One Year of the Life in America
アメリカの1年

[写真説明]  清家一雄:1986年6月、マサチューセッツ州ボストンで


『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長  清家 一雄
清家 一雄 Kazuo Seike : 重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
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「アメリカの一年」[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、

ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業

財団法人 広げよう愛の輪運動基金
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
「アメリカの一年」[1]、1987年4月号、『脊損ニュース』、pp.10-15、全国脊髄損傷者連合会、1987
第一回報告
一.初めに 
二.アメリカへ留学に行った理由と介助サービス制度の必要性 
 1. なぜアメリカへ留学する必要があったのか、
 2.なんの為に介助サービス制度が必要なのか、
   日本の頚髄損傷者の現状 − 僕自身を具体例として
 3.ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣
三.準備、出発、到着
 1.準備段階
 2.日本出発 
 3.アメリカ到着

[写真説明] 1−1 清家一雄:1984年3月、福岡



[写真説明]1−2 清家一雄:スタンディングテーブル(起立台)



[写真説明]1−3 清家一雄:1984年3月、大学卒業式



[写真説明]1−4 壮行会。福岡市。1985年9月。



[写真説明]1−5 元気でいってらっしゃい
JTB。日本障害者リハビリテーション協会。成田空港。1985年11月15日
 15日に出国した。成田空港では、井窪さん、飯村さん、金山さん、草薙さんが見送りにきてくれた。
広い空港を二周ぐらいした。物凄い警備だった。



[写真説明]1−6 CILの迎えのバン リフト付きワンボックスカー デニス
サンフランシスコ国際空港。カリフォルニア州サンフランシスコ。1985年11月。

 サンフランシスコ空港に着いた。
 サンフランシスコ空港で少し待ったりしていて10時間以上飛行機に乗っていた。空港の中は凄く慌ただしい。 サンフランシスコ経由でヒューストンに行く人を見て思わず声を掛けたくなった。ヒューストンでは高校の友達が働いている。
 入国手続きで弟と間違われた。ポーターに5ドルのチップ。
 アツコさん、介助者のハワード、運転手のデニスが迎えにきてくれていた。
 サンフランシスコは晴れていた。アパートまで自立生活センターのバンで40分ぐらいかかった。 バンにはリフトが付いていて電動車椅子のまま乗れる。



[写真説明]1−7 弟幸治と:1985年11月、バークレーで

 アパートはオークランド市にあった。用意されていたものは、ベッド、オーバーヘッドバー、シーツと毛布、それに電話。 やかんもコップもない。
 ルームメイトのジャネットに会った。彼女も電動車椅子を使っていた。
 とにかく寝た。
 みんなが僕を暖かく迎え入れてくれた。異国の地で人の暖かさに触れた。


「アメリカの一年」[2]、『脊損ニュース』1987年5月号、pp.18-21、全国脊髄損傷者連合会、1987
第2回報告
四 .アメリカの人々
 1.頚髄損傷者の生活と意識の多様性
ジェローム
キャシー
 2.留学当初の生活
 ベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)
 生活
 アテンダント(介助者)


[写真説明]2−1 C−1頚損者キャシーとTIRRの彼女のオフィスで:1986年6月、ヒューストン



[写真説明]2−2 バートという地下鉄のような交通機関の列車の内部:1985年11月、サンフランシスコ




[写真説明]2−3 1985年〜1986年、ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業での米国留学時のアパート
カリフォルニア州オークランド。1986年11月




[写真説明]2−4 1985年〜1986年、米国留学時代に住んでいたアパートのベッドルーム
アパートの僕の部屋。ベッドはレンタル。カリフォルニア州オークランド。1986年11月



[写真説明]2−6 食事:1985年11月、サンフランシスコ



[写真説明]2−5 ルームメイトのジャネット:カリフォルニア州オークランド。1985年11月



[写真説明]2−7 セーフウェイというスーパーで買物。左はアテンダント:
カリフォルニア州オークランド。1985年11月



[写真説明]2−8 サンフランシスコ市内:1985年11月、サンフランシスコ



写真説明
1 C−1頚損者キャシーとTIRRの彼女のオフィスで
2 バートという地下鉄のような交通機関の列車の内部
3 アパートの正面
4 アパートの僕の部屋。ベッドはレンタル
5 ルームメイトのジャネット
6 食事
7 セーフウェイというスーパーで買物。左はアテンダント
8 サンフランシスコ市内


アメリカの1年
第3回報告
 移動
@電動車椅子
Aリライアブル・トランスポーテーション
Bバート
CACトランジット・バス
 プレッシャーソー(褥瘡)


