利根町の鎌倉街道・・・・その1
●●利根町探検・鎌倉街道パンフレットPDF - 1.28MB●●
「幻の道探検・鎌倉街道」の総合学習が本になりました。 
『総合学習は思考力を育てる』宮崎清孝 編  一莖書房 

利根町の鎌倉街道

探検あっての鎌倉街道
鎌倉街道に取り憑かれた人は不思議にその古道の魅力に、ずるずると引きずり込まれて行きます。ホームページの作者もその一人であることはいうまでもありません。考えてみれば鎌倉街道の魅力とは他の街道散策とは違った、探検というものが常に付きまとうからなのかも知れません。幻の街道などとも呼ばれ、ガイドブックや案内書等の数は少なく、そこに伝わる鎌倉街道はどっちからやって来て、どちらへ向かって繋がっていたのかと、自分の足で歩いて探すものですから、まさに探検そのものです。

二つの陸奥への道
南関東から北関東、そして東北へと向かう道は現在では、東北自動車道と常磐自動車道があります。昔の道は東北自動車道に沿ったものは奥州古道で、途中の下野国から東山道と重なる道で、この道には陸奥との境に白河関があります。一方の常磐自動車道に沿った道は陸前浜街道で、古代には東海道であり、同じく陸奥との境に勿来(なこそ)関があり、近世には佐竹街道、水戸までの道を水戸街道などと呼ばれていました。

千葉県、茨城県の鎌倉街道下道はどこを通っていたのか
中世の道としては前者の奥州古道が鎌倉街道中道で、後者の常陸国への道にあたるのが鎌倉街道下道があります。不思議なことにその後者の鎌倉街道下道は古道の専門家でさえも、紹介しているものは千葉県松戸市辺りまでで、松戸市以北の道筋を案内したものは極めて少ないので、その道の実体は謎だらけなのです。

ということで、ここでは鎌倉街道下道にあたると思われる、茨城県利根町に残り伝わる鎌倉街道を取り上げてみたいと思います。案内してくれるのは利根町立文間(もんま)小学校の平成15年度の6年生たちです。

えっ、茨城県利根町に鎌倉街道があるの?

「あづまぢの道のはてよりも、なほ奥つかたに・・・」『更級日記』の最初の書き出しには、このように書かれています。東路の道の果てよりも、更に奥にあるところとは常陸の国を指しているといわれています。常陸の国は現在の茨城県がそれにあたります。

茨城県利根町は常陸の国ではなく、昔は下総の国になっていました。ただ、その直ぐ北は常陸の国でしたから、かりに利根町を古い道が通っていたとすれば、その道は南からは常陸国へ向かう道と考えることができると思います。そして、その一部が残っていて地元では「鎌倉街道」と呼ばれています。

『鎌倉街道から、総合学習の課題を探る』

平成15年6月、ホームページの作者は5月に腰痛などで体調を崩し、おまけに職場では仕事が忙しく、ホームページ作成どころではなくなっていました。いっそ、この辺りで鎌倉街道のホームページも止めてしまおうかとさえ考えていました。
6月半ば頃、メッセージボードに沢山の書き込みがありました。「鎌倉街道を歩いています」、書き込みの主は茨城県利根町の文間小学校6年生でした。
「僕たちの地域に鎌倉街道があり、そこを探検しています。今は人も通らない、けもの道です。」そして子供たちは中学生と一緒に鎌倉街道にアジサイを植えたことをおしえてくれました。「よかったら、一緒に利根町の鎌倉街道を歩いてみませんか」とも書いてくれていました。

茨城県の利根町の鎌倉街道か・・・。関東各地の鎌倉街道を調べていたホームページの作者も、さすがに利根町というところに鎌倉街道があるなどとは、それまで全く知りませんでした。早速に地図でどの辺りだろかと探してみると、取手市の東側、利根川沿いの町であることがわかりました。地理的位置から判断して、その道はおそらく常陸国へ目指した道であったのだろうと推測しました。

