This is a Japanese translation of "The Listener" by Algernon Blackwood.

以下は "The Listener" by Algernon Blackwood の全訳です。特定の疾患に関する現在では一般的ではない呼称が現れます。また(やろうと思えば)差別的な解釈も可能な内容が含まれます。怪奇小説の古典としての歴史的価値から、そのまま訳出したものですのでご了承ください。


盗聴者

著: アルジャーノン・ブラックウッド
訳: The Creative CAT

九月四日——ロンドン中を歩き回った末、なんとか年収——百二十ポンド——に見合う下宿を発見した。実のところ水道類のない二部屋で、古く崩壊寸前の建物の中だ。だがP——プレイスから石を投げれば届く距離で、極めて上品な街にある。下宿代は年に二十五ポンド。ほんの偶然からこの下宿を見つけたのは、もう駄目かと思い始めた矢先だった。偶然は単なる偶然であり詳述するに及ばない。賃貸契約は一年だったが、喜んでサインした。家具はハ——シャーの実家に随分長く置き去りにしてあるのを持ってくるつもりで、部屋によく合うだろう。


十月一日——私は今、ロンドン中心街に二部屋を持ちそこに住んでいる。時折一、二本の原稿を持ち込んでいる雑誌社からも遠くない。建物はcul-de-sac袋小路の奥にある。整った石畳の路地は清潔で、大学か役所かといった感じの落ち着いた建物の裏手だ。ここには厩舎が一軒ある。我が家は「庵室チェンバーズ」 と名乗り威儀を正しているのだが、実体に比べ名があまりに勝り、自大した結果——真っ二つに割れて落ちそうな気がする。実に古い。居間の床は谷あり丘あり、といった次第で、ドアの天辺が天井から離れていることときたら常態からの名誉ある逸脱を示している。二人は仲違いしているに違いない——この五十年間——そしてなお互いを遠ざけているのだ。


十月二日——女将は痩せた老婆で、埃っぽい皺々な顔をしている。無口だ。数語を口にするのもかったるいらしい。肺の半分に埃が詰まっているのだろう。どこにでもあるこの厄介物を女将は可能な限り私の部屋から取り除いてくれる。また、力持ちの若い女中に命じて、朝食を運び上げ暖炉に火を灯してくれる。前にも書いたが女将は無愛想だ。こちらから陽気に話しかけても、今は貴方がただ一人の店子ですとぶっきらぼうに答えるだけだった。私の部屋にはここ何年か下宿人がいなかった。上の階には住人が何人かいたことがあるが、引っ越してしまった。

話をする時、女将はこちらをまっすぐ見ようとせず、チョッキの真ん中のボタンから目を動かさなかった。ボタンをかけ違っているのか、あるいは種類が違うのかと心配になるほどだ。


十月八日——一週間の支払いがまとまった。これまでの所安く済んでいる。ミルクと砂糖が七ペンス、パンが六ペンス、バターが八ペンス、マーマレードが六ペンス、卵が一シリング八ペンス、洗濯女に二シリング九ペンス、油が六ペンス、世話代に五シリング、〆て十二シリング二ペンス。

女将には息子がいて、「バシュの乗務ヒン」なのだという。時々女将のところにやってくる。酒を飲むようだ。というのも昼であろうと夜であろうと御構いなしに大声を出し、階下の調度品を引っ掻き回しているから。

午前中はずっと部屋の中に座って執筆だ——雑誌の記事、娯楽新聞用の詩、そして三年間「からかって」いる一編の小説。この小説には夢がある。子供向けの本一冊。この中では想像力を自由に羽ばたかす。もう一冊は私自身の人生が続く限り終わらない書物。人生という苦難の中で我が魂の進退を正直に記していくのだから。加えて安全弁として一冊の詩集を手許に置いてあるが、こららについては何の夢もない。どっちを見てもとにかく仕事だ。午後は健康のため散歩に出るよう心がけている。リージェンツ・パークを抜けてケンジントン・ガーデンズ、あるいは更に足を伸ばしてハムステッド・ヒースへと。


十月十日——今日は何もかもうまくいかなかった。朝は卵を二つ食べている。今朝その一つが傷んでいた。ベルを鳴らしてエミリーを呼んだ。新聞を読んでいるとやってきたので、目を離さずこう言った「卵が駄目になっている。」 すると彼女は「あ、そうですか、サー? 別のを取ってきます」と戻って行った。五分後、新しい卵をテーブルに置いて去った。だが、視線を落とすと、彼女が持って行ったのは良い方の卵で、傷んだ方を——まるっきり緑と黄色になっている——受け皿に置いて行ったのがわかった。もう一度ベルを鳴らした。

「間違った卵を持って行ったな」と私。

「あら!」彼女は叫んだ。「持って降りたの、そんなに悪い臭いがしなかったなと思ったんですよ。」 まもなく彼女が良い方の卵を持ってきたので私は卵二つの朝食を再開したが、食欲は今ひとつになってしまった。確かに大したことではないのだが、あまりの愚かしさにうんざりした。やる事なす事この卵的な性格を帯びたのだ。酷い記事を書き、破り捨てた。激しく頭が痛んだ。悪態を——自分に向かって——吐いた。ことごとく駄目なので、仕事を「ほっぽり出し」て長い散歩に出た。

夕食は帰り道の途中にある安っぽい焼肉屋でとって、帰宅したのは九時ごろだった。

家に入ろうとすると雨が降り出し、風が強くなった。酷い夜になる証だ。路地は暗鬱に見え、玄関を通り抜けた時は墓場のようにひやっとした。こちらに越してきて初めての嵐の晩だ。風の唸りが恐ろしかった。縦横に吹き込み部屋の中央で交差し渦を巻き、冷たくしずやかな気流に髪が天まで逆立つばかりだった。ネクタイと半端な靴下を窓框に詰め、煙たい火を抱き込むようにして暖を取った。とりあえず何か書こうとしたが寒すぎる。私の手は紙の上で氷と化した。

古い土地の手を借りて、風は何という悪戯を企んだことだろう! 遺棄された路地を吹き上がり雑踏めいた音を立て、押し寄せる跫音はドアの前でぴたりと止まった。物見高い民衆が大勢戸口に集まり私の部屋の窓をじっと見上げているような気がした。彼らは踵を返しひそひそ声を立て笑い声を上げながら路地を去っていく。だが必ずや風の次のひと吹きと共に戻ってきて無礼を働くのだ。部屋の反対側には四角い小さな窓が一つあって、裏の家の壁まで一間(six feet)ほどある立坑というか井戸というかに向かって開いていた。この漏斗を風は下り、吹き、叫んだ。こんな騒音は生まれて初めて聞いた。これら二種類の歓待を受けつつ、大きなコートに包まって暖炉に張り付きぶわんぶわん唸る煙突の音を聞いていた。まるで海に浮かぶ船だ。見やる床はあたかも波浪の如くうねり前後にゆられ。


十月十二日——こんなに一人きりで——こんなに貧しくなければよかったのに。そのくせ孤独と貧困とを好んでいる。前者のおかげで私は友なる風雨を楽しむことができ、後者のおかげで女性のダンスのお供をして肝臓と時間を浪費させなくて済んでいるのだ。貧乏で身なりの悪い男は「従者」になりえない。

