「今度の衆議院選挙に思う」(2000/06/19〜06/28号)
もうすぐ選挙である。

以前にも書いた通り、自民党の愚策はもはやどうしようもないところまで来ている。
景気が回復したと言って「我らの政策のお蔭だ」などと言っているが、
もっと良策をとっていればもっと早く回復したろうし、
そもそも、こんな不景気にはならなかっただろう。

もちろん、これに組みする「公明党」「保守党」はさらに愚かさ爆発である。

自民党も愚かしいが、最近の政治・経済回りの評論家の連中も
輪をかけて下らないことを言っている。
そのほとんどが欧米の例に習えと言うんだから、ばかばかしい。
そんなこと言うだけなら、お前たち何ぞいらん。
未だに欧米を盲目的に手本とするような奴らは
日本の特質を無視している=自国のことを解ってないのだ。
こんな連中のいうことをありがたがっている経営者がやっている
会社は先が知れている。
そんなやつらを持ち上げているマスコミも大馬鹿ものである。

ぜひ共今度の選挙ではこういう馬鹿ものどもに正義の鉄槌を下し、
日本を良くする必要がある。

    ・・・

さてそれはとりあえずほおっておくとして、
戦後の各種場しのぎ的施策の積み重ねが何をもたらしかと言えば、
昨今の若者の崩壊である。

私たちの子供の頃にはまだきびしい明治の人が社会の中心にいた。
だから、社会に芯があり秩序があった。
自由を標榜するものたちは、その分の責任をおっていた。

ところが今は甘やかしだけの社会で、
その場しのぎのたちまわりだけでふにゃふにゃ、
保身のためにはなりふりかまわない連中ばかり。

若い連中は物質的にはみたされすぎ、さらにきびしく教えられることもないので
つけあがっている。
自由と我侭をはき違えている。
自分自身と言うものを持ってないのですぐに誰かと同じになりたがる。
私には、最近の若い連中は見んな同じに見える。
そのくせ、見知らぬ人間とはうまくやっていく自身がないので、
自分の意見と違わないきわめて小さな範囲でのみしかつきあえない。
1人になるとすぐにさみしくなるので常に携帯電話を手にしている。

ようするに、精神的に完全に子どものままなのだ。
子供と言うにも足りない、幼稚すぎる。

こういう連中を馬鹿にするのは簡単だが、こいつらも犠牲者ではある。
すべてはこいつらの親の責任であり、さらには、その親を育てた
社会の責任である。
そしてそれは、大本をただせば経済成長だけをめざすために人間の本質を
無視してきた政治と企業と教育の責任である。

最近の若い連中の崩壊ぶりはちまたで見るそいつらの
行動を見ていればわかるが、それ以上に最近の各種事件を見ているとはっきりする。

すべてに共通しているのは、「思慮と我慢が足りない」ということだ。

ずっとゆりかごの上で育てられているから頭を使って考えることが出来ない。
学校の教育は思考ではなく記憶だけを求める。
テレビゲームはしょせんは他人の作った箱庭であり、
それ以上発見はない。それもわからなければネタ本で知ることが出来る。
ほしいものはすぐに買ってもらえる。
食べ物もいつもある。
こんな中で育っていては、「思慮と我慢」がなくても仕方はない。

学校で教えてくれるのはその時の実生活に直接役にたつことではない。
将来への準備である。
われわれが子供のころは、街中駆け回り、山の中を走り回った。
その中では自分の判断だけがすべてであった。
自然との駆け引きは知恵を育てる。
そこには教科書などない。
食べ物は旬をまたなければならない。
我慢と思慮が常にためされたのだ。

便利すぎる世の中は人をダメにする。
世の中、少しは不便な方がよいこともある。
不便さの中にこそ工夫がうまれる。
また、急ぎすぎると熟考する時間がない。
たまにはゆっくり考える必要もあるのだ。

そういう観点で見れば、今の世の中はあまりに便利すぎ、
しかも時間的余裕がない。常に追いまくられる。
世の中の流れに付いていくことが常に良しとされ、
常にあからさまな勉強と名の記憶力を強要される。
今一瞬において出来ない奴は切り捨てる。
(何にもしないし、それに対して弁解するだけ奴等とは違う。)

大量生産を行うための大量消費と大量廃棄。
リサイクル法何て小手先のごまかしだ。
今の企業系体がそれに基づいている以上、廃棄が必要なのだ。

人も物も大切にしない世の中。

核家族化がすすむ中、きびしさを教えるはずの親たちは
会社ですごすことで精いっぱいで子供の教育を他人まかせにする。
なにか問題が在ったらそれらのせいにする。
責任のがれ。