[写真説明]1.リライアブル・トランスポーテーション。CILの前で。:1985年11月、バークレー



[写真説明]2.リライアブル。CILの前で。1985年11月、バークレー

 リライアブル(「頼りになる」という意味)というのは、リフト付き1ボックスカーの運送・タクシー会社の名前で、乗り移りが便利で料金もタクシー並(?)の車椅子障害者向けのバン・サービスを供給している(この他にマルチネス・バスラインというバス会社もバン・サービスを行っていた。また、バークレーでは前述の身体障害者のためのエマージェンシー・サービス・プログラムの一環としてバンサービスが始められた。福岡市内にはリフトつき1ボックス・カーのタクシーは走っていない。福脊連福岡支部のメンバーを中心にして、テレビのチャリティ番組からリフト付バンを1台寄贈を受けて、1qにつき50円の利用料で運営している。)。やはりドア・ツー・ドアは便利で楽だ。特に、雨期には非常に助かった。
 しかし予約が面倒なのと約束や時間に関してしばしばノットリライアブル(頼りにならない)になることがあった。それと時間が前もって決っていてそれに常に拘束されるのも、時間の使い方として、時には窮屈さを感じた。


[写真説明]3. リライアブルの内部。サンフランシスコ空港で。1986年7月、サンフランシスコ



[写真説明]4.バート(列車)。マッカーサー駅で。1986年3月、サンフランシスコ

 ベイエリアにはバート(BART。湾岸地帯高速移動・Bay Area Rapid Transit・の頭文字を取っている)という地下鉄が進化したような乗り物が走っている。
 初めてバートに乗ってバークレーに行った時は用事でしかたなく乗ったという感じだった。しかし列車は中が広く電動車椅子のままで乗れて駅にはエレベーターもついていた。そしてマッカーサー駅が僕のアパートのすぐそばにあった。ただダウンタウンバークレー駅とCIL(自立生活センター)バークレーの間は確かに遠い。僕の電動車椅子で30分かそれ以上かかる。操縦するためきちんと座るので尻も心配だし雨の日は大変だった。



[写真説明]5.バートのマッカーサー駅のプラットホームとエレベーター。
左手のところにある電話で「エレベーター・プリーズ」と言う。1986年2月、オークランド・マッカーサー駅 MacAthur



[写真説明]6. ミューニー。サンフランシスコ市内を走っている車椅子用リフト付ワンマン・バス。1986年4月、バークレー



[写真説明]7.マックス・スタークロフと。僕が座っているのがローホー、左足に履いているのがムーンブーツ。
1986年8月、セントルイス

 1985年12月5日、オークランド市のハイアット・リージェンシー・ホテルでマックスが代表をしていた自立生活全国評議会(National Council on Independent Living、以下NCIL)のミーティングがあり、僕もそこへ行った。その時僕は左の座骨部分に小さな褥瘡があり、約10ドルで買った穴空きのラバーフォーム(海綿状のゴム)・クッションを使っていた。



[写真説明]8.コリーンと娘のメーガンと赤ちゃんのマクシー。1986年8月、セントルイス


写真説明
1. リライアブル・トランスポーテーション。CILの前で。
2. リライアブル。CILの前で。
3. リライアブルの内部。サンフランシスコ空港で。
4. バート(列車)。マッカーサー駅で。
5. バートのマッカーサー駅のプラットホームとエレベーター。左手のところにある電話で「エレベーター・プリーズ」と言う。
6. ミューニー。サンフランシスコ市内を走っている車椅子用リフト付ワンマン・バス。
7. マックス・スタークロフと。僕が座っているのがローホー、左足に履いているのがムーンブーツ。
8. コリーンと娘のメーガンと赤ちゃんのマクシー。

「アメリカの一年」[4]、『脊損ニュース』1987年9月号、pp.11-15、全国脊髄損傷者連合会、1987
第4回報告
ベイエリアで生活しているアメリカの障害をもつ人達
1、ベイエリアの地域的な特徴ー障害をもつ人をとりまく人的・物的環境
 (1)一般的な背景
 (2)アテンダント(介助者)
 ★IHSS
 ★CIL
 ★カリフォルニア大学バークレー分校
 ★CILのサービス、アテンダント・レフェラル
 ★エマージェンシー(緊急時)・サービス・プログラム
2、ベイエリアの障害者の特徴
 (1)量(人数)の特徴点
 (2)質(障害の種類)の特徴点ーベイエリアで目だった障害者
3、ベイエリアで僕が知り合った人の概略・人数と障害の特徴
4、とくに印象に残った人の紹介
 @普通の障害者だが、タフな人、A失敗例、Bリーダー
 @タフなしかも普通の障害者像ーバークレー・スペシャル
デイビッド・ガラハー
 ★もう一つの選択肢


