パンの大神

アーサー・マッケン著 The Creative CAT訳

This is a Japanese translation of Arthur Machen's "The Great God Pan" by the Creative CAT.

I. 実験

「君が来てくれて良かったよ、クラーク(*1)、本当に良かった。時間をあけてもらえるか心配だったよ。」

「何日かあけられたよ、今は急ぎの用事がないんだ。しかし君こそ心配はないのか、レイモンド。完全に安全なのかい。」

レイモンド博士(*2)の家の正面にあるテラスに向かい、二人の男はゆっくり歩いていった。陽はまだ西の山稜の上にあり、しかしその弱々しい赤光は影をつくることがなく、空気は静まりかえっていた。甘いそよ風が丘の上にある大きな木から吹き寄せ、それに乗って時折山鳩たちの声が聞こえる。下には美しい渓谷が長く延び、ぽつんとした丘々を縫って川が流れる。陽が西に沈むに従い、純白のかすかな靄が丘から昇った。レイモンド博士は鋭く友人に向きなおった。

「安全かだって? もちろん。手術自体は極めて単純で、外科医なら誰でもできる。」

「他の段階でも、全く危険がないのか?」

「ない。どんなものであれ、身体的な危険は全くない。言わせてもらえば、君はいつも臆病だ。いつもだ。君は私の過去を知っているね。私は超越医学(*3)にこの二十年を捧げてきたんだよ。偽医者だの山師だの詐欺師だのと言われているのは聞いた事がある。しかし、私はその間もずっと自分が正しい道にあることを知っていた。五年前、目的地に辿り着き、それからの毎日は今夜のための準備だったんだ。」

「君の言うことが全て真実であると信じたいものだ。」 クラークは眉を顰め疑わしそうにレイモンド博士を見た。「君の理論が夢物語 — 素晴しい幻覚であっても、やはり単なる幻覚に過ぎない — ではないというのは、本当に間違いないのだね?」

レイモンド博士は足を止め、さっと身を翻した。彼は痩せ衰え、血色の悪い中年だったが、真直ぐクラークに向き、答えるにつれ、その頬に朱がさした。

「クラーク、回りを見てみるがいい。山が、波うつように連なる丘々が見える。森が、農園が、熟した小麦畑が、牧草地が、葦の生える川原に続いている。君の傍らに私が立つのが見え、私の声を聞いている。しかし、これらのもの全て、そう、今私達の頭上に瞬き出した星から足元の固い大地まで、その全ては夢や影に過ぎないのだ。その影が世界の真の姿を私々の目から隠しているのだよ。真の世界は存在する。しかしそれはこの魅力的な幻の向こうに、『アラス織の模様を追いて夢は駆けたり』(*4)、それらの帳(とばり)の彼方にある。そのとばりを挙げた人間がこれまで一人でもいたかどうか判らないが、クラーク、今日この夜、ある人物の目の前でその帳が開くのを、我々は見ることになるのだ。奇妙な意味のないことだと思うかも知れない。確かに奇妙であるかも知れないが、真実なのだ。古代の人々はその帳を挙げることの意味を知っていて、『パンの神を見る』と呼んだ。」

クラークはぶるぶると震えた。川面からただよう白い霧が寒かった。

「確かに不思議な事だね。君が正しいとすれば、私達は奇妙な世界の汀に立っているというわけか、レイモンド。刃物は絶対に必要なんだね?」

「必要だ。灰白質に微小な傷を作る、それで全てだ。若干の細胞のわずかな再配置、百人の脳の専門家の内、九十九人までもが見のがすような、顕微鏡的な変更だ。クラーク、業界用語(*5)で君をげんなりさせる気はないよ。聞き映えのするような技術的詳細を並べ立てても、君がこれ以上啓発されることもないだろうし。しかし、君も何気なく新聞の隅っこで、近年脳生理学は実に長足の進歩を遂げているとかいう記事を読んだことがあるだろう。私もディグビーの理論やブラウン・ファベル(*6)の発見についての一節を以前見たな。理論だと、発見だと! 彼等が今立っている場所に、私は十五年前に到達し、君には言うまでもないことだが、この十五年間そこにじっと留まっていたわけではない。五年前の発見によって、十年前にほのめかしていた目的地に辿り着いた、と言えば十分だろう。何年もの間努力し、何年もの間必死で手探りで進み(*7)、昼夜を分かたず、他の誰かもまた同じものを探っているのだろうという戦慄し凍えるような思いから失望と絶望に襲われ、ついに、長い時間の末ようやく、私の心は突然痛い程の喜びに踊った。長い旅が終わったのだよ。当時も今もそれはある偶然によるものだったのだと思える。それまで百回も通っていて慣れた道筋の後で、ぼんやり思いを巡らした瞬間に受けた示唆だった。偉大な真実が私の上で炸裂し、私ははっきり理解した。全世界、知られざる世界、大陸や島々、人類が初めて太陽を、天の星を見上げ、静かな大地を見下ろして以来(私が思うに)一隻の船すら通ったことのない太洋、これらを見渡すことができた。酷く飛んだ話だと思うだろうが、クラーク、言葉にするのは難しい。いったい、簡単かつ少ない言葉で私の考えに気付いてもらえるものか、今でも判らない。例えば、私々のこの世界は電信線で綺麗に取り巻かれているね。思考は、思考それ自体より幾分遅い速さで飛び交っている。日の出の地から日没の地まで、北から南まで、水豊かな地も乾いた地も超えて。今日の電気技術者がふと、『自分達は水辺の小石で仲良く遊んでいるだけで、それを世界の基盤と誤解しているのだ』と気付いたらどんなものだろうね。最も遠い世界が電流の前に広がっており、人々の言葉が太陽に、さらにその先の太陽系に飛んで行き、人間の思考の果てにある荒れ果てた無から、明瞭に話す谺を返すのを見たらどうだろう。これは私がした実によい類推なんだが、これの類推をつきつめると、ある夕べに私がここで立ちつくして感じたことの一端を君にも分かってもらえると思う。ある夏の夕べ、谷は今と同じように見えていた。私はここに立って、言語に絶し思考能力を超越した溝、深く口を広げ二つの世界を隔てる溝を見た。物質の世界と精神の世界だ。巨大な空(くう)が目の前に深く暗く広がり、その時すぐに光の橋が地球から未知の岸へと走り、かの深淵は横たわっていた。その気ならブラウン・ファベルの本を見れば、現在の科学者は存在というものを説明できない、言い換えれば、脳のある神経細胞集団の機能を特定できないと書いてある。その神経細胞集団は見捨てられていて、各種の空想的な理論がお好み通りに扱う対象みたいなものとなっている。私はブラウン・ファベルや他の専門家の立場には立っていない。それらの中枢が系の中でどのような機能を果たしうるか、私は完全に把握している。わずかな操作で、それらを機能させられるんだ、わずかに触れるだけだ、それで電流が流れるようになる、それで情報の通路を完成させられるんだ、私達が今感じるようなこの世界と、別な…… いや、この話は後にすべきだな。そうだよ、刃物は必要だ。しかしそれが何をもたらすか考えてくれ。それは感覚という堅牢な壁を倒し、多分人類史上初めて、精神が精神の世界に瞠目する事になるのだ。クラーク、メアリはパンの神を見るんだぞ!」

「しかし君が私にくれた手紙の内容を覚えているかい? 必須事項として彼女は…(*8)

彼はその続きを博士の耳に囁いた

「全然ない、全然。それは無意味だ。約束する。本当だ、もっとましだ。それについては完全に大丈夫だ。」

「レイモンド、よく考えるんだ。重大な責任だぞ。何かまずいことが起きれば、君の人生はこれから先悲惨なものになるぞ。」

「いや、仮に最悪の事態でもそうは思わない。知っての通り、私はメアリが子供の頃に、貧民窟で餓死寸前だったのを救ったんだ。彼女の生命は私のもので、好きなように使っていいものだと私は思っている。来たまえ、遅くなりそうだ。始めたほうがいい。」

レイモンド博士は家の中へと招いた。ホールを抜け、長く暗い廊下を下った。鍵をポケットから取ると重い扉を開け、クラークを実験室に入れた。それは以前の撞球室で、天井の中央にガラスドームの明かり採りがある。そこからいまだに薄暗い光が射しており、部屋の中央にあるテーブルに置かれた重いセードのついたランプを博士がつけようとしている時も、彼の姿を寂しく灰色に照らした。

クラークは彼がいる辺りを見回した。辛うじて壁の最下部が裸で残されているだけで、そこら中が棚になっており、そこには瓶や様々な色形のアンプルが乗っていた。壁の一端にチッペンデール風の本箱があった。レイモンドはそれを指した。

「そのパーチメントはオズワルド・クローリウス(*9)だが気付いたかい? 彼は進むべき道を最初に示してくれた人だ。彼自身はそれを見つけられなかったと思うが。こんな不思議なことを言っているよ:『麦のひと粒ひと粒に、星の心が潜んでいる。』」

実験室には大して家具がなかった。中央にテーブル、一つの隅に石板でできた流し、二人が座っているアームチェア。残りの一つは部屋の一番遠くにある奇妙な形をした椅子だった。クラークはそれを見、眉をあげた。

「ああ、それがその椅子だよ。それもちゃんと置かないと。」 レイモンドは起き上がると、椅子を照明の下に転がした。彼はそれを上下させ、座席を下げ、背もたれを色々な角度に合わせ、足乗せを調整した。その椅子はなかなか快適そうに見え、博士がレバーを操作する間、クラークは柔らかい緑の毛氈の上に手を添わせた。

「さて、クラーク、楽にしたまえ。私はこれから何時間か作業しなければならない。最後に回さなければいけないものが幾つかあってね。」

レイモンドは流しに向かい、アンプルの列にかがみこんで坩堝に火を点した。クラークは陰気にそれを見つめた。実験装置の上にはセードのついた大きなランプが張り出しており、博士も同じようなセード付きの小型ハンドランプを持っていた。ランプの蔭に座ったクラークは影の多い大きな部屋を見下ろし、明るい光と何も判らぬ闇の対比がもたらす怪奇な効果を味わっていた。程なく、彼は部屋の中の異様な臭いに気付いた。最初は気のせいかと思う程度だったのがはっきり感じられるようになってきた。驚いた事にそれは薬店や手術室を思わせるものではなかった。クラークはその感覚をぼんやりと半ば無意識に分析しようとしている自分に気付いた。彼はある日のことを考えはじめた。それは十五年前、家のそばの森と牧草地をずっと彷徨い歩いた日だった。八月初めの燃えるように暑い日で、あまりの炎熱に遠いものも近くの物も、全ての形が靄のようにぼやけて見えた。温度計を見た人々は、ほとんど熱帯のような異常なその値について話していた。50(*10)年代のそんな美しい炎暑の一日が、不思議な事にクラークの空想の中に甦ったのだ。溢れんばかりのまばゆい陽光が実験室の影と光を追い払ったように思え、彼は再び、迸る熱風が顔を叩き、芝から陽炎が立ちのぼり、夏の無数のつぶやきが聞こえるように感じた。

「この臭いが気にならなければいいんだが、クラーク。有害なものじゃないよ。少し眠くなるかもしれないが、それだけだ。」

クラークはこれらの言葉をはっきり聞いており、レイモンドが話し掛けているのも分かっていたが、どうしても気力を奮い起こす事ができなかった。彼には十五年前の孤独な散歩のことしか考えられなかった。子供の頃から知っている野原と森を見た最後の機会だった。今明るい光の中、それがまるで絵のように目の前に立ち返っていた。なによりも鼻に、夏のにおいが、入り交じった花々の香りが、森の匂いが感じられた。涼しい森蔭では日光の暑さが深い緑に遮られ、腕を広げ唇に微笑みを浮かべるかのような土の良いにおいが全てを圧倒していた。遠い昔と同様に、空想の中で彼は輝くブナ林の下生えを通る小道を辿り、野原から森へと向かった。石灰岩から滴る水のしずくが夢のような明瞭な旋律を奏でた。思考は道に迷いはじめ、他の思考とない混ぜになっていった。石灰岩の路地はヒイラギ林の小道になり、そこここで枝から枝へと葡萄のツタが登り、ツルを波打たせ、紫の実を下げていた。ヒイラギの暗い影に逆らって立ち上がる野生のオリーブの葉がまばらな灰白色を見せていた。夢の中に深く沈潜したクラークは、父の家から延びる小道が未知の国に彼を誘うものであったことに気付いていたが、その国が余りに異様なので不思議に思った。突然、ざわめく夏の呟きが止み、無限の沈黙が全ての上に覆いかぶさったのだ。森が静まるとやがて、ある存在と顔を突き合わせて立つ事になった。それは人でも獣でもなく、生あるものでも死せるものでもなく、全てが混然となったものだった。全ての形であり同時に全ての形を失っていた。その瞬間身体と心の神秘的な合一(*11)が解け、「されば、いざ共に行かん」と叫ぶかのような声が聞こえ、星星の果ての暗黒、無限に続く暗黒が現れた。

クラークがはっと目を覚ました時、レイモンドは密栓された緑のアンプルに何か油性の液体を数滴落としているところだった。

「うとうとしていたぞ。旅の疲れだな。準備はできた。メアリを連れてくる。十分で戻る。」

クラークは椅子に深く腰掛け不思議な気分でいた。ある夢から別の夢に遷っただけに思えた。彼は実験室の壁が溶けて消え去り、戦慄すべき夢に震えながらロンドンで目覚めるのではないかと半ば思った。しかし、ついに扉が開き、博士が帰ってきた。背後には歳の頃十七と見える娘が全身純白の服を纏っていた。娘は大変美しく、クラークは博士が手紙で書いた事もうなずけると思った。今や娘の顔も首も腕も紅潮していたが、レイモンドは心動かされる様子がなかった。

「メアリ、時間だよ。全く自由に答えてほしいが、私を信頼して全てを任せてくれるかね?」

「ええ(*12)。 」

「聞いたかね、クラーク。君が証人だ。さてこの椅子だが、メアリ、実に簡単な事だ。これに座って背を凭れるだけでいい。準備はいいかい?」

「ええ、本当に大丈夫です。その前に私にキスして下さい。」

博士はかがみこみ、優しく唇を合わせた。「さあ、目を閉じて。」 娘は疲れたかのように瞼を閉じ、眠ろうとした。レイモンドは緑のアンプルをその鼻先においた。彼女の顔は蒼白になり、着ているドレスよりも更に白くなった。かすかにもがき、やがてぐったりと従順になった。小さな子供のように胸の前で腕を組み、祈りを捧げるかのように。ランプが顔を明るく照らし、クラークはそこに漂う変化、流れ行く夏の雲からもれる陽の光が丘の姿を変えるような変化を観察した。彼女が完全に蒼白になり静かになると、博士はその片方の瞼を持ち上げた。彼女は完全に意識を失っていた。レイモンドがレバーの一つを強く押すと、椅子は急に倒れた。クラークは彼が剃髪式のように彼女の髪を丸く切り、ランプを寄せるのをみた。レイモンドは小箱から何か小さなギラギラする器具を取り出し、クラークは震えながら目を背けた。再び目を向けた時、博士は切開部を縫合している所だった。

「五分で覚醒する。」 レイモンドはなおも完璧に冷静だった。「すべきことはもうない。待つだけだ。」

時間はゆっくりと過ぎて行った。遅く重たい振子の音が聞こえた。廊下に古い時計があったのだ。クラークは気分が悪くなり、めまいがしそうだった。膝が震え、立っているのがやっとだった。

