働く四肢まひ者たち(ワーキング・クォーズ) 有限会社ワーキング・クォーズ "WORKING QUADS" HomePage (in English) (in Japanese)
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One Year of the Life in America by The International Love Circle and JSRD
アメリカの一年
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業 / 広げよう愛の輪運動基金 and 日本障害者リハビリテーション協会



1985 1115. narita international airport
"WORKING QUADS" Inc. shodai offie on 1529 march, 2019






アメリカで留学生活を始めた時、僕は28歳だった。
想像と実際の生活は非常に違ったものだったが、
刺激に満ち溢れた、修行の場としては
最高の1年だったように思う。



 僕が最初に留学生活を始めたのは
アメリカ西海岸にあるカリフォルニア州の
ベイエリアと呼ばれているところだった。
ベイエリアというのは
サンフランシスコ、バークレー、オークランドなどが
バートという地下鉄で一つになっている
サンフランシスコ湾岸地帯だ。
ベイエリア全体では人口450万人を越え、
メガロポリスを形成している。
僕はオークランド市の41番ストリート517にある
アパートで生活を始めた。








ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業と
障害をもつ個人の「成長の可能性」





清家一雄
ミスタードーナツ留学研修5期生





1985年11月14日、
ぼくは、1年間、アメリカ留学に行きました。


当時、手動式車椅子の海外旅行もそれほど一般的でなく、
電動車いすでの海外旅行というだけでも
ひじょうに珍しい時代でした


日本の総理大臣が、中曽根康弘氏で、
アメリカ大統領が、ロナルド・レーガン氏の時代だった。


1984年4月、
ようやく日本でヘルパーの有料派遣制度が開始され、
(それまでは、どんな理由があっても、税金を払っている世帯には、
ヘルパーの派遣は認められない時代でした)





 アパートは民間のもので、
木造2階建ての1階だった。
かなり古い建物だったが
1階の出入口に車椅子用のスロープが付いていた。
クーラーはなかったが
セントラルヒーティングがあった。


 収入は留学研修生として奨学金・研修費を
愛の輪基金・ リハ協から送金してもらった。
アパートの家賃(1カ月250ドル)、
ベッドのリース料(1カ月96ドル)、
食費(1日10ドル)、
雑費(1日5ドル)、
アテンダント費用(1日35ドル)などで
1カ月約1、800ドルだった。





 仕事というか勉強は
自立生活センターバークレーを 媒介として
アメリカのアテンダント・サービス・プログラムを
中心としたリサーチをしていた。
人に会って話を聞いたり文献を読んだりもしていたが、
生活の全てが勉強みたいな面もあった。
そしてそれをワープロや写真で記録に取っていた。
一応、毎月研修報告をリハ協に出すということが
研修費送金の条件となっていた。





「アメリカの一年」[2]、
『脊損ニュース』1987年5月号
清家 一雄












WORKING QUADS
housing

 [ Japanese / English
1.米国留学時代の住居(アパート)
 [1] 米国留学時代のアパート(住宅−居住空間)

"WORKING QUADS" homepage

[写真説明]米国留学時代のアパート。
カリフォルニア州オークランド、1995年11月
アパートは、Center for Independent Living in Berkeleyの
住宅部門が探してくれたものだった。

    1.米国留学時代の住居(アパート)

    [1] 米国留学時代のアパート(住宅−居住空間)

    [2] 米国留学時代のアパートのスロープとドア・オープナー

    [3] 米国留学当初のベッドルーム

    [4] 米国留学当初のベッド

    [5] 米国留学時代のベッド周辺環境−プッシュダイヤル式スピーカーホン

    [6] 米国留学時代の調査研究のためのオフィス(リビングルーム)


    [1] 住宅−居住空間

 アパートは木造2階建ての1階で、かなり古い建物だった。1階の出入口に車椅子用の スロープが付いていたので電動車椅子でのアパートの出入りには支障はなかった。寝室が 二つと台所、食堂、居間、バスルーム(風呂、トイレ、洗面台)があった。アパート内に は段差はなかったが、バスルームは狭すぎて僕の電動車椅子では入って行くことができな かった。クーラーはなかったがガスのセントラルヒーティングがあった。冷蔵庫とオーブ ンがついていた。

 僕は玄関の側の方の寝室を使った。レンタルの手動式ギャジベッド、渡米翌日に買った 本棚とドレッサー、借りたテレビを置いて使った。本棚には、本の他、文書、コピー、手 紙、紙タオル、ティシュペーパー、紙コップ、ストロー、コップ、やかんなども入れて置 いた。アメリカにいる間、夜、寝ている時も腕時計はつけっぱなしにしていた。

 バスルームは狭すぎて入れなかったし、実用的でなかった。ベッド用の使い捨ての収尿 器として大きなジュースボトルの空瓶などを使った。排便はベッド上で行った。風呂も使 えなかったので、寝室でスポンジバス(清拭)をした。洗髪は、浮袋のような形をしたシ ャンプー・リンス・トレイ(約15ドル)を買い、それを使ってベッドの上で頭から計量 カップでお湯を掛けながら行った。

 洗濯はコインランドリーで行い、乾燥機を使った。アパートでは洗濯物は干さなった。 タオルやガーゼなど頻繁に使うものだけ寝室内にロープを張ってそれに干した。

 居間に本棚、机を置いて僕専用の書斎として使った。机は電動車椅子で入りやすいよう に鉄製の本棚とテーブルの上に紙箱をおいたものを足として、その上に広い木の板を置い た。これらの材料はアッシュビーのフリーマーケットで買ってきた。

 尿量を調節するためにも、一人でいるときに、自由にお茶、水を飲めるように、普通の ストロー3本をセロテープでつないで長いストローを作り、大きなコップにさしていた。 また、パンやクッキーのような手でつかみ易いものをテーブルの上に綺麗な紙を置いてそ の上に乗せて、好きなときに食べれるようにした。

    [2] ドア・オープナー

 僕は鍵を扱えない。米国は治安が悪いのでアパートの鍵を開けっ放しにしておくのは危 険だ。しかし、一人で電動車椅子で帰ってきた時、鍵を使えないと、アパートの中に入れ ない。中に入れないと寒いし、アパート内の電話なども使えない。また、朝、介助者が来 た時、ドアの鍵を開けなければならない。

 それで、ドア・オープナーを、家主の承諾を得て、米人大工に注文し、玄関の鍵に取り 付けた(約300ドル、自費)。これはワイヤレス・リモコン式の鍵の開閉装置で、発信 機のスイッチを入れるとブザーが鳴って鍵が開く。発信機は二つで、一つは僕の電動車椅 子、もう一つはベッドに取り付けていた。ドアの開閉は、外から帰ってくるときは電動車 椅子で体当りでドアを開け、出かけるときはドアの取っ手に紐を付けていてその中に手を 入れて引っ張る。


アメリカの1年 No.8
One Year of the Life in America

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、 アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、 財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[8]、 『脊損ニュース』1988年03月号、 pp.13-17、 全国脊髄損傷者連合会、1988.03
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、 全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、

 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)での僕自身の生活のうち生活処理資
源の中物的資源を中心に報告します。御意見・御感想をお待ちしています。


 ★頚髄損傷者が自律生活を行うための利用可能な資源




"WORKING QUADS" HomePage
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Kazuo Seike, RESEARCH ASSOCIATION ON WORK

    kazuo_seike@msn.com

    seike@ma4.justnet.ne.jp

    qze07711@nifty.ne.jp

    YS2K-SIK@j.asahi-net.or.jp

























    David Galagher
    Center for Independent Living Berkeley
    1985 1115. narita international airport
    "WORKING QUADS" Inc. shodai offie on 1529 march, 2019







































    "WORKING QUADS" HomePage home(ホームへ) SEIKE, Kazuo, president profile / links / 働く四肢まひ者たち(ワーキング・クォーズ)

    new prof wqc wri

    1986 0904. LA NIGHT

    1986. LA
    アメリカ合衆国カリフォルニア州、ロサンゼルス、LA、
    The International Love Circle
    ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
    広げよう愛の輪運動基金




    ロサンゼルスの夜
    1986 0904. LA NIGHT



    1986年09月04日、当時、29歳。
    『アメリカの一年』One Year of the Life in America。


    ロサンジェルスの夜。ダウンタウンの高層ビル群が見えてきた。LAの中心街も東の方は荒廃していて見るからに治安が悪そうだった。が、メインストリートのビルの高さ豪華さはさすがだった。ニューヨークほどではないがアメリカの富が集中していると言う感じだ。ただLAの方が遥かに広い。道路も発達していてい、スペースが十分にある。

     ガイドブックに載っていたレストランに行く。凄く高級そうなホテルの最上階にあった。丘の上にあるので高さも高い。ホテルの駐車場の料金が高い。レストランも覚悟して行ったがそれほどムチャクチャには高くなかった。

     景色は凄く良かった。LAの大平野が一望できた。しかもそれが美しい豪華な夜景に変わっていく。ヘリが飛んでいた。大都会だ。


    written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
    初出:「アメリカの一年」[1]、『脊損ニュース』1987年ー1988年、 全国脊髄損傷者連合会、1987.
    1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
    ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
    財団法人 広げよう愛の輪運動基金、財団法人 日本障害者リハビリテーション協会

    有限会社ワーキング・クォーズ(働く四肢まひ者)
    清家 一雄、取締役社長
    http://www.asahi-net.or.jp/~YS2K-SIK/ seike@working-quads.com
    Tel 092-821-0819 Fax 092-821-0810
    〒814-0012 福岡市早良区昭代1丁目21番10号










    the Annpan Man of "Working Quads" office

    on February 14, 2009 from
    "WORKING QUDS" Inc.The Helper Stationon
    2009年のWQアンパンマン
    on February 14, 2009

    2009年のWQアンパンマン
    on February 14, 2009





    有限会社ワーキング・クォーズ(働く四肢まひ者)



    清家一雄
    有限会社ワーキング・クォーズ(働く四肢まひ者)
    介護保険・障害者自立支援法による高齢者・障害者ヘルパーステーション
    介護保険事業者番号 4071401394
    支援費事業者番号 40130100107116
    昭代ヘルパーステーション
    〒814-0012 福岡市早良区昭代1丁目21番10号
    Tel +81-92-821-0819 Fax +81-92-821-2452
    会社事務所
    〒810-0074 福岡市中央区大手門1丁目4番605号
    Tel 092-735-1133 Fax 092-735-1134
    "WORKING QUADS" HomePage
    http://www.asahi-net.or.jp/~YS2K-SIK/




      
    清家 一雄 
    有限会社ワーキング・クォーズ(働く四肢まひ者)取締役社長
         重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表
       『ワーキング・クォーズ』編集部
    "WORKING QUADS" HomePage 制作提供

    有限会社ワーキング・クォーズ
    大手門事務所
    〒810-0074 福岡市中央区大手門1丁目4番605号
    Tel 092-735-1133
    Fax 092-735-1134

    昭代ヘルパーステーション
    〒814-0012 福岡市早良区昭代1丁目21番10号
    Tel 092-821-0819
    Fax 092-821-2452


























    The International Love Circle
    ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
    広げよう愛の輪運動基金


    広げよう愛の輪運動基金




    写真は、 The International Love Circle
    ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業





    広げよう愛の輪運動基金





    ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業



    日本障害者リハビリテーション協会



    日本障害者リハビリテーション協会




    写真は、 有限会社ワーキング・クォーズ、取締役社長、清家一雄
    the president orf "WORKING QUADS" Inc.










    「アメリカの一年」(電動車いす米国留学記1985-1986)
    One Year of the Life in America ビッグサイズ (本文つき) sc
    us200ll 200all
    [写真説明]  清家一雄:1986年6月、マサチューセッツ州ボストンで


    『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
    1985年11月〜1986年9月、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
    福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長  清家 一雄
    清家 一雄 Kazuo Seike : 重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者


    目次 − contents

    「アメリカの一年」本文開始

    エド・ロバーツさんの死 1995
    ジャスティン・ダートさんの死 2002
    Max J. Starkloffさん
    ブライアン・ホーガンさん
    ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業20周年 2000

    - 「アメリカの一年」第1回 - 「アメリカの一年」第2回 - 「アメリカの一年」第3回 - 「アメリカの一年」第4回 - 「アメリカの一年」第5回 - 「アメリカの一年」第6回 - 「アメリカの一年」第7回 - 「アメリカの一年」第8回 - 「アメリカの一年」第9回 - 「アメリカの一年」第10回 - 「アメリカの一年」第11回 - 「アメリカの一年」第12回 -










    The Death of Mr. Edward V. Roberts Overseas Working Quads

    WORKING QUADS Overseas
    The Death of Mr. Edward V. Roberts
    エド・ロバーツさんの死 1995
    World Institute on Disability(WID)


    エド・ロバーツさんの死 1995
    The Death of Mr. Edward V. Roberts
    Born January 23, 1939; Died March 14, 1995

    清家 一雄、代表 重度四肢まひ者の就労問題研究会
    Kazuo Seike, President : Research Association on Work
    『ワーキング・クォーズ』No.10、p.2、1995年3月

    1986. Mr. Edward V. Roberts

    The Death of Mr. Edward V. Roberts 1995
    エド・ロバーツさんの死 1995
    元・World Institute on Disability(WID)(世界障害問題研究所)代表
    written by
    Kazuo Seike, President,
    Research Association on the Work of persons with severely disabilities;






     [略歴]
    1939年、カリフォルニア州、生まれ。
    1953年、14歳の時にポリオの障害をもった。
    1962年、カリフォルニア州のアテンダント・ケア立法を利用しカリフォルニア州立大学バークレー校に入学。
    1969年、政治学博士号取得。
    1972年、CILバークレー設立。
    1973年〜1975年、CILバークレー所長。
    1975年〜1983年、州知事の任命によりカリフォルニア州リハビリテーション局局長。
    1983年、世界障害問題研究所設立。
    1984年、マッカーサー基金「ジーニャス・グラント」(25万ドル)( MacArthur Foundation "genius" grant )を受賞。
    1995年現在まで世界障害問題研究所の代表。
    結婚し、17歳の息子リー Lee さんがいます。
    1995年3月、永眠。

    『WORKING QUADS』No.10、p.2、1995年3月



     1995年3月16日(米国)、ポリオ後遺症による人工呼吸器依存の重度四肢まひ者であり、自立生活運動の世界的に認められたリーダーであったエド・ロバーツさん(以下、エド)世界障害問題研究所(World Institute on Disability)代表が自宅で心臓まひのため亡くなられました。56歳でした。心よりお悔やみ申し上げます。

     エドは、ぼくが、1985年〜1986年、広げよう愛の輪運動基金の「ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業」により、米国留学の機会を得たとき、米国の介助者サービス事業と自立生活運動の調査研究において、学んだ人々の中でも最も大きな存在だった。

     最初にエドと直接に会い、話をしたのは1985年12月9日の CIL バークレーでのクリスマス・パーティだった。エドは既に日本でも有名だったし、僕もエドの書いたものやエドについて書かれていたものを読んでいたが、実際に会ったときの印象は鮮烈だった。

