大正時代のSL-1


国産標準機関車の誕生(6760形)
鉄道国有化後の車両の整理は終えた国鉄の工作課長・島安次郎は、将来の輸送量の増大とスピード化を見据え,軌間の拡大(標準軌化)と国産大型テンダ機関車の製造を計画しました。誕生したばかりの国内メーカーには大型テンダ機関車を製造する力はまだなかったので、国内メーカーには中型標準機関車の製造をまかせ、大型機関車は輸入して研究する事になりました。
まず旅客用として2Cテンダ機を60両、貨物用としてC+Cマレー機を54両、急勾配用機としてEタンク機を4両、碓氷峠電化用のアプト式電気機関車を12両の計130両の輸入することを計画しました。
島は国有化以前の多形式化にこり、国鉄では上記4形式の統一仕様書を示し入札による発注を考えました。2Cテンダ機は英・ノース・ブリティッシュ社(8700形)、独・ベルリーナ社(8800形)、独・ボルジッヒ社(8850形)、米・アルコ社(8900形)、C+Cマレー機は米・アメリカン社(9750形)、米・ポールドウイン社(9800形)、独・ヘンシェル社(9850形)、Eタンク機は独・マッフイ社(4100形)、アプト式電気機関車は独・アルゲマイネ社(EC40形)にそれぞれ落札され発注されました。1910年(明治43年)島は大型蒸気機関車の制造と監督、工作過程を学ぶため朝倉希一、佐野清風ら若手技師を連れてドイツに渡りました。島と朝倉は交互にボルジッヒ社、ベルリーナ社をまわり、佐野はアルゲマイネ社でそれぞれ大型蒸気機関車、電気機関車の製造過程を学び後にD50形、C51形など国産大型蒸気、国産電機機関車の基礎を学びます。同時期国内ではR・F・トレビシックの弟子である森彦造、太田吉松らが中心となって、中型標準機となる2Bテンダ機(6700形)の試作にかかりました。
6700形は当時幹線旅客用の標準形であった飽和蒸気の2Bテンダ機の国産設計形でしたが、日本の標準形弁装置になるワルシャート式弁装置を備え、動輪直径も1600ミリで当時の日本では最大径の動輪を使用しました。
1911年(明治44年)汽車会社(4両)、川崎造船所(12両)で16両製造されました、翌1912年にも汽車会社(15両)、川崎造船所(15両)で30両製造され計46両の6700形が誕生しました。
1913年(大正2年)にはシュミット式過熱管(以下・過熱器)を備えた6750形が川崎造船所で6両試作されました。
1914年には6750形の改良量産形である6760形が川崎造船所で88両製造されました。
6760形諸元 機関車重量45.57t 全長16.286m 動輪直径1600mm 軸重13.85t 使用圧力12.7気圧

6760形機関車88両が顔をそろえた年には、英米独の2Cテンダ機60両が到着し東海道線、山陽線に配備されていったため、6760形機関車は一般旅客用に格下げされましたが、その座も8620形の誕生によりすぐ危うくなりました。動輪の数が少ない6760形はどうしても粘着重量が小さいため発車時の加速、低速時の引出能力は8620形に劣りました。6760形は8620形と同じボイラ、シリンダー径を持ちながら2Bの軸配置のため、実質的な牽引力は8620形の70%しかないため8620形の増備に伴い地方亜幹線の旅客用機関車として働きましたが、8620形の増備に伴いほとんどが入換機として晩年をすごしました。
1928年(昭和2年)〜1930年にかけて飽和蒸気の6700形の内27両が過熱器を取り付ける改造が鷹取、浜松、大宮、小倉の各工場で行われB50形が誕生しました。未改造の6700形19両の内、関東地区の12両はそのまま廃車解体されましたが、関西地区に残った7両は入換機として戦後まで残り最後の1両が廃車解体されたのは1951年(昭和26年)でした。
改造されたB50形は名古屋地区に10両、大阪地区に10両、九州地区に7両が配備され主に入換機として働きましたが、1947年には余剰になった機から随時廃車されていきました。晩年は関西地区に集められ入換機として働きましたが1958年(昭和33年)までにすべて廃車、解体され保存機はありません。
6750形6両は関西地区に配属されましたが、1924年(大正13年)に秋田区に転出し羽越線で働きました、1936年には6751,6753,6754,6755号機が大湊区に転出、6750,6752号機が高島区に転属し入換機となりましたが、大湊区の4両は1948年に廃車、高島区の2両は翌1949年に廃車、それぞれ解体されてしまいました。
6760形は東海道線、山陽線、東北線、常磐線などに新製配備されましたが、8620形の増備にともない早くも幹線すじから下級線区、入換機にと転用されていきました。戦後は関東から以西の各駅で入換機として働きましたが1948年(昭和23年)には余剰になった機から随時廃車されていきました。最後まで残った6760形15両は高島区に集められ京浜地区の入換機として働きましたが、1957年(昭和32年)までにすべて廃車、解体されてしまい保存機はありません。
初の国産標準機関車として誕生した6760形機関車ですが、どうしても後続の8620形と比較されてしまい1920年代の一時期しか活躍の舞台が無く、地味な入換機として晩年すごした不遇な機関車でした。6760形の技術が8620形に生かされ、後の国産機の基礎を創った機関車です。廃車の時期が早く保存機が無かったのは残念でなりません。