突然、彼等の目の前で、長く続くため息が聞こえ、娘の頬に失われていた色がさし、彼女は目を見開いた。クラークはひるんだ。その目は恐ろしい光を発し、遥か遠くを見ていた。彼女は顔に激しい当惑を浮かべ、両腕を延ばした。見えない何かに触れようとするかのように。しかしすぐにその当惑は消え、最も恐ろしい恐怖がとってかわった。顔筋を醜く痙攣させ、頭の先からつま先までショックに震えた。肉体という家の中で魂が悶え戦くように。見るも恐ろしい姿だった。叫び声を挙げて床に倒れる彼女に、クラークは駆け寄った。

三日後、レイモンドはクラークをメアリの病床に連れてきた。彼女は起きて、頭を大きく振り回し、歯を剥き出して虚ろに笑っていた。

博士は尚も冷酷に言った。「そうだよ、治癒の見込みのない白痴だ。残念だが如何ともしがたいことだった。結局の所、彼女はパンの大神を見たのさ。」

II. クラーク氏の備忘録

レイモンド博士の証人としてパンの神に関する奇妙な実験に立ち会った紳士、クラーク氏は、注意深さと好奇心が妙に入り交じった性格をしていた。悲嘆に暮れる時には、普通でないもの、異様なものをあからさまに忌避するが、そのくせ胸の奥では詮索好きな目が、人間の本性に於いての深遠にして秘儀的な要素を観賞せんと光っているのである。後者のような性格のために、深慮によって常日頃その理論を野蛮な空論と退けているレイモンド博士の招待を受け入れたのだ。しかし、幻想の類いを秘かに信じている彼にとって、自らの深慮の正しさが証明されるのを見たことは喜ぶべきだったのかもしれない。陰気な実験室で証人となった恐怖は、かなりの程度彼のためになった。好評とは到底いいがたい事件に関係したことを常に意識して、その後何年もの間、陳腐な日常を雄々しく堅持し、オカルト的研究には一切手を出さなかったのである。確かに、一種の同毒療法的な目的で、高名な霊媒師の降霊会にも出たりしたが、彼等のしょぼいトリックを見ればいかなる種類の神秘主義にも愛想を尽かすのに役立つだろうと思ったからだった。しかしこの毒を以て毒を制する荒療治も有効ではなかったようだ。クラークはやはり見えないものに惹かれていることを自覚しており、未知の恐怖に痙攣するメアリの顔がゆっくりと記憶から消えて行くのと共に、次第に昔の情熱がぶりかえしてきた。昼間、真面目な商売に精出しているので、夕べは緊張を解きたいと思う誘惑は大きかった。特に冬の頃など、暖炉の火が暖かく点る居心地の良い独身屋敷で、良いクラレットの瓶を肘の脇に置いて。夕食の後、新聞を見るふりをちょっとするものの、大した事件もなく彼はすぐそれに興味を失い、少し離れた所にある日本製の(*1)大きな書き物机の方にどうしても目をやってしまうのだ。玩具箱を前にした男の子のように数分間ためらった後、やはり欲望に負け、クラークは椅子を引っ張って行っては、蝋燭を灯し、机の前に座る。棚と引出しは極めて病的な主題を扱う文書で溢れ、穴の中(*2)には苦労して集めた宝石を仕込んだ草稿が眠っている。クラークは印刷された文学をはっきり軽蔑していた。どんな恐ろしい怪談も、印刷されてしまえば彼の関心を失う事になった。彼の唯一の楽しみは、「悪魔の実在を証明する備忘録」と称するものを読み、編集し、並び変えることにあり、ひとたびこれに着手すると夕べの時間は飛び去り、夜は余りにも短く思えるのだった。とある夕方、霧が暗くたちこめ底冷えのする霜の降りる嫌な十二月の夜のこと、クラークは急いで食事を終え、畏れ多くも新聞を取り上げるも、慣例の記事御謁見をほとんどせずにそのまま置いた。部屋を二度三度と往復し、例の机を開き、少しためらい、腰を落ち着けた。背を凭れ、ものしている夢の一つに沈んだ。ようやく、自分の本を取り出し、最後の部分を開いた。クラークは周りに三、四枚の頁を置き、筆を揃え、幾分大きな文字で次のように書いた。

我が友フィリップス博士(*3)が我に語りし類い希な物語。
彼はこの物語および関連する事物が
全て厳密にして真正なる事を我に確約せり。
しかれども、関係者の姓及びこれら異様な事件の
起こりし地名に関してはこれを秘せり。

クラーク氏はその記述を十回も読みなおし、友人の話を聞きながら鉛筆でしるした記事を何度もちらりと見た。気質として、自分に確かな文学的才能があるという自負を持っていた。文体についてよく考え、事態をいかにドラマチックに配列するかに頭を痛めていた。彼が読んだのは次のようなものである:—

この陳述に関わる人物は以下の通り。ヘレン・V、存命ならば現在23才になる女性、レイチェル・M、故人なれどヘレンより一歳年下、およびトレヴァー・W、18才の知的障害者。これらの人物は物語の時点でウェールズの境界に近いある村の住民であった。その場所はローマ時代にはなにかしらの重要性を持っていたが、現在では人陰まばらな村落に過ぎず、人口は500を越えない。海より10km程の距離にあり、深く絵のように美しい森で隔てられた丘陵地帯である。

11年程前のこと、ヘレン・Vはかなり特異な状況の下その村にやってきた。村人の理解によれば、彼女は孤児であり、幼い頃に遠縁の男性に預けられ、12才になるまでその家で暮らした。しかし、子供には同年代の遊び友だちがいる方が良かろうと考え、養父は数種類の地方紙に広告を出し、12才の娘にとって快適な農家を募集した。同村にて成功裡に農業を営んでいたR氏がこれに応えた。条件が適当であったため、養父である紳士は養女をR氏の許に送り、同時に手紙で娘に個室を一室用意することを約束させ、予想される今後の生活にとって適切な教育を既に受けさせてあるので、受入れ先は娘の教育については心配する必要がないことを明記した。実際の所、娘は自分で仕事を見つけることになっており、本人の時間をほとんど好きに使って構わないようだとR氏は理解する様子だった。11km程離れた街にある一番近い駅で、R氏は正式に彼女と会った。娘には特に変わった点はなさそうだったが、これまでの生活や養父については寡黙であった。しかし、彼女は他の村民とはまるで違ったタイプだった。肌は浅く明るいオリーブ色で、はっきりした目鼻立ちで、なにかしら外国人のような性格があった。彼女は農家の生活に容易に落ち着いたようで、子供と好んで遊ぶようになった。子供とは時折一緒に森に行った。森での逍遥が彼女の楽しみだったのだ。R氏によると、彼女は早い朝食の後すぐに一人で遊びに行き、暗くなるまで帰らなかったようで、若い娘がこれ程長い時間一人で表に出ていることが気になった。彼は養父に手紙を書いたが、ヘレンの自由にさせるようにという短い返事があっただけだった。冬になり森への道が閉ざされると、彼女はほとんど自分の寝室で過ごすようになった。養父の指示に従い、彼女一人の寝室が用意されていたのである。娘と関係した最初の特筆すべき事件が起きたのは、村にやってきて約一年後、このような森への遠征の時であった。先んずる冬は極めて厳しく、深雪が積もり、例を見ない長期間にわたり霜が降りた。 次いで訪れた夏は記憶に残る暑さとなった。その夏の中でもとりわけ暑かった日のこと、ヘレン・Vは農家を出て森への長い逍遥に向かった。いつものようにパンと肉を昼食として持っていた。古代ローマ街道に向かう野にいた何人かが彼女を見かけている。その道は森の最も高みを縫っていた。彼女を見かけた人々が驚いた事に、彼女はこのほとんど熱帯のような熱射の中でも帽子を脱いでいた。正午、たまたまローマ街道のそばの森で働いていたジョゼフ・Wという名の労働者の所に、 その幼い息子のトレヴァーが昼のパンとチーズを運んできた。食事の後、当時7才位であったその子は森の花を見に行くと言って、仕事をしている父親から離れた。息子が花を見つけてはしゃぐ声が聞こえ、父親はすっかり安心していたのだが、突然恐るべき叫び声が聞こえ、身震いした。息子が向かった方向からあがったもので、明らかに激しい恐怖に襲われた様子であったので、すぐさま道具を投げ捨てるや何が起こったのか見に駆け出した。音を頼りに道を伝い、子供の所に辿り着いた。子供は酷く怯えているのが明らかで、慌てふためいて走っていた。父親の質問に答えて言うには、花束を摘んだら眠くなったので草の上に寝た、何か歌声のような変な物音に目覚めて枝の間から覗いたところ、ヘレン・Vが「変な裸の男の人」と草の上で遊んでいるのが見えた。その男についてはそれ以上を語れないようであった。物凄く驚いて、父親の方に泣いて逃げ出したのだそうだ。ジョゼフ・Wが息子の指す方角に進んでみると、ヘレン・Vが草に座っていた。そこは森の空き地ないしは広場の中で、茶色に焼けた跡だった。彼は小さな息子を驚かせたことについて怒りをぶつけたが、彼女は言い掛かりだと完全に否定し、子供が言った「変な男の人」の話を一笑にふした。彼もまたその話を大して信じていなかったのである。時折子供は急に驚いて目がさめるもので、息子もそうだったに過ぎないとジョゼフ・Wは結論づけた。それでもトレヴァーは自分の話を繰り返し、明らかに悩まされているため、結局父親は息子を連れて帰った。母親ならばなだめる事ができるだろうと。しかし何週間もの間、その子供は両親を心配させつづけた。神経質になり、おかしな振舞をするようになり、一人では家から出たがらなくなった。毎夜起き上がっては叫び声を上げ、家族の目を覚まさせた。「森の人だ! お父ちゃん! お父ちゃん!」

それでも時が経つにつれ、事件の印象は薄れて行くようだった。およそ三ヶ月後、彼は父親に連れられて近所の紳士の家に行った。ジョゼフ・Wはその紳士のためにときどき仕事をしていたのである。小さな男の子をホールに座ったまま残し、父親は案内されて書斎に入った。数分後、紳士がWに指示を与えている時、鋭い金切り声が聞こえ何かが落ちる音がした。驚いた彼等が急いで出てみると、子供が床の上に気を失って倒れているのが見えた。その顔は恐怖に象られていた。即座に医師が呼ばれ、検査の後、医師は子供は一種のひきつけを起こしており、それは明らかに唐突に受けた衝撃のためであると説明した。子供は寝室の一つに運ばれ、しばらくして意識を取り戻したが、 医療関係者なら激しいヒステリーとしか呼びようのない状態になっただけだった。医師は強力な鎮静剤を処方し、二時間の経過の後に、もう子供は歩いて帰れると判断した。しかしホールを通り抜ける際、更に激しい驚愕発作が再発した。父親は息子が何物かを指して、以前繰り返した「森の人だ」という叫びを発するのを聞いた。その指す方を見ると、石でできた醜悪な姿の頭部が扉の上の壁にはめ込まれていた。大家がある事務所の改築のために基礎を掘ったところ、ローマ時代のものに相違ない面白い頭部が見つかったので、このように飾ったものらしい。現地の考古学の権威によると、それはフォーンないしはサテュロスのものとのことである(*4)。[フィリップス博士は、問題の頭部を見て、これほど凶悪性というものを生き生きと感じさせられる描写には、それまで出会った事がなかった、と確言してくれた。]

原因がなんであったにせよ、この二度目のショックは年端もいかないトレヴァーには強烈すぎたようで、彼の知的水準は今日に至るも低いままであり、回復の見込みはほとんどない。この事件は当時相当のセンセーションを引き起こし、R氏は自らヘレンを詰問したが、無駄に終わった。 彼女はトレヴァーを驚かせたことも、性的にせよなんにせよいたずらなど(*5)したこともないという主張を曲げなかった。

この娘との関連が囁かれた第二の事件は約六年前に起こった。その事件は遥かに異常な性格を帯びていた。

1882年の初夏、ヘレンは近所の富農の娘、レイチェル・Mという少女ととりわけ親しくなっていた。成長するに従ってヘレンの容貌もだいぶやわらぎはしたが、一歳年下のこの少女の方が綺麗だというのが多くの村人の思う所であった。二人の娘は機会があれば常に一緒にいて際立った対照をなしていた。一人はイタリア人かと思う程の明るいオリーブ色の肌、もう一人の肌は我が国の地方に見られる諺にもあるような赤と白である。このことは述べておかねばならないだろうが、村人はR氏に渡されたヘレンの養育費が非常に気前の良い金額であることを知っており、彼女は将来親戚から巨額の遺産を相続するのではないかとの一般的な観測があった。そのため、レイチェルの両親は娘の友だち付き合いに苦言を呈することもなく、むしろ親しくなる事を奨励したのである。もっとも、今となっては両親はそれを苦々しく思い、後悔しているのだが。ヘレンは森林への常軌を逸した偏愛を維持しており、時折それにレイチェルも同行した。二人の友人は朝早く出発し、暗くなるまで森に残った。このようなことが二回か三回重なった後、M夫人は娘の様子がかなりおかしいと思うようになった。 娘はだらしなく夢見るような風になり、「自分が自分でない」と表現される状態になったのである。 だがこれらの奇矯な点も、とりわけ問題にすることはないと考えられたようだ。しかしながら、ある夜レイチェルが帰宅した後、母親は押し殺した嗚咽のような物音が娘の部屋から聞こえるのに気付いた。行ってみると、娘は服を半ば脱いだ状態で寝台に横たわり、明らかに激しく苦悩していた。母親に気付くや彼女は叫んだ、「ああ、母さん、母さん、どうして私をヘレンと森へ行かせたりしたの?」 M夫人は質問の異様さに驚き、事情を更に問うてみた。レイチェルはある野蛮な物語を語った。レイチェルの答えて曰く —

クラークは音を立てて本を閉じ、椅子を回して暖炉の方を向いた。ある夜、まさにこの椅子に座って、友人は語ったのだ。もう少し先まで聞いた所で、クラークは物語を中断させた。恐怖に痙攣し言葉を詰まらせながら叫んだ。「なんということだ、どんな話をしているのか判っているのか。とても信じられない、奇怪過ぎる。この静寂な世にあっていいことではない。この世でも毎年多くの男女が生き、死に、いがみあい、勝利し、あるいは敗北し、悲しみに沈み、変わった運命に苦しんでいる。しかしこれは違う、フィリップス、こんな事とは違う。何かの説明が、恐怖から脱出する道が必要だ、ああ、こんな事件が実際に起こりうるならば、私達のこの地球は悪夢になってしまう。」

しかし、フィリップスは最後まで語り、このように結末をつけた:

「彼女の逃走は今日まで謎とされている。陽の当る明るい場所で彼女は消えた。牧草地を歩いていた姿が見られた数分後にはいなくなってしまったそうだ。」

暖炉の傍に座りながら、クラークは再びこのことを想像して心から身の竦む程震えた。あたかも、恐るべく名状しがたい要素が人の肉体の中で勝利し、王座に着くかのようなぎょっとする光景を。友人が描いたしたように、目の前に、暗く長く森の中を行く古い緑の石畳の道の眺望が延びた。揺れる木の葉、震える草の影、太陽と花々、遥かに遠く、遠い向こうにこちらにやってくる二つの姿があった。一つはレイチェルだ、しかしもう一つは?

