勉強でサツキをしごく気力がないので、早々に終わらせて―すごいヒントを与える、または、ずばり答えを教えてしまう。早い話が手抜きである―いっしょにキッチンにいる。キッチンは窓を開け放つと、家の中で一番涼しい。お気に入りの屋根裏部屋はむしむしして残暑厳しい。お盆過ぎの今はとてもいられない。

 サツキは苦手な勉強でサザンカにやさしくしてもらい(怒られずすんなり答えを教えてもらっただけなんだけど)早くアイスクリーム作りに取りかかれてひどく嬉しそうだ。サツキの卵黄を泡立てる手付きやガスを弱火にする動きさえも生き生きしている。サツキの動作はすばやくはないけれど、余分な所作がなくゆったりしている。見ていて心が和む。サツキの側にいるとなぜか安心すると思うようになったのは、ついこの頃だ。今まではサツキのことを「なんてのろまで鈍いヤツめ」としか思っていなかったから。

 けれど、一週間前にばあちゃんからサツキが本当の妹ではないと聞かされてから見方が変った。サツキの母ちゃんはサツキを産むとすぐ死んで父ちゃんは刑務所に入っていたなんて…。この事実をサツキが知ったらどうするだろう。こんなにのんきにアイスクリームを作っていられるだろうか。サザンカだったらそんな事実は受け入れられなくてパニックを起こし、立ち上がれないかも知れない。

 しかし、サツキはどうだろうか。サザンカは、幸せそうに細い目を線にしふっくらした頬にえくぼをへこませているサツキを見続けた。サザンカは(あっ!)と思いついた。社会の教科書に出てきた「月光菩薩」の穏やかな表情にそっくりだ。喫茶店で会った叔父さんは暗い顔して頬がこけていたから、サツキとは全く雰囲気が違う。しいて言えば、三日月型した細い目が似ているかなという程度である。

 サツキは出来上がったアイスクリームを底の平らな金属の容器に流し込み蓋を閉めると、冷凍庫に入れた。そして、満足そうにサザンカの斜め前の椅子に腰を下ろした。サツキはゆったりサザンカに笑いかけた。サザンカはちょっとどぎまぎした。何をしゃべったらいいだろうか。最近はサツキに注意しかしてこなかった。しみじみ話なんかしたことがない。もちろん、ばあちゃんから聞いた話をするつもりはない。サツキはにこにこしながら口を開いた。

「お姉ちゃん。あたしね、今度ニワトリを飼いたいの」

「えっ?」

 サザンカはきょとんとした。サツキは料理意外のことにも目覚めたのだろうか。生き物の飼育などの。サツキはひどく真面目な顔で言った。

「タマエさんに聞いたのだけれど、庭で飼ったニワトリの卵はそれはおいしいんだって」

「へえ」

 なんだ、やっぱり料理のためかとあきれながらサザンカは思い出した。タマエさんの実家はもっと北の町で農家をやっている。サツキはおばさんのような訳知り顔をした。

「スーパーで買った卵はどうもべちゃっとしていておいしくないのね」

 サザンカは卵なんかどうでもいい。全く興味がない。サツキは嬉しそうに言った。

「ニワトリが庭でミミズとか虫とかを食べながら産んだ卵は殻もじょうぶだし、ちゃんと卵のにおいがするんだって」

「ゲッ、あたし、いやだ!」

「アイスクリーム作っても、ケーキ作っても、スーパーの卵だと味にこしがないし、元気じゃあないの」

「元気な味なんてあるの?」

「うん。こないだね、公民館の『手作りの会』に行った時、丸山さんというおばさんからもらったカステラが本当においしかったの。なんと言うか、舌がよろこぶというか、口の中がふわっとまいあがってしまう感じ。それで作り方を聞いたら、丸山さんは農家で庭が広いから自分でニワトリを飼っているというの。そのニワトリが産んだ卵でカステラとかいろんな料理を作っているからおいしいんだって」

「へえっ!」

 そういえば、サツキはこの夏休み中いくつかの料理の会に顔を出している。テレビにも子どもクッキングの番組で子どもがしたり顔で料理を作っているけれど、ここまで熱心で料理好きな小学生はあまりいないだろうなとサザンカはまじまじとサツキの顔を見た。そのサザンカにサツキは人なつこく笑いかけた。

「うちにも庭があるからぜひニワトリをかいたいのよ」

「ふうん」

 ニワトリになんぞほとんど興味を持てないサザンカの気持ちにおかまいなくサツキはそわそわし出した。そのうち、立ってサザンカに近づき、重大な秘密を打ち明けるかのように両手を口のまわりに当てサザンカの耳にささやいた。

「ばあちゃんに相談してヤギも飼ってみたいの」

「ふえっ、ヤギ?」

 サザンカをびっくりさせることができてサツキは嬉しそうに腰を下ろした。

「丸山さんはヤギも飼っているのよ。牛乳の代わりにヤギ乳でアイスとかチーズも作っているんだって。すごくおいしんだって。それに、ヤギの赤ちゃんてそれはかわいんだって。お姉ちゃん、今度丸山さんちへ行ってみようよ。おいでって言われたのよ」

「!」

 サツキったらのんきに何を言い出すのだろう。青山家に一大事が起きているというのに。サツキの父ちゃんが青山家にとんでもないゆさぶりをかけているというのに、ニワトリだのヤギだのと。サツキはサザンカとは異次元空間に生きている。

 けれど、あまりに屈託のないサツキの顔を見ていると、サザンカは怒る気もしない。しかたなく、お愛想笑いをした。

「そのうちね」

 サツキはにこにこした。サザンカはその笑顔を見ているうちに肩の力が抜けた。ここはひとまず叔父さんの問題は大人に任せておこうと思った。せっかく、サツキが喜んでいるんだもの。ばあちゃんの打ち明け話を聞く前だったらこういう心境にはならなかっただろう。「うちが一大事だというのに、なに寝ぼけたこと言ってるの!」と、サツキを叱り飛ばして終わりだ。第一、サツキの料理する側にいることなんかなかったから、サツキがこんな話をする間もなかったに違いない。

 その日の夜、お母さんが十一時過ぎに帰ってきた。

 サザンカはパジャマのまま居間でテレビを見ていた。サツキはいつものようにお子様タイムにとっくに寝ついている。

 お母さんは黙ったまますっと入ってきた。どんなに疲れていても、サザンカが起きていると無理にでも笑って、

「ただいま」と言うのに。サザンカはテレビの音を小さくしてお母さんを見た。顔が異様に青い。タマエさんがお絞りを持ってきた。お母さんはそれも使わないで自分の部屋へ行った。サザンカとタマエさんは顔を見合わせた。タマエさんは首をかしげながらお絞りをテーブルに置き、お風呂場に向かった。お母さんは帰ってきたら、まずシャワーを浴びるから。

 少しして、部屋着に着替えたお母さんがもどってきた。ソファに座ると、疲れ切った声でサザンカに言った。

「おばあちゃんを呼んできてちょうだい」

 サザンカはびくっとした。こんな夜更けにばあちゃんを呼ぶなどということは今まで一度だってなかった。何か、とんでもないことが起こってしまったのだろうか。サザンカはわけも聞くのもはばかられ、黙ってばあちゃんの部屋に向かった。

 

   7 毒入りシール

 サザンカはばあちゃんの部屋の前に立った。よその家の玄関に立ったような気分だ。

 ここは、ばあちゃんが社長を引退した時に建てた廊下続きの離れである。

 仕切りの障子が明るいので、ばあちゃんは起きているのだろう。以前はばあちゃんもサツキと同じくお子様タイム、つまり八時前後には部屋の明りが消えていた。その代わり、朝は日の出と共にくらい早く起きて園芸をやっていたけれど。

 ばあちゃんの離れは居間から良く見える位置に建っている。お母さんがそのようにばあちゃんと設計技師に強く頼んだらしい。

 ばあちゃんの部屋の明りが、時々遅くまでついているようになったのは、サザンカが六年生になってからのような気がする。けれど、例の脅迫ファックスが送られる前は、そんなこと気にも止めなかった。第一、サザンカはばあちゃんの部屋を訪問するということが今までなかった。サツキは時々手作りのお菓子を届けに行っているようだけど。

 サザンカは緊張した。どうやって声をかけようか。もう、十一時半をまわっている。

 サザンカは、一週間前喫茶店でばあちゃんの前に立った時のことを思い出した。今はあの時とは違ってお母さんから頼まれた責任とお母さんの様子からくる不安が大きい。

 チッチッチッチッ!

 石燈篭の陰でカネタタキが調子よく鳴き出した。サザンカはそれに景気づけられて声をかけた。

「ばあちゃん」

 返事が無い。サザンカは気後れしたが、さっきの疲れ切ったお母さんの姿が思い浮かんだ。

「ばあちゃん!」

 部屋の光と空気が揺れた。

「何だえ?」

 ゆったりした声だった。サザンカは思い切って自分から障子を開けた。

 ばあちゃんは昔風の座り机の前で何か書き物をしていたらしい。ペンを持ったままサザンカを振り返っている。

 初めて見るきちんと整った和室。格式のありそうな床の間の前に置いた文机に、ばあちゃんは背筋をぴんと伸ばし正座で向かっている。その姿としっかりサザンカを見すえた目は、とても威厳があった。サザンカはなぜかほっとして用を告げた。

「お母さんが呼んでる」

 ばあちゃんは、(こんな夜更けに?)という顔もしないでペンを文机に置いた。

「はい、わかりましたよ」

 そして、両手を文机に置いて体重をかけ、ゆっくりと立ち上がった。

 サザンカがばあちゃんと居間にもどった時には、お母さんは背筋をしゃんと立て直していた。ばあちゃんがお母さんと向い合ったソファに座ると、心配そうにお母さんを見守っていたタマエさんがそっと居間を出た。お母さんはサザンカにも促した。

「あなたも、もう休みなさい」

 きつい言い方になるのを抑えたような声だった。けれど、サザンカは自分の部屋に行きたくなかった。家の一大事らしいのに、ベッドに入って眠れるわけがない。二人がこれからどんな話を始めるのか是非聞きたい。しかし、サザンカはどう言ったらお母さんが、「ここにいていいわよ」と認めてくれるのかわからなくて、ただじっとお母さんをにらむようにして突っ立っていた。お母さんはいらいらした。

「早く部屋にもどりなさい。お母さんたちは大切な話があるのよ。おばあちゃまを待たせては悪いわ」

「だってぇ」

 あたしも聞きたいと言う前に、ばあちゃんがすっぱり言った。

「サザンカにもここにいてもらいましょう」

 お母さんは(ええっ?)と不満気にばあちゃんを見た。ばあちゃんは年長者の威厳で言った。

「忙しいあなたに言っている暇はなかったけれど、サザンカには鉄夫のことも話してあります」

 すると、お母さんはぎょっとし、参ったという顔になった。サザンカは隙のない社長顔より今のように力の抜けたお母さんの方がしゃべりやすい。

「そうよ。あたしだってこの家のことをいろいろ心配しているのよ。お母さんはあたしのことを頼りにしているって、大黒柱だって言っているんだから、大事なことはわたしにも話してよね」

 お母さんの肩の力が抜け、やっと笑顔になった。

「そうだったわねえ。お母さんが悪かったわ。サザンカもおかけなさい」

 お母さんは両手の指先でこめかみをぎゅっと押してから言った。

「『三人寄れば、文殊の智恵』だものね。サザンカも力になってちょうだい」

 サザンカは緊張しているのに、なぜか少しわくわくした気持ちでソファにかけた。お母さんはタマエさんが置いていった麦茶を一口飲み、サザンカの目をじっと見た。

「大変な事態が起こったのだけれど、気を落としたりあせったりしても何も良くならないから、冷静に聞いて対策を考えてね」

 サザンカは目を見開き、こくんとうなずいた。お母さんは心持ちばあちゃんに向かって話し始めた。

「関東の大手のスーパーから連絡が入ったのですが、うちの工場の煎餅の袋の表に『毒入り』というシールが貼られていたんですって。今のところ、五軒のスーパーだけれど、もっと増えるかもしれません。本当に毒が入っているかどうかは検査機関に送ってこれから調べてもらうことになっています。このことはスーパーの方から警察にも連絡済みで、あしたの朝刊にも載ります」

 とうとう鉄夫叔父さんは実行してしまったのかと、サザンカは思った。ばあちゃんも同じことを思っているに違いない。

「さいわい、被害者は出ていませんし、検査してもお煎餅から毒は検出されないと思うのですが…」

 問題は青山製菓のイメージダウンと警察が犯人をどう突き止めるかである。ということくらい、サザンカにもすぐわかった。

 警察は不特定多数もチェックするだろうけれど、前科のある鉄夫叔父さんにも目をつけない筈がない。警察は甘くない。もし、『毒入りシール』が鉄夫叔父さんの仕業とわかったら、青山家の秘密ー刑務所帰りの叔父さんの存在やサザンカとサツキが本当の姉妹でないこととかが白日の下にさらされてしまうかも知れない。そんなことになったら、サザンカはどんな顔して学校へ行ったらいいのだろう。今までずっと勉強のよくできる青山製菓の長女で通ってきたのに。学級委員だってしている。

 サザンカは一度しか会ってないけれど、暗い顔した鉄夫叔父さんが憎くなった。ばあちゃんは失敗した子育てのことを十分反省しているし、お母さんは一生懸命会社を守っている。自分の身内にどうしてこんなひどい仕打ができるのだろう。叔父さんは大人なのだから、自分に合う仕事を見つけて働けばいいのに…。六年生のサザンカには鉄夫叔父さんの気持ちが全く理解できない。まあ、普通の大人だってわたしと似たり寄ったりだろうな、とサザンカは思ってしまう。

 ばあちゃんは額の縦じわを深くしたまま言葉が出ない。サザンカは口を開くと叔父さんの悪口が飛び出しそうだから、唇をぎゅっとつぐんだ。これ以上ばあちゃんを悲しませたくないもの。

 しばらくして、お母さんが決心したようにばあちゃんとサザンカを順に見てから言った。

「ずっと前にも申し上げましたが、やはり会社は鉄夫さんに任せましょう。役員会では大反対されるでしょうけど、何とか手を打っていきましょう」

 サザンカはびっくりした。

(えっ、お母さん、社長の座をゆずっても平気なの? それがお母さんの天職のようにぴったり合ってるのに!)