[写真説明]1.カリフォルニア大学バークレー分校のキャンパス。1985年、バークレー


[写真説明]2.アツコ。バークレー。1985年、バークレー。


[写真説明]3.ヒサコとフランシス。レストラン・ラピーニャの看板の前:1986年



[写真説明]4.エドとマイケル。CILのクリスマス・パーティ:1985年12月、バークレイCIL
Center for Independent Living in Berkeley



[写真説明]5.ナンシー・フェライル。Nancy Ferryle。世界障害問題研究所:World Institute on Disability。
カリフォルニア州バークレー、1986年1月、



[写真説明]6.バークレーの高校のプール:カリフォルニア州バークレー、1986年。



[写真説明]7.オークランドのクリエイティブ・グロウス。カリフォルニア州オークランド。1986年2月24日。



[写真説明]8.デイビッド・ガラハー(向かって左)とウーフェ(西ドイツ人)。デイビッドのアパート:
1986年4月、バークレー。


 デイビッド・ガラハーに最初に会ったのは1986年2月25日、CILでだった。身長6フィート(約1m80p)で、エベレスト アンド ジェニングスの電動リクライニング車椅子にやけに自信たっぷりに乗っていた。
 デイビッドは、 「河でダイビングをしてC-6の頚髄損傷者となった。コンピューターのプログラマーで、CILのアテンダント・レフェラルに関するソフト・ウェアを作成する仕事を請け負って、それをプログラミングしている」  と言った。


写真説明
1. カリフォルニア大学バークレー分校のキャンパス
2. アツコ。バークレー
3. ヒサコとフランシス。レストラン・ラピーニャの看板の前
4. エドとマイケル。CILのクリスマス・パーティ
5. ナンシー。世界障害問題研究所
6. バークレーの高校のプール
7. オークランドのクリエイティブ・グロウス
8. デイビッド・ガラハー(向かって左)とウーフェ(西ドイツ人)。デイビッドのアパート

「アメリカの一年」[5]、『脊損ニュース』1987年10月号、pp.20-23、全国脊髄損傷者連合会、1987

アメリカの1年
第5回報告
ベイエリアの人達・ケース報告(中編)
4、とくに印象に残った人の紹介
@タフなしかも普通の障害者像ーバークレー・スペシャル
デイビッド・ガラハー
 (続き)
フィル・シャーベスとジョー・シムズ
 ★アテンダント・サービス・プログラムを利用して有償アテンダントの介助サービスを得、生活しているが、一部分、経済力のあるタイプ 
フィル・シャーベス
ジョー・シムズ
A失敗例?
B自立生活運動のリーダー
エドワード V. ロバーツ
生い立ち
意識・態度
家族
介助者
人間の人間に対する援助の根拠


[写真説明]1.デイビッド・ガラハー。David Galagher。CILバークレーのコンピューター・ルームの前で。
カリフォルニア州バークレー。1986年。



[写真説明]2.デイビッド・ガラハー。デイビッドのアパートで。彼のアパートの住人。
1986年4月、バークレー



[写真説明]3.デイビッド・ガラハー。ジョー。僕のアパートでのお別れパーティ。
1986年8月、オークランド・カリフォルニア




[写真説明]4.シャーベス。CILバークレーで。:1986年

 シャーベスは32歳の白人男性で、16歳の時、飛び込みでC−5頚髄損傷者となった。電動リクライニング車椅子を使用し、高位頚髄損傷者の中でも重度の方だが、CILの自立生活技能(Independent Living Skill)クラスの教師をしている。
 彼は、リモート・コントロールで収尿袋を空にする装置を使って、昼の間は長時間一人で行動する。アテンダントは朝と晩に来る。シャーベスはガール・フレンドと住んでいた。



[写真説明]5.エド・ロバーツ。Edward V. Roberts。CILのクリスマス・パーティで。呼吸補助装置を使っている。
中央は所長のマイケル。1986年4月、バークレー。


 最初にエドと直接に会い、話をしたのは1985年12月9日のCILバークレーでのクリスマス・パーティだった。電動車椅子に乗って呼吸補助装置を使わなければならないほどの四肢麻痺の重度身体障害者だか、快活で力強く、よく話をし、自信に溢れていて、頼りになりそうなタフな障害者だ、という印象だった。エドは既に日本でも有名だったし、僕もエドの書いたものやエドについて書かれていたものを読んでいたが、実際に会ったときの印象は鮮烈だった。


[写真説明]6.エド・ロバーツ。Edward V. Roberts。彼の部屋で鉄の肺に入っている。
カリフォルニア州バークレー。1986年8月。


[写真説明]6.エド・ロバーツ。Edward V. Roberts。彼の部屋で鉄の肺に入っている。
カリフォルニア州バークレー。1986年8月。



エド。彼の家の前で。

 二度目にエドの家を訪れたのは1986年8月16日だった。エドとミーティングの時、エドの息子とも会った。
 2回のミーティングでエドはいろいろなことを話してくれた。

