サハリン紀行第2部  
  8月24日デミートリィ青年  
 
2:104:00に目が覚めました。その途中で地震の夢を見ました。体がガクガク揺れていて、目が覚めてもやっぱり揺れていました。上段は揺れが大きいのです。
7:30に停車した駅で沢山の人が降りました。(たぶんドゥイモフスコエ)
8:10かみさん起床。交代でトイレに行き、顔を洗います。この列車のトイレは金属製で、比較的綺麗です。しかし足下に雑巾の入ったバケツが置いてあり、まるで物置です。

9:00、相変わらず下のテーブルはオバサンたちが占領しています。食事をとるスペースがないかどうか、かみさんが探索に行きます。そして隣の車両のトイレの前が比較的広いという報告が来ました。列車を縦断してみて、連結部に大きく溝がある車両があって怖かったと言っていました。そうやって苦労して調べてきた場所ですから、多少の問題があってもそこに決定です。
貴重品を身につけ、食料を入れた袋をかかえてトイレ前に行きます。その窓側に棚があって、そこが食卓になります。窓の外の緑を見ながらの立ち食いですが、場所はともかく、ピラフも揚げ物も朝のビールもおいしかったです。
サハリンの原野は比較的小さな灌木の林です。森林というほどの密度ではなく、湿地や沼が多くて草花も多く見られました。

11:15、車掌がシーツを取りに来ました。寝ているかみさんを起こし、枕カバー・シーツ・毛布カバーの3点をはいで渡します。(このシーツ代は別途取られます)列車の中も降りる準備でざわざわし始めました。11:50、ノグリキ駅に着きました。
ぞろぞろと乗客が降りていきます。私たちは急ぐこともないのでゆっくり降りました。周囲は切り開かれた林で、空が広いです。駅舎は大きく古びていてあちこち壊れています。それでも白と緑に塗り分けられてさわやかな印象です。ガラスの外れた扉を押して駅舎内に入ると、それなりに広い空間があり、正面に小さな売店、左手に窓口がありました。売店の左に出口があり、人々はそこから外へ出て行きます。ほとんどの人たちは車の迎えがあり、その他の人たちは乗り合いワゴン車に乗って行きます。そうして次の列車を待つ人たち、駅の表にたむろしている若者たちのほかは私たちだけになりました。
駅前の未舗装の道路に立って眺めると、周囲には土埃にまみれた平屋が並んでいるだけで、大きな建物はありません。道路は茫々たる原野に続いていて、その先に何があるのか分かりません。

ノグリキ駅
空が広い

旅行者のパンフレットには「少数民族ニブヒ族と交流」などと書いてありましたが、どこに行けばその集落があるのかなどという説明などありません。看板や表示のたぐいはまったくないのです。あるのは埃の立つ泥道だけ。
歩いて探せばどこかに見つかるとは思いますが、日差しの強い中、大きな荷物を抱えて歩けば汗まみれになってしまいます。シャワーもない列車旅行では、それは出来ません。駅舎にロッカーはありましたが、これが謎のような仕組みで、10個ほど並んだボタンで暗証番号を作ってロックする方式のようです。しかしそのボタンも欠けていて、扉は歪んでいます。まともに閉まるようには見えません。それにもまして、中をみると泥錆まみれで荷物が置けません。

私たちは何かノグリキについての情報がないかと売店の売り子のまだ若い女性に「ウ・ヴァス・イェスチ・ノグリキ・ギッド?(ノグリキガイドはありませんか?)」と聞いてみましたが、彼女は首を横に振るだけでした。外の風景からして観光地ではないことは一目瞭然ですから、それはそうだろうな、と思います。
さらに問題だったのは時間です。うろうろしている間に1時間近く経ってしまい、帰りの列車まで3時間程度になってしまいました。あてもなくうろついたりすると帰れなくなりそうです。私たちは諦めて昼食をとることにしました。
これが売店
駅に近い長屋のような建物はなにかの売店のようでした。ここで食料が買えるかもしれないと思い、片端から覗いてみます。すると4軒の中の3軒は食料を売っていました。しかしほとんどが住民向けの大ぶりの冷凍食品で、旅行者の弁当になりそうなものは少なかったのです。それでも私たちはすぐ食べられそうな、食パン・ソーセージ・チーズ、それに水のボトルを買いました。駅舎の椅子でそれを食べます。パンとチーズはまあまあの味でした。しかしソーセージは塩っぱかったので、かみさんに「塩分多いから食べない方がいいよ」と差し押さえられてしまいました。大きい(直径6センチ・長さ15センチ)ので捨てるわけにもいきません。
水は数種類の中から「炭酸入りではないもの」と選んだのに、炭酸水でした。