クラークはそれを信じまいと努めはしたが、結局ノートと同じく、記述の最後に次のような碑文を書き残した。

ET DIABOLUS INCARNATE EST. ET HOMO FACTUS EST.
(悪魔は化身し、人は創らるるなり(*6)。)

III. 復活の都(*1)

「ハーバート(*2)!、おい、凄いや、こんなの有りか?」

「はい、私の名はハーバートです。私も旦那様のお顔に見覚えがある気がしますが、お名前を思い出せませんで。記憶が大分怪しくなっておりまして。」

「ワーダムのヴィリヤーズ(*3)を見忘れたわけじゃないだろうな。」

「そうだ、そうだな、済まない、ヴィリヤーズ、カレッジ時代の昔の学友に物乞いしているとは思わなかったんだ。じゃ、おやすみ。」

「おいおい水臭いぞ(*4)、そんなに急がなくてもいいだろう。近くに俺の部屋があるが、すぐに行くのはよしとこう。シャフテスバリーの街(*5)を少し歩いてみないかい? しかしまあ、一体全体、どうしてこんなことになっちゃったんだ、ハーバート。」

「長い話さ、ヴィリヤーズ、長くて奇妙な話だよ。聞きたいというなら話してもいいが。」

「じゃあ来いよ、俺の腕を取れ、お前は丈夫そうには見えないぞ。」

不釣り合いな二人組はゆっくりとルーパート街(*6)を北に歩いた。一人は汚い、見てくれの悪い襤褸服を着ており、もう一人は街でよく見かける風の、きちんとした身なりの細く大層裕福な男性である。それまでヴィリヤーズはレストランで何コースもの素晴しい夕食を取り、キアンティの小瓶で機嫌をよくしていたところであった。このような心のあり方は彼にとって殆ど常のものであったが、その所為で、ドアの陰から小暗い街を覗き回し、常にロンドンの街角に満ちる何かミステリアスなものを探す、あの一瞬が遅れたのだ。ヴィリヤーズは自ら任じて、このようなロンドンの生活の閉ざされた迷路や横道を探検する熟練者たる事を誇っていた。もっと真面目な仕事に振り向ければよいような勤勉さで、無報酬の探究に当っているのである。かくなる次第で、彼はフルコースの夕食以外には向け得ない程の厳粛さ及び、人目を憚らぬ好奇心と共に街灯の脇に立ち、心の中ではっきり宣言した。「ロンドンは出合いの街と呼ばれてきた。しかし今やそれ以上のもの、復活の街である。」 ところがその残響が消えない内に、突然肘の辺りに哀れな泣き声が聞こえ、惨めに施しを乞うたのだ。彼はいささか不機嫌に見回したのだが、自分の幾分誇大な幻想を体現するものに突然直面して、驚いてしまったのである。その人物は彼のすぐそばに立っている。顔は貧困と不幸のために変貌し崩れてしまった。辛うじて纏っているものは穴が開き身体に合っていない油で汚れた襤褸である。古い友人チャールズ・ハーバート、同じ日に入学し、十二の学期を繰り返す間も快活で賢明だった彼。職業が異なり、興味が変わっていったため疎遠になり、最後に会ってから六年が経っていた。今、彼はこのように落ちぶれてしまった男を見て、嘆き、喜びを失い、しかしそれに混ざってちょっとした好奇心が疼いている。どんな悲惨な状況が重なって、かくも陰鬱な道に彼は落ちてしまったのだろうか。ヴィリヤーズには同情と共に、謎の愛好家としての興味、レストランの外での気長な観察を自分で褒める気持があった。

彼等はしばらくの間黙って歩いた。身なりの良い男とその腕に凭れ掛かるまごうかたなき乞食という見なれない光景に驚いて、一再ならず通行人が彼等をじろじろ見た。それを観察しつつ、ヴィリヤーズはソーホーにある一つの袋小路へと向かった。そこで彼は質問を繰り返した。

「全体、どうしたんだ、ハーバート。お前はドーセットシャー(*7)でよい地位を受け継いだとばかり思っていたんだが。親父さんに勘当でもされたのか、もしかして。」

「違うよ、ヴィリヤーズ。可哀想な親父が死んだ時、僕は遺産を全部もらったよ。オックスフォードを出て一年後だったな。いい親父だったよ。死んだ時は本当に悲しかった。でもねえ、若い男というのがどういうものか知っているだろ、何ヶ月かすると僕は街に出てきて、かなりの所まで社交界に入ったわけだ。随分良く紹介してもらえたしね。危険じゃないやりかたで十分楽しめるように自分を手なずけたな。それは多少は遊んだけどね。賭事や競馬にのめり込んで金をすったりはしなかった。精々数ポンドさ。葉巻やなんかのちょっとした楽しみにはそれで十分だった。変わったのは僕の第二の季節がきた時だった。もちろん結婚した事は聞いているよね。」

「いや、何も聞いてないぞ。」

「そうか、結婚したんだよ、ヴィリヤーズ。ある女の子と会って。最高に素晴しい、奇妙な美しさのある女の子だった。知り合いの家で会ったんだ。年令に関しては言えないな。知りもしなかった。多分が知り合った頃19才くらいだったと思うな。友だちは彼女とフローレンスで知り合ったんだ。彼女は自分はイギリス人の父親とイタリア人の母親の間に生まれた孤児だと言っていた。僕も他の人達と同じように彼女に魅惑されたよ。初めて見かけたのは夕食パーティの時だった。ドアの傍に立って友だちと離していたら、がやがやする話声の中から急に心を揺さぶるような声が聞こえたんだ。彼女はイタリアの歌を歌っていた。その夜彼女に紹介され、三ヶ月後にはヘレンと結婚していた。ヴィリヤーズ、その女性は、彼女を女性と呼べるなら、僕の魂を捕らえたのさ。婚礼の夜、ホテルの彼女の寝室に座り、彼女の話を聞いている自分がいた。彼女はベッドの上に座って、僕は美しい声で彼女が話すのを聞いた。今になってもそれがどんな話だったのか、真っ暗な夜には、人込みの中でさえ囁く気にはなれない。 ヴィリヤーズ、君は人生やロンドンやこの恐ろしい街での昼夜がどんなものか、知っている気になっているね。 不道徳極まる話だって聞いたことがあるだろう。にもかかわらず、僕が知っていることは、君には思い付くことができないようなものだし、僕が聞いた話は、どんな幻想的でぞっとする夢の中でも、君には幽かな影すら浮かばないようなものなんだよ。そうさ、僕は見たんだ。見たんだよ、信じられない程のものを。余りに恐ろしくて、時折街のまん中で立ち止まっては『人はこんなものを見ても一年を生きられるものなのだろうか』と問いたくなる程のものを。ヴィリヤーズ、僕は破滅した男だ。肉体も魂も、— そうさ、肉体も魂もだ。」

「だが、遺産があったろう、ハーバート、ドーセットに土地が。」

「全部売った。土地も森も、懐かしい昔の家も。全てを。」

「金(かね)は?」

「全部取って行かれた。」

「で、捨てられた、と。」

「そう、一晩で姿をくらませた。どこに行ったのか判らない。でももしまた見かけることがあれば、間違いなく僕は死んでしまうだろうな。ここから先の話は面白くないよ。浅ましくて悲惨、それで終わりだ。話を効果的にしようとして誇張していると思うかもしれないが、これでも半分くらいなんだよ。ちゃんと話せば満足するだろうけど、その代わり君は二度と幸せな日を迎えられなくなる。僕と同じ取り憑かれた人間として、地獄を見た人間として死ぬまで過ごす事になるだろう。」

ヴィリヤーズは不幸な男を部屋に上げ、食事を出した。ハーバートは殆ど食べる事ができず、目の前のぶどう酒のグラスにも殆ど手を着けなかった。むっつりとふさぎ込んで暖炉の脇に座り、ヴィリヤーズが少し手持ちの金(かね)を渡して外に送りだす時にはほっとした様子だった。

別れ際に扉の所でヴィリヤーズは言った。「ところで、奥さんの名前は何といったんだい? ヘレンと言ったが、ヘレン・何?」

「会った時の名前はヘレン・ヴォーン(*8)で通っていた。しかし本当の名前は言えない。名前があったとも思えない。いやいや、そんな意味じゃない。名前があるのは人間だけだよ、ヴィリヤーズ。これ以上の事は言えない。じゃあさよなら。ああ、君に助けてもらえることがあれば、どんなことでも連絡するから。おやすみ。」

男は苦い夜に向かって去り、ヴィリヤーズは炉端に戻った。ハーバートに言葉にできない程のショックを与えた何かがあった。襤褸着でも顔に沈着した貧困の印でもなく、むしろ彼が漂わせていた、ある定義しようのない恐怖が。非難の念が浮ぶことを止めることはできなかった。彼が率直に認めた通り、ある女性が彼の身体と心を潰したのであり、ヴィリヤーズはかつて友人だったこの男が、言語の力を超えた悪のシーンに出演する役者に感じられた。話の裏をとる必要はなかった。彼自身が証拠そのものだった。ヴィリヤーズは聞いたばかりの話全体を好奇心いっぱいに黙考し、話の発端と結末、その両方を聞いた事になるのだろうかと迷った。「いや、これで終わりということはまずないな。多分これは始まりに過ぎない。こういった事件は入れ子細工になった中国の箱のようなものだ。一つをあけると中にまた箱があり、各々の箱に奇妙な仕掛けがある。哀れなハーバートは一番外側の方の箱に過ぎない。もっとおかしなのが続くぞ。」

ヴィリヤーズはハーバートと彼の話から心をそらすことができなかった。それは夜が更けるに連れますます大きく野蛮に膨れ上がった。暖炉の炎が暗くなったかに見え、夜明けの冷気が部屋に忍び込んできた。ヴィリヤーズは起き上がり、肩ごしにちらりと後ろを見ると、少し震えて、床に入った。

数日後、彼はクラブで知り合いの紳士と会った。名前をオースティン(*9)といって、ロンドン生活の光と闇の両方に詳しい人物として知られていた。ヴィリヤーズはソーホーでの出合いとその結末のことで頭が一杯になっており、オースティンならばハーバートの過去について何か光を投げかけてくれるのではないかと考えたのである。そこで、いくつか軽い話の後で、こう切り出した:

「ハーバート、チャールズ・ハーバートという男についてもしかして何か知っていますか?」

オースティンはやにわに向きをかえ、何か驚いたようにヴィリヤーズを睨んだ。

「チャールズ・ハーバート? 君はロンドンに三年前にいなかったのかな? いなかった、そうか。じゃあポール街の事件については聞いた事がないのだね。当時随分話題になったものだが。」

「なんですか、その事件とは。」

「よろしい、ある紳士が、大変地位のある紳士だ、死んでいるのが見つかった。硬直していた。トッテンハム・コート・ロードの外れ、ポール街(*10)のある家の地下勝手口で。もちろん警察が見つけたのではない。もし君が明かりを付けたまま一晩中起きていたら、巡査が呼鈴を鳴らすだろう。しかし、君が仮に死んで誰かの勝手口で倒れていても、そのまま放っておかれる。今回の事件でも、他の場合と同じように、警告を発したのはある種の浮浪者の一人だった。私は普通の意味で言っているのではないよ。パブを渡り歩いている者を指しているのでもない。紳士だよ、仕事にせよお楽しみにせよ、あるいは両方にせよ、朝の五時にロンドンの街を見る観客だ。この人物は、彼が言うには、『家に帰る』途中だったそうだ。どこからどこへと行くのか明らかではなかったけれども。それで、偶々ポール街を午前四時から五時の間に通った。20番地で何かが目を捕らえた。その家には見た事もないような最悪に不快な相が出ていたとか無体なことを言っているがね。ともかく、その勝手口を見下ろして彼は大変驚いた。男が石の上に倒れている。両脚はちぢこまり、顔は上を向いて。我らが紳士氏は彼の顔を見て変に幽霊じみていると思った。それで飛び退くや一番近くのお巡りさんを探して走ったわけだ。巡査は最初の内、そんなのただの飲み助だろう適当にやっておけばいいと思っていたようだが、来て男の顔を見るやいなや調子が変わった。この三文の得ならぬ美味しそうな虫をついばんでしまった早起き鳥な紳士氏に頼んで医師を呼んでこさせた上で、警官は寝ぼけ眼のだらしない女召使が降りて来るまで呼鈴を鳴らし扉をノックした。巡査はそのメイドに、勝手口にあるものを示してみせた。メイドは町中を叩き起こすような叫び声を上げたが、男については何も知らなかった。その家ではこれまで見た事がないという具合で。しばらくして、最初の発見者が医者を連れてきて、次は地下勝手口に降りてみることになった。扉が開けられ、四人組は重い足取りで階段を降りた。医学的所見をとるのにほとんど時間はかからなかった。医師はこの哀れな御仁は数時間前に死亡したと言った。事件はここから興味深くなる。遺体からはなにも盗まれていなかった。ポケットの一つに残っていた書類で彼が誰なのか判明した — うん、良家の人物で、社交的に好かれ、調べた限り誰の敵でもない。名前は言えないよ、ヴィリヤーズ。話とは関係がないし、死者に存命中の親族がいない場合、この種の事件を暴露するというのも好ましいことではないから。次に好奇の目を惹いた点は、彼の死因について医療関係者達の意見が一致しなかったことだ。肩に軽度の打撲傷があったが、台所から突き飛ばされた程度の軽さで、街路からぐるりを越えて投げ込まれたものでも、階段を引きずり降ろされたものでもなかった。しかし、これを除いてははっきりした暴力の跡はなかった。死因となるようなものはまるでなかった。解剖によっても毒物の類いは発見できなかったのだよ。当然のことながら、警察は20番地の住民について全てを知りたがった。ここで再び、個人的なコネで聞いたものなんだが、一、二の大変奇妙な点が出てきたのだ。その家の借用者はチャールズ・ハーバート夫妻らしい。彼は土地持ちの経営者だと言われていた。ポール街なんておよそ地方の大地主様がいるような場所ではないから、皆衝撃を受けていたな。ハーバート夫人についていうと、どんな人間か何をしているか、誰も知らないようだった。私達もそうだったが。彼女の歴史の中に潜入してみると、とんでもない水域に辿り着くことになるんじゃないかな。もちろん夫妻はどちらも故人については何も知らないと否定して、何か証拠があったわけでもないから釈放されたよ。ところが、彼等については実に奇怪なことが出てきたのだよ。遺体が運び出された朝五時から六時の間、沢山の人が集まった。何人かの近所の人達はどうしたんだろうと走ってきた。お互い好き勝手に話をしたんだが、どうもその話によると、20番地というのはポール街の中でも悪臭芬々たる所だったらしい。探偵たちが噂の根っこを掘ってみたが、確たる事実は見つからなかった。人々は首を竦め眉を顰めて『いかがわしく』『家を空けがち』云々なハーバートのことを考えたが、具体的なものはなかったのだよ。当局は内心、男は家の中で何らかの原因で死亡し、台所の扉から放り投げられたに違いないと確信していたんだが、それを証明する事はできず、暴行や毒物の形跡もないためになす術がなかった。変な事件じゃないかね? しかし、もっと妙なことに、後日談があるんだ。偶々私は死因の特定を委嘱された医師を一人知っているんだが、死因審問の後彼に会ってね、聞いてみたんだよ。『君たちは男が死んだ原因が判らず当惑しているというが本当なのか?』『え、なんだって? ああ、死因は明らかだよ。無名氏が死んだのは恐怖でだ。恐るべき恐怖だ。これまでの経験でも、あれ程醜く歪んだ死に顔は初めて見た。顔中に死相が現れていた。』 その医師は普段は随分冷静な奴なんだが、その彼が凄い様子になったので私は驚いたね。それ以上のことは何一つ聞きだせなかったよ。当局もまさか男を驚愕死させたなどといってハーバートを訴えるわけにはいかず、とどのつまりは何もしなかった。それでこの事件は人々の記憶から消えていったという次第だ。ハーバートの事で何を知っているのかね?。」

