<子ども誘拐>

ティモールの行方不明の子どもたち
ロサンジェルス・タイムズ、2001年12月4日
リチャード・パドック

Timor's Missing Children
Los Angeles Times, December 4, 2001
by Richard C. Paddock

[東ティモールについての解説部分は翻訳を省略。]


 独立を決めた1999年の住民投票後の騒乱のさなか、(島の)東側に住む家族からひきさかれた子どもたちは誘拐された子たちも含めて約2000人。そのほとんどがまだ帰ってきていない。


ある少女のケース

[ディリ]その少女の悪夢は、13才のとき、インドネシア派民兵が彼女の村を焼き払ったときに始まった。銃をもった男たちが彼女や彼女の隣人たちを国境を越えインドネシア領西ティモールへと追い立てたとき、彼女の両親は家にいなかった。
 ごみごみした難民キャンプの中で、民兵の指導者は彼女をつかまえ、それから17ヶ月にわたって繰り返し彼女をレイプし続けた。
 少女を捜していた難民救援ワーカーたちは今年初め彼女が拘束されている場所を見つけ、大胆な救出作戦を実行した。まず彼女に連絡をつけ、彼女の監視係が他のことをしているすきに、難民キャンプから彼女を連れだした。そして隠れ家を提供してくれる人たちのネットワークを使って東ティモールの彼女の両親の元へと届けたのである。それは、東ティモールの行方不明になった子どもたちを連れ帰るという2年越しの闘いにおいて、まれな、しかし歓迎すべきひとつの勝利だった。
 「このケースを特徴づけているのは恐怖と苦痛だ」と、ベルナルド・ケルブラット国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)ディリ事務所長は言う。「13才の、まだ年端もいかない少女がインドネシアの難民キャンプで来る日も来る日も性的奴隷として使われているというのを、どうして許すことができるだろうか。」
 少女の名前は明らかにされない。彼女は、東ティモールがインドネシアからの分離(ママ)を決めたことへの報復として民兵が騒乱を引き起こした2年前、両親から引き裂かれた約2000人にのぼる子どものひとりにすぎない。彼女のケースはその残虐性においてきわだっているが、自由を奪い返すのにかかった時間についていえば、それほどひどいケースではないのだ。

進まない子どもの帰還

 ケルブラットは、約450人の子どもが家族の元に帰還したと語った。難民たちと一緒に自分の足で歩いて国境を越えもどってきた子も多い。しかし国連の救援ワーカーたちは残された子どもたちを救出することができず困っている。
 子どもたちは西ティモールの民兵が支配する難民キャンプにいるか、インドネシアのジャワ島にある孤児院に連れて行かれている。また中には見知らぬ人に売られてインドネシアの劣悪な工場で働かされたり、家の使用人をさせられたりしている子もいるといわれている。
 多くの場合、子どもたちの居場所についての情報はおおまかなものでしかない。救援ワーカーたちは難民キャンプにほとんど行くことがないため子どもたちを追跡することが難しい。
 東ティモール人の指導者や国連はインドネシア政府が非協力的だと言っている。東ティモールの外務大臣であるジョゼ・ラモス・ホルタはインドネシアの遅々とした対応を「非常に恥ずべきこと」と述べた。
 「これは実際子どもの誘拐だ。子どもたちはインドネシアの難民キャンプから連れ去られたわけで、インドネシア政府はこうした事態がおきるのを許している。これって一体どういう国なのだ!」と彼は言った。
 インドネシア政府役人は、誘拐を許したりはしないし、子どもたちを帰還させる努力をゆっくりやっているわけでもないと反論する。外務省報道官のワヒド・スプリヤディは、国連こそ子どもたちの情報を何でも提供すべきであり、そうすればインドネシア政府はケースを検討すると言った。
 「子どもを誘拐してインドネシアに何の利益になるというのか。そうした政策などない。インドネシアは子どもを返すための努力は何でもしてきた」と彼は言う。
 国連の難民ワーカーとしてはベテランのケルブラットは、東ティモールが独立したいという願望の代価を子どもたちが払わされているのは不幸だと語った。
 「これはこの悲劇の中でももっとも痛ましい問題のひとつだ。この場合犠牲者は声なき子どもたちであり、彼らは政治ゲームの人質にされている」と彼は言う。
 彼は1200人から1800人の子どもたちが行方不明になっていると推測している。そうした子どもたちをできるだけ多く確認しようと、国連は9月に300人のスタッフを使い、東ティモール13県にわたって各戸訪問調査を行った。
 これまでに調査が完了した2県について、324人の行方不明の子どもについての信頼できる報告がえられた。調査は来年早々には終了し、その情報は子どもたちを発見するために使われることになる。

