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神話『ブルーポールズ』

【第4巻】(ルガルバンダの巻)-

 

 一方、ナユタやユビュらは、ルガルバンダの都ビハールを目指した。ナユタ軍は怒濤の勢いで一気に押し寄せ、ビハールを包囲した。ビハールは満々と水を湛えた深くて広い二重の濠に囲まれ、さらに高く厚い城壁が街を守っていたが、ビハールの神々の動きは鈍かった。ルガルバンダは首都防衛体制を整え、首都の神々を徹底抗戦に駆り立てたが、神々は既にルガルバンダを見限っていたのだ。

 ナユタがビハールの攻略作戦を始めてわずか数日、イルシュマの巧みな工作もあって内側から城門を開く者が現われると、鉄壁の守りを誇るとされたルガルバンダの牙城はもろくも崩れ去った。

 ナユタが城内に入ると、多くの神々が旗を振って歓迎し、ナユタやユビュの名を叫ぶ神々が気勢を上げて、街を駆け回った。ルガルバンダが豪語していた鉄壁の首都防衛も、神々の心が離れてしまうといかにあっけなく崩れるものかを如実に示した出来事であった。

 予想された激戦もなく、ナユタ軍はさしたる抵抗も受けずに、一気にルガルバンダの宮殿に迫った。

 追い詰められたルガルバンダはナユタ軍に向かって叫んだ。

「たとえ、おれがここで倒れたとしても、決してナユタが求める世界など実現するはずがない。神々は決しておまえたちの世界に満たされないだろう。世界統一に基づく繁栄を拒否し、神々の恣意がただ散在するだけの世界を目指したところで、そんな不均質で、変化に乏しい、停滞した世界はやがて破綻するだろう。おれが目指したものは必ずや息を吹き返し、再び世界を席巻するだろう。繁栄と安泰を望む神々の声がこのルガルバンダを復活させ、いつの日か、再び世界の統一を目指す日が来るだろう。多くの神々がそれを待ち望み、そして支持するのだ。」

 そう叫ぶとルガルバンダは火の中に身を投じたのだった。

 

 かつてビハールでルガルバンダを批判したソロンは嘆いた。

「民衆はルガルバンダが強大なときには私の声に耳を貸さず、ただルガルバンダを讃えた。そして今、ルガルバンダが窮地に陥ったとき、これをいとも簡単に見捨てた。もちろん、ルガルバンダへの不満や反発もあったろうが、結局は勝者に迎合しているに過ぎない。」

 ソロンのことを伝え聞いたナユタは、ビハールに入るとソロンを招いた。ソロンはやって来たが、特別な身繕いをすることもなく、普段着のままでサンダルもみすぼらしかった。そのソロンはナユタと会うと素っ気なく言った。

「来て欲しいというのでやって来た。特に会いたい理由はなかったがな。」

 ナユタは頭を低くして語りかけた。

「いえ、私がお会いしたかったのです。ソロン殿はルガルバンダの施政に批判を展開されていたと聞き及んでいます。今、そのルガルバンダの帝国は崩壊しましたが、これからの世界のことについては、まさに五里霧中の状態。ぜひ、お考えをお聞かせいただきたいと思っております。」

「たしかに、ルガルバンダの施政ははなはだ歪んだものであり、これを打ち倒したことは善と言うことができよう。だが、わしとしてむしろ聞きたいのは、汝はどんな世界を実現したいのかということだ。汝は孤独な孤高の神と聞いているがな。」

「私はかつての清新の神々の世界を取り戻したいのです。」

 これにはソロンは大きく笑った。

「馬鹿なことを。汝がそんなことを言うほどたわけておるとは思わなんだ。そんなものは無理に決まっておる。」

「では、どうすればよろしいでしょうか?」

「まず、汝が理解すべきことは、世の神々はルガルバンダが繁栄していたときにはこれを大いに支持し、その繁栄のおこぼれに預かろうと必死になっておったが、今、汝がそれを倒すと手のひらを返したように汝たちを支持しているということだ。この神々の現実を見据え、それでも清新の世界をというなら、汝は森へ帰るほかあるまいな。」

 ナユタがそれに答えられずにいると、ソロンは続けて言った。

「神々が望んでいるのは、衣食住の安泰と快楽、さまざまな欲望を満たすことに過ぎぬ。もちろん、ルガルバンダの帝国は民衆からの搾取がひどく、一部の者たちが極端に富んでいる世界だったが、それはこれからの施策で緩和することもできよう。だが、それは本質的なことではない。結局、この世界は愚衆たちの世界だということだ。賢民が育てられねばならぬのかもしれぬが、それは途方もなく難しいことだろうな。だから汝が為したいということは架空の幻を追い求めるようなもの。永劫の未来の先までそれが実現することはあるまいな。」

 この言葉にナユタは返すべき言葉もなく、ただ謝意を述べたが、ソロンは独り言のように言った。

「この都でわしが非難した者の中にアルセイスという女神がおる。男をたらし込んで蓄財に励んでいた妖女だ。おまえがそいつをどう扱うか見物だな。」

 そう言うとソロンはナユタの元を辞し、ただひとり森に去って行った。

「利を求める神ははびこっているが、義によって生きる神はもはやいない。ずる賢い神は増えたが、真理を知る賢者は大地からいなくなった。」

 これがソロンの残した最後の言葉だった。

 

 ともかく、神々の戦いは終わった。その戦いは、かつてない凄惨な戦いであった。これほどの兵士が倒れたことはかつてなかったし、その戦いによって大地がこれほどまでに荒廃したこともかつてなかった。

 ナユタは主だった神々だけをビハールの広場に集めて勝利を宣言したが、その宣言は地味でひっそりしただった。ナユタはルガルバンダの偉業が書き込まれていたオベリスクを引き倒させ、改めてパンチャジャナを吹くと、こう語った。

「ルガルバンダの覇権は潰え去った。神々の世界に、強圧的な政治体制を押し付けようとした野望は打ち倒された。それはこの世界から大きな厄災が取り除かれたことを意味する。それは大義に則り、世界の真の姿を具現するために必要不可欠であった。そして我々はそれを成し遂げた。この壮挙は歴史の一ページにしっかりと刻み込まれるだろう。しかしながら、同時に私は別のことを語らなければならない。それは、この戦いで得られたものは何もない、すべての神がただ何かを失った戦いであったということだ。そしてまた、私自身について言うなら、そもそも、今回の世紀が始まったとき、私は世界がこのように展開するとは読めなかった。その誤りは素直に認めるほかない。その優柔不断さが混乱を助長したことも事実である。だが、今、こうして仲間たちとともに、再び平和の光を浴びることができる。それを素直に喜び、そして、喜びを分かち合いたい。これからは世界を復興させる時代だ。ひとりひとりの英知と献身が必要だ。新たな世界を拓くために、力を貸してもらいたい。」

 

 しばらくして、クレアとベレニケがやってきた。ヴォルタ河を渡った後、ナユタはクレアをマカベアに残していたのだが、ビハールが落ち着きを取り戻し、宮殿も元のようにきれいな姿に戻るとリュクセスと相談してクレアとベレニケを呼び寄せたのだった。

 クレアとベレニケが宮殿にやって来ると、召使いがふたりをナユタの部屋に案内してくれた。

「ふたりともよく来てくれた。疲れただろう。」

と言うナユタに、クレアは涼やかな笑顔を浮かべて言った。

「ええ、少し。でもお元気そうで何よりです。それにしても、ビハールは大都会と聞いていましたが、まさに聞きしに勝る都会ですね。この宮殿も凄いし。街中ではまだ戦いの傷痕がいたるところで目に入りましたが、この都で暮らせると思うとわくわくしますわ。」

 ナユタはラートリー女神のごとき柔らかなクレアの笑顔を見、生き生きしたその声を聞くと、嬉しくなって大きな笑顔を見せて言った。

「ああ、きっとこれまでにない世界だよ。ただ、戦いは終わったが、やらなくちゃいけないことは山ほどある。また今日からよろしく頼むよ。君のための部屋も用意が整っているし、君のための召使いもいるから。リュクセスもすぐにやって来るよ。」

 ナユタがそう言った矢先にリュクセスが入ってきた。ベレニケは両手を広げて喜びを表すリュクセスに抱きついた。

「待ってたよ。」

と言うリュクセスにベレニケは涙混じりに言った。

「ずっと心配してた。でも、もう大丈夫よね。」

「ああ、大丈夫だ。これからはぼくたちの時代だ。」

 

 次の日、さっそく、ヒュブラーが内々のメンバーでクレアとベレニケの歓迎会を催してくれた。この会には、イルシュマやリュクセスだけでなく、ユビュをはじめシャルマ、プシュパギリ、ギランダなども顔を揃えた。クレアとベレニケにとっては、ユビュ、シャルマ、プシュパギリ、ギランダとの初めての顔合わせでもあった。

 クレアはサラスヴァティー女神の化身かと思えるほど美しい気品を漂わせたユビュに初めて会うと、ひどく緊張してうわずった声で挨拶した。

「ユビュ様に直接お会いできて、こんな光栄なことはございません。ふつつか者ではございますが、どうぞよろしくお願い致します。」

 ユビュはにこやかに笑って言った。

「そんな堅苦しい、しゃちこ張った言葉はいらないのよ。ナユタさんをとっても支えてもらってるってことはよく知ってます。できればお友達になってもらいたいものだわ。第一、わたしはこの世界に生きるただの女神に過ぎないんですから。」

「そんなことはございません。ユビュ様なしにはこの戦いの勝利はなかったということは重々承知していますので。」

「この戦いに私も少しは貢献したかもしれないけど、勝利をたぐり寄せたのはひとりひとりの神々の努力の賜物。ともかく仲良くしてくださいね。ベレニケさんも。」

 その歓迎会はナユタにとっても心温まるもので、まさに平和が取り戻されたのだという思いを実感することができた。これからは自分たちの自由な世界なのだ。そんな思いが心の中に暖かい風を送り込んでくれた。クレアもベレニケも楽しそうだったし、それを見守るユビュの優しいまなざしもすてきだった。

 ユビュがベレニケとリュクセスの馴れ初めを聞きたいと言うと、クレアが答えた。

「きっと本人たちは照れてほんとうのことを言わないでしょうから、私が言いますね。あれは、ドルヒヤでのずいぶん前の戦車競走の時だったんです。私たちはまだほんの少女だったんですが、出場者の中で特別に目を惹いたのがリュクセスだったんです。背が高く、精悍で、ドルヒヤ地方の者たちとは違う出で立ちで。そして競争が始まると、リュクセスの走りは圧巻で、まったく他の者たちを寄せ付けない強さで優勝したんです。それで、ヒュブラーはリュクセスを招いて祝宴を催したんですが、その宴にベレニケは初めて胸元を晒す正装をして行ったんです。ユビュ様はご存じないと思いますが、ドルヒヤでは胸元を晒す衣装というのは未婚の若い娘が若い男性のために着る正装なんです。ベレニケは一緒に行った私に、リュクセスとお近づきになりたいと言って、いちおう一緒に挨拶はしたんですけど、何せそんな場は初めてで勝手も分からず、ほんとうのところ、何をしゃべって良いかも分からずでした。それにリュクセスさんは他の女神の方が気になったみたいで。ベレニケはそのことを帰り道でずいぶんこぼしていました。」

「そうだったかな。単にその場の流れだけだったように思えるが。」

 リュクセスはそう言ったが、クレアは笑いながら続けた。

「まあ、言い訳はけっこうですよ。ともかく、それでその時はそれで終わってしまったんですが、今回リュクセスさんがイルシュマさんと一緒にドルヒヤに来て、ヒュブラーの会でリュクセスさんが賓客として紹介されるとベレニケはもう舞い上がっちゃって。」

「そんなだったかしら?それほどじゃなかったと思うけど。」

 今度はベレニケがそう言ったが、クレアは笑いながらきっぱりと言った。

「いいえ、舞い上がってました。」

「そう言えば、クレアは、今にも結婚しそうな勢いだったと言ってたな。」

 ナユタがそう付け加えるとユビュも言った。

「でも、すてきな話じゃないの。」

 クレアが嬉しそうに続けた。

「そうですよね。それで、リュクセスがヒュブラーの館に住むことになったので、ベレニケはヒュブラーの姪ということに託けてしょっちゅうヒュブラーの邸宅を訪ね、リュクセスさんに会ってたんですよ。私もベレニケに会う度に、リュクセスに会った話とか、次はいつ会えるとか、そんな話を何度となく聞かされました。」

「仲の良いお友達なのね。」

「ええ、ありがとうございます。幼なじみなので。」

「とにかくベレニケはリュクセスに首ったけで、リュクセスがドルヒヤを離れると毎日のように大丈夫かしらと心配してたんですよ。マカベアが落ちると、早くマカベアに行きたいとせかされるし、ビハールが落ちるとまたまた早くビハールに行きたいとせっつかれるし。」

「でも、クレアだって、ナユタさんのことをとっても気にしてたじゃない。人のことだけじゃなくて、自分のことも言わなくちゃ駄目なんじゃない?」

「それは私はナユタさんに仕えてるんだから、心配するのは当然でしょ。」

「ほんとにそれだけかしら?」

 ベレニケはそう言ったが、クレアはきっぱり言った。

「変な誤解を招くようなことは言わないでね。ナユタさんも迷惑でしょうし。」

「迷惑ということはないし、クレアがいてくれてほんとうにありがたいよ。ともかく、リュクセスには力になってもらったし、これからはベレニケさんとふたりでということで未来が開けるよ。」

 ナユタがそう言うとクレアは納得したような表情でベレニケに言った。

「ともかく、これからはリュクセスを絶対ひとりにはしないんだよね。」

 そうクレアが言うと、ベレニケはちょっと恥ずかしげに言った。

「ええ、リュクセスもそれを望んでいるし。」

 ともかく新しい時代が始まるのだ。そんな実感がこもった歓迎会だった。

 ユビュ、シャルマ、プシュパギリ、ギランダにとってはナユタがそんな風に女神と気安く話すのを見たこともなく、ナユタも変わったと実感した会でもあった。プシュパギリはこっそりシャルマとユビュに言った。

「ナユタも変わったな。こんなナユタは見たことがなかった。」

 ユビュは微笑みながら答えた。

「でも、良いんじゃないかしら?ナユタはこれまであまりに孤独で孤高の神でしたから。」

 シャルマも言った。

「その通りですよ。これからは民の実際の心にも沿ったことをやらなくてはならない世の中。ナユタが孤高の存在であれば良いというものではないでしょうから。そういう意味では、こんなナユタは大歓迎ですよ。」

 それは皆が感じたナユタの変化であったろう。時代も変化しているのだ。いつまでも孤高のナユタではいられないではないか。それが皆の共通した思いだった。

 

 その後の日々は戦後処理で忙しかった。

 ナユタはまず、ビハールの城門にあったルガルバンダの巨像を引き倒させて粉々にし、同時に、ルガルバンダの悪政を支えた者たちの処罰を行った。

 もっとも重い罪を問われたのはアルワムナで、刑は市民権の無期限剥奪と禁錮三百年。その三百年間誰もアルワムナと話をしてはならないと決められた。アルワムナは、

「神々が望む新しい世界を構築した功績こそ認められるべきだ。」

と自己弁護したが、その主張は次の言葉で断罪された。

「アルワムナの行ったことは自らの栄華と栄達のためでしかなかったではないか。ルガルバンダに反する者たちを罪もなく投獄し、焚書を実行したことなどは、神道に対する許されざる行為としか言えない。」