老人介護保険は、老人にやさしい社会を標榜しているが、
実は老人の世話を保険と言う金によって他人に押しつけるだけである。
これもまた責任のがれに他ならない。
しかも、それがうまく行かないことは、介護産業大手のコムスンと言う会社が
行きなり経営不振に陥ったことから見ても明らかである。

今の親とよばれる連中は子供の教育に対しても、その親の介護に対しても
無責任なのだ。
そんなに物事に無責任になってまで望むことは何なのだ。
金か、社会的名声か。
それとも単に「楽」さか。
もっとも、そうなったのはその親の責任だから、彼らだけを責めるわけには行かない。
介護されない親は、ある意味自業自得なのである。

核家族化は人の生活から死を遠ざけた。
核家族化だけでなく、自然が身近になくなったことも生活に命の実感をなくした。
自然の中にはいくらでも生命のうつろいが在った。
食べ物を家で調理するには形あるものを食料へと買える作業があった。
それを見ることで、自然に命の大切さと物の大切さを知った。
ファーストフードの買い食いはそれがない。
私はづねづね「マクドナルドのハンバーガーは紙粘土だ」と言っているが、
それは味だけではなく、命あるものを人の食料に換えたという
感覚がないと言うこともある。
あんなもん食べてたら、体に悪いのはもちろん、精神的にもだめになる。
あんな物がはやるということころに、今の日本の崩壊の一端がある。

今の若い連中の犯罪の多くは、
自分の思うとおりにならない他人の存在を認められない「幼稚さ」、
それを我慢することが出来ない「忍耐力のなさ」、
それに「人や物の大切さがわからない」ことがあわさって引き起こされる
ことである。

人の成長にとって家を果たす役割はきわめて大きい。
今社会が荒れているなら、より一層その役割が大切になる。

    ・・・閑話休題・・・

景気の動向を見る際、その指標にされるのに住宅着工件数がある。
たしかに住宅の中にはいろいろな分野の産業が関係するので、
それを見るのはわかりやすい。
不動産、各種材料、電気、ガスなどなど。
しかし、それが核家族化を推進し結局今の若い連中の崩壊をもたらした。

自民党や、おそらく既存のどの政党も頭の堅い連中ばかりなので、
本質をとらえずに小手先だけを動かして逃れようとする。
世の中で起こっている多くの現象は、1つの原因から発生したいくつかの
具現化にすぎない。
本質的対策は、その原因に対して的確に行わなければならない。

1つの方法はこうである。
「多世帯住宅を作ったら補助を出す」である。
小さな家で1家族が過ごすより、その親といっしょに過ごすのである。

これによりどういう効果が考えられるだろうか。
必要な家が減るので住宅着工件数が減る。
しかし、それはきわめて一時的なことなのだ。

複数の家を1軒にすることで、1軒あたりの面積はふやせる。
大きな家で育った人間は広い心になる。
広い家の中ではいろいろな工夫が出来る。工夫は知恵を産む。
1軒あたりの家に対する投資はふえる。

人が多いところでの生活は、子供に自然と社会との接し方を教える。
祖父母といえども他人である。
また、そこからしつけなども教えられる。

常に家に人がいるようになるので、ある地域を見れば人が常に家にいることになり、
犯罪も減る。

家が少なくなると、土地の造成も減る。
それにより自然が残る。そうすると自然と遊ぶ機会がふえ、
そこから学ぶことが多くなる。

すでに造成されている土地を自然に戻す工事をしても良い。
そうすれば工事そのものは減らない。
自然に戻す工事は造成する工事よりずっと高度で金もかかる。
しかし、こういう公共投資なら誰も文句は言わないのだ。

親と同居するなら、都会より田舎に帰りたいという人もいるだろう。
でも通勤が・・・。
ならば、高速移動機関を発達させれば良い。
全国に高速鉄道を張り巡らすのも良いだろう。
車ではダメだ。
自然を出来るだけ破壊せずにそれらを作るのには多くの苦労があろうが、
それをしなければならない。

いや、そもそも移動そのものをなくす手もある。
高速通信手段だ。インターネットをもっと仕事で使えるようにするのだ。
在宅勤務をやりやすくする。
週のうち、2日でも家にいることが出来れば通勤という無駄な時間も省け、
逆に仕事がはかどることもあるだろう。
(家で、自分に良い環境で仕事したほうが数倍はかどると思うことは多いだろう。)

