あきらめないぞ、最後まで!
出版相次ぐ、元インドネシア軍人と民兵の回顧録

松野明久

 ウィラント元政治治安担当相、トノ・スラトマン元東ティモール司令官、エウリコ・グテレス(民兵組織アイタラク指導者)、そしてドミンゴス・ドレス・ソアレス(民兵指導者)の書いた本が、ジャカルタの本屋に並んでいる。これらは、東ティモールの独立は国際社会の陰謀だったとの言説を広めている。東ティモール問題とは何だったのか、という歴史認識に関する議論は当分続く。彼らはまだ負けたつもりはないのだ。


4冊の本

 4冊をまず紹介しておこう(原文はすべてインドネシア語)。

(1)ウィラント『さよなら東ティモール−闘いが真実を明かす』(2002年4月)
(2)トノ・スラトマン『わが国家のために:東ティモールにおける闘争のポートレート』(2002年3月)
(3)ハイルル・ジャスミ著『エウリコ・グテレス:インドネシアの政治の嵐を突き抜けて』(2002年6月)
(4)ドミンゴス・ドレス・ソアレス『東ティモール:完全犯罪』(2000年)

 このうち(1)と(3)は、本人が書いているわけではなく、本人が語ったのを別な執筆者が本に仕上げたもので、インドネシアでは「自伝」と言われるものの多くがこうした体裁をとっている。(2)と(4)は自分で書いたものだ。しかし(4)はよく読むと、それまでのいろんな文書の寄せ集めで、筆者が書いたとはいえない部分も多い。
 (2)と(3)を出したプスタカ・シナル・ハラパン社は、かつて東ティモール侵攻作戦の従軍記者ヘンドロ・スブロトの本を2冊出版したことがあり、すでのおなじみの出版社だ。ちなみにシナル・ハラパン(希望の光)はかつてスハルト政権によって閉鎖に追い込まれた夕刊紙。今また復活している。

ウィラント

 ウィラントが敵視するのは、UNAMET(国連東ティモール派遣団)、多国籍軍、オーストラリア、そしてインドネシア国家人権委員会東ティモール調査委員会(KPP-HAM)だ。この4つは、表紙のイラストで、燃え上がる東ティモールの炎の中にすかし文字のようにデザインされている。意図は、東ティモール騒乱の隠れた原因とでもいうべきか。
 まず、彼は「国際的陰謀」から話を始める。
 ここで彼はマレーシアのマハティール首相が、住民投票後のあるインタビューで、どうして東ティモール人が独立を選んだのかという記者の質問に答えて、外国人が東ティモール人に「もし独立したら、われわれが支援しよう、保護しよう、金をやろう」といってそそのかしたのだと述べたことを紹介している。
 続いて、世界は冷戦が終わって経済戦争の時代になった、インドネシアのように経済的に発展の可能性のある国を先進国はつぶしたがっている、先進国は人権、環境、民主主義といった問題を持ち出してきて発展途上の国々を打ちのめそうとしているのだ、こうした問題は先進国の演じるゲームの道具なのだ、とたたみかける。
 そして彼の批判の矛先は、こうした国際的陰謀を甘んじて受け入れる、あるいはそれに乗じて国軍をおとしめようとする国内勢力に向けられる。すなわちハビビ政権だ。ここに彼特有の論理が見え隠れする。
 つまり、国軍は過去人権侵害を侵したかもしれない、しかしそれは当時の文脈、当時の政治的正統性によって判断すべきことで、今民主化したからといってその観点から断罪してはいけない、しかるに、ある勢力は過去の国軍の所業に対する怨念から、東ティモール問題でそれをはらそうとした、というものだ。彼はこれを英語でPolitical Retaliation(政治的報復)と呼んでいる。
 この本は全体が彼の自己弁明なのだが、それはとくには国家人権委員会東ティモール調査委員会(KPP-HAM)に対して向けられている。
 彼は書いている。私は平和安定委員会(KPS)をつくって和平構築に貢献した、東ティモールの国家人権委員会(Komnas HAM)には事務所の備品からヘリコプターまで用意してやった、住民投票に向けての武装解除はおおむね成功した、国連の文民警察や軍事連絡要員も受け入れたと。そして、国連は治安の保証もないのに外国人記者を自由に入れたが、国連は彼らを守れず、結局外人が一人も死ななかったのは国軍のおかげではないかと。
 ウィラントのKPP-HAMに対する批判の第一は、それが報告書をメディアに公表してしまったことだ。発表されたのは要旨で犯罪についての証明プロセスが書いてない。そうしたものを発表し、高級将校たちを断罪したことは「推定無罪」の原則に違反するというわけだ。KPP-HAMは公開性(public accountability)の原則から、公開したことを正当化しているが、それとて違反は違反と言い張っている。
 もちろん、KPP-HAMの報告書(要旨)は、検察に対して本格的な捜査の必要を訴えたもので、それ自身、法的に「断罪した」というようなものではない。実際、そうした権限はもっていなかった。
 結局、ウィラントは訴追リストからはずれ、責任を追及されなかった。