となりの長椅子にはロシア人の子どもたちがいて、3歳くらいの子が袋入りのスナックをばらまいています。それを5歳くらいの兄らしい子がひろっていました。それでもまだばらまくので、兄は弟から袋を取り上げました。すると弟は暴れて泣き出しました。そこへ帰ってきた若い母親が、兄の方を叱ります。どこにでもある風景でした。

食事の後、炭酸水で歯を磨き、白樺林の中で昼寝することにしました。草の上に寝転がると青空に羊雲が流れていきます。日差しは強いけど木陰は涼しく、風も気持ちいいのです。
しばらくすると、数匹の犬たちがやってきて私たちのまわりを駆け回っています。かみさんはソーセージをちぎってみんなやってしまいました。放し飼いの犬たちは痩せていましたが、その表情は平穏で幸せそうでした。

走ってくる黒い子犬
ソーセージを食べる

午後3:30になりました。もう帰りの準備をしなければなりません。真っ先に用意するのは食料です。今夜の分と明日の朝の2食分が必要です。私たちは再度長屋の食料品店に入りました。今度はさっきよく調べなかった一番奥の店で、ここにはご飯と少しのおかずを詰めたランチパックがありました。そのパックと、ピクルス・サラダ2種・鳥もも肉・ビール2缶・水の2リットルボトルです。かなりの荷物になりました。
食料の準備が済んだので、駅舎に入ります。すると駅舎の時計が1時間早い午後4:30を指していました。ドキッとします。列車はモスクワ時間で運行されている、という話を聞いていたのでもしかして、という不安が走ります。あわてて窓口へ行き、チケットを見せながら「グジェー・アバスダール?(乗り遅れたか?)」と聞きますが、職員は首を振って「まだ15分ある」というような事を言いました。ホッとします。

しかし、それから15分たっても搭乗が始まりません。かみさんが不安になって「何時に出発なのか聞いて」と言います。そんなに焦らなくても列車は目の前にあるのに、と思いますが仕方ありません。ホーム(と言っても泥道)を歩いていくと、来たときと同じフルシチョフ車掌がいました。彼女に聞こうとしますが、彼女はこちらがロシア語がさっぱりだということを知っているので首を振ります。すると列車の中から若い職員が降りてきました。車掌は彼に声をかけました。すると彼は私たちに向かって何か言いました。車掌はそれを聞いて吹き出しました。多分「馬鹿」とでも言ったのでしょう。私たちがキョトンとしているので、彼は言葉の問題を即座に理解したようです。そこで彼は落ちている小石を拾って地面に「16:30」と書きました。30分遅れるようです。しかし、そうすると窓口の職員が言ったこととも違うわけで、どうなっているの?と思います。

午後4時を過ぎると、どんどん乗客が集まり始めました。4:30に搭乗開始。
フルシチョフ車掌が改札します。彼女は来るときに私たちのパスポートを見たはずなのに、またも「パースポルト」と要求します。官僚主義です。
私は車両が同じ2号車なので、来たときと同じ1号室なのかと思い「アジーン・カペー?(コンパートメントは1号?)」と聞きました。彼女は「ニェート」と言って指を2本立てました。それで私たちは2号室を目指しました。