「アメリカの一年」
第6回報告


エド・ロバーツ(続き)
 ★仕事、家族生活の両方において自律的に生活している重度の身体障害をもつ個人
 ジュディ
 ドレーパー
 [1] 火事

[写真説明1]1.ジュディ(Judy Heumann)、彼女の住居で。カリフォルニア州バークレー、1986年8月



[写真説明2]2.ドレーパー(Phil Draper)、同僚のデイビッド(David)、CILの受付で。
カリフォルニア州バークレー、1986年6月


[写真説明3]

[写真説明3]
3.CIL職員を希望して就職申し込み中だった頚髄損傷者・ウェイン(Wayne A. Roberts)、僕のアパートで。
カリフォルニア州オークランド、1986年8月




[写真説明4]4.地下鉄の駅の駐車場で毎週末に開かれるフリーマーケット。忍者ハットリ君のおもちゃまで売っていた。
この時、ぼくが買ったのは、デスクワーク用の机として使うための板。カリフォルニア州アッシュビー、1995年12月




[写真説明5]5.火事、消防車。ぼくの住んでいたアパートの2階から火が出た。
火が出た部屋は、ぼくの部屋の真上だった。アパートの2階の窓はなくなっている。
カリフォルニア州オークランド、1986年1月



[写真説明6]6.火事、着のみ着のままアパートを逃げだしているところ。カリフォルニア州オークランド、1986年1月

 1986年1月6日、留学生活を始めて2カ月近く経った頃、住んでいたアパートで火事に会った。
 午前9時30分、騒がしいので目が醒めた。サイレンの音が聞こえる。すぐそばだ。電気をつけたが2階が騒がしくなったと思ったら電気が消えた。介助者は寝ていた。
「ハイ、何が起きたんだ?」介助者を起こして尋ねた。介助者はまだ寝ぼけていた。
 玄関を開けてみると消防士がいた。アパートの2階が燃えていた。「車椅子の者が下にいる。我々はどうしたらいいか」と怒鳴って尋ねた。「リラックスしろ。そして車椅子に乗れ」と消防士に言われた。
 小便が出そうな感じがあったが、非常事態だと言うことで、電動車椅子の上に電気毛布を敷いて収尿器を着けずにそれに乗った。毛布を掛け、玄関の前でいつでも逃げ出せる準備をした。パスポート、航空券などの入っているバッグと財布の入っているダウンジャケットを取ってきて膝の上に載せた。あとワープロで作った記録とワープロ自身も気にかかったが緊急事態だから仕方がない。
 凄いサイレンの音とガラスの割れる音がしていた。たくさんの消防士達が動き回っていた。酸素マスクを着けているのもたくさんいた。大きな消防車が何台も来ていた。
 二階で放水している水が落ちてくる。緊迫したムードだった。
 すべての消防士が会うたびに、「具合いはどうだ? How are you doing? 」と声をかけてくれた。でかい図体をした消防士を見ていると少し安心する。
 アパートの二階の僕の真上の部屋のベッドのマットレスがタバコの火で燃えた、と言っている。
 介助者や消防士達もいるし電動車椅子にも乗っているので、まさか死ぬことはないとは思っていたが、荷物を持ち過ぎた、もっと整理しておかなければならない、そして記録の保管と一応の覚悟は常に必要だろう。しかしまあ人に後ろ指をさされるようなことはしてきてない、一応ベストは尽くしてきたと言うことが救いか、などと考えていた。
 天井からの汚水は激しくなったが峠は越えたらしい。だいぶ下火になったみたいだ。写真をとった。消防士が来て床に敷くキャンバスを貸してくれた。
 消防士に「どんな具合いだ? How are you doing? 」と聞かれたので、「どうも有難う Thank you. 」と答えたら、彼らは「楽にしろ Take it easy. 」と言って帰って行った。



[写真説明7]7.火事、消防士達。カリフォルニア州オークランド、1986年1月



[写真説明8]8.火事の後、僕の部屋のペンキ塗替えのため居間で生活していた時。
カリフォルニア州オークランド、1986年4月


アメリカの1年
第7回報告


[2]尿閉による入院と複数のパートタイム介助者体制への移行
 ★尿閉による入院


[写真説明1][1]アルタ・ベイツ病院の6階の病室で。カリフォルニア州バークレー、1986年1月



[写真説明][2]アルタ・ベイツ病院の6階の病室からの眺め。カリフォルニア州バークレー、1986年1月



[写真説明3][3]アービー・メディカルという医療リハビリテーション用品店の前で
カリフォルニア州バークレー、1986年3月



[写真説明4][4]退院後、アルタ・ベイツ病院の玄関の前で。カリフォルニア州バークレー、1986年4月



[写真説明5][5]ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業5期生の3人。
ヒサコ(中野寿子さん、山口市)、イサオ(松兼功さん、東京都)。
サンフランシスコ・ヒルトンホテルの最上階レストランで。“車いすのおてんば娘”撮影時。ディレクターは、山上博己さん。
カリフォルニア州サンフランシスコ、1986年4月



