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祈りに徹する

無限絶対の神様に対して日々祈りに徹すれば不安や迷いは生じない。




岡田茂吉氏 明主様 御讃歌 ひとびとよ われをしんぜよしんずれば むげんのさちをゆたにめぐまん 人々よ 吾を信ぜよ信ずれば 無限の幸を豊に恵まむ くしびなり ああくしびなりねぎごとの ただしかりせばかなえますなり 奇びなり 嗚呼奇びなり願事の 正しかりせば叶へますなり むげんぜったいむしむしゅう これぞうちゅうのしんりなりける 無限絶対無始無終 これぞ宇宙の真理なりける ちえやがく いかにありとてわかるまじ かみのしぐみのおくのおくがは 智慧や学 如何にありとて判るまじ 神の仕組の奥の奥がは しんりとは いとかんたんなものにして ややこしきりはひしんりなりける 真理とは いと簡単なものにして ややこしき理は非真理なりける とことわの いのちのさちをつくれかし このうつしよにありしあいだに 永遠の 生命の幸を作れかし 此現世にありし間に ひとらしき ひとのつどえるしんえんは このよからなるちじょうてんごく 人らしき 人の集へる神苑は 此世からなる地上天国 ひとによく おもわれたしとおもうひと おおかたかみをわすれがちなる 人に良く 思はれたしとおもう人 大方神を忘れがちなる あだのために いのりしせいじゃのだいひなる こころのおくをしのびてもみつ 仇の為に 祈りし聖者の大悲なる 心の奥を偲びてもみつ おろかなる ひととはあくのたねをまき かりとるなやみしらぬひとなる 愚なる 人とは悪の種を播き 刈りとるなやみしらぬ人なる あるときは ねっとうにいりあるときは はくひょうふみしかこのわれかな 或時は 熱湯に入り或時は 薄氷踏みし過去の吾かな わがみたま みがかれんとしておおかみは まがとうといしもちいたまうも 我身魂 磨かれんとして大神は 枉とう砥石用ひ給ふも わがさだめ ふりさけみればまがかみと いくたびたたかいいくたびかちきし 我運命 ふりさけ見れば曲神と 幾度戦ひいくたび勝ち来し どろぬまの そこにのたうつあわれなる ひといざなうもびのてんごくに 泥沼の 底にのたうつ哀れなる 人誘ふも美の天国に せいこううびょう はるふかみゆくこのひごろ にわづくりなどたのしむもわれ 晴耕雨描 春深みゆく此日比 庭造りなど楽しむも吾 そうぞうと はかいのしんりつまざまざと よびとのまなこにうつるときこん 創造と 破壊の神律まざまざと 世人の眼に映る時来む よるのよは さんぜんだいせんせかいなり ひるはだいせんさんぜんせかいとしれかし 夜の世は 三千大千世界なり 昼は大千三千世界と知れかし せんおくの とみにもましてうれしきは つつがなみけるみにしありけり 千億の 富にも増して嬉しきは 恙なみける身にしありけり ひとのめは いつわりえてもかみのめは いつわりえぬとしるひとのさち 人の眼は 偽り得ても神の眼は 偽り得ぬと知る人の幸 わざわいと よきこといちどにきつるなり よのかわりめのときとなりなば 禍と 吉き事一度に来つるなり 世の替り目の時となりなば
岡田茂吉氏の論文の一部。
霊線に就て 『信仰雑話』P.95、昭和23(1948)年9月5日発行 (前略) 霊線は人間においては生きている近親者のみではない。 死後霊界における霊とも通じており、 正神に連結している霊線もあり、邪神に連結しているそれもある。 正神は善を勧め、邪神は悪を勧める事はもちろんで、 人間は常に正邪いずれかに操られているのである。 (中略) 神仏といえども正邪があり、正神からの霊線は光であるから、 常に仰ぎ拝む事によって人間の霊魂は浄化されるが、 邪神からは光どころか一種の悪気を受ける事になるから、 思想は悪化し不幸な人間となるのである。 (後略)
      「人間は常に正邪いずれかに操られている」って事は、       邪神に操られない為には、       正神に向かって祈り続けて神光を頂き続けて魂を浄まり続けるしかない。       お祈りするだけで魂が浄化、浄まるのなら、お祈りした方が絶対に得。       想い念じる事が想念。       想い念じる事を神様にお捧げするのが祈り。       お捧げする事は、頂く事。 祈りを捧げる程、沢山の事柄を頂ける。       神様にお捧げする物がなかったら、自分の心の中のキレイな心をお捧げすれば良い。       今、自分が神様に祈れているか、祈れてないか意識しない考えない。       そう意識しているだけで十二分に神様に祈れている証拠。       神様と人間個人と霊線で直結していると言う事は、       神様と人口70億人分の霊線が存在していると言う事になる。       神様は同時並行に同時進行に24時間365日、70億人の心の中を見透かして、       個人個人にご守護を与えている訳だから神様のご神格は人間の想像を遥か超える。       人間は表面ばかり見て、小さい些細な事は見てくれない。       神様は、どんな小さい些細な事も見ていてくださる。       神様のご用をだんだんしてくると、       その人の長所だった所が短所になり、短所だった所が長所になる。       成果をあげる人、祈り方が全然違う、非常に具体的に祈る。       他人から漠然とした頼みごとをされたら困るのではないか、神様も同じ気持ち。       