 メダテスも同罪で、アルワムナよりは軽かったが、市民権の無期限剥奪と禁錮二百年が言い渡された。メダテスは「跖狗吠尭」という古来からのことわざを引用し、

「私は官吏として上からの指示に従ってやるべき事を遂行したに過ぎない。」

と自己弁護したが、

「民のこと、世界の神々のことを考えず、ただルガルバンダの意に適うことを為すことによって立身出世を図った生き方は神の道に悖るものでしかない。」

と切って捨てられた。

 一方でナユタは大赦を発表した。それは、ルガルバンダによって投獄されたり強制労働に従事させられたりしていた者たちの釈放であると同時に、それまでルガルバンダに組していた多くの者に対する恩赦でもあった。ルガルバンダ世界で活躍した有能な者たちの力が復興のために不可欠だったからだったが、ほとんどの者が全財産没収だけで済み、新しい政治機構の中で新たな活躍の場を与えられた。

 この大赦は騒然としていた世を鎮めるのに大きな効果があった。実際、ルガルバンダに組した者たちが罪に問われるとしたら、彼らは逃亡し、結託し、新たな反ナユタの動きを見せることにもなりかねない。彼らのほとんど全部が許され、新しい世界の中で居場所を与えられたということは新しい世界の構築において何よりも重要なことだった。

 

 この大赦の対象に、ソロンが口を極めて非難していた妖女アルセイスがいたが、彼女は全財産の没収と引き替えに自由を与えられたこの大赦に納得せず、単身、ナユタを訪ねてきた。そもそもはナユタがアルセイスに会う必要はなかったのかもしれないが、ソロンの言葉が頭に焼き付いていたナユタは面会に応じたのだった。

 アルセイス女神はソロンが妖女と言った通り、妖艶な姿で現われた。化粧は濃く、乳房は薄衣で覆うだけで乳首も透けて見え、臍も肩も長いほっそりした腕も覆っていなかった。

 彼女を居間に通したクレアはきついまなざしで、

「あんなあばずれの女神に本当にお会いになるんですか?」

と詰問するような口調で言ったほどだった。

 ナユタに会うとアルセイス女神は膝を曲げて挨拶して言った。

「宇宙の英雄ナユタ様にお目にかかれて光栄にございます。でも、このビハールで合法的な行いしかしてこなかった私がどうして全財産を没収される憂き目に遭わねばならないのか、まるで合点がゆかず、それをおうかがいしたくて今日は参りました。大赦で自由を賜ったとのことですが、そもそもなぜ私が改めて大赦を賜らねばならないのか、それもお聞きせねばなりません。」

 ナユタは表情も崩さず言った。

「調べはついているんだ。その体を男に売り、法外な金を稼いでいた淫乱な女神で、ビハールの腐敗の元凶の一つを作った妖女ということではないか。賢者として名高いソロンも厳しく非難していた。」

 アルセイスはそんな馬鹿なと言わんばかりの表情を作って言った。

「ナユタ様ともあろう方がそんな言いがかりのようなことを言われるなんて、この世界はどうなんてしまったんでしょう?たしかに私は館を営み、男神の方々をおもてなししました。でも、それは男の方々のごく自然な欲望、願望に基づいているもの。しかも、それは法に則っており、お上からも認められていました。第一、男の方々は私に贈り物を下さるだけで、私も自分が差し上げたいものを差し上げただけ。それだけですわ。それのどこが不当というのでしょう。そのいただいたものを没収するなどまさに勝者の横暴ではありませんか。しかもソロンごとき者の言葉にたぶらかされて。」

「まるでペテン師のような言いぐさだな。自分がどれほどあくどいことをやって巨利を貪っていたか反省はないのか。」

「反省?あきれた言葉ですわ。男というものは皆、女に魅力を感じるし、その裸を見たい、その体を抱きたい、そして自分のものを女のあそこに入れたいと願うもの。その当たり前の道理に則ってるだけのことがありませんか。私は単にそんな男の方々の願望を叶えさせて差し上げてただけですよ。私が殿方に約束したことを違えたとか、そういうことなら処罰も分かりますが、私は何一つそんなことはしていません。そもそもナユタ様は正義の神として宇宙に名を馳せた英雄。その正義の神というナユタ様が、わたしへの裁きが不正当であることを認めようとなさらないとは。それとも私がナユタ様の心を動かすには理に適った説明ではなく私の体が必要ということでしょうか?」

 ナユタはこの言葉には答えず、厳しい口調のままで言った。

「ついでに言うが、ルガルバンダが略奪したサウロマタイの女神たちを囲い、男たちの相手をさせていただろう。」

「でも、それも認められておりました。」

「それらすべてが神の道に照らして断罪されるべき行為とは思わないのか?ともかく、不当な利益というほかない。だから財産は没収。ただ、罪は大赦で許し、自由を与えるのだ。」

「なんとも横暴な為政者様でいらっしゃること。そもそも男たちのいやらしい股間についているものこそこの世を歪ませている元凶ではありませんか。それがある限り、決して世は良くならないのでは?もっとも、それがなければ世は滅んでしまうし、女のここも男のそれを咥えたがっているわけですけどね。でも、それを女のせいにされるのは理不尽極まりないことですわ。そういう意味では、あなたも理不尽なことを正当化する暴君と同じ。でも、決まったというなら仕方ありませんわ。ともかく、私は自由を回復し、また商売ができるということですわね。納得はできないけど、それでけっこうですわ。できれば、改めてナユタ様に私の第一号のお客様になっていただきたいくらいですわ。あなたは私に対して厳しい口調のままだけど、あなただって男。心の中は私の姿を見てざわめいているはずだし、私がこの薄衣の衣装を取り去れば、あなたの股間だってすぐ盛り上がるはず。それとも、もう既に立ってらっしゃる?私の腰巻きをずり降ろして、あなたのぶっといものを私の割れ目にぶち込んでいただけるなら、こんな嬉しいことはありませんのよ。女にとっても、殿方のびんびんに立ったあのものの先端が女の秘部にぬるっと入ってくる感覚は言いようのない快感ですから。」

 そう言ってアルセイスは妖艶なまなざしを投げた。

 ナユタは鈴を鳴らしてクレアを呼んだ。クレアが来るとナユタは短く言った。

「アルセイスさんがお帰りだ。」

 アルセイスはつんとして出て行った。彼女を見送りに行ったクレアが戻ってくるとナユタは不機嫌そうに言った。

「玄関に塩を撒いておいてくれ。」

 クレアは涼やかないつもの笑顔で、

「何ごともなく、ようございました。」

と答え、実際に玄関に塩を撒いたのだった。

 

 それからしばらく経って、ジャトゥカムがアルマン、エルアザル、パルミュスらを伴ってビハールにやって来た。プシュパギリとシャンターヤが出迎えるとジャトゥカムは言った。

「最初はおれひとりで来ようと思ったんだが、みんなビハールが見たいと言うんで連れてきた。パルミュスもいつまでもシャンターヤをひとりにしておけないって言うんでな。」

 プシュパギリは目頭を熱くして言った。

「よく来てくれた。この偉業は後世まで語り継がれるだろうが、その最初の一穴を開けたのはまぎれもなくヤズディアだった。ただただ感謝しかない。」

「そうだな。それは誇りに思っている。だが、おれたちだけではどうにもできなかったからな。プシュパギリとシャンターヤのおかげだよ。パルミュスにとっても最高の伴侶との出会いになったわけだし。」

 そう言ってジャトゥカムが笑うとプシュパギリも大きく笑って言った。

「パルミュスさん。シャンターヤを長らくお借りしていましたが、今日でお返ししますよ。おれもこれで一つ肩の荷が下りたというものだ。シャンターヤ、なんとか言えよ。」

 シャンターヤが何と言ったら良いかちょっと途惑っているとパルミュスが言った。

「あまりシャンターヤを困らせないでくださいね。私はこうして元気なシャンターヤに会えただけで嬉しいので。あなたもそうでしょう?」

「ああ、そうだよ。」

とシャンターヤが口ごもりながら言うと、プシュパギリが言った。

「ともかく歓迎するよ。これからのこともあるが、まずは再会を祝して一杯やろう。」

 そう言ってプシュパギリは料理と酒を運ばせた。

「あいにく、こっちにはヤズディアの酒はないんで。北の酒でまずは乾杯だ。」

 プシュパギリがそう言って乾杯すると、さっそくアルマンが言った。

「たしかに向こうの酒とは違うな。でも、これはこれでとっても良い。それにしてもビハールはたいした都だな。神の多さを見ただけでも、おれは田舎者だなと思わせられるよ。」

「そうだな。でも、すぐに慣れるさ。近いうちにナユタやユビュ様にも会ってもらうつもりだ。これからのことについてはそれから相談だが、嫌でなければ、おれやシャンターヤと一緒に新しい世界の構築に力を貸して欲しいんだ。」

「ああ、いいだろう。おれたちの世界だからな。」

 ジャトゥカムがそう言えば、アルマンやエルアザルも口々に言った。

「新しい世界が楽しみだよ。自分の手で新しい世界を作れるとは夢にも思わなかったし。」

「でも、まずはビハールをいろいろ見てみなくちゃな。何もかもヤズディアとは違うからな。」

 六神は昔話やプシュパギリとシャンターヤがヤズディアを出た後の話、ビハールのことなどで大いに盛り上がったが、その夜、パルミュスはシャンターヤとふたりきりになると思いきり抱きついて言った。

「やっとふたりきりになれた。ずっとこのときを待ってたのよ。」

「ああ、ぼくもだ。」

 シャンターヤが熱い口づけをするとパルミュスはシャンターヤにしなだれかかった。

「私はもう待ちきれないの。あなたが欲しくて欲しくてずっと寂しかった。」

「ああ、もう手放さないよ。」

 シャンターヤがパルミュスの衣服をはだけ、その豊満な乳房を揉みしだき、ピンクに勃起した乳首に吸い付くと、彼女は妖艶なるアプサラスそのままの美しい表情で喘ぎ声を上げ、その細い腰をくねらせた。

「あの時のようにして。」

 シャンターヤがパルミュスを裸にして自らも服を脱ぐと、パルミュスは勃起した男根をいとおしそうに口に含み、亀頭を舐め回した。彼女が初めての時と同じく、全裸で豊満な尻をシャンターヤの目の前に突き出すと、シャンターヤは己の巨根を思い切り彼女の女陰に突っ込んで久方ぶりの彼女の陰奥の感触を味わい、感極まって真っ白な精を吐き出したのだった。

 

 こうしてナユタたちにとって新しい世界が動き出したが、戦後復興のために為すべきことは山のようにあった。政治体制の一新、統治機構の構築、法の整備、さらには、道路の復旧や田畑や河川の整備、通貨の安定など、課題は数え切れなかった。

 シャルマは新しい世界の基軸となる法の整備を進めた。基礎となったのはルガルバンダ法典であったが、ルガルバンダ法典では厳しく抑制されていた神々の権利と自由が大きく明記された。ルガルバンダ法典が、神々を支配し、抑圧するための法典であったのに対し、新しいシャルマ法典は、神々の権利と自由を担保し、民主主義に基づく議会の創設を謳う法典となった。

 神々の平等も大きく謳われた。これによって、周辺の神々も中原の神々と基本的に同等の権利を有することになった。シャルマの言葉を借りれば、

「すべての神に均等な機会を。」

ということだった。

 政治体制について新しい制度を唱えたのはプシュパギリだった。

「ルガルバンダはこの宇宙のもっとも偉大な神のひとりだった。だが、そのルガルバンダも独裁君主という絶対権力の座に着くと、慢心と驕慢と猜疑心の塊となり、神々を抑圧することによって世界支配を維持し続けようとする傲慢な神になり下がってしまった。そんな危険からこの世界を守るために必要なのは、神々が主権を持つ世界を作ることだ。それはまさに、多数の意見が世を動かすという世界だ。」

 この意見に反対する者は誰もいなかった。プシュパギリはこの制度について研究し、選挙で選ばれる議員からなる議会創設に向けて取り組んだ。

 一方、シャンターヤは別の視点から語った。

「かつての神々の世界であれば、再び神々の自活の世界に戻ればよかったろう。だが、ルガルバンダの始めた試みによってすべては変わってしまった。度量衡の統一、貨幣の統一、神々の世界の中での流通網の整備、そしてそれらを支える統治体制によって、良くも悪くも、この世界は、複雑に相互作用し合い、統治が必要な世界となってしまった。それぞれの神々の思いがただこの大地に散らばっている世界ではなく、経済と欲望が巨大な車輪を回す世界になったのだ。神々もそれを受け入れ、それを求めている。今の神々はもはやかつての神々ではない。」

 そのことはナユタもよく分かっていた。もはやかつての世界には戻れないのだ。神々が本当に望む世界を構築すること、それが命題だった。ルガルバンダの世界はある意味神々が求めるものを実現する世界であったが、同時に、抑圧や搾取によって神々の反感を買う世界でもあり、それがルガルバンダの統治が崩壊した根本的原因とも言えた。だが、誰ももはやかつてのような清貧の世界を望んでなどいない。だから、新しい世界が必要なのだ。そして、その基盤となるのは、自由、平等、そして、繁栄なのだ。

 この視点で見たとき、一つの大きな問題は夷狄、蛮族などと呼ばれた者たちを含めた辺境の神々の存在だった。ある意味、ルガルバンダが再び目覚めた後の覇権争いとその結果生まれたルガルバンダ帝国は中原でのできごとだった。周辺の者たちは取り残され、ルガルバンダ世界では搾取の対象に成り下がっていた面もあった。

 そして、ナユタが掲げた反旗には、ヴォルタ河以北以東の地方、ヤンベジ河以南の地方から多くの辺境部族が合流し、それがルガルバンダを倒す力になったことも否めなかった。ある意味、ルガルバンダとナユタの戦いは、中原の搾取する側と辺境で搾取される側の戦いという構図も持っていた。まさに、夷狄、蛮族は、ルガルバンダの繁栄から疎外された者たちの象徴とも言えた。

 その周辺部族に対する政策を主導したのはリュクセスとジャトゥカムだったが、ふたりの考えは必ずしも噛み合わなかった。ふたりとも周辺部族のためという視点では同じだったが、何が彼らのためになるかという点では考えに大きな開きがあった。

 リュクセスはかつて広い世界を渡り歩いてさまざまな文化や風習があることを理解し、中原至上主義的な考えには批判的であった。そのため、リュクセスは各部族の文化や伝統を重んじ、中原文化への急速な同化には批判的だった。

 一方、ジャトゥカムは、ビハールとヤズディアの間に厳然と存在する経済レベルの格差が心に重くのしかかっており、周辺部族のビハール化こそが周辺部族と中原との格差をなくし、両者が対等になるために必須という考えだった。

 このふたりの考えの違いはしばしば政策の対立を引き起こし、ナユタが調整に苦労することもしばしばだった。全体としては、この新しい世界の繁栄と発展という観点からジャトゥカムの意見の方が支持されることが多かったが、リュクセスの考えもある程度は取り入れられ、方針は拙速的なものとならざるを得なかった。

