上総国分寺跡と国分尼寺跡
上総の古代について(国分寺・国分尼寺跡)2
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寺の土地を総称して寺地といいます。その中で七堂伽藍(金堂・講堂・塔・鐘楼・経蔵・僧坊・食堂)の建つ一郭を伽藍地といい、まわりの付属施設を含めた土地を寺院地とよんでいて、それぞれの施設に溝や塀をめぐらし、四方に門が開かれていました。これまでは、国分寺の範囲は漠然と寺域と称されてきて、僧寺が2町四方(約200メートル弱)で尼寺が1.5町四方(約150メートル弱)といわれていました。上総国分尼寺は南北約372メートル(3.5町)、東西中央部で350メートルもの広さがありました。
復元再現された上総国分尼寺の回廊

国分寺の寺域東側で発見された古代道

ところで上総国分寺の周辺には国府や郡家などがあったと推定されている所でもあり、多くの遺跡が存在し発掘調査が続けられています。市原台地の西方の低地には条里遺構が存在していて、阿須波神社から西方の元八幡に連なる一町区画の地割りがみられます。この条里遺構内の五所四反田遺跡と市原条里制遺跡では8〜9世紀代の道路遺構が検出されています。両側に側溝を持ち幅6メートル前後の道です。この道の遺構は低地のため、道路面が盛り土されていて道路肩には補強の木杭が打ちこまれていたそうです。

更に阿須波神社のすぐ西の国道297号線に沿うように古代の道が数カ所で発掘されています。ここの阿須波神社は万葉集の防人の歌の中に読まれています。

庭中の 阿須波の神に 小柴さし
我は斎はむ 帰り来までに      (4350)

この歌の「阿須波の神」が阿須波神社と考えられているのです。読み人は「帳丁 若麻続部諸人」とあります。帳丁は主帳であり国府あるいは郡家との関連があるものと見られているようです。

稲荷台1号墳の北へ続く地割
「王賜」銘鉄剣が出土した稲荷台1号墳

国道297号線沿いの稲荷台遺跡は「王賜」銘鉄剣が出土した稲荷台1号墳などがあり、古い時代からの遺跡が集中するところです。稲荷台遺跡G地点では片側側溝と幅約5メートルの道路遺構が発見されています。更に南に進むと山田橋亥の海道遺跡があり遺跡の北側と南側でそれぞれ両側溝を持つ幅2.5〜6メートルの道路遺構が発掘されています。そこから隣接する付近の遺跡で、東千草山遺跡・山田橋表通遺跡・山田橋大塚台遺跡などからも道路遺構が発見されています。

これら国道297号線沿いの一連の道路遺構は古代の奈良・平安時代のものと考えられ、阿須波神社のある付近の市原辻から山田橋にかけての台地上を南北に通っているものです。市原辻からは北西に折れ先の条里制遺構で発見された道路遺構に接続していたと思われています。

ところでこの付近一帯で発掘されている古代道が、どのような性格の道なのかということが私には一番興味があることです。古代の駅路については東山道武蔵道のページで説明させて頂いていますのでそちらを参考にしてください。

古代駅路は両側溝間が12メートル前後の、しかも直線的な計画道路であったことが近年の各地で発掘された道路遺構からわかってきています。そのような駅路の遺構から比較してみると、ここ市原市の国分寺跡付近の古代道はどうも性格が異なる道のように思えます。

現在のところではこの古代道は海岸沿いを通っていたと想定される古東海道駅路から分岐して、上総国府や市原郡家へ向かう官道の支道と見られているようです。そしてこの道を南へ延長すると上総の鎌倉街道(立野・下新田ルート)と接続する可能性が考えられ、興味をそそがれるのです。

再び国分尼寺に戻ります。左の写真は復元された国分尼寺の金堂跡で、石が点々と並んでいるところが復元礎石でこの石の上に金堂の柱が建っていたわけです。写真右の一段高くなったところはおそらく金堂内陣の基壇と思われます。この内陣基壇上に本尊仏が安置されていたのでしょう。本尊仏は釈迦如来か他の如来仏だったかはわかりませんが、何れにしても金堂の大きさから想像するとその荘厳さがしのばれます。金堂は間口7間・奥行4間の現存する唐招提寺金堂のような建物であったようです。
復元された上総国分尼寺の金堂基壇

上総国分尼寺はA期とB期の二時期の伽藍が確認されているそうです。A期は瓦葺きの本格的な伽藍ができるまでの仮設的な性格の時期です。B期は本格的寺院として整備された時期で、またこの時期は数回建て替えが確認されていて、B2期が寺院として最も整っていた時期であるようです。

上総の国分僧・尼寺の建物のほとんどが瓦積み基壇であったと伝えています。右の写真の回廊基壇を見て頂けると瓦が積み重ねられているのがおわかり頂けるのではないでしょうか。

復元された上総国分尼寺の回廊内側

上総の国分僧・尼寺は規模が大きく、また遺跡の保存状態も良く、これまでに数々の発見が報告されています。寺域の広さは僧寺が12町歩(約12万平方メートル)で尼寺が11町歩で(約11万平方メートル)です。僧寺は武蔵国分寺に次ぐ広さで、尼寺は全国一の広さです。

