小町大路

JR鎌倉駅東のロータリーに鳥居があり、そこから鶴岡八幡宮へ向かうことができる道があります。この道の両側は商店が建ち並び、人々で大変賑わう通りになっていて、この道を「小町通り」と呼んでいます。この道が小町通りと呼ばれた経緯はわかりませんが中世に遡る古道ではないようです。しかし鎌倉の町中の古道に「小町大路」という道があり、現在も使用されている道があります。鎌倉の中心軸である若宮大路の東に若宮大路と並行した通りがあり、この道が小町大路と呼ばれているのです。左の写真は小町大路に面した法戒寺で、北条執権邸跡に建てられた寺であるといいます。

小町大路は鎌倉の町中では若宮大路に次ぐ重要な道でした。若宮大路が鶴岡八幡宮への聖なる参道であったのに対して、小町大路は一般民衆も盛んに往来した実用的な道であったのです。鎌倉の港である和賀江島から荷揚げされた物資は、大町から小町大路を通り、幕府の中心施設に運ばれたのでした。若宮大路の東にある寺院のほとんどはこの小町大路に面して参道があることは、若宮大路には御所以外には門がなかったという説からもその理由が想像できます。左の写真は千葉氏館跡と伝わる妙隆寺ですが、このお寺も小町大路に面して建てられています。

建長3年(1251)十二月三日に鎌倉の各所に小町屋が指定されています。小町屋は商業などを営むことができる場所のことで、それ以外の場所では禁止されていたようです。大町・小町・米町・和賀江・亀ヶ谷辻・大倉辻・気和飛坂山上、の七カ所です。小町大路の小町という名前はおそらくこの小町屋の小町があったところの路ということではないかと思うのですが、どこからどこまでというはっきりした道の境界は説が様々あります。北は鶴岡八幡宮東の「須地賀江橋」からで、南は夷堂橋までとか、大町大路(大町四つ角)までとか、更には材木座の九品寺辺りまでともいわれているようです。

現在では小町大路というと大町大路と接するところまでとみるのが妥当のようですが、上記のように決定した見方はとくにないようです。本来の古道としての小町大路もどこまでと記した資料は見られません。

上の写真は現在の小町大路を撮影したもので幅5メートルほどの直線状の舗装路です。この道は現在では若宮大路の東側にあり、駅から離れているので比較的に人通りは空いています。しかし鎌倉時代には町中では一番に賑わいだ通りであったと思われます。右の写真は小町大路沿いの「日蓮辻説法跡」の碑があるところです。

小町大路の名が最初に見られるのは『吾妻鏡』建久2年(1191)三月四日条で、南風が烈しく、丑の刻に小町大路の辺りが失火したというものです。この火災は義時・時房らの邸以下、人屋が数十宇焼亡して、余炎は鶴岡の馬場本之塔婆に移り、大倉幕府と若宮の社殿や回廊・経所も焼けたとあります。この時の大火で、頼朝は若宮の残った礎石を拝して涙したというほどのものでした。この火災で注目したいことは、小町大路の西へは火がおよんでいないこと、また横大路よりも南側も同じで、更に馬場本之塔婆は現在の鶴岡八幡宮の西の馬場小路の辺りで、これら大きな道を越えて火災は広がっていないことです。

鎌倉時代の当時の小町大路はどのくらいの幅の道であったのでしょうか。建久2年の大火ではこの道を越えて火災は広がっていないといいます。資料を調べていくと政所跡(現在の筋賀江橋の西側付近)の発掘で旧小町大路の跡が発見されているようです。それによりますと小町大路の幅は11メートルあったようです。しかも現在の横大路とは直交していたらしいのです。ちなみに横大路の幅は発掘によると現在の倍の21メートの道であったそうです。

上の写真と右の写真は日蓮辻説法跡より南側の現在の小町大路です。

鎌倉時代の小町大路は現在の舗装路の倍近くの幅があったというのは驚きです。しかも現在よりも真っ直ぐであたらしいというのです。若宮大路が33メートルで小町大路が11メートルで、この狭い鎌倉にそんなに大きな道があったのでは武士の館や一般の人家の土地は狭く限られていたのかも知れません。

左の写真は夷堂橋前の本覚寺の山門です。本覚寺は永享8年(1436)に日出上人により天台宗から日連宗に改宗されたお寺です。山門の右側の建物は夷堂といい、佐渡配流から戻った日蓮が、しばらく滞在したところと伝えられています。

須地賀江橋から滑川の夷堂橋までが小町と呼ばれたところだといいます。この間には、先に紹介した日蓮辻説法跡などがあり、この道は人で賑わっていたのでしょう。北条泰時が執権のときに大倉幕府から宇都宮辻子幕府へと移っていますが、この幕府は東側が小町大路に面していました。その後北側の若宮大路幕府へと3度目の移転をしています。右の写真は夷堂橋から東の比企ヶ谷に入った奥にある妙本寺祖師堂です。ここは比企一族の館があったところで、祖師堂の手前南側には比企一族の墓と伝える苔むした石塔が並んでいます。

妙本寺は日蓮宗で開山は日朗上人で開基は比企能員の子の比企能本です。比企能員は2代将軍の源頼家夫人、若狭局の父です。将軍頼家と比企能員は北条時政を討つ計画を立てますが、その計画は北条氏に発覚し能員は逆に時政邸へ呼ばれそこで殺されてしまいました。そのときにここの比企館も北条勢に焼き討ちされてしまいます。現在境内には比企一族の墓のほか、左の写真の頼家の子、一幡君の袖塚や、頼家の娘で後の九条頼経夫人の竹の御所の墓があります。この谷は夏は涼しく、源頼朝は乳母である比企尼を訪ねてよくここへ訪れていたといいます。