頭に浮かんできたのは「鎌倉街道下道」です。所蔵資料である芳賀善次郎氏の『旧鎌倉街道・探索の旅 下道編』を見てみると説明に出ているのは千葉県松戸市までで、その先はわかりませんでした。この利根町の鎌倉街道が「下道」の本道か支道なのかということは、その時の私にとってはどうでも良い問題でした。

鎌倉街道のホームページ作りに疲れ気味の私のもとへ、小学生からきたこの便りは何よりもの励ましであったことかはいうまでもありません。その後、担任の先生からの総合学習で『幻の道探検、鎌倉街道』を学習している経緯をメールで頂き、更に数日後に、子供たち一人一人が書いた鎌倉街道の一枚新聞が宅配で送られてきました。

そのような切っ掛けで利根町の小学生との情報交換が始まり、子供たちと、その先生の熱意に導かれて、真夏の8月に利根町の鎌倉街道を見てまいりました。古道歩きが好きなホームページの作者ではありますが、真夏に古道探索というのは過去にはそう例はありませんでした。この年の夏は天候がぐずつき冷夏でしたが、鎌倉街道を歩いた日は天候も良く大変暑い日でした。

この利根町の鎌倉街道のページは、もちろん私が作成したものですが、小学生の視点から感じた鎌倉街道をも随所で書いてみたいと思います。子供たちの一枚新聞から引用した部分は赤色文字で書いています。それでは利根町の鎌倉街道をご案内していきたいと思います。

(ホームページの中で使用しているイラストは小学生たちが「一枚新聞」や「パンフレット作成原稿」に描いたものです。ごく一部ですがこのホームページに使わせていただきました。)

利根町というところは
茨城県利根町は県の南端に位置し、古くは利根川の水運の要衝の地として栄えてきました。近年は豊かな水と肥沃な新田に恵まれ、農業の町として発展してきています。現在は利根川岸の布川台と、ご紹介する鎌倉街道が残る文間台の二つの台地上では住宅団地の造成が進んでいます。

また、この町は数々の文化人たちが活躍してきています。舟運で栄えた布川河岸は歴史の文化人に愛されてきた土地です。俳人小林一茶は日記の中で、布川に滞在したときのことが多く語られています。一茶と交友のあった吉田月船、「利根川図志」を著した赤松宗旦、書家の杉野東山、画家の杉野蒿雲らが活躍しています。また、大房に住んでいたという松好庵は「常陸軍記」「掃留集」を著しています。

そして、あの日本民俗学の父と呼ばれた柳田國男は布川台の小川家でその少年時代を過ごしています。國男は小川家の土蔵の書物を乱読したといわれ、また、満徳寺の間引絵馬は國男の民俗学の原点であったともいわれているようです。その小川家の跡地に現在「柳田國男祈念公苑」があります。

利根町の鎌倉街道を西から東へ歩く

大平神社(だいへいじんじゃ)
利根町の鎌倉街道は、利根町史によると、大平-奥山-押戸と繋いでいたようです。左の写真は大平にある大平神社境内の石段前に並ぶ石塔や石仏群です。これらの石造物が元々ここにあったものなのか、その詳細はわかりませんでしたが、利根町の鎌倉街道沿いの土地も、近年には開発が進み、街道沿いにあった古い石造物が、或いはここへ集められたということが考えられそうな気がします。

大平神社は、お大平様を祀るといわれ、かってその近くに、お大平様を葬ったと伝える権現塚があったそうですが、現在は採土工事で崩されてしまったといいます。

大平神社境内には寛永4年(1627)3月、文間郷10か村の村念仏衆が造立した宝篋印塔があるようなのですが、大平神社へ訪れ写真撮影後に知った情報で、上の写真の左の大きなものがそれなのか、確認することはできませんでした。

泉光寺参道の坂を下った所にある庚申塔
大平から奥山までの鎌倉街道は残念ながら住宅地造成による土地開発で、その痕跡さえ見ることができません。大平から奥山に向かうには、現在の町の主要道である千葉竜ヶ崎線を横断して、もえぎ野台と呼ばれる開発された住宅造成団地の中を東へと進みます。右の写真は、もえぎ野台の中央部を東西に通じている道が泉光寺参道からの道と交差するところにある庚申塔です。庚申塔は参道を挟むように道の両側に二つ有ります。

