「安全の話」(1997/03/24〜03/25号)
某雑誌に車の安全性について、実名を挙げて紹介があった。
そのトップ3、すなわち、日本で発売されている、もっとも安全な車は、
        1、レガシー(富士重工)
        2、ランサー(三菱)
        3、シビック(本田)
だったそうだ。ちょっと片寄っているような気もするが、
大間違いではないだろう。(たぶん、メーカーの出したデータによって比較してるん
だろうから。)

安全な車というと「知る人のVOLVO(スウェーデン)」がよく言われるが、
「実はそうではない」ということだ。
以前アメリカで公表されたデータにも「カローラの方が安全」と出ていたので、
日本の車は安全である、というのはもはや世界の常識かもしれない。

ところで、VOLVOをはじめ、ヨーロッパ・アメリカの車は、その頑丈さを
車体の堅さに求めている。要するに車体の鉄板が分厚いのである。
エアバッグやサイドインパクトビームなどの補助的機能は勿論装備である。

日本の車はこれに比べて鉄板は薄い。
それにも関わらず、衝突時に日本車の方が安全というのは、
いったいどういうことなのだろうか。
それは補助安全装置の違いではない。
これには発想の転換が必要である。押しても駄目なら引いてみろ、なのである。

話はちょっと横道にそれるが、安全ガラスというものがある。
車のフロントガラスなどに使われているものだ。
普通、ガラスを安全にするにはどうするかというと、
堅くして割れなくすることを考える。
しかし、そうすると分厚くなりすぎるし、やはり割れると危ない。

安全ガラスというものは、逆の発想から生まれている。
いや、ガラスの本質をうまく使っているといった方がよい。
「ガラスは割れる」である。

なれば、安全に割ってやればいいのだ。
どうやって?
それは、割れたときに粉々になって、鋭利な切り口をなくせばいいのだ。
割れた破片が小石ほどの粒になるのだ。さらに、ガラスの両面を薄いプラスチック
で挟むことにより、破片を飛び散らないようにしている。
まさに、逆転の発想によって生まれた「安全」である。

さて、話を自動車に戻そう。ここでも安全ガラスと発想は同じだ。
壊れてもいいから、安全に壊すのである。

        ・・・

自動車の場合の安全とはどういうものか。

勿論フロントガラスなどは安全ガラスにするのだが、
人の座っているコックピット部分を壊れないようにするのだ。

一番単純なのは、車体を堅くして壊れにくくすることだが、
これには、強度をあげるには鉄板を分厚くしなければならないので
重たくなるとか、コストがかかるなどがある。
(重たくなると、慣性力が大きくなるから、止まりにくくなるというのもある。
・・・ほら、高校の物理で習ったでしょ?)
それよりも、堅くすると衝撃そのものは強くなるという問題もある。

エネルギーというものは何かに吸収されない限り保存される。
エネルギー保存の法則だ。
衝突のエネルギーも、そのままでは物体を伝わってしまう。
そうなると、せっかく車体は堅くて車は壊れなくても、
人に衝撃が加わって、悪影響が出る。
外傷はないのに内臓に問題を起こすのだ。

この衝突のエネルギーを、物体を破壊する力にさせて、吸収させてしまう。
衝突のエネルギーを車体が壊れることで吸収させ、人体へ伝わりにくくするのだ。
このために、あえて車体を柔らかくして、壊れやすくして安全にするのである。

衝突によって車が壊れるのは仕方がない。それは買い直せばいい。
しかし、乗っている人は安全でなければならない。
命は買い直しが効かない。
安全とは、車にとってではなく、乗っている人にとってものでなくればならないのだ。

こういう面で、日本の車は進んでいる。
人のの手いるコックピット部分を安全に保護するために、エンジンブロックが
うまく壊れるように設計してある。エンジンが前にあるというのも、
そういう意味では効果があるのだ。

このあたりの発想は、「壊れなくする」から「安全に壊す」という
発想の逆転がなければ出来ない。
そして、こういうものの考え方は、仏教の考えに通じるところがあり、
欧米人には出来にくく、日本で生まれる。

「捨ててこそ浮かぶ身もある」という考えである。
「肉を切らして骨を絶つ」というのもある。
本来はちょっと違う意味ではあるが、より大切なものを得るもしくは守るために、
あえて何かを犠牲にするということである。

これが、「大の虫を生かすために小の虫を殺す」となるといけないのだが、
何が大切かを見きわめて、そのために、目前の欲や野望を捨てるということ、
その覚悟が、より大きな重要なことを成すためには、大切な場合もある、
ということである。
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