第一夜

 

今晩は。「北欧神話の世界:エッダとサガの世界」と題する四回講座の第一夜。今夜は北欧神話に初めて接する方々への愛を込めてお送りするイントロダクションです。仮に「アイスランド、北欧神話の宝庫」とタイトルを付けてみましょう。

 

北欧神話とは?

 

そもそも北欧神話、北ヨーロッパの神話というものは、あまり日本では広く紹介されてはおりませんが、昔から少しずつ知られてきたように思われます。北欧、北ヨーロッパと聞いて、皆さんがまず最初にイメージするものとはなんでしょうか。観光パンフレットなどで観るノルウェーのフィヨルドの風景でしょうか。あるいはデンマークの首都コペンハーゲンにある、人魚姫の銅像でしょうか。或いはスウェーデンの湖水地方の森と湖でしょうか。それとも、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンが書いて、テレビ・アニメで人気を博したムーミン谷の物語でしょうか。今申し上げた例からも言えると思うのですが、普通に、日本人が、北欧というものについて特別な知識を持っていなくても、美しい自然や不思議な伝説に満ちあふれたところだろうと、何気なく思える。それが一般的な北欧のイメージだと思います。ですから北欧には神話というものが存在するんですよ、と人から聞いたとしても、なるほどそうですか、と特に注意を払わなくても納得は出来ると思うのです。

けれども、今申し上げた四つの国々は確かにどれも北欧ではあるのですが、北欧神話と私たちが普通に申し上げる場合、最初のノルウェー、デンマーク、スウェーデンに伝わったものを指すのであって、四つ目のフィンランドに伝わる神話はのぞかれます。それは、フィンランド人が他の三つの国の民族とは異なり、アジア系の民族なのです―Finとは、4世紀にヨーロッパにやってきたアジアの騎馬民族Hunが変化した形と言う俗説があります―。自分たち自身のことを彼らはSuomiと呼びますが、その民族に伝わった神話もまた別なものだったからです。フィンランドの神話は、詩の形で人々に伝わり、多くの独立した詩を19世紀にEliasLoenrotという人が編纂した形で現在残されています。その神話の詩の集大成は、Kalevalaと言う名で呼ばれています。このKalevalaは、私がこれから語る「北欧神話」の中には含まれません。

ただ、フィンランドでも、先程申し上げたムーミンの物語は北欧神話の伝統を受け継いだものといわねばなりません。なぜならば、作者のトーベ・ヤンソンは、スウェーデン系のフィンランド人で、スウェーデン語で書いていたからです。しかもムーミンという名前の生き物はtrollという種族だと書かれています。このtrollというのは日本語ではトロルとかトロールなどと発音されますが、ムーミン・トロールのように可愛らしいものでなく、怖ろしい姿をした化け物のように描かれたりします。よく童話の中にトロル鬼と訳されているのがあります。このような超自然的な、あるいはファンタスティックな生きもの、存在が北欧神話には次々と現れるのです。

今申し上げたtrollの他には、「妖精」と呼ばれるelfがおります。Elfは北欧の言葉ではAlfurと言いますが、白いelf黒いelfの2種類がいると言われます。白いelfは、神々に拘わりを持つと言われ、一方黒いelfはよくdwarfという、もう一つの生き物と同じだとされます。dwarfというものの他には、さらに神秘的な存在も登場し、それはvalkyriaという名前のものだったり、巨人だったりします。

そしてこうした存在は確かに、人々の興味を二十世紀まで掻き立て続けているのです。一例を挙げてみましょう、子供たちに人気のテレビ・アニメに「マクロス」というものがありましたが、その中に登場する戦闘機は「ヴァルキリー」と呼ばれます。これは勇者達の魂を神々の館へと導くヴァルキュリア(valkyria)の英語読みから来ているのです。これをドイツ語ではWalkuere、日本語読みにするとワルキューレとなります。