そうそう、家庭を主に仕事するなら、もう1社に専属と言う概念も
なくした方が良いのかも知れない。力ある人は、それをいろんな会社に
売り込めば良いのだ。

親と同居だから、介護はもちろんである。
介護保険はいらないから、その分手当として渡せば良い。
そもそも、人と接する機会が多ければ刺激があるので、人はぼけにくい。
誰かのために何かしようと思う心が人に生きる張り合いを与える。
孤独さほど、人に大きな重圧を与える物はない。

少子化の点でもこれは効果がある。
なぜ少子になるかといえば、1つは子供が出来たら女性が社会で働きにくくなるので、
それを嫌がる人が増えたからであろうが、
例え欲しくても、経済的にしんどいと言う切実な問題もある。
児童手当も収入による制限があるので私位の年収(そんなに多くないと思う)でも
もうほとんど付かない。
学校へ行く頃になれば、子供もある程度自分でいろいろと出来るが、
幼稚園以下ではやはり誰かのつきっきりの目が必要だ。
保育園も幼稚園も、実は結構高い。
3人子供を育てるには、親は相当に苦労する必要がある。
子供のための苦労は負えるとはいえ、やはり補助制度は欲しい。

ここに同居の親がいれば、面倒見てもらえるのでかなり楽になるはずだ。
老人は、年金もらって、しかも時間的に暇なのである。
こういう人たちに働いてもらうのは、非常に良いことではないか。
子供と接していると常に刺激と新しい発見があるので
老人たちにも良い効果があるはずだ。

どうだろうか。
単純な施策であるが、それだけでもこんな効果が期待出来る。
しかも、人間的に見ても実に自然な解決策なのである。
根本的施策に対しては非現実的だという意見もあるが、
小手先で逃げて将来につけを残すより、
今抜本的な改革を行ったほうがよほど良いことは明白だ。

しかも、それをやり始めるには今はもうぎりぎりの時なのだ。
これ以上遅らせてはならない。

    ・・・

この話をすすめるにおいて、やはりさけられないもう1つの課題がある。
それは女性の仕事のことだ。

両親とも共働きという家庭では、
やはり子供の精神に何かしらのひずみを残すことになる。
子供の心は、物欲的には満たされてなくても良いが、愛情的には
満たしてやらなければならない。

そのためには誰かが家にいたほうが良いと思う。
別にそれを女性に強要するつもりはない。
男性でも良い。
ただ、生物学的特質から言えば、女性のほうがあっているとは思う。

今の世の中でそのまま考えると、
女性が家に言えて、男性が働きに出たほうが社会的違和感がない。
これを逆にした時に違和感を感じさせるのは
それを良しとしてこなかった「社会の通俗的概念」だけであって、
それさえとり払われれば本質的にはどちらでも良いのだ。
「専業主夫」がたくさんいたってかまわない。
また、それを「違和」としない心がけが、社会にも、そして当の
女性にも男性にも必要なのである。

にもかかわらず、「生物学的特質から言えば、女性のほうがあっている」
と書いたのは、女性が命をはぐくむ存在であるからだ。

残念ながら、男には子供は産めない。
だから、精神的に親になるのであって、生物学的には子供が出来る前後で
変わることがない。ところが女性は生物学的に親になれるのである。
そして、その中には子供を守り育てると言う本能がある。
それは人間だけでなく、自然を見れば良くわかる。

女性を家に縛りつけるのは良くない。
だから、専業主夫も社会が受け入れられるようにならなければならない。

社会と言うのは実にきびしいところだ。
当然精神的にあれる日もある。
会社で嫌な目にあって、家に帰って完全に気持ちを切り換えて
子供に接することが出来る親はどれだけいるだろうか。
表面上したつもりでも、子供は何かしら感じるはずだ。
子供と接する親には、出来るだけそういう気持ちになってほしくない。
そういう意味でも、「専業」が好ましいと思う。

だいたい、家事が会社での仕事に比べて楽だとか、高尚でないとか
考える方がおかしい。どちらも同じ位重要だ。
確かに昔に比べて便利な家電製品が増えたので家で仕事に割く時間は
減らせるだろうが、その分は精神的楽しみに回せば良い。

先の施策で言えば、家が大きくなればそれだけ仕事はふえるだろう。
大きな家にはいろいろと手をかける余地がある。
それはおもしろい作業ではないか。

そうそう、家事専業の人が増えると会社で働く人が減る。
ということは、有効求人倍率が増えて、失業率も減る。
社員が減るから、逆に社員1人あたりの給与は増やせる、いや増やさせる。
そうすれば、家の暮らしも少しは楽になり、共働きの必要性も減る。
そもそも、共働きしないと暮らして行けないような社会であることが大問題だ。