 サザンカは、友達のお母さんのように甘えられない不満を忘れたわけではないけれど、社長を辞めて普通のお母さんにもどってしまうなんて考えられない。もったいなさすぎる。鉄夫叔父さんがますます恨めしくなった。

 ばあちゃんは暗く遠い目をしている。じいちゃんが創った青山製菓。じいちゃんの夢と苦労がつまっている。そして、自分が継いで五百人規模までにしてきた数十年間のことを思い出しているのだろうか。

 お母さんは名優が家族会議を取りし切っているような笑顔で話した。

「とにかく、警察には何も知られないように白を切り続けましょう。もちろん、鉄夫さんから送られてきたファックスはとっくに私が処分しましたし、『噂も七十五日』です。『毒入りシール』事件が薄れた頃、役員会の準備をしましょう。鉄夫さんもそこは待ってくれるでしょう」

 サザンカはあわてた。あの暗い目をした人相の悪い叔父さんが社長になったら、青山製菓は遅かれ早かれつぶれてしまうだろう。お母さんだってばあちゃんだってそう思っている筈なのに。

「お母さん!」

 サザンカの非難する口調にもお母さんは毅然としている。サザンカはため息をついてから聞いた。

「叔父さんはどうして青山製菓の社長になりたいの? わたしには叔父さんがそういうことに向いているとは思えない。他に何か好きなことがないのかしら」

 ばあちゃんは遠い目で無言のままだ。

「お母さん、叔父さんとも話し合ったことはあるの?」

 お母さんはうなずいてから自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「鉄夫さんは試しているのよ、私たち青山家の人間が本当に鉄夫さんを愛しているかどうかって」

 サザンカには納得がいかない。いくら子どもの頃寂しかったからって、いい大人のくせに我が侭すぎる。何で十年近くも刑務所に入っていたかはまだ聞いてないけど。

「ばあちゃんには悪いけど、鉄夫叔父さんてひどすぎる。わたしだってサツキだってがまんしていることたくさんあるよ。二人で叔父さんに会って言ってやりたいよ」

 サザンカにはサツキがこの一大事件をどんなふうに感じるか、本当のところさっぱりわからない。でも、はずみでサツキの名前も出してしまったなあ。自分がサツキだったら、叔父さんのしていることはサザンカの立場以上に辛いもの。

 お母さんの表情が和らいだ。

「それもいい考えね。今は状況が許さないけれど、そのうちそういう場面も必要になってくると思う」

 そのうちっていつだろう。『毒入りシール』の問題とは別にサツキに本当のお父さんのことをどう話すかもこの三人でよっく考えなければならない。サザンカの頭が飽和状態になってきた。アンティックの柱時計(じいちゃんのお好みだったらしい)がとっくに午前一時をまわっている。

 ばあちゃんの目が二人にもどり、じっと見つめた。さっきまでよりずいぶんと柔らかい表情になったような気がする。ばあちゃんは二人に深々と頭を下げた。

「泰子さんもサザンカもありがとう」

 泰子ってお母さんの名前だ。

「泰子さんの考え通りにやらせてもらいましょう。私は引退した身だけれど、今が悔いを残さないための大事な正念場だと感じてます。あなた方二人の気持ちが分りましたから、私にもやる気力が湧いてきましたよ」

 一大決心をしたばあちゃんの表情が、神々しいように感じてサザンカは緊張した。けれど、嬉しい。

 

   8 秋の長い一日

 まだ、未明の朝だ。

 東の空が濃い紫色で山の稜線は朱色に染っている。そろそろ太陽が出てくる。

 サザンカはベッドから身を起こした。きのう、母とばあちゃんの三人で『毒入りシール』対策について話し込み、ベッドに入ったのは午前二時を過ぎていた。それから三時間も経っていない。脳が興奮しちゃっていて眠れなかった。少しうとうとしただけだ。

 居間やキッチンで音がする。今朝はいつもよりかなり早く家の中の空気が動き出した。サザンカは頭が重かったけれど、すばやく着替え、部屋を出た。隣のサツキの部屋はしんとしている。まだ熟睡しているのだろう。

 洗面所で簡単に顔を洗い、キッチンに急いだ。既に外出用の和服姿のばあちゃんとシックな薄紫色のスーツを着た母がテーブルに向かい新聞に目を通している。サザンカは二人に近づいた。すぐに、

「『毒入りシール』つき煎餅が続出!」

という見出しが目に飛び込んできた。家では四種類の新聞を取っているが、どの新聞もかなりのスペースをさいている。サザンカは空いている新聞を手に取って読んだ。

 東京都内の七ヵ所のスーパーから届けが出されており、毒入りシールは客が見つけた場合が多いようだ。新聞には店長とか見つけた客の驚きの声が載っている。あと、警察や識者のコメントなんかも出ている。このところ、世間では毒入り給食・毒入り茶・毒入りミルクなんかが出回り、マスコミがこれでもかこれでもかと書き立てている。却ってどこかのアホが手口をまねしちゃうよというくらい。青山製菓も変な流行に乗ってしまい、名前が大きくどかんと出てしまった。よその事件で聞いていた時は、ただ「怖いなあ」だけだった。自分の家が当事者になるなんて夢にも思ったことはなかったのに…。

(学校へ行ったらみんなにいろいろ言われるだろうなあ)

 サザンカはきのうから覚悟していたことだけれど、目の前に事実を突きつけられるとど〜んと心が暗くなってしまった。

 母とばあちゃんは取り乱した様子はない。きょうこれからやることを考えている厳しい目だ。サザンカは、さすが社長と元社長だと思った。

 側の流し台で朝食を作っていたタマエさんがテーブルにご飯や味噌汁を並べ始めた。母とばあちゃんは新聞を片付け、朝食に向かった。お腹がすいて食べるという感じではなく今日の戦いをクリアするためにエネルギーを詰め込んでいるといったふうである。ばあちゃんは鉄夫叔父さんを説得するために朝一番の新幹線で東京へ出かけるし、母は役員会の準備と警察への出頭が待っている。

 サザンカはまだとても食欲が出ないので、タマエさんが入れてくれたホットミルクを飲んだ。あったかいミルクが喉を通ると、ほっと息がつけた。いつのまにか、こういう飲み物が嬉しい季節になったのだと思い、サザンカは白み始めた窓の外を見た。ばあちゃんが丹精して育てている庭の山茶花ももうすぐ咲き始めるだろう。

 ばあちゃんは朝食をすませると、いったん自分の部屋にもどった。母は洗面所で急いで歯磨きをすませて玄関を出た。サザンカは後について外に出た。母は駐車場へ行って車のエンジンをかけ始めた。ばあちゃんを駅まで送って行くためである。ばあちゃんも玄関から出てきた。和服用のコートであるビロードの道行きを着ている。サザンカは何と言ってばあちゃんたちを送り出していいか言葉が見つからない。

「気をつけてね」

としか、言えなかった。母は口角だけ上げてうなずき、車を静かに発進させた。

 車が見えなくなると、サザンカは若者らしくない深いため息をついた。

 山の端から太陽が半分顔を出している。暗い藍色に濃い朱色が映えている。この夜明けの太陽を、サザンカは大好きだけれど、今はそれどころではない。しょぼくれて玄関に向かった。

 

 夜十時過ぎにばあちゃんが駅からタクシーで帰ってきた。こわばった固い顔をしているところを見ると、鉄夫叔父さんとの話し合いがうまくいかなかったのかも知れない。もしかして、叔父さんと会えなかったのではないだろうか。サザンカは聞きたいことがたくさんあるけれど、ばあちゃんは話しかけてもいいような雰囲気ではない。

「お帰りなさい」

とだけ言った。

 居間にはタマエさんが炊いた香がそこはかとなく漂っている。ばあちゃんの好きな伽羅だそうだ。そういえば、きのうばあちゃんの部屋を開けた時もこんな渋いような香りがしたっけ。タマエさんはばあちゃんにあったかいおしぼりを渡しながら言った。

「お疲れさまでしたね。きょうは今年初の柚湯ですよ。ゆっくりなさって御苦労を落としてくださいな」

 柚もばあちゃんが可愛がっている木だ。今年もきれいな浅黄色の実がたっぷりと生っている。ばあちゃんの目がほんの少し和み、自分の部屋がある離れに向かった。サザンカは居間にもどり、ソファにどさっと埋まるように座った。

 今日一日、本当に疲れた。

 男子には野次馬根性むき出しにでっかい声で何回も言われた。

「おめえん家の煎餅、毒が入っているんだろ? あっぶねえな」

「シールを貼られただけだってば」

という言い訳を二・三回したけれど、後はもう言う気がしなかった。

「だれがやったのかなあ。何か恨まれるようなことをしたんだろう」

 ギクッ!

「へんなこと言わないでよ」

 人のことはなんでも言える。

「新聞やテレビに出て有名になってよかったなあ」

「スキャンダルで大もうけしているタレントがけっこういるって、姉貴が言ってたぞ」

(うちはタレント業じゃあないっての。信用が命なんだから)

「青山製菓の製品は当分買えないぜ」

「あら、あんた今まで買ったことあるの?」

と言い返したのは、友達の紗也伽だ。しかし、女子も口では、

「大変だったねえ」

「男子の言うことなんか気にするんじゃあないの」

などと言ってるけど、目の色は好奇心いっぱいで、

(このあと『毒入りシール事件』はどんなふうに展開するのかなあ)

と期待しているようにも見える。担任の上田先生ももの問いたそうな目でサザンカを見ているような気がする。廊下を歩いていてもトイレに入っても、サザンカは自分が特別な物体であるかのように見られていると感じてしまう。

(チクショオ、わたしはマンドリルでもエイリアンでもないんだぞ!)

と、心でわめく。

(あんなシールを貼られてこっちが被害者なんだから)

と言い訳をしたいが、貼ったのが身内の人間だから後ろめたい。そして、鉄夫叔父さんに恨みが募ってしまう。

 その実の娘であるサツキはまるで脳天気だ。

 朝、新聞を見せた時もびっくりした様子はなく、

「あら、こんないたずらをしちゃあ駄目よね」

だけで終わりだった。

 学校から帰ってきた後も普段と変りなく、満足げにタマエさんの夕食の手伝いなんかをしていた。サツキはなにしろキッチンで何かしていられれば幸せなんである。

(サツキは心配とか恥かしいという思考回路が欠落している)

と、サザンカはあきれた。半面、

(サツキって、けっこう大物なのかも…)

と見直したりもした。今夜もサツキは午後八時にはさっさと自分の部屋に引っ込み寝てしまった。

(サツキの心臓はウルトラ合金でできているみたい)

 サツキを見ていると、

(心配してもどうなるものでなし。ばあちゃんとお母さんの今日の首尾を聞いてからまた考えればいいか)という気になる。はっと、気がついた。

(あたしは自分の体裁しか考えていない。サツキの方が料理とかするだけ家の役にたってる)

 ばあちゃんが風呂から上がって居間にもどった時、母が帰ってきた。タマエさんは疲れた時の特効薬だというお手製のアロエジュースを母に差し出した。サザンカはとても飲む気はしないが、母は立ったまま一気に飲み干しほっと息をついた。母から空のグラスを受け取ると、タマエさんは断固とした態度で宣言した。

「明日から甥っ子の正人が運転手を務めますからね。正人はどうせ浪人中で暇なんです。断っても駄目ですよ。車に乗っていらっしゃる間だけでも体を休めないと、今に倒れてしまいますからね」

 母は苦笑しながら黙って自分の部屋に向かった。

(うわあっ!)

 サザンカの頭がタイムバックした。

 サザンカがまだ小学校に上がる前、七才年上の正人は時々青山家に遊びに来ていた。広い庭で木登りをするのが魅力だったらしい。こわがるサザンカにも無理に登らせておもしろがっていた。家の中では屋根裏探検が好きで、猫のように身軽に梁を伝ったり飛び降りたりしていた。タマエさんによく怒られたものだ。サザンカが屋根裏部屋を好きになったのは、そこで正人とこっそり棚からぶんどってきたお菓子を食べたりしていたせいもある。

 ほかに従妹がいなので、正人はなんか親戚のような兄さんのような感じがしていじめられても一緒にいるのが楽しかった。けれど、中学に入ると、ぷつっと来なくなってしまったからもうすっかり忘れていた。

 男子にしては体が小さくちょろちょろよく動き回るいたずらっ子の正人は、どんな青年になっただろう。相変わらず、チビかなあ。現金なことに、サザンカは少し元気が出てきた。明日が待ち遠しい。

 母も柚湯に入り遅い夕食を終えると、十二時近くになった。サザンカは疲れていたけど、気を張ってがんばることにした。三人は昨日と同じく居間でテーブルを囲み、向い合った。

 

   9 家族会議

 サザンカはばあちゃんと母の三人でソファのテーブルを中に向い合った。

 窓の外は漆黒の闇。だって、もう午後十二時近い。

 まず、ばあちゃんがタマエさんの入れてくれた焙じ茶を一口飲んでから話し始めた。

「午後三時過ぎにやっと鉄夫に会えたのはよかったのだけれど、鉄夫は一日も早く青山製菓の経営に乗り出したいと言う。鉄夫が仕事しやすいようにするためには手続きが必要で、そのためにはどうしても数箇月かかると言っても聞く耳を持たない」

 いつもはふわっとしているばあちゃんの銀髪がぺたっとしおれている。声もひどくしわがれている。それだけ悩みも深くて疲れているのだろうけれど、サザンカは感情を表さなかった以前のばあちゃんより身近な家族と感じられるようになっている。それにしても、サザンカには鉄夫叔父さんの気持ちがさっぱり分らない。

「どうして叔父さんはそんなに急ぐの? 『毒入りシール』事件が起きたばかりだから、会社でも工場でもそのことで持ち切りでしょ。こんな時、刑務所帰りの叔父さんが急に社長になったらパニックよね」

「あの子は今四十才だけど、子どもの頃と同じで堪え性がない。と言うより、わたしを困らせたがっているとしか思えない…」

 最後はつぶやくようだった。疲れて前屈みになりがちなばあちゃんに悪いけれど、サザンカは知りたいことがある。

「叔父さんはサツキのことをどう思っているの」

 ばあちゃんはかすかに眉根を寄せた。

「鉄夫が刑務所に入ってすぐサツキが生まれたんだけれど、母親はすぐ死んでしまったから、サザンカと姉妹ということにして泰子さんが育てるという約束でずっときたんだよ。だから、今のところ、サツキは鷹揚で気立てのいい子に育っているということだけは伝えてある」

「そしたら、叔父さんは何と言った?」

 ばあちゃんは首を振った。

「あの子は自分の娘に関心があるように見えない。もっとも、その方がいいのかも知れないけど」

 母が口をはさんだ。

「サツキのことはまた後で考えるとしましょう。きょう役員会が終わった後、古い役員さんに鉄夫さんのことを聞かれました。出所して一ヵ月たつけれど、今何をなさっているんですかと」

「役員の三分の一は鉄夫のことを知っているけれど、今までは口をとざしてきた。青山製菓のスキャンダルは役員に取っても不利益だからね。でも、鉄夫が青山製菓に関与してくるとなったら、手厳しく対応してくるのは当然だよ」

 母は深い息をついた。それからゆっくりと決意するように話し始めた。

「役員さんたちに鉄夫さんが社長になることを納得してもらうことは不可能です。だから、青山家のお願いとして承知してもらうしかないでしょうね。役員さんたちの信頼を地に落としてしまいますけれど、鉄夫さんの言い分を通すためにはそれしかないと思います」

「株はわたしと泰子さんで三分の二あるから、役員たちは最終的には言うことを聞いてくれるだろうけれど、役員のみなさんの意欲と気持ちを踏みにじってしまうことが無念だよ」

「それはもう言いっこなし。わたしは陰ながら出来るだけのことをしていきますから。残念ながら、『毒入りシール』の影響で既に五軒のスーパーから出荷見合わせの電話が入ってしまいましたけれど」

 すると、ばあちゃんはげそっと頬をこけさせるようにして口を縦に開いた。

「あのゴクツブシが!」

 ばあちゃんらしくもない荒っぽい言葉を吐いて唇をひくひくさせた。

「あんたにはすっぱり会社から手を引いてほしいと言いくさる。どうしても泰子さんの方が目立つからと」

「そこまでおっしゃいましたか」

 母はどんなに裏方に徹しようとやり手だから光ってしまうことはサザンカでもすぐ想像できる。今までの実績も大きいし。それにしても、サザンカは叔父さんに山盛りいっぱいの悪口を言いたい。

(あんたが信用ないのは自業自得というもんでしょ! 全く小学生以下の自己中なヤツ。いい年していつまでも親に甘えんじゃあないの!)