祈りには5W1Hが必要、いつ、どこで、だれが、だれに、なにを、どうのように。       その日の事を反省して、翌日取り組む祈りを考える。       祈りの内容によって祈りの実現スピードが変わってくるから、       よくよく祈りの内容を吟味して決めてから寝る。       翌日、その決めた祈りに徹すれば不安や迷い諦めはなくなる、祈りが強烈であれば奇跡が起きる。       何処に居ても、何をしてても、常に神様に祈れる人になりたい。       信仰とは「信」の追及。  どこまで神様を信じ切れるか。       強烈に神様に祈ったら、あとは揺るぎない信念で、ひたすら猛烈に禊ぐ(努力する)そうしたら、       100%間違いなく結果が出て来る。       ただ闇雲に祈っても結果は出ない。神様の思し召しの御心を探りながら掴み取るように祈る事。       魂を浄める3つの方法       1つ目の方法。 善行をして徳を積み神様から光を頂く、または感謝の祈りによって光を頂く方法。       2つ目の方法。 悩み苦しみ、病気災難等で魂の罪穢の払拭を辛抱して、魂を浄める方法。       3つ目の方法。 美術館の展覧会など拝観に行き、美術品から発する霊光を魂に受け、魂を浄める方法。               美による人心の感化。美しい物を見ると魂が浄まる。       1つ目の方法と3つ目の方法は、すぐに簡単に出来る、魂を浄められる方法です。       美術館は天国のシンボル。
正義感 『栄光』240号、昭和28(1953)年12月23日発行 今更こんな事を言うのは、余りに当り前すぎるが、 実をいうとこの当り前が案外閑却されている今日であるから、 書かざるを得ないのである。 それはまず現在世の中のあらゆる面を観察してみると、 誰も彼も正義感などはほとんどないといってもいい程で、 何事も利害一点張りの考え方である。 (中略) では正義感の不足の根本は何かというと、すなわち眼には見えないが、 霊の世界というものが立派に存在しているのである。 そうしてその霊界には神の律法というものがあって、 人間の法律とは異(ちが)い厳正公平、 いささかの依怙(えこ)もなく人間の行為を裁いているのである。 ところが情ないかな人間にはそれが分らないためと、 また聞いても信じられないためとで、知らず識らず不幸の原因を自ら作っているのである。 そんな訳で世の中の大部分の人は、口では巧い事を言い、 上面(うわつら)だけをよく見せようとし、 自分を実価以上に買わせようと常に苦心しているが、 前記のごとく神の眼は光っており、肚(はら)の底まで見透かされ、 その人の善悪を計量器(はかり)にかけたごとく 運不運を決められるのであるからどうしようもない。 (後略)
      人間の法律とは異(ちが)い厳正公平、       いささかの依怙(えこ)もなく人間の行為を裁いているのである。       前記のごとく神の眼は光っており、肚(はら)の底まで見透かされ、       その人の善悪を計量器(はかり)にかけたごとく       運不運を決められるのであるからどうしようもない。       悪の心言行ほど、神様に裁かれるようです。
悪は何故暴露するか 『栄光』136号、昭和26(1951)年12月26日発行 私は前々号に無神迷信の題名の下に、公務員の汚職問題について詳しくかいたから、 大体分ったであろうが、要するにその根本は不正をする人の心理である。 もちろん人の目にさえ触れなければ、どんな悪い事をしても隠し終(おお)せるという、 いわゆる無神思想である。そこで今一層徹底してかいてみるが、 なるほど右の考え通り悪が絶対知れずに済むとしたら、こんな旨い話はないから、 出来るだけ悪い事をして、儲けた方が得という事になる。 今日悪い事をする人間のほとんどは、そうした考え方であるのは言うまでもない。 ところがいくら巧妙にやっても、いつかは必ず暴露してしまうというこの不思議さである。 としたら彼らといえどもそこに気が付かない訳はなかろうが、 本当の原因がハッキリ分らないがため、悪事を棄て兼ねるというのが偽らざる心情であろう。 そこで私はなぜ悪事は、必ず暴(ば)れるかというその原因を明らかにしてみるが、 まず何より肝腎な事は、なるほど人の目は誤魔化す事が出来ても、 自分の目は誤魔化せないという点である。 どんなに人に知れないようにしても、自分だけはチャンと知っている以上、 自分には暴露されている訳である。 そうして一般人の考え方は、自分は社会の一員としての独立の存在であって、 別段他には何らの繋りがないから、何事も自分の思った通りにやれば一向差支えはない。 だから自分に都合のいい事、利益になる事だけを巧くやればいい、 それが当世利巧なやり方であるとしている。 従ってたまたま利他的道義的な話を、先輩や宗教人などから聞かされても、 上辺(うわべ)は感心したように見せても、肚の中では何だ馬鹿馬鹿しい、 そんな事は意気地なしの世迷言(よまいごと)か、 迷信屋の空念仏だくらいにしか思わないのが実際であろう。 全くそういう人間こそ形に囚われ精神的には零でしかないから、 人間としての価値も零と言えよう。 右は現代人大部分の考え方を、ありのままかいてみたのであるが、 ではこういう思想の持主が、果して将来幸福であろうかというと、例外なく失敗するのである。 ではなぜ失敗するかというと、前述のごとく、悪は人には知れなく共、 自分だけは知っているのだから、この点が問題である。 