ジュリアナのケース

 国際社会とメディアの関心をひいいたケースとしてジュリアナ・ドス・サントスの誘拐がある。
 住民投票のとき彼女は15才で、民兵から逃れてスアイの教会に数百人の難民と一緒に避難していた。悪名高きラクサウルという民兵組織が教会を襲撃し200人もの人びとを殺害した事件は東ティモールの虐殺でも最悪の事例のひとつだと、検察官たちは語る。
 民兵の指導者イジディオ・マネックはジュリアナの13才の弟カルロスを射殺したと、目撃者たちは証言している。そして、彼らによると、ジュリアナを「戦利品」として西ティモールに連れ去った。
 人権部門のスタッフは、彼は難民キャンプで彼女の繰り返しレイプしたとしている。彼女は妊娠し2000年11月に男の子を産んだ。
 ジュリアナの両親は彼女を連れ戻そうと試みたが成功しなかった。この問題は独立運動の指導者で東ティモール最初の大統領となることが予想されているジョゼ・アレシャンドル・シャナナ・グスマォンのオーストラリア生まれの妻カースティー・ソード・グスマォンによって取り上げられた。
 インタビューで、カースティー・グスマォンは、マネックがスアイ教会襲撃事件でインドネシア軍と「完全な協力」関係にあったことはよく記録されていることだと語った。彼女は、マネックが西ティモールで軍の継続的な支援を受けて活動していると疑っている。彼はスアイ事件に関連してまだ訴追されてはいない。
 ジュリアナがスアイ事件、そして3人の国連スタッフ殺害事件の犯人について重要な証拠を提示できるのではないかと考えている人もいる。しかし、インドネシア政府はマネックをジュリアナの合法的な夫であり誘拐者などではないとみており、彼女の解放をかちとる障害になっていると、カースティー・グスマォンは言う。
 ジュリアナの両親とUNHCRが何ヶ月にもわたって要請を出した結果、インドネシア政府はすでに17才になったジュリアナと彼女の家族が国境近くのインドネシア領内で6月に面会するというアレンジを行うことに合意した。ところがマネックと彼の民兵組織のメンバー、そして警察に監視された中で、ジュリアナは両親に向かって、子どもの父親と一緒にいたいと言ったのだ。失望した家族は2年に及んだ拘束の中で彼女は洗脳されてしまったのだと結論した。
 7月、マネックは公金横領の疑いでインドネシアの当局に逮捕され、今は裁判を待つ身となっている。しかしこうなってもジュリアナは家族の元に帰ろうとはしない。