この神話から取材した19世紀のドイツの作曲家(リヒャルト・ヴァーグナー(ワーグナーとも)Richard WagnerはValkyriaが馬に乗って勇者の魂を連れ去る情景を音楽で描き、楽劇ニーベルングの指輪の第一夜、ワルキューレと題する作品の中で「ワルキューレの騎行」というタイトルで知られる曲に仕上げました。(曲)アメリカの映画監督フランシス・コッポラは、今世紀初頭の英国作家ジョゼフ・コンラッドのHeart of Darkness日本語の題名『闇の奥』という作品を下敷きにしてベトナム戦争を扱う『地獄の黙示録』という作品の中で、この曲を用いました。アメリカ軍の戦闘ヘリコプターの一団が爆撃をしている場面の中です。 

またもうひとつ、超自然的な生き物の例として、先程申し上げたdwarfというものがおります。これは普通「小人」と日本語に訳されることが多いのですが、彼らは北欧神話の中では、地の底にいる一族とされています。そして、彼らは金属を扱うことにかけては抜群の腕を持っており、神々の為の飾りや武器などを作る種族なのです。

 実は私たち日本人も普通はそれと気がついてはおりませんが、彼らについての北欧神話の記憶を、強い印象を伴って持っているのですが、ご存じでしょうか。(曲)ディズニーの映画で有名になりましたが、グリム童話の中に登場する「白雪姫と七人の小人」の中で歌われるこの曲は、小人が楽しげに出かけるときに歌っています。実はこの小人というのはもとの言葉ではzwerg, 英語ではdwarf, 北欧神話の中ではdvergrと呼ばれる種族なのです。ここでは統一してdwarf(ドワーフ)と呼ぶことに致しましょう。つまるところ北欧神話の中に登場する一族です。

では彼らはどこへ行くというのでしょうか。森に木を切りに行くのでしょうか。いいえ、彼らは鉱山に鉱物を掘りに行くと描かれていますね。実はグリムの原作の方を読みますと、白雪姫を殺そうとした継母は、小人達に真っ赤に焼いた鐵の靴を履かされて、踊り狂って死んでしまうという記述があるのです。この鐵の靴、というのが、実は彼ら小人すなわちdwarfが鍛冶屋の技を用いて造ったものであり、それがまだ真っ赤に焼けたまま継母に履かせたと言うことになるわけです。鉄鉱石をはじめとする鉱物を地中から掘り出し、それらから、鍛冶屋の技を用いて武器や貴金属をはじめとするかなものを作ること。それこそ、彼らdwarfたちが北欧神話の中でも持っている特性なのです。どうですか? トロルのお話と言い、dwarfのお話と言い、なんとも幻想に満ちた要素が一杯ではありませんか。

 一寸待ってください。グリム童話ってドイツの童話ではありませんか。私たちは北欧神話について語っていたのではないでしょうか? そもそもどうして北欧神話の登場人物がグリム童話に出てくるというのでしょうか???

北欧神話とは先程申し上げたとおり、スカンジナビアのノルウェー、スウェーデンと、デンマークに伝わる神話と申し上げました。先程除外したフィンランドはアジア系の民族と申しましたが、一方こちらの三国はゲルマン民族の国家なのです。つまり、

北欧神話とは、ゲルマン民族の神話

と言っても過言ではないのです。一方、ゲルマン民族(Germanic people)の代表的な国家は、英語でもGermanyという名で知られるドイツです。ですからドイツのグリムの集めた民話の中に、同じゲルマン民族の神話の人物が出てきてもおかしくはないのです。この古い民族について書き残された最も古い記録は、紀元一世紀の歴史家タキトゥスによる『ゲルマーニア』という書物です。

 

タキトゥス著『ゲルマーニア』

 この二千年前の記録の中に、私たちは既に北欧神話と関係する記述を見つけることが出来るのです。ゲルマーニアとは、ドナウ川より北側で、ライン川から東北に位置する地域の総称です。タキトゥスはつぎのように言います。

