46 生き物と食べ物

 最近、新鮮な海の幸をたくさん送っていただく機会に何度か恵まれた。
一度は有頭えび。発泡スチロールの大きな箱を開けると、いっぱい詰まったおがくずの中に大きい海老がたくさん入っている。なんて豪華!しかし、海老っておいしい食材としか考えていなかったが、ちゃんと頭がついた海老ってなんだか威圧感が。う〜ん、もう死んじゃってるにせよ首をちぎるの残酷でいやだなあ・・。でもフライにしたらおいしいんだよなあ、とまじまじ海老たちを見つめていると、グッドタイミングで友人が遊びに来た。海老を半分お土産にあげるから、ということで頭をとってもらうことにした。友人が海老の頭をとっていくのを恐る恐る覗き込んでいると、死んでると思っていた海老がぴくっと・・。「ぎゃー」。生きてる海老の首をちぎってたのかあ。

 もう一度は大蛤。やはり大きな発泡スチロールの箱を開けるとカニのゆでたのや、白海老のむき身のほかにビニール袋に大蛤が6つも入っている。こりゃすごい!こんな大きなハマグリ見たことないなあと感心しつつ、まずは塩水につけると6つの大蛤から一斉に「ひゃあああ」というような音が響き渡った。「やっと息がつけた」という悲鳴のようで、思わず後ずさってしまった。結局海老はフライにして、蛤は焼いて開いたところにお醤油とお酒を垂らして、美味しく美味しくいただいてしまったのだが、海老や蛤を殺して食べた、という罪悪感のようなものに襲われてしばらく落ち込んだのだった。

 いつもスーパーでは、頭や内臓を取り除いたり切り身にしたりして、新鮮だが既に「食材」と化した魚介類にしか接していないから、それらを殺して食べているという厳粛な事実から目をそらしていたけれど、いつだって自分が生き延びるために他の生物の命を奪っていたんだなあ。豚肉や牛肉だって店頭に並んでいるのは薄くスライスされてきれいに盛りつけられた完璧な「食材」だが、どこかでだれかが牛や豚を育て上げ成長すると殺して加工するというつらい大変な作業をやってくれていたんだな、と深く頭を垂れたのだった。

 曾野綾子さんの小説に「庭で飼っていた鶏を絞めて羽をむしって料理するのを子供に見せることで、命の尊さを教えることができる」というようなセリフが出てきた記憶があるが、本当にそうかもしれない。自分はまったく手を汚さず、命を奪う場面から目をそらしているから、現代人は却って命の尊さがわからなくなっているのかもしれない。

 昔「野生の王国」というTV番組があってよく見たが、30分番組で必ず一度は弱肉強食のシーンが出てきたものだ。番組は子鹿を襲うライオンにも、食べられてしまう子鹿にも肩入れせず、ただ淡々と自然界の厳粛な事実として描き出していたのが強く印象に残っている。「ああ、残酷〜」などと脳天気な事を言える立場ではなかったのだ。人間はそういう自然界の食物連鎖の頂点で、傲慢にもありとあらゆる生物の命を奪いつくして生きているのだということをしっかり自覚しなければいけないのだ。生きた海老や蛤をいただいたことで、めずらしく「命」について思いを巡らせたたのだった。これからもっと感謝してお肉やお魚を食べないと。

2003.7.17