ヴィリヤーズは答えた。「ええ、彼は古いカレッジ時代の友人でした。」

「そんなことを言っていたかな? 彼の夫人を見たことがあるかね?」

「いえ、ありません。ハーバートとは何年も会っていなかったんですよ。」

「それは奇態な。カレッジの門なりパディントンなりを一緒に出た男が、何年も会わず、次に会った時はこんな変な所に顔を出したというわけか。しかし、ハーバート夫人は見てみたいものだな。彼女に関しては強烈な話がある。」

「どんな話ですか。」

「うん、どういったら良いかわからないな。警察で彼女を見た人は皆、一見最高の美人だが、同時にこれまで見た中で最もぞっとする人物だと言っていた。彼女に会ったという男と話してみたんだが、彼女のことを描写しようとする時、猛烈に震えていたよ。彼にも理由が判らないということだった。彼女は一種の暗号(*11)みたいなものだったようだね。かの死者が話せるならば、普通じゃないくらい妙な話をしてくれるだろう。それでもって、別のパズルもある。どうして無名氏(君が気にならなければこう呼ぼう)のような名誉ある英国紳士が20番地みたいな奇天裂な家にいったかだ。一体、どちらも随分変梃な事件じゃないかね?」

「オースティン、確かにそうですね。ちょっとそこらにはない事件です。自分の古い友人の話を持ち出した時は、まさかこんな変わった一撃を食らうとは思いませんでしたよ。そろそろ行かなければなりません。さようなら。」

ヴィリヤーズは出て行った。自分で思い付いた中国の箱の喩えについて考えながら。この箱、確かに妙な仕掛けになっている。

IV. ポール街での発見

ヴィリヤーズがハーバートと会った日から数カ月後、クラーク氏はいつものように夕食後暖炉のそばに座って、断固として、例の書き物机に向かうという魅力から身を遠ざけていた。一週間以上に渉って例の「備忘録」から離れることに成功していたのであり、願わくば完璧な自己改革を成し遂げたいと思っていた。しかしその野心にもかかわらず、最後にものした事件が引き起こした不思議、奇妙な気持を抑えることができなかった。彼は未確認の話として、その事件、あるいはむしろその概略を友人の科学者に伝えたことがある。友人は首を竦めた。そのことを考えクラークは身震いした。さて今夜、クラークはこの話に何か合理的な説明を付けられないかと努めていたのだが、ふいに扉をノックする音が聞こえ、彼は瞑想から醒めた。

「ヴィリヤーズめがお顔を拝見しに参りました。」

「おや、ヴィリヤーズ、よく来てくれたね。何ヶ月も見なかったね、ほとんど一年だね。来なさい来なさい、どうしているかね? 何か投資の相談でも?」

「いえ、違います。そちらの方面は全く問題がないみたいです。そうではなくて、実は今になって気になっているかなり変な件について相談させていただこうかと。ずいぶん馬鹿げた話だと思うかもしれません。自分でも時々そう思いますし、それでこちらに寄らせてもらおうと決めたわけでして、貴方は実際的なお方ですから。」

ヴィリヤーズ氏はかの「悪魔の存在を実証する備忘録」を知らないのである。

「なるほど、ヴィリヤーズ、何かアドヴァイスを差し上げられるといいのだけれど。最善を尽しましょう。どのような性質の事件なのかな?」

「実にけったいなものですよ。私がどんなか御存知ですね、街に常に目を光らせて、暇な時には誰か変わった奴や変わった事件に会わないかと思っているんです。それでもこれ程のはありませんでしたよ。三ヶ月位前ですが、ある気分の良い冬の宵にレストランから出たところだったんです。最高の夕食と良いキアンティでしたよ。ちょっとした間歩道に立って、ロンドンの街とそれを歩く人々は何というミステリなのかと考えていたんです。赤ワインも効いていましてね。文庫本の一頁(*1)くらい叫んでみせようかとしていたところを、後ろに来た乞食に止められました。乞食は普通に右や左の旦那様をしたんです。もちろん私は周りを見回して、そうしたらその乞食というのが昔の友達の成れの果てで。ハーバートというんです。どうしてこんなボロボロな状態に落ち込んだのか聞きました。長くて暗いソーホー街を行ったり来たりしながら、その話を聞きました。彼が言うには、数歳若い美しい娘と結婚し、その彼女に身も心も滅ぼされたと。細かい点は教えてくれませんでしたね。見聞きした事が昼夜を問わず彼に祟って、その内容を話すのはとても耐えられないと言って。顔を見ると、真実を語っていると判りました。その男には何か震え上がらずにはいられないものがあったんです。どうしてかは判りませんが、確かにありました。少し金(かね)を持たせて送りだしてやりました。本当に、彼が行ってしまって私は胸をなで下ろしたんです。彼がいるだけで血が凍る思いでした。」

「ちょっとそれは想像力が強過ぎないかな、ヴィリヤーズ。その哀れな友人は軽率な結婚をして、平明な英語で言えば、ポシャってしまった(*2)と。」

「まあ、これを聞いて下さいよ。」 ヴィリヤーズはオースティンから聞いた話を伝えた。

彼はまとめた。「そうですね、少なくとも疑問が残る点は、誰であろうと無名氏が激しい恐怖が原因で死んだということです。何か寿命が縮まるほど怖いもの、恐ろしいものを見たんですよ。彼が見たもの、見たと確実に思われるもの、はその家の中にあった。その家はどうしたわけか近所の評判が悪かった。好奇心から自分でもその場所に行ってみたことがあります。あれは悲しくなるような街です。古すぎてみすぼらしく悲惨な家、でも面白くなる程古びてはいない。見た限り、ほとんどは家具ありなしを問わず間貸しをしなければやっていかれず、扉に三つの呼鈴がついていて。そこここで一階を退屈な店にしていました。あらゆる意味で寂れた街。20番地は空き物件だったので、不動産屋に行って鍵を借りました。もちろんその事務所でハーバートの話は聞きませんでした。しかし、その時に真面目で畏まった事務員に彼等がここをどれくらい長く空家にしているか、他の借主はどうだったのか聞いてみましたよ。一分間も私を変な目で見て、事務員呼ぶ所の不愉快な件の後、ハーバートはすぐに去り、それ以来ずっと空家だと。」

ヴィリヤーズ氏は少し呼吸をおいた。

「私はいつも空家というのが割と好きでした。なんというか魅力がありましてね、見捨てられた部屋、壁の釘跡、窓枠の上に積もった埃。でもポール街20番地に行った時は駄目でしたよ。廊下に足を踏み込むのも一苦労でした。家の中に妙に重苦しい空気があるんですよ。どんな空家も風通しのわるいものだというのはもちろんですが、それは何かまるで違う感じだったんですよ。うまく言えないのですが、呼吸が止るような感じでした。表の部屋にも奥の部屋にも、階下の台所にも入りました。御想像通り汚くて埃だらけ。でもそれら全てに何か奇妙なものがあったんですよ。それが何かははっきり定義できず、何か変な感じだったんです。その中でも、二階のある一室でしたが、そこが最悪でしたね。だだっ広い部屋で、壁紙も昔はそれこそ可愛らしかったんでしょうが、その時はもう塗装も壁紙も全てがこの上なく寂しげで。が、その部屋は恐怖で溢れていたんです。扉に手をかけると、それでもう歯がガチガチいうんですよ。中に入ると、失神して倒れるかと思いました。それでも、気合いを入れて、突き当たりの壁に向かって立ちました。一体全体この部屋の何がこんなに足を震えさせて、心臓の鼓動を死にそうな状態にまでするのだろうかと思いながら。ある隅の方の床に新聞紙の束が散らかしてあって、それに目を付けました。三年から四年前の物でしたが、半ば裂けているのや、箱の詰め物にしたみたいに丸めてあるのがありました。それらを全部ひっくり返してみると、中に変わった線画があったんですよ。今お見せします。が、その部屋には留まっていられませんでした。圧倒されそうな感じがしたんです。外に出てほっとしました。安全で健全な外の空気に触れて。歩いていると街の人が私をじろじろ見ましてね、こいつは酔っぱらってるのか、と言っている人もいました。歩道のあっちからこっちへとふらふらするんです。なんとかかんとか不動産屋に鍵を返して帰りました。一週間寝込みました。医者が言うには精神的なショックと疲労のせいだと。その間のことですが、夕刊を読んだら、ある記事に気付いたんです:「餓死」というタイトルの。ありがちなタイプのですね。マーライボーンの貸し間見本(*3)で何日も鍵が掛ったままのドアがある。ドアを破って入ってみると死んだ男が椅子に座っていた。記事は続けて『故人は、チャールズ・ハーバートとして知られた人物で嘗て富裕な地方地主と信じられていた。彼の名前は三年前に起きたトッテンハム・コート・ロード、ポール街での謎の死と関連づけられ巷間に広まった。故人が借用していた20番地の家の勝手口に地位のある紳士が死体となって発見された。その死を巡る状況はいまだ憶測の域を出ていない。』 悲劇的な結末じゃありませんか。しかし、結局、彼の言った事が真実ならば、私はそうだと確信していますが、掲示板に出て来る行き倒れ(*4)よりも奇妙な悲劇ですよ。」

クラークはむっつりと言った。「話はそれだけかな?」

「そうです。これで全部です。」

「そうかね。実際の所、ヴィリヤーズ、あまり言うべき言葉を思い付かないのだが。一見奇妙に思える事件だが、状況に疑わしいものはない。例えばハーバートの家の勝手口で死んでいた男の所見や医師の尋常ではない意見だが、結局のところ、実際に起きた事は単純明解な方法で説明しうるのではないかな。君自身がその家に行った時の感じにしても、生々しい想像によるものではないかと思う。君は思い込み過ぎていたに違いない。無意識のうちに、自分で聞いたものから想像したんだ。他にはこの事件で確実に言える事やできる事はないようだ。バーバートの死をおいても、君は間違いなく何かの謎があると思っているようだが、それでは何を見つけたいのかな?」

「その女を探してはどうでしょう。彼が結婚した女です。彼女は謎ですよ。」

二人は黙って炉端に座っていた。クラークは堅気の態度を維持する事ができたことで秘かに自分を讃え、ヴィリヤーズは自分の暗い空想に耽った。

「ちょっと一服しましょう。」 ヴィリヤーズはやっとそう言うと、ポケットに手を入れ煙草の箱を探った。

「ああいけない、」彼はいささか慌てて、「貴方にお見せするものがあったんだ。ポール街の家で実に妙なスケッチを古新聞の束から見つけたと言ったでしょう、これがそれです。」

ヴィリヤーズは小さくて薄い包をポケットから取り出した。茶色の紙で覆われ、紐で固く縛ってあって、ほどくのが面倒そうだった。ヴィリヤーズが苦闘しながら紐をほどき表の紙を開けるのを見て、クラークは思わず好奇心にかられ、椅子から乗り出した。中にはさらに薄絹の包みがあり、ヴィリヤーズはそれを開けると小さな紙切れを取り出して、無言でクラークに渡した。

五分間かそれ以上にわたって部屋は死んだように静まり返った。二人の男はじっと座り、部屋の外、ホールにある古風な背の高い時計がチクタクという音すら耳にする事ができた。一人の男の心に、ゆっくりとした単調な音が甦った。遠い、遠い思いでの。彼はペンとインクで女性の頭部を描いた小さなスケッチに見入った、明らかに真の芸術家が丹誠込めて描いたもので、その両の目から、奇妙な微笑みに開かれた両の唇から女性の魂が透けて見えた。クラークはなおもその顔から目を離さなかった。遠い昔のある夏の夕べが思い出された。彼の脳裏に再び美しい渓谷が浮かび、丘々を縫う川が、牧草地が小麦畑が、重苦しい夕陽が、川から上る冷たく白い靄が見えた。何年も耳を離れなかった声を聞いた。「クラーク、メアリはパンの神を見るんだぞ!」。 彼は今まさに残酷な部屋の中で、博士の脇に立っていた。重苦しい時計のチクタク音を聞きながら、待ち見つめていた、ランプに照らされ緑の椅子に横たわった姿を見つめていた。メアリは起き上がった、その目を見た時彼の心臓は凍えたのだ。

「誰だこの女性は。」 漸く彼は言った。乾いた嗄れた声だった。

「ハーバートが結婚した女です。」

クラークはスケッチを見た。やはりメアリではない。メアリの面影ははっきりしているが、何か違うもの、メアリには見られなかったものがある。純白に纏った娘が博士と共に実験室に入ってきたあの時にも、恐るべき覚醒のあの時にも、病床でにやにや笑っていたあの時にも。それが何であるにせよ、その両眼、そのくちびる一杯の微笑、顔全体の表情を一目見ただけでクラークは心の底から震え上がり、それと知らぬ間に「これほど凶悪性というものを生き生きと感じさせられる描写には、それまで出会った事がなかった」というフィリップス博士の言葉を思い浮かべた。手の中の紙を機械的に裏返し、裏をちらっと見た。

「大変だ! どうしたんですクラーク、死体みたいに白い顔色ですよ。」

クラークが紙を取り落とし、うめきながら椅子に倒れ込むのを見て、ヴィリヤーズは椅子から急いで立ち上がった。

「あまり調子がよくないんだ、ヴィリヤーズ、ときどきこういう発作が起きるんだよ。ぶどう酒を少しとってくれないかな。ああ、ありがとう、これでいい。数分もすれば気分が良くなるはずだ。」

ヴィリヤーズは落ちた紙を拾い上げ、クラークがしたように裏がえした。

「これを見たんですね。それでこのポートレートがハーバートの奥さん、未亡人と呼ぶべきかな、のだと分かったんですよ。具合はどうですか。」

「良くなった、ありがとう。ちょっとくらっとしただけだ。君の言う事を十分理解できていないのかもしれない。どうしてこの絵が彼女だとわかったのだって?」

「裏にあるこの言葉 — 『ヘレン』 — ですが。彼女の名前がヘレンだと言いませんでしたっけ。そうです、ヘレン・ヴォーンというんです。」

クラークは唸った。最早何の疑いもあり得ない。

ヴィリヤーズは言った。「さて、どうも私の言う事に納得していただけないようですね。今晩お話した物語や、そこでこの女性が演じた役割には何か大変異常なものがある、という点について。」

クラークは口籠った。「ああ、確かに奇妙な話だ。確かに奇妙な話だよ。考える時間をくれないか。君のためになるかどうか判らないが。そろそろ行くのかい? そうか、おやすみ、ヴィリヤーズ。一週間位したらまた来てくれ。」

V. 忠告の手紙

「ねえ、オースティン、」 ある気分の良い五月の朝、友人とピカデリーをゆっくり歩きながらヴィリヤーズは言った。「以前貴方は、ポール街やハーバートはある異常な歴史の一挿話に過ぎない、と言ってましたよね、そのことを考えていたんです。貴方を信頼して話すのですが、数カ月前ハーバートの話をした、その直前に僕は彼と会っていたんですよ。」

「彼と? どこでかね?」

「彼はある夜、私に物乞いしてきたんです。哀れ極まる窮状でしたが、彼だとわかりました。何が起きたのか、少なくともアウトラインを話してもらいました。簡単に言えば、結局 — 奥さんに滅ぼされたと。」