と、怒鳴りたいけれど、ばあちゃんが可哀そうだから我慢してやってるんだ。

 母はソファにへたりこみ目を宙にさまよわせて考え込んでいる。サザンカは思った。

(お母さんは社長という名を捨て、仕事の中身で青山製菓を支えようとしたのに、叔父さんはそれさえも拒否するなんて。信用も実力もないくせして自分だけの力でやりたいなんて青山製菓をつぶしてしまいたいとしか思えないなあ…。それにしても)

 サザンカはばあちゃんに聞いておきたいことがある。ばあちゃんに体を向けた。

「おじさんはなんで刑務所に入っていたの」

 ばあちゃんは一度唇をぎゅっと結んでから開けた。

「話せば長くなるから、結論をいうとギャンブルと傷害事件でね。鉄夫は自分で青山製菓を引き継ぎたかったのだけれど、役員会で反対されたし、わたしも鉄夫では駄目だと思った。その時、鉄夫は三十才。その年まで何一つまじめにがんばり続けたことがなかったもの。けれど、青山製菓を泰子さんに任せる代わりに鉄夫には五千万円の資金を出してやった。レストランを経営したいと言っていたからね。ところが、交通の利便もない高い土地を買ってしまったため店は建てられず人も集められなかった。それで、資金稼ぎのためにギャンブルに走ってしまったんだよ。それで、お決まりの転落コースをまっすぐ歩んでしまった」

 母は組み合わせた両手の上に顎を乗せ遠い目をしてつぶやいた。

「鉄夫さんは私が憎いのでしょうね。十年間刑務所の中でその思いで過ごしてきたのかも知れない」

 サザンカは、いつも威厳と気品に満ちている母が肩を落としぐっと老けてしまっているのを見てかわいそうでたまらなくなった。

「それって全く叔父さんの逆恨みじゃあないの! お母さんは叔父さんを蹴落として社長になったわけではないんでしょ」

 ばあちゃんは申し訳なさそうに言った。

「わたしが頼み込んで泰子さんに社長になってもらったんだよ。泰子さんには他にやりたいことがあったのに」

 サザンカはびっくりした。

「やりたいことって何なの? お母さんは天職のように社長がぴったり合っていると思うけど」

 母は物憂げに頭を振った。

「そういうことはまた機会がきたら話すけど、今は青山製菓の緊急事態を考えなくてはね」

 サザンカはぐちゃぐちゃのパズルを目の前にしたようで「なんかわけわかんな〜い!」という気分になってきた。

「とにかく、叔父さんがどうしてわざと青山製菓をつぶすようなことを言うのかさっぱり納得できないから、わたしも混ぜてもらって叔父さんと四人できちんとはなしあいをしたいわ」

 サツキも家族なのだから話し合いに加わった方がいいと思ったけれど、親子の名乗りの問題が残っているので、取り合えず四人だ。ばあちゃんはうなずいた。

「そうね。けれど、その前にもう一度鉄夫にわたしが話してみる。それで駄目だったら、家族会議を開きましょう。そのことも伝えるために行ってきますよ」

 ショートカットの母の頭がふらっと揺れた。疲れ切って生気のない顔色だ。無理もない。きょうは会社や工場を回って社員全員に『毒入りシール』の件で動揺しないできちんと仕事に精出すように檄を飛ばしてきたのだから。警察へも行ってきたし、手ごわい役員会もこなしてきた。その母が無理に笑顔を浮かべた。

「やっぱりわたしは会社から全部手を引いた方がいいのかも知れません。けれど、すぐということではなく、最低三ヵ月の猶予は必要だと伝えてください。それだけは譲れないともおっしゃってくださいね」

 ばあちゃんはかさかさのまぶたをくわっと見開いたが、母の考えには反対せず、二人を見すえて言い方をした。

「とにかく、あしたもう一度上京して鉄夫と話してきます。ひょっとしたら明日はもどらるにホテルに泊るかも知れません」

 そして、立ち上がった。

「泰子さんはもう少し体に気を付けて動いておくれ。と言っても、無理せざるを得ないのだけれど、会社よりも体が大事だということを忘れずにね。あしたは早く起きては駄目だよ。わたしも今度は遅く出発する。鉄夫も午後でないとつかまらないし」

 母とばあちゃんは部屋にもどった。サザンカもベッドに入った。頭の芯がひどく疲れているけれど、寝つけない。考えることがいっぱいありすぎて。特にこのこと。

(サツキに本当のお父さんのことをどう話したらいいかなあ。お母さんもばあちゃんも叔父さんと店のことで大変だから、姉であるわたしの役目だろう。それくらいのこと、しっかりやれなくちゃあ大黒柱の名がすたるぞ)

 しかし、いくら考えてもうまい話し方が思いかばず、いつのまにか寝入ってしまった。

 翌朝、サザンカは寝ぼけ眼で朝ご飯を食べ、ランドセルを片手に引っ掛けて玄関を出た。

 駐車場の方から話し声がする。見ると、サツキが若い男としゃべっている。男は辛子めんたいこ色の派手なシャツと白いズボン姿である。もう秋も深いというのにこれから海にでも出かけるみたいだ。母の車であるクラウンの運転席のドアが開いていて、男はそこに手をかけながら笑っている。サザンカは近づきながら思い出した。

(正人兄ちゃん!)

 いたずらっぽく動く目と愛嬌のある片えくぼは変っていない。顔が少し長くなって、背はそんなに高くないけれど、なんか大人の男っぽい感じ。サザンカはどきどきした。何と言って話しかけようか。なにしろ七年ぶりだもの。

 正人はサザンカに気がつき、にかっと笑った。

「よっ、サザン。相変わらずボケてるな」

 正人はサザンカという名前はきれいすぎて似合わないと言っていつも省略して呼んでた。その口の悪さも変っていない。それで、七年間のブランクはあっという間に乾いた朝の光の中に消え失せた。

「なによ、相変わらずの小マッサニ」

 小マッサニは小さい正人兄ちゃんという意味のあだなだ。正人はかわいい紙袋をサザンカの目の前にぶらぶらさせた。

「サッちゃんは姉ちゃんと違って実によくできた妹だな。さっそくおやつの差し入れだぜ」

「苺ジャムとブルーベリーのワッフルよ。きのうはだれも食べてくれないかったんだもん」

 サツキは無邪気ににこにこしている。サザンカはせいぎり意地悪く言った。

「小マッサニは男のくせに甘党なんだ。かっこう悪い!」

 正人は気にせず、さっそく袋を開けてワッフルを取り出し、ぱくりとかじった。

「おお、感激のうまさ!」

 正人はわざとゆっくり食べ終わるとサザンカを意味ありげに見た。

「今どき、『男のくせに』という言葉は流行らないぜ。サザンだって女のくせに料理ができないヤツなんて言われたら頭にくるだろ」

 サザンカはぐさっときた。図星だ。サザンカはガリ勉はしても料理というものをしたことがない。悔しくて正人に思いきり「べえー!」をした。もっと悪口を言おうとしたら、突然後ろで声がした。

「何みっともない顔しているの、サザンカ。久しぶりの正人君なのに失礼よ。正人君にはこれからいろいろ仕事を手伝ってもらうというのに」

 いつの間に近づいたのか、深緑色のスーツを着た母が笑っている。きょうはもっとゆっくり出かけると思っていたのに。正人はぺこりと頭を下げた。

「お早ようございます。しばらくこき使ってください。今ちょうどスランプなんでぼくも気分転換になって助かります」

「こちらこそ、よろしくね。有難いわ」

 母は愛想よく笑った。柔らかい秋の陽射しが母のほっぺたに濃い陰を作った。母はもともとスリムだけれど、今はそれを通り越してやつれていると言った方が合っている。

 正人は後部座席のドアを開け、母にどうぞという手振りをした。

「ぼくはクラウンを運転するのは初めてだから、最初は慣らしでゆっくり行きます」

 母はほっとした顔になった。

「安全第一がベストよ」

 サザンカは正人がボクなんて言い方をするのは似合わなくておかしかったが、きびきびと運転席におさまり慣れた手付きでエンジンをかけた正人がとても頼もしく見えた。スランプだなんて言ってたけれど、とてもそうは見えないほど正人は嬉しそうにクラウンを発進させ、サザンカとサツキに得意そうな笑顔を残して走り去った。サザンカが、(小正兄は車キチなのかも?)と思ったくらいに。

 サザンカはランドセルを両手にしょい直した。

「さてと」

 サザンカは気が重いけれど、学校へ行かなければならない。

(きょうはどんなことを言われるかなあ)

 後ろで、サツキがにこにこしながらサザンカが歩き出すのを主人を待つ小犬のように(体重はサザンカより十キロも重いけど)待っている。いつもはうっとうしいサツキだが、きょうだけはほっとした。脳天気なサツキの笑顔を見てると、サザンカも(なるようになれっ!)という気分になってきた。

 

   10 母の入院

 タマエさんの甥っ子の正人が来てくれてから一ヵ月になる。

 正人は車の運転だけでなく大事な書類を運んだり連絡係を務めたりと、母の秘書のような仕事もするようになっている。母はずいぶんと助かっているはずだけど、このところ、帰りが前よりずっと遅いし朝も早い。サザンカたちが起きるか起きないうちに出かけていく。

 無理もない。母が鉄夫叔父さんに会社の明渡しを三ヵ月待ってほしいと頼んだのに、どうしても「一ヵ月だけ」と押切られたのだから。その一ヵ月の期限があと二日できてしまう。

 サザンカはサツキにまだ本当のお父さんの話もしてない。サザンカは俯いて考え込みながら学校から帰ってきた。サザンカの家の長い生垣は淡いピンクの山茶花だ。蕾みはもう大分ふくらみ先がほんのりと色づいている。もう咲いてもいい季節なのに咲きそうでなかなか咲いてくれない。サザンカはそっと蕾みにさわった。固いけど、ぷっくりとしてかわいい。命の塊りだ。

(山茶花が咲いたら、少しはいいことが起こってくれますように…)

 サザンカは思いついた。

(きょうはお母さんの好きなパステルの画集を買ってきてやろうかな。もうちょっとで社長業も終わりだから暇になるものね)

 母は、ずっと前少し暇があると庭の植物や風景なんかをスケッチしていた。サザンカがのぞきこむと、「ストレス解消よ」と笑ってたけど、けっこういい線いってると思ったものだ。サザンカは走って玄関に飛び込んだ。靴を脱いで階段をかけ上がろうとした時、居間で電話が鳴った。サザンカは急ターンして受話器を取った。相手は正人だった。

「サザン! よかった、お前で。いいか、落ち着いて聞いてくれよ」

 サザンカはいやな感じがした。

「なによ、いったい」

「おれ、今つつじケ丘病院にいるんだ。サザンのお母さんが会議中に倒れて」

「ええっ、何だって?」

 サザンカの声が甲高く裏返った。正人の声が急に不自然なほどゆっくりになった。「心配するな。今は意識がもどってリンゲルを打っている。今までの疲れが出たんだよ」 正人の落ち着いた話しぶりにサザンカは我に返り声を下げた。

「命に別状はないの?」

「もちろん。とにかく、過労だ。もう少し落ち着いたら、いろいろ検査をしてもらうけど」

「わたしもすぐそっちへ行くよ」

「それでさ、入院するしかないだろうから社長のパジャマとか洗面用具なんかを持ってきてくれよ」

「わかった。すぐタクシーで行く」

「どじ踏まないで来るんだぞ」

「うるさいわねえ」

と言いつつ、サザンカは正人がいてくれて本当によかったと思った。なにしろ、青山家は女ばかりだから若い正人でも心強くて有難い。サザンカはしみじみ思った。

(男の人っていいもんだなあ。うちに大人の男が一人でもいてくれたら、お母さんも倒れなくてすんだのに)

 けれど、ぐじぐじと無い物ねだりしてる暇はないので、サザンカはランドセルをソファに置いて母の部屋にすっとんだ。

 三十分後、サザンカはタマエさんとベッドの上の母と会っていた。

 あい色のスーツ姿のままの母が力弱く笑った。

「大げさなのよ、正人君たら救急車なんか呼ぶんだもの」

 卵型の小作りな母の顔が一層小さく枕に埋もれていて痛ましい。タマエさんも母と同じ青い顔して叱った。

「何おっしゃるんです! 手後れになったらどうするんですか。正人がついていてくれて本当によかったこと…」

 最後は安堵のつぶやきだった。タマエさんが母の上にぶらさがった三個の点滴容器を不安そうに見上げると、ベッドの足元の方にいた正人が説明した。

「叔母さんたちが来るちょっと前に酸素吸入器を取り外したんだ。点滴液はリンゲルとぶどう糖」

 タマエさんは、

「とにかく、体力が回復するまでゆっくり休んでくださいね」

と泣きそうな顔で母に言った。すると、母は一瞬目をつりあげた。それから無理に笑った。

「もう大丈夫よ。動悸もしなくなったから、点滴が終わりしだい家にもどるわよ。やらなくてはならないことがあるから」

 タマエさんはおそろしそうに首をぶるるんと振った。母は独り言のようにつぶやいた。

「約束の日までにあと二日しかないの。手続きや会議がつまってるわ」

 タマエさんは両足を踏みしめ拳を固く握りしめて母をにらみつけた。

「死んでしまったら何もかもおしまい。社長には今休養が必要なんです!」

 母は頼み込むように言った。

「あと二日だけ。それだけ働いたらもう嫌になるほど休めるのよ。たった二日間の我慢よ」

 タマエさんは断固として言い渡した。

「いけません! 社長が取り返しのつかないことになったら、私たちが路頭に迷うのですからね。私たちのために寝ていてください。あとは正人やおばあさまと何とかしますから」

「タマエさんは心配症ね。もうちょっとで済むというのに」

 母は無理に口元だけで笑顔を作った。

 

 結局、母はその晩帰ってこれなかった。

 それどころか、一週間経ってもベッドから抜け出ることができなかった。母の病室のドアには「面会謝絶」の札が下がっている。

 鉄夫叔父さんとの約束の日はとっくに過ぎてしまったけれど、別に電話もファックスも入ってこない。叔父さんは母が倒れたことを知っているんだろう。

 それから、青山家のびっくりニュース!