なぜかというとどんな事でも、人間の肚にあるものは何でも彼んでも、 手に取るように分るある恐ろしいところがある。 その恐ろしいところとは一体どこかというと、 これが霊界にあって現界でいえば検察庁のようなところで、 いわゆる閻魔(えんま)の庁である。 ところが悲しいかな、唯物思想に固まった人間には信じられないので、 たまたま人から聞かされても、そんなものはあるもんかと否定し、 少しも耳を傾けようとしない、この想念こそ悪の発生源である。 この理によって本当に悪を無くすとしたら、これを教え信じさせる事で、 これ以外効果ある方法は絶対ない事を断言するのである。 では閻魔の庁へなぜ知れるかというと、人間の魂とその庁とは霊線といって、 現界の無線電波のようなものが一人一人に繋がっていて、 一分の狂いなく閻魔の庁に記録されてしまう。 庁には記録係があって、一々帳簿へ載せ、悪事の大小によってそれ相応に罰するので、 それが実に巧妙な手段によって暴露させ、 現界的刑罰を加えるのであるからこの事が肚の底から判ったとしたら、 恐ろしくて少しの悪い事も出来ないのである。 もっともその反対に善い事をすれば、それ相応な褒美を与えられるという、 これが現幽両界の実相であるから、この世界は神が理想的に造られたものである。 これが絶対真理であってみれば、これを信ずる以外、根本的解決法はないのである。 ところが現代はそういう霊的な事は、政府も有識者も盲目であるから、 反って大衆に知らせるのを非文化的とさえ思っているのだから、困ったものである。 そんな訳で、せっかくそれを分らせようとする吾々の仕事も、 迷信と断じて警戒するくらいだから、 本当からいえば御自分の方が、余ッ程迷信にかかっているのである。 その何よりの証拠は、これほど骨を折っても、汚職などの犯罪は少しも減らないばかりか、 むしろ増える傾向さえ見えるではないか、 それは単に表面に現われた犯罪を膏薬張で防ごうとしているのだから駄目で、 容易に抜けられそうな法網を張ったり、 誰でも破れるような取締りの塀で塞ごうとしていて、 全然急所が外れているのだから、その愚及ぶべからずといいたいくらいである。 しかもこれが文化国家と思い、得々としているのだから、余りに幼稚で、 現在は文化的野蛮時代といってもよかろう。
宗教と科学 『信仰雑話』P.109、昭和23(1948)年9月5日発行 (前略) 次は霊子界であるが、この界の体は中位以下の諸神諸仏の霊が活動し給う所であり、 この界から発現したものが既成宗教である。 宗教に種々の段階あるのは神霊仏霊に段階があるからである。 次は霊子界の霊界(私は幽玄界と名づける)である。 この幽玄界こそ、最尊最貴の神々が御座(おわし)まし枢要なる経綸を行なわせ給うのである。 以上説くところの三段階のその上に坐(ましま)すのが、 独一真神すなわち万能の神とも申し、大宇宙の主神(すしん)であらせらるるのである。 この主神に対しては、これを表現し奉る言辞もなく、文字もなく、 ただ無限絶対の力徳の中心であり、一切の根源であると申すよりほかはないのである。 次に私は、神仏の救済と罪穢の本質について科学的説明を試みてみよう。 そもそも、世界には大中小種々雑多な宗教があるが、いずれの宗教といえども、 それぞれ神仏諸霊が人類救済の意図のもとに、霊界から御手を差し伸べており、 現界における因縁ある人間を通じて、救済の業を行なわせらるるのである。 もちろんその根本は主神の御経綸による事であって、 ある時代、ある民族、ある地域、ある期間、救いの業を委任され給うたのである。 畢竟(ひっきょう)するに、それはその地域に罪穢が堆積し、 文化の進歩に支障を及ぼすべき程度に立ち到ったからである。 そうして昔から宗教の建て前として、人間不幸の原因である罪穢の除去をされたのであるが、 しからば罪穢とは何ぞやといえば、 霊的には、個人としては霊の曇りであり、社会的にいえばその地域の霊界の曇りである。 また曇りとは何ぞやといえば、水素中に発生し、生活している一種の毒菌であって、 これは常に増減しつつある極微の粒子で、到底顕微鏡によっても見得ない程のものであるが、 これら毒微粒子は、悪の想念と悪の行為によって発生し、増量し、それが人間の苦悩の原因となるのであって、 反対に善の想念、善の行為によって滅減するものである。曇りがある程度増量するに従い、自然浄化作用が発生する。 それが小にしては人間の災厄や病気となり、大にしては飢病戦の小三災、風水火の大三災ともなるのである。 しかしながら右の災厄を出来るだけ小にし、または無災となし、不幸をより軽減せしめんとする活動が、 神仏の大愛から発する霊光であって、その媒介者として出現されたのが聖者、聖雄、宗祖等で、 その下の取次者が各宗の宗教家であり、天使でもある。 そうして救いの場合、神仏はそれぞれその時代の人間に適応せる教義や方法を採らせ給うのである。 前述のごとき毒微粒子を消滅する元素はもちろん火素であって、眼に見えざる光であり、 それによって浄化作用が行なわれるのは、ちょうど日光によって殺菌するのと同一の理である。 この事を今一層徹底すればこうである。宗教の教えまたは祈りによって光明を受け、 今まで眠っていた魂が目覚め悔い改め、善を想い善事を行なうに至り、魂の輝きによって毒微粒子の衰滅となるのである。 以上は宗教の科学的説明であって、ここに到っては唯物科学もなく、唯心科学もなく霊体一致の科学であり、 今や来たらんとする高度の文化時代の科学の真相を、私は簡単に説いたつもりである。