左の写真は泉光寺参道から西側の開発された、もえぎ野台を撮影したものです。泉光寺付近から西側の鎌倉街道は開発ですでにその姿を見ることは出来ませんでした。・・・残念。

鎌倉街道はいつ消えた!
明治14年、北相馬郡として小さな村が点在していた。明治36年、小さな村が三つの村と一つの町にまとまった。文間村・東文間村・文村・布川町。昭和54年、利根町の羽根野・早尾は住宅地として開発されているが、大平・奥山はまだ開発されていないので鎌倉街道はまだ消えていない。

平成9年、利根町のもえぎ野台布川団地・羽根野と早尾団地になっている。この時には鎌倉街道は消えている。平成3年から、もえぎ野台団地造成着工。平成6年の地図では鎌倉街道は消えてしまっている。平成3年のもえぎ野台の開発と竜ヶ崎南高校を造る時に鎌倉街道は無くなったと思う。

右の写真は泉光寺参道からの下り坂の道です。現代的な開発された道に造り替えられています。平成9年に、もえぎ野台団地が造られてから平成15年まで約6年間、もえぎ野台は上の写真のとおり、家は疎らでしかありません。有効的な土地開発であったのかは、今だ答えることはできないもようです。

泉光寺(奥山観音)
円通山泉光寺といい真言宗のお寺です。天保年間(1830〜1843)に火災にあったために、詳しいことはわかっていないようですが、鎌倉街道沿いの寺ということから古い歴史を持っていて、鎌倉時代の創建と伝えられてきているようです。左の写真は参道から山門を撮影したものです。かってこの参道は鎌倉街道から続いていて、両側は桜並木になっていたそうです。昭和40年代までは華やかに花が咲き、露店も並び、賑やかな花見が繰り広げられていたと説明板に書かれていました。

仁王様の歴史
泉光寺の山門には仁王様がいる。その仁王様は『運慶』の作と言い伝えられていたが、昭和になって大修理をしていて、その時に仁王様の体内墨書に、正徳(1711〜1716)の頃に作られたという記録が入っていた。

泉光寺の門にわらじ発見?
仁王様の前には、わらじが沢山ぶら下がっている。それは旅人や農民が、旅の安全と足にタコや傷ができて痛くならないようにと借りたものを2倍にして返した(倍返し)ものだという。

泉光寺の山門を建てたのは?
以前、郷土資料館の宮本先生が山門に梯子をかけて、棟木のほこりを払っていたときに、棟木に書かれていた文字を発見したそうです。文化8年(1811)に建立されものであることがわかったようです。

山門を建てたのは「へた」に住んでいた腕のいい上手な大工さん。「へた」とは山の裾の事。

「へたに住んでいた上手な大工さん」ということで笑い話になったそうです。

泉光寺の木造観世音菩薩
泉光寺の本尊は鎌倉時代末期に作られたと伝わる「木造観世音菩薩立像」です。この仏像は宋様式を明瞭に示す素木づくりで、天保の火災の時には持ち運び出されて無事でした。現在では町指定の文化財になっています。右の写真はその観世音菩薩立像で、許可を頂いて掲載させてもらっています。

この観音像については一説に、奈良時代の僧『行基』が作仏したという伝承があります。行基が常陸の国に行く途中で、ここ奥山の近くを通ると、沼の中から光明を放つものがあり、近づくとそれは一個の浮木(ふぼく)であったそうです。行基はそれを拾い、観音経を唱えながら、三日三晩寝ずに仏像を彫り上げたといわれています。

山門の木造仁王像も町指定文化財です。仁王像は健康の象徴ともされているために、口の中でかんだ紙片を投げつけて自分の患部または発達を願う箇所に貼り付ければ、願いが叶うという俗信があるそうです。

