西吉見条里2遺跡・・・1

説明文に関しては現地説明会資料を参考・引用させて頂いています。


西吉見条里遺跡は吉見町南吉見の市野川によって形成された低湿地に立地しています。圃場整備事業に伴う発掘調査が平成12年度から行われています。

発掘調査で縄文時代前期から中世までの遺物が出土していて、中でも古代の遺物、遺構が多く検出されています。最近の調査で古代官道跡と思われる幅12メートルの道路跡と橋脚の可能性がある遺構が発見されています。

平成14年2月24日に遺跡の現地説明会が行われ作者も出掛けて参りました。丁度「東山道武蔵路」のページを作成中でした。しかも埼玉県北部のルートを調べていた時で、ジャストタイミングでこのニュースが飛び込んで来たのです。

右の写真は東松山市古凍と吉見町江綱の境を流れる市野川を撮影したものです。慈雲寺橋から松山城跡方面を見たものです。


吉見町の古代官道と思われる遺跡の付近は、中世の鎌倉街道が通っていたとも想定されているところです。広い水田地帯の東寄りに南から北へ向かう道が一本あります。この道沿いには石仏などが多く見られ、上写真右のように板碑も見られます。この道は古道であったかも知れません。この道を北東に3キロほど行った付近には息障院というお寺があり、そのお寺の境内は源範頼の館跡と伝えられていて、空掘などが見られます。

反対に遺跡の南は東松山市古凍というところです。ここは古墳が多く見られるところで、古代の比企郡家があったところと想定されています。古凍には等覚院というお寺がありそのお寺には国指定重要文化財の阿弥陀如来座像があります。古凍は古代から中世にかけては歴史的に重要な拠点であったところと想像されます。

古凍の鷲神社の裏側には市野川に向かって大きく切通し状に削られた地形が見られます。上写真左がそれです。この切通し状の窪地の幅はおおよそ30メートルほどです。何故ここにこのような大きな切通し状の地形があるのでしょうか。この地形は自然の作用で出来たものなのか、または人為的に造られたものなのか、私には不思議に思えます。吉見町で発見された古代道へ繋がらないかと想像が脹らみます。

吉見町で発見された道路遺跡の特徴は、古代道が低湿地に造られていて河を渡る地点で様々な土木技術の使用が伺われ、橋が架けられていた可能性などが上げられます。高度な土木技術の遺構は国家レベルの工事を想定させると専門家は語っています。

左の写真は河道付近の遺構で、一番低く窪んだところに河が流れていたと思われます。

発見されている道路遺構は、北北東から南南西方向に約70メートル直線的に確認されています。道路の幅は道路を横断する古代の河道を境に、南側で最大約12メートルで、北側は9メートルになっているということです。

右の写真は遺構の南側から北方面を撮影したものです。写真中央の青いシートの下に杭列が検出されているということです。


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