    ・・・

女性を家に縛りつけてきたのは一種の差別である。

ここで差別の本質に付いて明かにしておかなければならない。

差別とは何か。私は最近その本質を見きわめた。
それは「劣者がいだく、優者に対する本能的恐れ」である。

それはどういう意味か。

まず男による女性への差別を見てみよう。
生物学的に見た時、実は女性の方が男性より進化した形態である。
それはいろんな事実から見るとはっきりする。

平均寿命が男女で10年ほども違う。
子供のころも、女の子は楽だが男の子は良くおなかをこわしたりして大変だと言う。
さらに、傷みに対する許容力なども大きく違う。
出産時の傷みなど、女性は耐えられるが男性がその傷みを受けると
気が狂ってしまうとさえ言われている。
瞬発的力量で見れば男性の方が強いが、持久力では女性の方が上である。

人間が動物から「人間」として進化する上で必要となったのは
「力」ではなく「耐久力」ではなかったのではないだろうか。

男が女性に対して差別をしてきたのは、この生物学的女性の優性に対して、
男が本能的に恐れた結果ではないかと推察される。
生物学的には劣っていても、力的には強い。
その強さ=暴力によって支配してきたのである。

この観点は、他の差別を理解する上でも当然あてはめられる。
学校における差別やいじめも、優者に対して、劣者が本能的にいだいた
恐怖が引き起こしているのではないか。
優者は本質的にすぐれているので劣者をいじめたりしないが、
劣者は愚か者なので、勝手に恐怖して暴れるのである。
しかも、劣者は1人では何も出来ないので群れたがり(群れを作るのがうまく)、
その結果1:多で優者に対するいじめが出来てしまうのだ。
いじめる方が本当は「劣者」なのである。

人種による差別は世界中にあるが、肌の色の違いに対する差別は
特に白人に多いのものと言える。
アメリカにおける黒人差別、南アフリカにおける白人至上主義、
オーストラリアにおける白豪主義など。
これも本質的恐れを隠すためのものと考えられる。
生物学的に見て、有色人種の方が白人より強い。
もっと言えば、一般生物的見て「白色」のものは「有色」のものに対して
劣性である。いわゆるアルビノであるが、白猫がそうでない猫に比べ
弱いと言うことは有名である。
「美人薄命」と言うのもこれによるのではないかと思われる。
本当は「美人」ではなく「色が白い」ではないかと。
白人はそのような生物学的弱さを直感で感じるからこそ、
差別を行うのではないかと思う。

一部の日本人が朝鮮人や中国人に対して差別するのも同じであろう。
伝統や文化的に見て、彼らの方が深く、優れていたのだ。
それを力でねじ伏せ、国民におろかな「差別意識」を植えつけてしまった。
いまだにその呪縛からのがれられない連中が多いのは
実に嘆かわしい。

鯨を食べることに反対する連中が、実はある種の差別をしていることも有名なのだが、
これはちょっと意味が違うものなので、別の機会に話をしよう。

女性を差別する男は本質的に弱い男である。
人種差別をする人種は劣性な人種である。
強い男はそんなことはしない。
強い人種はそんなことはしない。

強い男なら、専業主夫となってもちゃんとやっていける。
それを強要する社会的概念さえ出来ればである。
残念ながら、社会的通俗概念を撃ち破ってまでやり遂げるほど
強い男と言うのになるのは難しいらしい。

少し話を別方向にしてみよう。
大昔は、異形のものに対して人は恐れこそすれ、それを差別することは
なかったと思われる。
なぜなら、仏教における神々を見るといい。
手が何本もある、顔がいくつもある、目が幾つもある。
でもそれらは神なのである。信仰の対照であって、差別の対照ではない。
おそらくその時代、異形のものの方が本質的に優秀であるということを
知っていたからであろう。
そして、彼らを疎外するのではなくその力にすがろうとした。
彼らは優秀なので、持てる力を施したのである。

有名な哲学者ニーチェに「超人」主義と言うのがある。
この主義はとらえ方を間違えると「民俗優位性」などとなってしまい
逆に差別を産む結果となるが、正しくとらえるならば、
すぐれた者をその力を精いっぱい発揮出来るようにして、
そうでない者もいっしょにしあわせになろうと言う考えとなる。

劣者は優者が自分たちを支配するのではないかと考え、恐れる。
しかし、それがまさに愚か者の愚考であって、
優者はそんなことは考えないのだ。逆に言えば、それを考えるような奴は
本質的優者ではない。
本質的に差別を解消することは、良い世の中を産み出す結果となるのである。