[写真説明6][6]パートタイム介助者と、地下鉄バークレー駅のエレベーター地上口の前で。
デイビッド・ノイシュタット(David Neustadt)。カリフォルニア州バークレー、1986年6月



[写真説明7][7]パートタイム介助者とアパートのリビングで。フランク(Frank)。
カリフォルニア州オークランド、1986年8月



[写真説明8][8]CILバークレー介助者情報サービス部門部長とCILで。
パム・ウォーカー(Pam Walker)。アテンダント・レフェラル。カリフォルニア州バークレー、1986年8月


アメリカの1年
第8回報告


[2]尿閉による入院と複数のパートタイム介助者体制への移行
 ★頚髄損傷者が自律生活を行うための利用可能な資源
    1.物的資源
    [1] 住宅−居住空間
    [2] ドア・オープナー
    [3] ベッド
    [4] 電動リクライニング車いす
    [5] 電気製品
    [6] プッシュダイヤル式スピーカーホン
    [7] ワープロ


[写真説明1][1]アパートのスロープ、レンタルした米国製電動車椅子を使っている。
アパートは、Center for Independent Living in Berkeleyの住宅部門が探してくれたものだった。
カリフォルニア州オークランド、1986年3月



[写真説明][2]アメリカ留学当時のアパートでのぼくの仕事場。
アパートの居間にある机の前でおもにワープロによるデスクワークを行なった。
リクライニングをかなり倒し、お尻に楽な姿勢で作業している。
カリフォルニア州オークランド、1986年3月



[写真説明3][3]ベッド上でのシャンプー・リンス・トレイによる洗髪。
カリフォルニア州オークランド、1986年2月



[写真説明4][4]ボストンのコインランドリー。マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明5][5]渡米直後のアパートでのベッド。1本支柱のモンキーバーで、まだエッグマット、シープスキンが無い。
ベッド、モンキーバーはレンタル。カリフォルニア州オークランド、1995年11月



[写真説明6][6]ベッドサイドの電動車いすの上に置いているスピーカーホン、扇風機。
上の紐はベッド用ライトのスイッチ。カリフォルニア州オークランド、1986年8月



[写真説明7][7]ボストンの友人、エド・ロング(Ed Long)の家で。
電動リクライニング車椅子の上でくつろいでいる。マサチューセッツ州ボストン、1986年8月



[写真説明8][8]ホワイトハウスの横でレーガン大統領夫妻の看板
ワシントンD.C.での自立生活全国評議会(NCIL)。ワシントンD.C.、1986年6月


アメリカの1年
第9回報告

 [7] 改造自動車、
    2.資金
    3.情報
    4.人的資源−介助者
 [1] 複数のパート・タイム介助体制への移行
 [2] 必要介助と介助者の賃金
 [3] 募集方法
 [4] 採用時の契約条件


[写真説明1][1]セントルイスCIL所長マックス(Max J. Starkloff)のルノー。
運転はできないが、車椅子のままでの乗降のためのリフトの操作は高位頚損者自身ができる。
ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明2][2]ジム(Jim)、C5頚髄損傷者。
ボストンCILトランジーショナル・ハウスの短期間プログラム・ディレクター。トランジーショナル・ハウスで。
彼の電動車椅子の最高速度は時速13マイル。安全ベルトを使っている。マサチューセッツ州ボストン、1986年6月

 短期間プログラム・ディレクターのジムと会った。彼はC-4・5の頚損者だった。15年前、2人の男に飛びかかられたたかれて受傷し頚髄損傷者になった。ジム自身、古い方のトランジーショナル・ハウスの卒業生だった。



[写真説明3]ジムが彼の改造自動車・フォードのバンへ乗り込んでいるところ。
ジムは特殊な磁気の着いた棒で車の鍵をあけ、リフトを使って電動車椅子のままバンの中に入る。
マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明4]運転席で電動車椅子を最も良い位置でで固定して運転していた。
マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明5]ジム自身が運転できるようにしていた運転席。ブレーキとアクセルは右手で操作する。
左手に短い棒を着けてハンドルに差し込み、それを回す。マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明6]ボストン市内のバス。リフトが大きく乗り降りが非常に楽だった。
マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明7]ボストン市内のバスの中で。快適だった。
マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明8]ヒューストンのNASAで。高校時代の友達と。
テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明9]高校時代の友達と。テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明9]高校時代の友達と。テキサス州ヒューストン、1986年6月


