今大路(武蔵大路)

JR鎌倉駅の西側には若宮大路と並行するように南北方向への道があります。扇ガ谷の寿福寺前から南進し、市役所前の信号からもそのまま海岸方面へと向かい、由比ヶ浜大通(県道鎌倉・葉山線)で六地蔵の前に出ている道です。この道は今小路と呼ばれていて古い道であると伝えています。今小路という名前の道が文献資料に登場するのは、『快元僧都記』の天文8年(1539)十月条に、去月二十八日に扇ガ谷の今小路の番匠主計助が荒神の宮を修復したという記事であるようです。鎌倉時代まで遡る資料には現在までではこの道の名前は見つかっていないようです。

左の写真は今小路沿いに建つ問注所跡の石碑です。上の写真は左の写真の付近から南方面の今小路を撮影したものです。この道は鎌倉幕府開設以前から存在した古い道であるとも考えられています。源頼朝が鎌倉に入る以前の鎌倉には東西方向の2本の道が存在していたと言われています。その一つは海岸付近を通る古東海道で、もう一つが現在の寿福寺前から東に向かう道で六浦まで続いていた金沢道(六浦道)です。この2本の道を南北に繋いでいたのが今小路の前身の道であったというものです。左の写真の問注所跡の西側には御成小学校があり、この学校の敷地は「今小路西遺跡」といいます。

『吾妻鏡』には源頼朝の幕府開設以前の鎌倉は片田舎の漁村であったとあることから以前はそのとおりに解釈されていたようです。ところが最近の鎌倉の研究では古代の鎌倉は郡の中心であったとする説が有力となっています。昭和60年に御成小学校の校庭から木簡が発見され、「糒五斗天平五年七月十四」「郷長丸子□□」と文字が書かれていました。郷長の丸子何々が糒(ほしいい)五斗を上納した時の付札であるというものです。更にこの場所から東向きの大型の建物跡が発掘され、御成小学校があったところは、奈良時代の郡衙(役所の中心)があったところと推定されるに至りました。

郡衙が発見されたところは鎌倉郡鎌倉郷鎌倉里であったことが綾瀬市から発見された木簡から確認されていて、まさにここは郡の中心であったことが裏付けられたのです。これらの発見から鎌倉の地は古代からこの地方の中心的な施設が存在した場所であったというのが定説になってきています。そしてその郡衙に面していた道がこの今小路ではなかったかということなのです。

上の写真と左の写真は市役所前信号より北側の今小路を撮影したものです。一方通行の道ではありませんが、普通車がすれ違うには注意が必要なくらい狭い道です。

右の写真は今小路に面して建つ巽荒(たつみこう)神社です。どこの街にもあるような小さな神社ですが、実はこの神社は将軍坂上田村麻呂が東夷のときに葛原岡に勧請されたものを源頼義が後に改築しこの地へ遷座したものと伝える大変古い神社なのです。もとは寿福寺の鎮守神と崇敬されていて、寿福寺の巽の方角にあることから巽荒神と称せられたそうです。社殿の前の左右には古そうな石灯籠が立っています。この神社の存在からも今小路が頼朝が入る以前の古い道であることをうかがわせるのです。

さて、今小路なのですが、文献資料に出てくることも少ないことから実際にどこからどこまでが今小路であったのかがどうもはっきりしないのです。若宮大路の東側に小町大路と呼ばれる道がありますが、若宮大路を挟んで東と西に対等の道があったと考えると、東側が小町大路で西側が今小路ということになりそうです。明治15年の測量図には若宮大路の西側には一本の南北道がみられ、おそらくこの道が現在の今小路と同一の道と思われます。『新編鎌倉志』には「今小路附勝橋 今小路は、寿福寺の前に石橋あり。勝橋と云。鎌倉十橋の一なり。此より南を今小路と云。巽荒神の辺より南、長谷までの間は、長谷小路と云なり。」

『新編鎌倉志』では寿福寺前の勝橋から巽荒神までが今小路だといっていますが、この間、おおよそで200メール位しかありません。名を持った道としてはあまりにもみじか過ぎます。阿部正道氏の『鎌倉の古道』では、今小路は武蔵大路の一部として説明されています。武蔵大路は『吾妻鏡』などにも登場していて、化粧坂からの道がそのまま寿福寺前を通り由比ヶ浜大通の六地蔵までをいうとする説もあります。しかし武蔵大路は化粧坂の外側もそう呼ばれ、また寿福寺前から東に折れて鶴岡八幡宮の赤橋までが武蔵大路とする説等があり、武蔵大路自体もはっきりしないのが実状なのです。

右の写真は寿福寺の外門です。

寿福寺は鎌倉五山の一つで臨済宗建長寺派の禅寺です。正治2年(1200)に北条政子が栄西を開山として建立したお寺です。源頼朝が鎌倉入りしたときに、父義朝の館があった地に新たに館を建てようとしていましたが、岡崎義実が義朝の菩提を弔うお堂を建てていたのでとりやめたといいます。そのお堂のあったところがここ寿福寺であったと伝えます。左の写真は寿福寺の外門から山門へ続く参道で、ここは早朝など人の少ないときにくると静寂がだだよい心が洗われる気分になるところです。

右の写真は英勝寺前のJR横須賀線の踏切で、今小路からの古道は踏切を渡っていったん線路の東側を通ります。その先は亀ヶ谷辻(岩船地蔵堂前)で亀ヶ谷坂と化粧坂の道に分かれています。今小路沿いには、先に説明した御成小学校内の今小路西遺跡や千葉地遺跡、千葉地東遺跡、諏訪東遺跡など発掘が多く行われているところで、幅5メートル前後の側溝をともなう道跡なども発見されていますが、今小路そのものの遺構は現在のところは見つかっていないようです。鎌倉の古道は『吾妻鏡』以外では小路と呼んでいて、この今小路は小町大路と対等の規模の道と考えられ、今大路とも呼ばれています。ホームページの作者は今大路と呼びたいと思っています。