     電動車いすに乗って呼吸補助装置を使わなければならないほどの四肢まひの重度身体障害者だか、快活で力強く、よく話をし、自信に溢れていて、頼りになりそうなタフな障害者だ、という印象だった。

     エドの家にも2回訪ねて行って話をした。よく電話でも話しをしていた。エドの書いた本・文章を貰って読んだりもした。エドが代表をしているWID に行き、WIDが出版したペーパーの文献研究をすることと、そこのスタッフとミーティングすることは、僕の留学研修活動のひとつだった。

     「もしあなたがあなた自身を好きになれないのなら、他の人々はあなたを好きにならない。障害を持つ人々が彼らの障害を好きであるかそうでないかは別のことであり、彼らは彼らの障害と一緒にうまく生活する方法を学ばなければならない」。つねに笑顔を絶やさないエドの言葉のなかでもぼくの印象に残ったものだった。

     また、1991年に、トヨタ財団1990年度の研究助成「高度技術社会の進展と外傷性重度四肢まひ者の生産活動参加過程に関する日米比較研究およびハイテクの活用による新しい可能性に関する研究」による米国の調査研究旅行で、21世紀に向けての自立生活カンファレンスにおいて、エドと3日間にわたり話をすることができた。


     エドが創設者の一人である1972年設立のCILバークレーは、障害者の自立生活運動を生み、世界中に広がった400以上の自立生活センターのモデルとなった。1995年現在も、CILは、障害をもつ人々が自立生活を行なうことを可能にする基本的な中核のサービスたちを、提供し続けている。

     エドは、人生の途中で体がマヒしてしまい、鉄の肺、電動車いす、リスピレーターなどを使わなければ生きて行けないほどの重度身体障害者だったが、人間が本来持っている無限の素晴らしい可能性を追求・展開して、アメリカの社会を変えた、自立生活運動の創始者の一人だと思う。

    『WORKING QUADS』No.10、p.2、1995年3月



    Photos of Mr. Edward V. Roberts

    写真説明:1985年12月、CIL バークレーでのクリスマス・パーティで。
    Edの隣は、マイケル・ウインター(当時、CILバークレー所長)。




    写真説明:1986年、Edward V. Robertsの家で。
    Edは鉄の肺に入っていた。



    写真説明:1986年、Edward V. Robertsの家の前で。
    Edはリスピレーター付きの電動車いすに乗っていた。



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    Kazuo Seike, president







June 22, 2002, Mr. Justin Dart, Jr.died. 2002年06月22日、Justin Dart, Jr.さんが亡くなられました。

ジャスティン・ダートさんの死 2002
The Death of Mr. Justin Dart, Jr.
Born , 1931; Died June 22, 2002

清家 一雄、代表 重度四肢まひ者の就労問題研究会
Kazuo Seike, President : Research Association on Work
『ワーキング・クォーズ』No.10、p.2、1995年3月


2002年6月22日、Justin Dart, Jr.さんが亡くなられました
June 22, 2002, Mr. Justin Dart, Jr.died.




June 22, 2002, Mr. Justin Dart, Jr.died.
2002年06月22日、Justin Dart, Jr.さんが亡くなられました。


2002年06月22日、Justin Dart, Jr.さんが亡くなられました。

1992年障害をもつアメリカ人法制定の最大の貢献者でした。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

清家一雄

写真は、1991年10月、アメリカ合衆国カリフォルニア州で。
21世紀に向けての自立生活カンファレンス。





J・ダート氏死去
2002.06.23 共同通信 (全202字) 

 ジャスティン・ダート氏(米国の人権活動家)米メディアによると、22日、ワシントンの自宅で死去、71歳。死因は明らかにされていない。

 イリノイ州出身。ポリオ(小児まひ)が原因で車いす生活を余儀なくされたこともあり、身体障害者の権利保護に向けた活動に尽力。1990年の全米障害者法の成立に貢献した。ロイター通信によると、保存容器製造販売の日本タッパーウェア社の創設者としても知られる。(ワシントン共同)

共同通信社



清家一雄 http://www.asahi-net.or.jp/~YS2K-SIK/ YS2K-SIK@asahi-net.or.jp

2002年10 月01日、福岡にて 清家 一雄 重度四肢まひ者の就労問題研究会; 代表 『ワーキング・クォーズ』編集部 "WORKING QUADS" HomePage 制作提供 http://www4.justnet.ne.jp/~seike/ http://www.asahi-net.or.jp/~YS2K-SIK/ seike@ma4.justnet.ne.jp YS2K-SIK@asahi-net.or.jp 〒810- 福岡市中央区大手門 Tel +81-92-735- Fax +81-92-












ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業20周年

「自立へのはばたき」1985(米国留学報告集)

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WORKING QUADS News Letter
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業20周年
ダスキン障害者リーダー育成海外留学派遣事業20期生の壮行会と
「山本好男さんを囲む会」のお知らせ on April 10, 2000
──────────────────────────────

ミスタードーナツ障害者リーダー
米国留学研修派遣事業20周年 

関係者各位

2000年04月10日


ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業20周年

清家一雄@ミスタードーナツ留学研修5期生です。

ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業、
ダスキン障害者リーダー育成海外留学派遣事業が、
1981年から20周年を迎えます。

この事業は、日米、特に日本の障害者福祉の発展に、
ひじょうに貢献してきたものだ、と思います。

ありがとうございました。

感謝を込めて、
現在の事務局長、「山本好男さんを囲む会」を開催したいと思います。

日時は、6月8日、木曜日、午後6時から2時間程度。
ダスキン障害者リーダー育成海外留学派遣事業20期生の壮行会にひき続いて。

山本さんの了承はとってありますので、
興味のあるかたはご連絡ください。






[写真]
第1回、あいのわ障害者国際交流会、
1987年11月、東京都障害者スポーツセンターで



[写真]
第3回、あいのわ障害者国際交流会、
1991年09月、福岡市ベイサイドプレイスで



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ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業と
障害をもつ個人の「成長の可能性」

清家一雄
ミスタードーナツ留学研修5期生

今から15年前の1985年11月14日、
ぼくは、1年間、アメリカ留学に行きました。

当時、手動式車椅子の海外旅行もそれほど一般的でなく、
電動車いすでの海外旅行というだけでもひじょうに珍しい時代でした。

日本の総理大臣が、中曽根康弘氏で、
アメリカ大統領が、ロナルド・レーガン氏の時代だったと思います。

1984年4月、ようやく日本でヘルパーの有料派遣制度が開始され、
(それまでは、どんな理由があっても、税金を払っている世帯には、
ヘルパーの派遣は認められない時代でした)
1984年、スズキから電動リクライニング車いすが発売され、
1985年、シャープのミニ書院というワープロを購入し、使いはじめ、
1986年、スペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故、
1986年4月、日本で国民年金障害基礎年金が成立、
1986年6月、ワシントンD.C.で全米自立生活全国評議会(NCIL)が開催され、
ブッシュ副大統領が会場で演説しました。

日米の為替相場は、
ぼくがアメリカに行ったころ、1ドル210円で、
翌年、帰国するころ、1ドル150円でした。

そういう時代に、
戦争で負けた国から
のこのこ電動車いすでやってきて、
トイレの世話まで
アメリカ人の介助者に介助を頼みながら、
留学するというのですから、
極めてひじょうにまれな留学の事例だった、と思います。

本人にも
奨学金をもらえて勉強できるという喜びとともに、
相当なプレッシャーがありました。

当時のそのような時代状況の中で、
C5頚髄損傷者のアメリカ留学を可能にしたのは、
「ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業」
というプログラムでした。

これは、
ダスキン・ミスタードーナツという企業グループの
財団法人広げよう愛の輪運動基金が費用を負担し、
厚生省の外郭団体である
日本障害者リハビリテーション協会が、
事務手続きなどの支援をしてくれ、
ぼくの場合は、肢体不自由者として、
自立生活センターバークレー
Center for Independent Living in Berkeley
が、米国側の受入になってくれました。
セントルイスの自立生活センターパラクォッドも、
正式な、研修受入先になってもらいました。
あと、ボストン自立生活センター、
ボストン・トランジーショナル・ハウス、
リハビリテーション&リサーチ研究所、
ヒューストン自立生活センターなどでも、
面接聞き取り調査を行なうことができました。

当時、ダスキン社長で、広げよう愛の輪運動基金理事長が駒井茂春さんで、
広げよう愛の輪運動基金事務局長が金山和二六さんでした。
ダスキンUSAが関博典さんでした。

日本障害者リハビリテーション協会副会長で、
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
実行委員長が竹内嘉巳さんで、
5期生の担当が、小野有紀子さんでした。

実行委員(選考委員)が、
竹内嘉巳(委員長)さん、
中川修(副委員長)さん、
大漉憲一さん、
坂口亮さん、
小島蓉子さん、
下田巧さん、
太宰博邦さん、
花田春兆さん、
松井新二郎さん、
松友了さん、
皆川正治さん、
- 宮城まり子さんでした。

5期生は、
鈴木真由美さん、視覚障害、ニューヨークCIL。
中野寿子さん、肢体不自由、バークレーCIL。
木下香さん、中途障害、カリフォルニア大学ノースリッジ校。
森口広恵さん、米てんかん財団。
望月千雅子さん、視覚障害、ジェームズ・マディソン・メモリアル高校。
清家一雄、肢体不自由、バークレーCIL。
森川忠彦さん、視覚障害、ニューヨークIHB。
松兼功さん、肢体不自由、バークレーCIL。
松谷詩子さん、視覚障害、ペンシルバニア州立大学。

旅行手続きでは、
JTBの草薙威一郎さんが担当者でした。

受入先の
自立生活センターバークレーの
所長は、Michael Winterさん、
プログラムの担当は、桑名敦子さんでした。
実際に、いろいろ教えていただいたのは
David Galagherさん、
Phil Draperさんでした。
パラクォッド・自立生活センターセントルイスの
所長は、Max Starkloffさん、
研修の担当は、Colleen Starkloffさんでした。
世界障害問題研究所(WID)では、
代表のEdward V. Robertsさん、
副代表のJudy Heumannさんに、
自立生活全国評議会(NCIL)では
Justin Dart, Jr.さんに
お世話になりました。

ざっと思い出してみても、
これくらいの関係者の支援のもとに可能になったアメリカ留学でした。

この事業も、今年で20年目を迎えます。

「ダスキン障害者リーダー育成海外留学派遣事業」
とい名称で失行されています。

ホームページのアドレスは、
http://www.duskin.co.jp/company/ainowa5.html
です。

広げよう愛の輪運動基金の現在の理事長は、
ダスキン社長の千葉弘二さんです。
事務局長は、
平塚常四郎さん、
遠藤清徳さん、
山本好男さんです。


ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業は、
障害をもつ個人の「成長の可能性」を
限界まで展開させてくれるものでした。

ありがとうございました。


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「山本好男さんを囲む会」

発起人

勝矢光信、ミスタードーナツ留学研修2期生
AAV16375@pcvan.or.jp

今福義明、ミスタードーナツ留学研修4期生
yoshiaki-imafuku@ma3.justnet.ne.jp

川内美彦、ミスタードーナツ留学研修9期生

草薙威一郎 日本交通公社・障害者米国留学担当
 iichiro_kusanagi@jtb.co.jp

清家一雄、ミスタードーナツ留学研修5期生
 kazuo_seike@msn.com

2000年5月29日、福岡にて

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アメリカの一年
One Year of the Life in America
本文開始






「アメリカの一年」[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、

ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業

財団法人 広げよう愛の輪運動基金
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
「アメリカの一年」[1]、1987年4月号、『脊損ニュース』、pp.10-15、全国脊髄損傷者連合会、1987
第一回報告
一.初めに 
二.アメリカへ留学に行った理由と介助サービス制度の必要性 
 1. なぜアメリカへ留学する必要があったのか、
 2.なんの為に介助サービス制度が必要なのか、
   日本の頚髄損傷者の現状 − 僕自身を具体例として
 3.ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣
三.準備、出発、到着
 1.準備段階
 2.日本出発 
 3.アメリカ到着

[写真説明] 1−1 清家一雄:1984年3月、福岡



[写真説明]1−2 清家一雄:スタンディングテーブル(起立台)
九州労災病院作業療法室
浜野博






[写真説明]1−3 清家一雄:1984年3月、大学卒業式
田中博之。読売新聞記者。





[写真説明]1−4 壮行会。福岡市。1985年9月。












[写真説明]1−5 元気でいってらっしゃい
JTB。日本障害者リハビリテーション協会。成田空港。1985年11月15日
 15日に出国した。成田空港では、井窪さん、飯村さん、金山さん、草薙さんが見送りにきてくれた。
広い空港を二周ぐらいした。物凄い警備だった。









[写真説明]1−6 CILの迎えのバン リフト付きワンボックスカー デニス
サンフランシスコ国際空港。カリフォルニア州サンフランシスコ。1985年11月。

 サンフランシスコ空港に着いた。
 サンフランシスコ空港で少し待ったりしていて10時間以上飛行機に乗っていた。空港の中は凄く慌ただしい。 サンフランシスコ経由でヒューストンに行く人を見て思わず声を掛けたくなった。ヒューストンでは高校の友達が働いている。
 入国手続きで弟と間違われた。ポーターに5ドルのチップ。
 アツコさん、介助者のハワード、運転手のデニスが迎えにきてくれていた。
 サンフランシスコは晴れていた。アパートまで自立生活センターのバンで40分ぐらいかかった。 バンにはリフトが付いていて電動車椅子のまま乗れる。



[写真説明]1−7 弟幸治と:1985年11月、バークレーで

 アパートはオークランド市にあった。用意されていたものは、ベッド、オーバーヘッドバー、シーツと毛布、それに電話。 やかんもコップもない。
 ルームメイトのジャネットに会った。彼女も電動車椅子を使っていた。
 とにかく寝た。
 みんなが僕を暖かく迎え入れてくれた。異国の地で人の暖かさに触れた。



本文

アメリカの1年
『アメリカにおける自律生活の実験と
 アテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

福岡県脊髄損傷者連合会 頸損部長
清家一雄

第一回報告

一.初めに

 寒い冬が続いていますが、会の皆様は元気で頑張っていられることと思います。

 僕は全国脊髄損傷者連合会の会員で福岡県脊髄損傷者連合会の頸損部長をしている清家 一雄といいます。脊損ニュースの6月号で紹介していただいたように、1985年11月 から翌年の9月まで約10カ月間、潟~スタードーナツの奨学金を得て、(財)日本リハ ビリテーション協会の協力で、アメリカにアテンダント・サービスプログラム(介助サー ビス事業;Attendant Service Programs)の調査研究を主目的として、留学に行ってきま した。

 この度、伊藤会長、井沢事務局長、白石福脊連会長、松井(東京都神経科学総合研究所) 先生のご配慮で、脊損ニュースにアメリカの事を書くスペースをいただきました。

 アメリカへは多くの人が行きたくさんの事が語られていますが、僕のみたアメリカと言 うのは、、頸髄損傷者という立場からのもので、また違った姿を見せてくれたような気が します。僕自身の体験や留学成果が 会員皆様の考える素材、ヒントになればと思い、こ こにその一端を報告します。御意見、ご質問、御感想などを是非お聞かせ下さい。

 このようなプログラムに無償の援助を続けて下さっているミスター・ドーナツをはじめ とする全ての人々に厚く感謝いたします。どうもありがとうございます。



二.アメリカへ留学に行った理由と介助サービス制度の必要性

 1. なぜアメリカへ留学する必要があったのか、

 僕は、C−5頸髄損傷者という脊髄損傷者の中でも非常に重度の障害を持つものです。 日本における日常生活も大変ですが、アメリカでの留学生活においても多くの困難が予想 され、僕自身も非常な不安を感じていましたが、それにもかかわらず、アメリカに留学に 行った理由は、アメリカにはアテンダント・サービス・プログラム(介助者サービス事業) という、今のところ日本にはない、在宅介助サービス制度があり、それについて調査・研 究したかったからです。

 介助サービス ( attendant care ) とは、重度身体傷害者などの日常の動作を介助者 ( attendant )が補助する仕事で、必要とされれば、家事雑用も行うものですが、介助者は ボランティアと異なり、介助を受けるものは手当を払います。在宅介助サービス制度は、 障害者の自立生活運動を背景として、アメリカで生まれ、障害者の組織「自立生活センタ ー(CIL;Center for Independent Living )」が深く関与しています。

 そして、研究の具体的なテーマとしては、

@アメリカ、特にカリフォルニア州の、十分な資産や収入のない障害者がどういう根拠で どういうところから介助者を雇うお金を得ているのか?