 だが、リュクセスとジャトゥカムの対立は単に周辺地域政策の対立に留まらず、派閥的な動きへと結びついていった。リュクセスの頼りはなんと言っても親族となったヒュブラーであり、ドルヒヤ以来共に戦ってきたナユタ、ヴィクートであった。さらにイルシュマとの結びつきも強かった。一方、ジャトゥカムの頼りは旧友であるプシュパギリと妹パルミュスの夫であるシャンターヤであった。そして、プシュパギリはナユタ、シャルマ、ユビュとの絆も深かった。

 それぞれの神の思惑が入り乱れる中で、大きく三つの派が形作られていった。一つはヒュブラーやリュクセスが中心となるドルヒヤ派で、当然のことながらチャシタナをはじめヴォルタ河以東の部族出身の者たちはドルヒヤ派となった。二つ目は、ジャトゥカム、プシュパギリ、シャンターヤが中心となるヤズディア派で、アルマン、エルアザル等は当然ヤズディア派だった。もう一つは、必ずしも派としてのまとまりや結束力があるわけではなかったが、ウバリート派と呼ばれた。ウバリート派が戴くのは当然ユビュであり、シャルマ、バルマン師、ギランダが支えたが、どちらかと言えば中立的な立ち位置だった。

 そんな派閥間の争いが底流にはあったが、それを表面化させず、深刻な亀裂、軋轢に発展させなかったのはナユタの絶大なる権威であり、さらには神々のユビュへの崇拝とも言える信頼だった。ナユタはマーシュ師に会うとその状況について悩みを相談したが、マーシュ師は理解を示しつつも言った。

「ルガルバンダを倒すまではみな必死に協力してくれた。協力しなければ、ルガルバンダに倒されるだけだったからだ。だが、その共通の敵はなくなれば、次に起こるのは互いの争い。人の世であれ、神の世であれ、それが世の常というものだ。だが、ユビュへの崇敬の念は神々に広く染み込んでおり、誰もこれを犯すことはできないだろう。また、この戦いを勝利したおまえの権威も絶大だ。だから、しばらくはユビュの威信を利用しつつ、おまえが指導力を発揮するほかないだろう。」

 この言葉にナユタはあまり嬉しそうな顔をしなかったが、マーシュ師は元気づけるように言った。

「ともかく、今は復興と新しい世界の構築が第一。それを政治闘争の場にしてはならん。ともかく新しい世界秩序を構築し、新しい世界への道筋をつければ、あとは他の神々に任せても良いだろう。」

 この言葉にナユタはうなずくほかなく、マーシュ師の言葉に従って新しい世界の構築に取り組んでいった。

 

 そんな中、芸術面を担当したのはバルマン師だった。都にはバルマン芸術院ができ、そこで教育を受けた教師たちが、各地に作られた音楽学校、美術学校で教鞭をとった。

 学術の世界では、マーシュ師が神々の世界での最初の大学であるマーシュ大学を作った。マーシュ大学では、哲学、歴史、宗教などが研究され、教えられた。図書館も再建された。ルガルバンダがビハールに作ったビハール図書館は七十万巻にも及ぶ巻物を誇っていたが、新たに二百万巻を貯蔵できるよう書庫が増設され、世界各地の書物が収集された。

 哲学の分野では、哲学科の主任教授に就任したビラルダが、大著『大哲学者たち』を著した。これは宇宙創成以来の様々な神々そして人間たちの偉大な思想を集めた労作であった。その中の白眉は第五巻の『パキゼー』だったろう。ビラルダは、パキゼーが語った言葉の記録を集め、その思想の体系化を試みたのであった。

 歴史の研究に大きく貢献したのは、パララーマだった。パララーマは歴史編纂のために世界各地を旅し、様々な神々から直接あるいは間接に話を聞き、歴史的な史跡を訪ね歩いた。そのパララーマが著したのが、十二巻にも及ぶ大作『神々の歴史』であった。

 その歴史的態度は、ナユタとユビュを軸とする歴史観に立っていた。それは、三賢神の偉大さを称え、ナタラーヤ聖仙とヴィカルナ聖仙を絶対視する世界観と位相の合ったものだった。だが、パララーマは、ムチャリンダ、イムテーベ、ルガルバンダなどの真摯な姿勢も合わせて記述し、公正かつ中立的な歴史記述にこだわった点が特筆すべき点であった。

 この作品は神々の世界での初めての本格的な歴史書であり、計り知れないほどの影響を与えた。

 一方、異端の神プリシュニガルバは、『神々の没落』を著した。これは、今世紀に起こった争いを歴史の巨大な転換点と捉らえ、同時にかつての神々の価値観の崩壊を意味すると捉えた点で画期的な書であった。『神々の没落』は、ビラルダの『大哲学者たち』にも大きな影響を与えたと言われている。また、気鋭の哲学者アルベルトは、『神々の没落』に触発されて、『真理について』を著した。これはかつて問われることなく真とみられていた価値観が崩壊し、すべてが相対的となった今世の世界観に立ち、その中で真理を問うた真摯な哲学書であった。

 『神々の歴史』と『神々の没落』に触発されて生まれた代表的な文学作品としてよく知られるのがモーガラージャの『創造の世紀』である。この作品は、ブルーポールを軸に繰り広げられる神々の戦いを描いた壮大な戯曲であり、ヴァーサヴァによる前回の創造の開始からユビュがタンカーラを吹いて世界を帰滅させるまでを描いている。

 本著『ブルーポールズ』は、『神々の歴史』及び『創造の世紀』に大きな影響を受け、これらの作品の記述を多くの部分で採用している。モーガラージャの『創造の世紀』の最後にはカーテンコールが付けられているが、本著『ブルーポールズ』第三巻の最後に付けられたカーテンコールは、『創造の世紀』のカーテンコールに基づいている。

 一方、ウダヤ師はウダヤ総合技術院を創設した。院長にはウダヤ師自身が、そして、副院長には弩砲を作ったアリアヌスが就任した。神々の世界の技術の進歩には目覚ましいものがあった。特に、今時大戦は、兵器や輸送手段などで数々の技術革新を生み、神々の世界全体の技術レベルを大きく押し上げていた。

 ウダヤ総合技術院ではそれらの科学技術を体系化し、数式化して教えられた。ウダヤ師が特に力を入れたのが農業技術、鉱業技術、土木建築技術などの革新であり、これによって生産性は飛躍的に向上した。

 副院長のアリアヌスは力学体系をさらに発展させて物理学の体系としてまとめた。アリアヌスが著した『一般物理学総論』は今なお古典的名著として、物理学を学ぶ学生たちが必ず読まねばならない教科書となっている。

 ウバリートにいたナキアとクマルビはビハールにやって来てウダヤ総合技術院の一期生としてなった。イルシュマはナキアに、

「おまえの能からしたら、学生として入学するんじゃなくて、教師として教えれるはずだけどな。」

と言ったが、ナキアは取り合わなかった。

「もちろん、数学のことは教えれるわ。でも、私は科学の基礎と、数学の研究手法を学びたいのよ。だから、博士号を取るつもりで、ここに入学することにしたの。」

 その考えはクマルビも同様だった。彼はイルシュマに言った。

「今のままでは、ただの技術屋で終わってしまいますからね。科学は奥も深いし、幅も広い。それらをできる限り学びたいんですよ。」

 ウダヤ技術院で学んだナキアとクマルビはそれぞれ極めて優秀な成績で修了し、博士号を取得した。ふたりは学位取得後、この技術院で数学、材料学の教授に就任した。女神が博士号を取り教授となるなどルガルバンダ時代には考えられもしなかったが、ナキアは女神の博士第一号となり、女神初の教授となった。

 

 一方、ヴィクートは軍を解散し、新たに治安部隊を創設した。各地に駐屯基地を作り、伝令組織を拡充させた。ヴィクートの仕事を支えたのはヒュブラーで、彼は各地を飛び回って精力的に部隊と組織の構築を推進した。

 シャンターヤは統治機構の整備を進め、財政制度の基盤を整えた。

 ギランダは、道路、港湾などを整備し、流通機構の改革を行った。ルガルバンダの時代にも流通は大幅に発展したが、ギランダの改革でさらに飛躍した。東の物産が早ければ、数日で西の地方に届くようになり、これによって全体の生産力も飛躍的に向上した。

 ギランダの政策を支え、活用したのはイルシュマだった。出身地方一番の秀才と言われたイルシュマは鉄鉱石の買い付けに端を発した商売をその秀明な頭脳と持ち前の才覚で大きく広げていたが、ビハールに入ってからは、ホテルや料亭などの経営も始めていた。バクテュエス以来イルシュマと行動を共にしてきた仲間たちもみなイルシュマの差配のもと、それぞれの事業の責任者として裕福になっていった。

 イルシュマにとってビジネスはおもしろくてたまらないらしく、休む間もなく毎日のように忙しく立ち回っていたが、そのイルシュマの盟友になったのが、ディクテ族のエルアザルだった。エルアザルはヤズディア解放後、ジャトゥカム、アルマンらと共にビハールに来て新政府の中で活動していたが、たまたま会ったイルシュマと深く意気投合し、もっとも信頼できる仲間となったのだった。イルシュマにとっては、果敢な行動へと仲間をまとめ上げてゆくエルアザルの神望にビジネスパートナーとしての大きな価値を見出したのだった。

 エルアザルにとっては、派閥争いの絡む政治の世界よりも、さまざまな新しい可能性を秘めたビジネスの世界の方がはるかにおもしろかったのだろう。エルアザルはイルシュマと共にビジネスを進めると共に、彼自身の新たなビジネスとして特に興業事業に力を入れた。

「これからは平和な時代。そんな時代で神々は刺激に飢えている。」

 そう語るエルアザルにイルシュマは大いに同意して言った。

「その通りだ。おれもこれまでの商売は衣食住のためと戦いのためのものだったが、これからは民の楽しみ、喜びこそがビジネスに繋がるからな。」

「ああ。その意味では、ルガルバンダは賢明だった。劇場、競技場、大浴場などを次々と作り、さまざまな催し物を行って、ビハールの者たちを喜ばせたんだからな。」

 この言葉を受けて、イルシュマは言った。

「もっとも、ルガルバンダはそれを自分の権力の強化のために行なったんだ。だから、最後にはビハールの者たちはルガルバンダを見捨てたけどな。それに対しておれたちのこの新しいビジネスは世の神を喜ばせ、神々の心を明るくし、治世の安定にも貢献する。新政府の後押しも不可欠だ。まずは、ヤズディア派の者たちに当たってくれるか?シャンターヤあたりがいいだろうな。」

 エルアザルはヤズディア派の力を存分に利用することができた。イルシュマにとっても、ヤズディア派に深い絆を持つという意味でもエルアザルは得がたい存在と言えた。

 エルアザルはシャンターヤと話をつけ、新政府の予算を活用した大円形劇場の整備を請負い、まずは悲劇競演を復活させた。さらに定期的な上演も行われるようになり、かつての悲劇競演の優勝者であるテスピスやピレモンなど神気劇作家が次々と新作を披露した。ルガルバンダ時代に、政府に批判的だとして上演禁止の処分を受けていた作品も次々に上演された。そんな中には、ルガルバンダやアルワムナを痛烈に風刺した戯曲もあり、ビハールの市民は過去のことは忘れて、ただただ大いに喝采を叫んだ。

 劇場公演が軌道に乗ってくると、エルアザルは一大イベントとして、モーガラージャの新作『創造の世紀』を初上演した。ヴァーサヴァの最後の創造にまつわるこの三部作の上演は三日間に渡ったが、新しい世界を導いた英雄ナユタやユビュの物語に観客は涙し、感動した。この初上演にはナユタ、ユビュ、三賢神をはじめ名だたる神々も出席したが、ナユタと共にこの上演を見たクレアはとてつもなく感動したようだった。

 夜、イルシュマからのお祝いの品としてもらった上等の酒でナユタと杯を合せると、クレアは改めて言った。

「劇を見てこんなに感動したことはありませんでした。ほんとに、心が洗われるような思いでした。」

「ありがとう。でも、あの劇はよくできてるが、おれのことなど美化し過ぎている。」

 ナユタはそう言ったが、クレアは笑って答えた。

「劇とはそういうものですよ。でも、つまらない劇はどんなに趣向を凝らしたり、どんなに主神公を美化したりしても、やっぱりつまんないですから。この劇には、ナユタさんやユビュ様の真摯で純粋な思いが息づいていました。みんなそれに心打たれるんです。」

 ナユタは軽く首をすくめたが、感慨深そうに言った。

「でも、最後のクリシュナの場面とカーテンコールは良かったな。おれ自身もじーんと来たよ。」

 この上演の成功でエルアザルは新政府の信用も手に入れてさらにビジネスの幅を広げ、劇場での演劇、舞踊、演奏会などを幅広く手がけると同時に、大競技場での戦車競走なども主催するようになり、着々と富を築いていった。

 

 そんなある日、イルシュマがナユタのもとに挨拶にやってきた。

「ご挨拶と簡単なお願いがありまして。」

 そう言って切り出したイルシュマは続けて言った。

「ナユタ様が拓かれたこの世界を発展させるべく、これからもお役に立ちたいと思っていますが、今後、金融業に乗り出し、銀行を設立したいと思っています。金融業と言えば、いわゆる金貸し。困っている者に高利で金を貸して不当に利益を得たり、小麦や商品に先物投資する博打のような商売をしているという印象も広く世に行き渡っています。しかし、これからの金融業のあるべき姿は違います。これからは困っている者に金を貸すのではなく、新しい事業を起こすために金を必要としている者に金を融資するのです。」

 イルシュマの能力はまさにナユタも認めるところであり、かつてレゲシュでナユタの侍従長を務めたマナフよりはるかに才能豊かなのは確かだった。マナフはナユタの忠実な僕として才覚を振るったが、イルシュマはそんな枠に囚われず、この世界に大きく羽を広げようとしているのだ。これからの世界はまさにこんな男のための世界なのだろうという思いが胸の内を去来したナユタは、ちょっと皮肉っぽく言った。

「たしかに、これからの世界にはそんなことが必要かもしれないし、おまえがやろうとしていることは世のために役立つかもしれない。だが、そんなふうに金だけで世の中を回すのはいかがなものかという気もするがな。真理や神としての道とか。」

 だが、イルシュマはそんなナユタの言葉も意に介さなかった。イルシュマは大きく頷き、笑顔を見せて言った。

「それを否定は致しません。でも、私の為そうとしていることはそれを妨げるものでもありません。ただ、これは改めて申し上げなくても良いことですが、今時大戦に勝つことができたのは、ナユタ様の掲げた大義と勇気、武略が大きいのはもちろんですが、私どもが下支えをした物資、武器、武具、車両などの貢献も小さくはないはず。ルガルバンダに組していた商神たちを味方につけ、大量の物資を用意したことが、勝因の一つのはずです。実際、兵数ではルガルバンダが上回っていましたが、武器や装備ではこちらが遙かに上回っていたことを見逃してはならないと思っています。」

「そのことはもちろん理解しているよ。おまえの貢献の大きさもな。だから、いろいろとシャンターヤやギランダがおまえのために便宜も図っていて、最近では御用商神として羽振りを利かせていると聞いている。」

「ありがとうございます。それでこれから立ち上げる銀行では金を貸すだけではなく、さまざまな投資や保険も扱うつもりでいますが、私どもの口座の第一号にナユタ様になっていただきたいと思いまして。」