両親は死んだ。一人きりの姉も——死んではいないさ、だが大金持ちの奥様だ。年がら年中旅行して、夫は健康を受け取り妻は自身を失っていく。姉から無視され続けた長年の間に、私の人生から姉の存在は消えてしまった。ドアが閉ざされたのはあの時だ。五年間何の音沙汰もなかった後のクリスマス、姉は五十ポンドの小切手をよこした。サインは夫のものだった! 文字通り千個の破片に千切って封筒に入れ、切手を貼らずに送り返した。姉の懐がわずかでも痛むだろうと思うとかろうじて満足が得られた。姉は太い羽ペンでこういう返事を書いてきた。一枚の紙をたっぷり使ってたった三行、「あんたはいつも通りイカれてるわね。おまけに乱暴で恩知らず。」 父方の狂気が隔世遺伝し発現したらどうしようと私は特に恐れてきた。私はこの虞に取り憑かれ、姉はそのことを知っていた。かかるささやかな礼節の交換の後にドアは派手に閉じられ、再び開く事はない。我が耳にはドアが閉まるけたたましい音が届き、同時に心の壁から沢山の小さな陶器が落ちるのがわかった。それぞれに固有の価値を持つ——稀少な陶器。その中の幾つかは埃を払うばかりになっていたのに。同じ壁面には鏡がかけてあって、時折私はそこに映る幼少期という謎の薄布を、ヒナギクの花輪を、暖雨の風が過ぎた果樹園一杯に散る花びらを、長い遊歩道の途中の追い剥ぎ洞窟を、干し草置き場にこっそり溜め込まれたリンゴを見ていたのだ。その頃、姉は私の分かちがたい仲間だった——だがドアがバタンと閉じた時、鏡は真っ二つに割れ、そこに映っていた幻は永遠に失われてしまった。今、私は一人ぼっち。人は四十歳になって細やかな友情を取り戻すことなどできはしないし、友情に比べれば他のものは全て無意味である。


十月十四日——寝室は四畳半の広さ。居間の一つ下の階で、降りるための階段がある。見捨てられた路地には人通りがないため、穏やかな夜にはどちらの部屋もとても静かだ。たまに風が彷徨するものの、この上なく風雨から守られた一帯だ。その天辺は私の部屋の窓の下にあたるのだが、夜の帳が落ちると早速近所の猫が皆集まってくる。路地の反対側にはブラインドの降りた窓が並び、連中はその長い霧除けの上に思う存分伸びている。郵便屋が九時半に出入りした後は、彼らの不吉なるコンクラーヴェを乱す跫音といえば私のそればかりだからだ。あるいは時折「バシュの乗務ヒン」である息子が足を縺れさすか。


十月十五日——「ABCショップ」で落とし卵とコーヒーの夕食をとり、その後リージェンツ・パークの縁を経巡った。帰宅すると十時だった。路地の壁の庇の陰に暗い色の猫が座り、数えると十三匹を超えていた。夜は冷たく星々はブルーブラックの空に氷点の如く灯っていた。猫どもは静かに頭を向けて通りかかる私を見つめた。これほど多くの瞬くことのない双眸にじっと睨み付けられると奇妙な気後れを覚えた。閂を開けるのに手間取っていると、そいつらは音もなく飛び降り私の足首に纏わり付いた。なんだか私を入れさせたくないかのようだ。だが私は連中の眼前で思い切りドアを閉め、あたふたと上階に向かった。マッチを掴もうと居間に入ると、そこは石の納骨堂のように冷え冷えとして、空気はいつになくじめついていた。


十月十七日——ここ数日、骨の折れる大型記事にかかりきりで空想を逞しくしている余裕はない。自分の想像力に分別ある枷を嵌めなければ。私はそれを解き放つのが怖い。いつかそれは私をどこかぞっとする所、星々の向こうや地の底の世界へと連れて行くから。その危険性を一番よくわかっているのは私自身だ。だがそれをここに記すとはなんという愚かなことだろう——わかってくれる人は誰もいず、理解してくれる人も誰もいないのだから! 近頃心に浮かぶ考えは普通ではない。これまで思いもよらなかった考え、薬品や奇病に対する治療のことだ。どこから生まれたか想像だにできない。一生の中で一度も宿したことのない観念が今や絶えず脳髄に群がっている。気候がショッキングなくらい悪すぎるので散歩はやめた。午後はいつも大英博物館の閲覧室で過ごすことにしている。入室カードを持っているのだ。

不愉快な発見があった。この家にはドブネズミがいる。夜ベッドで横になっていると、居間の丘と谷を駆け回る音が聞こえ、そのせいでだいぶ睡眠不足になってしまった。


十月二十四日——昨夜「バシュの乗務ヒン」たる息子が来た。疑いなく呑んだくれていた。私が就寝したずっと後まで下の台所から大きな怒声がしていたからそれとわかった。また、一度、不思議な言葉が床を通して聞こえてきた「このウチをマトモにするにゃ天辺から根太まで全部焼き尽くすしかねえ。」 床を叩くと声は途絶えたが、後に夢の中で彼らの騒ぎを再び聞いた。

部屋はとても静かだ。時として静か過ぎるほどに。風のない夜には墓場のように音がなく、あたかも何キロも離れた田舎にあるようだ。ロンドンの轟然たる雑踏もここには重苦しい、ぼんやりとした振動としてしか届かない。時としてそれは不吉な音色を帯びる。あたかも接近する軍隊のようであり、また、遥かな遠くで轟く底知れぬ夜の潮流のようだ。


十月二十七日——ミセス・モンソンはご立派な程もの静かだが、気難しい馬鹿女だ。こんなに愚劣なことをやる。叩きをかけると私の持ち物を全部間違った所に押しやってしまう。灰皿、これはライティング・テーブルの上にあるべきなのに、あの馬鹿女はマントルピースの上にぐだぐだ並べる。ペン立て、これはインク壺の隣にあるべきなのに、巧妙にもリーディング・デスクの本の中に隠匿する。手袋ときたら、あの女は白痴めいたやり方で毎日毎日半分埋まった本棚に並べるので、いつもドアの脇の低いテーブルの上に置き直さねばならない。あいつはアームチェアを暖炉とランプの間にありえない角度で置くし、テーブルクロス——トリニティ・ホールのステンドグラス模様付き——をテーブルにかけるやり方を見たら、ネクタイや服がひん曲がっていた時とそっくり同じ感じがする。腹立たしい。黙りこくりやがってイラつく。インク壺を投げつけてやろうか。そしたらあの女のしょぼくれた目にも色が着くだろうし燻んだ唇もガーガーいうだろう。そのためだけにでも。ああ、なんという! なんという乱暴な表現を使おうとしているのだろう! なんと愚かな! まるで自分が書いた文字ではなく、耳に吹き込まれた言葉のようだ——要するに、私が本来使う用語ではないのだ。


十月三十日——ここに一月住んだ。どうも性に合わないと思う。頭痛の回数が増え、症状も悪化した。私の神経は永遠に湧き上がる不快感と苛立ちの源だ。

ミセス・モンソンに対する反感を募らせている。向こうもこちらに同じ感じを持っているに違いない。どういうわけか、この家では私の知らない何かが進行中で、彼女は慎重にそれを隠しているのだ、という印象を度々受ける。

昨夜は彼女の息子が泊まっていった。朝、窓際に立っていたら、彼が出て行くのが見えた。彼が見上げたので目が合ってしまった。私が見たのは無礼な姿とこの上なくムカつく顔であり、彼がこちらに下さったのは極めて不愉快な横目であった。少なくとも私の想像の中では。


十一月二日——この家の全き静寂に、息詰まる感じがし始めた。上の階に誰か住んでいたらいいのに。頭上に足音が響くことは一切なく、次の階に昇るために私のドアの前を踏む者もいなかった。上の方の部屋がどうなっているのか、自分で見てみようか、と好奇心めいたものが浮かびかけてきた。孤独で、孤立して、世界の片隅の掃き溜めで忘れられて…… 一度、例の割れた鏡を見つめて果樹園の木々の間に遊ぶ陽光を見ようと試みた。だが深い影が集うばかりだったので、じきにやめてしまった。

