アーサー・ラッカム
Arthur Rackham
(1867-1939)

史上最高の絵本画家という名誉をエドマンド・デュラックと分けあう人物。
シティ・オブ・ロンドンの貧しい家庭で、6人の子どもの一人として生を受ける。体が弱く小さく醜い子どもだったが、早くから風刺漫画に才能を表わした。療養のためにオーストラリアに送られてからランベス美術学校の夜間部に通う。ここで彼はチャールズ・シャノン、チャールズ・リッケッツの二人に出会う。彼らはお互いに大きな影響を与えあったようである。
青年になったラッカムは昼間はウエストミンスター保険会社の事務員として働き、夜は展覧会用の絵や雑誌のイラストを描いて過ごした。そして1892年(25歳)までには独立したイラストレーターとなった。最初は雑誌のイラストが主で、「リップ・ヴァン・ウィンクル」(1905)の色刷り挿絵を担当、翌年「ピーター・パン」(1906)を手がけ、後者は高い評価を得た。そしてR・H・バラムの「インゴルズビィ物語」(1898)でようやく大きな成功を得た。以後ラッカムは絵本の大家として晩年まで衰えることなく作品を発表し続け、後世に巨大な影響を与えた。
彼は貧弱な肉体の持ち主だったが、かわりに強靱な意志を持っていた。既製の絵に満足せず東洋の版画の技法を取り入れたり、北欧の荒々しいタッチを研究して自分のものにした。その反面気が小さく、ライバルのデュラックを常に警戒し、彼の記事をすべてスクラップしていた。また絶えず画廊に作品を展示し続け、正当画家としての地位を得るべく頑張ったが、ついにアカデミーの正式会員にはなれなかった。
晩年にシェークスピアの作品やクリスティーナ・ロゼッティの「妖魔の市」(1933)の挿絵を手掛け、そこでも新たな境地を開拓し絶賛を浴びた。特にアメリカでは偉大な巨匠として孤高の位置を獲得した。しかし本国イギリスでは次第に新たな商業美術の波にその座を追われかけ、かろうじて第二次世界大戦の前夜に生涯を閉じた。

シェイクスピア「真夏の夜の夢」挿絵 (1908)

J・M・バリー作「ケンジントン・ガーデンのピーターパン」挿絵 (1907)

ワーグナー「ラインの黄金とワルキューレ」挿絵 (1910)

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