第四章 宗教


 フェニキア人の宗教は明らかにセム人の宗教を受け継いで形成されており、カルタゴ人の宗教はフェニキア人の宗教的要素をたぶんに含んでいるため、それらを完全に同一のものとして論じるまでは許されないが、ある程度、時代的に連続した宗教と捉えることが可能であると思う。確かにセム時代からカルタゴ時代に至るまでの時間というのは、キリストの時代から我々の時間よりも長いわけであるから、一つの論文、いわんや一つの章で論じるのはかなりの無理があろう。しかしながら、フェニキアの宗教を浮き彫りにすべく、背景としてセム人の宗教の影響を追い、具体例の乏しさを補う比較的我々に近い時代の宗教としてカルタゴ人の宗教を取り上げることは、有効な方法だと思われる。そういう意味でこの章では、フェニキア時代のそれを中心にその前後の要素を補完的に扱っていく。

 フェニキア人は非常に敬虔な民族として知られている。「敬虔な」という言葉は、一般に「特定の宗教の信仰体系、神に従順かつ忠実で迷いがない」というような意味である。我々の時代の宗教(あくまでも教団や神といった具体的な宗教的要素を含んでいる宗教、一般的な意味の宗教を指す)は、それを信じないからと言って社会的に別に困るような状況は生まれない。宗教は我々の生活から明らかに乖離しており、信じるか信じないかは一個人の裁量に任されているし、また法律でも何を信じても構わないということになっている。であるから、それに対して「敬虔な」態度を以て挑むというのは、多かれ少なかれその個人の意図が必要である。ある宗教を信じるという態度を取るのは、いかに新興宗教がマインドコントロール的な手法を利用し途中からは容易には抜け出せないようになっていようとも、初めの一歩はその個人が踏み出すことは疑いを入れない。従って、その延長上にある「敬虔な」態度というのも、選択の結果である。
 しかしながら、古代の人々に対して「敬虔な」という用語を使用する場合には、かなり意味が違っている。古代オリエント社会においては、全く以てそれ無しには自らの存在すら意味のないものになってしまうような力を持っていた。別に強大な権力を持つ教祖が君臨していて、敬虔な態度を事実上強いていたわけではない。そうではなく、全体として宗教は社会に密接に結合していて、そのために、宗教的要素を排し、これを無視した個人は、あり得なかったのである。生まれ落ちると、個人は例外なく宗教的な要素に取り囲まれていたのであって、そこに意図の介在は許されない。だから「敬虔な」と言っても彼ら自身がそれを意識することは無かったであろう。それは我々が、例えば、法というものに従うということに対して疑問を持たないのと全く同じである。そうであるならば、古代人であるフェニキア人に「敬虔な」と語を適用すること自体が不適切のように思われるが、それはあくまでも同時代人との比較における相対的な、あるいは我々の眼から見た表現として、という留保を付ければ使っても構わないだろう。現に、彼らを敬虔であると評したのは、同時代のギリシャ人達である。同時代人にとってフェニキア人は敬虔に見えたのである。それは何故であろうか。


1.セムの宗教

 セムの宗教の大きな特色は、現にセムのそれがベースとなった世界的宗教、ユダヤの宗教、キリスト教、イスラム教がいみじくも示しているように、一神教の形態を取ることである。一神教を打ち立てたという事実は、我々の社会への彼らの最も大きな寄与と言って過言ではないだろう。しかしながら、彼らの宗教形態上の大きな特徴を、彼らの生活条件や生活様式から引き出すのは非常に困難である。彼らがまだ砂漠の遊牧民であった頃の資料は全くない。あるいは、セム的な要素を多分に受け継いだと考えられるセム系諸民族の宗教において共通した要素を抽出するのは可能であるけれども、それが確実にセム古来のものであると判断するのもまた困難が伴うのである。
 砂漠で部族社会を構成していた頃のセム人の典型的な側面は、部族神に対する信仰である。どの部族も自らの神を持ち、その神が全てを支配し、保護して、彼らと共に移動する。ハンニバルがマケドニア王と同盟を結んだ時も、「遠征に役割をとる神々」について触れた箇所があり、このことは戦争に神々を文字通り連れていったことを示している。神々専用の天幕があったのである。こうした部族神はかなり強力で、単一の形態を取っていた。また、砂漠における血族で構成されていた古代セム族の共同社会は、絶え間ない争いによって分裂しており、各部族の神と部族は一致団結して、敵と戦ったのである。ある部族の敵はその部族の神の敵になった。そうした点を背景として、時代が下ってから、部族間の融合が見られるようになった場合、部族同士も本来敵である一方で神同士も敵であったから、自然、神も一つに融合する必要性が生まれたと考えられる。それぞれの神が、あまりに個性的で融合に適さない場合には、神同士で同盟が結ばれていった。そうした過程がセム族のパンテオン(*1)を形成することになったのであろう。こうした点から、「砂漠は、一神教系の偉大な信仰が湧き出るのに特に適した環境だといわれる。」(*2)という結論を引き出すことが出来るかも知れない。