トノ・スラトマン

 スラトマンも国際的陰謀説から始める。言い方がおもしろいのは、陰謀説を将軍たちのパラノイアにすぎないという連中は、歴史で赤点をとった者たちにちがいないというところだ。いわく、第二次大戦が日独伊の陰謀から始まったこと、チャーチルとドゴールがポツダムの秘密会談で欧州分割を討議していたこと、英仏がスエズ運河攻略を画策していたこと、マーシャルプランがアメリカのロシア対抗策だったことなどなど、陰謀の例は数知れないというのだ。
 東ティモールについていえば、彼によると、アメリカとオーストラリアはポルトガルにおける左翼勢力の伸張を危惧しており、それがフレテリンというかたちでアジアに派生するのを防ぐため、インドネシアを抱き込んで、その封じ込めにかかったという。
 この論理では、インドネシアはアメリカとオーストラリアの手先となって、冷戦体制下、東ティモールのフレテリン政権誕生を阻止するために動いたとなる。その意味は、そういうアメリカがインドネシアにさせたことをもって、今度はインドネシアを非道な国のごとく非難して、東ティモールを自らの都合にしたがたて独立させようとしている、インドネシアは大国に翻弄されているあわれな国だ、となる。
 スラトマンは、ハビビの独立容認発言前あたりからのさまざまな事件について、弁明を行っている。もっとも重要なのは、リキサ教会襲撃事件とディリ襲撃事件だろう。いずれも1999年の4月におきた虐殺事件だ。
 リキサ事件については、発端を次のように説明している。
 4月3日、リキサで5、6人の統合派の青年が歩いていたとき、4人の独立派の青年と「目があった」たが、独立派の青年たちが逃げ出したので彼らを追いかけた。しかし、雑踏の中で見失った。翌日、独立派のある公務員が人びとに前日の出来事を聞いて回っていたことに統合派が憤慨し、その公務員を殴り、彼のバイクを破壊した。翌日の5日、その仕返しに独立派が集まり、市場の近くの民家を放火し、警官の妻一人を山刀で斬りつけ、何人かを負傷させた。そして、統合派の人物が経営する商店を破壊した上、その子どもを誘拐し、独立派のある村長宅にしばって監禁した。
 アイタラク(民兵組織)の連中がこれに反撃。独立派の村長とその支持者たちは、リキサ教会の司祭館に武器をもったまま隠れた。アイタラクは教会の司祭館を取り囲み、近隣から統合派の人びとも応援にかけつけた。
 現場に到着した警察は、司祭(ラファエル神父)に対し、拷問をし殺害をした独立派を武器とともに引き渡すよう交渉にあたった。司祭は、司祭館にいる住民は武装していないし、拷問・殺害など行ったというような者はいないと返答した。現場についた東ティモール軍分区副司令官(スラトマンの下)は、同じ警官に再度交渉に入らせようとしたが、そのとき、建物(司祭館)の方から発砲音が聞こえた。弾は警察機動部隊に向けられたようだったが、それをはずれ、トリブアナ治安部隊(これがよくわからない)の隊員に当たった。これで統合派が大暴れして、警察による警告の発砲にもかかわらず、司祭館を攻撃した。軍は、こんな状況の中で、司祭を救済しようと試み、それに成功した。そして5人の遺体と、25人の負傷者と武器を発見した。
 これに対し、KPP-HAMの報告書はまったくちがった事実経過を報告している。
 それによると、4月4日(復活祭)、リキサの西方にあるマウバラで独立派の家が民兵(紅白鉄隊)によって放火、破壊された。実行犯はインドネシア軍の郡司令部に逃げ込み、住民はそこを山刀などをもって包囲した。リキサ教会のラファエル神父のとりなしでその場はおさまった。しかし、翌日、マウバラで民兵と軍は一緒になって独立派の逮捕を開始し、その中で民兵によって住民2人が殺害された。民兵と軍はその後リキサに向かった。それを聞いたリキサの住民がリキサの町の入り口でそれを待ち受け、そこで民兵と住民の衝突が発生した。軍は道路の両側にいてそれを止めるどころか、自ら発砲し、それで住民2人が死亡した。その日の午後1時半、治安部隊の兵舎の方から1時間にわたって発砲音が鳴り響き、恐れをなした住民はリキサ教会に避難した。その数は2000人。おりしもリキサに入ってきた民兵たちは独立派の家を放火しはじめた。
 4月6日朝8時、民兵は教会を取り囲み、警察機動部隊の2人が現場に到着した。警察はラファエル神父に、独立派のグレゴリオとジャシント・ダ・コスタ・コンセイサォンを民兵に引き渡すよう要請したが、神父はこれを拒否。また、ジャシントがもちこんだと警察が主張した武器についても、神父はそういうものはないと否定した。10時になるとエウリコ・グテレスが現場に到着し、事態を収拾しようとしたが、ディリ県長のレオネト・マルティンスと紅白鉄隊のマヌエル・デ・ソウサが交渉を拒否し、民兵と軍は司祭館を攻撃した。30名ぐらいが死亡したと推測される。
 今年1月23日、ラファエル神父は、インドネシアでの東ティモール裁判(アダム・ダミリ元第9管区司令官のケース)に衛星回線を通じての証言を行った。そこで、軍は民兵と一緒になって住民を攻撃し、少なくとも2人の住民が兵士の発砲した弾で死亡したと述べた。(AP, Jan 23)
 トノ・スラトマンの書いていることは、証拠や証言も提示していないため、どこまで信憑性があるか疑わしい。しかし、どうやらジャシントという村長を引き渡すよう交渉したという点では一致している。その時、民兵たちは武装していたはずだ。それをどうして放置し、そういう武装集団に人間を引き渡せなどと、警察は言えるのか、いまいち理解できないところだ。民兵の武装はインドネシアの法律に照らし合わせても違法なはずで、それを放置していること自体、警察としては不作為の罪となるはずだが。
 トノ・スラトマンもジャカルタでの東ティモール裁判で無罪になっている。