A障害者の介助者に対する関係に於ける緊急事態管理 ( emergency management ) はどの 様にしているのか?

Bアメリカの社会で頑張って生きている重度身体障害者の実態(人生に敗者復活戦はある のか)?

というようなことを考えていましたが、僕自身がアメリカの介助サービスを実際に利用し てみて、重度身体障害者がどこまで自由に生きられるか、ということを実験してみる、と いうことも留学の大きな目的の一つでした。


[写真説明]清家一雄:スタンディングテーブル(起立台)




 2.なんの為に介助サービス制度が必要なのか、

   日本の頸髄損傷者の現状 − 僕自身を具体例として

 介助サービス制度が日常生活動作のできない重度身体障害者の自律生活を根底において支えるものだからです。重度身体障害者が自律するには経済的基盤と同時に身の回りの世話をしてくれる介助者が必要だ、と思います。そして在宅介助サービス制度を日本でも普及させる必要がある、と痛感しています。

 僕のこのような考えは、僕自身の日常生活の必要性から、あるいは危機感からといった方が良いかもしれませんが、生じてきたものです。そしてこの必要性、危機感は、すべての頸髄損傷者に共通しているものだと思います。

 また、質的、量的な違いはあるかもしれませんが、対麻痺者にも共通の問題だともいえます。20年ほど前までは、対麻痺者も、現在の頸髄損傷者のおかれているような、非常に厳しい、ある意味では絶望的な状況にあったのだろうと思います。尿路管理と褥瘡対策、車椅子と改造自動車、そして各種の所得保障が対麻痺者の生活を改善したのではないでしょうか。脊髄神経回復の課題は依然として残されてはいますが。

 さらに付け加えていえば、健常者も障害を持つ可能性がありますし、長生きすれば老人になります。介助の必要性という問題は、可能性あるいは将来の安心感という観点からは、全ての人々にとっても共通の問題だといえるかもしれません。ただ、現在の緊急の問題としては、頸髄損傷者を初めとする四肢麻痺者にとっての最重要課題といえるでしょう。

 それではどのような過程を経て僕がこのような考えを持つようになったのか、僕の生活史をここで少し紹介することにします。ただし、ここで注意していただきたいのは、介助の必要性、危機感というものが共通のものであっても、それに対する解決案としての在宅介助サービスというものは、一つのサンプルであって、この他にも、フォーカス住宅、ナーシングホーム、家族内での専従介助者、国立療養所箱根病院西病棟、八王子自立ホーム、ホームヘルパー、ボランティア、あるいは施設や病院など、様々なタイプのものが考えられるということです。それゆえ、これから述べる僕自身の体験や考えは一つの具体例,サンプルに過ぎませんが、これが会員の皆様にとって刺激や情報となり、それぞれ抱えられている問題の解決案を考えるきっかけになればと思います。


[写真説明]清家一雄:1984年3月、大学卒業式


 この、日常生活動作ができない重度障害者の介助について、誰が負担を引き受けるのか、という問題について、
直接の介助者としては、
@家族、A施設、B病院、Cボランティア、Dホームヘルパー、E有料介助者などが考えられ、
最終的な費用負担者としては、
@障害者本人、A家族、B保険、C贈与者、D納税者、などが考えられますが、アメリカの介助サービス制度は、原型としては、直接の介助者としては有料介助者、費用負担者としては納税者の組合せから構成されているといえるでしょう。

 僕はこのアメリカの在宅介助サービス制度ないしはそれを支える考え方が日本の頸髄損傷者の自律生活にも必要だと思い、アメリカに留学に行ったわけです。



 3.ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣

 この事業は、(財)日本障害者リハビリテーション協会、(財)広げよう愛の輪運動基金、主催、(株)ダスキン、ミスタードーナツ、協賛によるもので、竹内嘉巳実行委員長によると、
「障害者の福祉を共に高める」
 ことを理念とするものです。また、愛の輪事務局長だった金山さんの話では、スポンサーの愛の輪基金は、ダスキンの「祈りの経営」に基づいて、
「障害者にチャンスを与える」
 事と
「ミスター・ドーナツが10年やってきた事への恩返し」
 ということで、この事業を始めたそうです。皆様がこのプログラムでアメリカへ勉強に行かれると良いな、と思っています。連絡先は、リハ協で、電話、03−204−0960です。



三.準備、出発、到着

 1.準備段階

 アメリカ留学が決まってからも、家族や友人がいないアメリカで、しかも日本語が通じない国で、生活しながら僕の目的意識にそった留学の成果を上げることができるかどうか、そして具体的には、健康、排泄管理、褥瘡対策、介助、英会話など不安はたくさんありました。何より介助者費用が余分にかかるので、ハッキリしたプランが立てられず、留学費用の一部である介助者費用を決定するために、アメリカでの介助時間などにつき、生きて行くために必要最小限の介助と快適な生活のための介助との線引きで悩みました。

 また、僕のような重度の者が行くのは初めての事らしく、派遣者のリハ協の方でも
「これだけ重度の人を送り出すの初めてです。駄目だと思ったらそのまま飛行機に乗って帰っておいで」
 というように心配していましたし、僕自身も自分でもよくやるなあとあきれていました。

 しかし、失敗の危険に挑戦することにこそ人間の尊厳があるのかもしれません。

 とにかく、不安が大きい分、できるだけの準備をして行こうと思い、僕も事前研修レポートなどを書きながら勉強もしましたが、たくさんの人達に協力して貰いました。

 自立生活センターバークレーなどの受け入れ先との事務手続きは、日本障害者リハビリテーション協会障害者リーダー米国留学研修派遣事業事務局の井窪さん、中島さん、飯村さんに、現地でのアパート探しなどは、自立生活センターバークレー所長夫人のアツコさんに、パスポートやビザ、航空券の取得は日本交通公社の草薙グループにお世話になりました。

 英文の健康診断書が必要でしたが、総合せき損センターの岩坪暎二泌尿器科部長に書いていただきました。これはアメリカで非常に役に立ちました。また、センターの赤津隆院長からは助言を、溝口博溝口外科整形外科病院院長からは薬などでお世話になりました。北島俊裕先生にはクレジットカードの必要性を教えてもらい、父の家族会員ということで、アメリカンエクスプレスを用意しました。

 英会話のヒアリングについてはリンガフォンを友達に借りて勉強しました。また、アメリカではアメリカ人の介助者ですので、英文の介助マニュアルを準備しましたが、これには、総合せき損センターの松尾清美さん、医用工学のスタッフ、九州リハビリテーション大学のアイリーン山口先生、山口ともね先生、東京神経科学総合研究所の松井和子先生、グリーンライフ研究会の向坊弘道さんに協力していただきました。

 電動車椅子、自助具等の準備では、電動車椅子の整備、アメリカ用の充電器では九州スズキの財部さんに、ワープロの機能キーは井手さんに、カメラは、カメラの台にベルトを付け、そこに手の甲を差入れて固定し、シャッターは口でかんで押すというように藤家さんに、電動リクライニング車椅子のテーブルは山根さんに、飯塚の脊損センターの医用工学研究室で、食事道具などは有園制作所で、サックはヘルパーさん達に、その他、たくさんの人達の協力を得ました。


[写真説明]壮行会、福岡


 8月には、アメリカ人と顔つなぎを東京のサンシャインプリンスホテルで行い、バークレーやセントルイスの自立生活センターの所長のマイクルやマックスに会い、USA情報を聞きました。9月には、福脊連の壮行会がありました。また、この頃、たくさんの人に、お餞別を頂きました。ありがとうございました。



 2.日本出発 

 これからは日記風に書いてみます。

 いよいよ11月14日に福岡を出発した。前の晩、弟の秀幸が夜の介助の後、素朴に祝福してくれた。

 この最期の日の朝までヘルパーさんに来てもらった。紺のJプレスのスーツにレジメンタルタイ、ワイシャツは白を着た。ヘルパーさんと握手して別れた。祖母との長い別れ。

 父のクラウンで福岡空港へ行った。電動車椅子、手動車椅子、書字道具や食事道具などを入れたスーツケース2個、手提げ鞄二つ、クッション3個という荷物だった。荷物は赤帽で運んだ。

 福岡空港には福脊連やミスタードーナツの人達も見送りにきてくれた。

 サンフランシスコまで弟の幸治が付いてきてくれることになった。渡航中、褥瘡、トイレ、電話連絡、荷物の管理など様々な困難が予想されたからだ。リハ協の井窪さんの計らいだった。

 成田空港のエアポートレストハウスというホテルで1泊した。ホテルへの移動は日産キャラバンを使った。

 その夜レストハウスに高校の友達が二人訪ねてくれた。

 僕は、
「冗談が冗談の風に乗り、冗談の波の上で、サーフィンをやっている気がする。戦争で負けた国から電動車椅子で来てトイレの世話まで頼むのだから」
 と言った。

 ドン・キ・ホーテ。しかし見れる夢があるのは幸せなことかも知れない。狂気の夢でも夢から醒めさせられると人は頭にくる。それに重度身体障害者にとって夢と狂気と現実の区別をつけることは難しい。体が麻痺してしまったことだけは確かだが。とにかくアメリカン・ドリームを掴むことができるかどうか。スポンサーがついて大義名分があるからアメリカに長期間行けるが、その分受験勉強ができないしできなかった。これは賭だ。


[写真説明]1985年11月、成田国際空港


 15日に出国した。成田空港では、井窪さん、飯村さん、金山さん、草薙さんが見送りにきてくれ、リハ協から研修報告用紙と留学研修費用約4,000ドルを貰った。広い空港を二周ぐらいした。物凄い警備だった。

 日本航空に、
「長い時間座りっぱなしでは尻が危ないので隣の席を空けて下さい」
 と頼んだ。

 席はエグゼグティブだった。隣は幸治と空席。幸治の協力で、横になったり、リクライニングを倒したり上半身の体重を背中や横に逃がした。 映画は『目撃者』、食事は洋食だった。シャンパン、ワインを飲んで寝た。

 日付変更線を越えた。



 3.アメリカ到着

 サンフランシスコ空港に着いた。

 サンフランシスコ空港で少し待ったりしていて10時間以上飛行機に乗っていた。空港の中は凄く慌ただしい。サンフランシスコ経由でヒューストンに行く人を見て思わず声を掛けたくなった。ヒューストンでは高校の友達が働いている。

 入国手続きで弟と間違われた。ポーターに5ドルのチップ。


[写真説明]1985年11月、サンフランシスコで


 アツコさん、介助者のハワード、運転手のデニスが迎えにきてくれていた。

 サンフランシスコは晴れていた。アパートまで自立生活センターのバンで40分ぐらいかかった。バンにはリフトが付いていて電動車椅子のまま乗れる。


[写真説明]弟幸治と:1985年11月、バークレーで


 アパートはオークランド市にあった。用意されていたものは、ベッド、オーバーヘッドバー、シーツと毛布、それに電話。やかんもコップもない。

 ルームメイトのジャネットに会った。彼女も電動車椅子を使っていた。

 ベッドに上がった。尻は破れてない。感謝。

 ハワードとは今日は面接のみ。マクドナルドでビッグマックとコーヒーを買ってきて貰い食べた。アメリカのコインの学習。

 とにかく寝た。

 みんなが僕を暖かく迎え入れてくれた。異国の地で人の暖かさに触れた。

  以下次号に続く。







「アメリカの一年」の目次ページへ


「アメリカの一年」第2回報告へ






「アメリカの一年」[2]、『脊損ニュース』1987年5月号、pp.18-21、全国脊髄損傷者連合会、1987
第2回報告
四 .アメリカの人々
 1.頚髄損傷者の生活と意識の多様性
ジェローム
キャシー
 2.留学当初の生活
 ベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)
 生活
 アテンダント(介助者)


[写真説明]2−1 C−1頚損者キャシーとTIRRの彼女のオフィスで:1986年6月、ヒューストン



[写真説明]2−2 バートという地下鉄のような交通機関の列車の内部:1985年11月、サンフランシスコ




[写真説明]2−3 1985年〜1986年、ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業での米国留学時のアパート
カリフォルニア州オークランド。1986年11月




[写真説明]2−4 1985年〜1986年、米国留学時代に住んでいたアパートのベッドルーム
アパートの僕の部屋。ベッドはレンタル。カリフォルニア州オークランド。1986年11月



[写真説明]2−6 食事:1985年11月、サンフランシスコ



[写真説明]2−5 ルームメイトのジャネット:カリフォルニア州オークランド。1985年11月



[写真説明]2−7 セーフウェイというスーパーで買物。左はアテンダント:
カリフォルニア州オークランド。1985年11月



[写真説明]2−8 サンフランシスコ市内:1985年11月、サンフランシスコ



写真説明
1 C−1頚損者キャシーとTIRRの彼女のオフィスで
2 バートという地下鉄のような交通機関の列車の内部
3 アパートの正面
4 アパートの僕の部屋。ベッドはレンタル
5 ルームメイトのジャネット
6 食事
7 セーフウェイというスーパーで買物。左はアテンダント
8 サンフランシスコ市内



「アメリカの一年」第2回本文

初出:「アメリカの一年」[2]、 『脊損ニュース』1987年5月号、 pp.18-21、 全国脊髄損傷者連合会、1987.5

アメリカの1年
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
福岡県脊髄損傷者連合会 頸損部長
清家一雄