ジャワの孤児院へ

 国連と東ティモールの親たちにとって憤懣やるかたないのは、西ティモールの難民キャンプからインドネシア派の政治活動家オクタビオ・ソアレスに連れて行かれた170人の子どもたちの捜索がほとんどうまくいっていないということだ。
 東ティモール出身の医学生であるソアレスは1999年、難民キャンプで彼がジャワに連れていくことが可能な子どもたちを捜した。彼は子どもの親あるいは親戚に対して、子どもたちはスマランのキリスト教会が運営する孤児院で暮らし、そこでは日に三度の食事が与えられ学校にも通えると告げた。
 東ティモール人と国連は、最近になるまでソアレスもインドネシア政府も両親の子どもを返してほしいという訴えを無視してきたと言う。ソアレスの批判者たちは、彼の目的は次の東ティモール人の世代にも親インドネシア派の情熱を受け継がせることだと言う。ある場合には彼は両親の承諾を得ている。しかし承諾を得ていない場合もあると、親たちは言う。
 オリベイロ・アマラルは娘をソアレスに連れて行かれた親だ。アマラルの一家は1999年の暴力をのがれて西ティモールにある州都クパン近くの民兵が支配する難民キャンプにたどりついた。
 到着するとまもなく、アマラルは他の難民から、11才になる彼の娘フィロメナがジャワに連れて行かれたと聞いた。アマラルは決してそれを承諾していないと言う。
 「娘をつかまえに走っていった。だがもう行ったあとだった」と彼はふりかえって言う。「私はだまされたと感じた、しかしどうにもできなかった。ただそこに立って自問するしかなかった。どうしてこんなことが起きえたのかと。」
 スマランの聖トマス孤児院のシスター・ビンセンティア・トリムルティは、1999年にソアレスがたずねてきて西ティモールから孤児を連れてきたと言ったときのことを覚えている。4、5人だろうと彼女は思ったと言う。しかし彼が連れてきたのは40人から50人だった。
 今日、彼女はソアレスのことをただほめるばかりだ。
 「彼はこの子たちの救世主ですよ。この子たちにとっては天使です。難民キャンプから連れてきて、ここでまた勉強できるのですから。いい服も与えられます。ひどい状況の中から連れ出してきたのです」と彼女は言った。
 誰に聞いても、スマランの子どもたちはちゃんと扱われているとえいる。子どもたちの中には東ティモールに帰りたくないという子もいる。そこでの彼らの最後の記憶は、燃える家であったり人が殺される場面であったりしている。

子どもとの再会

 アマラルは昨年東ティモールに戻り、家族再会を望んだが、その孤児院からフィロメナを連れ戻す方法はなかった。彼はUNHCRに助けを求め、 UNHCRがインドネシア政府に彼女を返すよう要請した。1年以上ものあいだ、国連スタッフには連絡がなかった。
 そしてついに高まる国際的な圧力によって、ソアレスとインドネシアは10人の子どもを返すことに合意し、その中にフィロメナがいた。今や13才になった彼女は、9月に父親に戻された。別れ別れになってから2年がたっていた。
 アマラルは、彼女の世話をちゃんとやいてくれたことについてソアレスに感謝していると言う。「われわれはみなティモール人だ。違いはわれわれの考え方なんだ。私は彼のことを怒ってはいない」と彼は言う。
 バリで行われた感動的な再会のための集まりで両親と面会したあと、比較的年長の子ども二人が孤児院へ帰って勉学を続けることを選択した。
 インドネシア外務省国際機関局長マルティ・ナタレガワは、子どもの家族の元への帰還はほんの出発点にすぎないと言う。「インドネシア人はその人の意思に反してその人を留めおくつもりはまったくない」と彼女は言った。しかし、ソアレスは残された160人の子どもをすぐに返す計画はないと言った。
 ケルブラットはこの帰還によって勇気づけられたとして、インドネシアがもっと子どもを返してくれることを望むと語る。
 インドネシアの非協力的態度によって、4月に13才の少女を救出したときのように、国連はスパイ大作戦なみの手段に訴えることもあった。
 国連職員は彼女も彼女の両親もインタビューされることを許可しない。彼女にはトラウマがあり、またレイプされたという烙印を押されてしまうからだ。彼らは、民兵が襲撃したその日彼女が一人にされていたのはまったくの不幸としか言いようがないと言う。両親が別な子が病気になって病院へいっていた最中の出来事だった。
 家族はみな山へ逃げたが、彼女だけは西ティモールへ連れていかれ、そこである隣人が彼女を民兵指導者に差し出した。国連職員はその指導者の名前は明かさない。
 「彼はまったく邪悪な精神異常者だ。彼女は性的なおもちゃとして使われた。彼は彼女を17ヶ月間もレイプし続けた。われわれが彼女を救出するその前の日も、彼女はレイプされていたんだ」とケルブラットは言う。
 難民キャンプで少女は民兵の監視の下におかれた。救出作戦は民兵たちが大規模なデモを計画していた日に行われた。少女の監視係もデモに参加するだろうとふんだのだ。
 彼女は今や15才。性的虐待のため、彼女はリハビリ治療を必要としている。
 ケルブラットにとって、彼女をはじめ東ティモールの子どもたちが受けていた取扱いは理解に苦しむことだ。「もういいかげんにやめるべきではないか」と、彼は懇願するように言った。「どうして彼らを罰し続けるのか。彼らが独立に賛成票を投じたからか?」★(翻訳・松野)


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