
東山道武蔵路 その3
この東山道武蔵路の創設時期と廃絶時期は大いに関心のあることですが、考古学によって発掘された道路遺構というものは前ページでも触れましたが、なかなか年代測定が難しいもののようで、国分寺市の道路遺構からは、ハッキリした年代を考察するものが発見されていないということです。ただ第一期の側溝間の芯々距離12メートルの遺構は、武蔵国が宝亀2年(771)の東山道から東海道えの所属替えが行われる以前の前期駅路と考えられる事柄から、その時代までは使用されていたものと思われます。実際に8世紀後半の竪穴建築跡に道路遺構の側溝が切られているということです。
またこの道が造られた年代として、埼玉県所沢市の東の上遺跡から検出された側溝間の芯々距離12メートルの道路遺構が国分寺市の東山道武蔵路の北へ延長上のものと考えられていて、東の上遺跡の西側溝から出土した須恵器の杯と蓋から7世紀第3四半期の年代が考えられているようです。
その年代を考えてみるとかなり古い時代であることがわかります。時代は天智朝で古代の駅制の建設は斉明朝の末期頃から始まったと考えられていることから、この東山道武蔵路はその時代には存在していたと考えられるわけでして、大化改新から数えてもその20〜30年後たらずの時期で、素人の私の私見ですが「ちょっとはやすぎません。」といった感じです。しかし関東には白鳳時代の寺院跡も確認されていて、確かにその時代に道はあったかも知れませんが、中央の制作により整備された道がこの時代の関東の地にも存在したとは、新たな驚きです。そして最終段階の廃絶時期は多摩郡と入間郡の境に悲田処が置かれたことを考慮して11世紀中頃ということに考えられているようです。
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安島様が撮影された遺跡の写真は、平成7年12月10日の見学会のもので、遺跡の調査の途中の段階のものだそうです。
左の写真は西側の側溝を撮影したもので、二列に並んだ側溝が確認できます。左側の側溝が第一期目のもので、右側の側溝が第三期目のものと思われます。
古代の駅路は平地では側溝をともなうことが主であったようです。全国各地で古代道の遺跡が数多く発見されていますが、道路面は長い年月に削平されて、側溝のみが検出される例も多いようです。
それにしても不思議なのがこの側溝です。一体どのような意味があるのでしょうか。現在の道路の側溝はおおかたが排水などを目的としていますが、ここで検出されている側溝は一本に繋がっているわけではなく、ところどころで切れて土橋状になっています。そのことから明らかに排水目的ではないことが想像できます。いろいろな憶説があるなかで、現在では道路の境界を示す区画溝として造られたという説が有力のようです。
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東山道武蔵路の保存と整備の内容が説明板に記されていました。以下にそれを引用します。
1.保存計画 東山道武蔵路の保存範囲は幅15m、延長約400mで、車道西側の歩道及び保存空地の地下約0.8〜1mの所に埋没保存されています。
2.整備計画 地下に保存されている東山道武蔵路の持つ規模と空間的広がり、直進性、断続的につながる側溝などの特徴が理解できる歴史学習の場として、また保存空間の多様な活用を容易にするために、最古の幅12mの側溝付直線道路を代表例として、発掘された側溝の位置および形状をアスファルト上に色を変えて忠実に平面表示しています。
左の写真は保存地に建つ説明板です。
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