●過熱式蒸気機関車
1903年ドイツのW・シュミット(シュミット式)が発明した過熱器を使った機関車を過熱式機関車といいます。
ボイラーで作られた蒸気は飽和蒸気と言い、凝結し水に戻りやすい性質を持っております。従ってシリンダーに送っても水に戻ってしまう分が多く、蒸気を有効に利用出来ませんでした。シュミットはボイラーで作られた蒸気を細いU字管に導き大煙管の中でもう一度過熱させることにより350〜400度の過熱蒸気にしてシリンダーに送ることに成功しました。過熱式蒸気機関車はボイラ圧力以上の出力アップと20〜30%ぐらいの石炭の節約が出来る省エネ蒸気機関車なので、その後の蒸気機関車の主流になっていきました。1910年ドイツ国鉄の技師R・ガルベはシュミット式に改良を加え大煙管内を2往復させるシュミットA形過熱管を開発しました、後に3往復させるトリプル形のワグナー式なども開発されましたが、国産の過熱式機関車はシュミットA形過熱管を使っております。



8620形
1911年(明治44年)発注した大型テンダ機関車8700形、8800形、8850形、8900形が続々日本に到着しましたが、統一仕様書どうりに製造された機関車は、島らが監督したドイツ製の8800形、8850形だけで、英・ノース・ブリティッシュ社製の8700形は旧式な飽和式の蒸気機関車でした。米・アルコ社製8900形にいたっては軸配置が2C1で日本の仕様書をまったく無視した機関車が陸揚げされたのでした。英米のメーカーにして見れば日本は今までどうりにカタログにある機関車をゆうとうりに輸入していれば良いのだ、鉄道後進国の仕様書どうりの製造なんてバカバカしくて造ってられるかと思っていたらしく、日本の商社に圧力をかけて、または政治家を動かし仕様書を自社機に合う用に変更してしまったのです。工作課長が海外出張中に商社から賄賂を受けた政治家が国鉄を動かして契約を変更してしまう。まさに政治家のいいなりになる国鉄らしい話しでした。
島は仕方なく、1912年(明治45年)2月に東海道線の新橋〜沼津間で大型輸入機の比較試験を行いました。独・ベルリーナ製の8800形は260tを牽引し時速102キロを記録し、石炭消費量も最も少なく仕様書どうりの性能を見せました。次席は独・ボルジッヒ社の8850形でした。飽和式の8700形機関車はもっとも性能が悪く飽和式は時代遅れである事を証明する結果になりました。米・8900形は例によって工作が悪く、限界一杯の性能試験すら出来ない機関車でした。
独・2C過熱式テンダ機関車の8800形、8850形は、1912年(明治45年)6月15日から東京(新橋)発8時30分発〜下関着(翌日)9時38分着の寝台特急列車(後の特急富士)を牽引して活躍することになります。