扉を開けて左側の上下席が私たちのシートです。しかし荷物を整理する暇もなく、大柄のオバサンがやってきて「席を代わってくれ」と言います。「子どもたちがバラバラの席になってしまう、いっしょの部屋にしたいんだ」と言っているようです。彼女の後ろに、数人のハイティーンくらいの子どもたちがいます。私たちは交換にやぶさかではないのですが、あのフルシチョフが何を言うか分かりません。私は「プラヴァドニーク(車掌)」と応えます。オバサンは分かったようで、子どもたちといっしょに車掌席へ向かいました。
しばらくすると、フルシチョフが途方に暮れたような顔をしながらやってきました。そして私たちの前にデンと座り、「ウーーン」とうなります。笑ってしまいます。私はフルシチョフが気の毒になったので、「チェンジング・シート、OK!」と指でOKサインを出しました。するとコンパートメントの外にいた子どもたちがワッと喜びの叫び声をあげ、「サンキュー!」と言いました。

そう言うことになったので、よっこらしょと腰を上げ、荷物を抱えて隣の3号室に移動します。すると、そこには二人の大柄な青年がいました。片方はあか抜けたスポーツシャツの白人男性で、いかにも西側(この言葉も死語か?)のサラリーマンっぽく見えます。細い銀の眼鏡もインテリ風です。もう一人はロシアの青年のようでした。
「ズドラストビッチェ」と挨拶してから、眼鏡の男性に話しかけてみました。かなり流ちょうな英語を話します。会話の中で、二人とも技術者でスポーツが好き、眼鏡のほうはジョギング・水泳・テニスが日課で、ロシア青年はボディビルだということが分かりました。ほとんどの会話は眼鏡男性と交わし、ロシア青年の言葉は眼鏡男性が英語に翻訳します。
こちらの自己紹介もさせられました。佐賀県の説明までさせられたので、「サムライの町で、サムライ・マスト・ハラキリ!と教えているんだ」とかなりヤケッパチの話をしてしまいました。
 車窓の眺め
西を向いている窓からは傾きかけた太陽が覗き込み、すごいまぶしさです。そちらに気を取られていると、二人はお互いどうしの話に入り込んでしまいました。専門分野の話らしく、身振り手振りに指まで加えて細かい話をしているようです。こちらは孤立してしまいました。でも英会話を長く続けるのは疲れるので、これはこれでホッとします。
しばらくコンパートメントを出て、廊下側の窓から外を眺めます。白樺や杉・桧、その他知らない雑木が延々と続く風景は単調ですが見飽きることはありません。30分ほどして戻ると、二人の会話はまだ盛り上がっていたので驚きです。

6時頃、来るときと同じ場所で夕食にしました。それから私は、いつウォッカを飲もうか考えていました。最初、テーブルの上に水のボトルといっしょにウォッカの瓶を置いていたのですが、パトロールの警備員に「そんなもの出すな!」と怒鳴られてしまい、あわてて座席の下の荷物入れに放り込んでいました。
「酒は禁止されているよ」と眼鏡青年は言います。「私は大酒飲みなんだよ、君たちは?」と聞くと、二人とも「一滴も飲まない」と言い、私をちょっと馬鹿にしたような目で見ました。
「ふん、酒飲みで悪かったな、スポーツマンはアルコールなしでもハイになれるだろうけど、こちとらは酒が必要なんだよ」と私は心の中でうそぶきました。
8時ころになって、そのウォッカの瓶を取り出しました。そして500ccの水用ペットボトルに半分ほどウォッカを入れ、給湯所のお湯をいっぱいに加えて戻りました。これをチビチビと飲みますと、なかなかいけるのです。焼酎よりも甘い感じがします。
一つには酒をあおって度胸をつけ、大胆に英会話をしてしまおうという計算もありました。それなのにやっぱり二人はお互いの話を続けています。しかし、もう私にはそれもどうでもよくなりました。

左がドイツ青年・右はデミートリィ青年

少しするとコンパートメントに髭の男性が顔を出し、眼鏡男性を呼びました。眼鏡氏は髭氏について出ていき、そのまま帰ってきませんでした。
寂しそうなロシア青年に私は話しかけました。彼は意外にかなり英語が達者で、私よりましなくらいでした。そしてハルピンに行くこと、ビッグ・ビジネスで金をもうけて家を建てたいこと、など話しました。しかしまだ心を許した様子ではありません。やがてしばらく沈黙が続きました。私はここで奥の手を出しました。「五木の子守歌」を歌ったのです。

