梅若伝説/木母寺/梅若塚 |
東白鬚公園側の入口。門の向こうに梅若山王大権現の建物をスッポリ収容するガラス張りの建物が見える。 (東側からの写真) |
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入口に、石碑が立てられている。 「隅田川旧跡 梅若塚」とある。 |
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伝説というのは、そのまま全てが事実ではないにしても、当時の何らかの事実が含まれてひとつのストーリーとして創作も織り込まれてきた のでしょう。 梅若伝説では、当時の上位層の権力闘争、都とその周辺の社会構造や治安状況を踏まえた上での、母子や一族の愛、また都から遠く離れた東 国の人々の心 の優しさといったものを描き、亡くなった者を供養しつつ、その時代時代の教えとされてきたのでしょう。
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南側が正面。近寄ると美しく高貴な像が三体いらっしゃる。 |
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梅若山王大権現の建屋の全体。左側に塚が存する。 |
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[梅若山王大権現] | |
塚を正面から見せていただいた。 左側に植えられているのは柳であろうか。 |
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ネットを検索しますと、隅田川の西岸が本来の場所だろうとの情報が有りますが、伝説の本質を考えますと、東岸、西岸のどちらでもOKと
し、隅田川の
「ほとり」とすればよいのでしょう。 梅若伝説ゆかりの地域・スポットを訪れて、供養の気持ちをあらたにするのもよいと思います。 |
[梅若塚] | |
梅若塚の沿革 「たずね来て問はばこたえよ都鳥 すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で 名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」 の文学的旧跡、また江戸時代には 梅若山王権現の霊地として尊信されました。 明治の世となり木母寺が廃寺の後は 梅若神社と称されましたが同寺再興の 翌年(同二十二年)仏式に復帰しました。 現在地に遷座したのは昭和五十一年で 旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面 梅若公園内に存置、石標が立っています。 |
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[梅若塚の沿革] | (注;一部旧漢字は新漢字としています。) |