アメリカの1年
第10回報告

 ★社会的自律生活−アメリカでの僕の実際の日常生活様式
 (1) 起きている日・週日の一日の生活の流れ
 [1]朝の介助者(7:00-8:00am)
 [2]午前中の介助者(10:00-12:00am)
 [3]夕方の介助者(5:00-7:00pm)
 [4]夜の介助者(9:00-11:00pm)
 (2) 週末の生活
 (3) 褥瘡の状態が悪く1日中寝ていた日の生活
 (4) ベイエリア以外の研修地に長距離移動で出かけた時のホテルを中心とした生活
 ◆時間管理(とくに介助者との関係)
 ◆食事、
 ◆排泄管理
 ◆金銭管理
 ◆買い物とレンタル
 ◆仕事−調査活動


[写真説明1]アパートの直ぐそばのドラッグストア。
カリフォルニア州オークランド、1986年3月



[写真説明][2]ワシントンD.C.のホテルで、電動車いす用のバッテリーと。
サンフランシスコ空港で持込みを拒否された電動車椅子のウェットバッテリーを、 アイスボックスに入れて、当日の夜の便で、
翌朝ワシントンDCの空港に届くように送ってもらい急場をしのぎ、 ホテルでほっとしている。
ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明3]1986年、全米自立生活全国会議(NCIL)の歓迎会。
ワシントンDCの安全管理の厳重で豪華な上院議員のオフィスビルで。
CILバークレー所長マイケル・ウインター(Michael Winter)とその夫人敦子(Atsuko)。
Atsukoは、ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業の1期生。
ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明4]1986年当時のブッシュ合衆国副大統領。
自立生活全国会議(NCIL)の開会式で会場のホテルに来て演説しているところだ。
ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明5]ホテルの部屋のベットの枕を膝の上に載せて机兼テ−ブルとして使った。
この他にも、ゴミ箱を尿器として使ったり、工夫して、なるべく現地調達で通した。
自立生活全国会議(NCIL)の会場ホテルで。ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明6]ホワイトハウスの前で。
ホワイトハウスは、この日は、中にはいれる日ではなかったので外から眺めただけだった。車椅子用の通行門があった。
4ドル払ってレーガン大統領夫妻の看板と一緒に写真を取った。ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明]ホワイトハウスの横でレーガン大統領夫妻の看板
ワシントンD.C.での自立生活全国評議会(NCIL)。1986年6月



[写真説明6]ホワイトハウスの前で。



[写真説明7]ボストンCILで、職員のポール・タッパー(C7−6頚髄損傷者)とクリフ(脳性まひ痺者)。
マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明8]ニューヨークの夜、ユニオン・スクェアのカフェで。
ニューヨークはカーブカットも無い活気に溢れた強い者の街だった。
ニューヨーク、1986年6月



アメリカの1年
第11回報告

 ★米国内での長距離移動
 @自立生活全国会議に参加し、米国の自立生活運動に関する調査
 AボストンCILとボストンのトランジーショナル・ハウスを訪問し、それぞれで頚髄損傷者の聞き取り調査(第九回報告)
 Bリハビリテーション&リサーチ研究所(TIRR)(ヒューストン)の見学と医師を対象とした聞き取り調査(第二回報告)
 CヒューストンCILの訪問調査
 Dパラクォッドの訪問調査とその所長宅で訪問調査
 Eセントルイスの頚髄損傷者の聞き取り調査
その他である。
 ◆飛行機と電動車椅子
 @載せないと言われたケース
 Aバッテリー液を抜けと言われたケース
 Bそのまま運んだケース
 Cドライセル(ジェル)・バッテリー
 ◆宿泊施設、ホテル
 ◆長距離移動と介助者
 ★ワシントンDCの自立生活全国会議とアメリカの自立生活運動
 ◆街のプロフィール
 ◆自立生活全国会議
 ◆自立生活運動(Independent Living Movement)
 ◆自立生活運動の源流
 @市民権運動(The civil rights movement)
 A消費者運動(Consumerism)
 B自助運動(The self-help movement)
 C脱医療(demedicalization)、セルフケア運動
 D脱施設(deinstitutionalization )、ノーマライゼーション、本流化の運動
 ◆自立生活センター(CIL)の発生と展開
 ◆自立生活運動の法制度的背景
 1973年リハビリテーション法
 1978年修正法
 ◆自立生活サービス
 @情報とレフェラル(Information and referral)による、それがサービスするハンディキャップのある消費者によってコントロールされる非居住型、コミュニティ・ベースの、非営利のプログラム
 A居住型(Residential)の住み込みプログラム、
 B通過的(Transitional)な、比較的依存的生活の状況から比較的自立生活の状況への重度障害をもつ人々の移行を容易にするために企画されたプログラム
 C以上の三つの組合せ
 ◆運動と個人