終日暗く、風もない。霧が立ち込め出した。朝の間中読書灯をつけざるをえなかった。荷車の音もしない。その音が本当に恋しかった。陰鬱で静まり返ったこんな朝は、それを歓迎することさえできただろう。人間が発する音には違いないのであり、こんな路地のどん詰まりにある空っぽな家にそれ以上の物音を求めるのは贅沢というものだ。

この路地では警官を見たことは一度もなく、郵便屋も長居は無用とばかりに行ってしまう。

午後十時——これを書く私の耳に届くのは遠い街路のざわめきと低い風のため息だけだ。二つの音は互いに溶け合っている。ときおり猫が高く鳴き、闇夜の中へと不気味な叫びをあげる。暗くなるといつも猫どもは私の部屋の窓の下にいる。風は、計り知れぬ数の翼が遠くで突然一振りするような音を立てて漏斗の中に吹き込む。詫びしい夜。忘れられた迷子のような気がする。


十一月三日——部屋の窓越しに来客がわかる。誰かがドアのところに来ると、ちょうど帽子と肩と呼び鈴にかかった手が見えるのだ。二ヶ月前に越してきて以来、やってきた客は二人だけだ。どちらの場合も客が登ってきて御在宅かね、と聞かれる前から窓に映っていた。二人とも二度と訪れてこなかった。

例の長い記事を書き終えた。だが読み返してみると不満だらけで、ほとんど全てのページに朱を入れる始末だった。自分では説明できない異様な表現や観念が現れ、恐れというより驚きに目を見張った。それは私自らの文章とは響かず、そんなものを書いた記憶もない。もしかして記憶障害が始まったのか?

ペンが見当たらない。馬鹿婆が毎日違う所に置く。よくもまあ次々と新しい隠し場所を見つけるものよと褒めてやろう。見事な創意工夫だ。何度も言ってやったのだが、その度に「エミリーに申しておきます、サー」と答えるばっかり。エミリーはエミリーで「モンソンさんに伝えますわ、サー」とくる。二人の愚劣さが腹立たしく、何一つ考えがまとまらない。あいつらに消えたペンをぶちこみ目玉をぐりぐりと抉って外に叩き出し、千疋の餓えた猫どもに襲わせ切り裂かせてやりたい位だ。ヒュー、なんたる悍ましい思考だろう! 一体全体どこからこんな思考がやってきたのだ? 警官がこんなことを考えることはあっても、私は決してそうはしない。それでも自分がそれを書かねばならなかったという感じはあるのだ。頭の中の歌声のように、最後の一句まで書き終わらない限り筆を止めるわけにはいかない。なんたるナンセンス! 私は自制を取り戻さねばならず、そうするつもりだ。定期的に体を動かさねば。神経と肝臓が私をひどく痛めつける。


十一月四日——フランス人居住区で「」にまつわる珍妙な講演を聞いたが、会場があまりに暑く体調があまりに悪かったので居眠りしてしまった。それでも耳にした部分だけで想像力が鮮やかに刺激された。自殺に関連して、講師はこう言った。自殺は惨めな現実からの逃避にはならず、将来における一層大きな後悔の準備に過ぎない、と。曰く、自殺などしても、たやすく責任から逃れられるわけではない。自殺者はかくも暴力的に自ら生命を脱ぎ捨てた地点に立ち戻り、そこから再び生命を得るはずである。その時、己の弱さ故の苦痛と罰とが更に加わるのだ。彼らの多くは言葉にできぬ程の惨めさの裡に地上を彷徨い、ようやく他人の肉の衣を纏い直すのだ——が、それは総じて狂人ないし意志薄弱な人物の身体であって、かような人物は醜い妄想に抵抗できぬ。醜い妄想こそが彼らに残された唯一の脱出口である。まことに奇妙で恐ろしい考えだ! 講義の間じゅう寝ていて何も聞かなければよかったのに。こんな悍ましい幻想なしでも私の精神は十分病的だ。このような悪意に基づくプロパガンダは官憲の手で禁止さるべきである。そう「タイムズ」紙に投書しよう。グッド・アイデアだ!

グリーク・ストリート、ソーホーを通って帰宅した。想像は百年前に戻り、ド・クィンシーがまだそこにいるような、「精妙かつ強力なる」薬物への祈祷をあげつつ夜の街をうろついているような気がした。広漠とした彼の夢はさして遠くにあるのではなかった。ひとたび描かれるや、その絵画は脳髄から去ろうとしなかった。彼がかの冷たくがらんとした邸宅の中で、そこの亡霊を怖がる奇妙な小さい浮浪者と一枚の馬丁のマントに包まって眠る姿、幻のアンと連れ立って逍遙する姿、後にはまた、叶うことのなかった彼女との永遠の再会へと向かう姿。かの男——当時は少年だった——の孤独な胸中に巣食ったはずの何ものかを理解しようとする時、なんたる言語を絶する憂鬱が、なんたる語りえぬ恐怖と悔悟と苦難とが私を襲うことか。

路地に戻ると、一番上の窓に明かりが灯っていた。頭部と肩がブラインドに大きな影を投じていた。例の息子がこんな時刻にあんな所まで上がることがあるのだろうか、と不思議に思った。


十一月五日——今朝、執筆中、誰かが階段をギシギシ軋ませて上がってきて、用心深く私の部屋のドアをノックした。女将なのだろうと思い「どうぞ!」と声をかけた。ノックは止まらず、私は大声を出した「どうぞ、どうぞ!」 だがノアノブを回す者はなく、私はじれて、ぼそっと「そうかい、だったらそこで待ってろ!」と呟き書き物を続けた。さて書き続けようとはしたのだが、つっと思考が涸れ果ててしまった。もう一語も書けない。暗い、黄霧の立ち込める朝で、ただでさえインスピレーションが湧きにくい天気だというのに、あの馬鹿女はドアのすぐ前に立ちん坊を決め込んだまま返事を待ち私がじれて他のことを考えられないようにしむけている。結局立ち上がって自分でドアを開けた。

「何をしたいんだ、どうして入ってこない?」と叫んだ。だが叫びは虚しく空を切った。誰もいなかった。薄汚い階段にとぐろを巻きながら黄霧が吹き上がってくるだけで、人の気配などどこにもなかったのだ。

この屋敷と物音を罵りながらドアを叩きつけ、仕事に戻った。数分後エミリーが手紙を持って上がってきた。

「少し前、貴女かミセス・モンソンがドアの外からノックしなかったかね?」

「いいえ、サー」

「間違いないか?」

「モンソンさんは市場に行きました。今いるのはウチじゅうであたしと子供だけで、あたしは一時間前からずっと皿を洗ってましたわ、サー。」

娘の顔がわずかに青ざめた気がした。彼女は肩越しにドアを見て不安げにしていた。

「待ってくれ、エミリー」私はこう言って自分が耳にしたもののことを語った。彼女は目を時折室内の原稿に走らせながら、ぽかんと私の方を見ていた。

話し終えて質問した「あれは誰だ?」

「モンソンさんはただのネズミだと言ってます」と娘。繰り返しそう言い聞かされたようだ。

「ネズミだと!」私は叫んだ。「そんなものじゃないんだ。ドアの外に誰かがいる感じがしたんだ。誰なんだ? この家の倅か?」

娘の態度が急変した。曖昧な様子がなくなり、真面目になった。真実を告げるのを恐れているようだ。

「いえ、違います、サー。この家にいるのは先生とあたしと子供だけで、ドアの所になんて誰もいなかったはずです。ノックするような——」しゃべり過ぎたという感じで急に口を閉ざした。

「なるほど、それならノックは?」一層語気を緩めて聞いた。

「もちろん、」口ごもりながら「ノックはネズミのじゃありません。足音もそうです。でも——」また口ごもってしまった。

「この家には何か良からぬことでもあるのか?」

「神様、いいえ、サー、恐ろしく水はけが悪いのが。」

「排水のことなど聞いていない。ねえ、ここで何か——何かまずいことが起きたのではないのか?」

髪の根元まで真っ赤になった後、娘は突如として再び青ざめた。どうみてもかなりまいっている。何か心配事があるのだが、口止めされていて話せないのだ——ある禁断の物事のことを。