第2回報告

四 .アメリカの人々

 1.頸髄損傷者の生活と意識の多様性

 アメリカでは、かなりの期間、僕も、アパートに住んで自炊して、しかも重度身体障害 者としてアテンダントサービスを利用しながら、日々の生活を実際に体験した。また、ア テンダント・サービス・プログラムを利用して生活しているアメリカの障害を持つ人達と 友人になり、彼らの生活を見、彼らの話を聞いた。アメリカの人々の生活や考え方、そし てその多様性にも多少なりとも触れる事ができたのではないだろうかと思う。

 アメリカではいろいろなことを体験したり学んだりしたが、その中でも最も印象的な出 来事の一つが頸髄の第一番を損傷した人達(以下C−1頸髄損傷者)との出会いだった。 1986年の6月にアメリカの首都ワシントンDCで開催された「自立生活全国会議」に 参加した後、高校時代の友達が働いているテキサス州のヒューストン市に立ち寄った時、 その亀岡という友達が見学をアレンジしてくれたリハビリテーション&リサーチ研究所 (The Institute of Rehabilitaton & Researc、以下TIRR)でのことだった。



ジェローム

 C−1・2頸髄損傷者。TIRRに入院していた5歳の男の子。色が白くて可愛い顔を している。数カ月前に、自転車に乗っていて自動車と正面衝突をして受傷。数時間死んで いたのをレスキュウが蘇生させた。C−1・2頸髄損傷者となる。

 肺の横隔膜をコントロールする神経は頸髄の4番のところにあるが、そこより脳に近い ところを損傷しているので、自分で呼吸できない。フレニック・スティミュレーター(横 隔膜刺激装置)というフレニックナーブを人工的に刺激する装置を使う。フレニックナー ブは横隔膜をコントロールし、従って呼吸の動作をコントロールする神経。一つの電極を 鎖骨の近くのフレニックナーブの隣に埋め込む。車椅子に取り付けることが可能な発信装 置にはダイヤルとコントロールが付いているので、使用者は彼の呼吸を規制することがで きる。

 フレニック・スティミュレーターは17,000ドル。ちなみに機械的な人工呼吸装置は 8,000ドルから10,000ドル。機械的人工呼吸機ではたんが詰まったりして、より自然の呼吸 に近いフレニック・スティミュレーターに劣る。しかし、フレニック・スティミュレータ ーも故障することがある。TIRRは、ジェロームのように、フレニック・スティミュレ ーターを埋め込んだ人達を20ケース持っていた。

 ジェロームは言葉を話す時、呼吸動作を脳から直接コントロールできないので、吐く息 に合わせて、少しずつ喋る。

 母親が、彼の医療費を稼ぐために、フィラデルフィアで働いていて、5カ月ぐらい前に、 一人でヒューストンのTIRRに来ているジェロームは落ち込んでいる。

 優秀な医師と良い設備があれば延命は限りなく可能になってきているようだ。しかし、 医学では治せない障害が残った場合、その延ばされた生命にどのような時間を吹き込むか、 生活の質(Quality of Life)のようなものが問題にならざるを得ないのかもしれない。 僕自身も頸髄損傷者だが、ジェロームに会ってそう思った。

 紹介された時、何と言って話しかけようかと思ったが、とにかく、
「僕はいまカリフォルニアに住んでいる、バークレーにはクレージーな障害者がたくさん 住んでいて、ベッドの上に乗ったままでさえ、レストランやコンサートに出かけているよ、 テーク・ケア、グッド・ラック」
 と言った。

 ジェロームの写真は僕がジェロームだったら厭だろうと思い、撮らせて下さいとは頼ま なかった。



 第一回報告で述べたように、僕はアメリカの在宅介助サービス制度ないしはそれを支え る考え方が日本の頸髄損傷者の自律生活にも必要だと思い、アメリカに留学に行ったが、 そのことはアメリカの頸髄損傷者達が全て自律して充実した生活を送っているということ を意味するものではない。

 脊髄損傷、特に高位の頸髄損傷という障害が個人・人間にとっての非常に重大なインペ アメント(機能・形態障害・一次的な障害)であるということは日本人にとってもアメリ カ人にとっても変わりはない。頸髄損傷者達は、日本人もアメリカ人も、同じように身体 が麻痺し、同じように身体の感覚が失われ、同じように身体の運動機能が制限され、同じ ように褥瘡、尿路感染、尿閉、大小便失禁などの身体的問題で悩んでいる。

 頸髄損傷という身体障害によるインペアメントが極限の形で現れるのがC−1完全頸髄 損傷者だと思う。(日本にもC−3以上の部位を損傷しフレニックスティミュレーターや リスピレーターを使っている頸髄損傷者達がいる。日本ではフレニックスティミュレータ ーは400万円[1986年10月29日朝日新聞夕刊]、リスピレーターは300万円位[せき損セン ター]。)そこでは、人間=個人=頸髄損傷者は弱いものであり回りの人間に支えられて いるという面や、最重度の問題(障害が重度になればなるほど他の機能で補うことが難し くなる、生活の困難さは飛躍的に増す、補えなくなる。常に最後の手段を使う・使わざる を得ない、余裕がない、ということがいえるのではないかと思う)が明瞭に現れていると 思う。さらにジェロームの場合には若年障害者の問題もあると思う。

 TIRRの医師が次のように言っていた。
「以前に8歳ぐらいの可愛い女の子がやはりフレニック・スティミュレーターを着けた。 彼女はその後ナーシング・ホームか施設かに行ったが、寝た切りで、ただ生きているとい うだけの生活だった。10歳位になればメンスも始まる。10年位生きたが、結局20歳 ぐらいで死んだ。『神は何処にいるのか』というような話ですが。

 アメリカの医療は金次第だということを強く感じる。メディケアやメディケイドがある にしても、良い医療を受けるためには金が掛かる。治療費によって診療水準が決まる。そ の点、日本の健康保険制度の方がまだ良いのではないか。ジェロームの母親が働いている のもいつまで持つか」



 同じ日に、同じTIRRでキャシーというもう一人のC−1頸髄損傷者に会った。



キャシー

[写真説明]1 
C−1頸損者キャシーとTIRRの彼女のオフィスで:
1986年6月、ヒューストン



 彼女もC−1・2の頸髄損傷者でフレニック・スティミュレーターを使用していた。2 0歳頃受傷して、法学部を出て、現在はTIRRの顧問弁護士。38歳だった。

 彼女は上手に話した。彼女のオフィスにはコンピューターがあり、自分で使っていた。 メトロというリフト付きのバンを利用していた。
「あなたの写真を僕と一緒に撮っても良いですか」
 と聞くと、
「もちろん(Sure!)」
 との答えだった。



 アメリカではキャシーの他にも、C−1頸髄損傷者ではないが、自律的に生きているた くさんの高位頸髄損傷者と会った。タフな障害者、強い障害者、卑屈にならない障害者達 もたくさんいる。特にカリフォルニアやボストンでは、大きな資産や飛び抜けた才能があ るわけではない、普通の頸髄損傷者が、アテンダントサービスを利用して、当り前の顔を して、アパートを借りて街の中で一人で生活していた。僕自身もアパートを借りて住んだ。 バークレーやボストンという街は、ある意味では、重度身体障害者にとっての現代のおと ぎ話の国のようなところだ。 



 2.留学当初の生活

 アメリカで留学生活を始めた時、僕は28歳だった。想像と実際の生活は非常に違った ものだったが、刺激に満ち溢れた、修行の場としては最高の1年だったように思う。



 ベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)

[写真説明]2 
バートという地下鉄のような交通機関の列車の内部:
1985年11月、サンフランシスコ


 僕が最初に留学生活を始めたのはアメリカ西海岸にあるカリフォルニア州のベイエリア と呼ばれているところだった。ベイエリアというのはサンフランシスコ、バークレー、オ ークランドなどがバートという地下鉄で一つになっているサンフランシスコ湾岸地帯だ。 ベイエリア全体では人口450万人を越え、メガロポリスを形成している。僕はオークラ ンド市の41番ストリート517にあるアパートで生活を始めた。

 カリフォルニアは天然のエアコンを備えているみたいだ。冬暖かくて夏涼しい。気候が 温暖でとても住み易いところだ。冬(雨期)には滝のような大雨が降るが、夏(乾期)の 大空は凄く青い。食べ物もうまくて安い。

 そこに住む人達は、様々な人種、価値観を持つ人で構成されている。色々な少数派達が 集まっているところだから、障害者もいっぱいいて、困難な条件を持つ人がひょっこり行 ってもスッと受け入れてもらえるようなところがある。

 日本では対麻痺者でもかなり重度に見られるが、もっと困難な条件を抱えている人が普 通通りバリバリやっていた。リクライニングの電動車椅子を使っているかなり重い頸髄損 傷の人達が高校の先生とか介助者事業のコンピューター・プログラマーをやっていて、た くさんの人が街の中で生活している実態があった。

 治安は日本ほどは良くない。

 ベイエリアでは重度身体障害者による徹底的な自律生活の考え方とそれを支える社会保 障・福祉としてアテンダント費用に関するカリフォルニア州のプログラムIHSSが非常 に印象的だった。


1985年〜1986年、米国留学時代に住んでいたアパートのベッドルーム




 生活

 アパートは民間のもので、木造2階建ての1階だった。かなり古い建物だったが1階の 出入口に車椅子用のスロープが付いていた。クーラーはなかったがセントラルヒーティン グがあった。

 単身での生活だったが、最初は、ジャネット・スワントコという電動車椅子を使う障害 者の女性のルームメイトが一緒だった。ジャネットにはレイ、スティーブとジェリーとい う3人のパートタイムアテンダントがいた。

[写真説明]5 ルームメイトのジャネット:
1985年11月、サンフランシスコ


 収入は留学研修生として奨学金・研修費を愛の輪基金・リハ協から送金してもらった。 アパートの家賃(1カ月250ドル)、ベッドのリース料(1カ月96ドル)、食費(1 日10ドル)、雑費(1日5ドル)、アテンダント費用(1日35ドル)などで1カ月約 1、800ドルだった。

 仕事というか勉強は自立生活センターバークレーを媒介としてアメリカのアテンダント ・サービス・プログラムを中心としたリサーチをしていた。人に会って話を聞いたり文献 を読んだりもしていたが、生活の全てが勉強みたいな面もあった。そしてそれをワープロ や写真で記録に取っていた。一応、毎月研修報告をリハ協に出すということが研修費送金 の条件となっていた。



 アテンダント(介助者)

[写真説明]6 食事:1985年11月、サンフランシスコ


[写真説明]7 セーフウェイというスーパーで買物。左はアテンダント:
1985年11月、サンフランシスコ


 最初のアテンダントは白人の中年男性だった。最初の1週間は弟の幸治がいたので1日 7時間のパートタイムアテンダントとして契約した。1時間5ドルがベイエリアでの相場 だったので僕もそれに従った。

 介助者は、
「自分は9時から5時までのパートタイマーではなく、1日35ドルのサラリーマンであ り、それを自分で選んで契約したのだ、夜中でも呼ばれれば来る」
 と言う。

 弟が日本に帰った日から、パートタイマーではなくてリブイン(住み込み)アテンダン ト(介助者)となった。僕はプライバシーなどもあり、どちらかというとパートタイマー の方が良かったが、CIL所長のマイクルやアツコが心配して、
「リブインで様子を見て見ろ」
 と言う。

 介助者は、彼自身もリブインを希望していて、
「9時から5時までは嫌いだからと、リブインでも今のままの1日35ドルでよい、自分 はパートタイマーではなく1日単位のサラリーマンとして契約したのだ。食料も自分の分 は自分で賄う。ルームメイトのジャネットとも話はついてる」
 と言う。

 この晩から中国製のダウンの寝袋を持ってやって来た。

[写真説明]8 サンフランシスコ市内:1985年11月、サンフランシスコ






アメリカの1年
第3回報告
 移動
@電動車椅子
Aリライアブル・トランスポーテーション
Bバート
CACトランジット・バス
 プレッシャーソー(褥瘡)


[写真説明]1.リライアブル・トランスポーテーション。CILの前で。:1985年11月、バークレー



[写真説明]2.リライアブル。CILの前で。1985年11月、バークレー

 リライアブル(「頼りになる」という意味)というのは、リフト付き1ボックスカーの運送・タクシー会社の名前で、乗り移りが便利で料金もタクシー並(?)の車椅子障害者向けのバン・サービスを供給している(この他にマルチネス・バスラインというバス会社もバン・サービスを行っていた。また、バークレーでは前述の身体障害者のためのエマージェンシー・サービス・プログラムの一環としてバンサービスが始められた。福岡市内にはリフトつき1ボックス・カーのタクシーは走っていない。福脊連福岡支部のメンバーを中心にして、テレビのチャリティ番組からリフト付バンを1台寄贈を受けて、1qにつき50円の利用料で運営している。)。やはりドア・ツー・ドアは便利で楽だ。特に、雨期には非常に助かった。
 しかし予約が面倒なのと約束や時間に関してしばしばノットリライアブル(頼りにならない)になることがあった。それと時間が前もって決っていてそれに常に拘束されるのも、時間の使い方として、時には窮屈さを感じた。


[写真説明]3. リライアブルの内部。サンフランシスコ空港で。1986年7月、サンフランシスコ



[写真説明]4.バート(列車)。マッカーサー駅で。1986年3月、サンフランシスコ

 ベイエリアにはバート(BART。湾岸地帯高速移動・Bay Area Rapid Transit・の頭文字を取っている)という地下鉄が進化したような乗り物が走っている。
 初めてバートに乗ってバークレーに行った時は用事でしかたなく乗ったという感じだった。しかし列車は中が広く電動車椅子のままで乗れて駅にはエレベーターもついていた。そしてマッカーサー駅が僕のアパートのすぐそばにあった。ただダウンタウンバークレー駅とCIL(自立生活センター)バークレーの間は確かに遠い。僕の電動車椅子で30分かそれ以上かかる。操縦するためきちんと座るので尻も心配だし雨の日は大変だった。



[写真説明]5.バートのマッカーサー駅のプラットホームとエレベーター。
左手のところにある電話で「エレベーター・プリーズ」と言う。1986年2月、オークランド・マッカーサー駅 MacAthur



[写真説明]6. ミューニー。サンフランシスコ市内を走っている車椅子用リフト付ワンマン・バス。1986年4月、バークレー



[写真説明]7.マックス・スタークロフと。僕が座っているのがローホー、左足に履いているのがムーンブーツ。
1986年8月、セントルイス

 1985年12月5日、オークランド市のハイアット・リージェンシー・ホテルでマックスが代表をしていた自立生活全国評議会(National Council on Independent Living、以下NCIL)のミーティングがあり、僕もそこへ行った。その時僕は左の座骨部分に小さな褥瘡があり、約10ドルで買った穴空きのラバーフォーム(海綿状のゴム)・クッションを使っていた。