ロシア青年は静かに聞いていて、歌い終わると「ビューティフル」と言いました。「ジャパニーズ・ララバイだ、ロシアン・ララバイを歌ってくれないか?」と言いますが、彼は首を振りました。そのかわりに「ぼくはスティングやエルトン・ジョンが好きだ」と応えました。それから話は俄然盛り上がりました。
二人で「イングリッシュマン・イン・ニューヨーク」を合唱し、「クロコダイル・ロック」を歌い、「ユア・ソング」を合唱しました。酒を飲んでいるのは私だけでしたが、気分はもう宴会です。彼は恋人の写真を出して自慢しました。上にいたかみさんがそれを見て「優しい、母親的な人ね」と言い、私がそれを「女神みたいだって」と通訳すると、顔をくしゃくしゃにして喜びました。彼はノートを出し、「日本語で『I love you』と書いてくれ」と言います。彼は世界の愛の言葉をコレクションしているそうでした。ロマンチックな野郎です。私は「私はあなたを愛しています」と日本語とローマ字で書きました。かわりにかみさんがノートを出して彼の名前を書かせました。彼は自分をデミートリィと名乗りました。
「その名前はドストエフスキーの作品の中で見た、『カラマーゾフ・ブラザース』だ」私がそう言うと、かみさんが「ショーロホフ!」と叫びました。「そうだな、『サイレント・ドン』にも出てきたっけ」私は適当に応えましたが、実は『静かなドン』の主人公はグレゴーリィで、デミトーリィという名前の登場人物があったかどうか思い出せませんでした。そんないいかげんな話も含みつつ、歌ったり笑ったりして消灯時間になってしまいました。後から考えるとよく苦情がこなかったものです。

赤線がサイン・青線がロシア語のI LOVE YOU

私は消灯と同時に爆睡してしまいました。

 

 
  8月25日(月)謎の花束  
  翌朝、5:20に一度起き、トイレに行きました。完全に二日酔いです。足下がぐらぐらします。窓の外はすでに光にあふれ、上天気です。
7:30、みんな起き出しました。すぐに車掌が来てシーツをはいで渡します。顔を洗っているともうユジノサハリンスクに入りました。駅への到着は8:10でした。同室の二人は早々と支度を済ませて降りていきました。グレゴーリィ君とは「あなたに会えて楽しかった」と言い合って、握手して別れました。眼鏡さんの方は、昨夜グレゴーリィから「彼はドイツ人だそうだけど、ロシア語も英語も完璧だね」と聞いていたので「CIAじゃないの?」と私が応えた経緯もあり、「アウフビーダーゼン!」と言いました。眼鏡氏は苦笑いのような妙な顔をしていました。ドイツスパイならCIAじゃありませんが・・・

乗客の最後に近く、列車を降りました。ひとまずロビーに腰を下ろして朝の駅を見回します。雨の日に来た時より活気があります。どこからか鳴き声がして、椅子の下を覗くと黒い子猫がいました。夕べの残り物のチーズをあげると、勢い良く食べましたが歯に引っかかってもがいていました。

駅舎を出て、レーニン像を左手に見ながらロータリーを横切り、コムニステーチェスキー通りを北へ歩きます。なんとなく町の様子が変です。まず、一緒に道を歩いていく人々、特に女性が手に手に花を持っています。ユジノサハリンスクが70年代のサンフランシスコになったみたいです。

花を持って歩く女性たち
それらの人々がどうするのか、サハリン州行政府の前に来たら分かりました。そこには花の祭壇があり、人々は持ってきた一本づつを献花していくのです。もう大きな花の山が二つ出来ていました。
「いったいどういう意味だろう?」とかみさんは言います。私は周囲を見渡して、「旗が半旗になってる。街路灯には黒いリボンがかかってる。誰か偉い人が死んだんだろうね」と言いました。この推測は当たっていて、しかももっと重大な意味があったのだということは後で分かりました。