「どんな風に?」

「それは教えてくれませんでしたね。彼女に身も心も破壊されたというだけで。その男は死んでしまいましたよ。」

「彼の奥方というのはどうなったのだ?」

「ああ、それは私も知りたい点で、遅かれ早かれ探し出しますよ。私はクラークという人物を知っていまして、堅物でね、仕事の鬼ですね、しかし洞察力があって。商売が上手いだけではなくて、人間と人生の何かを本当に知っている人なんですよ。ええ、この前彼にこの事件を持ち込んだんですが、間違いなく強い印象を与えたみたいです。考えさせてくれ、と言って、一週間後にまた来るよう言うんですよ。数日後、この妙ちくりんな手紙がきました。

オースティンは封筒を手に取り、中身を取り出し、興味津々といった様子で読んだ。こんな内容である :—

「親愛なるヴィリヤーズ、私は先日の夜相談された件についてよく考えました。これが貴君への忠告です。ポートレートを焼き捨て、話を全て心から追い払いなさい。これ以上何も考えないことです。ヴィリヤーズ、そうしないと貴君は後悔する事になるでしょう。貴君は間違いなく、私が何か秘密を知っていると思うでしょうが、それはある程度事実です、しかしながら、私の知っている事はわずかです。谷底を覗き、怖くなって後込みした旅人のようなものです。私は十分奇怪で十分恐るべきことを知っていますが、まだそこには更なる深み、更なる恐怖、いかなる冬の炉端語りよりも信じがたいものがあるのです。私は決心しました、これ以上何も探らない事をです。何物もこの決意を揺るがす事はできません。もし貴君が自分の幸福を重要視するなら、同じ決定を下すでしょう。

是非また来て下さい。今度はもっと楽しい話をしましょう。」

オースティンは丁寧に手紙を折って返した。

「これはまた奇怪千万な手紙だな。ポートレートというのは何かね。」

「あっ! その事を話してませんでしたね。ポール街に行って見つけてきたんですよ。」

ヴィリヤーズはクラークにしたようにその話を聞かせた。オースティンは無言でそれを聞いた。狐につままれたようだった。

「なんとも変な話だな! 問題の部屋でそのような不快な感じを受けたというのは。」 しばらくして彼は言った。「単なる想像力の問題とは到底思えない。要するにぞっとしたわけだ。」

「いいえ、精神的というより、物理的な感じだったんです。呼吸する度に何か死臭を嗅ぐようでした。それは体中全部の神経、骨、腱といったものに染込んでくるようで。頭の先からつま先まで拷問に掛けられるみたいで、目も段々暗くなって行きました。死への入り口みたいでしたよ。」

「そうか、そうか、大分妙な話だな。君の友人は、この女性と関連した何やら極めて暗黒な物語があると告白したのだね。君が話をしている間、何でもいいが特別な情動は見られたかね。」

「ありましたよ。真っ青になりました。そう言う発作が起きる病気持ちであるに過ぎないと念を押していましたけれど。」

「信じたのか?」

「その時は。今は違いますね。私が話している間は格別変化がなかったのですが、ポートレートを見せたら、とたんに今言ったような痙攣発作を起こしたというわけです。幽霊みたいになっていましたよ、本当の所。」

「すると、この女性を前に見た事があるに違いないな。他には、顔ではなく名前をよく知っていたという可能性もある。どうかね?」

「なんとも言えません。確信を持って言えるのは、ポートレートを裏返した後で、それこそ椅子から落ちそうになったということです。ええと、裏に名前が書いてありまして。」

「なるほどそうか。結局の所、こういった事件は解決不可能なものだな。私はメロドラマは大嫌いだし、そこらで売っている普通の怪談程陳腐で退屈なものはない思っているが、ヴィリヤーズ、この件の奥底には余程変わっった何かがあるように見える。」

それと知らぬ間に二人はピカデリーを北に抜け、アシュリー街(*1)を上っていた。長く、どちらかというと陰鬱な街である。それでも、暗い二階建の家々のあちこちに花が飾られ、陽気なカーテンが見え、愉快な絵が扉に描かれ、明るい色を添えていた。オースティンが話をやめた時、ヴィリヤーズはちらりと目を上げ、その種の家の一つを見た。赤や白のゼラニウムが窓枠という窓枠から下がり、窓には喇叭水仙色のカーテンが優美な襞を見せていた。

「楽しそうですね。」

「ああ、中はもっと楽しいぞ。この時期最も愉快な家の一つだと聞いたな。自分では入ったことはないが、何人もそうしたことのある男に会ったよ。別天地のような楽しさだそうだ。

「誰の家ですか?」

「ボーモン夫人(*2)だ。」

「何者です?」

「知らないな。なんでも南米から来たそうだが、結局彼女が何者かは大して重要ではない。間違いなく物凄い金持ちだそうだぞ。トップクラスの人達からの引き立てもある。凄いクラレットを持っていて、実際見事なぶどう酒で、途方もなく高価なものらしい。アルゼンチン卿(*3)がいつもそのことを言うんだ。彼はこの前の日曜日の夜そこに行った。こんな素晴しいぶどう酒を飲んだ事はないと力を込めて言っていたな。彼がぶどう酒通なのは知っているな。ともかくだ、私にとって印象的だったのが、彼女というのは相当変わり者に違いないということだね、このボーモン夫人は。アルゼンチンがそのぶどう酒は何年物なのかと問うたら、何と答えたと思うね? 『一千年程ではないかと思いますわ。』だそうだ。公は彼女がからかって言っているのだと思ったが、彼が笑った時、なんと彼女は、真面目に申し上げているんです瓶をお見せいたしましょうかと言ったんだそうだよ。もちろん、彼は何も言えなくなってしまった。しかし、いくらなんでもそんなに古い酒があるものかね。おお、私の部屋に着いたぞ。入るかね?」

「ありがたくそうさせていただきます。しばらく好奇の館を拝見してませんので。」

その部屋には沢山の家具があった。そればかりか、あらゆる瓶や本箱やテーブル、さらにはあらゆるガラクタや瓶や飾り物がてんでばらばらに、各自の個性を主張しているかのようであった。

「最近何かウブいのは?」 しばらくしてヴィリヤーズは言った。

「駄目だねえ。ないなあ。あれらの変わったジョッキはどうかね。見た事があるかね。あるか。そうだと思ったぞ。この数週間というもの全くの不漁だったなあ。」

オースティンはカバードからカバードへ書棚から書棚へと部屋を見回し、なにか新しい変なブツがないか探した。ついに部屋の隅の暗がりにある、明るく古風に彫りこまれた変わった箪笥に目を留めた。

「おっと、これを忘れる所だった。見せようと思っていたものがあるのだよ。」 オースティンは箪笥の鍵を開け、厚い四つ折りの本を取り出した。それをテーブルにのせ、いったん下に置いた葉巻きを吸った。

「アーサー・メイリック(*4)という画家を知っているかね、ヴィリヤーズ。」

「少しは。友人の家で二三度会いましたよ。どうしたんです? そういえばこのところ名前を聞かないな。」

「死んだ。」

「まさか! あんなに若かったのに?」

「その通り、死んだ時にはたった30だった。」

「なにが原因だったんですか?」

「判らんね。彼とは親しかった。ずっといい奴だったよ。いつもここに来ては何時間も喋ったものだが、あれ程の話し手はおらんかったな。絵の話もできる男だった。他の多くの画家以上だったよ。18ヶ月程前、過労気味だというのと、一部には私の勧めもあって一種の放浪の旅というのに出たんだな。大してはっきりした終点も目的もなかったのだよ。最初に寄港したのはニューヨークだと思うが、連絡はなかった。三ヶ月前、私はこの本を受け取ったのだ。これと一緒に、ブエノス・アイレスで開業している英国人の医師からの大変礼儀正しい手紙が付いてきた。臨終に近い頃、メイリック氏の病気を診ていたと言っている。故人は死後この小包を貴殿に送られたしと心より懇願しておりました、と。それで終わりだ。」

「もっと何かあったか、手紙で聞いてみましたか?」

「そうしようかと思っていた所だ。その医師に手紙を出した方が良いと思うかね?」

「間違いなく。本はどんなです?」

「受け取った時には封印されていた。医師は見ていないんじゃないかと思う。」

「何かのレアものですか? メイリックはコレクターだったんでしょうね。」

「いや。そうじゃない。コレクターとは違う。さてこのアイヌの花瓶はどうかね。」

「変わってますね。でも好きだな。それで哀れなメイリックの遺品については見せてくれないんですか?」

「わかったわかった。見せてあげよう。実際の所、相当奇妙なものなんだよ。誰にも見せた事がない。もし私が君の立場だったら、これのことは何もいいたくなくなると思うよ。ほらこれだ。」

ヴィリヤーズは本を取り上げ、適当な所を開いた。

「印刷されたものではありませんね。ということは?」

「そうだよ、我が哀れな友人メイリックが描いた白黒の線画集だ。」

ヴィリヤーズは最初の頁に戻った。それは白紙であった。次の頁には短い碑文があった。彼の読む所:

Silet per diem universus, nec sine horrore secretus est; lucet nocturnis ignibus, chorus Aegipanum undique personatur: audiuntur et cantus tibiarum, et tinnitus cymbalorum per oram maritimam.
(昼は彼鎮まり返れども、世は尚恐れから解かれ得ず。夜ともなれば炎と輝き、四方より響く牧神の歌高らかけく、呼ばう笛と銅鑼の音ぞ海辺にても聞こゆなれ。(*5)

三頁目の絵を見てヴィリヤーズは驚きオースティンを見上げた。彼はぼんやりと窓の外を眺めていた。ヴィリヤーズは頁を次々に繰った、吸い込まれるように、我を忘れて、恐るべきワルプルギスの悪魔の夜、奇怪にして醜悪な悪、死んだ芸術家がそれらを硬調な黒と白で描き込んだもの。フォーンがサテュロスがアイギパンが目の前に踊った。最暗黒の闇の中、山上の踊り、ひっそりとした海辺、緑の葡萄畑、岩と砂の地、それらが目の前を通り過ぎた。見る人の魂を縮め震え上がらさずにはおかない世界。ヴィリヤーズは残りの頁をざっと飛ばした。もうこれで十分だ。だが、本を閉じようとした時、最後の一枚にあった絵が目を惹き付けた。

「オースティン!」

「うん、どうした?」

「これは誰か、知っていますか?」

女性の顔が白い頁にぽつんとあった。

「知ってるかって?それが誰だと? 知らないな。もちろん知らない。」

「僕は知ってる。」

「誰だ。」

「ハーバート夫人。」

「本当か?」

「絶対に間違いありません。可哀想なメイリック! 彼も彼女の過去の別の一頁だったとは。」

「絵についてはどう思う?」

「恐るべきものですね。オースティン、本をしまってまた鍵をかけといて下さいよ。私だったら燃やしてしまいます。箪笥の中においといても恐るべき隣人ですって。」

「確かに。他にはないような絵画だね。それにしても、メイリックとハーバート夫人、ハーバート夫人とこれらの絵を結ぶといっても、一体どんなものがありうるのだろうか。」

「ああ、誰が知ってるでしょう? もしかするとこれで一件は終わり、もう判らない、のかも知れませんが、私の意見ではヘレン・ヴォーンというかハーバート夫人というかは単なる始まりに過ぎないと思いますよ。彼女はロンドンに舞い戻るでしょう。オースティン、決まってますよ、戻ってきます。その時もっと色々彼女の事を耳にするでしょうね。それが喜ばしいニュースになるか、私は疑っているんですよ。」

VI. 自殺

アルゼンチン卿はロンドン社交界きっての人気者であった。二十歳の時、彼は貧しい男であり、著明な家名を纏ってはいたものの、生活の為に必死になって稼がなければならなかったのである。彼は常々自らの名前を地位のあるものにし、貧困を明るい未来へと変えたがったが、ほとんどの金融業者の投機係は50ポンドすら貸さなかった。彼の父親は良き物の泉に十分近かったので、いっぱしの家庭を持つ事ができた。しかしその息子は仮に聖職についたとしても、それ程のものを手に入れる事はほとんどできないと思われ、第一、聖職者階級の使命感もなかった。かくして彼はただ学士の衣と若い息子の孫息子の機転だけを武装して世界に立ち向かい、かくの如き装備でなんとかそいつとの持久戦を戦い抜いてやろうとしたのである。25才の時、チャールズ・オーベルノン氏(*1)はまだまだ世界相手の激戦の最中と思っていた。しかし彼より先に生まれ家庭内の序列が高かった七人の内、残っているのは三人だけであった。ところが、これら三人は『良い生活をして』いたが、当時はまだズールー人の槍(*2)と腸チフスを防ぐ手段がなかった。それである朝オーベルノンが目覚めてみると、命を懸けた戦いに直面し勝利した三十歳のアルゼンチン卿になっていたのである。この状況は彼を大いに楽しませた。そこで彼は、これまで貧乏暮らしがそうであったように、富裕生活も愉快なものにしてやろうと決意した。若干の思索の後、アルゼンチンは結論に至った。美食は芸術と比肩するものであり、思えらくその追求こそ堕落したる人間性の前に残された最高の娯楽である。しこうして彼の夕食はロンドンで有名になり、その席に招かれることは熱望の対象となったのである。卿となり美食を追求して十年の後も、いまだアルゼンチンは衰える事を拒否し、人生を謳歌していた。一種の伝染病のような具合で、人々の間で楽しみの源泉のように思われていったのだ。簡単に言えば最高の仲間と思われたのである。それゆえ、彼の突然の悲劇的な死は広汎かつ深いセンセーションを巻き起こした。人々は街を鳴らして行く「貴族の謎の死!」という呼び声を聞き、新聞を目の前にしてさえ、とてもそれを信じられなかった。が、そこには短い記事があった。「本日の朝アルゼンチン卿が悲しむべき状況の下死体となって従者により見つけられた。動機は全く不明であるが卿が自殺したる事は疑うべくもないとのことである。この逝去された貴族は社交界に広く知られ、快活なる性格と壮麗なるもてなしによって好まれていた。遺産継承者は」云々。

次第に詳細が判ってきたものの、事件はなお謎に包まれていた。死因審問での主な証人である故人の従者は、死の前夜、アルゼンチン卿はある地位の良い女性と夕食を共にしたと証言した。その女性の名前は新聞では隠されていた。およそ十一時に帰ってくると、アルゼンチン卿は従者に朝まで下がって宜しいといった。少しして従者がたまたまホールを横切った際、主人が黙って表の扉から出ていくのを見ていささか驚いた。イブニングを脱いで、ノーフォークジャケット(*3)とニッカボッカーズを着、低い茶色の帽子をかぶっていた。アルゼンチン卿は従者には気付いていないようだったし、主人が夜更かししない方だと判っていても、翌朝、いつものように8時45分に寝室の扉をノックするまで事件が起きたとは思わなかったのである。返事はなかった。二三度ノックした後、部屋に入りアルゼンチン卿の身体が寝台の下から前に倒れ掛っているのを見た。彼が発見した所によると、主人は短い寝台支柱の一つにきつく紐を結び付け、引き結びの輪縄を作って、その中に首を入れた。そこで不幸な男は決然と前に倒れ、じわじわと絞扼され死んだにちがいないのである。出て行く時に従者が見たのと同じ軽装だった。往診に呼ばれた医師は、少なくとも四時間前には生命を失ったと宣告した。書類や手紙の類いはすべて完璧に整頓されており、大小をとわず、どんなスキャンダルの気配も見つけられなかった。証拠はこれで全てで、他には何も見つけられなかった。オーガスティン(*4)卿の夕食会には何人かが招かれ、彼等によると卿はいつも通り快活であったとのことである。従者は確かに、主人が帰宅した際いささか興奮ぎみに見えたと言っていたが、特に変わりなく確かにいつも通りの様子だったと白状している。どんな手掛りも見つかりそうになく、アルゼンチン卿は急性の自殺嗜好を突発したのではないかという思いつきが一般に受け入れられた。