僧寺の南には創建期の瓦を焼いた神門瓦窯跡と修理用瓦を焼いた平安期の南田瓦窯跡なども発見されています。また、尼寺の北東には修理院(寺院成立後の修理施設)や金銅仏鋳造関係の遺構なども確認されています。

僧寺の東方には荒久遺跡があり奈良・平安時代の竪穴住居跡が約400軒確認されていて、寺院との関連機構の文字が書かれた墨書土器が検出されています。この遺跡は寺院の造営や運営に拘わる集落跡で賤院(寺奴婢の住居)のような機構と考えられているようです。

律令時代の象徴として華やいだ姿を映しだしていた上総国分寺も律令制の崩壊と運命を共にしたと考えられています。市原市の歴史資料中には『後拾遺往生伝』に、国分寺の講師平明に関する記述が見られ、その没年が大治4年(1129)であることから、平安時代末期までは確実に存在していたとありますが、その後に上総国分寺がどのようなことから廃寺となったか具体的なことはわかっていません。

左の写真は上総国分尼寺跡北西の展示館内の展示物を撮影したものです。展示館内は広くはありませんが瓦や土器などの出土遺物が整理され陳列されています。また映像や復元模型などで奈良時代の国分寺を体感することができます。

史跡上総国分尼寺跡展示館
市原市国分寺台中央3丁目5番地2
入館料-無料 休日-月曜日・祝日
開館時間-午前9時〜午後5時(入場は4時30分)
台数は少ないが駐車場有り

上総国分尼寺展示館の展示物

郡本八幡宮境内
郡本八幡宮鳥居脇の礎石

まだ確認されていない上総国府所在地

最後に上総国府について少しだけ触れておきたいと思います。国府は古代律令時代の行政単位で国の中心であり地方唯一の計画的都市景観が造られていました。国司が政務や儀式を行う政丁と各種の行政事務を行う事務所や官舎などが建ち並んでいました。国府の所在を突きとめることはその国の古代史を解明するには欠かせないことは勿論ですが、古道との関係からも無視することが出来ないように思われるのです。

上総国においては現在も国府の正確な位置は解明されていないのです。『倭名類聚抄』に「上総國 國府在市原郡」とあり、国府が市原郡内にあったことはわかっているのですが、その所在地がどこなのかは今だに突きとめられていないのです。諸国の国分寺の多くが国府から2キロ以内に建てられていたことから、上総の国府も国分寺から半径2キロ以内の地にあった可能性が高いと考えられています。

上総国府の所在地の候補として惣社・村上地区、郡本・市原地区、能満地区の3っが上げられているようです。

惣社・村上地区
国府を想定する総社の地名が存在し国府と総社の関係を重視していて、更に国分寺との位置関係でも有力とされています。また交通面からみても『延喜式』嶋穴駅に最も近く、養老川の水運などの利用が可能な位置にあります。ただ低地にあるために敬遠されることがあるようです。村上地区では館山自動車道建設に伴う遺跡の調査がおこなわれ、養老川旧河道(古養老川は大きく蛇行し嶋穴神社の南を流れていた)に接する奈良・平安時代の建物跡が検出されているようです。
郡本・市原地区
郡本は郡家を想定する地名であり郡本八幡宮は市原郡家跡に推定されています。阿須波神社は先に説明したように『万葉集』に収録されています。総社を兼ねたとされる飯香岡八幡宮と阿須波神社を結ぶ柳楯神事は国府に関係したものとする説があるようです。また藤井に古甲(フルコウ)の地名があり古国府から転化した名ではないかとする説があるようです。古甲遺跡では土師器・須恵器片・布目瓦片などが出土していて官衙的施設の存在がうかがわれています。更に付近には「在庁面」という地名があり在庁官人に関連した在庁免から転化したもとも考えられているようです。
能満地区
能満は府中と呼ばれ、府中は国府の所在地とされてきていました。この地区には府中日吉神社というのがあります。郡本八幡宮旧蔵の懸仏に応永9年(1402)銘がありこの懸仏から室町時代中世の国府が能満にあったことを裏付けるものだそうです。近年府中は中世の国府との見方がされていて、律令時代の国府とは同位するものではないと言う考えがあるようです。

万葉歌碑と阿須波神社
府中日吉神社の格式高い社殿

上記の国府想定地を調べていると、どれも想定地として興味の湧く説が揃っていて無視できないように思えます。ただ能満地区は中世の国府があったと推定されていることから、上総国府は時代とともに変遷していたこたが研究者の間でも問われているようです。道というものは重要な土地、中心的な所へと向かうものです。海上交通から上陸して国の中心的機構へと道は続いていたのでしょう。国府の使命が終えていた戦国時代には古い道は新たな道へと付け替えが行われたことでしょう。
展示館内に再現された国分尼寺の復元模型

上総国府寺跡と国分尼寺跡・・・・・ 1. 2.

木更津の道標  下新田-立野  立野-姉ヶ崎  上総国分寺
西上総表紙