歩いていて喉が渇いたのでチェーホフ劇場の前でベンチに座り、水を飲みました。ベンチの周囲には酒瓶が散乱していて、昨夜の宴会が偲ばれます。町中の至る所に酒瓶が落ちている町というのもロシアらしいのです。
さらに歩いて、ロシア教会を通り過ぎ、終戦記念碑まで来てしまいました。おかげで30分以上かかりました。
引き返して教会を覗くと、ここでも月曜の早朝なのにミサが行われていました。コムソモールスカヤ通りを横切り、かみさんはアイスクリーム屋で高いアイス(300ルーブリ)を一本買いました。
ホテルに着くと、受付には前の人と体格はそっくりだけど顔が少し違う女性が座っていました。宿泊客であることを証明するのが大変です。いろいろ説明して、最後にバウチャーのコピーを見せるともう一人の女性と「うちの客だ」と頷き合い、ツインルームの鍵をくれました。
部屋に入り、アイスクリームと残り物で朝食にしました。その後、風呂に入って洗濯して昼寝しました。

最上階からの眺め
ビール「ピット」「グロッサー」とウォッカ「オストロフ」

この日と明日は自由行動です。とはいえ、格別観光に行く予定もなし、サハリンの休日をぶらぶら過ごすことにしています。
午後1:40、昼食兼買い物に出ました。一昨日の夜からジャンクものばかり食べているので、少しまともなものにしたいという、かみさんと意見が一致します。高いけどまともなものが食える「日本みたい」に行きました。入ってみるとこの店は、昼間はなんと回転寿司なのでした。
それはそれで何の文句もなく、さっそくビールを飲みつつ握り4品とビビンバを注文しました。しかし、握りは流れて来る途中で、シメサバを隣の客に取られてしまいました。

少なくともこの店は目の前で職人が握っていて、海外でよく見る冷凍物を解凍しただけの握りではありません。サバを再注文し、ビビンバを食べて、店員のお兄さんと記念写真を撮りました。このお兄さんはかみさんが歯磨きしている間に隣の客の食器を載せたお盆を落として大惨事になっていました。

食事の後、午後3時に勝利大通りを駅側に下ってドムトルゴーウリ百貨店を目指します。日差しが強いので途中の公園で休憩しました。この時、一緒のベンチに座っていたのは高校生ぐらいの不良少年たちで、大柄の男子はスキンヘッド、小柄の女性は厚化粧でした。でも日本のヤンキーみたいに凄みはなく、なんとなく可愛いのでした。
現金もだいぶ少なくなったので、今夜の食事用に百貨店でサラダ3種とビールを買いました。

 百貨店の隣りの公園

この後は、日本領土時代の遺物を使った郷土博物館でしばらく休憩し、遊ぶ子どもたちを見ていました。

郷土博物館のベンチ・大砲もある
玄関の狛犬をさわる子どもたち

それから午後4:20、ホテルへ帰り、洗濯してビールを飲みました。夕食は7:30、就寝は10:30でした。

 
  8月26日(火)ボルシチを食べに  
  サハリン滞在最後の日。でもやっぱり何の予定もありません。決まっていることといえば、おみやげを買うことだけです。
5:30に一度起き、7時頃に起床しました。かみさんは7:20起床。
空は曇り。テレビをつけてみるとNHKの衛星放送が映ります。
夕べも街のあちこちでピーピーとかウィウィウィとか音が鳴り続けていました。ホテルの窓から観察していると、どうやらあの音は車につけられた警報装置の鳴る音だったようです。車に人が近づくと自動的に警報が鳴るのです。車が貴重品であり、盗難も多いのでしょう。ひっきりなしに聞かされる方は迷惑千万です。

8:00に朝食に降ります。しかし怖れていたことが起こりました。大勢の日本人ツアー客がいて、大混乱になっていたのです。
「なんでこんな部屋しかないの」「入れないじゃないか!」若い男性ツアコンに向かって、オジサン・オバサンたちが怒っています。ツアコンは汗だくで、
「食堂が狭いのでお部屋で食べてください、朝食は運ばせます!」といちいち頼んでいました。私もそうしてもらおうかな、と思っていると、かみさんがさっさと空いている席を確保してしまいました。
朝食の中身は23日のものとほとんど同じでしたが、メインの肉の皿が付きました。