しかしながら、三週間の間に新たな三人の紳士がほとんど同じ方法で惨めな非業の死を遂げるに至って、そうはいかなくなった。その一人は貴族で二人は地位の高い大資産家だった。スワンレー卿はある朝ドレッシングルームで壁に打ち付けた掛け釘から垂れ下がっているのが見つかり、コリアー・スチュアート氏とヒーリース氏(*5)はアルゼンチン卿と同様の死に方を選んだ。いずれも説明が付かなかった。わずかに明白(*6)なことは、夕べに生きていた男が、朝には黒く腫脹した顔を伴った身体で見つかるということに過ぎなかった。警察はホワイトチャペルでの汚い殺人を抑止し説明することに対し無力であることを告白していたが、ピカデリーおよびメイフェアでの恐るべき自殺を前にして驚き、告白すらできない有り様であった。単なる狂暴性というのは、イーストエンドでの犯罪を説明する時には便利に用いられるが、ウェストエンドではそれすら通用しないからである。苦しく恥多い死を選んだこれらの男は皆豊かで、成功者で、世の中を気に入っているように見えた。大急ぎで調査を行なっても、どの事件においても、いかなる隠れた動機も割りだせなかったであろう。恐怖の空気が広がり、二人の男が顔を見合わせると、どちらも相手が第五の名もなき悲劇の犠牲者になるのではないかと疑った。ジャーナリストは追憶の記事をでっち上げるためのネタを探してスクラップブックを漁ったが、無駄に終わった。多くの家で、朝刊を広げるのを恐れるようになった。次の一撃がいつどこで降り掛かって来るのか、誰にも判らなかったのである。

これらの怪事件から少しして、オースティンはヴィリヤーズ氏を訪ねた。クラークや他の情報源を通じてハーバート夫人の尻尾を掴む事ができたか知りたかった。腰を落ち着けるやすぐに質問した。

「だめでした。クラークに手紙を書きましたが強情を張ったままですし、他の筋も試してみましたが結果が出ませんでした。ヘレン・ヴォーンがポール街を出た後で何になったのか判りません。多分海外へ高飛びしたんでしょうね。でも、実を言ってオースティン、ここ数週間というもの、この件にあまり頭がいかなかったんですよ。哀れなヒーリーズを良く知っていて、ひどい死に方をしたのがえらくショックだったんです。ひどいショックでした。」

オースティンは重々しく答えた。「良く判るぞ。アルゼンチンは私の友人だったのだよ。記憶が正しければ、君がうちに来た日、彼の話をしたな。」

「ええ、アシュリー街の家がらみでしたね。ボーモン夫人の。アルゼンチンの夕食会の話題をしてましたよ。」

「まさにそれだ。アルゼンチンがその — 死んだ前夜に夕食をとったのがそこなのだよ。」

「えっ、その話は聞いていませんが。」

「おお、ボーモン夫人に迷惑がかからないよう新聞には名前を出さなかったからな。アルゼンチンは彼女が大層お気に入りでね、あの後しばらく彼女は大変だったそうだ。」

ヴィリヤーズの顔に悪戯っぽい表情が浮かんだ。話をするかどうか迷っているようだった。オースティンは話を接いだ。

「アルゼンチンの死についての記述を読んだ時に感じた程の恐怖は初めてだ。当時も今もさっぱり判らん。判っているのは、彼は元気だったこと、彼 — や他の事件の当事者 — が、かくも血も凍るような恐るべき死を選ぶ理由など、理解を越えてるという点だけだ。ロンドンでは皆が他人の性格について間断なくおしゃべりしている。こんな事件があったとなると、何かスキャンダルがあれば埋葬しようが骨まで焼こうがそれは露見するに違いないのだ。だが、だ、その種の物は何も現われんのだよ。自殺マニア説について言えば、大変結構なものだな。もちろん検死陪審の中でだが。そんな説に何の意味もないことは、誰でも判る。自殺マニアは天然痘ではないぞ。」

オースティンは憂鬱な沈黙へと再び引きこもった。ヴィリヤーズもまた友人を見ながら黙って座っていた。優柔不断な表情がなおも顔に漂い、自分の考えを秤に乗せ、熟慮した結果沈黙を守る事にしているかのように見えた。オースティンは身を震わせ、悲劇の記憶を振るい落とそうとしたが、ダイダロスの迷宮に孤立無援で迷っているかのようであった。そこで無頓着な声でこの季節のもっと楽しい出来事や冒険について話し始めた。

「今話していたそのボーモン夫人だがね、凄い成功をおさめているぞ。ロンドンを席巻しているといっていいな。この前、フルハム(*7)のところで彼女に会った。実に非凡な女性だな。」

「ボーモン夫人に会ったんですか?」

「ああ。ほとんど親衛隊(*8)が周りにできていたな。彼女は容姿端麗というべきだと思うが、しかし何か気に入らないものが顔にある。容貌は大変結構だが、表情が変わっている。彼女を見ている時も、家に帰った後も、その表情はどこか私の知っているものだという奇妙な感じがしていたんだよ。」

「町中で見た事があるのでしょう。」

「そうじゃない。それ以前に見た事は一度もなかった。だから悩んでしまうのだが。間違いなく、似た女性すらこれまで見た事がない。暗くてはっきりしない、ある種の記憶がある感じなんだ。漠然とはしているが、いつまでも消えずに残っている。夢の中で幻想の都市や不思議の地や幻影の人物を見て、それが見なれたものに感じられることがあるだろう、私が感じたのは唯一、あの変な感じに似ている。」

ヴィリヤーズはうなずき、恐らく何か話題を変えられるものがないかと思い部屋の中にあてもなく視線を彷徨わせた。あの芸術家の変わった遺品はゴチック様式の盾の下にして箪笥の中に隠してあるが、古い箪笥の一つがそれに似ていた。

「可哀想なメイリックのことで医師に手紙を書きましたか?」

「書いたよ。病気と死について何か特別なことがあれば全部教えてくれと書いた。返事をもらうまであと三週間か一月はかかるだろうな。他にもメイリックがハーバートという名前の英国人を知っていたか聞いた方がいいかもしれない、そうすれば医師から彼女について何か聞く事ができるかもしれない、とは思ったが、メイリックが彼女に捕まったのはニューヨークかメキシコか、それともサンフランシスコかというのもありそうだ。どのくらいの範囲で、どこに向かって旅行したのか思い付かないのだよ。」

「ええ、その女はいくつもの名前を持っている可能性が高いのですし。」

「まさに。君の持っている例のポートレートを借りる事を思い付いていればなあ。マシューズ医師への手紙に同封すれば良かったのだが。」

「確かにそうすれば良かったかもしれませんね。私も全然思い付きませんでした。これから送りましょうか。あれ、何か聞こえる! 男の子達はなんて叫んでいるのだろう?」

二人が話している間に、混乱した叫び声が次第に大きくなってきていた。その物音は東から来て、ピカデリーを飲み込みながら下ってきた。その音の激流はどんどん近付いてきたのである。普段は静かな街中が動揺し、窓という窓から顔を出す人が見え、好奇心と興奮をあらわにしていた。叫び声はヴィリヤーズの住む静かな街にこだましながら近付き、それに連れて次第に内容がはっきりしてきた。ヴィリヤーズが話すと同時に、その回答が歩道から鳴り響いたのだ。

「ウェストエンドの恐怖、またまた惨い自殺だ、詳しいとこまで載ってるよ!」

オースティンは階段を駆け降り、新聞を買うと、記事をヴィリヤーズに読んで聞かせた。その間も、街路の騒動は高く低く続き、開いた窓からは雑音と恐怖で一杯になった空気が入って来るようだった。

「先月よりウェストエンドで猖獗を極める恐るべき流行性自殺の犠牲者にまたも一人の紳士が加わった。ウェストエンド、フルハム、ストークハウス及びデヴォン、キングズ・パームロイ在住のシドニー・クラショー氏(*9)は長時間の探索の後本日一時、自宅の庭木にて縊死したる姿で見い出された。逝去せる紳士はカールトン・クラブにて夕食を摂りし時、通常の健康状態かつ精神状態であるように見えた。クラブをおよそ10時に去りしわずかな後快活にセント・ジェイムス街を歩き上る姿が認められている。その後の行動は不明なり。発見時救命班が招集されたが、既に死後時間を経た事が明らかであった。これまでに知られる限り、クラショー氏にはいかなる種類にせよ紛争や憂慮すべき事態はなかった。記憶されるごとく、この種の痛ましき自殺は先月よりこれまで五件にのぼり、スコットランドヤードの専門家はこれら恐怖の事件に対しいかなる説明を思い付く事にも失敗している。」

オースティンは恐怖に声もなく新聞を置いた。

「私は明日ロンドンを発つ。ここは悪夢の都だ。なんて恐ろしいんだろう、ヴィリヤーズ!」

ヴィリヤーズ氏は落ち着いた様子で窓辺に座り、街路を見ていた。号外売りの声を注意深く聞く顔には優柔不断の色はすでに見えなかった。

「待ってください、オースティン。昨夜起こったちょっとした出来事についてお話しすることにしました。クラショーが最後に生きているのを見られたのは、昨夜の10時過ぎだということになっていると思うのですが?」

「そうだ。確かそうだった。もう一度読んでみよう。うん、君の言う事はまことに正しい。」

「まことに正しい、ですか。私は、ええ、その記事は完全に間違っている、と反対できる立場にいます。確かにクラショーはその後もかなり遅くまで見られました。」

「何故知っている?」

「なぜならば、たまたま今朝の二時頃自分自身でクラショーを見かけたからです。」

「クラショーを見たって? 君がかね、ヴィリヤーズ。」

「はい、はっきりと彼を見ました。確かです。一メートル程も離れていませんでしたから。」

「いったい、どこで彼を見たのかね。」

「ここからそんなに離れていません。アシュリー街です。ある家から出るところでした。」

「それがどの家か、気を付けて見たかね。」

「ええ、ボーモン夫人の家でした。」

「ヴィリヤーズ、自分が何を言っているのか考えてみたまえ。きっと何かの間違いだ。どうしてクラショーがボーモン夫人の家に朝の二時にいられるのかね。そうだよ、そうだ、君は夢を見ていたに相違ない。ヴィリヤーズ、君はかなりの夢想家だからな。」

「いいえ。十分目が醒めていました。貴方のおっしゃる通り夢を見ていたのだとしても、そこで見たもののおかげで目が醒めてしまったことでしょう。」

「何を見たと言うのかな。一体何を。クラショーは変わった様子だったのか? しかし私は信じぬぞ。あり得ない事だ。」

「ええ、もしお望みなら見たものについて、私が見たと考えているものについて話しますが、それを元に御自身で判断することができるでしょう。」

「たいへん結構だ、ヴィリヤーズ。」

時折遠くから叫び声が聞こえるが、街の騒音と叫喚は静まっていた。地震や嵐が去った後の空白のような、重い、鉛のような沈黙であった。ヴィリヤーズは窓から目をそらし、こちらを向き、話し始めた。

「昨夜私はリージェント公園(*10)に近い家にいました。帰り道、何か幻想的な気分になって馬車(*11)に乗らずに歩きたくなったんですよ。とても明るい愉しい夜で、数分後には街が極めて綺麗なものに思えたんです。夜のロンドンで一人きりになるというのは乙なことですよ、オースティン。街灯が遥か遠くまで並び、死んだように静まり返り、そこをけたたましく石を蹴って急ぎの馬車(*11)が通り、蹄が火花を散らす。夜中に外に出てちょっと疲れた感じがしたので結構すたすた歩いて行ったんです。時計が二時を打った頃、帰ろうとアシュリー街を下って行きました。家への道筋だとは御存知ですよね。そこに入ると静かになり、街灯も減りました。なにか冬の林のような暗く憂鬱な感じがしましたね。街を半分くらい過ぎた頃、静かにドアを閉じる音が聞こえ、自然に見上げました。誰か私と同じような変人がこんな時間にいるんだなあと思って。すると、偶々、問題の家のそばには街灯があったんですね、それで階段に立っている男が見えたんです。ちょうどドアを閉めたところで、顔を私の方に向けていました。私にはそれがクラショーだとすぐに分かったんです。彼と話した事はありませんでしたが、よく見かけてましたよ。その男を見間違えていない事には自信があります。その顔を少しの間見ていました。そこで — 素直に白状しますが — 尻尾を巻いて逃げ出したんです。我が家のドアをあけるまで走りっぱなしでした。」

「何故?」

「どうしてかって? それは男の顔を見た時血も凍る思いをしたからです。人間の眼というものから、あんな地獄めいた激情のごたまぜが噴出しうるとは、全然想像する事もできませんでした。それを見て、ほとんど失神しそうになりましたよ。あれは魂を失った者の眼でした。オースティン、人間の外見はしていても、中身は地獄そのものだったんです。荒れ狂う肉欲、燃え上がる憎悪、失われ果てた希望、夜に絶叫するかのような恐怖、彼の歯は固く噛み締められてはいましたが。また、最暗黒の絶望。彼は決して私などを見てはいませんでした。彼は私達に見える物など見やしなかったんです。その代わりに彼が見ていたもの、私達がそれを見なくて済みますように。彼が何時死んだかはわかりませんが、一時間や二時間くらいしかもたなかったんじゃないかと思いますよ。でも、私がアシュリー街を通り、ドアが閉まる音を聞いた時、その男は既にこの世の者ではありませんでした。私が見たのは悪魔の顔でしたよ。」

ヴィリヤーズが話をやめると、沈黙が部屋に流れた。辺りは暗くなり、一時間前の騒ぎも完全に途絶えた。話の終わり頃になると、オースティンは頭を抱え眼を押さえた。

「これはまた、どう考えればいいのだろう。」漸く彼は言った。

「誰に判るものですか、オースティン、一体誰に。暗黒のわざですよ。ですが、ともかく、ここだけの話にしておくべきでしょう。個人的な伝手を使って、あの家について何か探れないか試してみます。どんなものでも探し当てたら、連絡しますよ。」

VII. ソーホーでの邂逅

三週間経って、オースティンはヴィリヤーズからのメモを受け取った。今日か明日の午後会えないかというのだ。早速今日の内に行くこととし、例の如くヴィリヤーズが窓際に座り街路の眠たげな流れを見ながら瞑想に耽っている姿を見つけたのである。幻想的な竹のテーブルが隣にあり、金泥と様々な場面を描いた風変わりな絵によって彩られていた。その上には書類を重ねた小さな山があって、クラーク氏の事務所に優るとも劣らない小奇麗さでまとめられ梱包されているのである。

「やあヴィリヤーズ、この三週間で何か見つけたのかね。」

「そう思います。ここにある一つ二つ程のメモは他にないくらいショックでした。貴方を呼び立てたのは、そこにある記述に注目して欲しいからです。」

「それで、これらの文書はボーモン夫人に関係するというのかね? 君がアシュリー街の例の家の玄関に立っているのを見た男はクラショーに間違いなかったのかね?」

「その件に関してはいささかも考えを変えていませんよ。しかし、私が質問した事や回答を受けた事は、別にクラショーと関係のあるものじゃないんです。でも、奇想天外な問題に辿り着きましてね。ボーモン夫人が誰か、突き止めましたよ。」