2.フェニキアの神々

 フェニキアの神々の中でひときわ目に付くのはエル(El)とバ−ル(Baal)である。両者ともに元来は普通名詞で、それぞれ、「神」、「主(人)」を意味していた。バ−ルの方がより目立つ存在で、例えば、フェニキア系の人物に多く見られる名前、ハンニバル、ハスドルバル、ハミルカルは、それぞれ「バールの恵み」、「バールは我が助け」、「メルカルトのしもべ」という意味であって、彼らの信仰心の篤さを象徴していると言われている。
 ビブロスにあっては、主要な神はエル(El)、バーラット(Baalat)、そしてアドニス(Adonis)であった。バーラットはバ−ルの女性形である。エルは記録によるとギリシャ神話のクロノスに同一視され主神として描かれているが、記録としては、バーラットの方がより多く登場している。先にビブロス王、Yehimilkの碑文を紹介したが、これは他の諸王のそれと同様にバーラットに捧げられたものであり、バーラットがかなり特殊な力を持っていたことを想像させる。バーラットは豊饒をシンボル化した大地の母に基本的に対応しているが、バビロニアとアッシリアのイシュタール、エジプトのイシスなどにあたり、オリエント一般によく見られることである。エル、バーラットに続く、ビブロス第三の神はアドニス(adonis)である。セム語で「adon」は「支配者」という意味で、代名詞語尾「i」がついて「私の支配者」という意味であろう。ギリシャの情報源は、死んで蘇った若い神の姿を今に伝えている。彼は毎年地上に植物として再生するため、信仰や神話の中では母なる女神の姿と結びついている。そのギリシャ版の中では神話は以下のようになっている。アドニスは若い狩人であった。女神アフロディーテーは彼を愛し、それで何とかして彼が危ないスポーツを止めるようにするのである。しかし、アドニスはある時失敗しイノシシに殺されてしまう。彼は黄泉の国に落ちてしまうが、女神ペルセポネーは彼がアフロディーテーの下に戻ることを拒否する。ペルセポネーとアフロディーテーの二人の女神の間で競争が行われて、アドニスは地上に舞い戻ることが出来た。このギリシャ神話は、明らかに古代オリエントの神話(*3)の二番煎じである。アフロディーテーはオリエントの母なる女神に置き換えることができる。
 シドンにおいては主神はバールであり、バーラットに対応するのはアシュタルテである。アシュタルテはシドンの神殿にあって明らかに支配的であって、そのことは彼女に敬意を表して碑文や神殿が繰り返し奉納されたということ、また王家が自分たちのことを彼女に仕える僧であると自称していたという事実によって証明される。ヘブライの預言者たちはこうした擬人化された神を嫌い、聖書の中に出てくるアシュタルテは「不名誉」を意味する語と組み合わされて登場し、非難を浴びている。
 テュロスで最も高い地位にある神は、メルカルト(Melqart)である。この語は「街の神」を意味するもので、ビブロスのエル、シドンのバールに対応する神である。正確には、メルカルトは一種の称号で、テュロスの「バール」に捧げられた称号だと捉えるのが正しいと考えられる。メルカルトの重要性は、テュロスにある彼の神殿にアレクサンドロス大王も犠牲を捧げようとしたこと(アレクサンドロス大王はこれを断られてテュロスに攻め入ったとされる)、また、テュロスによって建設された植民都市(ことにカルタゴ)においても数多くの奉献を受けた、ということによって証明される。さらに、ギリシャでは彼はヘラクレスと同一視されその信仰は広がりを見せたし、後にキリスト教時代においては、ヘラクレス−メルカルトは、他の多くのオリエントの神々と同様に、太陽の特性をますます帯びるようになっていったのである。
 フェニキア人の宗教は、基本的にはセム人の宗教と連続している。しかし他の分派したセム人のそれと比較して、シリアパレスチナ地域の政治的あるいは文化的な情勢を反映して、独自のかたちを形成していることは確かである。当地における不安定な政治情勢が、言い換えれば、大国に挟まれた地域にあって強大な一つの権力が確立されず小国乱立の状況、そして帝国によって容易に支配されてしまうという状況が、宗教的な側面にも影響を及ぼしているのである。その結果の一例として、神々の性格が移ろいやすく決定的でない、ということが指摘されている。
 また一方で、セムの文化や宗教に対抗しうる高度な文明が確認されないという事実は、フェニキアの宗教がセム古来の性格をより多く保持している可能性を予期させる。メソポタミアに進出したセム人、アッシリア人、バビロニア人などは、古来よりその地に存在した高度な文明、シュメールの文明による強い影響を受け(*4)、セム本来の性格をかなり変容させているのが見て取れることと比較すると興味深い。このように、フェニキアに残る宗教はセム的要素を色濃く残しながらも、政治的文化的融合の地にあったために、複雑な形態を持つに至ったと考えることが出来よう。