 そう言って、イルシュマは銀行の仕組みや口座について説明していった。話を聞いてナユタは納得し、

「まあ、いちおう分かったよ。十分に理解したかどうかは分からないが、おまえに任せておけば大丈夫とも思っているしな。」

と言い、さらに続けた。

「ついでにということで申し訳ないが、おれの資産の半分をクレアの名義にしておいてくれないか。クレアにはずいぶん世話になったからな。」

「分かりました。では、そのことも含めて書類を準備致しましょう。」

 数日後、イルシュマは何枚かの書類を差し出し、ナユタは印章を押した。

「ありがとうございます。書類にありますように、ナユタ様の資産の半分はクレアさん名義に致しました。今後、ナユタ様の資産はこの口座で管理でき、今回の契約に基づいて、資産の八割は私の裁量で投資運用させていただきます。口座の第一号がナユタ様というのも私どもの銀行にとりましても箔が付きますので、たいへんありがたく思っています。実は、第二号はユビュ様にお願いしようと思っておりまして。クレアさんの口座は第三号ということにしました。クレアさんの資産も私の方で管理させていただきます。」

 ナユタは笑って言った。

「いつものことだが、抜け目がないな。だが、聞くところによると、寝る暇も惜しんで精を出していると言うが、体は大丈夫なのか?」

 イルシュマは大きく手を横に振った。

「大丈夫です。世の中には、実際、寝る暇も惜しんでいる者や、さらには、寝る暇も惜しんで働くことが良いことだと言っている輩がいますが、それは無能者の戯言ですよ。能のある者はそんなことはしません。よく寝てよく休み、しっかり鋭気を養って、仕事に集中するときは集中する。そのほうがはるかに良い仕事ができます。」

「それは良い考えだ。」

「ありがとうございます。ともかく、口座を開設していただきましたので、今後の資産運用を楽しみになさって下さい。書類にも書いておりますように、利益をお約束も致しませんし、元本がなくなるリスクも否定はしませんが、どうぞ私は信頼していただければと思います。」

 実際、イルシュマのナユタやユビュに対する忠誠も確かなものだったし、イルシュマはナユタやユビュの資産を管理すると共に、目ざとく投資先を見つけてはナユタやユビュの資金を分散投資し、資産を増やしていった。

 ただ、イルシュマは政治には直接は関わらなかった。ギランダは、新たに設置する産業振興推進機構の総裁にイルシュマを据えたかったようだが、イルシュマはそれを断り、ただ、相談役とか、諮問会議のメンバーになるなどしただけだった。

 ギランダはたいそう残念がったが、イルシュマは意気軒昂だった。

「商売というものは、常に時代の先端、技術の先端を行かねばならない。だけど、役所にいてはそんなことはできない。役所はいつも現実を後追いするに過ぎませんからね。時代に取り残された商売は廃れるだけ。時代の変化を先取りし、思い切った投資で新しい商売を切り拓く。それが私のやりたいことなんですよ。」

 

 ヴィクートの配下で騎馬兵を指揮して活躍したサウロマタイ族の族長の孫であるチャシタナも別の道を歩き始めた。彼は、「もはや戦いの時代ではない。」というヴィクートの言葉を素直に信じ、数々の軍功に対する恩賞を辞退し、その代わりに、ヴォルタ河の以東のサウロマタイ族の暮らす一帯に広大な土地を拝受した。それもある意味、チャシタナの決断力と果敢な心意気の賜物だったし、ヤズディア派とドルヒヤ派の対立の影響もあったかもしれなかった。

 彼がビハールで政権の中枢に入っていこうとはせず、このような道を歩き始めたのは、かつてルガルバンダに略奪されたサウロマタイの女神たちのその後のことがいろいろ判明したことも大きかったようだった。チャシタナはビハールに略奪されたサウロマタイの女神のことを調べたが、有力者や裕福な者の妻や妾になったり、高級娼婦としてけっこうな金を稼いだりした者がいる一方、多くの女神は体や心を傷つけられて惨めな境遇に陥っているというのが現実だった。

 そんなことを踏まえ、チャシタナは新たな希望の持てる場所を作りたいと考え、配下の兵士たちと彼女たちとの結婚を取り持ち、彼らの中で賛同する者たちを連れて拝受した土地で開墾を始めることを決意したのだった。当然のことながら、結婚せずにチャシタナに従った男神や女神もいたが、その後、その土地に住みついてから相手を見つけて結婚した者たちも少なくなかった。

 チャシタナはビハールを離れる際、イルシュマと共にナユタとクレアを訪ねてきた。

「いよいよか。新しい世界が待っているな。」

 そう語りかけたナユタに、チャシタナは頭を下げて言った。

「いろいろありがとうございました。荒れた土地なので開墾は大変だと思いますが、頑張ります。仲間のためでもありますし。」

「それで、実はお願いがあって参りました。」

 そう言ったのは、一緒に来たイルシュマだった。

「この前、ナユタ様の資産の投資運用のことをお話ししたかと思いますが、その一部をチャシタナの農場に投資させていただきたいと思っております。実際、開墾と言っても膨大な費用と労力がかかりますので。」

 ナユタは笑って言った。

「おれは投資や運用のことはよく分からないし、この前の話では、おまえの裁量で投資するという話だったな。だったら、自分が信じるようにやってくれれば良いじゃないか。遠慮はいらないよ。」

「ありがとうございます。たしかにそうですが、一応、ご報告をと思いまして。ともかく、最初は苦労するでしょうが、将来は大きな利益を生む可能性のある農場ですので。実は、私自身もチャシタナには投資し、運営に一定の発言権ももらっていまして。特に、どんな作物を作れば儲かるかとか、獲れた作物をどう売りさばくかというのは商売に長けた者に一日の長があるわけですので。」

「なるほどな。それでどんなものを作るつもりなんだ?」

 チャシタナが答えた。

「実際には開墾して育ててみなければ分からない面は残っているのですが、じゃがいも、タマネギ、とうもろこし、小豆、ひまわり、甜菜などを考えています。いずれもそれなりに保存が利くので、ある程度の日数をかけてビハールをはじめさまざまな所で売るのにも適していると思います。これはイルシュマの知恵でもありますが。」

「なるほど。それは良いかもしれないな。ともかく、これでサウロマタイの者たちが幸せになってくれればな。」

 この言葉を受けて、クレアが言った。

「わたしもビハールに来てから、サウロマタイの女たちと知り合いになったけど、チャシタナさんにみんな感謝していました。まともな結婚はできないんじゃないかと思ってた子も多かったみたいなので。」

「そうですね。でも、ともかく、彼女たちには何の非もありませんから。」

「こんなことを訊いて良いのかどうか分からないけど、彼女たちから、チャシタナさんが思いを寄せてた子もビハールに連れて来られたと聞いたんですが。」

 この問いにチャシタナはちょっと顔色を変えたが、すぐににこやかな表情に戻って言った。

「ええ、その通りですよ。でも、それはほとんど私の片思いでしたので。せっかくなのでお話ししますが、ビハールで彼女のことも探して調べたのですが、ビハールの一市民と結婚してふたりの子供がいることが分かりました。彼女がどの程度望んで結婚したのか、あるいは嫌々結婚したのかは分かりませんが、今度ビハールから連れてゆくサウロマタイの女神の中に彼女と知り合いの女神がいて、彼女が言うには、ビハールで平穏に暮らしているので、そっとしておいて欲しいと思っているとのことでした。それで良いと思っています。」

「なるほどね。そのままそっとしたままにしておくのが良いんでしょうね。でも、それじゃあ、チャシタナさんは結婚は?」

 この問いにチャシタナが苦笑いすると、ナユタが言った。

「あんまりチャシタナを困らせるなよ。心配することはない。チャシタナほどの男を女どもが放っておくわけないからな。」 

 そう言うと、ナユタは酒と食事を運ばせ、こじんまりした送別の宴を開いたのだった。

 

 周辺部族政策でジャトゥカムと対立したリュクセスもビハールを離れ、妻のベレニケと共にドルヒヤに移ることになった。ある意味、ジャトゥカムを中心とするヤズディア派との派閥争いで劣勢になっていることも背景にあったが、リュクセス自身、ビハールでの政治に嫌気がさした風でもあった。

 リュクセスがベレニケを伴って挨拶に来ると、ナユタはクレアと共に迎えた。酒と料理でもてなしながら、ナユタはリュクセスに頭を下げた。

「期待に添えなくて申し訳なかった。だが、この世界がおまえの力で開かれたのも事実だ。これからも仲間だと信じている。ぜひ、ドルヒヤでも活躍して欲しい。」

 クレアも言った。

「ナユタさんはいつもリュクセスさんのことを気にしてたんですよ。ほんとうはもっとリュクセスさんの考えに沿ってやりたいんだと思うのですが、他の方々の意見もありますし。」

 リュクセスは言った。

「過分な言葉をありがとうございます。私は自分の考えが間違っているとは思いませんが、他の神々が別なものを志向しているのもよく分かっています。致し方ありません。」

「多分ご存じでしょうが、ナユタさんは単なる繁栄や欲望を満たすだけの経済発展には批判的なので、リュクセスさんの思いと近いはずですよ。」

「ありがとうございます。ヒュブラーは、『まだまだやることがいっぱいある。ここにいてくれ。』と言ってくれたのですが、ともかくドルヒヤに帰って新しい道をと思っています。別にビハールでの権力が目指してやってきたわけではありませんので。」

「ともかく、私の力不足でもある。ただ、ふたりのこれからに道が開けることを切に願っているよ。」

 ナユタのこの言葉に、ベレニケがちょっと涙ぐんで答えた。

「ありがとうございます。でも、私もビハールの生活は息が詰まると感じ始めたので、またドルヒヤののびのびした空気を吸えると思うと、むしろ嬉しくもあるんです。クレアはまだビハールにいるんでしょうけど。」

「私はナユタさんがここにいる限り、離れるわけにいかないけど、たしかにヴォルタの向こうの空気は懐かしいわね。ナユタさんに仕えるようになっていろんな神に会ったけど、ドルヒヤやマカベアでは純朴な神々が多かった気がするわ。ここでは逆に、腹の中では何を考えているのか分からない者たちが多いし。」

 このクレアの言葉にナユタもうなずいて言った。

「たしかにそうだな。チャシタナも帰ったし。それでドルヒヤに帰ってからはどうするんだ?」

「私は以前、世界を広く旅し、さまざまな民族と風習を見てきました。それらはビハールの文化よりもある面では遅れているとも言えますが、一方では、より純朴で、より我々の心に素直なものだとも思っています。それはこれから中原の文化に取って代わられれば良いという代物ではないはず。ですので、ドルヒヤに帰ったら、そんな文化や伝統を保護し、その価値を世に知らしめるための取り組みをと思っています。」

「なるほど。それは良いかもしれないな。具体的な策はあるのか?」

「ええ、まだ固まってはいませんが、概略の構想は持っています。まずはドルヒヤに各民族の文化や伝統を保存展示する民俗博物館のようなものを作れないかと思ってまして。ヒュブラーも支援を約束してくれていますし、シャンターヤも予算の工面に動いてくれています。」

「それと、私と一緒に旅に出るのよね。」

 そう言ったのはベレニケだった。リュクセスはうなずいて言った。

「実はベレニケとは結婚してからいろいろ慌ただしかったですし、ふたりでのんびり世界のいろんなところに旅に出ようかと思っています。私が過去に訪れたところの話をすると、ベレニケも行ってみたいと言いますし。」

「それは羨ましいことだな。」

「ありがとうございます。ただ、それは単に遊びのための旅ではなく、さまざまな民族の文化に改めて触れてみようとも思っています。ある意味、もっと視野を広げるための旅でもあります。実は、これまでの体験にこれから行く旅で得た知識や情報をまとめて、世界の民族に関する本を書けないかとも思っています。」

「それはすばらしいな。そんな本はきっとおまえにしか書けない。おまえほど世界の隅々のことを知っている者はいないだろうからな。」

 ある意味、ドルヒヤへ移ることはふたりにとってまさに新しい門出であったろう。

 だが、リュクセスとベレニケが帰ると、ナユタはがっかりした気持ちを隠せず、クレアに言った。

「彼は有能で役に立つだけでなく、自由な心を持っていた。ほんとうはビハールに留まって欲しかったが、彼の心がそれを許さなかったんだろう。」

 クレアは子供に諭すような落ち着いた声で言った。

「ナユタさんの今のたいへんな仕事を見てますと、リュクセスさんがいなくなることが痛手だってことはよく分かります。でも、誰でもいつかは自分の道を歩いて行かなければならない。リュクセスさんにとってもそうですわ。」

 その通りだった。リュクセスは新しい道へと歩み出そうとしているのだ。

「君がここにいてくれるだけで、ぼくは嬉しいよ。」

 それはナユタの偽らざる本心であったろう。

 ドルヒヤに帰ったリュクセスはドルヒヤ民族博物館を開設し、さらに、『地理誌』第一巻を発刊した。『地理誌』にはまさに、リュクセスが体験したこと、見たこと、聞いたことが連ねられており、聞いたことの中には本当かと疑われるようなことも少なくなかったが、彼がそれを聞いたということ自身は事実であり、そういった意味では、事実を連ねた書物ということができた。まさにリュクセスらしい労作であり、今後、第二巻以降も順次執筆されるはずだった。

 

 一方、ユビュは復興の進む大都会ビハールの喧騒を避け、都の郊外、美しいアプラ連峰のふもとに広がるシルベリに引っ越した。神々の欲望が渦巻き、政治の軋轢が日々の生活を覆っている都はユビュの心にはあまりにも適わなかった。シルベリにはなだらかな丘陵地が広がり、春になれば雪の残るアプラ連峰を背景にリンゴやアンズの美しい花々が咲き乱れた。それは幼い頃を過ごしたヴァーサヴァの館の近くの牧場を彷彿とさせ、ユビュの心を癒した。そこは、パキゼーの教えに勤しむ恰好の場所でもあった。

 ただ、神々の中でユビュは依然として特別な存在であり、しばしば請われて、ユビュは各地を巡幸しなければならなかった。神々の会議の主催者であったヴァーサヴァの娘であり、今時大戦でも決定的な役割を果たしたユビュ。ブルーポールを再び授かったユビュに対する神々の尊敬の念、畏敬の念は途方もなく高く、ユビュはどこへ行っても歓迎された。ユビュが来ると言えば、男性の神も女性の神も、そして子供の神までみな沿道に出て歓迎の旗を振り、ユビュと間近に接することのできた神々で涙しない者はないほどであった。

 

 こうして、戦後処理と復興は着々と進んだが、ナユタの心の中には晴れやかでない気持ちが沈殿していた。ソロンの言った通りだった。ルガルバンダの圧政は倒したが、神々の愚かさは何も変わってはいないのだ。

 クレアとふたりで杯を傾けていたある夜、ナユタはバルコニーに出てじっと考え込むように言った。

「世界には平和が取り戻された。だが、この世界で神々は何を目指して生きているんだろうか?」

 夜のビハールの上空が中心街の燈火で赤々と映える様を見上げながら、ナユタはつぶやいた。

「この世から酒場がなくなる日などないのだろうな。」

 街にはいつもの喧騒が広がっているはずだった。神々は、今日一日の仕事が終わったと言っては飲み、疲れたと言っては飲み、楽しいことがあったと言っては飲み、不快なことがあると言っては酒屋に足を運んでいるのだ。