「何であろうと構わないよ、知りたいだけなんだ」元気づけるように言った。

怯えた両眼で私の顔を見上げながら、娘が「上の階に住む紳士サマの身に降りかかったジケン」のことをぶちまけようとしていたその時、下から娘の名を呼ぶ嗄れ声が聞こえた。

「エミリー、エミリー!」女将が帰ってきたのだ。娘はロープで引き摺り下ろされたかのようにばたばたと降りて行った。上の階の紳士の身に降りかかった事件がかくも奇妙に階下の私の耳に届く、それは果たしていかなる事件なのか、私の頭は推測で一杯になった。


十一月十日——大仕事をやり終えた。例の大型記事が仕上がり、「——レビュー」誌に受理された上、追加で一本の注文があった。気分良く元気だ。規則正しく身体を動かし、快眠している。頭も、神経も、肝臓も痛まない! 薬局が薦めてくれた錠剤は素晴らしい。暗い顔の女将のことすら可哀想に思えるほどだ。彼女には申し訳ないことをした。かくも草臥れ、衰弱し、奇妙に組み上げられ、まるでこの建物のようではないか。むかし何らかの恐怖に襲われたことがあり、いままた別のものを恐れているように見えた。今日、ペンを灰皿に突っ込まないでください手袋を本棚に入れないでくださいと懇切丁寧に頼んだのだが、その時彼女は弱々しい目で初めてこちらを見上げて、しけた微笑とともに「肝に銘じておきます、サー」と答えた。背中を叩いてこう言ってやりたくなった「おいおい、元気を出せよ。人生ってのはそんなに悪くないよ」と。おお、私はずいぶん快癒した。外気と成功と安眠、これに勝るものはない。それらは魔法のように、絶望と満たされぬ憧憬とが食い荒らした心臓を再建するのだ。猫たちにすら親愛の情を覚えた。今日、夜の十一時に帰ってくると、連中はドアまでぞろぞろ列をなしてついてきたので、立ち止まって足元の一匹をぶっ叩いてやった。ざまあ! この畜生めは金切り声をあげて怒りを表し、引っ掻いてきやがった。爪が手に当たり、一筋、薄く血が滲んだ。他の奴らはギャーギャー鳴きながらどやどや闇の中に逃げていった。まるで私がそいつらに怪我を負わせたかのように。この猫どもは絶対に私を憎んでいる。援軍を呼びに行っただけなのだろう。だからこれから襲ってくるぞ。ハ、ハ! そんなことを考えると笑いが漏れ、一瞬の腹立ちと引き換えに、階段を上がり部屋に入るまで愉快でいられたのだ。

暖炉の火は消えており、部屋は尋常ではなく寒かった。マッチを見つけようと手探りでマントルピースの所にまで進んだ時、突如として、もう一人の人物が近くの闇の中に立っていることがわかった。もちろん目に見えるものはなかった。だが縁をたどっていた指がはっきりと何かに触れ、その何かは途端に引っ込んだ。冷たく湿った何か。誰かの手だったと誓って言える。即座に私の体はしのび足に移った。

「誰だ?」大声をあげた。

声は小石のように深い井戸に転げ落ちた。答えはなかったがその瞬間何者かが離れていき、部屋を横切ってドアに向かう音が聞こえた。覚束ぬ足取りで衣擦れの音を引いていった。同時に手がマッチ箱を探し当て、私はそれを擦った。ミセス・モンソンかエミリーが目に入るだろうと期待した。あるいは乗合バスの乗務員とやらをやってる息子か。だが噴出するガスの炎が映し出したのは空っぽの部屋だった。人っ子一人いない。髪の毛が逆立つのがわかり、背後から襲われるのを恐れて本能的に背中を壁につけた。怯えが総身を走った。しかし時をおかず我に返った。ドアは階段の踊り場に向かって開いていたので、部屋を横切って外に出た。内心びくびくしないではいられなかった。部屋からの明かりが階段に落ちていたが、目に見えるような者は誰もおらず、生物が去っていく時には階段の木が軋むはずだが、そんな音もなかった。

部屋に戻ろうと振り返った時に、頭上からの一つの音が耳を捉えた。非常に微かな音で、風のため息に聞こえなくもなかった。だが今夜は墓場のように静かだったから、風ではありえなかった。その音は一度でやんだが、一体どういうことなのか、自分の目で見るために上の階に登る決心がついた。二種類の感覚——触覚と聴覚——が侵された以上、気のせいだとは思えなかった。そこで火の着いたロウソクを持ち、足音を忍ばせて、風変わりで小さなこの古家の上なる領域に向かう不愉快な旅を進めたのである。

最初の踊り場にはドアが一つきりで、鍵がかかっていた。二つ目の踊り場にもドアは一つだけで、だがこちらはノブを回すと開いた。長い間空室だった部屋特有の冷たく黴臭い空気が顔に当たり、それに乗って言い表しようのない臭気が漂ってきた。この「言い表しようのない」という形容詞は熟慮の結果用いたものだ。薄められたのか、極めて微かではあったが。吐き気を催すような、かつて嗅いだことのない臭いであり、それを表現する言葉を持たぬ。

小さな正方形をしたその部屋は屋根の直下にあり、傾斜した天井と二つの小窓とがあった。墓地のように冷たかった。カーペットの切れ端も、家具の木切れもなかった。氷のような空気と名状しがたい悪臭とが相まって、この部屋は忌まわしい感じがした。しばらく足を止め、人が身をひそめられるような食器棚も隅の角もないのを見て取ると、私はそそくさとドアを閉めて階段を降り、ベッドに戻った。間違いなく、物音がしたと思ったのは気のせいだったのだ。

その夜の夢は愚かしくも極めて鮮明だった。私が夢に見たのは、女将ともう一人の人物、即ちまともには見えない黒い人影とが四つん這いになって私の部屋に進入し、その後に夥しい数の猫の大群が続いているという内容だった。連中はベッドに横たわる私を襲い、殺し、死体を引きずって階段を上がり、屋根の下にある例の冷たく小さな四角い部屋の床へと投げ捨てた。


十一月十一日——エミリーと会話——未完に終わった会話——を交わして以降、ほとんど顔を合わすことがなくなってしまった。今では私の世話はミセス・モンソンが全部みている。いつもながら彼女は私が嫌がるやりかたで全てを正確にやってくれる。どれも大したことはないのだが、猛烈に頭にくる。少量のモルヒネを繰り返し使用するようなもので、結局あの女には蓄積効果があるのだ。


十一月十二日——今朝は早く目が覚めたので、本を取りに居間に出た。起床すべき時刻までごろ寝しながら読むためだ。エミリーが暖炉の火を起こしているところだった。

「おはよう!」と明るく声をかけた。「火をどんどん起こしてくれないか、ひどく寒い朝だ。」

娘は振り向いて驚いた顔を見せた。これはエミリーじゃない!