[写真説明]8.コリーンと娘のメーガンと赤ちゃんのマクシー。1986年8月、セントルイス


写真説明
1. リライアブル・トランスポーテーション。CILの前で。
2. リライアブル。CILの前で。
3. リライアブルの内部。サンフランシスコ空港で。
4. バート(列車)。マッカーサー駅で。
5. バートのマッカーサー駅のプラットホームとエレベーター。左手のところにある電話で「エレベーター・プリーズ」と言う。
6. ミューニー。サンフランシスコ市内を走っている車椅子用リフト付ワンマン・バス。
7. マックス・スタークロフと。僕が座っているのがローホー、左足に履いているのがムーンブーツ。
8. コリーンと娘のメーガンと赤ちゃんのマクシー。



「アメリカの一年」第3回
One Year of the Life in America No.3



「アメリカの一年」第3回本文

初出:「アメリカの一年」[3]、 『脊損ニュース』1987年7月号、 pp.23-27、 全国脊髄損傷者連合会、1987

「アメリカの一年」
第3回報告
福岡県脊髄損傷者連合会 頸損部長
清家一雄


 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)の障害を持つ人達の移動とアメリカ の脊髄損傷者達のプレッシャーソー(蓐瘡)対策を中心に報告します。


 移動


 もはや電動車椅子なしの高位頸髄損傷者(四肢麻痺の重度身体障害者)の生活は考えら れないだろう。移動の自由は精神的自由・行動の自由の現実の現れだと思う。

 バークレーはとにかくクレージーな障害者で溢れている異常な街だった。メインストリ ートを行くと、電動車椅子、車椅子、歩行器、杖、白い杖、盲導犬などを使っている人が ごちゃごちゃしている。頭にかぶったヘルメットから出ているヘッドピースで電動車椅子 を凄いスピードで運転している人がいた。

 僕も、バークレー大学の図書館で本を探すのを手伝って貰うために、初めて会う人との 待ち合わせで、最初、
「大学の正門に何時にいます、電動車椅子に乗っているのでそれが目印になると思います」
 と言ったが、
「バークレー大学は電動車椅子の人達で溢れていて、電動車椅子に乗っているぐらいでは 目印にならない」
 と言われ、待ち合わせ場所をバートのバークレー駅エレベーターの前に変えたことがあ る。それくらい、電動車椅子を使っている人や障害者はいっぱいいて、健常者も慣れてし まっているというか街に溶け込んでいた。この異常な街、障害者にとってのおとぎ話の国 のようなバークレーでは車椅子に乗っている事ぐらいでは何も目だたない、もう人も何と も思わないのかもしれない。

 市民の納税者意識が凄かった。僕がバークレーの街を電動車椅子で歩道を行っていた時、 歩道にピックアップ・トラックが停まっていたので車道を通っていたら、人が前に立ちは だかってきて、
「おまえ何で歩道を通らないんだ。歩道の角をカットするのに俺達は税金を払ってるんだ。 歩道行け」
 と言われた。これ以後、僕も少々の障害物があっても歩道から外れないようにした。し かし、バークレーの凄いスピードの電動車椅子は車道を走っていたのもいたし、ニューヨ ークではほとんどの歩道がカーブカットされてなく、電動スクーターが車道を走っていた。 僕はニューヨークでは介助者がいたので、いちいち段差を乗り越えて行ったが、大変な作 業だったし、電動車椅子もガタガタになった。


@電動車椅子

 アメリカの電動車椅子は速い。時速16マイル(25.6q。1マイルは約1.6q) というのに乗っているクレージーな人にも会った。時速8ー10マイルはざらだった。そ して頑丈で重い。バッテリーが特に重い。一台で250sの電動車椅子もあった。僕もス ズキの電動車椅子のドライブ・ギヤが壊れたとき、部品を日本から取り寄せる間、アメリ カの電動車椅子をレンタルして使った。タックス(カリフォルニア州では6.5%の税金) 込みで1カ月160ドル位だった。

 日本の電動車椅子はとにかく遅い。アメリカのに比べたらまるで亀だ。バークレーでは 女の子が髪をなびかせて電動車椅子でドライブしている。僕は亀のようにのろい日本の電 動車椅子に乗って、その後ろ姿を見送っていた。サンフランシスコの坂は無茶区茶。僕の 電動車椅子では登れないし、止まれない。ほとんどロック・クライミング。ただ、僕の乗 っているリクライニング・タイプのは、「キャデラック・タイプ」「グッドデザイン」と か、また単純に”スズキ”ということで、男の子やおじさん達に目だっていた。それと価 格の低さはやはり日本製の長所だろう。

 電動車椅子の問題点としては、雨と寒さに弱い、単独では長距離移動が難しい、乗用車 への収納、飛行機に乗る場合のバッテリー、維持・修理のサービスシステム(バークレー では、身体障害者のためのバークレー市の基金によるエマージェンシー・サービス・プロ グラムの一環として、電話とTDDで受け付ける、1日24時間・1週7日間利用可能な 車椅子修理が始められた。)ということなどが考えられる。雨や寒さ、長距離移動に関し ては他の交通機関との併用において考えられるべきだろう。



Aリライアブル・トランスポーテーション
 (リフト付きワゴン・タクシー)


[写真説明]2.リライアブル。CILの前で。
1985年11月、バークレー


 リライアブル(「頼りになる」という意味)というのは、リフト付き1ボックスカーの 運送・タクシー会社の名前で、乗り移りが便利で料金もタクシー並(?)の車椅子障害者 向けのバン・サービスを供給している(この他にマルチネス・バスラインというバス会社 もバン・サービスを行っていた。また、バークレーでは前述の身体障害者のためのエマー ジェンシー・サービス・プログラムの一環としてバンサービスが始められた。福岡市内に はリフトつき1ボックス・カーのタクシーは走っていない。福脊連福岡支部のメンバーを 中心にして、テレビのチャリティ番組からリフト付バンを1台寄贈を受けて、1qにつき 50円の利用料で運営している。)。やはりドア・ツー・ドアは便利で楽だ。特に、雨期 には非常に助かった。

 しかし予約が面倒なのと約束や時間に関してしばしばノットリライアブル(頼りになら ない)になることがあった。それと時間が前もって決っていてそれに常に拘束されるのも、 時間の使い方として、時には窮屈さを感じた。


[写真説明]3. リライアブルの内部。
サンフランシスコ空港で。
1986年7月、サンフランシスコ



Bバート


[写真説明]4.バート(列車)。
マッカーサー駅で。
1986年3月、サンフランシスコ


 ベイエリアにはバート(BART。湾岸地帯高速移動『Bay Area Rapid Transit』の頭文字 を取っている)という地下鉄が進化したような乗り物が走っている。

 初めてバートに乗ってバークレーに行った時は用事でしかたなく乗ったという感じだっ た。しかし列車は中が広く電動車椅子のままで乗れて駅にはエレベーターもついていた。 そしてマッカーサー駅が僕のアパートのすぐそばにあった。ただダウンタウンバークレー 駅とCIL(自立生活センター)バークレーの間は確かに遠い。僕の電動車椅子で30分 かそれ以上かかる。操縦するためきちんと座るので尻も心配だし雨の日は大変だった。


[写真説明]5.
バートのマッカーサー駅のプラットホームとエレベーター。
左手のところにある電話で
「エレベーター・プリーズ」
と言う。
1996年2月、オークランド・マッカーサー駅 MacAthur


 バートは(電動)車椅子利用者にとっては一番便利で安いと思う。介助者割引はないが、 その分障害者本人は、障害の種類・程度、収入、国籍に関係なく、10分の1の値段で切 符を買うことができる(六五歳以上の老人と五ー一二歳の子供は割引、四歳以下の幼児は 無料。日本のJRは1種身体障害者と介助者1人の乗車券が50%引き。特急券の割引はな し。日本の航空会社は重度障害者本人、介助者両方の航空運賃が25%引き。福岡市の地 下鉄も本人、介助者とも50%引き。”福祉乗車券”という障害者本人の無料パスもある。)。 切符はCIl、指定の雑貨屋、スーパーマーケットで売っていた。僕も12ドルの切符 をCILで10分の1の1ドル20セントで買っていた。

 バートの良いところは、全部の駅にエレベーターがあり、列車の中が広くて居心地がよ いことだ(福岡市の地下鉄の駅には地上と結ばれているエレベーターは付いていない。た だ天神の地下街やデパートなどのエレベーター、西新のデパートのエレベーター、博多駅 のホテルのエレベーターを使えば電動車椅子に乗ったまま地下鉄の駅まで行くことができ る。僕の家は西新駅から約1q。JRの新幹線については、博多駅、小倉駅、新下関駅、 京都駅、名古屋駅、東京駅を利用したことがあるが電動車椅子のままで使えた。)。それ に速い。僕のアパートからサンフランシスコの中心街まで、バートを使えば、海(サンフ ランシスコ湾)の下の海底トンネルを通って、約20分で行くことができた。しかもその 間には段差などのバリアは一つもなかった。この事実は移動に関して僕の心理的負担を本 当に軽くしてくれた。

 スタッフの意識と態度も凄く良かった。ベタベタに親切なのではなく、普通に改札など 必要な介助をやってくれる。ポケットに切符さえ入れておけばよかった。電動車椅子とバ ートを組み合わせた移動には介助者は必要ではない。他の乗客の親切を当てにしなくても よい。

 敢えて難点をあげれば、マッカーサー駅で切符の改札に手間が掛かったことと駅が少な いぐらいだが、とにかくバートを使わないのはモグリではないかと思うほど、バートは便 利で速く快適だ。



CACトランジット・バス
 (リフト付き路線バス)



 バークレーで走っているACトランジット・バスは前方のドアのところにリフトがつい ていて電動車椅子に乗ったままで乗り降りができる(サンフランシスコ市内を走っている リフト付きワンマンバスはミューニー[MUNI]という。サンフランシスコの夜のストリー トは物騒なので、行きは電動車椅子で行った道を、乗ったことがある。福岡市内を走って いるバスは車椅子のシンボル・マークを着けていてもリフトが付いているわけではない。)。


[写真説明]6. ミューニー。
サンフランシスコ市内を走っている車椅子用リフト付ワンマン・バス。
1986年4月、バークレー


 僕が初めてACトテランジットバスを使ってみた時、1台目は、
「リフトが故障だ」
 と断わられた。無線で聞いてくれて、
「次のは大丈夫だから、次のバスに乗れ」
 と言われた。2台目のバスはリフトは大丈夫だったが、運転手が僕の車椅子を見て、
「おまえは重過ぎるように見える」
 と渋った。
「とにかく試してみてくれ」
 と言うと、
「じゃあやってみよう」
 と言うことになった。何とか乗れたが、リフトやバス内の通路は狭く、誰かが後ろで誘 導してくれないと他の乗客の足を踏みまくってしまうようで、それほど乗って嬉しいとい う感じではなかった。しかし、意外と親切な運転手で他の乗客も好意的だった。

 バートに比べて駅の数も非常に多く、CILのすぐそばにもバス停があって、楽に乗り降り ができたら便利な乗り物だろうと思った。障害者料金は安い。


 他の乗り物で、サンフランシスコのケーブルカーがあるが、これはとても乗れそうにも ない。後、レンタカーはお金と運転手があれば楽しい乗り物だろう。



 プレッシャーソー(褥瘡)

 触覚の無感覚な脊髄損傷者にとって褥瘡は大きな問題だ。特に、頸髄損傷者のように、 上肢もコントロールできず長時間同じ体位を続ける可能性が高く、しかも座位でプッシュ アップができない四肢麻痺の人達には、皮膚と他の何かの接触領域、特に座骨部分、で蓐 瘡ができる危険性が高く一旦できると治癒が非常に難しい。

 僕もこれには悩まされ続けてきている。アメリカの脊髄損傷者達の多くもこの問題で悩 んでいて色々な方法を使っている。その解決策の一つとしてかなり多くの人達がローホー ・クッション(商品名。ローホー ROHO という会社が作っている。)という蓐瘡対策座布 団を使っている。アクセントというアメリカの雑誌によると一番人気がある。僕もアメリ カでローホー・クッションを買い、それを使い、今も日本で使っている。ローホーがベス トかどうかはわからないが、僕が今まで使ってきたクッションの中では一番ベターだ、と 思う。

 ローホー・クッションをアドバイスしてくれたのはセントルイスのパラクォッドという 自立生活センターの所長マックス・スタークロフと彼の奥さんのコリーンだった。マック スも高位頸髄損傷者で褥瘡の悩みがあり、ローホーを使っている。


[写真説明]7.マックス・スタークロフと。
僕が座っているのがローホー、左足に履いているのがムーンブーツ。
1996年8月、セントルイス


 1985年12月5日、オークランド市のハイアット・リージェンシー・ホテルでマッ クスが代表をしていた自立生活全国評議会(National Council on Independent Living、 以下NCIL)のミーティングがあり、僕もそこへ行った。その時僕は左の座骨部分に小さな 褥瘡があり、約10ドルで買った穴空きのラバーフォーム(海綿状のゴム)・クッション を使っていた。

 ミーティングの途中だったが、褥瘡があるので、早めに帰ろうとしていたら、ロビーで コリーンと会った。
「尻に問題があるからもう帰るんだ」
 と言うと、コリーンに、
「早くベッドに寝ていろ」
 と言われた。そして
「ステップを降ろして膝を下げろ」
 とアドバイスしてくれた。でもとても親切だった。「送って貸してあげる」と言うロー ホー・クッションを買うことに決めた。

 翌日、シールドという医療・リハビリテーション用品店の店でハイ・プロフィール(高 さ10pの一番褥瘡対策になるタイプ。この他に2.5p、5p、7.5pのタイプがあ る)、1バルブ・タイプを買った。ローホークッションはタックスを合わせて280ドル ぐらいだった。

 娘のメーガンを連れてきたコリーンが、僕のアパートで、プレッシャーソーをチェック してくれて色々アドバイスしてくれた。子供を育てているせいか、とても良く気が付き優 しくて親切だった。アメリカに来て初めて姉か母親のような配慮に接した。それにコリー ンは理学療法士でもある。


 僕の買ったローホー・クッションは1枚のベースの上に卵ぐらいの突起物が8×9列に 並んでいる。色は黒で、燃えにくい柔らかいゴムのような素材でできていて、空気で膨ら ませて使う。座るとこの突起部分が尻の形に潰れて行く。排水を許し、軽量で、掃除はし やすい。いくつかの空気のセル(小室)を輪ゴムで詰めて自在に穴を作ったりつぶしたり できる。

 ローホーの有利な点はドライ・フローテーション(乾式の浮揚)・システムに基づいた調 整可能な空気圧と軽量であるということだろう。

 が、ローホーにも短所はある。最大のものはパンクすることだと思う。ローホーに穴が 開いて空気が抜け機能しなくなり褥瘡ができることがある。空気圧の調節も大変だ。
「座った時、お尻の下からクッションのそこまでが2.5pになるように空気を入れなさ い。飛行機の中では気圧が下がるので空気を少し抜きなさい」
 とコリーンに言われた。安定性にも少し問題があるかもしれない。熱が逃げにくい。