10:20、散歩しつつロシア料理店「スラビヤンカ」を目指します。ロシアに来たからには、ぜひともボルシチを食べたいからです。
コムニステーチェスキー通りを駅の方へ下ります。チェーホフ劇場の向かいから右へ折れ、ジェルジンスキー通りへ入りました。この突き当たりのサハリンスカヤ通りに「スラビヤンカ」はあるはずでした。

道路のあちこちに穴があり、周囲には瓦礫の山があって、まるでバリケードのように道を塞いでいる。そんな所もざらにある。

ところが、それらしい場所に来ても何も見あたりません。路地裏まで探しましたが見つかりません。3組の現地人を呼び止めて訊ねましたが、誰も知りませんでした。
最後に、日本語を少し話す若い母親(夫が日本人だそう)に教えられた場所に行くと、そこはさっき来たジェルジンスキー通りで、元レストラン「飛鳥」があった場所のようです。そこは大きな「ホリディ・パレス」というレジャーセンターに改造されていて、中にはゲームセンターなどがありました。私たちは「レストラン」の看板があるコーナーに入りました。そこは韓国レストランでした。

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ホリディ・パレス
PECTPAHと書いてレストランです
ロシアで韓国料理

ボルシチを食べる計画は頓挫しましたが、もう12時に近かったのでここで昼食にしました。内容は、イカの炒め物・豆腐・昆布の佃煮の3品に、ライスとビールでした。
ウェイトレスはロシア人の若い美女たちです。写真を撮りたかったのですが、どうも気後れしてしまって出来ませんでした。
後で気づいたのですが、この建物の2階にロシア料理店がありました。スラビヤンカはここに移転したのかな?と思います。
12:50、食事を終えてまたドムトルゴーウリ百貨店に向かい、明日の朝食用にピラフ類2個、ビールなどを買いました。それから高いので敬遠していたマトリョーシカを買いました。2000ルーブリでした。(ロシアの貨幣価値から考えると、これは2万円くらいの値段でしょう)
帰り道、曇り空からポツポツと雨が降り出し、やがて本降りになりました。かみさんの小さな折り畳み傘を差しましたが、周囲のサハリンっ子は悠然と歩いていました。

ころでサハリンの男性の歩き方は独特です。足から先に出て、上半身が遅れて着いていく感じです。「どうしてああなるのかな?」と言うと、かみさんが「徴兵制のある国では、あんな歩き方になるよ。軍隊式なんでしょう」と卓見を聞かせてくれました。
女性の方は、若ければみんなオシャレでキュートです。しかし中年になるとみんな太って、顔もジャガイモみたいになってしまいます。スマートなオバサンは珍しい。
街を歩けば男女とも、見上げるような大きな人が目に付きます。川合俊一や大林素子がざらにいるという感じでしょうか。しかし同じくらいに小さな男女も目に入ります。アリオナさんもハイヒールを履いているから目立たないけど、150センチちょっとでしょう。そしてほとんどが170センチ前後の中位の身長です。
 
いでに言うと、古い日本車が多く運転は概して乱暴です。しかし歩行者を見ると多くの車が停まってくれます。信号や歩道がない道が多いので、そうしたマナーは必要なのでしょう。
買い物をして感じるのは「消費税がないって、こんなに快適なの?」という事です。小銭なんかほとんどいりません。あんなものに慣らされたくないと思います。

この日の夕食は、元アスカにあったロシアレストランに決めていたので、午後5時に出かけます。30分歩いて行ったのに、なんとその店は休みでした。むかつきます。
今度はホテルから遠くない場所ということで、向かい側のガガーリン・ホテルのレストランに行くことにしました。ついでにまた百貨店に寄って明日の朝食用にカップヌードルを買いました。
こちらのカップ類は面白いことに、円筒形のカップはライス系で、麺類は四角いカップなのでした。