「エミリーはどこだ?」私は叫んだ。

「妾の前にいた女の子のことですか?」

「エミリーは出て行ったのか?」

「妾は六日から来ています。」むっつりと答えた「その子なら入れ替わりに辞めていきましたよ。」 私は本を持ってベッドに戻った。エミリーは私と話をした直後に追い出されたことになる。この考えが私と印刷されたページとの間に割り込み続けた。起床時刻になっていたのが嬉しかった。かくも機敏な決断、かくも無慈悲な決定、重要な何かがあるに相違ない——誰かにとって。


十一月十三日——猫に負わされた爪痕は腫れ上がって、腹立たしいやら痛いやらだ。ずきずきして痒い。血液の状態が良くないのではないかと疑っている。さもなければもう治っているはずだろう。ペンナイフで傷口を広げ化膿止め液につけて丹念に洗浄した。猫の引っ掻き傷のせいで起きた不愉快な話を聞いたことがある。


十一月十四日——間違いなく妙な具合に神経に触るというのに、この家のことが好きだ。まさにロンドン中心部にあってここは孤絶し見捨てられている。しかし、だからこそ静かで仕事に集中できるわけだ。どうしてこんなに部屋代が安いのだろう。怪しんでいる人はいるのだろうが、安宿である理由について問いかけすらしなかった。嘘を吐かれるよりは答えがない方が良い。外のドラ猫どもと中のドブネズミどもを排除することさえできたら。私は日増しにここの奇矯さに馴染んでいき、ここで死ぬことになるのだ、そんな風に感じていた。ああ、こんな表現だと奇妙に響くし誤解もされるな。ここで生きて死ぬと書くつもりだった。ここか私か、どちらか一方が粉々に崩れるまで、契約を一年一年更新していくことになる。現状から見て建物の方が先に逝くだろう。


十一月十六日——今朝目覚めたら部屋じゅうに衣類が散乱し、竹製の椅子がベッドの脇で転覆していた。コートとチョッキはあたかも昨夜何者かが試着したかのような有様だった。恐ろしいまでに鮮明な夢も見ていた。夢の中で終始、両手で顔を隠した男が近寄ってきて、苦痛にさいなまれているかのように「どこに行けば覆いがある? おお、私に着せてくれるのは誰だ?」と叫んだ。何と馬鹿な。だが少し驚きもした。それ程までに真に迫っていたのだ。最後に夢の中で歩き回り、当時住んでいたアールズ・コート・ロードの冷たい歩道の上で目覚めてショックを受けてから早や一年以上経った。もう治ったと思っていたのだが、違っていたことになる。この発見は私をかなり不安にさせた。今夜寝るときは自分のつま先をベッドの柱に縛り付けるという昔の手を使ってみることに決めた。


十一月十七日——昨夜またしても最悪に憂鬱な夢に苦しめられた。夜中、何者かがこの部屋をうろついているらしく、時に居間とベッドサイドを行ったり来たりしながら、私のことをじろじろ見るのだ。私は一晩中この人物の監視下にあった。本当に目覚めたわけではないのだが、その寸前まではいっていた。消化不良による悪夢なのだろう。というのも、朝起きるとひどい頭痛がぶり返していたからだ。衣服は悉く床に散乱しており、暗い時間帯に急いで脱ぎ捨てたのが明白だった(私自身で蹴ったのか?)し、ズボンは居間に向かう階段に引っかかっていた。

だが一層悪質だったのは——今朝部屋の中で例の奇怪な腐敗臭を嗅いだ気がしたことだ。極めて微かではあった、だがそれが暗示するものは腐敗と嘔吐に他ならなかった。一体あれは何なのだろう?……今後は部屋を施錠するつもりだ。


十一月二十六日——この一週間たくさんの良い仕事を仕上げることができ、体も規則的に動かしてきた。気分は良く、心は穏やかだった。この平穏を乱したものはただ二つ。一つ目は、それ自体としては些細なことで、疑いなく容易に説明できる。十一月四日の夜、上の窓に明かりが灯っているのが見え、ブラインドに大きな頭と肩が影を射していたのだが、それは例の屋根の下の四角い部屋の窓の一つだ。実際にはそこにブラインドなどなかった!。

もう一つ。昨夜新雪の中を帰宅したのがおおよそ十一時。傘を頭上まで下げてさしていた。路地を半ばまで歩いたところで、雪の上には一つの足跡もなかったのに、目の前に一人の男の両脚が見えた。上半身は傘に遮られて見えなかったが、傘を持ち上げてみると、背が高く恰幅のいい男が私と同じ家の同じ玄関に向かって歩いているところだった。一メートルちょっとしか(four feet)離れていなかったはずだ。路地に入った時は無人だと思っていたのだが、まあ勘違いは誰にもでもあることだ。

一陣の突風が吹き、傘を低くしなければならなかった。再びそれをあげた時、三十秒も経っていなかったのだが、人っ子一人目に入らなかった。数歩進めばもうドアで、例によってそれは閉まっていた。突然狼狽えたのはその時だ。新雪の表面は一切乱れていなかった。足跡は私のものだけ。男に初めて気づいた地点まで戻ったが、自分のブーツ以外の痕は全く見受けられなかった。びくびくもので階段を登り、なんとかベッドに入ってほっとした。


十一月二十八日——寝室のドアを閉めると、気がかりなことはおさまった。眠ったまま歩き回っていたのは確実だ。おそらく、一度緩めたつま先の紐をもう一度縛りなおしたのだろう。悩める私の精神が眠りを取り戻し、静かに休息できるようになるには、ドアを施錠したという安心感だけで十分だったのだ。

しかしながら昨夜、悩みの種がいきなり別の、一層粗暴な形で現れるようになった。私は暗闇の中で目覚めた。何者かが寝室のドアの外に立ち聞き耳を立てているような感じだ。この感じは目が覚めていくにつれ確固たる知識となった。はっきり判る身動きや息の音はなかったのだが、私の信念は固く、ベッドを這い出しドアに向かった。すると隣の部屋の中から、微かな、だが聞き間違いようのない音がした。誰かがこっそりと床の上を渡って出て行こうとしている。その音は、しかし普通の足音でも、規則的な靴音でもなく、ずるずると這うような混乱した音、何者かが腕と膝で蠕くような音に聞こえた。

秒速でドアを解錠し、速攻で居間に入った。すると、いま自分が立つこの地点から何者かが立ち退いたばかりなのを感じ取れた! この上なく微妙な振動が神経に触れたのだ。盗聴者は立ち去った、表ドアの裏側の廊下に立っている。そちらのドアも閉じていたのだが。なるたけ音を立てずにさっと部屋を横切り、ノブを回した。廊下から寒風が吹き付け、繰り返し繰り返し背筋を震わせた。戸口には誰もいなかった。小さな踊り場にも誰もいなかった。階段を下りていくものもなかった。だがこれだけ素早く追った以上、真夜中の盗聴者はさほど遠くに去ったわけがなく、構わず追跡すれば顔を突き合わすことになるだろうと思っていた。神経過敏と恐怖心とを都合よく打ち破ってくれたこの度胸は、問題の侵入者を発見し秘密を絞り出させることが、なんとなく自分の安全のみならず正気のためにも不本意ながら必要不可欠だとの信念から生まれたものらしかった。というのも、男の存在をこれほど鮮やかに感じ取りながら覚醒したのは、聞き耳を立てるべく強度に集中していた奴の精神が私に影響を及ぼしたからではないのか?