 それが彼らの生き方であり、ただそれだけの生き方だった。神々は日々を喧騒の内に送り、何かのために生きるのではなく、ただ、生きて、騒いだり、楽しんだり、嘆いたり、悲しんだりしているだけなのだ。大声でわめきながら街を練り歩く酔っぱらいたちの群れを見るたびにナユタはそう思わざるを得なかった。

 そして、世間の見えないところでは、破廉恥でふしだらなことが平然と横行しているようだった。

 この前も、ナユタが夜の街を歩いていると、アルセイスの館の門には煌々と松明の火が燃え、中からは歓楽の調べが響いてきた。門の前には男神たちを運んできた駕籠や車が横付けされていた。全財産を一旦没収されても彼女は改めて大金を稼いでいるのだろう。だが、彼女だけを非難すれば良いというものでもなかったろう。

 また、良家の子女とか淑女とか言っていい女神が、夜、秘かに出かけては慎みをかなぐり捨て、相手かまわず快楽に耽っているというのは公然の秘密だった。中には、真っ昼間から、あるいは朝のうちから男を漁りに出かける女神もいるらしかった。

「男なしには私の心は真っ暗闇。」

と歌う歌手が人気を博すのもむべなるかなであった。

 パキゼーの法など彼らにはあずかり知らぬことであったろう。ルガルバンダの圧政と覇権を砕き、自由と権利とを取り戻した意味とはこれなのだろうか?それがナユタの心にわだかまる本心でもあった。

 ただ、そばにいてくれるクレアはそんな世間の神々とは違っており、賑やかな騒ぎに加わることもなければ、男を求めて出かけることもなかった。言い寄る男神もいなくはなかったが、彼女は、

「私にはナユタ様がいらっしゃいますので。」

とか言って、やんわりかわしているようだった。そして、そんなクレアだからこそナユタも心開くことができるのだった。

 そのクレアはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「でも、それがこの世界なんですよ。大酒を飲んでくだを巻く男が嫌いな女神はたくさんいます。私もそうですけど。それに、ナユタさんがこの世界の者たちにほんとうはなじめないというのはドルヒヤで初めてお会いしたときからずっと感じてました。」

 ナユタがうなずきながら杯を乾すと、クレアは酒を注ぎながら言った。

「でも、ナユタさんだけじゃないです。正直言うと、私も最初はビハールに来て、ものすごくわくわくしましたが、いろいろ嫌気が差すことも少なくありません。なんだかマカベアが楽しかったという気がします。ここでは、あまりに皆がせわしなく、そして、日々の享楽にのめり込んでいます。もっとゆったり心のゆとりを持った生活はないものかと感じます。」

「そうだな。ビハールに居続けるのは考えものかもな。」

 ナユタがそう言って考え込むとクレアは言った。

「きっとナユタさんには別の世界が必要なんだと思います。自分の追い求めるものがあるなら、ここを離れてそれを追い求めるのも道なんじゃないでしょうか。」

「もし、そうなったら、君はどうする?」

「わたしですか?多分、ヴォルタの向こうに帰ります。森にはついて行けないと思いますので。」

「ドルヒヤを出てきてずいぶんになるしな。」

「でも、ドルヒヤには多分帰らないと思います。懐かしさがないわけじゃないですけど、あそこは田舎過ぎるので、マカベアあたりが暮らすには良いかも。」

「そうだな。」

 そう言うと、ナユタはさらに続けて言った。

「実は言わなくちゃならないと思っていたんだけど言いそびれてたことがあるんだ。実は、イルシュマがおれの資産を口座で管理するようにしてくれたんだが、その時、おれの資産の半分をおまえの名義にしておいた。詳細はイルシュマに聞くと良い。」

 これにはクレアはびっくりして言った。

「えっ?それってどういうことなんですか?どうしてナユタさんの資産の半分を私が?」

「ドルヒヤ以来、ずいぶん世話になったからな。そのお礼と思ってくれたら良い。それにその資産は相当な額で、おれにはそんな金は要らないし。」

「でも、私はナユタさんに仕えてただけだし、それにお金ってあって困るものじゃないですよ。」

 クレアはそう言ったが、ナユタは笑って言った。

「まあ、ともかく、おれが勝手にやったことだよ。その金を使う気がなければ、そのままにしておけば良い。イルシュマがうまく運用して資産を増やしてくれるかもしれないしな。ともかく、金ってあって困るものじゃないんだからな。」

 クレアは必ずしも納得したわけではなさそうだったが、ナユタの言葉にそれ以上返しはしなかった。

 いずれにしても、いつまでも今のままで良いわけではないのだ。次の道を考えねばならないのだ。それに、森ではバラドゥーラ仙神たちも待っているはずなのだ。

 

 ビハールでの生活に疑問をもちつつも、復興のための努力を続けて十年近くになる頃、シャルマはビハール解放からちょうど十年目となる日に復興記念式典を行う構想を固めていた。取り組んできた法整備も進み、シャルマ法典に基づく新たな『宇宙憲章』を復興記念式典において発布したいという思いもあった。

 シャルマはまず同僚のプシュパギリ、シャンターヤ、ヴィクート、ギランダに構想を説明し、付け加えて言った。

「ビハール解放の三年後、五年後もいちおう祝賀式典を行いはしたが、こじんまりしたものだったし、新しい世界の構築がまだ途上にあって、正直、記念式典どころではなかった。だが、今、ようやく、復興も進み、新しい世界への展開という希望ある明るいメッセージを世の神々に印象付けるべき時が来たと思う。」

 この言葉にプシュパギリ、シャンターヤ、ギランダは問題なく同意したが、ヴィクートの返事は二つ返事ではなかった。

「復興記念式典はぜひ行うと良い。新しい世界への展開というメッセージも出せば良い。ただ、私自身は、その新しい世界の在り方に必ずしも同意しているわけではない。私にとって最上のものは、今もってパキゼーの教えだ。実は、少し前から考えていたんだが、どこかでこの仕事から離れ、元の暮らしに戻りたいと思っている。復興記念式典があるなら、それを機会に私はビハールを離れたい。」

 この言葉はシャルマらを慌てさせた。たしかに、ヴィクートがそのような思いを持っていることは薄々感じ取ってはいたが、この時期に、このような明白な形でそれが提示されるとは思っていなかったからだった。

「それは困る。おまえの力なしには新しい世界は築けない。」

 シャルマは語気を強めてそう言ったが、ヴィクートはあっさりと笑って言った。

「そう言ってもらうのはありがたいが、それは事実と現実に基づくとは言えないだろう。私が作った治安組織はヒュブラーがよく整えているから、警察組織としてシャンターヤが整えた統治機構に組み入れれば良い。それによって治安組織を真の意味で文民統制するということにもなるからな。もはや、私がいなければならないという状況ではないはずだ。」

「だったら、別の形ではどうだ。なんなら責任のない仕事でもいい。例えば政治顧問とか。」

 ギランダがそう言ったが、ヴィクートは受け付けなかった。ヴィクートがすぐには折れないのを見て、シャルマは言った。

「ともかく、このことはまた相談しようじゃないか。復興記念式典のことは、三賢神や、ナユタ、ユビュとも相談しなくてはならないし。」

 とりあえずその場をそういう形で収めると、シャルマは三賢神に相談した。

 バルマン師は、

「それなら復興記念式典の後に、復興記念コンサートを行ってはどうか。」

と提案し、シャルマはその提案に沿って進めることを約束した。

 ウダヤ師は、アリアヌスを教育科学省の長官に推薦してくれた。これはシャルマも既に考えていたところで、快諾した。

 マーシュ師は、

「本当であれば、ユビュを宇宙の女王に推戴するのが良いであろうがな。」

と言った。シャルマはこれも既に考えていたところで、「ぜひ、そうしたい。」と答えたが、マーシュ師は慎重だった。

「だが、ユビュが受けてくれるかどうか。彼女は公務のある時はしかたなくこなしてくれているが、それ以外の時は世間を避けて郊外のシルベリでひっそりと暮らしている。それに、ナユタやヴィクートも思うところがあるのではないだろうか。ヴィクートはパキゼーの教えに帰依しているし、ナユタはもともと孤独な孤高の神だからな。」

 この言葉を受けて、シャルマは、ヴィクートがビハールから離れる考えを持っていることを伝えた。マーシュ師はうなずいて答えた。

「そうであろうな。なんの不思議もない。引き留めることはできまいな。それに、ナユタやユビュがいつまで共に歩んでくれるかは分からぬし、このふたりがいなくなってもやってゆけるようにせねばな。」

 シャルマは顔を強張らせた。

「ナユタまでいなくなったら、どうやってこの世界を維持したらいいのか。」

 だが、マーシュ師は柔和な笑顔を見せて言った。

「大丈夫だよ。おまえたちがいるではないか。そして、おまえが作った法典と宇宙憲章がこの世界の基軸となり、さらに、シャンターヤの整えた行政機構、プシュパギリの作った議会政治機構、ギランダが推進した経済政策が世界を支えてゆくだろう。」

 この言葉にシャルマはとりあえず引き下がらざるを得なかった。

 

 シャルマはナユタがどういう反応をするか心配だったが、そのままにしておくわけにもゆかず、ナユタを訪ねて復興記念式典と復興記念コンサートのことを切り出した。

 ナユタは、まず、式典とコンサートについて、「それは良い考えだ。」と同意し、復興記念コンサートについては、バルマン師と共にコンサートの準備を進めることを快諾した。ただ、シャルマが心配していた通り、ナユタは、

「いつまでこの都に留まるかについては、少し考えるところがある。」

と言った。

 シャルマは事前に考えていた通りに次のように言った。

「おまえが、今後のことを考えるのは分からないでもない。ただ、今は、まず、復興記念式典と復興記念コンサートを成功させることを考えてくれないか。その後のことは、この二つが終わってからにしようではないか。」

 この言葉にナユタは一応納得してくれ、シャルマは胸をなでおろした。

 

 こうして、復興記念式典と復興記念コンサートの準備が始まった。午後に行われる復興記念コンサートは、バルマン師とナユタが中心となって準備を進めた。その準備の中でナユタは、エシューナ仙神を招聘しようとしたが、エシューナ仙神から帰ってきた手紙には、ただ、

「みずみずしき音の源泉は森の中にのみ。」

と書いてあった。

 ナユタはバルマン師に言った。

「この短い言葉で、仙神の気持ちがよく分かりました。そして、その言葉は、この戦後復興の間、心のどこかに封印してきたものを呼び戻してくれました。戦後処理の仕事は大切ではありますが、私の本来のものとは思えません。今回の式典を機に、私は森に戻ろうと思います。」

 バルマン師はうなずいて言った。

「それも悪くないかもな。ルガルバンダの圧政と抑圧に基づく権力支配はおまえたちの努力で打ち壊したが、世界は決してかつての世界に戻ったのではない。ルガルバンダがこの世界に持ち込んだものによってすべてが変わってしまった。」

「そのとおりです。神々の心はもはやかつての神々の心ではなくなりました。たしかに自由と平等は取り戻しましたが、神々はもはや求道者の心を忘れ、繁栄と安逸、享楽を求める存在に変わってしまいました。」

「わしも同感だ。わしもここに芸術院を作り、音の道の指導を始めたが、エシューナ仙神から見れば、それも単に技術を追うだけのもの、真の音の道とはかけ離れていると言われるかもしれんな。わしもこのコンサートを最後に昔の庵に戻ろうと思う。」

 この言葉に、ナユタは、「えっ?」という表情でバルマン師の顔を見つめたが、バルマン師は落ち着いた声で続けた。

「わしには、誰でもない者たちがどこにもない道の上を歩き過ぎるのが見える。論議を止めてしまった賢者たちの、未知なる形への止むことのない憧憬が時間の斜面に焼き付いているのだ。冷たい黒い雨は巨大な瓦礫の山脈をひっきりなしにたたき続けているし、透明な凍った大気の下では、静まり返った広大な地平の上に、混乱の中にあえぎ続けた者たちが置き去りにされている。壊れてしまった形への執着だけがびゅうびゅう鳴る絶壁の風の中にこだましているのだ。

 だが、誰にも何も分かりはしない。そして、一切はどうでもいいことなのだ。空っぽの遊星の上の膨大な時間の中で、誰でもない者たちの夢の破片が渦を巻いているだけ。わしには、小さな灯りが照らし出す時間の断点しか見えぬ。その向こうで唯一者が黙ってうずくまっているのだ。」

 この言葉に、ナユタは黙って頭を下げた。

 

 森へ帰ることを決意したナユタは主だった神々を集めて言った。

「ルガルバンダを倒してもうすぐ十年になる。皆の努力で戦後処理は着々と進み、復興も進んだ。新しい世界は形をなし、神々の心に希望の灯を灯している。復興記念式典の準備も順調に進んでいる。だが、今日、私は二つの大きな提案をするために、皆に集まってもらった。私はそもそも今世のこの覇権争いに関わる気はなく、最初は傍観していた。それが適切だったかどうかについては大いに批判もあるだろう。私自身の反省もある。だが、その根底にあるのは、私の故郷は、このような神々の現実の世界ではなく、森にあるということだ。私にとっては、バルマン師のもとで音の修業をしていた頃がもっとも心が満たされていた。さらにはエシューナ仙神のもとでサントゥールを学んだ日々も得難いものであった。実は、今回の復興記念コンサートにエシューナ仙神をお呼びしようと思ったのだが、エシューナ仙神からは、ただ、『みずみずしき音の源泉は森の中にのみ。』という言葉が届いた。私はこの言葉に心打たれ、そして森に帰る決心をした。幸い、戦後処理も復興も順調に進み、もはや私がこの都に留まらねばならぬ理由はなくなった。」

 ナユタがそこまで話したとき、

「ちょっと待っていただきたい。」

と口を挟んだのはシャルマだった。

「たしかに、ナユタの気持ちも分からぬではない。だが、この世界は、戦後処理と復興ができれば良いというものではない。これからの平和と秩序を守り、永続的、持続的にこの世界を維持してゆかねばならない。もはや神々の世界はかつての神々の世界ではない。神々は物質的なものも含め、欲望の上に立っており、それを否定することはもはやできない。それを持ち込んだのはルガルバンダかもしれぬが、神々からそれを取り上げることはもはやできない。その上に立って、我々は世界を維持してゆかねばならぬ。」

 ナユタはその言葉にうなずきつつも言った。

「シャルマ、その通りだ。だが、今の世の神々の求めるものそのものが、正直言って、私の心に適わないのだ。それゆえ、この世界のことは任せて、私は森に去りたい。もちろん、この世界のことを単に放り出すつもりではない。それが、今日提案したいもう一つのことだ。この世界で、神々の心の拠りどころとなっているのは、皆も知ってのとおり、ユビュだ。だから、この復興記念式典を機に、ユビュを正式に宇宙の女王とし、この秩序の頂点に立ってもらうのが良いと私は思っている。」