「誰か、だと? どんな意味で言っているのかね。」

「貴方も私も別の名前で彼女をよく知っている、という意味ですよ。」

「なんという名前だ。」

「ハーバート。」

「ハーバート!」 オースティンは鸚鵡返しに言うと、驚いて眼を見開いた。

「そうです。ポール街のハーバート夫人、私には未知の過去の事件を起こしたヘレン・ヴォーン。彼女の表情にピンときたのは無理もありません。家に帰ったらメイリックの恐怖の書を御覧になると、記憶の元がわかりますよ。」

「証明できるのか?」

「もちろん、ばっちりできます。私はボーモン夫人、いやハーバート夫人というべきかな、を見ましたから。」

「どこで見たのかね。」

「ピカデリーはアシュリー街にお住みになる淑女が光臨されるような場所ではありませんや。私が見たのはソーホーの品行風評とも最低最悪な街で、とある家に入るところでした。実は彼女とではありませんが、約束しといたんですよ。でもって、彼女は時、所とも几帳面なものでした。」

「それは実にすばらしい、といいたいが、信じがたいと褒める訳にはいかないな。覚えているだろうが、ヴィリヤーズ、私がこの女性を見たのはロンドン社交界の普通の冒険でだった。語り、笑い、彼女のいれたコーヒーを啜った。どこにでもあるような上品な客間(*1)でどこにでもいるような人々と。本当に君は自分の言っていることがわかっているのか。」

「間違いなく。推測にも幻想にも基づくものではありませんよ。私としても、ボーモン夫人をロンドンの暗黒生活の中に探索していたら、ヘレン・ヴォーンに行き着くなど、全く思いも寄らない事でした。でも、これは今や重大な問題点なんです。」

「変な場所に行ったものだな、ヴィリヤーズ。」

「ええ、とても変な場所に行きましたよ。だってね、アシュリー街に行ってもボーモン夫人の前身についての簡潔な描写すら手に入りませんよ。そう、それじゃ駄目なんです。私がそうしたように、こう仮定してみてください。彼女の来歴が綺麗極まるものじゃないとしたら、かつて、現在の暮らしみたいなお上品なものとはまるで違う人々の間に入っていたことがあるはずなんです。川面に泥が浮かんでいるなら、それは間違いなく一旦は底にあったものなんです。私は底まで潜りました。私はね、貧民街(*2)に潜り込むのが好きで、ずっと楽しんできたんです。そこの地域性や住民を知っているのが大変役立ちましたよ。多分言うまでもないことでしょうが、そこの友人はボーモンなんて名前全然知らなかったんです。また、私はその淑女を見た事がないので、どういう風か描写してみせることができませんでした。そこで間接的な遣り口を仕掛ける必要があったんです。私を知っているそこの人達ですね。これまでにも彼等のために一肌脱いだ事があって、それで私に平気で情報を流してくれるんです。彼等は判ってくれているんですよ、私が直接にも間接にもスコットランドヤードにタレ込むようなことをしないと。随分広く網をかける必要がありました。しかし、望むものを入手するまで、魚を釣り上げてみるまで、それが狙っていた魚だとは一瞬たりとも思いませんでしたね。しかし、脈絡のない情報の間にある一つのリンクを構成してみると、なんとそれは大変面白い話になっているじゃありませんか。想像していた通り、探していたのとは違った話になりましたが。こんな次第となったわけです。五、六年程前突然、さっき話した人達の近所にレイモンドという名の女が現れました。大変若く、歳は17、8を超える事はなかろうと思われ、物凄い美貌で、田舎出に見えたとのことです。この特殊地域に来てそこの人達と交わることで、彼女は自分の水準なりの居所を見つけた、と言ってしまうと間違いでしょうね。聞いた所から判断すると、ロンドン最悪の魔窟ですら彼女には過ぎた所だったようです。情報をくれた人物は、御想像の通り、立派な清教徒ではありません。その人物も彼女がしでかした名付けようのない醜行について話す時、がたがた震えて顔色が悪くなって行ったんですよ。そこに一年か多分もうちょっといた後、来た時と同じように突然消え、それ以後ポール街の事件の頃まで姿を見せませんでした。古巣に舞い戻ってきた時にはたまに来るだけだったのが、次第に回数が増え、最後には以前と同じように蜷局を巻くことになり、六から八ヶ月そうしていました。その女が辿り着いた生活については詳しく説明する必要なないでしょう。もし知りたければメイリックの遺品を御覧になってください。あの絵は想像で描いたものではありませんよ。さて彼女はまた行方をくらまし、数カ月前まで見かけられませんでした。私の手の者が言うには、彼にはどこなのか判っているある家に彼女は幾つか部屋を借りていて、週に二三度、決まって朝の十時にやってくるのが慣例だとのことでした。いきおい、何時の日かこのような訪問を捕まえお仕置きをしてあげられる(*3)のではないかと期待するようになったんです。それが一週間前でした。そんなわけで、その地の観光案内人にも手伝ってもらって、なんとか9時45分に見張りに立つことにしました。彼女はいつも厳密にその時間、その場所にくるのですから。友人と二人でアーチ道の下に、道から少し奥まって立っていました。それでも彼女は私達を見、長い事忘れかけていた眼差しを向けてきたんです。その一目で十分でした。私にはミス・レイモンドとハーバート夫人が同一人物だとわかりました。ボーモン夫人に関しては、頭から抜けていましたよ。彼女は家に入り、四時に出てきました。それまで見張っていたんです。それから彼女の後をつけました。長い追跡で、私はたいへん注意して距離を置き、背後の人込みに隠れるようにしました。それでも女の姿を見失うことなく、ストランドへ下り、ウェストミンスターに向かい、セント・ジェームス街を上がり、ピカデリーに沿って行きました。彼女がアシュリー街に向かうのを見て、随分妙な気がしましたよ。ハーバート夫人はボーモン夫人ではないかという考えが急に頭に浮かびました。どうみてもあり得ないことでしたが。角で待ちながら、彼女から一時も眼を離しませんでした。彼女が立ち止まる家を見のがさないように、とりわけ注意を払いましたね。それは愉快なカーテンのある家、花を飾った家庭、自宅の庭で首を吊った夜クラショーが出てきた家だったのです。これだけの発見をしたので、早速そこから離れたのですが、空の馬車(*4)がやってきて、その家の前に停まるのです。ハーバート夫人はドライブに出かけるらしいと結論付けましたが、それは正解でした。そこで偶々、知っている男に会いまして、馬車道を背にしてそこから少し離れた所で立ち話しました。十分もしない頃でしたが、友人が帽子をとるのです。見回してみると、一日中付け回した当の淑女がいたのですよ。「あれは誰だい?」と聞くと、彼は「ボーモン夫人だよ。アシュリー街に住んでる。」と答えるのです。これで疑いの余地は全く無くなりました。彼女が私に気付いたかどうかわかりませんが、多分大丈夫でしょう。すぐさま家に帰って考えを巡らせました。クラークと一緒に行動するのが穏当なのではないかと。」

「何故クラークと?」

「クラークは間違いなくこの女について、私のまるで知らない真相を握っていると思うからです。」

「そうだな。それでどうする?」

ヴィリヤーズ氏は椅子に深く凭れ、熟考する体でオースティンを見た。答える前にしばらく間があった。

「私のアイディアというのは、クラークと一緒に二人でボーモン夫人を訪ねてみてはどうか、というものです。」

「そんな家には行くものではない、駄目だ駄目だ、ヴィリヤーズ、行っては駄目だ。他のことを考えるのだ。あんな家にいったら…」

「その件はすぐ後で。私が得た報告はまだ終わってないんです。実に異様な落ちがついているんですよ。」

「このこざっぱりとした小さな包みの中には手稿があります。ほら、ノンブルがふってありますよ。この赤いリボンは自分でも気に入っているんです。コケティッシュでいいしょう。なんかまっとうなものみたいですよね、そうじゃありませんか? ちょろっと眼をやってください、オースティン。それはボーモン夫人がとびきりの上客たちをもてなした時のお楽しみの記録です。これを書いた男は隠遁していますが、見る所もう何年も生きられないでしょう。医者は彼が神経系(*5)に持続的で重度の衝撃を受けたに違いないと言っていますよ。」

オースティンは手稿を手に取ったが読もうとしなかった。小奇麗な頁を出鱈目にめくっていく、ある単語と、それに続くフレーズが眼に入った。オースティンは気持が悪くなり、唇は白くなり、冷や汗が滝のように頭の先から流れ落ちた。彼は手稿を放り捨てた。

「どっかにやってくれ、ヴィリヤーズ、二度とそれの話をするな。一体全体、君は石でできているのかね。ああ、怯え、恐怖、死、そのものだ。冷たい朝の空気の中、黒い台に縛り付けられて、鐘の音を耳にしながら、銃の遊底が残酷にもがたがた音をたてるのを待つ男(*6)の考えですら、この前では大した事がない。私は読まんよ。二度と寝られなくなる。」

「大変結構です。何を御覧になったか想像がつきます。ええ、酷く恐ろしい。でも結局の所、それは昔話なんです。現代に演じられた昔の謎です。ぶどう畑やオリーブの庭のまん中ではなく、暗いロンドンの街で演じられた。私達はパンの大神とたまたま出会ってしまった人がどうなるか知っています。賢明な人なら、いかなる象徴もなにかの象徴であって、象徴するものがない象徴というのはないのだと知っています。それは確かに美しくも精巧な象徴でした。その帳の下には大昔の人々の知識、全てのものの根源に潜む最も恐るべき、最も秘すべき諸力についての知識が隠されていました。その諸力を前にすれば、人間の魂は焼け死にます。電流が人間の身体を焼くように。このような諸力は名付ける事も語る事もできず、ただ象徴の帳の陰で想像することができるだけです。その象徴は私達のほとんどにとっては素晴しく詩的な夢であり、一部の者にとってはくだらない作り話です。しかし、貴方と私は結局、人間の肉体を被って顕われた、生命の中の秘密の場所に住む恐怖について、何かを知ってしまったのです。それ自身には形がなく何かの形を借りるのだということを。おぉ、オースティン、一体なんなんでしょうね。明るい陽光もその前には暗黒となり、堅い大地もその炎に溶けて煮え立つというのは。」

部屋を行き来するヴィリヤーズの足は速くなったり遅くなったりした。玉の汗が額に浮かんだ。しばらくの間オースティンは黙って座っていたが、ヴィリヤーズには彼が胸に十字を切る(*7)のが見えた。

「もう一度言おう。ヴィリヤーズ、君は決して例の家には入らないのだな? 絶対生きて出られないぞ。」

「いえ、生きて出てきます — 私、そう私はクラークと一緒に。」

「どういう意味かね? そんなことできるものか。無理だ君には…(*8)

「まあ、ちょっと。今朝は空気がとても愉快で新鮮でした。こんな鈍色の街にもそよ風が吹きまして、一つ散歩に行こうかと思ったんですよ。目の前に伸びるピカデリーは清潔で明るい眺めでした。馬車(*4)にも公園のそよぐ葉にも太陽が輝いて。喜びの朝、男も女も空を見ては微笑み、仕事に遊びに出かける。風は牧草地の明るさでそよぎ、ハリエニシダの香りを連れて。しかし私は何故かうきうきした雑踏を抜け、ひっそりとした重苦しい通りを歩いていたのです。太陽の光も空気もないような場所で、わずかな歩行者があてどなくふらふらと街角やアーチ道をうろついているだけでした。どこで何をするのかもわからずに、何かに急かされるようにして、少し先はどうなっているんだろうと歩いて行きました。何かはっきりとしない目的地を目指すという感じ、時折そういうことってありますよね。こんな具合で、私はじりじりと街を進みました。寂れたミルクスタンドのわずかな人込みに気付き、調子っぱずれな手風琴(*9)の旋律や、黒煙草や、甘いものや、新聞売りや、一つの窓の中で押し合いへし合いする戯れ歌や、そんなものを不思議に思いながら。目指すものが見つかった、と最初に気付いた時の感じは、冷たい身震いでした。歩道からそれを見つけ、二百年前の赤煉瓦が黒ずみ、看板の文字も定かではなくなった埃っぽい店の前で立ち止まりました。必要なものはみつかりましたがしかし、決心し、店に入るまで五分はかかったでしょう。冷静な声で、落ち着いた顔でそれを求めたはずですが、声が少し震えていたのだと思います。歳とったオヤジが店の奥から出てきて、商品の中をのろのろとま探り、私を見ながら包みを縛りました。その時変な顔をしていましたよ。言い値を払い、しかしそのまま立ち去るのに何か抵抗があって、カウンターに寄り掛かったまま立っていました。私が景気はどうかね、と聞くと、売れ行きは悪く利益は悲惨な下降をしめしているのだそうです。道があっちにできる前は街もこんなじゃありませんでしたさ、もう四十年も前の事だけんど、あたしの親父が死ぬちっと前でさあね、って。漸くのこと私は出ていき、さっさと歩きました。暗鬱な街でしたよ、確かに。雑踏の中に戻ってきた時はほっとしましたね。何を買ったか、御覧になりますか?」

オースティンは何も言わなかったが、幽かに首を縦に振った。いまだに蒼白で病人のようだった。ヴィリヤーズは竹のテーブルの引き出しをあけると、オースティンに長い縄と輪を見せた。丈夫で新しく、片方が引き結びの輪縄になっている。

「極上の麻縄ですよ。昔ながらの一品でさあ、とオヤジが言ってましたよ。黄麻なんか一寸も混じってねえ、と。」

オースティンはきつく口を結んで、ヴィリヤーズを凝視した。ますます白くなって行くようだった。

ついに呻いた。「そんなことをしないだろうな。自分の手を血で汚してはいけない。」 突然激情的に彼は叫んだ、「おお神よっっ、君がそんなことをするはずがない、ヴィリヤーズ、自分で首を吊るなどと。」

「しませんよ。チャンスをあたえてやるんです。この縄と一緒に、ヘレン・ヴォーンを十五分間独りで閉じ込めておくのです。その時点でまだやってなかったら、一番近くの警官を呼びますよ。それだけのことです。」

「私はもう行くぞ。ここにはもういられん。こんな話は我慢がならん。おやすみ。」

「おやすみなさい、オースティン。」

扉が閉った。しかしすぐにそれは再度開き、真っ白で幽霊のようなオースティンが入り口に立っていた。

「忘れる所だったが私にも話がある。ブエノスアイレスのハーディング先生から手紙が来た。メイリックが死ぬ三週間前に往診したと言っている。」

「主な死因はなんだったんですか? 熱病じゃないんですよね?」

「そうだ。熱病じゃない。先生によれば、全身にわたる激しい衰弱が原因で、その元になったのは何かの深刻なショックではないかと。しかし患者は何一つ話そうとせず、結果として十分な治療ができませんでした、とのことだ。」

「何か他には?」

「あるぞ。ハーディング先生は手紙の最後にこう言っている。『貴方の可哀想な御友人のことで、私の思い付く限りのことがらを書きます。御友人はブエノスアイレスにはそれ程長期間おられませんでした。ある女性を除いてはほとんど誰ともつきあいがなかったようです。それは性格が最高であるとは言いかね、事後すぐに姿を消された方、ヴォーン夫人です。』」

VIII. 断片

[ピカデリー、アシュリー街の高名な外科医であり、1892年の初めに脳卒中のため急逝したロバート・マシスン博士が残した書類の中に、鉛筆書きのメモに覆われた一片の草稿が発見された。この記録はラテン語で書かれ、省略が激しく、明らかに大変急いで書かれたものである。草稿を解読するのは大変困難で、依頼した専門家の奮闘にもかかわらず現在まで一部の語は不明のままである。草稿の右上隅に千八百八十八年七月廿五日と書かれた日付けがある。以下はマシスン博士の草稿の翻訳である。]