 ばあちゃんが社長の代わりを始めたのだ。母が入院してから三日目からだ。青山製菓の緊急事態だからばあちゃんも腹を括ったらしい。本当は鉄夫叔父さんの筈だったけれど、今連絡もつかないし。

 七十才のばあちゃんは明るい山吹色のスーツを着て出勤している。ずっと前の社長時代に着ていたものだろうか。サザンカは物心ついて以来母が社長だったからばあちゃんの出勤姿は初めてだ。背筋をしゃっきり伸ばしたばあちゃんはさすがに社長らしい品格がある。十年間のブランクを感じさせない。

 サザンカは学校から帰ってランドセルを自分の部屋に置くと、すぐキッチンに行った。

 サツキがガスレンジの上で何やらぐつぐつ煮ている。おいしいコンソメの匂がする。

「きょうは何?」

 母が入院してからサツキは毎日母の口に入りそうなものを作って差入れしてる。ただし、持って行くのはサザンカだけど。

「おじや。これなら胃に負担をかけないし、吸収されやすいもの」

 大きなほうろう鍋にうまそうな焦げ色の物体がどろりどろりとのたくっている。サザンカの腹の虫が起き出した。

「ふう〜ん。味見していいかな」

「いいよ。きょうはおやつ代わりにたくさん作ったの。この後の買い出しはちょっと多いから、これを食べたらすぐお出かけよ」

 タマエさんが母の看病につききりなので、夕食の用意はサツキになった。正人は今ばあちゃんの運転手をやっているけれど、ばあちゃんと夜もどってくると、遅い夕食を必ず食べて行く。サツキの作る食事が何ともうまいので、断り切れないそうである。

 サザンカはキッチンの椅子に座りサツキが盛ってくれたおじやをスプーンですくった。細かく刻まれた野菜はよく煮えているし卵は半熟で見かけはグラタンのようだ。チーズ味が舌の上でとろける。

「アッチチチ!」

 熱いおいしさが舌から体全体にしみわたっていく。これなら胃腸の弱っている母も喜んで食べるかもしれない。

 サツキはさめない弁当ポットにタマエさんと二人分のおじやを詰めると、自分もテーブルについておじやを幸せそうに食べ始めた。

 サツキは母が入院してもサザンカのようにくよくよ心配しない。せっせと母の差し入れ作りをするけれど、見舞は一回しか行ってない。まあ正人も入れて五人分の夕食や朝食の仕込みもしているのだから忙しいのだけれど。それにしても、サツキは青山家の食事を任されて生き生きしている。母を心配するより料理をするチャンスをもらって嬉しがっているようだ。

 サツキのようにでんと構えていられないサザンカはせかせかと弁当ポットをリュックサックに入れて外に出た。

 駐車場から自転車を出して乗った。つつじケ丘病院まで二十分で行けるので、タクシーは使わないことにした。『毒入りシール』事件の影響だろうけど、青山製菓の売上げがかなり落ちてきているそうだからサザンカは節約を心掛けようと思っている。

 力を入れてペダルをこぐ。風を切って冷たい。サザンカはマフラーを首に巻いて来るんだったと後悔した。もうすぐ十一月だ。

 けれど、ぐいぐいと力強くこいでいるうちに体が暖まってきた。病院に着いたら頭から少し湯気が出るほどだ。

 もうすっかり慣れた病院内をまっすぐエレベーター室に向かい、三階を押す。パジャマにカーディガンを羽織った女の人が側に立った。エレベーターにのドアが開いた。サザンカは続いて乗ってきた女の人を見て思った。

(お母さんも早くこの人のように病院くらいぶらぶら歩けるようになるといいなあ)

 母は五分粥くらいは食べるようになったけれど、まだ三種類も点滴をしている。歩くのはもう少し体力がもどってからと主治医の先生が言ってる。

 サザンカは母のいる個室をそっと開けた。母が眠っているかもしれないので、いつも声はかけないで開けることにしている。サザンカが入ろうとしたらベッドの横に男の人がいる。いつもはタマエさんだけなのに。まだ面会謝絶なので会社の人は来ないはずだ。それに会社の人なら黒っぽい背広を着ているけれど、その人はモスグリーンのジャケットを着ている。

 サザンカが近づいていくと、男の人が振り返った。初めて見る顔だ。サザンカに気がついた母とタマエさんがぎょっという顔をした。男の人はぎょろ目でじっとサザンカを見つめた。目も鼻も丸くてかわいらしい。上背が高く少しかがむように背を丸めている。髪がばさばさと多く眉も太い。アニメのキャラクターみたいで一度見たら忘れにくい顔である。サザンカは、

(誰、この人?)

という顔で母とタマエさんを見た。タマエさんは慌てた様子で男の人を促した。

「じゃあ、泰子さんの体にさわりますので、きょうはこれで」

「はい。では、くれぐれもお大事に」

 男の人は母に深く頭を下げた。母は激しく目をしばたたき、寝たままでこくっとうなずいた。男の人はもう一度サザンカを見て頭を下げてからドアに向かった。サザンカは軽く会釈はしたけれど、わけがわからない。ドアが閉ってから二人に聞いた。

「誰、今の人」

 タマエさんは困ったように母を見た。母は外に顔を向けてからサザンカの目をじっと見た。

「事情があって今は言えないけれど、後で必ず教えるから」

 どういう事情があるの?と聞きたかったけれど、母がきりっと口を結んでしまったので、言えなかった。(まあ、いいか)ということにしてリュックから弁当ポットを取り出した。

「はい、サツキ特製のおじや。なかなかのすぐれものだったよ。栄養も満点、タマエさんの分もあります」

「はいはい」

 タマエさんはベッドの上に台を渡して拭いた。それから、掛布団を半分たたむと枕をどかし、ベッドの脇についているハンドルを回してベッドを半分起こした。部屋の隅にある洗面所のお湯でタオルを絞り母に渡した。母はふかふかと湯気の出ているタオルで気持ちよさそうに顔も拭いた。タマエさんは母の髪型を直したり肩掛けをかけたりと甲斐甲斐しく世話をする。まるで、我が子のように。

 母は少々照れながらタマエさんに身を任せているが、きょうはやや表情が空ろである。と言うより、心ここにあらずといったふうである。さっきの男の人のせいだろうか。いったい、あの人は誰なんだろうとサザンカは考えながらおじやを母の前に置いた。すると、母ははっとしたように我に返り嬉しそうなそぶりを見せてスプーンを持った。おじやから湯気がもやもや立っている。

「う〜ん、いい匂。きょうは全部食べられそうだわ」

 母はゆっくりスプーンを運びおじやを口にふくんだ。もぐもぐしながら、しみじみと言った。

「おいしい」

 タマエさんも側に来て腰を下ろした。

「では、わたしもお相伴させてもらいましょうかねえ」

 サザンカはタマエさんの分も蓋を開けてやった。タマエさんは嬉しそうに猫のように目を細めて食べ始めた。

「これは滋養がありますね。味も申し分ない。サツキさんはお祖父さまの血を受け継いだのですねえ。ほんとに料理の才がおありだこと。キッチンではわたしの出る幕がなくなりそうですよ」

 母もふうふうと湯気を吹きながらスプーンに山盛りおじやを乗せている。こんなに食がある

のは入院以来初めてだ。しっかり食べられればベッドを離れる日も近いと言うものだ。サザンカは嬉しくなった。

 夕闇の中、サザンカは浮き浮きした気分で病院を出た。母が初めて差し入れを全部食べたから。病院の夕食のお粥も半分くらい食べたのも初めて。おじやを食べたばかりというのに。

 サザンカはいい気持ちで家に着き、自転車を駐車場の隅に閉った。そして、いつものようにキッチンの勝手口から入ろうとした。玄関よりずっと近いもの。

 ドアを開けると、真ん中に置かれた大きいテーブルに男の人がいて何か食べている。サツキはガスレンジの前で料理に精出している。

「ただいま!」

 声をかけると、男の人が振り向いた。サザンカはギャッと声を上げそうなほど驚いた。男は鉄夫叔父さんだったのだ。サツキはいつもの脳天気な笑顔で振り向いた。

「お帰りなさい、お姉さん」

 

   11 鉢合わせ

 サザンカはうろたえた。

 目の前に、『毒入りシール』の張本人である鉄夫叔父さんがいる。叔父さんは間の抜けた顔で焼きりんごなんか食べてる。かわいいウサギのマグカップで紅茶つきだ。

 サツキはのんびりと言った。

「お姉ちゃん、そろそろ夕食よ」

 サザンカはとがめるように言った。

「ど、どうしたの? お客様?」

 サツキは無邪気に答える。

「買物から帰ったら、門のところで家をのぞいていたので、入ってもらったの」

 なんと、無防備な妹だろう。いや、正しくは従妹だけれど。サザンカは頭が痛くなった。知らない人を家にあげてしまうバカがいるか。しかも、その人は本当は脅迫の犯人で、困ったことにサツキのお父さんだ。しかし、何も知らないサツキは太平楽そのもの。おやつまで出すなんて。

「それで、きのうせっかく作った焼きりんごを誰も食べてくれなかったから、おじさんに味見してもらってるの」

 サザンカとは異次元の世界に生きているようなサツキに言う言葉が見つからない。叔父さんはバツが悪そうにサザンカとサツキの顔を盗み見るようにしている。

 ふと、サザンカは気がついた。叔父さんは、サザンカが叔父さんのことを知っていることを知らないはずだ。とりあえず、サザンカは知らない振りをすることにした。軽く頭を下げる。

「姉のサザンカです」

 鉄夫叔父さんは居心地の悪そうな顔で黙って頭を下げた。サツキがはしゃいで言った。

「おじさんはずっと前この家にいたことがあるんですって」

 それは当たり前だ。ここで生まれて育ったのだから。けれど、サツキは深く考えた様子はない。ここで働いていたことがあるくらいに受け取っているのだろうか。とにかく、まったく悩みのない顔でせっせと夕食作りにはげんでいる。なにしろ、五人分のおさんどんだから。

 電話が鳴った。サザンカが出ると、ばあちゃんんからだ。

「今夜は人と会う用があるので、外で食事をすませることにしましたよ。それに、正人さんはあした模擬試験があるので、夕食はいらないそうです」

 電話を置くと、待っていたようにまた鳴った。タマエさんだ。

「お母さんの熱が出たので、今夜は病院に泊ります。たいしたことはないんですけどね、今が大事な時ですから」

 たいしたことがないと言いながらタマエさんは母が心配でたまらないのだ。あんなに食欲が回復してきたのに、サザンカの知らない男の人に会ったせいだろうか。

「きょうはばあちゃんもタマエさんも夕食はいらないって。そうそう、正人君も」

 すると、サツキががっかりした。

「ええっ、きょうはせっかく松茸ご飯とハマグリのお吸い物を作ったのに」

 サザンカはびっくりした。

「あんた、また高い買物しちゃって。今うちは売上げが落ちて大変なのよ」

 サツキはあどけない顔で言った。

「ばあちゃんからもらった食費はとっくになくなってしまったから、わたしの小遣いで買ってるの」

「また、お年玉の貯金をおろしたんでしょ」

 サツキはこくっとうなずいた。

「ばあちゃんもお母さんもみんな大変だから、おいしい物食べて元気を出してもらいたいの」

「そ、そうなの」

 青山家の一大事に全くむとんちゃくだと思っていたのに、サツキなりに心配していたんだ。サザンカはほろっとしてしまった。けれど、サツキをほめるわけにいかない。

「それにしても、五人分の松茸ご飯は困ったわね。きょうは二人だけだもの」

 サツキがパチンと両手を合わせた。

「いいことがある!」

 そして、嬉しそうに鉄夫叔父さんに近づいた。

「おじさん。松茸ご飯、食べていってね。いいでしょ」

 サツキの突飛な提案に叔父さんはどぎまぎしてしまった。

「あ、いや…」

 喫茶店では暗くこわい顔していた叔父さんが眉毛を下げ落ち着きのない目をして困っている。サツキは全く気にしない。

「わたし、料理には自信があるのよ、勉強はだめだけど。さっきの焼きりんごもおいしかったでしょ」

 叔父さんの顔がほっとゆるんだ。

「ああ、今まで食べたものの中で一番うまかった」

 サツキは飛び上がって喜んだ。

「わあ、やった! こんなにほめてもらったのは、初めてよ」

 思わぬ展開にどうしたものかとぼうっと突っ立っているサザンカの腕を引っ張った。

「お姉ちゃんもさそってよ。二人だけで夕食なんてさびしいでしょ」

「う…」

 サザンカの困っている顔を見て叔父さんは立ち上がり、小さな声で断った。

「きょうはこれで帰ります」

 サザンカにかすかに会釈をし、サツキにもう一度言った。

「さっきの焼きりんご、ほんとうにおいしかった。ありがとう」

 サツキは残念がった。

「ほんとうに帰っちゃうの?」

 叔父さんは作り笑顔でうなずいた。玄関に向かう叔父さんをサツキは見送った。サザンカもついて行った。

 玄関でサツキを見た叔父さんの目はやさしかった。そして、ゆっくり背を向けてドアから出ようとする後ろ姿が、とても頼りなげでさびしく見えた。サザンカははっと胸を突かれ、思わず叫んだ。