 この言葉に多くの者が頷いたが、ユビュは落ち着いた静かな言葉で答えた。

「ナユタ、その言葉を受けることはできません。実は、私も思うところがあります。今回の戦いで、私は再び黄金の鎧兜に身を包んで出陣しましたが、そもそもは、ナユタと同様、この覇権争いに関わるつもりはありませんでした。私にとって至上のものが、パキゼーの打ち立てた法輪であることは今も変わりません。この十年、各地を巡り、多くの歓迎を受けましたが、それは何一つ私の心を満たしませんでした。神々の心は変わり、求道者の心を忘れてしまったのです。私も今回の復興記念式典を機にウバリートに帰ろうと思います。」

「しかし、ユビュ様をどれほど多くの神々が慕っているか、どうか、そこのところにもう一度目を向けていただきたい。」

 そう言ったのはプシュパギリだった。しかし、ユビュは静かに答えた。

「残念ですが、今の世界がパキゼーの教えに沿っているとは思えません。この先、世界を維持するためのあてのない労苦があるばかり。他より勝ろうとするその心こそ最も愚かなもの。それが世界をして、ここまでの混乱を引き起こさせたのです。その愚かさを神々が捨てない限り、何も変わりません。そして、神々はそれを捨てようとはしない。今回の戦いは、ただ、ナユタの力がそれに勝っただけ。力による統合を維持しようとする道はやがて色褪せ、光を失い、いつかまた混乱を生み出さずにはいないでしょう。」

 ユビュのこの言葉に、多くの神が、いったいこれからこの世界はどうなるのか、と不安に駆り立てられた。しかも、都を去るというのは、ナユタとユビュだけではなかった。バルマン師も都を去ると発言すると、さらにヴィクートも発言した。

「私も都を去るつもりでいます。そもそも、私も今回の覇権争いに加わるつもりはありませんでした。ユビュ様同様、私にとっても最上のものはパキゼーの教えです。田舎に帰り、パキゼーの教えを支えとして暮らしたいと考えています。」

 いつもは温厚なシャルマが不満を滲ませた口調で言った。

「しかし、これではどうにもならないではないか。どうやってこの世界を維持するのか。そして、依然として、多くの神々が貧しい環境に耐えながら、復興に汗水たらしているのも事実。いまだに、悲哀と嘆きが宇宙に満ち満ちている。ルガルバンダの覇権は確かに危険であり、排除せねばならなかったが、神々に繁栄への道筋を指し示したことだけは確かだ。残念だが、パキゼーの法は何も救いはしなかった。パキゼーの教えは素晴らしかったが、それだけでは宇宙は救えない。」

 しかし、ナユタはそれには直接答えず、ただ言った。

「シャルマ、わがままかもしれぬが、これ以上都に留まれないということだ。それぞれの分野で、新しい神々も出てきている。彼らと共に、この世界を運営して欲しい。」

 マーシュ師が言った。

「たしかに、世界はもはやかつての世界ではない。残念だが、それが現実だ。実は、わしも引退しようと思っていたのだが、それは止めることにする。だが、ナユタ、ユビュ、バルマン師、ヴィクートが都を去るのは認めようではないか。シャルマ、プシュパギリ、ギランダ、シャンターヤ、これからはおまえたちがこの世界を支えてゆかねばならないということだ。わしも微力ながら、力になろう。」

 ウダヤ師も言った。

「わしの考えもマーシュ師の考えと全く同じだ。わしも総合技術院を後進にゆだねようと思っておったが、もうしばらく力にならせてもらうよ。」

 このマーシュ師とウダヤ師の言葉に、シャルマ、プシュパギリ、ギランダ、シャンターヤは同意せざるを得なかった。

 

 ナユタが森に帰るということを聞きつけると、クレアの元にヒュブラーがやってきた。

「ナユタ殿が森へ帰られると聞いたが、おまえはどうするんだ?」

 この問いかけにクレアはにっこり笑って答えた。

「私は森へは行きません。多分、私は森では暮らせないでしょうし。ナユタさんが森へ帰られたら、私はマカベアに帰ろうと思っています。」

「そうか。だが、マカベアに帰るくらいなら、ここでおれのもとで働かないか?」

「ありがとうございます。でも、私はナユタさんに仕えてきて、それで十分です。それにヒュブラーさんに体の関係を迫られても困りますし。」

 彼女がそう言ったのは、ヒュブラーがこの都でビハールの美女たちを相手に幾多の浮き名を流していることを知っていたからだった。ヒュブラーがイルシュマらと共にビハールの女たちを侍らせる大乱交パーティを行っていることも公然の秘密だった。だが、ヒュブラーは平然と答えた。

「まあ、そう言うな。別におれはおまえに単なる男と女の関係を求めているわけじゃない。ただ、おれも独身だし、おれの妻の座にでも座れば、この都で羽振り良く暮らせるぞ。」

 クレアは冷ややかに笑った。

「そんな話は結構ですわ。私はお偉いさんの奥様なんてものに憧れてはいませんので。そもそも、私も田舎を出てマカベア、ビハールと移ってきていろんな世間のものを見聞きしてきましたが、およそこの世界のおぞましきことどもは、もとを正せば、男が腰布の下に隠している細長いもののせいだということはわたくしもよくよく理解してきましたので。まったくこの世界のことは恥ずかしい限りですわ。」

 こんな露骨なことをいつも品の良いクレアの口から聞こうとは夢にも思わなかったのか、ヒュブラーは二の句を告げず、ただただ引き下がるほかなかった。だが、ヒュブラーは、クレアのために手を回して、マカベアでの住居と仕事を世話してくれた。

 

 いよいよ復興記念式典の日がやって来た。

 ナユタ、ユビュをはじめ、大勢の神々が参列する中、荘厳な鐘が打ち鳴らされた。式典は黙禱で始まった。先の大戦で倒れた数万の兵士たちを追悼するためだった。

 黙禱が終わると、恒久平和を祈念するための不戦の碑が除幕された。その碑にまず、ナユタとユビュが花束を捧げ、バルマン師、ウダヤ師、マーシュ師がそれに続いた。さらに、シャルマ、プシュパギリ、ヴィクート、ギランダ、シャンターヤが献花した。

 続いて演壇に上がって演説を行ったのはナユタだった。

「先の大戦が終わって十年、世界は新しい世界となった。我々は新しい思想と新しい秩序を打ち立てた。」

 ナユタはそう言って演説を始め、この戦いによって打ち壊したルガルバンダの専制政治、恐怖と暴力に支配された世界について語った。そして、苦難の連続だったルガルバンダとの戦いを振り返り、さらに、この十年の戦後処理と復興について語った。

 ナユタが時間を割いて述べたのは、新しい世界を支える新しい秩序についてであった。ナユタは、新しい神々の世界を支える秩序を定めた宇宙憲章を発布することを宣言し、その内容について言及した。その憲章は、神々の権利と自由を保障する神々の世界で初めての憲章であった。

 さらに、ナユタはかつての神々の会議に代わり、行政府、立法府、司法府を創設することを宣言し、行政府の初代の長として、シャルマが宰相となることを述べた。また、プシュパギリが立法府の長として、神々の世界から集まった代議員を代表する立法府の議長に就任することを宣言した。ギランダは司法府の長として、裁判所の頂点に立つこととなった。

 シャルマの行政府においては、シャンターヤが財務省長官を務め、教育科学省の長官にアリアヌスが就任することも紹介された。さらに、経済土木省長官にはヤズディア族出身のジャトゥカムが、農業省長官にはディクテ族出身のアルマンが、治安警察省長官にはドルヒヤ族出身のヒュブラーが、それぞれ就任することになった。

 最後にナユタは言った。

「ルガルバンダは、彼が目指したものは必ず復活すると言った。だが、それは絶対に違う。この新しい世界は新しい価値観を生み、もはやルガルバンダが生み出したものどもの復活を決して許さないだろう。それがこの新しい世界の意味である。私は今日をもってこの世界から去るが、神々よ、この新しい世界の意味を心に刻み、この新しい世界を歩んで欲しい。それが私の最後の願いだ。」

 ナユタの次に演壇に上がったのはユビュであった。ユビュは、演説の中で、この都を去ることを改めて宣言した。既にすべての神々がそのことを知っていたとはいえ、ユビュがそのことを述べると涙を流す神々が続出した。しかし、ユビュはこう言って演説を締めくくった。

「パキゼーの教えは今もっていささかも色褪せていません。私はウバリートに戻り、その教えを守ってゆこうと思います。ルガルバンダの世界はパキゼーの教えを否定する世界でしたが、今のこの新しい世界はパキゼーの教えを許容する世界と信じています。ぜひ、新しい、自由と平和を基盤とした世界を築いていただければと思います。」

 そう言って、ユビュは演壇を下りた。続いて、シャルマ、プシュパギリ、ギランダがそれぞれ、行政府、立法府、司法府の長として演説を行い、さら、ヴィクート、バルマン師が別れの演説を行った。最後にマーシュ師とウダヤ師が、それぞれ、学府の長として演説を行った。

 これらの演説が終わると、シャルマが恒久不戦を誓う平和宣言を読み上げ、それに合わせて、無数の鳩が放たれて大空を舞い、合唱団が『平和のためのミサ曲』の一節を歌った。

 こうして、復興記念式典は閉幕したが、不戦の碑に参列する神々の列は長時間途絶えることがなかった。

 

 午後からは、復興記念コンサートが行われた。第一部では、新進の作曲家ベンジャミンがこの日のために作曲した大作『平和のためのミサ曲』が初演された。この二時間にも及ぶ大曲は、先の大戦に一兵士として参加した詩神ウィルフレッドの詩を題材にベンジャミンが作曲したものであった。

 この大曲を初演したのは、ルガルバンダ時代には不遇をかこっていた大指揮者クレンペラーであった。クレンペラーは舞台に姿を現すと指揮台までゆっくりと進み、聴衆に向かって小さく二度頭を下げた。クレンペラーは指揮棒を持たずに指揮台の椅子に座ると、最初の音を響かせた。格調の高い厳粛で荘厳な音が響き、やがて静かな鐘の音と共に冥府の底から湧き上がってくるかのような旋律が神々の心を打ち、トランペットの響きが新たな時代への静かな希望を引き寄せた。

 クレンペラーはほとんど表情を変えることもなく、淡々と、一切の派手な動きを排した小さな両手の動きで、壮大な音楽を紡ぎ出した。どんな細部の響きも他の音に埋もれることなく鳴り響かせるクレンペラーの演奏は、誰も真似ることのできない重厚さを持っており、威厳に満ちたその指揮ぶりから生み出される音楽は、稀有壮大な響きに満ちていた。アンサンブルが織りなすハーモニーが一つの響きとなって聞こえるのではなく、一つ一つの楽器が奏でる音が、厳粛さと荘重さに支えられてはっきりと聞こえ、底知れぬ神秘さと透徹した高貴さへと昇華してゆく至高の音楽であった。一つ一つの音を大切にしたバルマン師の教えに通じるものでもあった。

 合唱団は、荒々しい弦の響きに支えられて、神々の心に勇気を灯す歌を壮大に歌い上げ、最後にこの曲はすべての神々の魂を慰撫するかのような優しい清らかな響きと共に終わった。それは、先の大戦で倒れたすべての兵士を悼み、同時に、この平和の時代を生きるすべての者の心に勇気と静かな希望を呼び起こす音楽であった。

 演奏が終わると、クレンペラーはいかつい顔の中にもかすかに笑みを浮かべて指揮台を下り、ベンジャミンと握手を交わし、さらに演奏者らを讃えた。演奏したのは、バルマン音楽院のメンバーで構成された楽団と独唱者、合唱団であり、この偉大な大作の初演を成功裡に終えた喜びに溢れていた。クレンペラーは会場に向かって小さく頭を下げた。最前列に座っていたナユタとユビュが立ち上がって拍手を続けると、会場の神々が総立ちになって演奏者を讃えた。ナユタはクレンペラーに歩み寄り、握手を求めた。

「素晴らしい演奏でした。」

とナユタが称えると、クレンペラーは、

「私はただベンジャミンが書いたとおりに演奏しただけです。」

とだけ答えた。

 こうして、復興記念コンサートの第一部は幕を閉じた。

 

 第二部は夕暮れから始まった。野外に準備された舞台には、バルマン師と六神の音楽院の楽師たちが並んだ。日暮れとともに、バルマン師は、かつてパキゼーと共に音楽を奏でた時を思い起こすかのように、石編磬を打った。美しい単音が響き、そして静かに消えていった。透明な澄んだ青い空の中に美しい夕焼けが照り映える中、しーんと静まり返った空間に、バルマン師が次の音を響かせる。そしてそこから、宇宙の真音が自ら空間に生れ出てくるかのように、不思議な韻律を持った音の列が続いた。バルマン師の響きに呼応するように、六神の楽師がそれぞれの楽器で演奏に加わった。七神の神々が織りなす集団即興演奏は、宇宙の波動を切り出して鳴り響かせているかのような旋律を滔々と響かせ続いた。夕暮れの美しい風景にその響きが拡散してゆき、真っ赤に燃える西の空に宇宙の真音が照り映えた。

 舞台にはサントゥールが置いてあった。日が暮れると、白い儀礼服に身を包んだナユタが静かに舞台に現れ、サントゥールの前に座った。ナユタがサントゥールを響かせると、音楽は突然、曲想を変え、宇宙の涯てから響いてくる聖なる啓示を思わせるような、静寂と高揚とを併せ持った不思議な旋律が鳴り響いた。その音は、七神の音と絡み合い、重なり合い、そして、調和した。月明かりの下で演奏は延々と続いた。演奏が進むと、ユビュがブルーポールをナユタの横に立て掛けた。すると、ブルーポールは発光を始め、夜空にまっすぐに青い輝きを走らせた。その幻想的な光景の中、高貴な響きが次々と交錯した。まるで八神の求道者が道を求めて乱舞しているかのようであり、その光景は、まさに求道者たちの祭儀そのものであった。

 宇宙の中に漂う音を釣り上げ、孤独な行者のようにただひたすらに音を重ねてゆく八神の楽師たち。孤高の賢者のように弦を打ち鳴らし、石を打ち鳴らす楽師たち。

 その音は、欲望が渦巻くこの大地のざわめきなど意にも介さず、ただ奔放に鳴り響き続けた。その音たちに共鳴するのは、荒野で打ち捨てられた石たちの押し黙ったままのまなざしであり、荒れ騒いでいるこの世界を突破しようとする途方もない試みだったかもしれない。みずみずしさを失ったこの大地の上で、その音は途方もなく無となりうる領域に向かって響き続けた。

 閉じ込められたこの世界から解き放たれたその音たちが、石に刻まれた小さな夢たちを荒野に解き放っていた。

 この伝説的な演奏は、夜を徹して続いた。東の空が白み始めるころ、舞台に残った奏者はバルマン師とナユタだけになっていた。バルマン師は、無心にサントゥールを打ち鳴らすナユタとの協演を心ゆくまで楽しむかのように、石編磬を打ち鳴らし、鼓を打ち鳴らした。

 東の空から太陽が昇り、演奏は終わった。ブルーポールの発光も止んだ。ナユタは静かに撥を置き、深々と頭を下げた。バルマン師も同じく撥を置き、深々と頭を下げた。そして、ナユタとバルマン師は、ただ黙って舞台を降りた。

 こうして、復興記念行事は終了した。

 