ゲルマニア人にとって歌は記憶を伝え、記録を保存するただ一つの方法である

この言葉が私たちに与えた印象の大きさは測り知ることが出来ません。ゲルマーニアの人々は、はじめは文字を持たず、物事を伝えるためには歌や詩の形式で行ったというのです。どのような内容の詩を語り伝えたか、タキトゥスは次のように言います。

彼らはその古い歌の中で、彼らの大地から生まれ出た神トゥイスコーを讃えている。この神にはマンヌスという息子がいて、民族の始祖とみなし、マンヌスには三人の息子がいて、民族の設立者とみなしている

さて、このマンヌスは、英語のマン、つまり人間を表す言葉の語源だろうと言われています。そう考えてみると、ゲルマン語を話す人々にとっては、我々人間は皆マンヌスの一族というわけです。つまり、ゲルマーニアの人々の語り継いだ歌の中には、人間の始まりとして神々が歌われていたのですね。

キリスト教改宗の結果

けれども、そののち、ゲルマニアの民は自分たちの宗教を記憶の外へと追いやられることになるのです。すなわち、キリスト教への改宗が始まったのです。四世紀には、ウルフィラと言う名前の西ゴート族の司教により、ゲルマン民族の言葉として初めて聖書の翻訳が行われました。また、現在のフランスとドイツのもととなったフランク王国の王様クローヴィスは西暦500年前後にキリスト教の洗礼を受けました。もともとブリトン人のいた島に大挙して五世紀頃から移住していったアングロ・サクソンの国家、今日のイングランドなどは7世紀、記録によれば大体661年に、キリスト教化されてゆきます。また、彼らの送った宣教師達によって、さらに北側の国々も徐々にキリスト教への改宗が進んでいきます。

さて、キリスト教の伝来にさきだって、タキトゥスの語った、文字を持たないゲルマーニアの民族は、その長い月日の果てに、文字を持ち始めます。恐らくは、はじめは、タキトゥスの様なローマ人の用いた文字を真似たものだったのでしょう。それはやがて呪術的な意味を持ち始め、秘密の智恵の文字、ルーネ、あるいはルーンの文字と呼ばれるようになります。

けれども、キリスト教の教会が建ち始めると、そこではラテン語の文字(つまり現在我々日本人が親しんでいるアルファベット)とラテン語の言葉が教えられるようになり、人々はそのような文字を使って自由に記録をするようになります。けれども、キリスト教の入ってくるより前の異教的なものは、なかなか教会では認められず、そのままの形で記録される事は普通は行われませんでした。例えば、イングランドで書かれた最も古い叙事詩があります。現在、私たちはその詩の主人公の名前をとって、Beowulf(『ベーオウルフ』)という名で呼んでいますが、その物語の舞台は、キリスト教化される以前の北欧なのです。遥か昔のデンマークに、あるとき恐ろしい怪物がやってきます。その怪物は、王の住む館を毎晩襲い、勇ましい家来達を次々と殺して食べてしまうのです。こんなひどい不幸を経験した、デンマークの人々の行ったことを、その詩人は次のように物語ります。

しばしば多くの男達は話し合いに集まっては、解決の策を練った。いかにしてこの突然の殺戮の恐怖に対処すべきかを。時には異教の神の神殿で生け贄を捧げ、人間の魂を殺すはずの異教の神々に、我が国の災いから救ってくれと大声で懇願したりした。このようなものが彼ら異教徒達の習慣であり、望みをかけるやり方だった。彼らは魂を地獄に明け渡していたのだった。彼らは本当の神を知らず、人間のおこないを裁く方である、主なる神のことを知らなかったから。本当に彼らは天の守護者であり、栄光の支配者である神をどのように礼拝すべきかを知らなかったのである」(171b-183a)。