本教の誕生 『世界救世教早わかり』昭和25(1950)年11月20日発行 (前略) 従って、これからについての説明をしてみるが、 単にと言っても、実は上中下の階級があり、千差万別の役目がある。 神道にては八百万あるというが、全くその通りで、 今日までといえば、キリスト教的一神教と、神道的多神教のどちらかであった。 しかし両方共偏った見方で、実は独一真神が分霊して多神となるのであるから、 一神にして多神であるというのが本当である。 これは私が永年の神霊界研究によって得たる結論であって、 この考え方も今日まであるにはあったがそれ以上は説け得ないようであった。 (後略)
邪神活躍 『地上天国』19号、昭和25(1950)年12月25日発行 そもそも、万有一切は霊主体従の法則(れいしゅたいじゅうのほうそく)によって動きつつある事は、 今更言うまでもないが、 あらゆる物象の動きは、霊界に先に起り、現界に移写されるとしたら、 その場合時間の遅速があるのはもちろんで、これはその事象の大小によるのである。 すなわち速きは数日、遅きは数年経ってから移写される事もある。 しかし、これが昼の世界になるに従って短縮されるので、 最近に到って余程短縮されたようである。それどころか現在の霊界は、 かつてない程の混乱状態を呈していると共に、変化の激しい事も、 よく世の終末を物語っている。 (中略) 要するに、一切は主神の経論であって、文化発展上、正邪相争い、明暗、美醜相混じり、 かくして一歩一歩理想に近づくので、これも深奥なる御神意であって、 到底人智の窺い知るを得ざる事を知るべきである。
御任せする 『栄光』132号、昭和26(1951)年11月28日発行 私はいつも御任せせよと言う事を教えているがつまり神様にお任せし切って、 何事があってもクヨクヨ心配しない事である。 というと実に雑作(ぞうさ)もない訳なく出来そうな話だが、 ドッコイ仲々そうはゆかないものである。 (中略) では一体それはどんなものかというと、現在の心配や取越苦労、過越苦労等の執着である。 それらに対し信者の場合、神様の方で御守護下されようとしても、 右の執着観念が霊的に邪魔する事になり、強ければ強い程御守護が薄くなるので、 そのため思うようにゆかないという訳である。 (中略) またこれは別の話だが、男女関係もそういう事がよくある。 一方が余り熱烈になると相手の方は嫌気がさすというように、 まことに皮肉極まるが、これも執着が相手の心を冷すからである。 このように世の中の事の多くは、まことに皮肉に出来ているもので、 実に厄介なようでもあり、面白くもあるものである。 右によっても分るごとく、物事が巧くゆかない原因には、 執着が大部分を占めている事を知らねばならない。 私がよくいう逆効果を狙えというのもその意味で、 つまり皮肉の皮肉であってこれが実は真理である。
人間は想念次第 寸評(光25号) 白光生 『光』25号、昭和24(1949)年9月3日発行 感謝が感謝を生み、不平が不平をよぶとは正に真理だ、 何となれば感謝の心は神に通じ不平の心は悪魔に通ずるからだ、 この理によって常に感謝をしている人は自然幸福者となり 常に不平不満や愚痴を言う人は不幸者になるのは事実だ、 大本教のお筆先にいわく「喜べば喜び事が来るぞよ」 とは正に至言である。
      何にも無くとも、とりあえずバカみたいに喜ぶ、そうすると「喜び事」の方から勝手にやって来る。       これは神様が決めたこの世の真理、この事を誰も否定したり妨害できない。       「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と言って感謝のカタマリになると神様は喜ばれるらしい。
之も慢心 『栄光』121号、昭和26(1951)年9月12日発行 よく信仰に熱心の余り自分の属している教会の会長始め、 役員等のやり方が面白くないとか何とか非難して、 それを改革しようと忠告したりしても、それが容れられない場合、 非常に気を揉む人も時々あるようだから、これについてかいてみよう。 右のような考え方は、全く誠から出たのであるから、悪いとはいわないが、 大いに考慮を要する点がある、というのはその考え方は小乗信仰であるからである、 本教はいつもいう通り大乗信仰であるから、世間並の考えとは大変違っている。 その点が認識出来ないと、神様の思召に適わない事になる、 何よりもあの人は善人だとか、悪だとかいうのは、すでに慢心である、 何となれば人間の善悪は神様でなくては判らないはずで、 以前もかいた事があったが、大いに慎まなくてはならない。 もし間違ったり、悪人であれば、 神様がチャンとお裁きになられるから少しも心配はないのである、 だから人間が心配や取越苦労などするのは、 神様の御力を信じていないからという事になるではないか、 その証拠には今まで間違った信仰のために、 神様から裁かれ、人によっては命まで失った事実は沢山あり、 古い信者は幾度も経験しているであろう、 だから人の善悪を批判する前に、まず自分の腹の中の善悪を見る事である。 そうして本教信者となるくらいの人には、 まず悪い心の人などありよう訳がない、 みんな誠の人ばかりである事はよく判っている。 