島は日本の線路事情を鑑み、8800形を小型化した旅客用の軸配置1Cの過熱式テンダ機関車(後の8620形)と、8850形を参考にした貨物用の軸配置1Dの過熱式テンダ機関車(後の9600形)を試作する事にしました。この2機種は島の指導で8620形は汽車会社が、9600形を川崎造船所が設計する事になります。
8620形は軸配置2Bの6760形を基本に軸配置を1Cとした機関車です。6760形の先従輪のボギー台車を改良してリンク装置でつなぎ後ろの車軸に動輪を組み入れた形に改良しました、こうして生まれた第一動輪はリンク装置で横に動く幅をもたせた事により、80Rの小曲線も走行可能になりました。この先従輪は「島式ボギー」と命名され、8620形を成功させた主因になる新機構でした。
8620形の第1号機は1914年(大正3年)4月3日に大阪の汽車会社で完成しました。以降8620〜38648号機までの269両は汽車会社が製造しましたが、1920年(大正9年)10月からは日立造船所笠戸工場、1921年1月には川崎造船所兵庫工場、1922年6月には日本車両名古屋工場、1924年10月には三菱造船所神戸工場でも8620形が製造されました。1930年(昭和5年)日立造船所笠戸工場で完成した88651号機が最終機で、汽車会社が384両、日立が137両、川崎が83両、日車が57両、三菱が11両の総計672両の8620形が誕生し国鉄に納入されました。
当時の国鉄は1形式1メーカーの方針で汽車会社独占で製造された8620形でしたが、8620形の製作両数が多くなるにつれ後発の車両メーカーである日立、日車、三菱が製造に加わりました。これら3メーカーは8620形の製造する事で蒸気機関車製造のノウハウを学び、その後は汽車、川崎、日立、日車、三菱の5メーカーが主力となって蒸気機関車の国産態勢を形ずくる事になっていく事からしても、8620形が国産標準機として重要な位置にあったといっていいでしょう。

●樺太庁鉄道用にキャブを密閉式にした防寒対策形の8620形と同形の機関車が1921年〜1929年にかけて15両(汽車製5両、日立製10両)製造されました。1943年(昭和18年)国鉄移管後88652〜88666号機と改番されましたが、終戦後ロシアに接収され以後行方不明になってしまいました。
台湾総監府鉄道部用にCT150形(8620形の同形機)が1919年〜1928年(汽車、川崎、日車、三菱)に43両製造輸出されました。台湾西岸寄りの縦貫線に配備され旅客用に使用されたそうですが委細不明です。
また1928年(昭和3年)北海道拓殖鉄道開通に合わせ8620形2両が汽車会社で新製されました。国鉄以外に納入された8620形は60両にのぼりました。

8620形諸元 機関車重量48.83t 全長16.765m 動輪直径1600mm 軸重13.48t 使用圧力13気圧
外観的に見ると8620〜8671号機までの52両は運転室下のデッキをゆるやかにカーブして英国風の曲線美をもたせたスタイルで美しいサイドラインに仕上がっています。8672号機以降は乙字型の二重デッキになってしまいました、後年には側デッキに空気タンクやコンプレッサー、ATSなどを取り付けたためほとんどの機が二段デッキに改造されました、またほとんどの機はデフレクタを取り付けられたため、晩年重圧で複雑なサイドラインになってしまいました。
煙突は新製時は鋳造製の英国風な化粧煙突でしたが、回転式火粉止の取り付けに不便なため通常型のパイプ煙突に取り替えられた機もありました。
テンダは8620〜8671号機まで52両は水12立方メートル、石炭3トンを積める2700ガロン形でしたが、8672〜18687号機機は水13立方メートル、石炭3.3トンを積める4500立方フィート形としました。18688号機以降は側板を高くして石炭を6トン積めるようにした6−13形テンダが標準になりました。


