<巻頭言>
独立回復1周年

 5月20日は、独立回復1周年だった。独立宣言は1975年の1128日にフレテリンが発したものをもって正式ということなので、5月20日は独立回復の日ということになる5月19日に、ディリの大聖堂でミサが行われ、サンタクルス墓地で献花が行われた。20日はシャナナ大統領のスピーチが政府庁舎前広場であった。各地ではスポーツ大会などが催された。1周年記念企画予算は各県あたり4000ドル。失業が問題となっているときに、華美なイベントはしないという判断は賢明なものだろう。
 ほとんどニュースになりようのない1日だったが、元インドネシア公務員たちが大挙して政府庁舎に押し寄せ、支払いが滞っている年金についてインドネシア政府にとりついで欲しいという請願デモを行ったのが、目を引いた。
 しかし、このデモの対応に出たのはUNMISET(国連東ティモール支援団)の長谷川副代表で、基本的に国連が責任をもつべき問題ではないと断りながら、彼らの声をしかるべきところに届けると約束していた。
 アルカティリ首相の方は、この件についてテレビで質問され、あれは彼らとインドネシア政府の問題、と冷ややかな答えだった。フレテリンの指導者は、インドネシア協力者について手厳しい。
 この「インドネシアとの関係」をどうするかは、実は独立1周年の隠されたテーマだったのではないか。政府の基本方針は、隣国としてのインドネシアとは良好な外交関係を維持しつつ、東ティモール国内ではできるだけインドネシア時代の遺産を払拭したい、と読める。
 良好な外交関係のため、重大犯罪部がウィラントらインドネシアの将軍たちを訴追したことを取り繕い、アチェでの戦争が始まると「インドネシアの領土的一体性を支持する」というコメントをリリースし、アチェ人がデモをしたことを「許さない」と述べる。元慰安婦のおばあちゃんたちが日本に求めている補償やそもそも賠償といったことも、「インドネシアとの良好な関係のため」取り上げられない。
 一方、政府は、西から侵入して政治的に不穏な情勢を作り出す可能性のあるインドネシア人を締め出すためと称して、外国人の入国と滞在に課税する政策を打ち出した。また、外国人がデモに参加するなど政治活動をしたりした場合は国外退去にするという方針は、人権関係者を驚かせたが、これもインドネシア領からの介入防止のためらしい。
 言語問題は、相変わらず、頭痛の種だ。住民投票後、コミュニケーションのテトゥン語化が急速に進んだ。しかし今、インドネシア語が実務言語としてむしろ復活している。一方、ポルトガル語化はあまり進んでいるように見えない。
 テレビはテトゥン語のニュースとインドネシア語のドラマ(インドネシアからの衛星放送)をみんなよく見ている。ポルトガル語放送もあるが、内容がまったくつまらない(つまらなそう)。新聞はテトゥン語の記事は非常に少なく、インドネシア語が増えた印象だ。ベロ司教がポルトガルで演説し、ポルトガルはポルトガル語放送のテレビ局、ラジオ局をつくり、ポルトガル語の新聞を出すべきだなどと熱烈なポルトガル語主義者ぶりを発揮したが、悲しいかな、本国ではそれはインドネシア語での記事となった。
 人びとがインドネシア語を使うのは、ポルトガル語はほぼ論外としても、テトゥン語の発達が促されないためだ。政府はほとんどテトゥン語の整備に手をつけていない。政府はテトゥン語を発達させれば、ポルトガル語化ができないと思っている節がある。それが実は、インドネシア語化を招いている構図に思えるのだが。
 インドネシアとどうつきあうか、東ティモールのインドネシア的遺産をどうするか。もっと議論が必要だ。(ま) 

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