狭い踊り場を横切り、この小さな家の階段の奥を見下ろした。目に入るものは皆無だった。闇に蠕くものは誰もいなかった。裸足の足にしみる油紙の冷たさよ。

その時突然私の目を上方に向けさせたのが何だったのかは判らない。私に言えるのは、何となく見上げた私の目に映ったのが、階段を一回りほど昇ったところの手すりから身を乗り出しこちらの顔を睨めつける人物の姿だったということだけだ。男だった。男は階段に立つというより手すりにしがみついているように見えた。暗闇のせいで、見えたのはおおざっぱな外観のみだったが、頭部と肩は見るからに巨大で、直上の屋根に開いた天窓を背にくっきりとした輪郭を顕していた。すぐさま脳裏にこんな考えが浮かんだ。私が見つめているのは何か大きくて醜いものの顔貌なのだと。巨大な頭蓋骨、鬣めいた髪、広い瘤のある両肩。立ち止まって分析したりしなかったが、それらは到底人間のものとは思えず、恐怖に魅入られた数秒の間、私は我知らず頭上の暗く窺い知れない容貌に視線を返し見つめあったのだ。自分がどこにいるのか、自分が何をしているのか正確なところを知りもせずに。いきなり、顔を合わせている相手こそ謎めいた真夜中の盗聴者なのだということに思い当たった。私はこれから起こるであろうことに対して、きっぱりと腹を据えた。

恐怖の瞬間にどんな源泉から度胸が湧いてきたのか、それは説明不能な謎としていつまでも残るだろう。額にびっしり汗をかき、ガクガクと震え慄きながら、私は気合で一歩を進めた。二十もの質問が唇から漏れた:お前は何者だ? お前は何をしたいのだ? なぜ盗聴し監視する? なぜ私の部屋に入るのだ? しかし、一つとしてはっきりした言葉にはならなかった。

私はただちに階段を登りだし、その動きを察しては影の中にあとずさると、同様に登り始めた。追いつ追われつだった。這い回る音が聞こえるのはわずかに数段上からだったが、距離は縮まらなかった。私が角を曲がると、奴は次の角を曲がるところで、私がそこを曲がると、奴は一番上の踊り場にたどり着いていた。屋根直下にある例の四角い小部屋のドアを開け中に入るのが聞こえた。ドアが閉まる音がしなかったのに、動き回る音は即座に消えた。

こうなると明かりが欲しかった。あるいは杖、ないし何でもいいから武器になるものが。だがその種のものは何もなく、さりとて戻ることはできなかった。そこで忍び足で階段の最後の部分を登りきり、暗闇の中、一分もしない内に奴が通ったばかりのドアと対面していた。

しばし躊躇した。ドアは半ば開いており、盗聴者は間違いなくすぐその裏にいて、明らかにいつものお好み通り立ち聞きしているのだ。こんな暗い部屋に入って奴を探しても無駄だろう、奴がいるのがあの小部屋だと思うと空恐ろしい。私は怖気をふるって今にも引き返そうと思っていた。

こういった瞬間において、意識がいかに些細な物事から重要かつ途轍もない程の衝撃を受けるかは、何とも不思議だ。何か——多分一匹の甲虫かネズミ——が背後の裸の壁板の裏でゴソゴソ逃げていった。ドアが二分にぶほど動いた。閉まりかけている。またしても決意が湧き上がった、今度は逆方向だ。一気に歩を詰めドアを蹴り開けた。ひと蹴りでドアは全開になり、進路を阻むものは無くなった。私はその先の漆黒の闇の中へとゆっくり足を進めた。床板を踏む裸足の音がなんと奇妙に柔らかだったことか! いかに血流が私の頭の中で虫のように唸っていたことか!

室内に入った。暗黒が私を取り巻き、窓にすら垂れ込めた。壁を手探りしながら部屋全体を調べたが、何より先にドアを閉めた。相手の逃げ道を塞ぐためだ。

ここにいるのは二人、奴と私。四つの壁に囲まれ、互いに一メートルも離れていない。だが、私が今ここで共に閉じ込められている相手は何か、いや何者なのだろうか? この件全体に関わる新たな一つの考えが突然、頭の中に閃いた——そして気付いたのだ。私は馬鹿だ、とことん馬鹿だと! ようやくすっかり目がさめた。そして恐怖は蒸散していった。呪われし我が神経よ、夢、悪夢、懐かしの結末が再び——夢中遊行。あれは夢の人物だ。昔むかし、夢に現れた人物たちが覚醒後もしばらくの間私の前に立っていたことがあった…… 寝巻きのポケットに偶然マッチが入っていたので、壁で擦って火をつけた。人っ子一人いない。影すらもない。自分の哀れな神経と愚かしくも鮮明な夢とを呪いつつそそくさとベッドに戻った。だが眠りに再び落ちるや否や、同じ蛮人の姿が枕辺に這い戻り、かがみこみ、馬鹿でかい頭を私の耳に近づけて、夢の中に何度も何度も囁くのだ「お前の身体が欲しい、お前の身体で自分を覆いたい、それを待っている、いつでも聞き耳を立てているぞ」と。夢に劣らず馬鹿げた台詞だ。

しかし、あの小部屋で嗅いだ妙な匂いはどうだろう。それがまた漂っている。これまでにない強さで、しかも目がさめてみれば私の寝室にすらあるようなのだ。


十一月二十九日——心の中にじわじわと、六月の霧の海に射す月光のように、この家が私に齎す影響力は神経や就寝時の夢によっては十分説明しきれないのだという考えが忍び込んできた。その力は不可視の網となって私を捕らえ、逃れたくても逃れられない。それは私を引き寄せ、引き留めようとする。


十一月三十日——今朝、郵便屋がアデン発の手紙を持ってきた。前に下宿していたアールズ・コートからの転送だ。差出人はトリニティ・カレッジ時代の寮友であるチャプターで、東洋から帰郷してくる途上だ。住所を教えろというので、滞在中のホテル宛てに返事を書き、「立ち寄ってくれ」と加えた。

前にも書いたように、部屋の窓から路地が見通せるので、訪問客に気づくのは容易い。今朝執筆に没頭していると、跫音が路地をやってきて私は説明しがたい漠然とした警告で一杯になった。窓から見下ろすと男がドアの外に立って誰かが開けるのを待っていた。両肩は隆々とし、贅沢なシルクハットを被り、カラーの周りにぴったりオーバーコートを纏っていた。見えたのはこれだけだった。ややあってドアが開き、私の神経には疑いもないショックが走った。男の声がこう訊いたのだ、「——さんは今もこちらかね?」と私の名前を挙げて。返答は聞き取れなかったが、明らかに肯定的なものだったと見えて、男は玄関に入り背中でドアを閉めた。しかし、階段を上がってくる足音がするだろうという期待は裏切られた。何の物音もしなかった。あまりに不思議だったので自分の部屋のドアを開けて外に目を走らせた。誰一人として見えなかった。狭い踊り場を横切り小路全体が見渡せる窓から外を見た。人間がいた痕跡も、来た跡も、去る姿もなかった。路地はがらんとしていた。そこで慎重に階下に降りて、台所にいた暗い顔の女将に、一分ほど前に紳士が来て私を呼び出さなかったか、と聞いた。

女将は奇妙な、ひどく疲れた様子で声なく笑うとこう答えた「いいえ!」


十二月一日——神経の状態に真実不安を覚えている。夢は夢だ。だが、真昼間に夢を見るなんてことはかつてなかった。

チャプターが来るのが本当に楽しみだ。素晴らしい男である。頑強、健康、神経が太く、想像力が弱く、稼ぎは年に二千ポンドをくだらぬ。彼は度々仕事話——最新のは自分の秘書になって一緒に世界を回らないか、という提案で、私に旅費とちょっとしたポケットマネーを渡すための繊細なやり方だ——を持ちかけてくれるのだが、私は毎回断ってきた。彼との友情を失いたくなかった。女性を持ち込むのは論外で、金銭も多分そうだ。だからそれらを介入させなかったのだ。チャプターは常日頃、彼が私の「夢物語」と称するものを笑い飛ばしてきた。散文的な人物に特有の浅薄な想像力しか持ち合わせていないからだ。それなのにこのあからさまな欠点を論うと彼は心底憤るのである。彼の心理学はコチコチの物質主義者のそれで——どちらかというとお笑い種だ。にもかかわらず、私は彼にこの家のことを話すつもりであり、それに対する彼の冷静な判断を聞けば間違いなく気が楽になることだろう。


十二月二日——中でも最も異様な部分をこの短い日記では言及してこなかった。告白すると、黒白をつけた形で書くのが怖かったのだ。思考の背後に追いやり、でき得る限り明確な姿をとらせないままにしてきた。そんな努力にもかかわらず、しかしながら、それは力を増してきた。