8620形のその後
8620形の新製配置は本州、九州の主要幹線に配属され一般旅客、急行用として活躍しました。1919年に完成したC51形の増備に伴い地方亜幹線の旅客用機関車として日本全国に広がって行きました。
8620形は性能が良く取り扱いが簡便で、検修に便利な事などが現場で好評をはくしたため、6760形や明治時代に輸入された旅客用機関車と置き換えられていきました。
1934年(昭和9年)脱線事故で88628号機が廃車解体されました。1943年10月には13両の8620形が陸軍に供出され樺太に渡りましたが終戦後ロシアに接収され以後行方不明です。1945年には米軍機の機銃掃射により48634、68640、68662号機が被弾し翌年には廃車解体されました。
1945年(昭和20年)12月の国鉄車輌配置表によると、8620形は北海道地区に60両、東北地区96両、関東地区85両、中部地区48両、関西地区71両、中国地区110両、四国地区69両、九州地区109両の計658両が日本全国で働いておりました。
8620形は1958年(昭和33年)から電化、DL化のため老朽化の進んでいた機から廃車がはじまります。1958年トップナンバーの8620号機をはじめ49両が廃車になりますが、鉄道友の会・四国支部の運動でトップナンバー8620号機は解体をまぬがれ宇和島機関区で保管されました、1962年の鉄道90周年記念事業、青梅鉄道公園の開園に合わせて同園に移動し現在も大事に保管されております。以後も8620形の廃車は続き大都市近郊から8620形は消えて行き、1959年には85両が廃車解体されました。1960年には8620形からC58形に置き換わりが進み、道東各区に残っていた8620形、遠江二俣区や津山区などの8620形はすべてC58形に置き換わり、いっきに112両が廃車解体されてしまいました。1961年47両廃車、1962年35両廃車、1963年22両廃車、1964年24両廃車、1965年19両廃車、1966年56両廃車、1967年40両廃車、1968年20両廃車、1969年には25両が廃車され、1970年にはついに2桁の93両(休車8両を含む)を残すだけとなってしまいました。1970年26両廃車、この年四国地区の無煙化が完了しました、四国で最後に残った小松島区の8620形4両の中に日本車輌が1922年6月に名古屋工場で製造した日本車輌1号機の58623号機がありました、58623号機は日本車輌に引取られて現在も豊川市日本車輌製作所で大事に保管されています。1971年には67両の8620形が働いておりました、線区別に見ると五能線、黒石線、花輪線、越美北線、香月線、室木線、松浦線、湯前線、細島線と各区の入換機などですが、この年9月末には三重連で有名だった花輪線がDL化され17両の8620形が火を落としました。長野区の2両、関西地区の入換機などもこの年DL化されて計26両が廃車されていきました。1972年には50両を割り41両を残すだけになってしまいました。同年3月には松浦線の8620形がDL化され鳥栖区の68649号機、早岐区28629,58648,58697号機の4両が火を落とします、盛岡区で留置されていた38633、38689,38690,38698,48633,68622号機が廃車解体、紀伊田辺区で留置されていた88638号機も廃車解体、大分区の58659号機が廃車解体、南延岡区の48676,48695号機が廃車解体、人吉区の38633号機が余剰のため廃車解体されてしまいました。1973年8620形は28両が煙を上げておりましたが、3月24日には五能線、黒石線にDE10形が入り弘前区の8630,18677,28622,28667、38689,38690,48640,58635,58666,78667号機の11両がDL化のため火を落としました、同線で働いていた48640号機は鯵ヶ沢町(あじがさわ)に保管、8630号機は動態保存のため梅小路に向かいました。5月27日には越美北線の28651,88623号機がDL化され火を落としましたが、28651号機は同地の和泉村朝日穴馬民族館で保存されました。
残る8620形は九州地区に残った10両だけになってしまいました。
1974年1月20日には香月線、室木線にDE10形が入り若松区の28627、38629、38634、68660(休車),88622号機が火を落としました、最終日の20日はサヨナラのヘッドマークを付けた38634号機が室木線の823,824レを牽引し筑豊地区の8620形の最後を飾りました。廃車になった88622号機は壱岐島で保管が決まり海を渡りました。4月24日には細島線にDE10形が入り南延岡区の78626号機が火を落としました、同機は廃車後遠賀町の公園で保管されました。10月には鹿児島区の入換機として頑張っていた48679、68649号機もDD16形に置き替えられ火を落としました。48679号機は人吉区に移り全検切れの48647号機と交代しました、廃車になった48647号機は菊水町で保管されました。最後に残った8620形の仕業は湯前線の貨レと人吉駅の入換ででしたが人吉区に転属してきた48679号機も最終日を待たず全検切れで廃車になってしまいました。1975年3月にはDD16-53号機が人吉区に入り1975年3月9日が最終日になってしまいます。この日、58654号機の牽引する湯前線1391レ、1392レ(人吉〜多良木)を最後に国鉄の8620形は運転を終えたのでした。
8620形は大正から昭和にかけて旅客用機関車として活躍しました、国鉄の無煙化計画では早々と引退するはずでしたが、性能と使い勝手の良さから蒸気時代の晩年までしぶとく生き残りました。トップナンバーの8620号機をはじめ8630,28651,48624,48640,48647,48650,48696,58623,58629,58654,58680,58683,58685,58689,68691,68692,78626,78653,78675,78693,88622号機の22両が全国各地で保管されております。また8630号機は梅小路蒸気機関車館で現在も煙を上げており、往時の姿を見る事が出来ます。