ただ単に誠といっても大きい小さいがあるから、気をつけなくてはいけない、 私が常にいう小乗の善は、大乗の悪であるという意味である、 いかに善でも誠でも、小乗の考え方では、結果は悪になるのである、 本教は世界全人類を救うというこの世創(はじま)って以来の大きな仕事であるから、 本教内部の事などは神様に御委せしておけばよい、 何よりも社会否世界を相手として、考えるべきである、 早くいえば眼を内へ向けないで、外へ向ける事である。 今一ついいたい事は、神様の御経綸は、実に深いもので、 到底人間の眼や頭脳で、判りようはずがないのである、 大本教の御筆先にこういう文字がある。 「神の奥には奥がある、そのまた奥の奥の仕組であるから、 人民には分りようはずがないぞよ、 神界の事は分らんと思う人民は、判ったのであるぞよ」とか、 「そんな人民に判るようなチョロコイ仕組で、 三千世界の立替が出来ると思うかと申すのであるぞよ」。 この御言葉は実に簡単にして、よく言い表わしていると思う。
明主様立春祭御講話 「昭和二十九年の立春は最後の審判の初日」 (昭和29年2月4日) 「今日は立春とともに旧の正月の元日になるそうです。 いつも、立春というが、早いように思うのです。 とにかく今年は大いに意味があるのです。 まだ発表はできませんが、昨日、今日すばらしいことがあったのです。 いずれ話をしますが、それは神様の型です。 それで、非常にめでたいことなのです。 というのは、節分というものは「福は内、鬼は外」で、 鬼の災いを避けるという、昔からの行事があるのです。 そのためにほうぼうの神社仏閣で豆まきをやるのです。 ところでこれは、前にも話したことがありますが、あべこべなのです。 鬼というのは偉い神様なのです。 艮の金神国常立尊(うしとらのこんじん くにとこたちのみこと)という神様です。 今日の御讃歌にも「常立の神」(とこたちのかみ)というのがありましたが、 国常立尊のことを略して常立の神と詠んだのです。 それからもう一つ「艮の神」(うしとらのかみ)ということも入れてありました。 そういうようで、つまり事の起り始めは、 これは神代となってますが、神代ではないのです。 そう古いことでもないのです。 もっとも三千年ということになってますから、 三千年前はやっぱり人間の世界です。 この国常立尊という神様が世界的に支配していた時代があったのです。 ところが非常に厳格な神様で、間違ったことは許さないというために・・・ 大本教のお筆先などを見ると分かりますが・・・ つまりあまり厳しいので八百万の神様がとてもやりきれないというので、 こういうやかましい神様は押し込めなければ楽はできないというわけで、 押し込められたわけです。 押し込めた方の神様は天若彦(あめにわかひこ)神というのです。 これはよく天邪鬼(あまのじゃく)と言いますが、 天若彦というそれを後世天邪鬼と言って、 つまり素直でない、なんでも横車を押すという性格の神様です。 それで国常立尊という神様を、艮(東北)に押し込めたのです。 そこでそれを鬼門と言って忌み嫌ったのです。 もっとも忌み嫌うわけです。 人間の方が間違ったことをすれば、 そういうやかましい神様を嫌うわけですから、 どうしてもそうなるわけです。 そうして鬼門除けと言って、いろんなことをやったのです。 そういうわけで、三千年押し込められたとしてあります。 そうしてその神様が明治二十五年に大本教の教祖の 出口なおという方に憑られて非常に怒鳴ったのです。 出口なお刀自の口を借りて怒鳴ったのです。 その第一声が「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。 梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。 日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。竹は外国であるぞよ」 というそれが最初の獅子吼(ししく)です。 それで、大きな声をして怒鳴るので、気違い扱いにされて警察に引っ張られて、 二十日か三十日間勾留されたのです。 それが大本教の始まりなのです。 その艮の金神という神様は、押し込められて肉体の方はなくなりましたが、 霊は霊界に行かれて閻魔大王になるのです。 それで閻魔大王というのは、善悪、罪穢れを裁く神様、裁くお役目です。 閻魔大王というと非常に恐ろしがられたのです。 それが、本当は至正至直の神様ですから、そこで霊界に行っても、 悪い人間が見ると恐ろしい顔に見えるのです。 これは霊がそういうことを言ってました。 それから心の善い人がゆくと、 非常に柔和な慕わしい優しい神様のお顔に見えるのです。 これはおもしろいです。 というわけで、そこで大本教のお筆先に 「艮の金神はこの世の閻魔と現われるぞよ」とありますが、 「この世の閻魔」ということは、現界の審判をなされるということです。 今までは霊界の、死んだ人を審判されたが、 今度は現界で生きた人間を審判される。 「この世に現われて」というのですから、 現界に現われて審判をするというわけです。 「今までは蔭の守護でありたが、今度は表の守護になるぞよ」 とありますが、すべて現界的になるわけです。 では、それはいつかと言いますと、 だいたい明治二十五年のは、霊界から現界に、つまり一段近寄ったわけです。 霊界でも三段になっていまして、一段ずつだんだんと近寄ってくるのです。 それでいよいよ最後の段をすまして、 直接現界に現われるというのが今日からなのです。 そうすると、今日は最後の審判の初日というわけです。 