 とまぁ、キリスト教徒の詩人は、同情とも、批判ともとれる説明を与えています。この『ベーオウルフ』という詩は、成立年代が不明でして、学者の意見では、8世紀という人もいれば、11世紀という人もいる始末です。ですが、20世紀に生きる私たちにとっては8世紀だろうが11世紀だろうが、あまり違いは感じられないかも知れません。ただイングランド人と、ヴァイキングと呼ばれたスカンディナヴィアからの民族とが戦いあったり、つきあったりした後に、書き残されたという事では、大筋で意見の一致を見ております。

ヴァイキング(北欧の異教徒たち)

このヴァイキングという存在も、また長いこと誤解を受けてきておりまして、まあそれでも日本の若い人たちの間では、これまたテレビの影響で、なんとなくかわいらしい存在と思われているようです。ですが、歴史上初めて、彼らに出会った人々は、かわいいなどとはとても思えない状況になりました。イングランドの北部にあるLindisfarneという島には、有名な修道院がありまして、その修道院を中心に栄えた村がありました。西暦793年、いつものように人々が海岸まででてみますと、遠くの方に三隻の船が見えました。その後の様子を『ヴァイキング・サガ』という本の冒頭で、Rudolf Poerznerと言う人は次のように悲劇的に綴っています。それは当時の『アングロ・サクソン年代記』の中、793年6月8日の血塗られた記録を彼なりに描写したものです。

 「Northumberlandの、東海岸沿いの、ヘブリデーズ諸島の一つ、リンディスファーンの修道僧達は、この初夏の美しい一日を利用して、冬用の干し草の搬入に忙しくしていた。収穫はよく、天の父なる神が、此の島に祝福をたれたもうたことは誰の目にも明らかであった。僧達は豊作を喜び、心の中は感謝にあふれていた。

正午頃、海と空との境に大きな帆をよこざまに張った船がいく隻か浮かび上がった。これらの船は聖なる島に向けてコースをとり、急速に接近してきた。これを見ても、敬虔な修道僧達は、いささかも心を乱されることはなかった。彼らは邪心なく、疑心なく、そして当時の報告を信用することが許されるならば、何時、いかなる時も、主なる神にのみでなく、人間達にも奉仕する心の用意があった。見知らぬ航海者達は、おそらく自分たちの助けを必要としているのであろう、それとも水を必要としているのであろう、それとも食糧がほしいのであろう。またおそらくは、悪天候に悩まされた後、今此の客を暖かく迎えてくれる海岸で、一日の休養を楽しみたいのでも在ろう、と思っていた。

…此の島の修道院は創建後、…五十年後には早くも、ノーサンバーランドの修道院文化のセンターとして、信仰・芸術及び学問の聖地とみなされるに至っていた。特に書物の府として名高く、その最も有名な作品、700年頃の作である福音書奉読集は、中世初期の著作集の最も美しいものに数えられている。100年後には、リンディスファーン修道院の名声は大陸にも届いて、その誉れはロルシュやエスタナハ、フルダやライヒェナウのそれにも匹敵していた。まことにこの日、リンディスファーンの敬虔な修道僧達は、いつのまにか岸辺の浅い渚に着いていたいくつかの見知らぬ船に、恐れを抱く理由をいささかも持たなかった。

しかしやがて地獄が彼らの上に落ち掛かって来た。船の乗組員達は、恐ろしいうなり声を挙げ、斧や刀を振りかざしながら上陸し、信頼しきって彼らを迎えに急ぎ行く無防備の修道僧達に襲いかかり、打ち倒し、『彼らを殺し、いく人かを縛って曳き立て、多くのものを衣服を奪って追い払い、悪口雑言を浴びせかけ、またいく人かを海水に浸けて溺死させた』修道院の下僕達も此の殺戮を免れることは出来なかった。女達さえも撲殺され、一刀両断にされた。…略奪の面白さに浮かされて、見知らぬ戦士達は、鋲打ち、釘打ち、溶接されていないものならば、ありとあらゆるものを盗み出した。彼らは教会の財宝を奪い、聖所をことごとく足蹴にかけ、祭壇を打ち倒し、修道院の書庫を荒らし、地下室や食糧貯蔵庫を空っぽにし、牧草地の上で牛や羊を屠殺し、全ての建物を焼き払った。「勝利に酔いしれて、騒々しくやがて彼らは、竜の頭で飾られた船を引き上げ、いずこへとも知れず姿を消していった。後に残されたものは、くすぶる残骸、存分に血をすわされた磯辺、そしてひとけのなくなった島、まことにそれは恐怖と荒廃の場であった