さて今私はこの問題に真正面から取り組んでいる。表現するのが予想以上に難しい。頭の中を過る空覚えの旋律が歌おうとした瞬間に消え失せてしまうように、これらの考えは心の背景として、心の背後で一つの塊をなしており、前景に出てこようとしない。ジャンプに臨んでしゃがんではいるが、実際に飛び出してくることは決してないのだ。

ここの部屋では、仕事に熱中している時を除いて、ふと、自分の考えではない思考や観念に捉われていることがあるのだ! 私の気質とは完全にそぐわぬ、馴染みのない着想がいつまでも頭の中にぶくぶく湧き続ける。それらの細部は特に重要ではない。大事なのは、これまで私の思考が流れてきた水路からかけ離れている点だ。特に心を休ませ、空っぽにしている時それらは忍び込んでくる。炉端でうつらうつらしている時、椅子に座ってつまらない本を読んでいる時。そんな時、私のものではない思考が生命を得て、私をひどく落ち着かなくさせる。時折、そんな思考があまりに強力なため、あたかも誰かが傍にいて大声で考えているような気さえする。

明らかに私の神経と肝臓はどうしようもなく病んでいる。もっと根をつめて働きもっと激しく体を動かさねば。精神を集中している間は悍ましい思考がやってくることはない。だがそれらは常にそこにいる——待機している、生きているかのように。

この家で数日を過ごした頃から上に述べようとしたことに次第に気づきだし、以後それは時々刻々と強まってきた。この数週間に二度だけだが、尋常ではない別件が起きた。ぞっとする。何か致命的で忌々しい病魔が近くにいるという意識である。熱波のごとく私を襲い、行き過ぎた後は冷え冷えとした震えを残す。何秒かの間は空気が汚染されたようになる。病気というこの考えは、かくも浸透性があり、またかくも歴然としていたので、一瞬で脳を眩まし、自分の知るあらゆる難病の不吉なる病名が私の精神を貫く白熱の炎のように閃いた。こういった災難についてこれ以上説明できるくらいなら空だって飛べるだろう。だが尚、夢ならざる湿った皮膚と動悸とが常に残り、その束の間の訪いを証言している。

何より異様だったのは、二十八日の夜、立ち聞きする人影を追って階段を上った際に死病の間近にいる感じがしたことだ。屋根裏の小部屋に二人して閉じ込められた時、この目に見えぬ悪性疾患の真のエッセンスと顔を突き合わせていると感じた。これまでかような感覚が私の心に入ったことはなく、神よ、これを最後となし給え。

どうだ! 私は白状したぞ。これまで自分の書いたものの中に見出すのを恐れていた感覚を漸く文字にした。というのも——もうこれ以上自分を偽れないから——あの夜(二十八日)の体験は、日々の朝食が夢でないように、いやそれ以上に夢ではなかったからだ。この日記に残した下らぬ記載は、言葉もないほどの恐怖を齎した出来事を説明してしまおうとして書いたに過ぎず、願望の賜物ではあっても、自分で本当に正しいと信じられる証言の言葉ではないからだ。こんなことを続けていくと恐怖が募り、いずれは受容可能な限度を超えるのではないか。


十二月三日——チャプターよ来てくれ。事実は既に整理済みだし、それを語る私の顔に向けて、彼が灰色のクールな目を訝しげに落とすのが見える:私の部屋のドアがノックされたこと、身なりの良い訪問者、上の窓に灯った光とブラインドに射した影、雪道で私の前を歩いていた男、私の衣服が散らされた夜、エミリーの告白が阻止されたこと、女将の怪しげな沈黙、真夜中に階段で聞き耳をたてる者、続いて眠りの中で聞いた言葉。何よりも、これらに増して話しにくいのだが、業病の存在と自分のものではない思考の奔流。

チャプターの顔が見え、慎重に語る言葉が聞こえるようだ「またおやつを食って碌に食事を摂らなかったな。そうだろうと思ったよ。僕の神経科医に見てもらった方がいいし、その後一緒に南仏に行くんだ。」 調子の悪い肝臓や張り詰め切った神経とは全く縁のないこの御仁は大物神経科医の定期健診を受けているのである。自分の神経系が衰弱し始めていると周期的に思い込むのだ。


十二月五日——盗聴者の一件以来、寝室に常夜燈を灯すようになり、睡眠は妨害されなくなった。ところが昨夜、遥かに嫌らしい目にあったのだ。突然目覚めると、一人の男が化粧台の前で鏡に映る自分自身の姿を凝視していた。ドアはいつも通り施錠してあった。盗聴者だ、私にはすぐにそれがわかった。総身の血が凍りついた。あまりの恐怖の波に呑まれた私はベッドの上で硬直したようで、動くことも口を開くこともできなかった。しかし、例の忌々しい悪臭が部屋に立ちこめていることには気づいていた。

男は背の高い偉丈夫に見えた。鏡の方にかがみこんでいた。こちらに背中を向けていたが、鏡の中に揺れる常夜燈をちらちらと反射して巨大な頭と顔が見えた。早暁の幽鬼じみた灰色の光がカーテンの縁に回り込み光景に一層の恐ろしさを付け加えた。なぜならばその光は鬣に似た黄褐色の髪に落ち、髪に覆われたその下には膨れ上がった皺だらけの顔貌があって、一目見たら忘れられない雌ライオンのような——恐ろしくてこの先は書けない。だが、真実の裏付けとして私は見た。微かな二種類の光の中で、両頬に青銅色をした発疹があり、疑いなく男はそれを鏡で丹念に検分していたのだ。青ざめた唇はとても厚く腫れ上がっていた。片手は見えなかったが、もう一方は私のヘアブラシの象牙製の背に乗せていた。筋肉は異様に収縮し、指は痩せ細り、手背はぎゅっと窄んでいた。灰色の大蜘蛛が小枝にしがみついているようであり、あるいは大きな鳥の鉤爪のようであった。

一つ部屋の中にこんな名もない怪物と、一人きりで、しかも腕を伸ばせば届きそうな距離にいることがはっきり判ると、私は完全に打ちのめされてしまい、そいつがこちらを向いて小さな、大柄な顔の他の部分とまるで不釣合なほど小さなビーズのような双眸で睨みつけてくると、私は跳ね起き硬直し、大きな叫び声をあげ、恐怖に駆られて再びベッドの上で横ざまに卒倒してしまった。


十二月六日—— ……朝になって意識を取り戻した私が最初に気づいたのは、自分の服が床に散らかっていることだった…… 考えをまとめようとしたが難しかった。無茶苦茶に体が震えた。いますぐチャプターのホテルに行って、いつ来るのか聞くのだ。昨夜のことはとても言えない。恐ろしすぎるし、自分の思考から遠ざけ厳封しておく必要がある。頭がくらくらするせいで朝食は全く摂れず、二度血の混じった嘔吐をした。外出できるよう身だしなみを整えていると、二輪馬車が舗石に音を立て、一分後にはドアが開いた。実に嬉しいことに、会いたいと思っていた当の本人がやってきたのだ。

彼の強面と冷静な目には即効性があり、私は次第に落ち着きを取り戻した。握手は一種の強壮剤だ。だが、私を力付けようとする深い声の響きに聞き入っていると、あの夜の幻影が幾分色褪せたこともあり、自分の野蛮でつかみどころのない話を語るのがどんな難事になるか気づき始めた。動物的活力を発散させて繊細なる幻影の織物を修復不能なほど台無しにしてしまう人物というのはいるものであり、チャプターはそんな男だった。

私たちは最後に会って以来の出来事を逐一語った。彼が旅行の話をし、私が聴く側に回ったのだが、私は語るべき恐怖体験で一杯だったので、よい聴き手にはならなかった。自分語りに突入し、彼の面前で公然とぶちまけることができるタイミングを見計らっていた。