恐ろしいですが、 しかしそれはこっちに邪念があったり曇りがあったりすると怖いので、 そうでなくてこっちが本当に正しく立派な心を持っていればありがたいのです。 今まで悪い奴にいじめられたりしていた、 それがいじめられなくなるから、善い人間には非常に結構です。 それから「今度は善悪を立分けるぞよ」とありますが、これは私は始終書いてます。 最近いろんな汚職事件がめちゃめちゃに現われてきました。 よくもそういった不正事件が出るということは、今までに例がないように思います。 これもいわゆる審判が近寄ったということを現わしていると思います。 それで、艮の金神様が表に現われるということは、 艮の金神様は火の系統の神様ですから、そこで非常に光が強いのです。 やっぱり霊界が明るくなるのです。 だから今まで隠していたり隠蔽していたものが現われるのです。 目に見えるわけです。そこでいろんなそういうことが出てくるのです。 それから今年からまた一段と病気が多くなります。 それとともに薬毒がだんだんはっきりしてくるわけです。 以前も言ったとおり、恐怖時代の一歩に入ったわけでもあります。 そうなるとメシヤ教というものの発展が著しくなり、大いに発展するわけです。 その段階に入ってきたわけなのですから、大いに働き甲斐があるわけです。 今まで押さえつけられていたのが、その押さえつける力が弱るわけです。 今まで十回も二十回も話をしなくては分からなかったのが、 今度は五、六回で分かるというような意味になるわけです。 そうかといって、 神様のことは急に目に見えるようには現われないものなのです。 つまりなんとなくジリジリジリジリ進んで行くわけです。 今年、来年、再来年というように、年々早くもなるし、 それからはっきりもしてくるのです。 とにかく今年から神様が表になったということは、確かなのですからして、 そこでメシヤ教というものは、今年から世界的に非常に知れてゆくわけです。 いわば、いよいよ舞台に上がったわけです。 今までは楽屋でいろいろ支度していたのが、 いよいよ支度ができたので檜舞台に上がるということになるわけです。 やっぱり芝居と同じですから、序幕です。 これはお筆先にありますが、 「今度は三千世界の大芝居であるから、悪の役もあるし善の役もあるから」 というのがあります。 お筆先というのは実によく書いてあります。 というのは、今まで随分教団の邪魔をしたり、 いろいろ良からぬ人が入ってきました。 ところがそういう人に 「あいつは悪い奴だとか、あいつはいけない」 とか言いながらも、結果においては、なかなか良い役をしてます。 それは悪い人間でなければできないような良い役をしてます。 だから本当に御苦労様と礼を言いたいくらいです。 これがちょうど、今言った、 善の役と悪の役と両方こしらえてあるということがはっきり分かるのです。 もっとも芝居でも映画でも、ああいった脚本でも、 善人ばかりでは芝居にならないので、 悪人に善人が苦しめられるという、そこに一つの脚色ができるのですから、 なるほど芝居という意味から見ると、悪の役も入り用だったわけです。 そういうようで、神様がやられることは実に深いです。 ですから「あの人はああいうことをしているから悪い、間違っている」 ということは、とても言えるものではないです。 そう言っている人は、実はその人自身が悪いことをやっていて、 悪いことを言われている人は良いことをやっているかもしれません。 お筆先に 「一生懸命、神のためと思い、間違うている事をしている人は、神も困るぞよ」 というのがあります。 「これが神様のためだ、これが本当だ」 と言って一生懸命にやっていることが、 案外神様のお邪魔になっているというわけです。 そこで人間、特に信者は、 善とか悪とか決めることはたいへん間違っているのです。 また分かるものではないのです。 ただ、自分が良いと思うことをしていればそれで良いので、 人が善いとか悪いとか言う、それが一番危険なわけです。 (後略)
邪神の没落 『地上天国』10号、昭和24(1949)年11月20日発行 キリストにサタン、釈迦に提婆(だいば)は誰も知っているところであるが、 吾々といえどもサタンや提婆が常に根気よく狙っている。 面白い事には、時期の切迫につれ、彼ら邪神はいよいよ躍起となって、 昨今は獅子奮迅(ししふんじん)の勢で活躍している事で、 本紙にも近頃目立って掲載されているから知らるるであろう。 これらによってみても、邪神の運命の最早目睫(もくしょう)に迫っている事が想察さるるのである。 という事はキリストの言った最後の世の前夜ともいうべき今である。 一口に邪神というが、邪神にも大中小種々あって、その頭目は兇党界の支配者で、 曇りの多い人間程邪気の霊線によって自由自在に操られ、 神に対し知らず知らず妨害手段をとるのである。 ところが邪神は今日まで何千年間思うままに振舞って来たので、 霊界の転換を知らず今まで通りと思って悪を続けているのである。 しかるにいよいよ霊界の転換が寸前に迫ったので、 彼らは眼が醒めぬまま周章(あわ)て出したのも無理はないのである。 という事は、邪神の最も恐れるのは光であって、 霊界が昼となるに従って光が強烈となるのである。 すなわち邪神の恐怖時代が来つつあるのである。 それは邪神は光に遭うや萎縮し活動する力が弱るのである。 この例として心霊研究会等において、電気を消し真暗にしなければ霊の活動が出来ないという事は、 それがためである。この場合よほど神格を得ている霊でないと、光の中では活動が出来ないからである。 