「叔父さん、いっしょに夕食、食べていきませんか!」

 叔父さんはきょとんとした目で振り返った。サザンカは、

(しまった、なんてことを言ってしまったんだろう)

と後悔した。サツキは勢いづいた。玄関に下りてサンダルをはき、叔父さんの腕をつかんだ。

「ほら、やっぱり三人で松茸ご飯を食べましょう。お姉ちゃんもいっしょに食べたいって」

 叔父さんは困りながらかすかに口元をゆるめてサザンカを見た。

サザンカは心を決めた。

「せっかくだから三人でいただきませんか。その方がサツキも喜ぶから」

 叔父さんはもごもごつぶやいた。

「そんな、悪いですよ…」

 

 結局、三人で松茸ご飯を食べた。サツキは嬉しそうに説明する。

「きょうのご飯は電気釜でなく土鍋で炊いたの。それでね、最後にちょっと強火にして味を引き締めたのよ。土鍋の方がふっくら炊き上がって、わたしは好きなの」

 叔父さんはうんうんとうなずいてよく食べた。もう三杯目だ。忙しい母やタマエさん、むだ話が趣味ではなさそうなばあちゃんはサツキの話を身を入れて聞かない。だから、黙って一生懸命うなずいてくれる叔父さんが気持ちいいらしい。よくしゃべる。

「うちはね、男の人がいないから、おじさんみたいな人が来てくれると、なんかうれしい。正人君、このごろ運転手してくれてる人よ。いつもは夕食を食べて帰るの。男の人はたくさん食べるから作りがいがあるわ。おじさん、また来てよ。今度はお母さんやばあちゃんのいる時にも来てね。きっと喜ぶから」

 すると、鉄夫叔父さんの顔がさあっと曇り、急いで食べ上げた。そして、そそくさと立ち上がった。

「ごちそうさま。こんなにおいしい夕食を食べたのも、おじさんは生まれて初めてだ」

 心から言ってるのが、サザンカにもよくわかる。サツキは有頂天になった。

「うわあっ、ほんと? おじさん」

 叔父さんは恥かしそうに笑ってから玄関に向かった。サツキは追いかけた。

「こんどはおじさんの好きなものを作るわ。何が好き?」

 叔父さんは靴をはきながら小さく言った。

「あんたの作ったものなら何でも好きだ」

「じゃあ、わたしの得意な料理を作っちゃう。だから、こんどは電話してから来てね」

 振り返った叔父さんの目がやさしく光った。

「きょうはありがとう。本当にごちそうさま」

「どういたしまして。ほんとにまた来てよ」

 叔父さんはサザンカに目をしばたたかせながら頭を下げた。ドアがしまり叔父さんの

姿が見えなくなると、サザンカの肩の力が抜けた。サツキははずみながらキッチンにもどった。叔父さんからほめられたので上機嫌だ。夕食の後始末の手つきも軽い。

 サザンカもキッチンにもどった。もう少しで、

「今の人、サツキのお父さんだよ」

と言いそうになっていた。けど、がまんした。鉄夫叔父さんのことをどこまでしゃべっていいか、まだ判断できないでいたから。

 

   12 ご対面

 鉛色の空に、風花が舞っている。

 サザンカは、北風が頭の上を通り過ぎてくれるように俯き背を丸めて学校から帰ってきた。

 山茶花の長い生け垣がぽっぽっとうす紅色の花を開いている。北国特有の薄墨色の世界に幻想的な明かりがともったようで、サザンカはちょっと感動した。

(しばらく気がつかないうちにこんなに咲いてた…)

 ばあちゃんの手入れがいいので毎年見事に咲くのだが、今年はたくさんの事件が重なったせいか、静かに咲きほころんでいる山茶花が目にしみるほどきれいた。

(きょうはお母さんに持っていってやろう!)

 サザンカは走って家に入りランドセルを自分の部屋に置くと、花切りハサミを持って庭に出た。

 庭でも白・赤桃色・斑入りなどの山茶花が咲き乱れている。

(おおっ、おみごと!)

 居間やキッチンにも飾ろうと両腕いっぱい切った。

 玄関にもどった時、ちょうどタマエさんが帰ってきた。サザンカは驚いた。

「きょうは早いのね」

 タマエさんは言葉を濁すように、

「ええ、まあ」

と笑ってから、言い訳がましくサザンカを見た。

「きれいですねえ。お母様が喜ばれますよ。きょうはずいぶん体調もよくなっていますから、こういう時くらいわたしは家の中のことをもっとやらないと」

 タマエさんはせかせかとキッチンに入って行った。サザンカは洗面所に花を持って行った。まず、洗面台の水をいっぱいにして山茶花を入れた。次に、キッチンや居間、トイレ、廊下などの花瓶を集めた。ばあちゃんが社長に復帰したし、タマエさんは病院にかかり切りだったので、花はすっかり枯れて腐って花瓶にひっついている。それをたわしでこすってきれいにし、山茶花をさした。今、青山家は大変な事態ではあるけれど、こんなふうに余分なことをしていると、不思議と気持ちが落ち着く。少し大人の気分でもある。

 花瓶をもとの場所に置き終わったところへばあちゃんがもどってきた。

「お帰りなさい」

 ばあちゃんはかすかに頬を弛ませてうなずく。サザンカは(きょうはばあちゃんもずいぶん早いんじゃない?)と思ったけれど、口には出せない。やっぱり、ばあちゃんはおそれおおい。

 サツキが作ったスイートポテトをバスケットに入れ、サザンカをビニール風呂敷に包んで玄関に出た。奥からばあちゃんがやって来た。

「きょうはわたしも一緒に病院に行きますよ。正人さんも待たせています」

「!」

 こんなことは初めてだ。母が倒れてから、青山家ではそれぞれが自然と自分の役割につき、フル活動している。毎日の見舞はサザンカ、おさんどんはサツキというように。ばあちゃんは病院には一日目に一回行っただけ。あとは久しぶりの社長業と毒入りシールの後腐れで大変を十乗したくらいの忙しさだったもの。

 駐車場ではマークUの運転席で正人が参考書に何か書き込みながら勉強している。サザンカは、サツキがかわいいティッシュハンカチで包んでくれたスイートポテトを正人君の目の前に差し出した。

「はいよ。今度すべったら、今までの差し入れ、全部返してね」

 正人はにやりと笑った。

「六年後のサザンの姿も似たようなものさ」

「あたしはそんなヘマ、しませんよ〜だ」

「受験て、そんな甘かないぜ」

 正人は包みを受け取り、大げさに喜んだ。

「それにしても、同じきょうだいでもこの違い!」

 サザンカはずきっとした。正人はサザンカたちが本当の姉妹ではないと知ったら何というだろうか。ずばり、「どうりで違うと思った」だったりして。

 サザンカは正人をなぐるまねをして助手席に乗った。ばあちゃんが後ろの座席におさまると、正人はプロの運転手のように静かに発進した。

 サザンカは病室のドアを開けた。ばあちゃんが後ろに続いた。

 腕いっぱいの山茶花の向こうに男の人が振り返った。確か、一週間前この病室で会ったぼさぼさ頭でゲジゲジ眉毛のおじさんだ。ばあちゃんは、おじさんがそこにいることを知っていたかのように言葉もかけずカシミアのコートを脱いでいる。

 サザンカは軽く頭を下げ、山茶花を窓辺に置いた。母とおじさんは重要な話をしているわけでもなさそうなので、バスケットからスイートポテトを出して母に渡した。

「どうぞ。きょうもあきれるくらいおいしいサツキプロの作品」

 受け取った母の顔がほころんだ。

「ほんと。甘いにおいをかぐだけでもおいしい」

 社長で忙しかった頃の母は、サツキのお菓子を社交辞令で仕方なくもらっていたようだった。サザンカは、病気ではあるけれどベッドでゆったりしている母をみるのは好きだなあと思った。サザンカもリラックスした気持ちで小菊の入った花瓶を抱えた。

「わたし、お花を変えてくる」

 サザンカは前からの花が入った花瓶を持って洗面所へ向かった。

 赤紫や白、うすピンクの小菊もうちの庭から切って持ってものだ。まだまだ元気で捨てるにしのびない。洗面台になにかドリンク剤の空き瓶がある。サザンカはそれを洗い、小菊のきれいな枝を切ってさした。まだまだ余ってる。サザンカは残りの小菊を持って他の洗面所へ行った。

 サザンカの家の庭には四季の花があふれているけれど、ばあちゃんは切り花なら切り花で、一輪もむげには捨てない。口で教えられたわけではないけれど、サザンカの身にもついている。

 しばらくして、やっとサザンカはきれいな水を入れ替えた花瓶を持って母の病室にもどった。さっき窓際に置いた山茶花の花を活け、母が寝ている位置から見えやすい冷蔵庫の上に置いた。やれやれと思い、大人たちの方を向いた時、ばあちゃんがさっきから黙っているおじさんを紹介するように片手をおじさんに添えて言った。

「サザンカや、こちらがお前のお父さんだよ」

「は?」

 おじさんのゲジゲジ眉がたれ、もの言いたそうな目になった。けれど、サザンカにはばあちゃんの日本語が通じなかった。ぽかんとばあちゃんの顔を見ている。ベッドの上で半身を起こしている母がもう一度言った。

「こちら、お前のお父さんの青山泉ですよ」

「えっ?」

 サザンカの頭の中が超高速で回転し、はじけた。

「お父さん?」

 サザンカは男の人をまじまじと見た。ぼさぼさ頭にかなり白いものが混じっている。額の皺も深い。この人が何でわたしのお父さん? わたしのお父さんはずっと前に死んじゃったはずだわ…。

 けれど、男の人はゆっくりとうなずいた。サザンカの頭の中は真空になってしまった。

「そ、そ、そんなあ…」

 サザンカはベッドの側にあった椅子にぺたりと座った。母がサザンカの背中を撫でた。

「びっくりさせてごめんね。サザンカならわかってくれると思ってつい無理を通してしまう」

 ばあちゃんもサザンカの隣に腰をおろした。

「急には受け入れられないさね。ただ、サザンカには事実を伝えておいた方が礼儀に叶うと思ってね」

 サザンカの頭がゆっくり息を吹き返してきた。

 目の前でもの言いたそうにまっすぐサザンカを見ているかなり老けたおじさん。この人がお父さん? ばあちゃんとお母さんは急になんと突飛でもないことを言うんだろうと怪しみながらも、サザンカは心の底がすとんと落ち着いたような気分でもあった。

 夏休みに入ったばかりに土蔵で見たいくつもの箱。雛人形の箱に入っていた「我が娘、サザンカへ」というカード。箱や陶器に刻まれていた「泉」という文字。

 夏以来ずっと不審に思っていたことが、ぴたっと符合した。目の前のおじさんがパズルのキーピースだったんだ。サザンカの頭は納得した。

 しかし、しかしながら、だからと言って心がついていかない。突然、死んだはずのお父さんの出現にサザンカはどうふるまっていいか分らない。サザンカは笑い返すこともできず、ただぼんやり座っていた。

 

   13 お父さんという人

 目の前の男の人…。

 大きくて、白髪の方が多いぼさぼさ頭。頭はおじいさんのようだけど、顔は目も鼻も丸っこくて愛嬌がある。

 この人がわたしのお父さん?

 サザンカは初めて知らされた事実に面食らっている。父と言われた人物は、呆然としているサザンカに照れくさそうに笑いかけた。丸い目がやんちゃ坊主のように光り、子どもみたいだ。サザンカの顔面の筋肉が少し弛んできた。

「な、なんで…」

 急に現れたの? と言ったつもりが最後は音声にならなかった。その人は言いにくそうに口のまわりを手でなぜた。

「私は勝手な人間でね、こういうふうに名乗る資格はないのだけれど、泰子が倒れたと聞いてたまらずに来てしまった」

 白髪に似合わず若くて細い声だ。鉄夫おじさんの声に似ている。丸々した顔は、三角ばって角々している叔父さんとは兄弟と思えないほど違うけど。

 母が小さく言った。

「私が、陶芸をやりたがったお父さんと意見が合わなかったのよ。到底、それで食べていけるとは思えなかったから、私はこの家に残ったの。青山製菓を引き継ぎ死物狂いでがんばろうと思って」

 ばあちゃんが座ったままサザンカの方を向いた。

「鉄夫は結婚してまともになりかけたのに、サツキの母さんがサツキを産むとすぐ死んじゃったら、またぐれてとうとう刑務所行き。それで、泰子さんはサツキも自分の子として育ててくれることにしたの。お前の父さんの泉は家を出てしまったけれど、泰子さんは残って、この十年間一番難儀だったと思う。私の母親失格の尻ぬぐいを全部やってくれているのだから」

 母の目がうるんできた。こんな母を見るのは、サザンカは初めてだ。サザンカは少しずつ母の大変さがわかってきた。今まで母のことをクールでやや人情味に欠けると思わないでもなかったけれど、心にたくさんの責任と悩みを抱え続けてきたのだ。

 目の前の父という人も鉄夫叔父さんも自分のやるべきことを、母に押しつけてきた。サザンカはこの人をとてもお父さんなんて呼べない。そっぽを向いて誰に言うともなしに聞いた。

「それで、これからどうするつもり?」

 母はなんとも言いようのない顔をした。ほんとは父らしい人が言いにくそうに言った。

「今は陶器も売れるようになったので、家族で生活ができる。社長をやめたのなら、釜場へ来てもらえるとありがたいが」

 サザンカはむかむかしてきた。この人は勝手すぎる。いい年して。顔を見ないでそっぽを向いたままどなった。

「サツキはどうなるの? 刑務所帰りで『毒入りシール』の犯人がお父さんなのよ。いくら、サツキが脳天気でもかわいそうすぎる!」

 父という人は目をしばたたいた。

「サツキもよかったら、一緒に来てほしい」

 サザンカは一週間前のことを思い出した。鉄夫叔父さんはサツキが作った松茸ご飯を喜んで食べ、人が変ったように気弱そうな顔して帰っていった。その後ろ姿が孤独で痛ましいくらいだった。

「そんなことしたら、鉄夫叔父さんはどうなるの? また、ひとりぼっちだよ。みんなには言いにくかったので黙っていたけれど、一週間前に叔父さんがうちへ来たんだよ。悪い人だろうけど、サツキと気が合ってたよ」