差別を行う者は、本質的劣者である。

    ・・・

話が思いっきりずれたようではあるが、一応今回言いたいことは一応全部書いた。

こういうものはあまり熟考せずに書き上げた方が良い。
頭に浮かんできた言葉を一気に綴るのだ。

その分、実は細かい部分で不足が在ったりもするのだが、
まあ、それらはまたおいおい書くことにしよう。
まずは、思いを伝えたということで、今回は終わりとする。

何にしても、まずは身近な改善を求める必要がある。
そのためにも選挙は重要である。

一般市民が政治に対して力をふるえる数少ない機会なのだから、
それをみすみす棄てることはない。

入れるに値する人間がいなければ「白紙」で出せばいい。
白紙と選挙権放棄は全く意味が違う。
棄てた人間は、今の世の中に満足していると見なし、一切の文句をいう権利はない。

だから絶対に行って欲しい。

    ・・・後日編・・・

ということで、選挙に行ってきた。
どこに入れたかは、今まで書いたものを読めば解ると思うが、
間違い無く自民・公明・保守以外である。
ついでに言えば小沢も嫌いだから自由でもない。

TVでやってた政見放送を見た感じでは、政党自由連合が一番まともであったと思う。
一番不まともなのは、あらためて言うまでもない。

これを書いている今時点ではまだ開票すらされていないが、
これでまだその3党が維持または増えるようだったら、
真剣に日本脱出を考えなければならないかも。
その3党が政権にいるというそのことよりも、
自分の将来、日本の将来に付いて全く考えない連中が
大勢を占めているという証拠になるから。
そんな国にいる必要はない。

まあ、まだ結果は見えてないので総評は後にするとして、
この選挙戦の中で見た非常識をいくつか紹介しておこう。

(1)どこの政党だか解らないが、家々に味噌を配っているところがあった。
もちろん、こういうことは公職選挙法違反である。
うちは残念ながら留守にしていたのだが、もし居てたら、
それなりの証拠として選管に出すところだったのだが。

(2)この選挙でも、いや、およそどの選挙でもそうだが、
自民党は決して公約を言わない。なぜか・・・などといちいち書くまでもないが、
要するに、約束が出来ないからである。
自民党は、過去何度も公約を破ってきた。彼らの言うことは
選挙を乗り切る時だけの嘘しかない。だから、最近は嘘すら言わなくなった。
言うのは「他の政党に任せて良いのか・・・」などという、
バカげたことだけである。

他の政党は、事の現実味はともかくとして公約を掲げており、
「〜する」という。
これが選挙では普通のことだ。
何かをして欲しいから選挙でその人・政党を選ぶのである。
それをないもしないといっている奴らに投票するとはどういうことか。

いやいや、そう言えば彼らがやるといっていることがあった。
「共産党と喧嘩する」とは言ってたなあ。しかも大声で何度も。
京都の伊吹文明とかいうやつ。
お前はあほか。国民の血税もらって国会で喧嘩するんかい。
選挙民を馬鹿にするのもいい加減にしろ。
こんな奴、1票でも入ったら京都の恥じゃ。

自民党は嫌いというより、評価に値しないので投票しないでいたが、
こういう馬鹿を見ると、絶対に落選させてやると思ってしまうね。

    ・・・

ということで、今夜の開票結果はにはちょいと興味があるところだが、
わざわざ速報で見るまでもないので、明日の朝の新聞を待つことにして
さっさと寝てしまおう。

日本に明日はあるか。

    ・・・結果編・・・

で、選挙の結果が出たのである。
これがまた、評価するに実に微妙な線である。

自民、保守、公明の3党の議席は大幅に減ったが、
絶対安定多数とやらのままではある。
結局、日本の政治は余り変わらないのではないかと思われる。
日本人は、ここまで現世利益的で、未来に対して無責任になったのか。
これでは、若い連中に文句を言う資格はない。

    ・・・

一方京都に目を向けてみると、例の伊吹文明が2位を大きく引き離して
当選してしまった。実に嘆かわしい。
(しかも、その後大臣になってしまった。)
京都は革新と言うイメージがあるが、実は極めて保守的な地域である。
そりゃそうだ、1200年続いた都がそう革新的ではありえまい。
さらに、老人が多い土地柄だからそうなる。

しかし、その結果が何をもたらしているかといえば
京都の伝統産業の荒廃である。
そういうのを打ち破るには、政府に頼る従来型のやり方では駄目と言うことが
まだわからないのか。
自民党になんて入れているような保守的というか、物の考えを刷新出来ない連中ばかり
だからいつまで経っても駄目なんだ、と言わなければなるまい。

    ・・・

とりあえず、来年には参議院選挙があるので、
そこでは今の与党が野党になる位に勢力逆転して頂きたい。
そこでもだめなら、本当に日本に未来はないので、脱出を考えよう。
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