以上の理によって、本教に向かって妨害するものは、観音力から発する光を恐れるので、 彼ら邪神界は何とかしてこの光を防止しようとしてあらゆる妨害を行っているので、 それが昨今の彼らのあわて方である。 しかるに昼の光とは太陽の光線であるから、 いかに死物狂いで防ごうとしても徒労以外の何物でもない。 ところがここに何人も警戒しなければならない一大問題がある。 それは邪神に加担したものは、最後の審判の場合、永遠に滅ぶる運命者となるのである。 ゆえにいよいよとなるや、何程後悔しても先に立たずで、滅亡するのは必定である。 したがって何よりも今の中(うち)悔悟遷善(かいごせんぜん)し、 神の大愛に抱かれ、悪から脱却し、善人の仲間に入り、 歓喜の生活者となって永遠の生命を得なくてはならないが、 それを吾らは奨めてやまないゆえんである。
御神意を覚れ 『栄光』237号、昭和28(1953)年12月2日発行 これは以前もかいた事があるが、本来人間というものは、 神様の御目的たる理想世界を造る役目で生まれたものである以上、 その御目的にかなうようにすれば、いつも無病息災愉快に働ける。 これが不滅の真理である。 (中略) またこういう事もある。それは信仰へ入ってからの苦しみである。 しかも熱心になればなる程一層苦しむものである。 そこで信仰の浅い人はつい迷いが起るが、この時が肝腎である。 この理は何かというと、神様はその人の熱心に対して、 早く御利益を下されようとするが、まだ汚れがあるから浄めねばならないので、 入れ物の掃除としての浄化である。その場合少しも迷わず辛抱さえすれば、 それが済むや思いもかけない程の結構な御蔭を頂けるものである。 (後略)
運命と自由主義 『信仰雑話』P.40、昭和23(1948)年9月5日発行 宿命運命についてよくたずねられるから説明をする。 まず、宿命とはその人に与えられた決定的のものであるから、いささかも換える事はできない。 しかるに運命は、限定されたある枠内の中は自由自在で、その人の努力次第で、 枠内の最上位にまでは到達なし得ると共に、その反対であれば下位に転落するのである。 今日人々の関心事となった自由主義なるものも右の運命とよく似ている。 何となれば、真の自由主義とは、ある一定の枠内に制約されているものであって、 無限の自由は決してあり得ない。真の自由とは、限度のある、即ち有限の自由である。 故にその枠を越えた場合、それは他人の自由を侵害する事となり、文化の反逆者となる事は、 運命の枠を越ゆる場合、失敗者となるのと同様の理である。
活字の浄霊 『栄光』184号、昭和27(1952)年11月26日発行 この題を見たらちょっと見当が付くまいが、左に説くところを読んでみればなるほどと合点がゆくであろう。 それは私のかいた文章を読む事によって、目から浄霊を受けるのである。 ではどういう訳かというとすべては文章を通じてかく人の想念がそのまま映るものであるからで、 この点充分知らねばならないのである。これを霊的にみれば、つまりかく人の霊が活字を通して読む人の霊に通ずるので、 この意味において私がかく文章は神意そのままであるから、その人の霊は浄まるのである。 このように読書というものは、読者の魂を善くも悪くもするものであるから、作家の人格がいかに大きな影響を及ぼすかはもちろんである。 従ってたとえ小説のようなものでも、新聞記事でも同様で、この点作家もジャーナリストも、大いに考えて貰いたいのである。 といっても固苦しい御説教がよいという訳ではない。もちろん興味津々たるものでなくては、 好んで読まれないから役に立たない訳で、面白くて読まずにおられないと、いうような魅力が肝腎であるのはいうまでもない。 ところが近頃の文学などをみても、売らんかな主義のものがほとんどで、 単なる興味本位で評判になり、本も売れ、映画にもなるというような点のみ狙っているとしか思われないものが多く、 読み終って何にも残らないという活字の羅列にすぎないのである。こういう作者は小説家ではない、小説屋だ。 人間でいえば骨のないようなもので、一時は評判になっても、いつかは消えてしまうのは誰も知る通りである。 そうして現在の社会を通観する時、社会的欠陥の多い事は驚くくらいであるから、その欠陥をテーマの基本にすれば取材はいくらでもある。 私は映画が好きでよく観るが、たまたまそういう映画に出遭った時、 興味津々たると共に何かしら知己を得たような気がして嬉しいので、その作者やプロデューサーに頭を下げたくなるのである。 しかもそういう作は必ず評判になって、世間からも認められ、本屋や映画会社も儲かるから一挙両得である。 以上思いついたままかいてみたのである。