エウリコ・グテレス

 紅白のはちまきをして迷彩服をきた姿が、表紙をかざっている。
 この本はあまり事件について書いていなくて、人権侵害の追求をまぬがれるための弁明といった目的はないような感じだ。生い立ちから、青春時代、結婚のことなど、個人的なことがいっぱい書いてある。
 エウリコは1974年、ビケケ県のワイタメ村に生まれた。彼の父親は1979年、彼が5才の時、ファリンティルによって連行され、殺された。彼の祖父は、ビケケの反乱(1959年)に参加してアンゴラに追放され、1975年に戻ってきたが、インドネシア軍の侵攻の前後、アポデティの面々と一緒にフレテリンに拘束され、アイレウで処刑されたらしい。彼自身は苦労してディリのクリスタル高校を卒業し、東ティモール大学などに一時籍をおいたものの、終わらず、宝くじ(と本人は言うが)の世界のボスとなっていった。浴びるほど金が入ってきた、と述懐している。
 その後、1999年の一連の事件についての彼の関与については、まったく記述がない。いきなり住民投票に話はとび、国連が詐欺をしたというような話が続く。そして彼がスケープゴートとなって(これはそれなりに正しいのだが)、投獄されたことが語られる。
 興味深いのは、統合派の住民や兵士に対する彼のいう人権侵害が138件にわたって列挙されていることだ。拷問、行方不明、殺害といったケースが一緒に並んでいる。

ドミンゴス・ソアレス

 3巻の小さなパンフレットから構成される彼の出版物は、写真が豊富だが、文章が読みづらい。要するに、国連は独立させるのを前提に住民投票を実施し、そのために独立派だけをスタッフとして採用し、詐欺的に独立派を勝たせた、ということを言いたいらしい。
 巻末には、1999年9月3日、統合派が発表した東ティモール各地における投票実施の「不公正」な事例を列挙した文書が、おさめられている。これは、いずれのケースも、独立選挙委員会の審理で立証されなかった。その結果、独立選挙委員会は住民投票を公正に行われたと発表し、インドネシア政府もそれを了承した。そういう文書だ。★


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