「ええっ!」

 三人の大人が仰天して顔を見合わせた。

 しばらく、無言が続いた。サザンカは息苦しくなった。

 ふいに、父という人があわただしくコートを着ながら言った。

「おれが鉄夫と会おう」

 ばあちゃんがあわてた。

「暴力では解決しないんだよ」

 その人は白髪混じりのぼさぼさ頭をかきむしった。

「おれもそろそろ四十になるし、腕力は衰えてきたのでご心配なく」

 母も心配そうにつぶやいた。

「たった二人の兄弟なんだから」

 ぼさばさ頭の持ち主は母を元気づけるように言った。

「一生に一度くらいは兄らしいことをしなくちゃあな」

 母は嬉しいような心配なような顔になった。

「青山家のトラブルがこれ以上大きくなったら、行きたくてもあなたの釜場に行けなくなりますからね」

 すると、父らしき人の顔がさあっと明るくなった。

「よし、解決したら、おれも十年ぶりに家族ごっこができるぞ」

 母が釘を指すように意地悪く言った。

「わたしが好くてもサザンカはわかりませんよ。サザンカを納得させなくては話が進展しないことも覚えておいてくださいね」

 父という人はがくっと力がぬけた顔でサザンカを見た。感情がすぐ顔に出て子どものような大人だなあとサザンカは思った。こういう人は悪い人ではないかもしれないけれど…。

(こんなふうであの鉄夫叔父さんを説得できるかしら)

と、不安になった。ヤツは、小犬のようにすがる目つきでサザンカを見ている。サザンカはぷいと横を向いた。すると、がっくりしながらドアに向かった。

「とにかく、ここはおれががんばってみる」

 母が念を押した。

「ケンカだけはしないでくださいね」

 ヤツは恨めしそうな顔で振り向き、黙って大きい体を小さくこごめて部屋を出ていった。

 ばあちゃんは不安そうだ。

「あの子が鉄夫のためにがんばる気持ちになってくれたのは嬉しいけれど、新しいもめごとの種をまかないといいが」

 母が慰めるように笑った。

「あの人、あんまり変ってませんけど、少しは大人になってくれた気がしますよ」

 ばあちゃんもしょうがなく笑った。

「相変わらず単純で自己中心的だけど、ほんのちょっとは兄らしくなったかね」

 親にも妻にもあきれられているらしい自分の父親。サザンカは降って湧いたような父親だという人物に、不信感とか親近感というより(大丈夫かいな、変な大人)と、さめた気持ちになってきた。

 

   14 満開の山茶花なのに

 風花が舞っている鉛色の空の下。

 白・うす桃・赤紫・二重・八重…の山茶花が色鮮やかに咲きほころびている。

 こぼれるように咲いている枝を、サザンカは機械的に剪定バサミで切り取った。せっかくのみごとな花なのに、ばさばさと雑に包み自転車に乗った。サザンカの心も鉛色だ。

(今年は最悪なまま冬休みに突入か。お母さんは病院で正月を迎えるのかなあ…)

 父という人に会ってから一週間たっている。その後会っていない。ほっとするような心配なような。母は平気な顔しているけれど、気掛かりに決まってる。

 病院に着き、いつもの通りにエレベーターに向かった。もう目をつむっても歩ける慣れたコースだ。

 エレベーターが開きサザンカは箱の中に水平移動した。エレベーターのドアが閉ろうとした時、男の人が走ってきた。サザンカは「開」を押し、ドアを開けた。

「すみません」

 入ってきたのは、片目のまわりが紫色に腫れあがり、切れた唇がタラコのようにふくらんでいる男だ。サザンカは目を逸し、ドアの上の点滅する数字を見た。

 四階で降りるとぶきみな男も後に続いた。サザンカは急ぎ足で四〇三号室に向かった。男はついて来る。四〇三号室のドアを開けかけてサザンカはぎょっとした。

(もしかして‥)

 振り返ると、男の人が立ち止まっていて照れくさそうに笑っている。口元が斜めにひきつった。フランケンシュタインがにやついたみたいだ。

(ギャッ!)

 やはり、サザンカの父親という人だった。白髪だらけのぼさぼさ頭は見間違えようがないのに、顔があまりに醜く変形していたのでわからなかった。サザンカは絶望的な気持ちになった。

(この顔でお母さんに会うの?)

 サザンカは自分だけ病室に入るとぎゅっとノブを押さえた。鍵をかけたいがついていない。母が怪訝な顔をした。

「どうしたの?」

 倒れて一ヵ月。せっかく母の頬が心持ちふっくらしてきた気がするのに。そしてまだ自律神経が失調しているとかで呼吸が乱れやすくてまだ退院できないでいるのに。

(青山家の苦労をしょいこんでいるお母さんにまた心配の種を増やして…)

 サザンカは足を引きずるようにしてベッドに近づいた。母が心配そうな顔をした。

「具合が悪いの?」

 サザンカは父という人物が憎らしい。

(あんなヤツ、永遠に消えちゃえッ!)

 しかし、男はドアを開け堂々と入って来てしまった。その顔を見た母が目を見張った。できることなら、サザンカは母と男の間に頑丈なシャッターを降ろしたかった。母は冷たく、

「やっぱり、やりましたね」

と言うと、外の方を向いてしまった。けれど、男はずうずうしく椅子に腰を下ろした。そして、サザンカが抱えている花を見てにっと笑った。

「きれいな山茶花だなあ」

 その細い声があまりにけれんなく素直に響いたので、サザンカははっとして男を見た。父というその男は無邪気な目で山茶花に見とれている。そして、固まっているサザンカと母にぽつりと言った。

「鉄男はさっき自首したよ」

「!」

 母はぎょっとした顔で振り向いた。サザンカは花を落としそうになった。問題の人物は悪びれたふうもなく笑った。

「やっぱり手が出ちゃってゴメン」

 母は大きなため息をついた。ヤツは言い訳がましく言った。

「久しぶりの兄弟ゲンカというのもいいもんだよ。鉄男があんなに殴り返したのは初めてだなあ。それで何でかわからんけど、最後にぼろぼろ泣きやがった。その後、自分から警察へ行くって言ったんだ」

 母の額の縦じわが少しゆるんだ。

「あなたが腕力で引っ張っていったのではないのね」

「当たり前だよ」

 父という人は憤慨した。けれど、すぐにぼさぼさ頭をかいた。

「鉄男が言うことを聞かなかったらそうするつもりだったけど」

 母はやっぱりという顔をし、やけくそに笑った。

「ここまできたら、なるようにしかならないわね」

 父も笑った。

「それでいいんじゃないか。無理にがんばるとどこかにしわ寄せがいってしまう」

 サザンカは父という人を見た。ぶきみな顔も笑うと少し愛嬌がある。それでもサザンカは思わずにはいられない。

(ここにばあちゃんがいなくてよかったこと)

 母がわざとらしく明るく言った。

「青山製菓はますます有名になるわね、また明日の新聞に大きく出ちゃったりして」

 フランケンシュタインのような父も軽口をたたいた。

「跡目争いか、『毒入りシール』の犯人は社長の義弟!と、三段抜きのサービスかも」

「しかも、出所直後の犯行」

 母らしくない冗談だ。サザンカは気持ち悪くなって叫んだ。

「やめてよ、二人とも!」

 父は真面目な顔になってサザンカを見た。

「しょうがないんだよ、覚悟はしておかなくちゃあ。青山家の膿も出すだけ出さないと」

 サザンカは何かを呪いたくなった。

「そんなこと大人の勝手よ。大人が傷つくだけならかまわないけど、サツキはどうなるの! 『毒入りシール』の犯人が刑務所帰りの父親だとわかったら」

 父は急にしゅんとなり肩を落とした。母は平然としている。

 サザンカは、また明日学校へ行ったらまわり中から好奇の目で見られるのだと思った。ほんとはサツキの心配より自分がそんな目に耐えられないのだ。サザンカは花を持ったまま病室を飛び出た。

「待ちなさい、サザンカ!」

 母が叫んだようだけど、サザンカの足は止まらない。

 

   15 いざ! 

 サザンカは例の屋根裏部屋にこもっている。

 あれから一週間。学校からもどると、病院にも行かずここに固まっている。鉄男叔父さんが警察に自首してからの時間はとてつもなくゆっくり流れている。

 けれど、不思議なことに鉄男叔父さんのことは新聞などには出なかった。サザンカは朝一番にチェックしてきたけれど。

 一週間たって気付いたことだけれど、このごろ新聞にはいいニュースが多くなっているような気がする。三十五年間養護学校の卒業生に自作オルゴールを送り続けている匿名の人の記事。高校生が交通事故にあいそうになった小学生を助けた話。お年寄りたちが集まって遊び山を作っている、農業のパワーシリーズ等々。いいニュースを一生懸命見つけ、ていねいにくわしく書いている。漫画入りだったりするからつい全部読んでしまう。タマエさんも新聞を開いている時の顔が和らいでいる。

「私にもやれることがまだたくさんありそうですわ」

なんて言っている。けれど、サザンカは、

(また、いつ青山製菓の悪口を書かれるかわからないわ)

と思い、心を固くして用心せざるを得ない。

 門にマークUが入ってきた。ばあちゃんが降り家に入った。運転手役の正人も車から出て駐車場脇にある紅葉の大木の下へ行った。横に伸びている枝に飛びついたかと思うとあっという間に腕立て逆上がりでかっこよく上がり、燕のように足をぴいんと伸ばして止まっている。

(ううん。しゃくだけど、腕は落ちてないわ)

 サザンカは小さい頃正人と紅葉の木の上で鬼ごっこをしたことを思い出した。気がつくと屋根裏部屋を出、狭い階段を降りていた。

 駐車場に行くと、正人はずっと上の枝にまたがり何か思いにふけっている。サザンカは叫んだ。

「受験生が受験勉強をさぼってる!」

 正人は言い返さず、するすると降りてきた。そして、気軽に言った。

「これからまた警察に面会に行くからサザンも来いよ」

「ええっ!」

 とんでもない。警察で取り調べを受けている叔父さんの顔なんか見たくない。ばあちゃんは毎日行ってるけど。父も毎朝顔を出しているらしい。けれど、サザンカはとてもそんな気になれない。

「いやだね」

 ぴしゃりと断った。すると、正人は真面目な顔で言った。

「じゃあ、サツキを連れていこうかな。その方が叔父さんも喜ぶぞ」

 サザンカは慌てた。

「待ってよ!」

 サツキは自分の父親が自首して警察にいるなんて夢にも思っていないはず。サツキ以外の青山家の暗黙の了解というヤツだ。サザンカはサツキにまだ姉らしいことを―ほんとは従妹だけど―やれてない。何も話せないでいる。サザンカは苦し紛れに言った。

「じゃあ、わたしが面会に行ってやるか。どうせ、暇だから」

 正人がにやりと笑った。サザンカは(やられた!)と思った。ばあちゃんが来るまでに断る口実を見つけなくちゃあ。

 勝手口のドアが開き、サツキがにこにこしながら出てきた。お菓子が仕上がった時の上等の笑顔である。バスケットにクッキーが山盛り入っている。

「きょうは胡桃入りクッキーなの。元気がつく味だよ」

 正人はほっぺたをゆるませてクッキーをつまみ口に放り込んだ。

「ふむふむ」

 正人はまだ呑み込まないうちにまたクッキーをつかんだ。

「香りがよくてコクのある味だ。うん、元気が湧いてきたぞ。あしたの模擬テストはいい線いきそうだ」

 正人は調子がいい。サザンカはクッキーなど食べる気分ではない。

「男のくせにそんなに甘い物食べると、デブになるよ」

 正人はサザンカの嫌味を気にせず、サツキからバスケットを取った。

「これ全部もらっていい? 夜食用にしたいんだ。サツキの手作り菓子を食べるようになってからスナック菓子が口に合わなくなっちゃったよ」

 サツキは細い目を線にして喜んだ。

「まだ十人分くらいあるよ」

 サザンカはいらだった。

(サツキったら、家の経済も考えないで)

 青山製菓の売り上げは『毒入りシール』が新聞に出た時ほどではないけれど、落ち続けている。不況のせいが大きいかもしれないけど。

「お待たせしましたね」

 あったかそうなうす紫色のコートを着たばあちゃんが近づいてきた。正人が後部座席のドアを開けながら如才なく笑った。

「きょうはサザンも行くそうですよ」

 ばあちゃんは一瞬驚いた顔でサザンカを見たが、

「そう」

とだけ言って車に乗った。サツキが聞いた。

「お姉ちゃん、どこ行くの?」

 サザンカは言葉につまった。正人がこたえた。

「お母さんの病院」

 サツキがちょっと顔を傾げて言った。

「あたしもお見舞にいこうっと。しばらく、お母さんの顔見てないから」

 そういえば、計算してみるとサツキはもう一カ月も病院に行ってない。青山家のキッチンはすっかりサツキがとりしきっていて忙しいせいもあるが。まあ、脳天気な性格によるところが大きい。物心つく前から忙しい母より一つ年上のサザンカにつきまとって育ったためもあるだろう。そのサツキが珍しく病院にいく気になってしまった。サザンカはあせった。ばあちゃんに続いて乗り込もうとしている。サザンカは、「わたし、病院に行くのや〜めた」と言おうとした。(本当は警察だけど) そしたら、サツキもやめるに決まってる。その時、正人が何気なく言った。

「病院に寄った後、会社に行く用があるから、家にもどるのは夜になるかもな」

 すると、サツキが困った顔をした。

「ふうん」

 そして、車を降りた。

「夕食作りが間に合わなくなるから、やっぱりやめる」

 サザンカはほっとしてサツキに言った。

「あした学校から帰ったらすぐ二人で自転車で行こうよ。そしたら、早くもどってこれるから」

 サツキは喜んだ。

「じゃあ、お母さんの好きなワインゼリーをこれから作る」

 サザンカはしぶしぶ助手席に乗った。車は行きたくもない警察に向かって発進した。

 

   16 面会

 警察所の面会室。

 冷え冷えとした鉛色の部屋だ。丸いパイプ椅子が一コ置いてあるだけで、余分なものは何もない。隅に看守が木偶のように立っている。

 銀行の窓口みたいなガラス越しの向こうに鉄男叔父さんがいる。これで三度目である、叔父さんに会うのは。

 きょうの叔父さんの目は少し穏やかだ。初めに見た時は恐かったけど。顎に大きなバンドエイドが貼ってある。サザンカの父さんと殴り合った後遺症だろうか。

 叔父さんはサザンカたちの方を見ないで目をそらせている。ばあちゃんが言った。

「青山製菓はお前に任せるよ。ここから出たら好きなようにするといい」

 鉄男叔父さんははっとしてばあちゃんを見た。ばあちゃんはガラスの向こうにいる息子をいつもと変らない顔つきで見た。サザンカは初めての刑務所で(いや、本物の刑務所ではなく、仮の拘置所だということだ)固くなっている。ガラスの向こうは異次元の世界で、空気も成分が違うような気がする。

