鎌倉七口-朝比奈切通・・・・その2

朝比奈切通の三郎の滝と茶屋跡の中間付近

朝比奈切通は昭和31年の県道開通まで実際に使用されていた道です。そのために他の七切通よりも幅が広いのは当然のことかも知れません。荷車を通すからにはこれくらいの道幅は必要です。そうすると現在残る朝比奈切通のこの姿は中世のものとは全く違うものなのでしょうか。切通し道の途中には江戸期の道路供養塔が見られ、中世以後の近世にも道路の改修工事は行われていたのです。何だ鎌倉時代の道じゃないのか?

切通しの崖壁の上には平場が存在する
三郎の滝から茶屋跡までの切通しの北側崖上には3段の平場があるそうです。3段目が道と同じ高さになっていて茶屋跡はその平場にあるものです。これら平場の北崖面にはやぐらも存在するようですが、私はそこまでは入っていません。一般の人は危険なので平場までは入らないほうがよいでしょう。鎌倉市教育委員会の『切通周辺詳細分府調査報告書』にある朝比奈切通の詳しい地図にはこれらの平場が切通し道と並行する道のように描かれています。

茶屋跡といわれる付近は確かに最近まで建物が建っていたような跡が見られますが説明板などはあれません。平らに整地された空間と石垣なども見られます。ここにどんな茶屋が建っていたのかとあれこれ想像するのも楽しいものです。

谷底を通る道
朝比奈切通は鎌倉街道のように丘陵の尾根上を通る道とは違うようです。谷底を上流に向かって上って行く道です。三郎の滝から茶屋跡までは道の北側に清水が流れています。水のせせらぎと切通しの岩壁が幽玄の世界を造りだしている道なのです。ただ谷底ゆえに絶えず路面は湿ったところを通過します。そしてこのようなタイプの道は自然災害の影響を受けやすいので、道の修理は度々行われたことでしょう。

道の両側に残る切通しの壁面は人工的に削られたものも多いと思われますが、それらが鎌倉時代まで遡るものなのかは簡単にわかるものではありません。鎌倉街道を見てきたホームページの作者が切通しから感じるのは「道」そのものです。中世から現在までの長い時間の中に人々が往来していたその確かな跡であり温もりなのです。以前私は古都鎌倉の魅力は古寺にあると思っていましたが、今では「道」もなかなかの魅力あるもと思っています。

上の写真と右の写真は茶屋跡付近のものです。この辺りでは尾根のうえに県道の車道があると思われ車が通る音が聞こえます。

鎌倉切通は道なのか城郭なのか?
一般に鎌倉七切通は鎌倉城の外郭部の遺構と考えられています。ホームページの作者は「鎌倉の古道物語」を作成するにあたり、これら鎌倉七切通が鎌倉時代まで遡る遺構なのかが知りたく思っていました。鎌倉街道を数年間見続けてきた視点からして七切通の多くは往還路というものとは違う印象を受けるのです。七切通の多くは城郭遺構そのものと見た方が良さそうに思われるのです。またこれらが中世後期の造りで鎌倉幕府滅亡後に防御が重視されてからのものではないかと想像されます。

勿論その考えは素人歴史愛好家の空想でしかありません。七切通の幾つかは鎌倉時代の文献にも登場しています。

七切通で最も道に相応しいのは
ただ現在残る切通しの景観は私には鎌倉時代の道とどうも結び付かないものがあるのです。鎌倉時代の道は真っ直ぐな道というのが私の頭の中にあり、七切通中でそれに最も相応しいのがここ朝比奈切通でした。右の写真はその真っ直ぐな道の様相を示している峠西部の切通しの坂道です。これこそが車社会以前の道の姿なのです。

真っ直ぐに上る切通しの坂

真っ直ぐに上る切通しの坂
上の写真と左の写真は真っ直ぐに坂を上って行く切通しが見事なところです。この辺りの道の造りは、かなり人為的な手が加えられているのが感じられます。路面は平に削られていて、道幅もほぼ一定に近い状態に造られているようです。路面の両側には排水の為のものと思われる側溝もあります。これは峠への道というよりは寺院などの参道のような雰囲気が感じられます。あまりにの整備されようから、この道の姿が鎌倉時代のものと考えて良いものかと逆に疑てみたくなるほどです。

ただ、この切通しのところは近くに湧き水が多いと思われ、路面はいつも湿っていて、雨上がりなどは路面上に水の流れができたりします。この坂を上り下りするときは滑らないよう足下に十分気を付けてください。

ところで鎌倉には石切場が多く残されていて鎌倉石は鎌倉の大きな産物でありました。明治時代には盛んに切り出しが行われていたようですが、関東大震災で石穴がつぶされ、以後需要の衰退と切り出し職人の不足や宅地化などで現在は切り出しは行われていないそうです。朝比奈切通の峠付近にも石切場跡が見られます。

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