左の「PAMEH」がラーメン。青海苔をふりかけた塩味のラーメン。

右の赤いパッケージは「コチジャンラーメン」。韓国風の真っ赤な辛子麺でした。

上の白い円筒カップはミルクお粥でした。

午後6時、ガガーリン公園の中のレストランに来ました。しかし表示を見るとオープンは7時です。もう歩き回るのはいやなので、店頭のベンチで開店を待つことにします。すると怪しいオジサンがやってきてドアをガタガタさせたり、何かブツブツ言ったりしていました。そしてこちらを向いて「まだ開かないのかねえ」と言うようなことを話しかけるので、英語で「1時間ありますよ」と応えると黙って去っていきました。

7時ぴったりにレストランが開きました。一緒に入った家族連れが入店を断られていたので、一瞬予約制なのか?と思いましたが、私たちはすぐに入れました。ここで、
ビール1本・サラダ・ボルシチ・寿司セット・魚介類のロシア風グラタンを頼みました。
パンは食べ放題なので、サラダでパンを食べ、ボルシチを飲んだら満腹に近くなりました。グラタンはふうふう言いながら食べました。サハリンに来て初めてタラフク食べたなあ、と感じました。


ちなみに寿司は冷凍物、ボルシチはもっとシチューに近い「肉や野菜の煮込み」なのかと思ったら、挽肉が入っている程度の割合あっさりしたスープでした。トマトペースの赤いスープに白いクリームをたらして食べるところがオシャレです。
この日は明日の帰国に備えて早く寝ました。8時ころ、かみさんが表の犬にチキンの骨をやりに出ました。

 

 
  8月27日(水)帰国  
  これ以降は蛇足ですので、簡単に経過を書いておきます。
6:45起床。
サハリン弁当とカップ麺、ビール・紅茶で朝食。
7:25、ロビーへ降りる。すぐアリオナさん来る。ワゴン車でコルサコフへ。町中パトカーが駆け回り、交差点ごとに警官が立っている、ものものしい警戒。
アリオナさんこう言う。
「知っていますか?サハリン州知事がヘリコプター事故で亡くなったんです。今日、葬式があるので、プーチン大統領がやってきます。それで警戒が厳しいのです」
これで州庁舎の花壇の謎が解けました。しかしこの後、日本に帰ってからあるテレビで、
「州知事は一時行方不明になっていて、それをロシア第一の超能力者グレゴリィ・グラバヴォイ氏が霊視し、ヘリの墜落現場を発見した」のだという裏話まで分かりました。

8:20、コルサコフ着。すぐに税関を通過。アインス宗谷に移動。前と同じコーナーを占領。
10:10、出航。11:30、百円ビールで宴会。丸谷才一「天空飛行」読了。
12:10、弁当くる。同じケースだが「パン弁当」になっていて、中身はサンドイッチ。

午後2:10(日本時間)、稚内着。フェリーポートから歩いて市内へ行き、北海道銀行でドルを円に両替。
午後3:10、宗谷パレスへ電話して迎えに来てもらう。ホテルで温泉に入り、ビールを飲む。
6時、タラバガニ付きの夕食をいただく。9時就寝。

8月28日(木)
6時起床。交代で温泉へ。
7時、着替えて海を見に行く。

宗谷岬西岸の漁港
砂利道にヒトデが・・・

7:20朝食。9:20、チェックアウト。防波堤ドームへ送ってもらう。
10時、「北市場・夢広場」へ。カンカイなど土産物を購入。

稚内駅北口「北市場・夢広場」
蟹が並ぶ店内

 大好物のカンカイ(コマイ)

11:20、「タカララーメン」に入り、昼食。徳光アナの写真あり。

「うまい」という評判のラーメン専門店
たしかにそれなりの味でした

12:40、エアポートバスで稚内空港へ。午後1:40、全日空572便で帰宅。

サハリン、決してお奨めではないのですが、北海道のすぐ側にヨーロッパがある、という驚きは感じられます。稚内直通往復便がとれるなら、行ってみる価値はあります。

 

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