 実際にクッションを買う場合、価格が問題になる。ローホーの値段も高いと思う。しか し、僕の体験からも、値段よりも起きている時間、自由な時間の方が貴重だと思う。クッ ションのコストは深刻な蓐瘡に比べたら安いだろう。もちろんあまりにも高価過ぎてはど うしようもないが。


 アメリカにはローホーの他に、Jクッションというのも人気があった。ラバーフォーム クッションを半年毎に買い換えて中をくり抜いて使うという頸髄損傷者もいた。(車椅子 用のクッションには大きく分けて、空気や液体で満たされているフローテーション・タイ プ、ゲル・タイプ、ポリマーフォーム・タイプ[以上はスタティック<静的>なクッショ ン]と型にいれて造るシート・タイプがあり、それぞれ有利な点、不利な点がある。適切 なクッションの選択は、安楽と蓐瘡の予防に関して重要だ。具体的には十分なパッディン グ[摩擦・損傷よけの当てものをすること]、通気性、軽量、高さ、移動能力、永続性な どが問題になる。an accent guide WHEELCHAIRS and ACCESSORIES・38頁ー44頁。)

 また、クッションの他にも、褥瘡対策として、アメリカの頸損者達は、電動リクライニ ング車椅子、スタンドエイド(モーターがついて移動することもできる一人用起立台)、 ウォーターベッドなども使っていた。

 僕もベッド上での蓐瘡予防・対策用としてアメリカ製のエッグ・マット(青い色の凸凹 の深いスポンジマット。20ドルぐらい。)やシープ・スキン(白い色の通気性の良いシ ーツ。約10ドル)を買って使ってみたが、とても快適でその晩からぐっすり眠れた。ま た、車椅子に乗っている時、小指などの蓐瘡対策にムーン・ブーツ(クッションが内側に ついている二重の靴。約60ドル)を使っていた。


 12月7日、朝、コリーンから電話がかかってきた。
「昼にハイアット・ホテルまでマックスとジム(パラクォッドのプログラム・ディレクタ ー。対麻痺者)に会いに来なさい。ローホーが来たから状況は変わった、もう、ベッドに 寝てばかりいなくても良いから」
 と言われた。

 この日の僕はセントルイス自立生活センター・パラクォッドの研修生になるための志願 者だった。それで、僕もスーツを着てネクタイを締めて行った。

 マックスがホテルの玄関で待っていてくれた。コリーンに挨拶して、マックス達とホテ ルのレストランへ行き、ミーティングした。

 マックスとジムにリハ協から福岡のアメリカ領事館宛に提出した英文の手紙を見せた。 その後、いろいろ話をした。

 マックスは、
「4月頃セントルイスで受け入れる計画をマイケルと相談して作ってあげよう」
 と言った。僕は感謝して別れた。

 長い一日だった。しかしお尻は大丈夫だった。マックス、コリーンとローホーに感謝し
た。


[写真説明]8.コリーンと娘のメーガンと赤ちゃんのマクシー。 1996年8月、セントルイス



 次回はベイエリアで生活しているアメリカの障害者達を紹介する予定です。





「アメリカの一年」第4回
One Year of the Life in America No.4


「アメリカの一年」[4]、『脊損ニュース』1987年9月号、pp.11-15、全国脊髄損傷者連合会、1987
第4回報告
ベイエリアで生活しているアメリカの障害をもつ人達
1、ベイエリアの地域的な特徴ー障害をもつ人をとりまく人的・物的環境
 (1)一般的な背景
 (2)アテンダント(介助者)
 ★IHSS
 ★CIL
 ★カリフォルニア大学バークレー分校
 ★CILのサービス、アテンダント・レフェラル
 ★エマージェンシー(緊急時)・サービス・プログラム
2、ベイエリアの障害者の特徴
 (1)量(人数)の特徴点
 (2)質(障害の種類)の特徴点ーベイエリアで目だった障害者
3、ベイエリアで僕が知り合った人の概略・人数と障害の特徴
4、とくに印象に残った人の紹介
 @普通の障害者だが、タフな人、A失敗例、Bリーダー
 @タフなしかも普通の障害者像ーバークレー・スペシャル
デイビッド・ガラハー
 ★もう一つの選択肢


[写真説明]1.カリフォルニア大学バークレー分校のキャンパス。1985年、バークレー


[写真説明]2.アツコ。バークレー。1985年、バークレー。


[写真説明]3.ヒサコとフランシス。レストラン・ラピーニャの看板の前:1986年



[写真説明]4.エドとマイケル。CILのクリスマス・パーティ:1985年12月、バークレイCIL
Center for Independent Living in Berkeley



[写真説明]5.ナンシー・フェライル。Nancy Ferryle。世界障害問題研究所:World Institute on Disability。
カリフォルニア州バークレー、1986年1月、



[写真説明]6.バークレーの高校のプール:カリフォルニア州バークレー、1986年。



[写真説明]7.オークランドのクリエイティブ・グロウス。カリフォルニア州オークランド。1986年2月24日。



[写真説明]8.デイビッド・ガラハー(向かって左)とウーフェ(西ドイツ人)。デイビッドのアパート:
1986年4月、バークレー。


 デイビッド・ガラハーに最初に会ったのは1986年2月25日、CILでだった。身長6フィート(約1m80p)で、エベレスト アンド ジェニングスの電動リクライニング車椅子にやけに自信たっぷりに乗っていた。
 デイビッドは、 「河でダイビングをしてC-6の頚髄損傷者となった。コンピューターのプログラマーで、CILのアテンダント・レフェラルに関するソフト・ウェアを作成する仕事を請け負って、それをプログラミングしている」  と言った。


写真説明
1. カリフォルニア大学バークレー分校のキャンパス
2. アツコ。バークレー
3. ヒサコとフランシス。レストラン・ラピーニャの看板の前
4. エドとマイケル。CILのクリスマス・パーティ
5. ナンシー。世界障害問題研究所
6. バークレーの高校のプール
7. オークランドのクリエイティブ・グロウス
8. デイビッド・ガラハー(向かって左)とウーフェ(西ドイツ人)。デイビッドのアパート



アメリカの1年 No.4
One Year of the Life in America

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、 アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、 財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[4]、 『脊損ニュース』1987年9月号、 pp.11-15、 全国脊髄損傷者連合会、1987.9
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、 全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
"WORKING QUADS" homepage
[写真説明]1.カリフォルニア大学バークレー分校のキャンパス。
1985年、バークレー

アメリカの1年

『アメリカにおける自律生活の実験と
 アテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

            福岡県脊髄損傷者連合会 頸損部長
                          清家一雄

第四回報告

 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)で生活しているアメリカの障害を持 つ人達(前編)を中心に報告します。

 御意見・御感想をお待ちしています。


ベイエリアで生活しているアメリカの障害をもつ人達


1、ベイエリアの地域的な特徴ー障害をもつ人をとりまく人的・物的環境

 障害をもつ個人の立場からみた居住地として、ベイエリアは次のような特徴を持ってい ると思う。

[写真説明]2.アツコ。バークレー。
1985年、バークレー。

 (1)一般的な背景

 ベイエリアは経済的に豊かな地域だ。その社会の経済的な豊かさが障害をもつ個人の生 活に影響を及ぼすことは確かだと思う。ベイエリアは商業・観光地のサンフランシスコ、 バークレー大学などを域内にもっている。また、アメリカ自体が世界で最も豊かな国だし、 カリフォルニア州はその中でも特に人と物とスペースとサービスが豊富で気候にも恵まれ ている社会だ。

 アメリカに住んでみて、国土の広大さ、土地の豊かさ、自然の豊かさ、物の豊富さ、安 さ、サービスの多様性・便利性など、その豊かさを実感した。ただし貧富の差は大きいが。

 ベイエリアは技術社会としての先進性に恵まれている。アメリカは非常に高度に工業化 ・産業化・情報化された社会で、障害をもつ個人に電動車椅子などの高度技術製品や治療 ・予防・リハビリテーションに関する高度医療などを提供することができる。

 ベイエリアは非常に自由主義的で価値の多様化しているな社会だ。多様な少数者達(人 種別、民族別、性別、宗教別、言語別など)から構成されていて、障害者と健常者の関係 も少数者と多数者の関係の一態様として考えられているようだった。多数者の価値観に左 右されない少数者のもつ価値を認め合う考え方や、機会の平等(equal opportunity)が保 障されるべきだとする考え方が強かったように思う。

 ベイエリアには非常にたくさんの障害をもつ個人達がいる。特にバークレーは街全体が 障害をもつ個人にとっての新しい生活の実験・トレーニングの場、巨大な通過地点のよう な気さえした。障害をもつ個人はそれぞれロール・モデルでありピア・カウンセラーとな りうるだう。


[写真説明]3.ヒサコとフランシス。
レストラン・ラピーニャの看板の前:
1986年


 (2)アテンダント(介助者)

 ベイエリアはロサンジェルスと並ぶ大都会で、移動手段が整備されていて人口密度も高 く、障害をもつ個人は他人介助者を探しやすい。

 ベイエリアは商品交換経済の社会だ。個人の自由・独立・平等を前提とし、人は財産を 所有することができ、自由な取引によって必要な物やサービスを手にいれることができる。 他人のサービスが有料であるということは日米両ビジネスマンの常識だが、ベイエリアで は障害をもつ個人の必要とする介助サービスの商品化が非常に進んでいると思う。


 ★IHSS


 ★CIL


[写真説明]4.エドとマイケル。
CILのクリスマス・パーティ:
1985年12月、バークレイCIL
Center for Independent Living in Berkeley


 ★カリフォルニア大学バークレー分校


 ★CILのサービス、アテンダント・レフェラル


 ★エマージェンシー(緊急時)・サービス・プログラム


[写真説明]5.ナンシー・フェライル。Nancy Ferryle。
世界障害問題研究所:World Institute on Disability。
カリフォルニア州バークレー、1996年1月、


2、ベイエリアの障害者の特徴

 (1)量(人数)の特徴点

 (2)質(障害の種類)の特徴点ーベイエリアで目だった障害者


3、ベイエリアで僕が知り合った人の概略・人数と障害の特徴


[写真説明]6.バークレーの高校のプール:
カリフォルニア州バークレー、1986年。



4、とくに印象に残った人の紹介

 @普通の障害者だが、タフな人、A失敗例、Bリーダー

 @タフなしかも普通の障害者像ーバークレー・スペシャル

デイビッド・ガラハー
(David Galagher)


 ★もう一つの選択肢

 ここで紹介するデイビッドは、特別な資産や収入はないが、米国のアテンダント・サー ビス・プログラムを利用して、有償のアテンダントから、生きて行くために必要な介助を 得て自律生活していた頸髄損傷者だ。家族やボランティアから介助を得ているのではない。 しかも、特別な資産や収入・経済力がなく、生活費とアテンダント費用の両方について公 的基金による援助を受けているタイプだった。

 この類型こそが日本と比較して現在の米国において生活している頸髄損傷者の内で最も ユニークな存在だろう。現在の日本にはない一つの新しい可能性だろう。普通の障害者だ が、タフで、偉くもなく、卑屈にもならない。タフなしかも普通の障害者像ーバークレー ・スペシャル。

 このデイビッドを典型とするタイプのベイエリアに住んでいる頸髄損傷者は米国の頸髄 損傷者の中でも特に印象に残った。


[写真説明]7.オークランドのクリエイティブ・グロウス。
カリフォルニア州オークランド。1996年2月24日。


 デイビッド・ガラハーに最初に会ったのは1986年2月25日、CILでだった。身長6 フィート(約1m80p)で、エベレスト アンド ジェニングスの電動リクライニング 車椅子にやけに自信たっぷりに乗っていた。

 デイビッドは、
「河でダイビングをしてC-6の頸髄損傷者となった。コンピューターのプログラマーで、C ILのアテンダント・レフェラルに関するソフト・ウェアを作成する仕事を請け負って、そ れをプログラミングしている」
 と言った。


 次にデイビッド会ったのは3月6日だった。CILのコンピューター・ルームで一緒に 写真を撮り、それからカフェテリアに行った。

 彼は、
「33歳で、バークレーのアパートに一人で住んでいる」
 と言った。

 僕が、
「人間の人間に対する援助の根拠は何だと思いますか」
 と聞いたら、
「今やっているプログラムのコア・コンセプションは”相互的利益依存関係(MUTUAL BEN EFICIAL)”だ。アテンダント・サービス・プログラムの長所はコストが安いことだ」
 と言う。そして
「障害を受容することはタフなことだ。ドア・オープナーは使ってない。アテンダントは 3人だ」
 と言った。

 最後に
「バークレーについて日本に報告すべきだ。月曜日に遊びに来い。何が食べたい」
 と言われた。


[写真説明]8.
デイビッド・ガラハー(向かって左) とウーフェ(西ドイツ人)。
デイビッドのアパート: 1996年4月、バークレー。


 1986年3月10日。

 雨が上がったのでバートでデイビッドのアパートに日本からの独楽などをもって出かけ た。デイビッドのアパートはバートのアッシュビー駅とCILのちょうど中間ぐらいにあった。

 デイビッドは一人で住んでいてパートタイムのアテンダントが来る。

 彼の部屋は二階建てのアパートの1階だった。車椅子用のランプはついていなかったが、 床が低いので裏庭から車椅子で楽に出入りすることかできる。1ベッドルーム、広いリビ ング、予備の狭い部屋、普通のバスルームとキッチンがあった。電話はスピーカーホンで はなかったが、受話器にはホルダーがつけてあった。

 暖房が入っている居心地の良いリビングルームには本がたくさんあった。ベッドルーム にパーソナル・コンピューターを置いて使っていた。おそらくIBMのPCだろうが、アテンダ ント・レフェラル用のソフトを走らせて見せてくれた。

「エマージェンシー・アテンダント・リストを常に新しくしておく必要がある。私?。1 0回以上。15人ぐらいいるエマージェンシー・アテンダントに次々に電話をかける。病 院には行かない。それが私のインデペンデント・リビングだ」
 と言う。

 デイビッドのアパートにはいろいろな人が遊びに来る。


 4月10日、モニカ(カフェテリア)で。

「二日前、アルコール中毒の男の老人に、(60歳ぐらい。かなり大男。)その老人がた だたんに自分がまだ若くて強いという事を示したいという理由だけで、家の裏で首を締め らた。危うく殺されそうになったが、相手の目をじっと見て、・おまえ本気なのか・と言 ったら、相手が手を離したので、何とか助かった」
 と言う。(相手が「本気だ」と言ったらどうなったんだろう。)

 また、
「その日の晩、主要なアテンダントが、これもやはりアル中気味で、酒を飲み過ぎて車を 運転して危うく人を引き殺しそうになって刑務所に行った。しかし、彼は良い男なので出 てきたらまた一緒にやりたい。今のところ別のアテンダントがいるし問題はない」
 とも言う。