3.カルタゴの宗教

 カルタゴにおいても宗教的要素はかなり重要視されていたことは間違いがない。テュロス本国がまだ健在であった頃、カルタゴはテュロスで毎年行われるメルカルトの祭儀に、献納を欠かさなかったことは既に述べた。近年カルタゴの港の近くで発見された供犠所、「トフェット」は彼らがかなり多くの犠牲を捧げていたことを物語っている。供犠所は、バールに捧げた犠牲を埋葬する場所である。
 カルタゴで最も信頼されていた神は「バール・ハンモン」という神であった。女神としては「タニト」がいた。ポエニ期に出土する約4000の碑文のうち、ほとんどが今あげた神々に捧げられたものであることを見れば、いかにこの二神が信仰されていたかが分かる。しかし、既にカルタゴの時代ともなると、フェニキア起源の神々やアフリカ起源の神々がパンテオンを構成するようになり、登場する神の名前はかなり多くなる。アシュタルテ、メルカルト、エシュムーンといった神々の名前を至る所で見ることが出来る。神々を祀る神殿も多く作られたようで、例えば、第三次ポエニ戦争でカルタゴ軍が最後まで抵抗を続けたのは高台にあるエシュムーンの神殿であった。最後の砦をスキピオに攻められ、夫が降伏する中で、ハスドルバルの妻が子供を連れて夫を罵りながら自殺を遂げるのはシーンは印象的である。

 カルタゴの宗教に関連して最も人々の記憶に残りやすいのは、やはり幼児供犠の話しであろう。幼児供犠とは文字通り、幼児を犠牲として神々に捧げたことを意味しているが、これは、フロベールの『サランボオ』の中でその光景が描かれたことで多くの人が知るところとなった。
「青銅の腕はいよいよ敏捷に動いていた。もう休むことはなかった。一人の少年がそこに置かれる度に、モロックの僧侶達は彼の上に手を差しのべ、人民の罪を彼に負わせて叫ぶのだった。「彼らは人間ではない。牡牛共だ!」と、周囲の群衆は繰り返した。「牡牛だ!牡牛だ!」信者達は叫んだ。「主よ!食らえ!」(中略)犠牲者達は、穴の口まで来たかと思うと、赤く熟した板金の上の一滴の水のように消え失せ、紅蓮の焔の中に白い煙が立ち登るのだった。けれども、神の食欲は満たされなかった。」(*5)
 この描写に関しては、学術的にまだカルタゴで幼児供犠が行われたかどうか決着がついていないことなどから、議論を呼んだ。カルタゴにおける幼児供犠が完全に妄想の産物であるという立場から、カルタゴでも行われていたとする立場(*6)、さらにはそれが宗教儀式の名を借りた一種の人口抑制政策であったする説まで幅広い解釈が存在する。
 この問題にこれ以上の結論を出すことは出来ないが、仮にそれが行われていたとして、そのカルタゴ人のその慣習をより公平な立場から見ることは出来る。単に残酷だとか、冷酷だとか糾弾することは偏った見方というものであろう。
 彼らが行っていたことは、生きている幼児を生け贄にして殺すわけであるから、我々から見れば確かに残酷である。先に引用した『サランボオ』の中での描写が過度に残酷さを増していたとは思えない。しかし、カルタゴを滅ぼしたローマでは、人口抑制として嬰児遺棄が現実に行われていたらしく、さらに「ローマ帝国期になると、奴隷の約半数が拾われた捨て子によって構成されたいう指摘さえあるほどである。」(*7)それは古代においては堕胎などの手段よりもずっと安全であったからであり、人口を抑制するための手段として捉えればやっていること自体何ら変わりはない。日本にしても「間引き」という言葉があるように、人口と食料供給量とのバランスによって、人為的な人口の調整は歴史的に行なわれていたのであり、現在でも妊娠中絶が平然と(ではないかも知れないが、全体として)行なわれている。中絶を禁止しているカトリック系の諸国にしたって例外ではないはずである。このように、カルタゴの幼児供犠に対する感情的な非難は、自分たちの行ないを棚にあげた一方的な言い分であり、まずその点を認識する必要があろう。幼児供犠の実践に関しては、その、我々の心情に訴えかける要素は別にして、むしろ、彼らの宗教的敬虔さを象徴していると素直に認めるべきであろう。


注釈



(*1)衆神殿と訳される。元来起源が異なる複数の神を信仰する場合に、それらの神々を結びつけたり伝説を与えたりして、全体に統一性を保持させた神々の構成。

(*2)サバティーノ・モスカーティ、『古代オリエント史』、p20参照。

(*3)シュメールの神とデュムジ、バビロニアとアッシリアの神タムズ、エジプトのオシリス、ヒッタイトのテリピヌ、ウガリットのバールの神話などが同様の話しである。

(*4)メソポタミアでは、最高の三体神、アヌ(天)、エンリル(空)、エア(大地)はシュメール系であり、次位の三体神、シァマシュ(太陽)、シン(月)、イシュタル(金星)になって名前がセム系になる。

(*5)フロベール、『サランボオ』、p139参照。

(*6)前者は、フランスの考古学者シャルル・ソーマーニュやイタリアのセム学者サバティーノ・モスカーティらが、後者は、アメリカの考古学者ローレンス・ステイガーらが主張している。

(*7)マドレーヌ・ウルス=ミエダン、『カルタゴ』、p134参照。




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