18 花束

 かなり以前、某美人女優がインタビューで「一人暮らしの女は、恋人と花を欠かしたら終わりね。」とアンニュイな表情で語っていた。まだ20代だった私は、ふーむなるほどそうなのかと感心し、恋人はともかく花くらいはいつもきれいに飾っておくようにしよう、と心に刻んだものだが。現実はなかなかきびしくて、花が大好きな私でさえ、いつもなんだかんだと作曲の締め切りに追われていると、食べ物のことは考えても花を飾るなんてどうでもよくなってくる。文字通り花よりだんごというか・・。花を飾るというのは心に(時間にも)余裕があってこそ出来ることなのとつくづく思う。

 そんな我が家でも、時たま家中花束でいっぱいになることがある。演奏会の直後だ。演奏会といっても、どこかの委嘱で組曲ひとつ初演とか、現代音楽協会に一曲出品とかいう場合ではなく、ちゃんとした一晩の自主作品展のとき。今までに4回('95年コンサートサロン・パウゼ、'96年マーゴ・ホール、'99年王子ホール、'01年紀尾井ホール)開いたが、6年前に開いた初めての作品展では、定員80人位のプチ・サロンでの開催だったにもかかわらず、山のように花束を貰って感激したものだ。うれしいあまりたくさんの花束を誰にもあげずに、全部車の後部座席に積んで自宅に持ち帰り、家中に飾ったのだが・・。花は必ず枯れる。1つや2つの花束を飾っていたときには全く気づかなかったが、家中に飾られた数十の立派な花束が一斉に枯れていくのは悲壮なもので、花の嘆きというか悲鳴が四方から聞こえてくるようだった。立派な百合などは植物とは思えぬ生々しさがあるので特にその感が強い。「栄枯盛衰」「盛者必衰」「天人五衰」なんて四文字熟語が次々に浮かんでくる。花束に囲まれるのが夢だったのに、いざ囲まれてみると、それはとてもつらいものなのだった。

 それ以来、演奏会でたくさん花をいただくと、その晩だけありったけの花びんを出してすべての花を飾ってしっかり鑑賞し、翌朝早々に、マンションの上下両横斜めのお宅に花束を差し上げて回ることにしている。演奏会のあとは関係者と食事したり、打ち上げをやったりして、だいたい帰宅が午前1時を過ぎるが、それから全ての花束のラッピングを下の方だけはがしてすぐ水につけてやり、愛情をこめて鑑賞しながら演奏会の事をいろいろ反省したりしているうち夜が明けるので、家に飾る2〜3の花束を残して、全ての花束をきれいにラッピングし直し、朝の通勤通学時が過ぎた頃に、一軒一軒差し上げて回る。ただでさえ疲れ切っている時に、我ながら一体何やっているのかとも思うが、花にとっては一番美しいときに一人でも多くの人に鑑賞されたほうが幸せだろうし、私もそれを口実に、いつもの不義理をご近所におわびしてまわれるというわけだ。

 最近は演奏会の翌日に、素敵なフラワー・アレンジメント(バスケットにきれいに生けてあってそのまま飾れる)が届いたりするが、洒落ているし扱いが楽なので、当日にいただく花束とはまた違ったうれしさがある。

2001.4.26