 おそろしいこのニュースは、瞬く間にヨーロッパ中に広がったかも知れません、が、あるいはその必要はなかったかも知れません。なぜなら、続くとしつきの間に、同じ様な事件があちこちで起こり、ヴァイキング達はあらゆる国々で恐れられたと思われるからです。

この北欧からの異教徒達こそ、我らが「北欧神話」を伝え残した人々であります。

さきほどの詩、Beowulfの舞台となったデンマーク、またスカンディナヴィアの国々で信じられていた神々、「異教の神の神殿で生け贄を捧げた」と引用いたしましたが、その生け贄の捧げられた神々の物語を伝えた人々であります。

キリスト教徒だったイングランドの詩人は、そのような異教の神々についての言及は極力控えておりました。また、ローマより北のヨーロッパのほとんどの地域では、まじめなキリスト教徒の手によって、そのような神々の名前はほとんんど書き記されませんでした。ただし、例外は何処にでもあるように、ヨーロッパの辺境の地に、そのような神々の名前のみならず、彼らの行った信じられないような物語が残されました。それが、北大西洋の遥かなところにぽつねんと存在する、まさに絶海の孤島ともいうべきアイスランドという島だったのです。

さて、神話を残した人たち、といいましたが、先程のような恐ろしい強盗めいた悪事ばかりを行った人たちの神話だとしたら、さぞかし恐ろしい血生臭い神話かと思われるかも知れません。実は、ヴァイキング達が行ったことの中でも、先程のような殺戮はきわめて限られておりました。実際、北欧の中においてさえもそのような殺戮を行う集団に対抗することが、王さまたちの仕事の一つにあったほどです。ヴァイキングには王様達も出かけていった、と古い物語には書き残されています。しかし

その場合のヴァイキングとは、もっと整然とした、

王が船団、艦隊を組織し、政治的に執り行う遠征や、植民したり、征服したりして定住するための遠征

が、主なものだったようです。

もちろん、屈強な北欧の戦士が、いざ戦うとなれば、その強さはけた外れだったようですし、古い物語の中には、ちょっと狂暴だなぁと思うような英雄もいっぱい出てきます。ですが、ここで大切なこと、忘れてはいけないことは、そのようなヴァイキングの遠征が行えたのは、ひとえに、当時の北欧の人々の持ったすぐれた造船技術、船を造る技術、またそれを支える文化があったからだということです。ノルウェーのオスロに行きますと、古い船の発掘された実物が並ぶヴァイキング船の博物館が在ります。その船は幅が広く、底が浅く、オールで漕ぐ船として、実に美しい、無駄のないフォルムを持っています。底が平べったいために、水のあまり深くない川も十分にさかのぼることが出来ました。それで、イングランドやフランスの大きな街まで海から川をさかのぼって、征服したり攻撃を仕掛けたり出来たと言うわけです。船足の速さは、北の海を旅行するのには不可欠でした。つまり植民をしたりするための技術的な問題は何もなく、北の辺境にアイスランドを発見したとき、北欧の人々がそこに住もうとしても、何も留め立てするものはありませんでした。