 ばあちゃんは続けた。

「自首して毒入りシールの責任を取ったお前だから、もう何も言わないで任せる」

 鉄男叔父さんは物言いたそうだが、言葉が出てこないようだ。

「泰子さんも体調がもどりしだい泉のところへ行きたいそうだし、わたしも年だからちょうど良かったよ」

 サザンカは少しも良くない。

 急に現れた父について行くとしたら、青山家を出なければならない。サツキはどうなるだろう。母たちはサツキも一緒にと言ってるけど、そうなったらばあちゃんが淋しくなる。第一、サツキにはちゃんと実の父親、つまり、目の前の人もいるのだし…。

 ごたごたが続いている青山家から出て新しい土地で新しい学校でやり直すのもちょっと興味がある。が、逃げ出すようでくやしくもある。つまり、サザンカはどうしていいか分らないでいる。

 ばあちゃんはすっかり心を決め、さっぱりした顔だけど、叔父さんは苦しそうで何も言えないでいる。

 正人がガラス越しにクッキーの入ったバスケットを見せた。

「これ、サツキが作った胡桃入りクッキー。抜群の味だぜ。食べると元気が出ること請け合い。後で食べとくれ」

と言って隅に控えている看守に渡した。看守は無表情で受け取った。サザンカは正人を見直す気分になった。

(自分の夜食用だと言ってたけど、初めから叔父さんに差し入れするつもりだったんだ)

 バスケットを見た叔父さんの顔が一瞬明るく子どもみたいな表情になった。けれど、すぐ糸が切れた凧のようなはかなげな顔になった。あまりにもさびしそうで、サザンカはつい言ってしまった。

「こんど、サツキを連れてこようか」

 思ってもいない言葉が口から出てしまったのだ。サザンカはすぐに、(しまった!)と後悔した。今はそういうタイミングではない。いくら脳天気なサツキでも死んだはずの父親が刑務所に入っていたのではショックが大きすぎる。

 鉄男叔父さんはぎょっと目を見開き、サザンカに激しく手を振った。

「やめてくれ! それだけは」

 サザンカはほっとした。正人がさり気なく言った。

「サツキが言ってたぜ、またあの叔父さんが料理食べに来てくれないかなあって」

 鉄男叔父さんはきょとんとし、眉と目がハの字になった。正人は友達にでも言うように巻き舌で言った。

「ここんちはみんな忙しそうでサツキの料理をちゃんと味わってくれないからな。天才的な腕なのにさ。それを一番感動して食べてくれたのは、あんたなんだぜ」

 みるみる叔父さんの目に涙があふれてきた。

 つつぅーっと涙の玉がやせこけた頬を伝った。とがった鼻に半透明の鼻水が溜まった。叔父さんは平手で涙と鼻水をこすった。

 気丈なばあちゃんの目がうるんだ。

「とにかく、刑期が終わったらすぐ家にもどって来なさい。青山家は男手がなくてずっと困っているんだから」

 鉄男叔父さんは後ろを向いてしまった。肩を震わせ顔をおおっている。その背中に、ばあちゃんがやわらかく声をかけた。

「また、明日くるよ」

 ばあちゃんを先頭に三人は面会室を出た。

 車はそのまま病院に向かっている。

 サザンカは一週間ぶりだ。ついさっき見た叔父さんの姿に打たれて気持ちが高揚しているのだけれど、病院に近づくにつれ、気が重くなった。

(また、父という人がいるかな?)

 母は口では父にケンカを売るようなことを言うけれど、本心では父に会って喜んでいる。やっぱり父と一緒に住みたいのだな。離婚したわけでもなくて、ただいろいろ事情がありすぎて別れて暮していただけのようなんだもの。

 サザンカは毅然とした社長姿の母が気に入っている。それをすっぱり辞めてしまうなんて。青山家の十年前のごたごたで社長になり、またぶり返しのごたごたで社長を辞める。そして、わがままな父の窯場に行く。サザンカから見ると、母はすごく能力があるのにとても受け身な人生に見える。もったいなさすぎる。

 母も会社に残り、叔父さんもばあちゃんもみんないっしょに仲よく会社をやっていけないものかなあ…。サザンカは自分に都合のいい結末を考え続けた。

 

   17 もうっ!

 病室四〇三号室のドアが目の前にある。

 ばあちゃんは薄紫色のコートを片手に軽くノックをすると、すぐ入って行ってしまった。

 サザンカは入りたくなかったけれど、ここまで来て逃げ出すわけにはいかない。つい、思った。

(正兄はいいなあ…)

 正人は病院の駐車場に停めた車の中で受験勉強をしているはず。来年は二十歳になるから、今度の入試に落ちるわけにはいかないと言っている。今はバイトも社長に返り咲いたばあちゃんの運転手だけにしている。それにしても、小六のサザンカが言うのも何だけど。

(正兄もいいとこある。大人になったなあ!)

 ついさっき、仮拘置所で見た鉄男叔父さんの涙と柔らかくほぐれたばあちゃんの顔は、正人の心遣いがあったからこそと思う。サツキお手製の胡桃入りクッキーであんなにさりげなくサツキの気持ちまで差し入れするなんて、すごい感動の場面だった。

 ところが、仕方なくばあちゃんの陰に隠れるようにして病室に入ったサザンカが、ぎょっと目を見張った。

 母がスーツ姿で立っている。側に、あの父が母の旅行カバンを持って笑っている。ベッドの上もすっかり片付けられている。サザンカはびっくりして思わずばあちゃんの横から顔を突き出し、しゃべってしまった。

「ど、どうしたの? 急に」

 母は黙ってにこやかに笑っている。サザンカはあせった。

「もう、退院なの?」

 母はうなずきもしないで笑っているだけだ。一週間会わないうちにすっかり良くなったのだろうか。それにしても、母は何も言わない。ばあちゃんが椅子に腰を下ろしながら言った。

「心を決めたのですね」

 父が照れ臭そうに言った。

「はい。これから一緒に釜場に行きます」

「ええっ! そんなことって」

 サザンカは叫んだ。社長を辞めたからってこんなに急に父と仲よくなるなんてひどい。普通の家庭の子どもなら悦ばしいことなのに、サザンカはすごく嫌だった。胸がむかむかしてきた。こんなに急にサザンカたちを置いて父のところへ行ってしまうなんて、それはない。

 サザンカはわめきそうになったが、できなかった。だって、大人の三人はとても穏やかな顔をしていたから、サザンカだけ怒るのはひどく場違いだということくらいわかっった。サザンカは怒りのぶつけようがなく、上目遣いで二人をにらんだ。

 ふと、母の目がいたずらっぽく笑った。こんなふうに笑う母も初めて。

「サザンカ、ひっかかったわね」

「…?」

「明日はもどってくるのよ、あなたが一週間もごぶさたしたから言えなかったけど」

 ああ、母の「お返し」だったのか。

 父がつけ足した。

「主治医の許可が下りたんです、外泊していいって。これからなら車で二時間以内に着きます」

 多分、鬼のようにこわばっていた自分の顔が少しずつほぐれていくのがわかった。

(車で二時間だなんて、そんなに近い所にいたんだ)

 母がサザンカの肩を抱くようにして言った。

「サザンカが来るのをずっと待っていたのよ。大黒柱のあなたに断りもなしに大切なことを決めるわけないでしょ」

 サザンカの肩の力がすうっとぬけた。いつもこの手で母に『してやられる』と思いながらも母を許してしまう。

「全くゥ…」

 父は無邪気に笑っている。腕白坊主がそのまま大人になったような笑い顔だ。まだ、目のまわりがどす青くてぶきみ。兄弟仲よく兄弟ゲンカの後遺症を残している。

 白髪混じりの腕白大人なんてかっこ悪い。センスのいいきりっとしたスーツ姿の母とあまり上品ではない青い作業着の父は、とてもアンバランス。でも、なぜかしっくりして見える。悔しいくらいに。

 父がちょっと口ごもりながら言った。

「鉄男はあと一週間であそこを出られるから、その後『佐渡屋』で働くことにさせました」

 ばあちゃんは思い出すような目で言った。

「『佐渡屋』さんというと、老舗の和菓子屋ですね。よく入れたこと」

 父は白髪頭をかいた。

「わたしたち、二人が保証人をやらせてもらいました」

「ああ‥」

 ばあちゃんの体がふらりとしたように見えた。そのばあちゃんに母がかがみこんで言った。

「泉さんが警察でよくとりなしてくれたようですよ。毒入りというシールだけで実害はなかったって」

 母は自分の夫のことを名前で呼んだ。この言い方も初めて聞いた。

 毒の実害はなかったけど(あったら大変!)経済上の負担、つまり売り上げは大きく落ちたはず。でも、この際三人の大人たちはそういうことを問題にしていないように見える。サザンカはこれから先のことが全く見えないけれど、少し肩が軽くなったような気がした。

 父が母のスーツを引っ張ってせかした。

「早く出発しないと、暗くなってしまう。山道だから」

 母は父をしかった。

「自分のことばかり考えている。十年たっても変っていませんね」

 その声は嬉しそうだ。父はまた頭をかいた。母は楽しそうに言った。

「ほんとに学生時代と同じ。成長していませんよ」

 父は口元をとがらせて言った。

「君も変ってないぜ。デザイン科の紅一点、しっかり者でとても同級生だとは思えないぞ」

「ナヌ?」

 サザンカはぽかんと口を開けてしまった。父の方が十才以上年上だと思っていたのに。ばあちゃんが立ち上がった。

「そうと決まったら、早くここを出た方がいいですよ。あそこはカーブが多くて危険だもの」

 父がはっとしてばあちゃんを見た。

「いらっしゃったことがあるんですか!」

 ばあちゃんは聞こえないふりして二人の背を押した。

「気を付けてね、ほんとに」

 すごく心のこもった声だった。つい、サザンカも言ってしまった。

「いってらっしゃい」

 一瞬、父と母がサザンカを見つめ、二人とも目だけでうなずいた。それから、母はゆっくり背を向け一歩一歩踏みしめるようにして病室を出た。父はアッシー君のように嬉しそうに続いた。

 

   18 ふたたび、土蔵から

 冬休み初日、母が退院してきた。

 サザンカは手伝いで荷物運び。結局、母は三ヵ月ちょっと病院にいたから、荷物がたまってしまった。

 母の愛車であるマークUのトランクに最後の大物、冷蔵庫が残っている。まあ、小型ではあるけれど。正人には運転だけしてもらい、帰ってもらった。衣類や洗面道具なんかの細々したものはタマエさんがせっせと運んでいる。

「さてと」

 母がトレーナーの腕をたくし上げた。ピンクのカジュワルパンツもはいている。こんなラフな格好の母を初めて見る。トランクに頭をつっこみ、母は高さ八十センチほどの冷蔵庫の底をつかんで当然という顔でサザンカを見上げた。

「じゃあ、いくわよ」

 サザンカは(冗談でしょ!)と言いたいが、ほかに人手は見当たらない。病室から車までの荷物運びは会社の人達がてきぱきとやってくれた。しかし、家まで運んでくれるというありがたい申し出を、母が固く断ってしまった。そう言えば、サザンカは会社の人が家を訪ねた姿を見たことがない。サザンカはしぶしぶ冷蔵庫に手をかけた。むき出しの金具が見える冷蔵庫の底はいいさわり心地とは言えない。取っ手はガムテープで止めてある。

「いい? まず、ここまでよ」

 母があごでトランクの縁をさした。サザンカは仕方なくうなずき、力を入れた。母が威勢良く掛け声をかけた。

「よいしょっ!」

 うううんしょ!

 重いけど、持ち上がった。学校の机の三つ分くらいかなあ。

「次は地面よ」

 冷蔵庫サマを、元気ばりばり(に見える)母とそうっと地面に下ろした。ほっとする間もなく、母は躊躇なく土蔵を指さした。

「しばらく使わないから、あそこに仕舞いましょう」

「ええっ!」

 かれこれ五十メートルはある。母はサザンカの機嫌など気にしてない。

「若いんだから大丈夫」

 サザンカはぶつくさぼやいた。

「だれのことを言ってるのよ。また、ぶり返しても知らないから」

 母は気にするふうもない。

「二人ともばあちゃんやタマエさんより若い、若い」

「比べる対象が古すぎる!」

 母はサザンカをにらむまねをした。

「あらまあ、そういう失礼な言い方をどこで覚えたのかしら。とは言ってもそれも親の私の責任です。ようやっと退院させてもらったからには、ばっちりと今までの分までちゃんと躾をさせてもらうわね」

 やっぱり母の方が上手だ。仕方なく、サザンカはかがんで冷蔵庫の底をつかんだ。

 土蔵の明かり窓から冬のやわらかい光がさしている。

 薄ぼんやりした空間の中で、古い道具たちがひっそりと息づいている。隅に冷蔵庫を寄せてほっとした時、サザンカは思い出した。

 夏の真っ盛り、屋根裏部屋から見た母の姿。人の目を避けるようにこの土蔵に向かっていたっけ。思えば、それが青山家に起きた数々の事件の始まりだった。

 サザンカは奥に進んだ。その時見たままにいくつもの木箱が佇んでいる。サザンカは大皿の箱をどけ、内裏雛が入っている木箱を引っ張り出した。蓋を開け、二体の内裏雛の後ろからカードを取り出した。ちゃんと「我が娘、サザンカへ」と書かれたままだ。

「さすが、サザンカね」

 すぐ後ろに母がのぞきこんでいる。

「鉄男叔父さんのことを気付いたあなただから、もしかしてと思っていたのよ」

 そう言われてしまうと、サザンカは母を責める気がしなくなってしまう。

(なんで、この内裏雛くらい見せてくれなかったの?

 お父さんのことを教えてくれなかったの?)