[写真説明1]ヒューストン空港。
 アメリカン・エアラインのチケット・カウンターの搭乗手続で、「バッテリーの液を抜け」と言われた。
テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明1]ヒューストン空港。
 アメリカン・エアラインのチケット・カウンターの搭乗手続で、「バッテリーの液を抜け」と言われた。
テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明]TIRRのボランティア部長、ニタ(ポリオ)。
 彼女のオフィスは非常に使いやすいように配慮されていた。 TIRRはとにかく大きくて凄い。
そしてたくさんの超重度身体障害者をスタッフとして雇っている。 テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明3]ヒューストンCILで、所長のアランとビッキー。
 複数の障害者による介助者と家賃の分担(Share)という考え方が印象に残った。
テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明4]セントルイスの植物園でのランチ。
コリーン、リンダ、ボブ。
ミズーリ州セントルイス、1986年6月



[写真説明5]リハビリテーション・ガゼット編集長、ジニー・ローリーと。
 セントルイスの彼女の自宅で。「建物ではなく、援助のシステムとしてのサービスから始めるべきだ」と言った。
ミズーリ州セントルイス、1986年6月



[写真説明6]障害者が数多く住んでいるパラクォッドのアパートのスロープ。
 正面玄関は厳重で、そこからさらに、僕にはその理由が理解できない何回もターンするランプが続く。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月



[写真説明7]パラクォッドのアパートで。 マイク(C-5・6頚損者。飛び込み事故。パラクォッド理事)とグーゲン。
アパートの部屋には、緊急時コードが寝室とバスルームに安全設備として設備されている。ミズーリ州セントルイス、1986年8月



[写真説明8]ルーシー(登山でC5頚髄損傷者。ピア・コンサルタント)。
セントルイス訪問時の宿舎フォーリスト・パーク・ホテルの前で。
「家族と一緒に生活しているのは経済的な理由から。父と一緒に生活しているので介助者費用の公的な援助はない。
いつまでお金が続くか、これは闘いだ。私にとっての自立生活とは家族や介助者との関係」と言った。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月


アメリカの1年
第12回報告


頚髄損傷者の自由の達成、日本での展望と課題
★頚髄損傷者の不自由と強さ
 ◆頚髄損傷者の自由達成の具体的な現れとしての仕事
★健康
★介助者サービス
★住居と物的資源
★通信と移動
★将来への展望
終わりに
読者からの声
 ◆頚髄損傷者(他の四肢麻痺者も含む)からの声
 ◆その他の人の声
謝辞
1988年6月16日
The Termination of my Journey
Thanking for Everything


[写真説明1]マクシー。メジャーリーグのボールゲームを見るために野球場に行った。
 パラクォッド所長夫人が、「赤ちゃんを抱っこしなさい。写真を撮ってあげる」 と言った。
赤ちゃんは可愛かったが、僕は、「もしおっことしたら大変だ。頼むからじっとしていろ」と必死だった。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月



[写真説明][2]グランドキャニオン遊覧飛行機。
 初めてプロペラ機に乗った。車椅子で機体の真下まで近づいて、操縦士達が抱え上げてくれた。
機体が小さくて、9人乗りぐらいだった。乗ったり降りたりも大変だったが、座席も小さく中で座っているのも大変だった。
風船みたいにフワリフワリ飛ぶ。ジュースのコップが搖れないジェット機とはまったく異なる乗り心地だ。
しかし、低空を低速で飛ぶので機内からの眺めはよい。
 足もとに不毛の大地が延々と続く。凄い景色。とにかく雄大。人生観は変わらないまでも、強烈な印象だった。
双発プロペラ機からラスベガスを見下ろすと、プ−ル付きの家ばかりだった。グランドキャニオン、1986年9月



[写真説明3]ディズニーランドで栗鼠と。
 ディズニーランドは天気だけは最高に良かった。僕にとってはディズニーランドはそれほど面白くはなかった。
僕はやはり人間からより多くの刺激を受ける。大人が楽しむと言う子供向けの遊園地では退屈してしまった。
電動車椅子でなかったせいもあるのかもしれない。カリフォルニア州ロサンジェルス、1986年9月



[写真説明4][4]メキシコのチュワナ。
 陸続きの国境は初めてだった。国境を越えてメキシコに入るのは何も問題はない。
 チュワナは原色が目につく雑然とした町だ。アメリカに比べるとさすがにゴミゴミしている。
しかし、人間は多く活気はありそうだ。
 アメリカに戻る国境はチェックが行われ、混でいて、どのゲートも長い列が出来ていた。
 国境の物売り。人形などを買った。子供が喧嘩していた。国境のゲートでパスポートを見せた。
メキシコ・チュワナ、1986年9月



