衣張山ハイキングコース

衣張山は鎌倉の市街の東にそびえる山です。標高120メートルほどで、その山頂からの展望は素晴らしく、四季を通してハイカーが訪れているところです。近年にハイキングコースが整備されこの山に登られる人の数は増えているようです。さて、この山と鎌倉の古道とはどんな関係が見られるのでしょうか? 現在ハイキングコースとして整備されている道はおそらく古道とは関係のないものと思われます。では何故ここで取り上げることにしたのか。

左の写真は衣張山の北の犬懸ヶ谷を通るハイキングコースです。

頼朝が鎌倉に幕府を開設する以前に、鎌倉には東西方向の2本の道(古東海道・金沢道)と、その2本の東西道を南北に繋ぐ2本の道があったと考えられています。南北道のその1本は義朝の館(寿福寺境内)のあったところから現在の県道鎌倉葉山線の六地蔵までの今大路の前身の道で、もう1本の道は金沢道沿いの杉本寺前辺りから南に向かい釈迦堂切通付近をぬけ名越・小坪の古東海道へ連絡する三浦道とも呼ばれた道でした。この三浦道が最近の研究では衣張山の近くを通っていたとする説があるのです。

右の写真は北側から衣張山へ上るハイキングコースで、不思議な大岩や新しい石像などが見られます。

左の写真は衣張山山頂の東側に見られる五輪塔群です。衣張山は良質の鎌倉石が採掘できることから石切場跡が多く見られます。その石切場跡を地底城の跡であるとか、衣張山はピラミッドであり石積された人工の山であるとかの噂が流れ一時的に話題になったこともあります。しかし石切場跡はそれ以外の何者でもなく、石切の行為事態も中世から近代まで続いていたことでしょう。写真の五輪塔は付近のやぐらなどから集められてきたものかも知れません。五輪塔そのものは古いもののようですが、並び方は古くはないようです。

右の写真は衣張山の山頂から北東に伸びる尾根をしばらく下ったところにある平場と土塁状遺構です。平場は南北2段に分けられ、北側の平場は短辺8〜16メートル、長辺25メートルで平場の西と北にL字形の土塁状遺構が現在しています。南側の平場は短辺7〜12メートル、長辺26メートルを計り、南端部分は尾根を切り落とした崖になっています。近年に行われた「古都鎌倉を取り巻く山稜部の調査」でもこの平場のトレンチが実施されていて、土塁状遺構は土盛りではなく岩盤の削り残したものであることが確認されています。遺構は14世紀後半から15世紀代のものと考えられていますが遺構がどのような性格のものかはわかっていないようです。

左の写真は衣張山の山頂の大きな平場を撮影したものです。この平場は天気の良い休日にはハイカーが多く休憩されています。ここからは鎌倉の町と海が見渡せます。その展望の素晴らしさは鎌倉アルプス(天園ハイキングコース)より優れているようです。風さえなければ一日いても良いところです。

「古都鎌倉を取り巻く山稜部の調査」では、この平場も調査されていて、中世の荼毘跡などが確認されているようです。

左の写真は衣張山の山頂の桜の木の袂に立つ五輪塔と新しい石像です。この五輪塔は近くから発見されたものをここへ移してきたもののようです。

『源平盛衰記』には治承4年(1180)8月26日に金沢道沿いの和田館から「犬懸坂」を越え名越経由で小坪に出た和田小次郎義茂が畠山重忠と戦った記述があります。ここでいう犬懸坂とはどこにあったのか。衣張山の北側の大きな谷は犬懸ヶ谷と呼ばれています。「古都鎌倉を取り巻く山稜部の調査」では釈迦堂切通の上部の調査が行われていて、釈迦堂ヶ谷と犬懸ヶ谷の間だの尾根の堀切と思われる部分の発掘が行われました。

発掘された堀切は開口部の幅が3メートル、基底部の幅は1.8メートル、開口部から基底部の高さは3メートルであったとあります。堀切底面から両側面には柱を据え付けたような方形基調の堀り込みがあり、その横に、直径30センチ、奥行き19センチのピットが穿たれ、閂を持つ木戸があったと推定されています。これは谷から谷への通行を遮断する施設と考えられ貴重な発見となっています。また金沢道沿いの杉本寺の南側で掘立柱建物群、堀跡、及び道路遺構が近年発掘されていて、鎌倉時代前期の大規模武家屋敷と推定され、この遺跡は和田氏関連の館跡である可能性があり、道路遺構は真っ直ぐ南へ向かっていて、その行き先は犬懸坂であるといいます。

『新編鎌倉志』犬懸谷項
犬懸谷は、釈迦堂谷の東隣なり、土俗、衣掛谷とも云。此所と、釈迦堂谷との間に、切抜の道あり。名越へ出るなり。昔の本道とみへたり。・・・此上の山を衣張山と云ふ。相傅ふ頼朝卿、大蔵谷に御座の時、夏日此山にきぬをはり、雪の降掛が如にして見給ふ故に名くと也。或云、昔此地に比丘尼寺ありしに、彼比丘尼、松の枝に衣を掛晒せしが、其木後に枝葉栄へて、今山の上にある二本の松の大木なりと云ふ。

ここでいう犬懸谷から名越へ抜けていたという道こそは鎌倉幕府開設以前に三浦道と呼ばれた古い道であったと思われるのです。

以上の事柄から釈迦堂切通の隧道道は、後の時代に開かれた道と考えることもできるのです。実際にそう考える研究者も多いようです。私が不思議に思うのは『新編鎌倉志』などの江戸時代の地誌に釈迦堂切通の隧道が見られないことです。あれだけ迫力あるものを江戸時代の人は見ていなかったのか?

上の写真は衣張山の南側のピークにある五輪塔と地蔵像です。平成16年にここを訪れると写真左端の地蔵像が無くなっていました。そしてそこには「しあわせ地蔵さま はやく帰ってください 行方不解」と書かれた柱がたっていました。

右の写真は石切場跡です。