と、心の中では繰り返しさけんできたけれど。

 宙ぶらりんのまま、サザンカはカードのやり場に困った。やむなく、箱の中に返そうとした時、母が言った。

「雛ごと、あなたの部屋に持ち帰ってもいいのよ」

 サザンカは母をにらんだ。

「そんなこと、できるわけないじゃない。わたしの分しかないのだから」

 母は動じない。

「もちろん、サツキの分はとりあえず買うわよ」

 サザンカはいやあな気持ちになり、カードを木箱にもどした。

「サツキには家の料理長になってもらってずいぶんとがんばってもらったから奮発したいわ」

 母は何言ってるのだろう。サザンカはむかむかしてきた。

「物やお金で子どもの気持ちを釣るなんて、ばあちゃんの子育ての失敗を繰り返したいんだ」

 母はむっと口をつぐんでサザンカを見つめた。サザンカの口は止まらない。

「わたし、お雛様なんてシュミじゃあないし、それよりもわけわからんものは要らないということ。だれかさんの都合よく大黒柱なんかになってられないわ」

 母は静止画像になってサザンカから目を離さない。サザンカもにらみ続けた。

 どのくらい、経っただろうか。土蔵の外で人声がした。

「こちらですかぁ」

 明るい外の世界からタマエさんがぬっと顔をのぞかせた。

「ご無理なさってません?」

 サザンカと母の間にあった緊張がすばやくどこかにかくれた。母は振り向いた。

「大丈夫よ」

 母はゆっくり扉に向かった。タマエさんは心配そうに顔をつき出してのぞきこんでいる。母の背中はもうしゃきっとしている。

「リハビリのつもりで手足を使った方がいいのよ。もうほとんど片付いたから、タマエさんはサツキとお茶の用意をしてくださいな」

 タマエさんはほっとして息をついた。

「はいはい」

 タマエさんはすぐに背を向け、とことこと勝手口に急いだ。母はサザンカを振り返り笑顔を作った。

「あなたの言い分は当然だわ」

 そんなことを言われても、サザンカは全然嬉しくない。母は社長時代の営業用の顔にもどったような気がする。サザンカはくしゃくしゃして叫んだ。

「釜場にはいつから住むのよ!」

 母はにこやかに答えた。

「できるだけ早く」

 母の目が、(サザンカはどうしたいの?)と言っている。サザンカはつまった。

 

   19 土蔵の中で

「わたしの快気祝いの発送が終わったら、すぐ窯場へ行こうと思っているの」

 ショートカットした母は社長時代よりずっと若々しい。

(まだ父親の本人がきちんとわたしに名乗ってもいないのに)

 サザンカは憤まんはくすぶっているし、外見も中身も変身しつつある母に追い付けなくていらいらした。

 母はにこやかに続けた。

「入院中はずいぶんたくさんの人のお世話になったわ。青山製菓はいろいろとごたごたがあったのに、返ってそのことで励ましてくれて有難かった」

 にらみつけているサザンカに母は如才なく言った。

「ああ、もちろん一番心配をかけたのは、サザンカ、あなたでしょうね」

 母はまたサザンカを持ち上げようとしている。その手には乗らないぞ。

「わたしはどこにも行かない。この家にずっといる!」

 口から出てしまってから、サザンカは自分の本音に気付いた。

 母の笑顔は変らない。

「それでいいと思うわ。サツキもこの家が好きだから、わたしは両方の家に通う。そのうち、鉄男叔父さんもこの家にもどって来るだろうし」

 白々しいほど母は余裕がある。サザンカは母に距離をおいてしゃべる習慣にもどった。

「サツキには、いつお父さんだと教えるのよ」

「そうねえ」

 母は首を傾げた。土蔵の入口から冬の陽射しが届いている。それを背に受けた母の顔は影になっているけれど、サザンカには母の表情がよく読めた。母は少しも迷っていないのだ。サザンカはとげとげしくつぶやいた。

「サツキはずっと仲間外れね、うちの秘密から」

 母は笑って切り返した。

「あら、そんなつもりはないわ。これからお茶を飲むからそこで話してもいいのよ」

 サザンカは慌てた。

「お茶のついでに話すことではないでしょ。わたしがお茶の後できちんとサツキに教えるわ。なにしろ、わたしは『大黒柱』サマですからね」

 こんなにあてつけがましく言うつもりはなかったのに。小学校に入る前からサザンカはサツキの保護者のように面倒をみてきたから(まあそれほどたいしたことではなく、勉強を口喧しく教えてきただけかな。それもあんまり効果ないようだし)サザンカ自身の口からサツキに出生の事実を告げなくてはと思い込んできただけ。母は、サザンカの嫌味をさらっと受け止めた。

「それが一番かも知れないわね。とにかく、お茶をいただきましょう。サツキのアップルパイも久しぶりで嬉しいわ」

 母はやわらかな冬の陽射しに向かって歩き出した。サザンカは土蔵の中で立ちつくした。

(ここまで来たら、真実を告げるしかないのだけど…)

 

   20 サツキに

 雑然としたサツキの部屋。

 ランドセルは床に、襟巻や上着なんかがベッドから垂れ下がっている。

 机の前に、サツキがちょこなんとかしこまり、隣にサザンカがいる。机の上には真新しい算数ドリルが置かれている。今どきの小学校では冬休みにはこの種の宿題は出ないのだが、サツキの成績があんまりなので担任の先生からの特別プレゼントらしい。

 そう言えば、この二学期は家のごたごた続きでサザンカはサツキの勉強どころではなかった。

 サツキは神妙にドリルをめくろうとした。サザンカはその手を鋭く止めた。

「ちょっと、待って!」

 サツキは無邪気にサザンカを見た。筆でさあっと引いたような一重の目は鉄男叔父さん譲りだ。サザンカはごくっと息を呑み込んでから言った。

「言っておきたいことがあるの」

「ふあ〜い」

 サツキの目がとろうんとなった。勉強中、サザンカの言い方が厳しくなるとすぐこの目になる。サザンカはやれやれと思いながら切り出した。

「勉強のことじゃあないの。サツキはずっと前松茸ご飯をご馳走したおじさんのこと、覚えているわね」

 サツキはこくんとうなずいた。少し嬉しそうな顔になった。サザンカは遠くを見ながら言った。

「ずっと先のことだけれど、あの小父さんがもしかしてこの家に来ることになるかも知れない」

 サツキはびょんと体を起こした。

「じゃあ、また松茸ご飯を作ってやる。ああ、でも今は松茸がないからこまったな」

 思った通りの反応だ。サザンカは叱った。

「今すぐだなんて言ってないでしょ。話をよく聞いていないのね」

 サツキはしゅんと小さくなったが、サザンカの次の言葉を期待している。

「小父さんはね、そのうちずっとこの家にすむことになるかもしれないのよ」

 サツキは座ったままの形で大きく跳ね上がった。

「うわあ〜い、やった!」

 脳天気なヤツめと思いながら、サザンカはサツキの肩を押さえた。

「これから言うことはそんなに浮かれた話ではないから、よくお聞きよ」

「はあい」

 サツキはこれっぽっちも悩みのない顔で返事をした。サザンカとしては真実を告げるしかない。

「あたしたちにはお父さんがいるの、死んでしまったと思っていたお父さんがね」

 言ってからサザンカは気がついた。そう言えば、「死んだ」とは聞かされていなかった。物心ついてからはもういなかったし、猛烈に忙しがっていた母にちゃんと尋ねたことはなかった。いったん隠居したばあちゃんは軽々しく話せる「家族」という感じではなかった。サザンカが父は「死んだ」と思い込んでいただけなのだ。どうしてだろう。

 父親がいないという状況は、サザンカにとって「死んだ」か「離婚」しか思いつかない。青山家に嫁いできた母がばあちゃんの跡をついで社長をやっていたのだから、離婚の線は結びつかない。となると、「死」しか残らない。小学生のサザンカに青山家の息子たちのこみ入った事情など思いつくわけがない。

 サツキがまた目を輝かせた。

「ええっ、ほんと! どこにいるの」

「そんなにうれしがることではないの。わたしとあんたは同じお父さんではないから、本当は姉妹でもないんだって」

「へえっ?」

 サツキは目をぱちくりさせ、「わけ、わかんなあい」という顔をしている。サザンカは頭をかきむしってから、サツキの肩に両手を置いた。

「いいこと、気を落とさないでね。あんたを産んだお母さんはわたしのお母さんと違うし、お父さんは生きているの」

 サツキは特別おどろくふうでもなく、ぽつりと言った。

「松茸ご飯を食べてくれたあの小父さんだといいな」

 サザンカはぎょっとした。そこへ、

 トントントン

 ドアがノックされた。サザンカはびくっとした。

 返事もしないうちにドアが開けられた。

 サザンカは仰天して思わず椅子から立ち上がった。ぬっと顔をのぞかせたのは、サザンカの父という人だったから。父は固まっているサザンカにかまわずどんどん入って来た。にこにこしている父の後に母がくっついている。父は照れた様子で言った。

「やあ、こんにちは。サツキちゃんには初めまして」

 サツキはきょとんとしてサザンカを見た。突然のことでサザンカはむっとして黙った。父が白髪頭をかいた。

「ごめん、びっくりさせたかもしれないけれど、私はサツキちゃんの伯父さんだよ」

 母が付け足した。

「それで、実はサザンカのお父さんなの」

 サツキは細い目を見開いてサザンカの父をじっと見た。それから立ち、ぺこんと挨拶した。

「こんにちは、サツキです」

 父はうれしそうにうなずいた。

「目と口元が鉄男そっくりだな」

 サツキは無邪気に聞いた。

「わたしのお父さんはいっしょに来なかったんですか」

 父は詰まった。少ししてからサザンカもはっとするほど真剣な目でサツキを見つめて言った。

「まだしばらくこの家に来れないけれど、そのうち必ず来るからね」

 サツキは嬉しそうに笑った。サザンカがひょうしぬけするほど、あどけない顔だ。母がサツキの肩を抱いて言った。

「サザンカから聞いたかもしれないけれど、サツキを生んでくれた人は死んじゃったの。だから、私がこれからもずっとサツキのお母さんよ、いいかしら?」

 サツキはこくんとうなずいた。別に、驚いた様子もない。黙って珍しそうにサザンカの父を見ている。父は照れながら提案した。

「よかったらこれから晩飯でも食べに行っていろいろと話したいんだけど」

 サツキはぱっと目を輝かせたけれど、すぐ困った顔をした。

「あの、あたし、これからお姉ちゃんに算数を教わらなくちゃあならないんです」

 サザンカはサツキのセーターを引っ張った。

「よけいなことを言わなくていいの!」

 サザンカとしては家族の前でぶりっ子をしたくないだけだった。ところが、父は勘違いして喜んだ。

「勉強を二人でやってるなんて、えらいんだなあ」

 サツキは恥ずかしそうに言った。

「あたしは勉強がすご〜く苦手なんです」

 父は母を見て白髪だらけの頭をぼりぼりかいた。

「実は私もだよ。学生時代、宿題をお母さんからよく見せてもらったもんだよ」

 母は、(よけいなことを)という目で父をにらんだ。サツキはほっとした顔になった。父も安心した様子で言った。

「じゃあ、とにかく、みんなでおいしい物を食べに行こう」

 サザンカはぶすっとしている一方、サツキはもじもじした。母が(なあに?)というふうに首を傾げてサツキを見つめた。

「あのう … きょうのメニューは、カレーとサラダなんです。もうお肉も野菜も買ってしまったし」

 青山製菓の売り上げが落ちてから、サザンカは口やかましくサツキに節約を言ってきたので、のんきなサツキも少しは経済を考えるようになったらしい。

 父は?という顔をした。母が説明した。

「私が入院してから、夕食はずっとサツキが作ってくれているの」

 青山家の役割が理解できた父は顔中しわだらけにして笑った。

「そいつはすごい。私もカレーは大好きだ!」

 母もにこにこして言った。

「じゃあ、きょうはみんなでこれから夕食づくりに取りかかろうか」

 サツキは世の中にこれ以上嬉しいことはないというようないい顔をして笑った。

 サザンカはふてくされた気持ちで外に出た。

 鉛色の空から牡丹雪がひっきりなしに落ちてくる。

 キッチンではみんなでカレー作りにはしゃいでいる。特に、父がサツキのすることなすことに一つ一つ感激している。サツキはそれは嬉しそうにカレーのルー作りから説明している。料理などやったことのないサザンカの出番がない。所在がないので、テーブルに飾る花でも切ってこようとそっと外に出てきたのだ。

 ばあちゃんが駐車場の方からやって来た。軽自動車が門を出ていく。正人だ。このごろはずっと夕食を食べないでまっすぐ帰ってしまう。サザンカは憎まれ口をたたく相手がいなくて寂しいが、しかたがない。正人の受験日が近づいているんだもの。サザンカは、(きょうのばあちゃん、早いのね)と思ったけれど、

「お帰りなさい」

とだけ言った。ばあちゃんはうなずいてから聞いた。

「泉はもう着いているかい」

 ばあちゃんはなぜか父のことを名前で呼ぶ。これはサザンカにとって悪くない言い方だ。「お父さん」などと言われるよりはいい。

 サザンカは、(そうか、ばあちゃんは知ってて早く帰って来たんだ)と気づいた。

「ずっと前にご到着。みんな、キッチンにいるわ」

 サザンカの言い方がそっけなかったせいだろうか。ばあちゃんは不審気にサザンカを見た。

「サザンカはこんな雪の中、何しに外へ出たの」

 サザンカは剪定バサミをばあちゃんに見せた。

「めでたい家族のディナーに花でも飾ろっかなと思って」

 ばあちゃんはサザンカを見つめた。サザンカは間が悪いので誰も踏んでいない白い雪の上に踏み出した。今年は年内にけっこう雪が積もり、花と言ったら山茶花くらいしか咲いていない。毎度お馴染みの山茶花だけれど、仕方がない。サクリサクリと雪を踏みしめているサザンカの背中にばあちゃんが言った。

「サザンカ、お前の名前は泉がつけたんだよ! 厳しい雪の中でもきれいに咲き続けるのは山茶花だけだからって」

 サザンカははっとばあちゃんを振り向いた。ばあちゃんは庭の隅にいらっしゃるお地蔵様のような優しい顔でサザンカを見つめている。

「ほんとにサザンカは、山茶花の花のような子に育ってくれたよ」

 ばあちゃんがこんな言い方をするのは、初めてでサザンカは照れた。

「なんだ、てっきりばあちゃんかと思ってた」

「もちろん、私の大好きな花でもあるからだろうよ」

「泉っていう人、親不孝ばかりでもないんだ」

 ばあちゃんは笑った。

「親不孝のコンコンチキだよ、泉は。けど、あたしが母親失格でお相子なのさ」

 サザンカも笑った。なんだか、少し、軽くなった。実は、ちょっと変わっている自分の名前を、サザンカは気に入っていた。それをつけたのが父だとは… 考えもしなかった。サザンカは顔だけばあちゃんに向けて言った。

「じゃあ、とにかくいいところを切って行くから」

「早く、もどっておいでよ」

「はあい」

 ばあちゃんはサザンカの後ろ姿に笑顔でうなずいてから玄関に向かった。

 サザンカはギシギシと雪を踏みしめながら花の咲いている山茶花に近づいた。堅くてつやつやしている緑の葉に真っ白な牡丹雪が積もっている。その葉蔭から白い山茶花が、芯の方が薄桃色の花びらがこぼれている。サザンカはしみじみ見ながら思った。

(雪の中で咲いている山茶花が一番きれいだわ!

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