 次の日、いち早く、ヴィクートが旅立った。

 ヴィクートは短くあいさつした。

「この戦い、そして、この再興、ともに私の本意ではなかった。たしかに、何かを求められ、それに応えるために私は起ち上がった。しかし、あの戦いは、パキゼーの教えからはるかに遠く、私の戦いもまたそうだった。現在進められている新しい世界の建設も、残念ながら、ほんとうには私の心に適わない。技術と経済の発展に支えられ、それによって生み出されるものによって満足する神々の在り方は、パキゼーの教えから大きく離れている。だが、パキゼーが『私は世間とは争わない。』と言ったように、私も世間と争うつもりはない。私はただ去り、自らの領域に引き籠もるだろう。」

 ナユタは歩み寄り、ヴィクートの手を握って言った。

「ありがとう。おまえには無理なお願いをしたのだろうが、おまえの力なしには、ルガルバンダを倒すことはできなかった。ただただ感謝するほかない。これからはおまえ自身の求める道を歩んでくれ。私も数日後には、ここを去る。きっと、この喧噪の世界とは違う世界が私たちを待っているだろう。」

 ヴィクートは頭を下げ、改めて言った。

「パキゼーは偉大でした。その教えは比高なきものであり、いかなる神もパキゼーに及ばない。ただ、ひとり、人間である彼が、いかなる神も見い出せなかった道を見い出した。だから、私は再びパキゼーの教えを学ぶ日々に戻り、彼の教えを道標にするつもりです。」

 こうして、ヴィクートは旅立った。

 

 二日後に旅立ったのはユビュだった。見送りに集まった神々を前に、ユビュは語った。

「みなさん。いろいろとありがとうございました。私はウバリートに帰り、パキゼーの指し示したものに則って道を歩みたいと思います。この都は繁栄していますが、私の求めるものはここにはありません。ただ、ルガルバンダの帝国は許容できないものであり、力を合わせて倒さねばならないものであったことも事実です。私はみなさんの勇気、献身に敬意を表したいと思います。この平和な世界を構築するために努力なさっていることにも同様に敬意を表します。この世界の平和を祈っています。」

 ユビュの言葉に、ウダヤ師が答えて言った。

「ユビュ、長い間、ご苦労だった。これからはおまえ自身の道を歩むといい。この世界は、シャルマ、プシュパギリ、ギランダ、シャンターヤらが支えてくれるだろう。わしとマーシュ師ももうしばらくは、この世界のために力になろうと思うが、後進に道を譲る時もそう遠くはないだろう。そうなれば、また、おまえのところに訪ねてゆくことにするよ。」

「ありがとうございます、ウダヤ様。その時を楽しみにしています。」

 そう語ってユビュは去って行った。

 

 数日後、ナユタが去って行った。ナユタは見送りの神々を前に簡単にあいさつした。

「時の中に埋没する私たちの想念は、ただ、風の中に吹き払われる。形となるものは、この宇宙の定めに従って砕け、霧散する。知恵はただ時の断片にのみあり、真音はただ空の中にのみある。これまで数々の戦いを戦ってきたが、戦いはもはや私の領分ではない。私はもともと異端の神。その孤独の領域に帰るだけだ。私は森で多くのことを学んだ。森には叡智があり、真理への道があり、そして心の安らぎがある。今日、ここを発ち、森に帰るのは無上の喜びだ。これからは求道者の道を求めることになるだろう。」

 マーシュ師が言った。

「ナユタ、苦労を掛けたな。おまえがいなければ、この世界の混乱は鎮められなかった。だが、今回の大戦を終え、世界が大きく変わったのもまた事実。これまでおまえは戦いの神として他に並び立つ者のない神であった。だが、これから宇宙が求めるものは、戦いではない。おまえが求道者として道を求めるのもまた良いだろう。森にはなんでもあるからな。」

 バルマン師も言った。

「おまえと共に音を響かせたのはなにものにも代えがたい喜びだった。また、森を訪ねるよ。エシューナ仙神にも会いたいしな。」

 ナユタはその言葉に頭を下げ、旅立っていった。

 

 その三日後、バルマン師も旅立った。

 残ったウダヤ師はマーシュ師に話しかけた。

「我々だけが残ってしまいましたな。だが、我らの仕事もそろそろ終わりにせねばなりませんな。」

「その通りですな。バルマン師も音楽院を後進に託して旅立ちましたしな。この世界のことは、この世界を支える者たちに任せ、我らは本来の道に戻りたいものですな。」

 マーシュ師はそう答えると、感慨深げに続けた。

「それにしても、ナユタの心は満たされておらぬのだろうな。彼がこの世界を築くために為したことはまさに英雄的な行為だったが、彼は自らそれを望んだわけではなかった。彼が望んだのは、ただ、清新の響きに満たされた静かな世界、夢のかけらが軽やかに心をときめかす世界であったろう。だが、世界はそれを許さず、そして、ルガルバンダがそれを許さなかっただけだ。」

 ウダヤ師もうなずいた。

「その通りですな。彼は望むでもなく英雄的行為を成し遂げた。すべからく英雄には悲劇の響きが付きまとうとはよく言ったものだ。だから、世界の神々からの賞賛も彼の心にはむなしく響き、ビハールでの栄華も彼の心を満たしはしなかったのだろう。」

「ナユタには理想があったろうし、今も彼はそれを心に秘めているだろうが、世の神々はそれを理解することもできなかったし、ついてゆくこともできない。だが、孤独で孤高の神ナユタは必ずや自らの道を見出すと信じている。それは世の神々にとってはいかほどのものでもないとしても、真なるものを求め続ける彼の心が潰えることはないだろう。」

 マーシュ師の言葉にウダヤ師はかすかに笑みを浮かべて語った。

「そのナユタのために我らにできることがあれば、為さねばなりませんな。孤高のナユタに我らの力が及ぶか否かは分からぬが、力になれるものであればなりたいものですな。」

 

 都を旅立ったナユタはひとり森を目指した。森に入ったナユタはバラドゥーラ仙神の住処を目指して歩いていったが、心は晴れやかでなかった。バラドゥーラ仙神の住処に近づくと、ナユタは立ち止まって上を仰いだ。森の木々の隙間から、木漏れ日がさんさんと降り注いでいた。すると、ナユタの目からは、わけもなく涙が溢れた。悲しみが心の底からこみ上げ、ナユタはそれに耐えることができなかった。

 ルガルバンダの覇権を崩し、新しい世界を築いたはずだった。だが、その世界は何だったのだろう。それは、群雄が割拠する戦乱の世でもなく、専制政治や恐怖政治が大地に覆いかぶさる世でもなくなった。しかし、その世界はもはやかつての世界ではなかった。

 ナタラーヤ聖仙は清新の世界を取り戻すことをナユタに求めたが、その世界を取り戻せたわけではなかった。今、世界は新しい興奮に身をやつし、その世界の中の存在者たちは沸騰する世界のざわめきに心をどよめかせ続けている。そして、その流れは誰にも止められない。どこにも真の道はなかった。ナタラーヤ聖仙の求める世界を実現できなかったことがナユタの心に重くのしかかった。

「だから、おれは森に帰って来たのだ。」

 そうナユタはつぶやいた。しかし、それは単なる逃避かもしれなかった。そして、こんな世界を築くために払われた巨大な犠牲がさらにナユタの心を苛んだ。

 同盟を結んだイムテーベを見捨てて戦場を離脱したこと、その結果、イムテーベが無残にもカーシャパに倒されたこと。そして、そもそも、そのカーシャパも自分の優柔不断さゆえにルガルバンダ側に追いやってしまい、最後にはナッチェルで消えたこと。何万もの兵士が戦場で斃れたことも心の重荷だった。そんなことどもすべてがナユタの心の悲しみを押し広げた。

「神だって泣きたくなることがあるのだ。」

 シャルマが倒されたときにそうつぶやいたことが、まざまざと思い出された。宇宙の涯てからやってきて以来、創造にまつわる戦いと混乱をくぐり抜け、そして、今時大戦を戦ったこれまでのひとつひとつのことが心の中を次々に漂い、重くのしかかった。

 ナユタは泣きながら歩き続けた。ただただ、大地に混沌を誘起しただけだった。何一つ本当のものが得られたわけではなかった。そんな苦い思いが次々に心の中を駆け巡った。ただただ悲しみが心に沈殿した時間だった。

「光が消えた。」

 そうナユタは思った。すると、ヴィカルナ聖仙の言葉が思い出された。ヴィカルナ聖仙は言ったものだった。

「光は消えてなどいない。光を見ない者が不遜にも光がないとか、光が消えたなどと言うだけだ。」

 まさに、自分は光を見ない、そして光を見る力を失ったのだ。そうナユタには思われた。いや、そもそも光を見続ける力を自分は持っていなかったのだ。そんな無力感、挫折感がナユタの心を苛んだ。

 歩き続けて、ナユタはつぶやいた。

「そもそも私はなんのために存在しているのか?いったい存在して為さねばならないこととはなんなのか?」

 この世界のどこにも真なるものなどありはしない。何の意味があるか分からない世界にただ生まれてきたに過ぎない。その本源的な真理を理解することもなくただこの宇宙に存在させられ、その中で自分がこうしたい、あるいはこうすべきと思ったことを為してきただけだった。

 だが、地上では混乱と混沌が渦巻き、喜びとなるものははかなく消えてゆくだけ。諍いと怨みと妬みが大地に沁み込み、世界は常に慟哭を続けている。その世界で何かを求めて生きてきたが、求めていたものに達したわけでもなく、真なるものからほど遠いところでただ喘ぎながら生きてきただけではないか。それはいったいいかなる意味を持つのか。ただただ、意味もない行為を繰り返してきただけではないのか。

 そんな思いもナユタの心の中を駆け巡った。

 バラドゥーラ仙神の住処にたどり着くと、ナユタは涙を拭ったが、心は沈み込んだままだった。ナユタはバラドゥーラ仙神の住処の扉を叩くことができず、小屋の外の切り株の上に腰を下ろした。かつてここで薪を割ったことが思い出された。そして、森の中から釣った魚を持ってバラドゥーラ仙神が現れた時のことが思い出された。すると、かすかに心が微笑むのが自分でも分かったが、それでも立ち上がることができなかった。

 そのとき、扉が開いた。中から出てきたバラドゥーラ仙神はナユタの姿に驚き、

「ナユタ、来ておったのか。」

と声をかけた。バラドゥーラ仙神の言葉にナユタは立ち上がり、力なくうなずいたが、ほっとした表情で、

「やっと戻ってきました。」

と答えただけだった。

「そうか。よく戻ってきたな。ここは自分の家と思っていい。ほんとうにご苦労だったな。」

 そう言うとバラドゥーラ仙神はナユタを家の中に迎え入れ、くつろがせた。

 

 ナユタの様子からナユタの心を察したバラドゥーラ仙神は、夕食を取りながら、語りかけた。

「前回の創造の際、わしは地上に行き、シュルツェという画家に出会ってな。その彼の言葉が今でも耳に残っておる。彼はこう言ったよ。地上で見出される一切のうちで、人間が一番煩わしい。人間のいない宇宙、数匹のキリンとトカゲ、そこここの茂みにいるシラミ、その上に小さな空、それが夢だ、とな。」

「分かる気がします。そして、神も人間と同じですね。」

 そうつぶやいたナユタに、バラドゥーラ仙神は、

「そうだな。」

とうなずき、棚に置いてあったノートを開いて、シュルツェが残したという一つの詩を口にした。

 

  カシスで、石や魚たち。

  ルーペで覗いた貝殻。

  海の塩そして空が

  ぼくに人間の重さを忘れさせてくれた。

  ぼくたちの混沌としたあがきに

  背を向けさせてくれた。

  繰り返すことなく繰り返す

  港のさざ波のうちに

  永遠をかいまみさせてくれた。

  何ひとつ説明できはしない。

  上っ面しか分かりはしないのだ。

  けれど、また、

  ぼくの夢見るすべてが起こるのは

  広大な廓外とたくさんの街路のある

  巨大ですばらしく美しい未知の都市。

  とても描けはしないけれど。

 

 ナユタはその詩を噛みしめるように聞き入り、

「そのシュルツェという画家はどんな絵を描いたのでしょう。」

と問いかけた。

「わしはシュルツェから一枚の絵を贈られてな。それはこの家にあるよ。おまえが以前使っていた部屋に掛けてある。覚えておらんかな。」

 ナユタは驚いて答えた。

「いえ、覚えています。あの絵なんですか?」

「ああ、そうじゃよ。酔いどれ船という題がついておってな。」

 そう言うと、バラドゥーラ仙神はナユタを連れて二階の部屋に入った。かつてナユタが使っていた部屋だった。

 壁にかかっている一枚の絵、それはかつてナユタがこの家で過ごしたときに毎日見ていた絵だった。はてしなく広がる空想とどこにも突き当たることのできない悲しみがない交ぜになり、夢からの漂着物がグワッシュの上に凝固したような絵だった。

「この絵を見るたびに、この世界の向こう側に広がる混沌としたはるけさから響いてくるさざ波のような音が聞こえるような思いがしていました。」

 そう語るナユタに、バラドゥーラ仙神はうなずきながら語った。

「それがシュルツェの悲しみそのものであったろう。けれど同時にそこからは一切から自由になろうとするかすかな響きが立ち昇っておる。その響きはきっとおまえの心にも染み込むだろう。」

 

 バラドゥーラ仙神の家での生活はナユタの心を立ち直らせた。朝は早起きして釣りに出かけ、昼は小さな畑を耕し、夜は星を眺めて過ごす生活。森のみずみずしい息吹きがナユタの心に眩しく、バラドゥーラ仙神とふたりきりでの自然の中での自給自足の生活は、ナユタの心に新鮮な風を吹き込ませた。

 ただ、ナユタは、先の大戦のことについてほとんど何も語らなかった。バラドゥーラ仙神も、ナユタが語らないことについて、特に問うこともしなかった。

 そんな生活がしばらく続いたある日、アシュタカ仙神が訪ねてきた。

「ナユタが戻ってきたと聞いたのでな。」

 そう言う仙神にナユタは、

「わざわざ訪ねて来てくださるとは恐縮です。」

と頭を下げた。

 アシュタカ仙神は言った。

「ナユタ。いろいろ苦労したようだが、こうなると思っておったよ。あの喧噪に満ちた現実の世界の中では、おまえがおまえ自身になれる領域はないのかもしれぬて。だが、これからは自分の道を歩むがいい。」

 この言葉にナユタは深くうなずきつつ答えた。

「アシュタカ様、ありがとうございます。これからはこの森に棲まわせていただき、求道者として道を求めたいと思います。」

「そうだな。おまえも分かっているだろうが、神々の心は変わってしまった。神々は日々の享楽の中、現実の中に取り込まれて生きている。神々は、真理からは途方もなく遠い地平を歩き始めたと言っていい。だが、森の世界は外の世界とは違う。物質的には貧相ではあるが、心を満たすものがここにはある。だからわしらは森を住処とし、ここから出る気もない。みずみずしい精神の息吹きがあるのは世界の内で森だけになってしまったかもしれぬ。だから、ナユタ。おまえがまた元の世界に帰らねばならぬ日が来れば戻ったら良いが、それまでは森で過ごすが良い。」