山門の説明板によると、ここの仁王門は「きりすね」「わらじ」「木槌」が下げられていて、次のような民間信仰があるそうです。

「きりすね」
手などが痛んだとき、きりすね(機織りのとき最後に残った糸)をもらい、患部に巻いて結んでおくとよく治ります。
「木槌」
肩こりの時にもらい、患部をたたくと効くそうです。
「わらじ」
仁王尊は健脚の神ともされていることから、鎌倉街道沿いであったこの地でも、足が丈夫で無事に旅ができるように「わらじ」を奉納しました。
「めの字絵馬」
疲れ目の時に「め」の字を書いた絵馬を奉納し祈願しました。

「きりすね」「木槌」「わらじ」はともに倍返しといって、一つもらったら、二つ返すのが習わしです。

泉光寺の境内。お堂の裏には墓石が並ぶ。

泉光寺の境内で、お堂に向かって左手(西側)の墓地の奥に土塁状の土盛りが見られます。この土盛りは自然地形によるものか、人手によって築かれたものなのか、また、古いものなのか、新しいものなのかは分かりませんが、この泉光寺の付近は「奥山城の台」と呼ぶらしいのです。

土塁に似た土盛りがあるから城跡なのかも知れないと考えるのは素人発想ですが、『利根町史』の「鎌倉幕府と交通」のページに載っている鎌倉街道の地図には、奥山観音の北側に奥山城と書かれています。実はここ利根町に残る鎌倉街道を見てきて、街道の残る林の中には、城跡を予感させる平場などの地形が所々に見られるのでした。

奥山古墳群
『利根町史』の鎌倉街道の地図には櫛塚・かぶと塚・よろい塚などと書かれた塚が幾つか見られます。かって、鎌倉街道沿いは古墳が多く存在し、奥山古墳群と呼ばれていたようです。

土砂採取場から石棺出土
昭和48年4月3日、文間地区の奥山城の台の土砂採取場から石棺が出土した。これは古墳時代後期から晩期のものと推定されている。翌年には、玉・刀・鏃などの遺物も発見された。

もえぎ野台の開発の時に、奥山の古墳群を一部削ったそうです。その時、シャベルカーが何かに触れたような気がしたので止めて調べてみると、石のようなものにぶつかっていたということで、当時の中学校の先生や子供たちで発掘をしたところ石棺の他に、やじり・刀剣・首に飾る玉などが出てきて、今は資料館に保管してあるそうです。
この話を聞いた小学生たちは鎌倉街道は古墳の中を通っていたんだと、だんだんと興味を示してきていたもようでした。

ホームページの作者は関東各地の鎌倉街道を調べていて、中世の鎌倉街道は古代から利用されていた道を鎌倉幕府の成立で再整備したものが大いことを実感してきていました。利根町の鎌倉街道が古墳群の中を通っていることから、あるいはこの道は古代まで遡る道であったかも知れないのです。

櫛塚の伝説
もえぎ野台の北は竜ヶ崎市北方町で利根町との境に竜ヶ崎南高校があります。その高校の西側に「櫛塚」(だんご塚とも呼ぶ)と呼ばれる古墳のような大きな塚があります。日本武尊が東征のときに、走り水の海で弟橘姫を失った話は知られていますが、上総の浜で見つけた弟橘姫の櫛を形見に持ってここ利根町付近にきたとき、船の形をした島々に弟橘姫を偲んで塚を築いたと伝えられています。現在も残る櫛塚は弟橘姫の櫛を埋めたところという伝承があるようです。

埼玉県を通る鎌倉街道上道も古墳の中を通ることは度々で、時代的には古墳が造られた時代と鎌倉時代とでは500年以上も違うのですが、人間が通る「道」というものは、いつの時代でも道筋はそう変わらないものだと実感させられていました。逆の発想で、古墳の近くには鎌倉街道が通っているとも考えることができるのです。後のほうで私が調べた下総から常陸への古代道のルートなどを説明したいと思います。

右の写真では、もえぎ野台の道から東方奥に見える森が確認できますが、その森の中に、今も鎌倉街道が残っているのです。

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