[写真説明5]ロサンジェルスの夜。
 ダウンタウンの高層ビル群が見えてきた。LAの中心街も東の方は荒廃していて見るからに治安が悪そうだった。
が、メインストリートのビルの高さ豪華さはさすがだった。
ニューヨークほどではないがアメリカの富が集中しているという感じだ。
ただLAの方が遥かに広い。道路も発達していてい、スペースが十分にある。
 ガイドブックに載っていたレストランに行った。凄く高級そうなホテルの最上階にあった。
丘の上にあるので高さも高い。ホテルの駐車場の料金が高い。
レストランも覚悟して行ったが、それほどムチャクチャには高くなかった。
 景色は凄く良かった。LAの大平野が一望できた。
しかもそれが美しい豪華な夜景に変わっていく。ヘリが飛んでいた。大都会だ。
カリフォルニア州ロサンジェルス、1986年9月



[写真説明6]ハワイのホテルで。
 ワイキキビーチに面した応接間からバルコニーに出て見た。ダイアモンドヘッドが見えた。
ベッドルームの窓は太平洋に面していた。窓を閉めるとエアコンがかかる。
ハワイ、1986年9月



[写真説明7]成田空港。
 日本に帰ってきた。愛の輪基金新事務局長とリハ協職員が迎えに来てくれていた。
成田国際空港、1986年9月



[写真説明8]福岡空港。
 福脊連会員の人達、高校の友人、両親が出迎えにきてくれていた。
とうとう家に帰ってきた。
 旅の終わり。すべてのものに感謝。
福岡国際空港、1986年9月

The Termination of my Journey
Thanking for Everything


終わりに

 何もしないで節約・現状維持するのには限界がある。
まして頚髄損傷者の自由達成という問題を解決するためには、頚髄損傷者自身が、活動して人生の行動半径を広げて行き、生産的な人間になるほうがよいだろう。

 そのためにはどうすれば良いだろうか。
[1]障害をもつ個人の生き方と
[2]援助のシステムのあり方が問題になるだろう。

 複数パートタイム介助者体制という援助システムに関してアメリカで実際に生活し実験し、その有効性を実証できたと思う。
それとともに物的資源と精神的にしっかりすることの必要性についても明らかになった。

 現在、日本でアメリカの体験を生かしながら生活している。
そして頚髄損傷者の自由達成という問題に対する、日本での解決策・限界を越えた実践的提言・展望として有料介助者サービスとサービス費用の援助を提言した。

 日本での住居入手などさらにまた限界が生じている。
また個々の問題解決に取り組むことに戻らなければならないだろう。
こういったことの繰り返しにより、頚髄損傷者の自由達成という課題は少しづつ解決され、頚髄損傷者の個人の尊厳、自由の実現、生活の質という目標・価値の実現に向かって少しずつ前進するのかもしれない。


 あまりにも自分自身の問題について書いてしまった。
事実を客観的に把握して伝えているかどうか、主張が視野の狭いものになっていて独りよがりになっていないかどうか非常に不安だ。

 てれもあった。
全部は書いていない。
ただ、ストレートには書いていないが、
「目を覚ませ頚損!」
というメッセージを送り続けてきたつもりだった。



読者からの声
 ◆頚髄損傷者(他の四肢麻痺者も含む)からの声

「お疲れさまでした!!  ひとつのことを決めて、つらぬき通すのは大変なこと。ほんとうにご苦労さまでした」

謝辞

 「アメリカの一年」連載にあたっては、東京都神経科学総合研究所松井和子先生と井沢隆事務局長にとくにお世話になった。伊藤全国脊髄損傷者連合会会長、白石前福脊連会長のご配慮もあった。また、介助サービスなしには生存さえ不可能な僕の執筆を実際に可能にしてくれたのは日本の介助者達だった。ここにあつく謝意を表する。

 この・アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告・には、アメリカの介助者達を初めとする、数え切れない人達の協力と援助があった。受入れ先のCILバークレー所長夫妻、パラクォッド所長夫妻、アパートで火事に会った時の消防士達、体調を崩した時世話になった医師や訪問看護婦、その他多くの人々のサービスや援助を米国内で受けることができた。また、ピア・カウンセラーとして協力された米国の障害者の方々、ロールモデルとして協力された自立生活運動の活動家の人々や、その他の調査に協力された友人達に深く感謝の意を表する。

 その米国留学に協力援助された日本障害者リハビリテーション協会、広げよう愛の輪運動基金、総合せき損センター赤津隆院長、同センター岩坪暎二泌尿器科部長、松尾清美氏および医用工学研究室研究員、九州リハビリテーション大学アイリーン山口、山口ともね両先生、向坊弘道氏、溝口博外科整形外科病院院長、北島医師、および家族に深く感謝する。


1988年6月16日



The Termination of my Journey
Thanking for Everything






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