●58654号機の復活
湯前線で最終運転を終えた58654号機は、肥薩線矢岳駅構内にある「人吉市蒸気機関車館」で保管されておりました。
1987年(昭和62年)4月1日国鉄はJRグループとして7分割されました。JR九州では民営化を機に「蒸気復活プロジェクト」が創られました。当初は小倉工場で保管されていたC59形1号機を復活候補にあげていましたが、軸重が重く幹線以外での運転が出来ない事がネックになり候補からはずされました。次にJR九州管内で車輌の状態が良く、どこでも入線可能な機ということで58654号機が候補に上がりました。同機を長年管理していた人吉市は、年に数回58654号機を肥薩線で運転することを条件にJR九州に58654号機を返却しました。
1988年1月8日、58654号機は3分割されトレーラーに乗せられ復活運転に向けて全般検査を受けるため小倉工場に搬送されました。小倉工場では長年SLの修繕をしていたOBの助けを受けながら全般検査が始まりましたが、ボイラーは水圧検査の結果、使用に耐えられない事がわかり新日本製鉄八幡工場で新製されました。運転室外側とテンダ上部も腐食が激しく小倉工場で新製されました。パイプ煙突から化粧煙突に、デフは小工式のK−8タイプへ付け替えられました、ナンバープレートも花文字の形式添記のタイプU型を製作し交換された。58654号機は同年6月30日無事全般検査を終え小倉工場を出場しました。
延べ300人のOBの協力と約1億円をかけて復活した58654号機は構内試運転を無事終え、7月21日にはED76形電気機関車に牽かれ基地となる熊本運転所に向かいました。
「SLあそBOY」は豊肥本線の熊本駅〜宮地駅間53.4キロを往路2時間19分、復路2時間で運転し、客車は50系3両をウエスタン調に改造しました。テンダ機に必要な転車台は吉松駅にあったターンテーブルを宮地駅に移設して運転日初日にそなえました。
豊肥本線で連日の試運転を終えた58654号機は、8月22日「SLひとよし号」(熊本〜人吉〜吉松)として約束の地で13年ぶりに本運転をスタートしました。8月28日からは豊肥本線で「SLあそBOY」として復活運転が始まりました。
あれから17年間、JR九州の顔となっていた58654号機でしたが、2005年の運転では軸受けの焼き付きで何度も運転を休止する事態になりました。精密検査の結果は悲惨でした、立野の難所33‰の急勾配で酷使したつけが台枠の亀裂という最悪の状態で現れたのでした。
くしくも豊肥本線で復活運転した同じ日、2005年8月28日の運転をもって58654号機の豊肥本線の運転は終了しました。
JR九州は動態保存の可能性を模索し除籍を行わいませんでした。その後の調査により日立製作所に製造時の8620形の図面が残されていたため、主台枠を日本車輌で新製することが出来ました。ボイラはサッパボイラで修繕するなど約2億5千万円の費用をかけ、2007年2月よりJR九州小倉工場にて再復活のための修理を行い、2009年4月25日より熊本〜人吉間で「SL人吉号」として再度運転が開始されました。

●8620と半端な数字の形式になった理由
1909年制定された国鉄形式称号では1C形テンダ機には7100〜8699まで割り当てられておりました。1901年(明治32年)に九州鉄道が輸入した、米・アルコ製の8550形66両が8550〜8615号機でしたので、次の形式として空番の8620形になったのでした。この後8620形が量産されるにつれて問題が生じました1920年には8699号まで使いきってしまいます、次の番号の8700は8700形がすでにあったため8700号機には出来ず、苦慮の末に81号機は18620号機となりました。以降80進法で番号を付けられた8620形は総数672両製造されましたが、最後の672号機は88651号機になってしまいました。

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