「この記録の出版が許可された場合科学に寄与を齎すかは不明であり、余にはそれはかなりの程度疑わしく思える。とまれ余は出版の重荷を負うつもりもここに記した単語を漏洩さすつもりも一切ない。今尚存命である二人の前で気侭に宣言した記録であるのみならず、詳細があまりに厭うべきものだからである。十分熟考し善悪を天秤にかけた後、他日これを破棄するか、少なくとも厳重に封印して友人Dに渡すかすることになろう。余は彼の分別を信頼しており、用いるなり焼くなり適当と思う処置を願うことにする。

「余は医学者として相応しい態度をもって、全知識をして余が妄想に落ち込んでおらぬ事を示唆せしめた。最初こそ驚愕し殆ど思考能力を失ったものの、一分余の後には余は自らの脈拍が安定にして整であり、感覚が現実を正しく捉えていることを確信した。その後に余は眼前の物体に視線を固定したのである。

「恐怖と反復性の嘔気が沸き起こり、腐敗臭に窒息せんばかりであったにも関わらず、余は堅固なる状態を保った。寝台の上に黒インキの如く横たわるものを見しことが特権であったか呪いであったかは敢て言わぬ。それは余の眼前にて変化(へんげ)をなした。皮膚、組織、筋肉(*1)、骨、余が霊石(*2)の如く不変にして永続するものと信じおりし人体の堅固な構造が溶解し分解し始めたのであった。

「身体は外的要因によりその要素に分かたれうることは余の知る所であるが、余の見たるものを余の信念は拒むであろう。所々に余の知らぬある種内的なる力が顕われ、分解と変化とをもたらしていた。

「ここではまた、人間を生む際行われしあらゆる行為(*3)が再現された。余は形態が自ら分裂しつつ性から性へとたゆたい、再度結合するを見た。次いで身体が獣へと退化し、また進化する(*4)のを見た。最上の高みより、全存在の裂け目(*5)までも下降し尽した。外的な姿が変化する一方で有機体を構成する生命の原理は常時保たれた。

「部屋の光は暗黒へと転じたが、それは単に対象を見難くする夜の暗さではなかった。余は難無く明瞭に見る事ができたからである。むしろそれは光の否定であった。言ってみれば、対象は何らの媒体なしに余の眼に投じられ、仮に部屋の中にプリズムを置いたとしても、それを構成する諸色を分解する事能わざるが如きであった。

「余は観察を続け、ついに余の見たるものはゼリー様の物質に過ぎなくなった。再び階梯は上昇した…[この部分解読不能]…例えば余はある形態を見た。それは眼前の暗黒の中形成されたものである。それをこれ以上記述することはせぬが、その形態を象徴するものはあるいは古代の彫刻、焼石の下より掘り出されし(*6)絵画に見いだされ得、語るにはあまりに汚辱にまみれたるものである…人でもなく獣でもない、言語を絶した形は人間の形態に変化し、そこで最終的な死が訪れた。

「この全てを見し余はここに署名し、大きな恐怖と魂の嫌悪なしでは見られなかったものの、ここに記したる全ては真実である事を証言する。

「医学博士ロバート・マシスン」

* * *

…これが、レイモンド、私の知っている話、私の見たものだ。この枷は一人で負うには重過ぎ、しかしこれを語れる相手は君しかいない。最後に私と二人で行ったヴィリヤーズは森の恐るべき秘密も、目の前で死んで行ったのが何であったのかも知らない。それは、半ばは陽光の中、半ばは陰の中、夏の花が咲き乱れるなだらかで甘い芝生に横たわり、レイチェルという娘の手を握りながら、仲間達を召還し、私達の足元にある大地の上、あるはっきりした形をとったものだ。私達には思いもよらない恐怖、何かになぞらえてでしか名付けられないものだ。この話はヴィリヤーズにはするつもりがない。あのポートレートを見た時心臓を一撃されたような衝撃を覚えた類似性についても。あのポートレートは結局恐怖で満たされた毒杯となった。これが何を意味しているのか考えるのも恐ろしいが、私にはわかる。腐敗の内に死んで行ったのはメアリではなかった。しかし、末期の目の中に、私を見つめるメアリがいたのだ。誰かこの恐ろしい謎の連鎖に最後の環をはめられるのか、私には判らないが、それができるとしたら、レイモンド、君をおいてない。もし君が秘密を知っているとしても、それを語るかどうかは君に任せるよ。

街に帰ってきてすぐ、君にこの手紙を書いている。この数日地方に行ってきた。それがどこか、君には見当が着くだろう。ロンドンの恐怖と当惑が最高度になった頃 — 君に言ったように「ボーモン夫人」が社交界で知られるようになったために起きた — 友人のフィリップス博士に手紙を書いて、事件についての短い概略、遠回しな手掛りというべきか、をつけて、以前話してくれた事件が起きた村の名前を教えて欲しいと頼んだんだ。彼は村名を教えてくれた。自分で言っていたが、教えるのに以前程は抵抗感がなかったそうだ。というのもレイチェルの両親は六ヶ月前に死んでしまい、残された家族はワシントン州の親戚のところに去ったからだ。その両親は、娘の恐るべき死と、その前に娘に起きたことを嘆き恐れ、それが元になって死んだのは疑いもないということだよ。フィリップからの手紙を読んだその日の夕べ、私はケールメーン(*7)にいた。1700年にわたる冬のために白く朽ち果てたローマの壁の下に立ち、かつて「深淵の神」を祭ったさらに古い神殿が立っていた牧草地を見渡した。太陽の光の中で、かすかに見える家がある。ヘレンが住んでいた家だ。私は数日ケールメーンに留まった。分かった事だが、土地の人々はあまり知らないし、全然考えていないのだね。事件のことを話した相手は、好古家(という名目で村に行ったのだが)が村で起きた悲劇について頭を悩ませていると言うと驚いたようだった。事件に関しては大変ありきたりのお話(*8)にしてしまってるので、想像の通り、私が知っている事はなにも話さなかったよ。ほとんどの時間は村のすぐ上から始まり、崖の腹を登って行き、渓谷の川へと落ち込む大きな森で過ごした。レイモンド、そのような長く美しい谷をある夏の夜見たよ。君の家の前を行ったり来たりしながら。何時間も木々の間の迷路を彷徨った。右へ左へ、真昼の太陽の下でも蔭多く寒い下生えの石畳をゆっくり下り、巨大なオークの気に息をのんで。開拓地の短い芝生の上に寝転ぶと、野バラの微かな香りが風に乗りやってくる。その香りはきついニワトコの匂いと混じって、霊安室の香と腐敗の靄に似ていた。森の縁に立ち、ワラビの中に塔を立てたかのようなキツネノテブクロが一杯の陽光を浴びて赤く輝き、華やかな行進をするのを見ていた。その向こう、岩から沸き出す泉が水草を育て、びっしりとしげった下生えが深い茂みを作っている。じめじめとした嫌な所だ。昨日初めて丘の頂上に登り、森の最も高い所を縫う古代ローマ街道の上に立った。こここそ彼女達、ヘレンとレイチェルが歩いた所だ。この物静かな堤道、緑の芝生の歩道、片側は赤土の堤になり、輝く石灰岩で仕切られている。私は彼女達の足跡をたどった。何度も用心して、枝をかき分け、道の一方には森が右に左に遥か遠くまで広がっていくのを見ながら。その果ては平らになり、黄色い海へと沈んで行き、その向こうにまた陸地が見えた。反対側は渓谷と川、たたなづく丘々、森と牧草地、小麦畑、微かに見える白い家、巨大な壁をなす山、北のかなたに見える青い頂。ようやく私はあの場所についたのだ。道はなだらかな坂をなして登って行き、広くなって、深い下生えの茂みで囲われた空き地に出た。そこから先はまた狭くなり、遠くに夏が生み出す青い靄の中に入って行く。この愉しい夏の空き地に、レイチェルは娘として入り、別の何かになって出た。それは何か、誰に言えるだろうか。私は長くはそこにいなかったよ。

ケールメーンの近くの小さな街、そこに博物館がある。近くで折に触れて見つかるローマの遺物のほとんどを収納している。ケールメーンについた翌日、問題の街に歩き、博物館を見学する機会があった。そこにあるほとんどの石の彫刻、棺、指輪、貨幣、モザイク式の歩道の欠片などというものを見た後、これまで話題にしてきた森で最近見つかった、白い石でできた方形の小さな碑を見せられた。質問してみたところ、ローマ街道が広くなる例の空き地から見つかったものだそうだ。碑の片側には碑文が彫ってあった。そのメモをとってきたよ。一部の文字は欠けていたけれど、こう補って間違いないだろうと思う。碑文はこんなものだった:

DEVOMNODENTi
FLAvIVSSENILISPOSSvit
PROPTERNVPtias
quaSVIDITSVBVMra

『ノーデンスの大神(深淵の神)のため、フラヴィウス・セニーリス建之。彼が見たる暗き陰での婚姻を記すべく』(*9)

博物館の学芸員(*10)によると、碑文や翻訳の問題ではなく、これがどのような状況ないし祭祀を暗喩したものかという点が、地元の好古家達を悩ませているとのことだ。

* * *

…さて、親愛なるクラーク、君が信じられないくらい恐ろしい状況で死ぬのを見たと言うヘレン・ヴォーンに関して教えてくれた事だが、興味深い記述だった。しかし全てとはいわないまでも、そのほとんどは私の既に知っている事だったのだよ。ポートレートや実際の顔について君が見て取った奇妙な類似感は理解できる。君はヘレンの母親を知っているんだ。何年も前のあの静かな夏の夜、君に影の向こうの国やパンの神について話したのを覚えているだろう。君はメアリを思い出したね、彼女がヘレン・ヴォーンの母親だったんだよ。彼女はあの後九ヶ月で生まれた。

メアリは理性を取り戻さなかった。君が見た時のままに寝台に横たわり、子供を産むと数日後に死んだ。いまわの際に私がわかったような気がする。私は寝台の脇に立っていた。ほんの数秒、昔の光が彼女の目に戻り、身震いし呻き、死んだ。君のいたあの夜、私がした事は邪悪な行為だった。私は生命という家の扉を叩き破ったのだが、その中に何が押し入って来るのか知りもしなければ気にもしていなかった。あの時に言ってくれたことを思い出す。ある一面において実に鋭く、正しかった。確かに私は馬鹿げた理論に基づく愚劣な実験によってある人の理性を破滅させてしまったのだ。よくぞ叱ってくれたと思う。しかし、私の理論は馬鹿げたものではなかった。私が見るぞと言ったそのものをメアリは見たのだ。だが、そのような光景を目にした人は刑罰を免れるものではないことを忘れていた。同じように私は忘れていた。今も言ったように、生命の家をこのようにこじ開けると、我々には名付けようのないあるものが入って来る。そこで人の肉体は名状しがたい恐怖の帳となるのだ。私は自分で理解できないエネルギーを弄んだのだよ。君が見たのはその最期だ。よくぞヘレン・ヴォーンは首に縄を懸け死んだものだ。その死は恐ろしいものであったけれども。黒ずんだ顔、寝台の上の醜い姿、君の目の前で女から男へ男から獣へと変わり溶けて行き、獣からさらに悪いものへと、君が証人となったこういった奇怪な恐怖はほとんど私を驚かせなかった。一緒に行った医師が見て戦いたと君のいうもの、それは私が疾うの昔に気付いていたことだ。子供が生まれた時に私がしたことは判っているし、あれは五歳になる頃だ、遊び友達の前ですることに驚かされた。それがどんな種類のものか、君には想像がつくだろう。それが一度や二度ではなかった。それは間断なき、何度もぶり返す恐怖となって、何年かの後にはとても耐えられなくなった。それで私はヘレン・ヴォーンを厄介払いしたのだよ。今では森の中で少年を驚かせたものが何か、君には判るだろう。この奇妙な話の残り、君が話してくれた他の部分や君の友人が発見した事は、ほとんど最後の章に至るまで、私が折々学んできた事だった。今、ヘレンは仲間達の所にいるよ…


Notes on translation

大昔創元推理文庫の平井呈一訳で読み印象に残っていたアーサー・マッケンの名作「パンの大神」を全訳したものです。かなり長い時間をかけて、趣味的に訳しました。2ちゃんねるSF板アーサーマッケンスレッドで話題になっていたのがきっかけです。最後に同文庫版を読んでから長い年月を経ていますが、もしかするとその影響が訳文に出ているかもしれません。当時の私にとって、「パンの大神」はそれ程印象深いものでした。気がつけばH.P.L.などの訳本も購入し、戦きつつ夜を楽しむようになりました。The White Peopleもそうですが、原文で読むと、散文のリズムというのが心地よく思えます。これは私の拙い日本語能力ではいかんともしがたいものですので、生硬で直訳に近い訳文ですが、そういう商売をしているもので orz。

邦訳にあたり、オースティン>クラーク=レイモンド>ヴィリヤーズの順に年令ないし地位を措定しました。オースティンはヴィリヤーズと同世代かもしれません(私の英語力ではわかりません)が、人間の甘いも辛いも知悉しているとされている点、最初の会話に出て来る演説めいた口調からこのようにしました。これまでの日本語流に、医師を意味する「Dr.」という称号を「博士」と訳した場合もあります(博士号を持っていることが明記された部分はありません)。英国紳士とは思えない会話体であるという批判もあるでしょうが、私は襤褸雑巾のような平民ですのでorz。ラテン語は一部英語サイトを参照しましたが、自己流ですので解釈に間違いがあるかもしれません。

以下、固有名詞の綴り、訳出に当って疑問の残った点を挙げておきます。なお、距離の単位は馴染み深いSI単位系に揃えました。括弧内が元の値です。10 km(6 miles)、11 km(7 miles)、1 m(a few feet)

なお、「大神」をどう読むかは2ちゃんねるでも激しい論争が戦わされました。どうよむのでしょうね?


ソースはProject Gutenberg版。他にもWeb Book Publicationsからも入手できますし、NECRONOMI.COMの暗黒の世界も愉しいでしょう。


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Uploaded to the server in 28, Mer., 2008
by The Creative CAT, 2004-2008

This is a Japanese translation of Arthur Machen's "The Great God Pan". English Full texts were FTPed from the project Gutenberg(tm), Web Book Pub. and Necronomi.com. Great thanks to those sites. I have read Japanese translation by Teiichi Hirai of this story on a paper-back issued from Tokyo-Sogensha ltd. I translated this without any reference to the Sogensha edition. If there are any resemblence between my translation and one of the book, it may be caused consciousless effect of memories retrieved from more than twenty years. It seems that those high-school days were also summer days of mine. I remember Mrs. H, a libralian in our high-school who had turned out to be a lover of English fantasies, but not of such dark ones. She was lovely -- somewhat resembled to an English actress Zienia Merton. Moreover, she had been the singular counter-balance of my internal tendency to be fond of blue stories. In short, Mrs. H was, not like 'Mrs. H. V.' here but, if I dare say, alike 'To Helen' of Poe for me. Now she sleeps peacefully in a fine and secret place at mountain-side(*), free from cirtain kind of desease which suffered her for years. Kindly enough, in one snowy day, her husband and daughter told me how she lived last years bravely against the malfunction of her own body. I thank again to this warm-hearted lady deceased and her good relatives.