アイスランド

 在る島が発見されるまで、どうでしょう、その島は存在しなかったわけではありませんよね。紀元前3世紀のギリシャ時代に、今のマルセイユに住んだ学者Pytheasは、自ら西や北へと船で旅をし、見聞きしたことどもを書き残しました。その後彼の書いた記録は断片的にしか残りませんでしたが、その中にThuleという場所についての記述が登場します。現在の英国であるブリタニアの島から北に六日船で行ったところに在る土地で、凍り付いた海の近くになる。そこでは夏には二十四時間太陽が輝いている、と。つまり白夜の国ですね。このThuleがアイスランドだという証拠はありませんでした。けれど、実際にアイスランドが発見されたとき、此の記録に基づいて、あの島がThuleと呼ばれたときもあったのです。ちなみに、スキーやスノーボードのメーカーにThuleというのがありますが、あの名前の元は、実はこの北の島、アイスランドのことだというのですね。意外な事実です。

 また、西暦5世紀から6世紀に生きたアイルランドの聖人セント・ブレンダンは、船で旅をしたことで有名で、9世紀には彼の航海記が写本に残されました。彼が西の方に見つけた土地は、火の島とされ、もしかしたらアイスランドではないかと思われます。というのも、同じく9世紀、西暦825年、Dicuilと言う名のアイルランドの修道僧が『世界の周辺の行脚』という書物を著しました。その中でこう書かれました「ヴァイキングに荒らされたフェロー諸島から一日の船の旅で氷の海に達するが、そこにあるThuleに住んでいた修道士に出会った」と。その修道士が語るところによりますと、そこでは夏は全く暗くならず、真夜中に、真っ昼間と同じように服からしらみをとることだって簡単にできるんだそうです。ということで、この地には修道僧が住んでいたことになります。修行するくらいですから寒く辛いところだったんですね。さて、アイスランドの記録の中で重要なものが二つ在りまして、一つをIslendingabbok『アイスランド人の書』と呼ばれる書物と、Landnamabok『植民の書』と呼ばれるものです。二つともそうとう古い記録でして、アイスランド人の書は11世紀にいたAri Thorgilssonという賢者が書いたと言われています。その中に次のような有名な一節があるのです。『アイスランドは、最初にノルウェーからの人で植民された。それは黒髪のH疝fdanrの息子、Haraldr美髪王の時代であった。確かに言われているところでは、初めてアイスランドにやってきたノルウェー人の名前はIngorfrという。彼はハラルド王が16歳の時にやってきて、数年後に再びやってきた。彼は南部のReykjavikに居を定めた。その当時アイスランドは山から海まで森におおわれていた。ノルウェー人がPaparと読んだキリスト教徒がそのときそこにいたが、異教徒達と共に住みたくはなかったので、出ていった。後にはアイルランド後の書物と音を鳴らす鐘と、聖職者の杖が残された。それで彼らがアイルランド人だと分かる』こんなわけで、先程からのアイルランドの修道僧の話とぴったり合うわけですね。さて、アイスランドという名前はでは、どうしてできたのでしょうか。こちらはもう一つの書物『植民の書』に次のように書かれています。

「Naddoddrというヴァイキングがその中にいた。あるとき彼は西に流され、そこで大きな土地を見つけた。東のフィヨルドの高い山を登って、誰か住んでいる印は見えないかと烟などを探したが、見えなかった。彼らがフェロー諸島に帰るとき、山にたくさんの雪が降った。そこで彼らはそこをSnaeland、すなわちSnowland(雪の島)と呼んだ。」

