ブルースは文字通りアメリカのルーツ音楽だ
それは当然、現代ポピュラー音楽のルーツでもある
次で触れるが、ブルースはアメリカ先住民とアフリカンの共同制作であると思われる。
若手ブルースマン、オル・ダラの証言によると、
「ブルースは先住民の女性の歌だったんだ」
「”ブルース”はネイティブ・アメリカン音楽のアフリカンによる解釈なんだよ。
特にミシシッピにおいて、わたしたちの中にはネイティブ・アメリカンの血が流れている。
本当のアフリカンの音楽というのは、ブルースとは全然違うと思う。」
(olu dara interview 2001『ブルース&ソウル・レコーズ』43)
ブルースの原型はミシシッピ流域先住民チョクトー族の女性の歌だったらしい
ミシシッピは広大な地域であるため、これは断言できない。またチョクトーにもいろんな支族がある。しかしブルースが「インディアン」音楽であるという推測はたとえば「アンデス音楽」からも妥当だと思われる。
古いブルースはすべて女性の気持ちを女性が歌うものだった
だから最初の商業的なブルースは「レディ・ブルース」という形になった
これはネットからの引用。出典未詳。
そのスターはマ・レイニーやベッシー・スミスという女性シンガーだ
ベッシー・スミスは「ブルースの女王」と呼ばれる。淡谷のり子はその剽窃である。
この地域ではフレンチ系黒人(クレオール)たちが活発な音楽活動をしていた
イギリス系の黒人奴隷たちは楽器はおろか、歌を唄うことさえ禁じられていた。ミシシッピはフランス系の植民地だったため、その「混血児」たちはおおらかに育てられたらしい。
彼らのビッグ・バンドとブルースが結びついてジャズが生まれた
クレオールたちは、その白人の父親たちが戦争の時に使った軍楽隊の楽器を譲り受けたと言われる。ネットからの引用。出典未詳。
ミシシッピ中流域では男性によるフォーク・ブルースも成長していった
代表的なフォーク・ブルース・シンガーはチャーリー・パットンやサン・ハウスだ
フォーク・ブルースは無数のプレイヤーと歌を持っていて、とてもそれを網羅することは不可能だ。
1930年代になってフォーク・ブルースを集大成したのが
伝説的なブルースマン、ロバート・ジョンソンだ
超絶技巧のギタリスト、という高名が先行しているロバートだが、実際は先人のテクニックを忠実に再現しているだけだという話もある。しかしそうした名人芸の多くは盲目のギタリストたちが開発したもので、目明きのロバートが演奏したところに驚きがあったのだろう。
彼のブルースの中にはロックに成長するブギー、
スライド、スローブルースなどすべてがあった
ロバートのスライドギターのうち、スロー系を引き継いだのがマディで、ブギー系を引き継いだのがエルモア・ジェイムズといえるだろう。両方をこなしたブルースマンはロバートの義理の息子ロバート・ジュニア・ロックウッド くらいで他にはいないようだ。
ブルースはニューヨークやシカゴで洗練されたシティ・ブルースになった
ニューヨークではT・ボーン・ウォーカー(流れる写真)、シカゴではビッグ・ビル・ブルンジーが代表といえるだろう。二人のブルースはこ綺麗だが、魂を揺さぶるインパクトには欠ける。
そこにエレキギター・バンド形式でデルタ・ブルースをやる男が現れた
シカゴ・ブルースの王様マディ・ウォーターズだ
マディは最初はシティ・ブルース・スタイルで演奏したが全くうけなかった。チェス兄弟に薦められ、「色物」のつもりで演奏したデルタ・スタイルが思いがけず爆発的なヒットになった。それが「I
can't be sutisfied」と「Long distance call」のカップリング・シングルだ。マディの偉いところはデルタ・スタイルをひきずりつつ、色んな人の助けを借りて新しい時代のR&Bスタイルを育て上げた点だろう。たぶん彼にもゴスペル体験があって、それとブルースを結びつけるアイデアがあったのだと思う。また、仲間を見かけるとすぐさま「飯は食ったかい、いっしょにどうだ?」などと声をかける親分肌もマディの本来の持ち味だったのだろう。
シカゴにはもう一人の大物ハウリン・ウルフやエルモア・ジェイムズもいた
ウルフもデルタ・スタイルを新しい時代に引き継いだ功労者だが、マディと違って人間嫌いで気難しい人だったとされている。しかし彼と親しかった人たちに言わせるとそれは彼がシャイだったための誤解らしい。
エルモアは心臓が弱く、自分が短命だということを自覚していた。だからなのか、彼の歌は全て命を削るような絶唱であり、一度聞いたら忘れられない強烈なインパクトを持っている。
マディの周囲にいた、バンドマンたちもそれぞれが活躍した
こうしてシカゴはブルース帝国の首都になった
ここでいうメンバーは、リトル・ウォルター、ジミー・ロジャース、アール・フッカー、バディ・ガイなど枚挙にいとまがない。このほかにもシカゴにはサニー・ボーイ・ウィリアムスン二世、ロバート・ジュニア・ロックウッド、J・B・レノアー、オーティス・ラッシュ、マジック・サムなど錚々たるメンバーがひしめいていた。
テキサスにはライトニン・ホプキンスがいた
テキサスにはシカゴとは別系統のミシシッピ・ブルースが移植されていた。よりカントリー色が強く、ダーティでロックっぽい。サム・”ライトニン”・ホプキンスは本物の不良で、投獄経験もある。だから歌の迫力も本物である。このライトニン=稲妻というニックネームは相棒のピアニスト、ウィルスン・”サンダー”・スミスの仇名からつけられたらしい。
ブルースはR&Bとロックを後継者に残した
ビートルズやストーンズはニューヨークからリバプールへ流れてきたブルースに心を奪われ、それをコピーした。アメリカ白人のような偏見のないイギリス青年たちの「ブルース」がブリティッシュ・ロックになった。宇多田ヒカルも浜崎あゆみもその音楽のベースはR&Bだ。
しかしあの時代のブルースは二度とよみがえらない
本物のブルースはインディアン=アメリカ先住民の悲哀と奴隷にされた黒人の怒りなしには成立しなかっただろう。それに似たものは作れるかもしれないが、本物はもう成立しない。それはいいことだと思うしかない。
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