霊主体従 『世界救世教奇蹟集』昭和28(1953)年9月10日発行 そうして現代科学といえばもちろん唯物科学であり、唯物科学とは目に見え、 手に触るる形あるものを対象として研究し進歩したものであるから、 あらゆる物象の表面だけがある程度判ったに過ぎないのであって、 その内面に存在する重要なある物に気付かなかったのである。 このある物とは何かというと、これこそ無に等しいもので、名付けて霊という。 この霊なるものこそあらゆる物象の主体であって、この事の認識が出来ない限り、 何程科学が進歩したといっても、それは半分の進歩であり、跛行的でしかない以上、 正しい文化の生まれるはずはないのであるから、 この事が明らかになって初めて今まで不可解とされていたあらゆる問題も、容易に解決されるのである。 何となれば一切は霊が主で体が従であり、霊主体従が万有の法則であるからである。 一例を挙げれば人間が四肢五体を動かすのも、眼に見えざる意志の命によるので、 決して五体が勝手に動くのではないと同様である。 ゆえに奇蹟といえども本原は霊に起り、体に移写するのであるから、この理をまず確認する事である。 それには病気が最も分り易いから、これによって説明してみよう。 元来病気とは肉体に現われた現象であり、結果であって、もちろん本原は霊にある。 すなわち最初霊の一部または数個所に曇りが発生し、それが体に映って病気となるのであるから、 この曇りさえ払拭(ふっしょく)すれば治るのは明らかである。 このように病原は霊にある以上、体のみを対象とする医学で治らないのも当然であり、対症療法の名がそれである。 これにみても現代医学は全く見当違いである以上、一日も早くこれに目覚めて、再出発されなければならないのである。 しかもこの無智の結果、いかに多くの犠牲者が作られ、悲惨な運命に泣いている現状は、到底黙止出来ないのである。 ところが喜ぶべし、ここに神の救いは現われたのである。すなわちこの誤れる医学を革正すべき大任を、 神は私に委ねられたのみか、この過誤はひとり医学のみではない。 あらゆる文化面に亘(わた)っているのであって、今一つの例を挙げてみよう。 それは多くの犯罪である。これも病気と同様表面に現われた結果であり、 その病原は霊すなわち魂にあるにかかわらず、それに気がつかないため、 これも医学と等しく対症療法すなわち刑罰をもって解決しようとしているが、 これも一時的膏薬(こうやく)張りでしかないから、何程骨を折っても犯罪は依然として浜の真砂(まさご)である。 ゆえにこの魂の改造こそ、宗教以外にはあり得ないのであるから、この事も早急に気付かねばならない。 以上のごとき二大事実によっても明らかなごとく原因は霊を無視するところにあるので、 これを徹底的に知らせる手段としての奇蹟である。
岡田茂吉氏が観音経を短く詰めたお経です。 仏壇に手を合わせて奉唱するだけでも先祖は喜ぶと思います。 (宗旨宗派を問わず奉唱できます。) 善言讃詞(ぜんげんさんじ) 敬(うやうや)しく惟(おもんみ)るに。 世尊観世音菩薩(せそんくわんぜおんぼさつ) 此土(このど)に天降(あも)らせ給(たま)ひ 光明如来(くわうみやうによらい)と現(げん)じ。 応身弥勒(おうしんみろく)と化(くわ)し。 大千三千世界(だいせんさんぜんせかい)の三毒(さんどく)を滅(めつ)し。 五濁(ごぢよく)を浄(きよ)め。 百千万億(ひやくせんまんおく)一切衆生(いつさいしゆじやう)の大念願(だいねんがん)。 光明常楽永劫(くわうみやうじやうらくえいごふ)の。 十方世界(じつぽうせかい)を成(な)らしめて。 五風十雨(ごふうじふう)の不順序(くるひ)無(な)く。 吹風枝(ふくかぜえだ)も鳴(なら)すなき。 五六七(みろくの)御代(みよ)を生(う)み賜(たま)ふ。 無量無辺(むりやうむへん)の大慈悲(だいじひ)に。 天魔羅刹(てんまらせつ)も服(まつろ)ひて 諸悪邪法(しよあくじやはう)は改(あらたま)り。 夜叉龍神(やしやりゆうじん)も解脱為(げだつな)し。 諸善仏神(しよぜんぶつしん)威(ことごと)く 其(その)志(こころざし)を遂(と)ぐるなり。 山川草木(さんせんさうもく)尽(ことごと)く。 世尊(せそん)の威徳(ゐとく)に靡(なぴか)ひて。 禽獣虫魚(きんじうちゆうぎよ)の末迄(すゑまで)も。 悉其所(みなそのところ)を得(え)ざる莫(な)し 応(まさ)に之(これ)紫微(しぴ)実相世界(じつさうせかい)にて。 迦陵頻迦(かりようぴんが)は空(そら)に舞(ま)ひ。 瑞雲(ずいうん)天(てん)に靉(たなぴ)けば。 万華馥郁(ばんくわふくいく)地(ち)に薫(くん)じ。 多宝仏塔(たほうぶつたふ)聳(そそ)り建(た)ち。 七堂迦藍(しちだうがらん)は霞(かす)みつつ 黄金(こがね)の甍(いらか)燦燦(さんさん)と。 陽(ひ)に照(て)り映(えい)ず光景(くわうけい)は。 実(げ)にも天国浄土(てんごくじやうど)なり。 五穀稔(ごこくみの)りて蔵(くら)に充(み)ち。 漁(すなどり)豊(ゆたか)に天ケ下(あめがした) 生(いき)とし生(い)ける億兆(もろもろ)の。 歓(ゑら)ぎ賑(にぎ)はふ声々(こゑごゑ)は。 津々浦々(つつうらうら)に満(み)ち弥(わた)り。 国(くに)と国(くに)との境(さかひ)無(な)く。 人種等(ひとぐさたち)の憎(にく)しみや。 争闘事(いさかひごと)も夢(ゆめ)と消(き)へ 一天四海(いつてんしかい)観音(くわんのん)の。 仁愛(みろく)の御手(みて)に帰一(きいつ)され。 仁慈(じんじ)の御胸(みむね)に抱(いだ)かれん。 吾等(われら)が日々(ひぴ)の施業(せげふ)にも。 妙智(めうち)を賜(たま)ひ真覚(しんかく)を。 得(え)さしめ家(いへ)は富栄(とみさか)え。 寿(よはひ)は永(なが)く無医薬(むいやく)に。 善徳行(ぜんとくかう)を重(かさ)ねさせ 福聚海(ふくじゆかい)無量(むりやう)の大功徳(だいくどく)。 垂(た)れさせ賜(たま)へ座(ましま)せと。 念々従心(ねんねんじゆうしん)下座頓首(げざとんしゆ)。 脆伏(きふく)礼拝(らいはい)願(ね)ぎ申(まを)す。 念被観音力(ねんぴくわんのんりき) 念被観音行(ねんぴくわんのんぎやう) 念被観音心(ねんぴくわんのんしん)