アイスランドがかつてはスノーランドと呼ばれていたなんて、できすぎの話のようですね。その後スウェーデン系のヴァイキングでSvavarの息子Gardarrという男がこのスノーランドを目指しました。その土地をめぐり、そこが島であることを確認した彼の土地に、もう一人のノルウェー人が向かいました。今回は家畜や家族を連れた大きな引っ越しでした。かなりの土地を自分のものとして、夏の間は狩りや漁をして過ごしました。けれど、彼は冬の事を忘れていたようです。冬に家畜を養うための干し草を作らなかったのです。そのため彼は移住をあきらめて祖国に帰らねばならなくなりました。言い伝えに寄れば、彼は島を離れる前に山に登ったそうです。すると、其処から見えたフィヨルドは一面凍りに満たされておりました。そこでその男、名前をVilgerdrの息子Flokiと言うんだそうですが、彼はこの島を氷の島、アイスランド、彼らの言葉ではIslandと呼び、以来それがこの島の名前になりました。この寒い名前の土地が、何故北欧随一の文学の栄えた土地になったのでしょうかね。大陸から離れたところで、他の文化圏の影響がなかったからでしょうか。むしろ逆なのではないかと思います。アイスランド人はヴァイキングを多く行いまして、アイルランドから多くの捕虜を連れてきたようです。また、植民の書をみても、なるほど確かにノルウェーからの人たちが多かったようですが、ケルト系の住民も多く、その名前から明らかにケルトの流れを組んでいると思われる人が随分おりました。それがどういう影響を与えたかともうしますと、なによりも詩を吟じる才能にあふれている民族の血統が多く入ってきたということでしょう。私たちが北欧神話を知りたいと思うとき、必ず読まなければならない本の一つに『エッダ』と呼ばれる書物がありますが、此の本の書かれた目的は、最初はどうやら何百年も伝わった詩の言葉について、若い人たちに伝えようと言うものだったのです。此の本の第二部、Skaldskaparmal(『詩語法』)の中で、次のように言っています

「しかし、詩の言葉を学びたいとか、古くからのものの名前や多くの言葉を自分のものとしたい、と熱望している若い詩人達、あるいはそういった詩の中に歌われている隠されているものを理解できるようになりたいにと熱望している若い詩人達には、次のことを言っておきたい、そういった人は此の書物を知識として、また楽しみとして理解するべきです、と。そして此処に伝わる物語を忘れたり、あやふやにしたりしてはいけません、詩の言葉から古くから伝わるケニングを受け取るためです。ケニングとはかつての偉大な詩人達も大切にしてきたものです。けれども、キリスト教徒は異教の神々を信じたり、これらの物語を真実などと思ってはいけません。また、此の本の冒頭でいったように、考えなければなりません。すなわち人々は正しい信仰から離れたがったということと、トルコからやってきたアジアの人々が、アゥスと呼ばれ、トロイで生まれた知らせ、物語を偽りのものとしてしまい、自分たちが神々であると人々に信じさせたのだと言われているからです」

 この『エッダ』を書いたのはSnorri Sturluson(スノッリ・ストゥルルソン)、Sturlaの息子Snorriと言われています。彼は12世紀の終わりから13世紀中頃(1179-1241)まで生きた人です。北欧の神々は主にアース(アゥス)と呼ばれる神々ですが、Snorriは、彼らをアジアからきたからAss、その複数形はAEsirと呼ばれるようになったといいます。そして、彼らは魔術を使い、そのすぐれた魔力故に、人々から神々とあがめられるようになったというのです。キリスト教にとって唯一の神以外の神は全て偽物と思われたわけですが、この場合のように神話の神々とは人間が神格化されたものだ、という考え方は、ギリシャの昔から在り、紀元前3世紀ごろのエウヘメルスという人の説ということでエウヘメロス理論とされています。このような説を持ってきてさえ、Snorriは昔から伝わる神々の物語を書き残したかったわけです。もちろん、その当時、Snorriはキリスト教徒であったはずです。アイスランドのキリスト教化は、覚えやすく紀元1000年の事でした。その後、教会が建ち始め、司教が就任し、教会によるラテン語をはじめとする教育が行われ始めました。ただ、基本的に他のヨーロッパの国々とは異なり、教会の力はそれほど強くはありませんでした。アイスランドの豪族達の権力が強く、教会は豪族の領地の中に立てられ、彼らの子女達の教育をするのが主な目的とみなされました。それによって、彼らはやがて、文字で記録するようになります。はじめは宗教関係の文書が主なものだったでしょう。聖人伝などです。それを模倣した王達の伝記などが書かれたようです。そして、その流れの中で、13世紀に『エッダ』が書かれたのです。

(以下省略)to index | アイスランドに戻る