だが、だいぶ経ってから私は気づいた。彼もまた時間を潰すためだけに喋っている。彼もまた心の裏側に重要な何かを隠している。あまりに重いため、時が満ち自らを明らかにするまではとり落としてはいけない何かを。だから小一時間というもの私たちはお互いの爆弾を投下するための適切な心理的瞬間を待っていた。その間私たちが発揮した精神の力は、もっぱら爆撃を防ぐに足るだけの反力を各々維持することに費やされ——それ以上の何物でもなかった。故に、それに気づいた私は暴露へと向かう決意を直ちに固めた。しばし自分語りという目標を断念し、こちらがちらつかせていた重荷から解き放たれた彼の心がすぐさま自分自身の重荷を投下するための準備を開始したことを見て取って満足した。会話は次第に磁力を失い、興趣はやつれ、彼の旅行記は精彩を欠いていった。話はくどくなり、言葉の中身は生き生きとした思考ではなくなった。間が伸びていった。興味はすっかり失せ、風の中のロウソクのように消えた。彼は口を閉ざし、深刻かつ心配げな面持ちで私の顔を真っ直ぐに見た。

ついに心理爆弾の投下時刻が来た!

「それで——」彼の言葉は宙に消えた。

私は口を挟まず、無意識のうちに先を促す身振りをした。差し迫った暴露がひどく恐ろしかった。黒い影がよぎったように思えた。

「それで、」ついに彼は思わず口を開いた。「どうしてまた君はこんな所に——こんな部屋にきたんだ、って聞こうと思ったんだよ。」

「家賃が安いからね。一つには。」私は語りだした「中心街だし、それに——」

彼は遮って「安すぎるだろ。なぜそんなに安くしてるのか聞いたのか?」

「思いもよらなかったな、その時は。」

間があった。彼は私から目をそらしていた。

「頼むから続けてくれ、なあ教えてくれよ!」私は叫んだ。緊張が私の神経の耐えうる限界を超えつつあったからだ。

「ここはブラントが長く住んでいた場所だ」彼は静かに言った。「生きて——死んだ。なあ、昔、彼に会いによくここに来たんだ。できるだけ楽にしてやろうとね、彼の——」早速また言い淀んだ。

「なるほど!」苦労して口を開いた「頼むから話を進めてくれ、さっさと。」

「だがなあ、」チャプターは続けた。顔を窓に向けて、見てわかるほど震えていた。「終いに彼は本当にひどいことになって、話す気になれないんだ。何でもへっちゃらだと思っていたのにな。神経がやられて夢をみたんだ。夜も昼も取り憑かれた。」

私は黙ったまま彼をじっと見た。ブラントのことなど聞いたことがなかったし、彼が何の話をしているのかもわからなかった。だがとにかく、私は震え上がり、妙に口が乾いた。

「それ以来ここに帰ってくることはなかった。」ほとんどささやき声で言った「で、ああ、鳥肌が立つ。誓って言うが、ここは人間が住むような場所じゃない。なあ、君がこんなにひどくなったのは見たことがないぞ。」

「一年契約だ」引きつり笑いをしながら「サインして借りて、それだけ。掘り出し物だと思っていた。」

チャプターは震えると首のところまでオーバーコートのボタンをかけた。そして誰かが聞き耳を立てていると思ってでもいるかのように時々振り返りながら低い声で語った。私もまたこの部屋に三人目がいると誓うことができた。

「彼は自分でやったんだ。誰も咎めなかった。本当にひどい目に遭っていたんだ。最後の二年間は外出する時はヴェールをかぶった上で、周りを全部囲った馬車に乗っていたんだよ。随分長い間面倒を見てきた看護人がいたんだが、最後は追い出してしまった。両脚は関節から先がなくなって、落ちてしまったんだ。地面を動く時は手足を全部使って四つん這いで。臭いがまた——」

話を止めないではいられなかった。これ以上そんな細部を聞くのはまっぴらだ。私の皮膚はじっとりし、体が火照ったり寒々としたりを繰り返した。ついに私にも判り始めてきたからだ。

「可哀想に、」チャプターは続けた「私はできるだけ目を開けないようにしていたんだ。いつも彼はヴェールを上げさせて貰えないかと請い、あまり気にしないでくれと頼んでいた。私はいつも開いた窓のそばに立っていたんだが、触られたことはなかったな。彼は家を丸ごと借り切っていた。出て行くように仕向けるものは何もなかった。」

「この——二部屋に住んでいたのか?」

「いや、一番上の小部屋に住んでいた。屋根のすぐ下の四角いやつだ。暗いのが好きだったんだな。この部屋は地面に近すぎるし、窓越しに誰かに見られる虞があった。あそこのドアまで大群になって押しかけて、窓の下に陣取っては彼の顔をちらっとでいいから見ようとしていたんだよ。」

「病院があったろう。」

「近所のには行きたがらなかったし、周りのものも無理強いしようとはしなかった。連中ときたら、あれは伝染病なんかじゃなかったと言うんだよ。だから本人が望めばここにいられたんだ。彼は日がな医学書を開いて、薬品やなんかのことを読んでいた。首と顔はぞっとしなかったな。ライオンのようだった。」

それ以上の説明は勘弁してくれと、私は手を挙げた。

「彼は世間の邪魔者であり、彼にもそれがわかっていた。ある夜、彼は余りにも鋭くそのことを理解しすぎて生きていられなくなったんだろう。薬を大量に飲んで——あくる朝、床の上に死んでいるのが見つかった。二年前のことだよ。あと数年はもつだろうと言われていたのに。」

「なあ、お願いだ!」私は叫んだ、これ以上の緊張には耐えられない「何に罹っていたんだ、いますぐ教えてくれ。」

「君は判っていると思っていたぞ!」彼は心底驚いて絶叫した。「知っていると思っていた!」

彼はかがみこみ、私と目と目を合わせた。漏れた囁きは、ほとんど聞き取れなかった。唇がその単語を恐れているかのように:

「レプラだったんだ!」


翻訳について

底本は Project Gutenberg の Masterpieces of Mystery in Four Volumes: Ghost Stories by Joseph Lewis French です。この翻訳は独自に行ったもので、先行する訳と類似する部分があっても偶然によるものです。例によって、この訳文は Creative Commons CC-BY 3.0 の下で公開します。TPPに伴う著作権保護期間の延長が事実上決定した現状で、ほとんど自由に使える訳文を投げることには多少の意味があるでしょう。

The Listener というタイトルは訳しづらく、もっといい邦題をつけられないかと今でも思っています。「リスナー」じゃラジオ番組を聴いているかネットワーク関係のプログラムを組んでいるかみたいですし。

同じくブラックウッドの「太古の魔術」で主役を張った○○がここでも良い脇役になっていますし、何か象徴的な意味やあるいはレッドへリングとしての意義を持っているようにも思えます。なお、「レプラ」は現在では「ハンセン(氏)病」と呼ばれるようになっています。この小説は少なくとも二つの読み方ができるように書かれていると思われますが、「ハンセン氏病にかかるのは悪い奴に決まっていて、だから死んだ後も化けて出る」という読み方は決して推奨しません。言わずもがなではありますが、今の世情にあっては、悲しいことにいくら野暮でもこう明記しておかないと差別の道具に使われかねません。


12, Jun., 2017 : とりあえずあげます
22, Jun., 2017 : 全体のみなおし
25, Jun., 2017 : 青空文庫版作成に伴う小変更
16, Jul., 2017 : typo他微修正
27, Jul., 2017 : typo他微修正
30, Jul., 2017 : typo、日付修正
10, Aug., 2017 : 微修正
16, Aug., 2017 : 微修正
21, Jan., 2018 : 微修正
29, Jan., 2018 : 微修正
もろもろのことどもに戻る