 この言葉にナユタがうなずくと、バラドゥーラ仙神がつぶやくように言った。

「人生の内にあるものに何か価値があるとみなす世界観、価値観をパキゼーの思想は捨て去った。生きることの中で生じるもの、世界の中で生まれる何か、そういったものが実に無価値であり、空であるという洞見こそパキゼーの見抜いた真理に他ならない。だが、この宇宙の中では、ただパキゼーのみが道を見出し、いかなる神も道を見出しておらず、真理に行き着いておらぬ。そして、今、世の神は、実に、この世界の内のもの、生きることの中で生まれる何か、生み出される何かに価値があると考え、あるいは価値を見出そうとし、そして固執している。だから、世界はパキゼーの教えからは遠く離れ、新しい相に突入したというほかあるまい。これからの世界で求められるものは、これまでおまえが持っていたもの、目指していたものとは明らかに異なるだろう。その世界は今は健全な道を歩もうとしているように見えるかもしれぬが、本質的には矛盾を孕んだままだ。」

「矛盾とは?」

 そう聞き返したナユタにバラドゥーラ仙神が続けた。

「今、世界は、平和と繁栄を軸とした世界構築を始めている。それはかつての覇権を争う戦乱の世よりはるかに良いだろう。しかし、神々の希求はそれだけにとどまらない。安定した平和な状態に飽き足らず、野望をたぎらせる者たち、欲望を膨らませる者たちが出てこよう。」

「それでどうなるのでしょう。」

 バラドゥーラ仙神は笑って答えた。

「それは分からぬ。我らは歴史家ではないからな。ウパシーヴァ仙神なら何か語ってくれるかもしれぬがな。だが一つ言えることは、真理は森の中にあるということだ。我らが森にあって追い求め続けているものは、本来、森の外の世界のためではないが、いつか、森の外の世界との関わりが起こることもあるかもしれぬ。だが、そのことは置いておけばいい。それはその時のことだ。」

 この言葉に大きくうなずいて、アシュタカ仙神がナユタに問うた。

「それで、ナユタ。これからどうするのだ?」

 この言葉に、ナユタではなくバラドゥーラ仙神が答えて言った。

「いずれにしても、ナユタが帰ってきてくれてうれしく思っておるよ。前に言ったかもしれぬが、森にはすべてがある。ここに住み続けるもよし、あるいは、別のところに住むのもよし、どこのなりと好きなところに住むがいい。」

 この言葉にナユタが答えて言った。

「ありがとうございます。どこに住むかはともかく、今日、アシュタカ仙神に訪ねてきていただきましたので、この後、ウパシーヴァ仙神とエシューナ仙神をお訪ねしようと思っています。」

「そうか。それも良かろうな。ともかく、今日はアシュタカ仙神も来ているし、改めてナユタが無事戻ってきてくれたことを喜ぼうではないか。幸い、今日は、立派な魚も釣れたのでな。」

 その夜は、アシュタカ仙神に問われるまま、ナユタは、森を出た後のことについて少しだけ重い口を開いた。

 

 しばらく経って、ナユタはウパシーヴァ仙神のもとを訪ねるため、バラドゥーラ仙神のもとを辞した。

 ナユタが出て行った部屋には、シュルツェの絵の横に一つの詩が貼ってあった。ナユタが残したものだった。

 

青い色の空間で

さまざまな植物が記号となる。

ぼくたちを包み込む透明な球体、

そして沈黙の目、

無言でじっとしている石たちの

存在の向こうでのつぶやきが

ぼくたちに時間の断点を教えてくれる。

 

記号と化した石や魚たち、

重みを持たない図形と四方に残る深い爪痕、

無邪気に、自由に、

ただ存在すること以上の行為を拒絶する

柔順な存在者たち。

 

言葉の閉ざされた空間の隙間で

さまざまな物体が形になろうとうごめいている。

遊星の表面の小さな岸辺には

カシスの夢が落下している。

存在があらゆる石から

ひとりでに浮かび上がってこようとする瞬間。

 

(シュルツェに捧ぐ)

 

 さて、ナユタがウパシーヴァ仙神を訪ねると、仙神は、以前と同様、ぼさぼさの風貌でナユタを迎えた。ウパシーヴァ仙神はナユタが来ると笑って言った。

「ナユタ、久しぶりだな。そして、よく戻ってきたな。わしが言った通りになったろう。」

 ナユタが頭を下げて答えた。

「ありがとうございます。教えていただいたことに従い、勝利を得ることができました。ところで、ウパシーヴァ様は、以前、すべては必然の流れに基づいており、それゆえに、何が生起するかはすべて読めるとおっしゃいました。では、これからのことも分かりますでしょうか。」

 ウパシーヴァ仙神はうなずいて言った。

「すべてというのは本当には正しくないが、たしかにある程度は読める。細かいところは分からぬが、大きな流れには必然があるのでな。」

「では、世界はこれからどうなってゆくのでしょうか。」

「ナユタ、そのことは、これから、この森で、おまえ自身で探るといい。世界はおまえたちの力で健全さを取り戻したが、内部には無数の混乱の種を含んでいる。世界は定常状態にはなく、常に変化してゆく。そして、平穏、健全に世界が変化してゆくことはないだろう。必ず、破綻する時が来よう。」

「世界が破綻する?」

 そう聞き返したナユタに、ウパシーヴァ仙神は真面目な顔で言った。

「そうだ。だが、それはまだまだずっと先のことだ。」

「そのときにはどうしたらよいのでしょうか。」

 恐る恐る聞いたナユタにウパシーヴァ仙神は笑って答えた。

「その時のことはその時考えたら良い。だが、世界の変化にだけは目を凝らしておく方が良いかもな。それにな、技術面でもこれから千年、二千年と経てば、世界は大きく変わるだろう。今はみな馬に乗っているが、そのうち、鉄ででき自ら動く乗り物ができるだろう。遠い地に離れた者とまるで直に会っているかように話ができる日も来るだろう。過去の出来事、その時の声や姿を記録することもできるようになろう。文字は今は紙や石に刻んでいるが、将来は、小さな小銭ほどの大きさの中に、何万巻にも及ぶ巻物の中身が収められるようになる日も来るだろう。」

 あまりに途方もない話にナユタは目を丸くして言った。

「ほんとうにそんな日が来るのでしょうか?」

「ああ、きっとな。今は動物や魚を殺して食しているが、そのうち、肉は肉として作られる日も来よう。穀物や野菜、果物は畑で作るか、木になっているものを採ってくるものと思っているが、将来は、機械が栽培するのが当たり前となり、一年中季節に関わりなくあらゆる食べ物を食べることができるようにもなるだろう。その頃には、夜でも昼と同じ明るさが得られ、暑い、寒いといったこともなくなるだろう。蛇口をひねれば、水でもお湯でも酒でもお茶でも自動的に流れ出し、食べ物の調理は機械がこなし、食事の給仕から後片付けまで、すべて機械が行う日も来るだろう。」

「それはいつ来るのでしょう。」

「さあな。まあ、二千年か、三千年くらい先かもな。」

「ほかにはどんなことが起こるのでしょう。」

「そうだな。たとえば、地震も火山の噴火も台風も技術によって制御され、海流の動きから大気の流れまですべて制御されるようになるだろう。何億桁もの計算を瞬時にこなし、声に発した言葉は瞬時にして文字となり、演奏した音楽はこれまた瞬時に楽譜となるだろう。考えただけで、その思索が文字となり、頭に浮かんだ絵画のイメージは、自動的にキャンバスに描きつけられるようにもなるだろう。さらには思っただけで機械が望みどおりのことをやってくれる日も来よう。この宇宙の法則も、動物や植物たちの仕組みも理解されるだろう。宇宙創成の謎もひょっとしたら解けるかもしれぬ。しかし、なぜ、この宇宙が存在するのか、存在する前はどうなっていたのか、そして、いつまで存在するのか、そういった根源的なことが解き明かされる日が来るのかどうか、それはわしにも分からない。宇宙開闢から数千億年が経過していると言われているが、その宇宙開闢以前のことが分かる日が来るのかどうか、それもわしには分からない。」

「そうなれば、我々の存在はどのようになるのでしょうか?」

「さあな。少なくとも、今、我らを突き動かしているもの、それは我々の心の奥底に潜んでいるものに源を発しているが、その我らを突き動かすもの自身が大きく変貌することになろう。そうなれば、そこから世界がどこに向かうのか、それを推測するのは生易しいことではない。数千年、数万年、そして数百万年、数億年が過ぎ、今のこの時代がはるかな古代として語られるときが来る。そのときから見ると、今の時代はどのように見えるのであろうな。科学も技術も進歩し、そして我々の考え方もみな変わるのであろう。いかな神といえども時間を巻き戻すことはできぬ。そしてまた、どんな神も未来を透視することはできない。結局、我らは、時間の束縛の中で、この世界、この宇宙、この存在という束縛の中で存在しているに過ぎない。」

「分かりました。それで、これから私がどうすれば良いか、もし示唆いただけることがあるなら、お教え下さい。」

 このナユタの問いに、ウパシーヴァ仙神は笑いながら答えた。

「それはおまえが決めること。まあ、好きにすればいい。ただ、心しておくと良いかもしれぬが、いつか世界は再び危機に瀕するかもしれぬ。そして、おまえがこの森でこれから学ぶことがその時の世界を動かすかもしれぬな。だから、パシュパタだけは大事にしておくがいい。役に立つ日が来ないことを祈ってはおるがな。」

 この言葉にナユタは頭を下げた。

 

 こうしてナユタはウパシーヴァ仙神のもとを辞し、エシューナ仙神を訪ねた。エシューナ仙神は笑顔でナユタを迎え、再会を喜んだ。礼に則った挨拶を交わしたのち、ナユタは言った。

「ここで学んだ音の道は私の心の支えでした。またしばらくここに留まらせていただき、音の道をご教示いただきたいのですが。」

 エシューナ仙神は快諾して言った。

「それならここに留まるがいい。わしが教えることのできるものがそんなにたくさんあるわけではないがな。」

 ナユタは頭を下げて礼を言い、エシューナ仙神のもとに留まった。ナユタにとっては心静まる日々であった。

 それから一年近くが経ったある日、突然バルマン師が訪ねてきた。

「久しぶりじゃな。わしも都を辞して、かつての庵に落ち着いておるが、おまえのことが気になってな。また、エシューナ仙神にも会いたかったしな。」

 その夜、三神は夜更けまで語り明かした。そして、次の日、三神は楽器を持って、かつてナユタとエシューナ仙神が演奏した遺跡に登った。

 夕暮れが迫る中、バルマン師が最初の一音を響かせた。石編磬の不思議な音が、森の上に響き渡った。バルマン師は淡々と音の列を積み重ね、孤高の求道者そのもののような音楽を演奏した。日が暮れると、バルマン師に代わり、今度はナユタがサントゥールを演奏した。その音楽はかつての演奏とは違う、孤独者の祈りのような音楽であった。空の明るさが消え、満月が上った。ナユタが撥を置くと、エシューナ仙神がサントゥールの演奏を始め、バルマン師が鼓を叩いた。その壮大で滔々とした音の流れは、ナユタの心を包み込んだ。ナユタは大空に向かって祈りを捧げ、ひとつの詩を朗読した。

 

名もない天使たちは傷ついた翼を断崖の上で休め、

大地では黒々とした川が月明かりの下にうねっている。

創造の意義を賭けて争った神々の咆哮は時空のかなたへと去り、

冷たい大気がキーンと張りつめて世界を覆っている。

 

もはや羅刹たちの踊りも魑魅魍魎たちの跋扈もなく、

経文の高貴な教えも読経の荘厳な響きも消え、

呪術師たちの唱える祭儀の朗誦も霧散し、

粘土板に刻み込まれた膨大な言葉の瓦礫だけが残っている。

 

突破することのできない世界、

時間の濁流がただゴーゴーと音を立てるだけの世界、

その世界の片隅で天使たちはただ断崖の上に立ちつくし、

沈黙し、笑いを失い、祈りの言葉を失い、

自らの存在に向き合っている。

 

もはやなにものも降り立ってこない、

もはやなにものも呼びかけてこない、

この求道者たちのいなくなった世界では、

そして、神々の戦いの終わった世界では。

 

けれど、森には、今なおつややかな静けさが

霧のように降り注いでいる。

天使たちの沈黙は

いつかかすかな微笑に変わるかもしれない。

 

 詩を朗読し終わると、ナユタも演奏に加わった。これまで誰も聞いたことのない音たちが、森の上の無音の領域に投げ入れられた。荒れ騒ぐ無限に向かって、滔々たる始原の音が勤行の声のように鳴り響いた。それはまさに、求道者たちが天に向かって響かせる反骨の響き、希求の響き、そして哀歌だった。

 その夜、ユビュのブルーポールはひとりでに光り出し、煌々とした青色の光を夜空に放った。都でそれを見たマーシュ師は涙を流してナユタとユビュを偲び、こう語った。

「世界は途方もない可能性に向かって開かれている。物語はこれで終わらないだろう。世界が内包するものは、まだ、ほんの一部が形になったに過ぎない。だが、ナユタが響かせたこの響きだけは永遠に真実であり続け、あらゆるものの深奥に潜む真音となるだろう。」

 三神は世界に何の関心もない孤独な行者のような心で、宇宙の中を漂う音を釣り上げ、ただひたすらに音を重ねていった。途方もなく無になりうる領域に向かって自らを投げ掛け、神々の高ぶった欲望が渦巻く大地の外に真音を求め、宇宙的な時間の流れを再現しようとしているかのようだった。世界は色褪せ、みずみずしい響きを失っていたかもしれないが、その世界の底に流れる清心の音が響き出してきているかのようだった。

 空が白み始める頃、夜を徹して鳴り響き続けた高尚の音の列は止み、希求の叫びにも似た響きが導いた崇高な精神も朝もやの中に描き消えた。神殿の頂上で三神が紡ぎ出した響きは夜空を渡って全宇宙に広がったが、今は朝の日が静かに野の上に舞い降りていた。

 三神は演奏を終わると、遺跡を下りた。ナユタは言った。

「かつて私は道を見失っていました。もちろん、今も道が見えているわけではありません。ただ、ここには心の平安と静寂があり、心に灯す光があります。」

 その夜、バルマン師はエシューナ仙神に語りかけた。

「ナユタは元来、孤独の神、孤高の神であった。それは今も少しも変わらぬ。だから、ナユタの本当の心は誰にも分からぬだろう。我々にさえな。」

「その通りですな。ナユタの心の奥底は量り知ることすらできないでしょうな。彼の奏でる響きは我らの音とはとてつもなくかけ離れている。それこそ彼の心がどれほど遠く我らからかけ離れているかを如実に示しておりましょうな。」

 次の日、バルマン師は再び森を出て、自らの庵に帰って行った。ナユタもエシューナ仙神に別れを告げた。ナユタを見送ったエシューナ仙神は静かに呟いた。

「存在の本源的な意味を問い続けるナユタの歩みは永遠に止むことはないだろう。そして、創造が再び試みられ、世界が再び混乱と危機に瀕する日も来るだろう。」

 

 エシューナ仙神のもとを辞したナユタは、森の中で孤独な生活を始めた。ナユタは静かに呟いた。

「私は再び戻ってきた。地上で荒れ騒いでいたものたちとは完全に別離した世界がここにある。地上で醜く膨らんだ夢のぶつかり合いはここにはない。」

 荒野で沈黙していた石たちがかすかに微笑んでいた。

 

 

2015314日掲載 / 最新改訂版:2026417日)

 


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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 神話『ブルーポールズ』 第4巻