 バークレーの頸髄損傷者も色々大変だ。



 次回はベイエリアで生活しているアメリカの障害者達(後編)を紹介する予定です。


写真説明


1. カリフォルニア大学バークレー分校のキャンパス


2. アツコ。バークレー


3. ヒサコとフランシス。レストラン・ラピーニャの看板の前


4. エドとマイケル。CILのクリスマス・パーティ


5. ナンシー。世界障害問題研究所


6. バークレーの高校のプール


7. オークランドのクリエイティブ・グロウス


8. デイビッド・ガラハー(向かって左)とウーフェ(西ドイツ人)。デイビッドのアパート




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清家一雄、代表者、重度四肢まひ者の就労問題研究会



「アメリカの一年」第5回
One Year of the Life in America No.5



「アメリカの一年」[5]、『脊損ニュース』1987年10月号、pp.20-23、全国脊髄損傷者連合会、1987

アメリカの1年
第5回報告
ベイエリアの人達・ケース報告(中編)
4、とくに印象に残った人の紹介
@タフなしかも普通の障害者像ーバークレー・スペシャル
デイビッド・ガラハー
 (続き)
フィル・シャーベスとジョー・シムズ
 ★アテンダント・サービス・プログラムを利用して有償アテンダントの介助サービスを得、生活しているが、一部分、経済力のあるタイプ 
フィル・シャーベス
ジョー・シムズ
A失敗例?
B自立生活運動のリーダー
エドワード V. ロバーツ
生い立ち
意識・態度
家族
介助者
人間の人間に対する援助の根拠


[写真説明]1.デイビッド・ガラハー。David Galagher。CILバークレーのコンピューター・ルームの前で。
カリフォルニア州バークレー。1986年。



[写真説明]2.デイビッド・ガラハー。デイビッドのアパートで。彼のアパートの住人。
1986年4月、バークレー



[写真説明]3.デイビッド・ガラハー。ジョー。僕のアパートでのお別れパーティ。
1986年8月、オークランド・カリフォルニア




[写真説明]4.シャーベス。CILバークレーで。:1986年

 シャーベスは32歳の白人男性で、16歳の時、飛び込みでC−5頚髄損傷者となった。電動リクライニング車椅子を使用し、高位頚髄損傷者の中でも重度の方だが、CILの自立生活技能(Independent Living Skill)クラスの教師をしている。
 彼は、リモート・コントロールで収尿袋を空にする装置を使って、昼の間は長時間一人で行動する。アテンダントは朝と晩に来る。シャーベスはガール・フレンドと住んでいた。



[写真説明]5.エド・ロバーツ。Edward V. Roberts。CILのクリスマス・パーティで。呼吸補助装置を使っている。
中央は所長のマイケル。1986年4月、バークレー。


 最初にエドと直接に会い、話をしたのは1985年12月9日のCILバークレーでのクリスマス・パーティだった。電動車椅子に乗って呼吸補助装置を使わなければならないほどの四肢麻痺の重度身体障害者だか、快活で力強く、よく話をし、自信に溢れていて、頼りになりそうなタフな障害者だ、という印象だった。エドは既に日本でも有名だったし、僕もエドの書いたものやエドについて書かれていたものを読んでいたが、実際に会ったときの印象は鮮烈だった。


[写真説明]6.エド・ロバーツ。Edward V. Roberts。彼の部屋で鉄の肺に入っている。
カリフォルニア州バークレー。1986年8月。


[写真説明]6.エド・ロバーツ。Edward V. Roberts。彼の部屋で鉄の肺に入っている。
カリフォルニア州バークレー。1986年8月。



エド。彼の家の前で。

 二度目にエドの家を訪れたのは1986年8月16日だった。エドとミーティングの時、エドの息子とも会った。
 2回のミーティングでエドはいろいろなことを話してくれた。




アメリカの1年 No.5
One Year of the Life in America

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、 アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、 財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[5]、 『脊損ニュース』1987年10月号、 pp.20-23、 全国脊髄損傷者連合会、1987.10
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、 全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
"WORKING QUADS" HomePage
エド・ロバーツ。 彼の家の前で。

アメリカの1年

『アメリカにおける自律生活の実験と
 アテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

            福岡県脊髄損傷者連合会 頸損部長
                          清家一雄

第五回報告

 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)で生活しているアメリカの障害を持 つ人達(中編)を中心に報告します。

 御意見・御感想をお待ちしています。


ベイエリアの人達・ケース報告(中編)


4、とくに印象に残った人の紹介

@タフなしかも普通の障害者像ーバークレー・スペシャル

デイビッド・ガラハー
(David Galagher)


[写真説明]2.デイビッド・ガラハー。
デイビッドのアパートで。
彼のアパートの住人。
1986年4月、バークレー


 (続き)

 CIL(自立生活センター)バークレーが開いてくれた8月28日のCILの向かいのタイ料 理レストランでの送別会にもデイビッドは来てくれて、
「とても良いパーティだった」
 と言ってくれた。


[写真説明]3.デイビッド・ガラハー。
ジョー。
僕のアパートでのお別れパーティ。
1986年8月、オークランド・カリフォルニア


 翌8月29日の僕のアパートでのさよならパーティにも来てくれた。ジョー(僕達の友 人)の運転でデイビッドのバンで。アテンダント(介助者)やその他の人達も一緒に。

 チキン、ビール、ペプシ、その他の簡単なパーティだったがいろいろな人が来てくれて 狭いリビングがいっぱいになった。

 デイビッドから札入れを貰い、ジョーから「最初の1ドル」を貰った。

 デイビッドが、
「君がいないのをとても寂しく思う I miss you very much. 」
 と何度も言った。


 頸髄損傷者の人達とはだいたいよく話が通じたが、その中でもデイビッドは、アメリカ でできた僕の友達の一人だった。


 デイビッドとは他にもよく会って、いろいろなことについて話をした。デイビッドのア パートでのパーティにもよく呼ばれたし、僕がデイビッドを日本レストランに招待して寿 司をご馳走したこともある。

 デイビッドは介助者費用としてはカリフォルニア州のアテンダント・サービス・プログ ラムである”在宅援助サービス(In-Home Supportive Service)”を利用していた。そし て、IHSSから1カ月に220−230時間のアテンダント・サービスを認められてい た。生活費についてはSSI(Supplemental Security Income、補完保障所得。社会保障法 [Sociall Security Act] 16章)を受給していた。

 彼は、
「SSIからの金は私の金だが、IHSSからの金はアテンダントに払うものであって私の金では ない」
 と言っていた。

「私とアテンダントとの関係は友好的ではあるが決して友人ではない。あまり友好的にな り過ぎることは必ず面倒な事を引き起こす」
 と言っていた。

 また、ちょっとした無償の親切について、
「状況。頼み方次第だ」
 と言い、 個人主義について、
「アメリカの障害者だって朝と晩アテンダントが来てくれるのを待っているだけで、家か ら出ないで何もしない人がたくさんいる。しかし、家族との関係でも尊厳が問題になる。 私の問題点は受傷以前からあまりにも独立心に富すぎていたことだが」
 とも言っていた。


[写真説明]1.デイビッド・ガラハー。
David Galagher。
CILバークレーのコンピューター・ルームの前で。
カリフォルニア州バークレー。1986年。



「アパートを借りて、家族・両親と離れて一人で住め。親と一緒ではどうしようもない。 人間の尊厳のために。

 私の場合、秘密に全てを準備して、設定してしまってから親に話した。

 女性は障害をもつ個人の内面の強さを好きだ」

 僕のスズキの電動車椅子を見て、
「良いデザインだが遅すぎる」
 と言った。

 その他、様々なことについて話をした。



フィル・シャーベスとジョー・シムズ
(Phil Chavez and Joe Chimze)


 ★アテンダント・サービス・プログラムを利用して有償アテンダントの介助サービスを 得、生活しているが、一部分、経済力のあるタイプ 

 デイビッドは、特別な資産や収入はないが、米国のアテンダント・サービス・プログラ ムを利用して、家族やボランティアから介助を得ているのではなく、有償のアテンダント から、生きて行くために必要な介助を得て自律生活していた頸髄損傷者だ。

 この類型こそが日本と比較して現在の米国において生活している頸髄損傷者の内で最も ユニークな存在であり、頸髄損傷者にとっての「もう一つの選択肢」とでもいうべき新し い可能性であるだろうと言うことについては前回既に述べた。

 アテンダント・サービス・プログラムを利用して有償アテンダントの介助サービスを得、 生活していた頸髄損傷者の類型に入るが、一部分、経済力のあるタイプとしてシャーベス とジョーをここでついでに紹介する。

 彼らはパートタイムや臨時雇いではなくほぼフルタイムで正式雇傭されているタイプだ。 アテンダント費用の公的援助は受けているであろうが、少なくともアテンダント費用を除 いた生活費を自分で稼いでいる人だ。日本では高位頸髄損傷者が就業している例は、現在 でも極めて少数だが、ベイエリアには仕事をしている高位頸髄損傷者がかなりいた。


フィル・シャーベス
(Phil Chavez)



[写真説明]4.シャーベス。CILバークレーで。 :1996年

 シャーベスは32歳の白人男性で、16歳の時、飛び込みでC−5頸髄損傷者となった。 電動リクライニング車椅子を使用し、高位頸髄損傷者の中でも重度の方だが、CILの自 立生活技能(Independent Living Skill)クラスの教師をしている。

 彼は、リモート・コントロールで収尿袋を空にする装置を使って、昼の間は長時間一人 で行動する。アテンダントは朝と晩に来る。シャーベスはガール・フレンドと住んでいた。

 シャーベスとのセクシュアリティに関するミーティングで、彼は、
「相手のして欲しいことを聞く。
 デートに行くと確かに色々困難なこともある。食事のために電動車椅子にテーブルを付 けている。ホテルとかでベッドに上がるのはアテンダントに頼む。
 最初は照れくさくて顔が赤くなったりして困惑するが、段々気楽にになる」
 と言った。


 シャーベスを始めとして、仕事に関して、CILが雇用の場を提供して、そこで障害者の能 力を鍛え、キャリアを積んでいくという場にもなっていた。最初は、パートタイム・スタ ッフとして、ピア(仲間)・カウンセラー、IL技能のトレーナー、教師、スペシャリスト、 などだ。それから、各部門のフルタイム・スタッフ、各部門の部長、所長とキャリアを積 んでいく人もいる。そして、これらをステップにして、政府部門や他の組織に移っていく 機会も多い。


ジョー・シムズ
(Joe Chimze)


 ジョーもベイエリアで仕事に就いている高位頸髄損傷者の一人だ。

 C−5の白人男性の頸髄損傷者で電動車椅子を使っていて、障害は重度だが、バークレ ーで高校の教師をしていた。CILバークレーの理事でもあった。

 ジョーと最初に話したのはCILのクリスマス・パーティだった。その後もCILで時々、話 をした。

 ジョーは、
「人々の注意を得ることが必要だ」
 と言った。



A失敗例?

 カリフォルニア州にはIHSSというアテンダント費用に関する社会保障制度があるので、 他の州からカリフォルニア州にやってきて生活している障害者も多い。

 本当に多くの人がやってきて、様々な生活をしている。すべての障害をもつ個人達が成 功しているわけではない。

 こんな例もあった。

 ある若い女性障害者がアリゾナ州から来て、アパートを借り、介助者を雇い生活してい たが、クリスマスの休暇で帰った時、未婚のまま男児を早産し、赤ちゃんは死に、彼女自 身も重体となり、厳格なカソリック教徒である彼女の父親に、カリフォルニアに戻ること を禁じられた。

 しかし、本当に失敗と言えるだろうか。生きたいように生きたのではないだろうか。人 間には危険に挑戦して失敗する自由があるとも言える。


B自立生活運動のリーダー

エドワード V. ロバーツ
(Edward V. Roberts)


 エド・ロバーツは、はアメリカの障害をもつ個人達の運動のリーダーとして日本でも有 名だ。

 エドは、カリフォルニア大学バークレー分校卒業した後、バークレーに最初の自立生活 センターを設立し、初代所長となった。その後、カリフォルニア州のリハビリテーション 局局長となった。現在は、民間のリサーチセンターである世界障害者問題研究所の代表を している。

 エドの障害はポリオで脊髄損傷ではないが、原因は別でも四肢マヒ障害という視点から は共通の問題を含んでいるし、何より彼はアメリカで最初に設立された自立生活センター の初代所長であり、彼の生活(史)と意識を知ることはアメリカの重度身体障害者の自立 生活運動を考える場合の最適の素材の一つになるだろう。


[写真説明]5.エド・ロバーツ。
Edward V. Roberts。
CILのクリスマス・パーティで。
呼吸補助装置を使っている。
中央は所長のマイケル。
1986年4月、バークレー。


 最初にエドと直接に会い、話をしたのは1985年12月9日のCILバークレーでのクリ スマス・パーティだった。電動車椅子に乗って呼吸補助装置を使わなければならないほど の四肢麻痺の重度身体障害者だか、快活で力強く、よく話をし、自信に溢れていて、頼り になりそうなタフな障害者だ、という印象だった。エドは既に日本でも有名だったし、僕 もエドの書いたものやエドについて書かれていたものを読んでいたが、実際に会ったとき の印象は鮮烈だった。

 エドとはよく電話でも話しをしていた。エドの書いた本・文章を貰って読んだりもした。 また,エドが代表をしているWID(World Institute on Disability、世界障害問題研究 所)に行き、WIDが出版したペーパーの文献研究をすることと、そこのスタッフとミー ティングすることは、僕の留学研修活動のひとつだった。


[写真説明]6.エド・ロバーツ。
Edward V. Roberts。
彼の部屋で鉄の肺に入っている。
カリフォルニア州バークレー。1996年8月。


 エドの家にも二回訪ねて行って話をした。

 最初にエドの家に行ったのは1986年4月27日、良く晴れた日曜日だった。マッカーサー駅 からコンコルド行きのバート(地下鉄)に乗りロックリッジで降りた。

 前もって地図で調べておいた北の方へ3ブロック行って、シャーボットの通りで603 1のエドの家を探していたら、人の良さそうなおじさんが一人やって来て、
「エドの家を探しているんじゃないのか」
 と言って、エドの家まで案内してくれた。

 エドの家は声をかけられたところのすぐそば、二つ隣の家だった。案内してくれたのは エドのアテンダントのアレンだった。

 ロックリッジは環境の良い街でエドの家もとても感じが良かった。エドのアテンダントのアレンも感じが良かった。

 家の出入口にはスロープがあった。エドの部屋は一階の玄関のそばにあった。

 エドは彼の母親と同居していた。彼の従兄弟も一緒に住んでいた。

 エドは鉄の肺に入っていた。
「夜眠るときも入っている」
 と彼は言った。

 他にスピーカホンやリモコン付きのテレビを彼は使っていた。エドの使っているリモー ト・コントロール・スイッチ・システムについて、僕が、
「いくらですか」
 と聞くと、
「1万ドルだ」
 との答えだった。

