<本の紹介>

『隠蔽』
バリボ・ジャーナリスト殺害事件の内幕
ジル・ジョリフ著、2001年刊(英語)

Cover-Up -- the inside story of the Balibo Five
by Jill Jolliffe, Scribe Publications (Melbourne), 2001


 1975年10月16日、インドネシア軍とそれに率いられた東ティモール人のパルチザン(民兵)部隊は、東ティモールの国境に近い町、バリボを攻撃。それは12月7日のディリ全面侵攻に先立つ侵略行為だった。それを取材しようとしたオーストラリアの2つのテレビ局のスタッフ5人がこの攻撃の最中殺された。「バリボの死」と呼ばれるこの事件は、今もって真相が究明されないままであり、オーストラリア人ジャーナリストたちは執拗にこれを追いかけている。


ジル・ジョリフ

 著者のジル・ジョリフは『東ティモール:植民地主義と民族主義』(East Timor: Nationalism & Colonialism, University of Queensland Press, 1978)という東ティモール民族主義運動についての古典ともいえる本を書いたオーストラリアのフリー・ジャーナリストで、1974年から75年にかけて東ティモールに通信社記者として滞在し、フレテリンを中心とした東ティモール民族主義の形成を取材した。侵略後しばらくしてポルトガルに渡り、リスボンを拠点に東ティモールについての調査と報道を続け、今またオーストラリアにもどって東ティモールについて仕事を続けている。

証言を検証

 「バリボの死」については、季刊・東ティモール2号で、ハミッシュ・マクドナルドとデズモンド・ボールの共著『バリボの死、キャンベラの嘘』(2000年)を紹介した。これはオーストラリアの情報部が当時傍受していたインドネシア軍やフレテリンの無線から、オーストラリア政府はジャーナリストの存在を知っていた、インドネシア軍もそれを知っていた、知っていて攻撃し、攻撃を目撃された(国際法違反だったので)ので意図的に殺害した、オーストラリア政府はこの顛末をすべて知っていて知らなかったといいはったということを証明しようとしたものだ。そこではオーストラリア情報部の通信傍受記録に焦点があたっており、目撃証言は背景になっていた。
 ジル・ジョリフのこの360ページにもおよぶ大著は、彼女が事件の真実を追い求めてきた軌跡を時間軸にしたがって語りつつ事件に関連する目撃証言をひとつひとつ検証している。問題は、インドネシア軍が彼らを意図的に殺害したのかどうか、殺害したとすれば誰が犯人か、ということにつきる。インドネシアは彼らはフレテリンとの銃撃戦の中で死亡したと主張してきた。しかしインドネシアは彼らの死体を燃やして検証不可能にしてしまったし、銃撃説は不自然でもあった。
 この本では、インドネシア軍と一緒にバリボ攻撃に参加した東ティモール人パルチザン兵、当時バリボを守っていたフレテリン兵士の証言が、証言をとったそのときの様子なども含めて、読者も読者なりに検証できるような詳しい記述になっている。逆に、ひとつひとつの検証に読者もつきあわされるので、かなり事件に関心がないとウダウダとした感じをもつだろう。読めば読むほど迷路の中に入っていく印象があって、ひきこまれれてしまう一方で、確実な結論にいたらないのがややはがゆい。ただそれは著者のせいとばかりもいえない。事件そのものがまだ闇の中にあるのだから。

3人の容疑者

 国連暫定行政機構(UNTAET)の文民警察はこのバリボ事件についての捜査を行い、その結果、2人のインドネシア軍人と1人の東ティモール人をジュネーブ条約(1949年)違反の容疑者として国際手配するよう勧告した。ハビビ政権時代の情報大臣となったユヌス・ヨスフィア中将、クリストフォルス・ダ・シルバ、そしてドミンゴス・ベレ・マイアである。
 ユヌス・ヨスフィアは当時特殊部隊(または空挺部隊)隊員で、「チーム・スシ」という部隊を率いてバリボ攻撃の中心的役割を果たしたことまでは知られていた。バリボで陸軍系の新聞ブリタ・ユダ紙の記者ジュマリオと一緒にバリボでとった写真が発表されている。いくつかの証言では、彼がジャーナリストを見つけるなり「撃て、撃て」と叫んだとされる。そして遺体に火をつけるよう命令したのも彼だとされる。彼は東ティモール人の女性と結婚している。
 実際の殺害実行犯のひとりは、彼のもとにいたクリスと呼ばれる特殊部隊隊員だったと、何人かが証言している。彼はジャーナリストたちがいた家に押し入り、ナイフでジャーナリストを殺したらしい。クリスは本名をクリストフォルス・ダ・シルバといってその後東ティモール人女性と結婚してバウカウに住み着き、1992年から97年までバウカウ県議会の議員までつとめている。1999年に民兵の組織化に関与したのではないかとも疑われている。彼をよく知るバウカウの住民たちによると、彼はよくバリボのことを話していたという。ただしジャーナリスト殺害には一切触れなかった。99年の騒乱のときに民兵と一緒に西ティモールに逃亡したと考えられる。実は彼は1983年9月、ビケケ県のクララスでおきた住民虐殺(200人とも500人とも言われる)にも関与しているとの証言があげられている。
 チーム・スシのメンバーだった東ティモール人ドミンゴス・ベレ・マイアについては詳しいことは書かれていない。1999年の民兵による騒乱への関与も疑われていて、西ティモールにいるらしい。
 このほかにも、特殊部隊隊員だったスラムット・キルビアントロとアリ・ムサはジャーナリストに向かって発砲したとの証言が上がっており、同行した記者のジュマリオ・イマム・ムニ(1998年に死亡)とシナール・ハラパン紙のヘンドロ・スブロトは、ジャーナリストの死に立ち会っていながら、事実を隠蔽することで軍に協力したとの疑いがある。
 また、こうした現場の兵士たち以外に、作戦自体を指揮していたダディン・カルブアディ(1999年に死亡)、アリ・ムルトポ(1984年に死亡)、ベニー・ムルダニといった情報系将校のトップたち、そしてこれらすべてを「了承していた」はずのスハルトの人道に対する罪も本来問われなければならないだろう。★(松野明久)


情報活動6号の目次ホーム