 エドがコーヒーや紅茶を進めてくれた。
「あなたの話をメモしていいですか」
 と聞くと、
「OK」
 と言われた。僕は持ってきたエドの書いたペーパーのファイルを見せ、
「これは全部あなたの書いたものです。あなたは日本ではスーパーマンとして知られています」
 と説明した。エドは、
「そんなことはない」
 と言ったが。


With Edward V. Roberts。エド。彼の家の前で。
1986年8月、シャーボット


 二度目にエドの家を訪れたのは1986年8月16日だった。エドとミーティングの時、 エドの息子とも会った。


 2回のミーティングでエドはいろいろなことを話してくれた。


生い立ち

 エドは1939年に生まれた。当時、47歳だった。(男性。)

「14歳のときにポリオになった。左手の指と左足の指が少しだけコントロールできる。

 1962年、家を出て自分自身の生活を始めた。困難なことだった。しかし、自分の生 活の世話をしろ」
 と言う。


意識・態度

「14歳でポリオになり、悲しかった。それまではあらゆる種類のスポーツをしていた。 非常に落ち込んで、奇跡を望んだ。ハンガーストライキで自殺を試みた。私はポリオにか かった自分自身を好きでなかった。

 医師達は、私が・植物状態になる・、と言った。私は私のことを、冗談で、”朝鮮アザ ミ”と呼ぶことがある。日本人は笑わなかったが。礼儀正し過ぎて。

 医師達は、我々に、偏見、無視、恐れを抱き、対等ではない人間として我々を扱う。専 門家カウンセラーは我々に向かって、『あれもできない、これもできない』と言うばかり。 ピア(仲間)・カウンセリングでは自分達に何をできるかを教えることができる。日本で 性の問題について講演した時、専門家ばかりで障害者がいなかった。

 我々は全くの人間であり半人前ではない。そして我々は他の如何なる人々とも同じニー ズを持っている。我々は皆人間である。

 もしあなたがあなた自身を好きになれないのなら、他の人々はあなたを好きにならない。 障害を持つ人々が彼らの障害を好きであるかそうでないかは別のことであり、彼らは彼ら の障害と一緒にうまく生活する方法を学ばなければならない」
 と言われた。

 また、エドは「隔離」と「統合」や障害を持つ子供にとっての教育の重要性について良 く話した。


家族

「結婚し離婚した。前の妻は作業療法士だった。病院からCILに連れてきた。なぜなら 私は病院が嫌いだからだ。

 子供も作った。実子だ。男の子がいる。私は感覚は全部あるし、膀胱コントロールも排 便コントロールもできる。血のつながった子供も作れる。結婚して子供を持つことは自信 につながる。

 妻は田舎が好きだが、私は街が好きだ。その他にも理由はあるが離婚した。しかし現在 の生活には満足している。ガールフレンドもたくさんいる。女性には優しくしろ。

 今は母と従兄弟と一緒に住んでいる。息子は私と前の妻と半々に暮らしている。今は前 の妻のところにいる。6月から3カ月間一緒に暮らす」
 と言う。


介助者

 エドは14歳で発病してから生存期間ずっと介助が必要だ。現在、介助はアテンダント (有料介助者)から受けている。

 彼は、
「介助者を時給6ドルで雇い、秘書的な仕事には、1時間7ドル、月に2,400ドル支 出している」

 と言っていた。介助費用は、本人の収入が多いので、自己負担だ。従って、エドの介助 量は、1カ月340ー400時間、1日11ー13時間、くらいだろう。


人間の人間に対する援助の根拠

 僕はアメリカで、よく、介助者費用の公的援助の根拠について、
「人間の人間に対する援助の根拠は何だと思いますか」
 とたずねていた。

 エドは既に、彼のペーパーの中で、「すべての人々は・現在のところ健常・として概念 化する」べきで、「障害を持った時にどのように生活するかという問題は、『我々』とか 『彼らは』の問題ではなくて、社会の構成員として我々全てのための問題である。」 (ロバーツ;"Indepedendent Living: A Founder's Perspective" p.2)と書いていた。

 そして彼は、彼の家でのミーティングで、
「ポリオ、頸髄損傷、脳性麻痺のような障害を持つ事は偶然だ」
 とも言った。

 また、
「すべての人は、もし彼らが障害者になれば、彼らが良い医療と良いリハビリテーション と地域社会の中に於て自立生活を送る権利を得るべきである、と信ずる権利を有する。社 会的なニーズは、ただ政府だけが果たすことができる」
 と言った。

 そしてアテンダント・サービス・プログラムに関して、
「ポリオがアテンダント・ケアを後押しした。
 機会の平等ということ。アテンダント・ケアがあれば、我々は仕事に就くことができる。」
 と言った。


 次回はベイエリアで生活しているアメリカの障害を持つ人達(後編)と火事や入院など の緊急事態を中心に報告する予定です。



写真説明



1. 



2. 



3. 



4. 



5. 



6. 





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「アメリカの一年」第6回報告へ





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「アメリカの一年」第6回
One Year of the Life in America No.6



「アメリカの一年」
第6回報告


エド・ロバーツ(続き)
 ★仕事、家族生活の両方において自律的に生活している重度の身体障害をもつ個人
 ジュディ
 ドレーパー
 [1] 火事

[写真説明1]1.ジュディ(Judy Heumann)、彼女の住居で。カリフォルニア州バークレー、1986年8月



[写真説明2]2.ドレーパー(Phil Draper)、同僚のデイビッド(David)、CILの受付で。
カリフォルニア州バークレー、1986年6月


[写真説明3]

[写真説明3]
3.CIL職員を希望して就職申し込み中だった頚髄損傷者・ウェイン(Wayne A. Roberts)、僕のアパートで。
カリフォルニア州オークランド、1986年8月




[写真説明4]4.地下鉄の駅の駐車場で毎週末に開かれるフリーマーケット。忍者ハットリ君のおもちゃまで売っていた。
この時、ぼくが買ったのは、デスクワーク用の机として使うための板。カリフォルニア州アッシュビー、1995年12月




[写真説明5]5.火事、消防車。ぼくの住んでいたアパートの2階から火が出た。
火が出た部屋は、ぼくの部屋の真上だった。アパートの2階の窓はなくなっている。
カリフォルニア州オークランド、1986年1月



[写真説明6]6.火事、着のみ着のままアパートを逃げだしているところ。カリフォルニア州オークランド、1986年1月

 1986年1月6日、留学生活を始めて2カ月近く経った頃、住んでいたアパートで火事に会った。
 午前9時30分、騒がしいので目が醒めた。サイレンの音が聞こえる。すぐそばだ。電気をつけたが2階が騒がしくなったと思ったら電気が消えた。介助者は寝ていた。
「ハイ、何が起きたんだ?」介助者を起こして尋ねた。介助者はまだ寝ぼけていた。
 玄関を開けてみると消防士がいた。アパートの2階が燃えていた。「車椅子の者が下にいる。我々はどうしたらいいか」と怒鳴って尋ねた。「リラックスしろ。そして車椅子に乗れ」と消防士に言われた。
 小便が出そうな感じがあったが、非常事態だと言うことで、電動車椅子の上に電気毛布を敷いて収尿器を着けずにそれに乗った。毛布を掛け、玄関の前でいつでも逃げ出せる準備をした。パスポート、航空券などの入っているバッグと財布の入っているダウンジャケットを取ってきて膝の上に載せた。あとワープロで作った記録とワープロ自身も気にかかったが緊急事態だから仕方がない。
 凄いサイレンの音とガラスの割れる音がしていた。たくさんの消防士達が動き回っていた。酸素マスクを着けているのもたくさんいた。大きな消防車が何台も来ていた。
 二階で放水している水が落ちてくる。緊迫したムードだった。
 すべての消防士が会うたびに、「具合いはどうだ? How are you doing? 」と声をかけてくれた。でかい図体をした消防士を見ていると少し安心する。
 アパートの二階の僕の真上の部屋のベッドのマットレスがタバコの火で燃えた、と言っている。
 介助者や消防士達もいるし電動車椅子にも乗っているので、まさか死ぬことはないとは思っていたが、荷物を持ち過ぎた、もっと整理しておかなければならない、そして記録の保管と一応の覚悟は常に必要だろう。しかしまあ人に後ろ指をさされるようなことはしてきてない、一応ベストは尽くしてきたと言うことが救いか、などと考えていた。
 天井からの汚水は激しくなったが峠は越えたらしい。だいぶ下火になったみたいだ。写真をとった。消防士が来て床に敷くキャンバスを貸してくれた。
 消防士に「どんな具合いだ? How are you doing? 」と聞かれたので、「どうも有難う Thank you. 」と答えたら、彼らは「楽にしろ Take it easy. 」と言って帰って行った。



[写真説明7]7.火事、消防士達。カリフォルニア州オークランド、1986年1月



[写真説明8]8.火事の後、僕の部屋のペンキ塗替えのため居間で生活していた時。
カリフォルニア州オークランド、1986年4月





アメリカの1年 No.6
One Year of the Life in America

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、 アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、 財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[6]、 『脊損ニュース』1987年12月号、 pp.18-22、 全国脊髄損傷者連合会、1987.12
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、 全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
"WORKING QUADS" homepage
[写真説明6] 6.火事、着のみ着のままアパートを逃げだしているところ。
カリフォルニア州オークランド、1996年1月

アメリカの1年

『アメリカにおける自律生活の実験と
 アテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

            福岡県脊髄損傷者連合会 頸損部長
                          清家一雄

第六回報告


 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)で生活しているアメリカの障害を持 つ人達(後編)と僕自身の生活のうち緊急事態(火事)を中心に報告します。御意見・御 感想をお待ちしています。


エド・ロバーツ(続き)
(Edward V. Roberts)

 ★仕事、家族生活の両方において自律的に生活している重度の身体障害をもつ個人



[写真説明1]

[写真説明1]
1.ジュディ(Judy Heumann)、彼女の住居で。
カリフォルニア州バークレー、1996年8月


 ジュディ・ヒューマン
 (Judy Heumann)


 ジュディは既に日本でも有名なポリオの女性だ。電動車椅子を使い、緊急事態とバック アップのために二人の住み込み介助者がいる。

 ジュディは、
「介助者費用として月に自費で800ドル支出している。年収は2万5千ドルだ。介助者 に時給5ドル払っている」
 と言っていたので、彼女の介助量は、1カ月160時間、1日5時間強くらいだろう。

 介助者との関係は、
「第一に雇傭者で、第二に友人だ」
 と言う。

 ジュディはニューヨークで生まれたが、自立生活センターバークレーのスタッフとして 活躍した。現在、バークレーに住んでいるが、いつも世界を飛び回っている。自立生活セ ンターバークレーの理事長であり、エドのWIDのスタッフでもある。

 彼女は、
「日本の障害者は政府からの介助者費用のために闘い続ける必要がある。人々は自立生活 を達成するためにボランティアに依存すべきではない。人々は彼らの人生の上にコントロ ールを持たなければならない」
 と言った。

 彼女の家には、障害者問題ではなく、婦人問題のポスターが貼ってあった。




[写真説明2]

[写真説明2]
2.ドレーパー(Phil Draper)、同僚のデイビッド(David)、CILの受付で。
カリフォルニア州バークレー、1996年6月


 フィル・ドレーパー
 (Phil Draper)


 ドレーパーは白人の男性で、彼は自分の履歴を次のように話してくれた。

「1958年、17歳の時、自動車事故でC-5頸髄損傷者となった。・赤ん坊と同じほどの手助 けが要るだろう・と言われた。

 4カ月半の入院の後、4カ月間、家庭復帰したが、両親、弟、妹にとって困難だった。 当時私は自分で何もしようとしなかった。

 郡の病院で22カ月半、生活した。私はそこへ送られた。なぜなら他には障害者が生活 する・住む場所はなかった。郡の病院では、生き延びる方法に関する私自身の方法を発達 させなければならなかった。

 父と一緒に関係者に手紙を書いた。そしてそれは私をリハビリテーション・システムに 戻すことになった。

 障害者の友人と共同生活をした。ビジネス管理の学校に行った。

 そして、1972年、自立生活センターバークレー設立に参加し、9人で非営利法人を 設立した。

 二代目CILバークレー所長となった。

 現在はCILの展開部門のスタッフとして、基金設立や寄付金を募る仕事をしている」。

 彼は電動車椅子を使用している。蓐瘡の悩みがあるが、ラバーフォーム・クッションと ウォーターベッドを利用していた。

 奥さんがいる。

「四肢マヒ者である個人に対するバリヤーとして、私自身の、家族の、行政機関の態度・ 意識が重要である」

 と言っていた。



[写真説明3]

[写真説明3]
3.CIL職員を希望して就職申し込み中だった
頸髄損傷者・ウェイン(Wayne A. Roberts)、
僕のアパートで。
カリフォルニア州オークランド、1996年8月




[写真説明4]

[写真説明4]
4.地下鉄の駅の駐車場で毎週末に開かれるフリーマーケット。
忍者ハットリ君のおもちゃまで売っていた。
この時、ぼくが買ったのは、デスクワーク用の机として使うための板。
カリフォルニア州アッシュビー、1995年12月




[写真説明5]

[写真説明5]
5.火事、消防車。ぼくの住んでいたアパートの2階から火が出た。
火が出た部屋は、ぼくの部屋の真上だった。
アパートの2階の窓はなくなっている。
カリフォルニア州オークランド、1996年1月




[写真説明6]

[写真説明6]
6.火事、着のみ着のままアパートを逃げだしているところ。
カリフォルニア州オークランド、1996年1月


 [1] 火事

 僕も頸髄を損傷しほとんどのものを失ったと思っていたがいくつかのものは残っていた。その中でもっとも基本的なものは時間だと思う。しかもそれは有限の時間だった。



 1986年1月6日、留学生活を始めて2カ月近く経った頃、住んでいたアパートで火事に会った。

 午前9時30分、騒がしいので目が醒めた。サイレンの音が聞こえる。すぐそばだ。電気をつけたが2階が騒がしくなったと思ったら電気が消えた。介助者は寝ていた。

「ハイ、何が起きたんだ?」
 介助者を起こして尋ねた。介助者はまだ寝ぼけていた。

 玄関を開けてみると消防士がいた。アパートの2階が燃えていた。

「車椅子の者が下にいる。我々はどうしたらいいか」
 と怒鳴って尋ねた。

「リラックスしろ。そして車椅子に乗れ」
 と消防士に言われた。

 小便が出そうな感じがあったが、非常事態だと言うことで、電動車椅子の上に電気毛布を敷いて収尿器を着けずにそれに乗った。毛布を掛け、玄関の前でいつでも逃げ出せる準備をした。パスポート、航空券などの入っているバッグと財布の入っているダウンジャケットを取ってきて膝の上に載せた。あとワープロで作った記録とワープロ自身も気にかかったが緊急事態だから仕方がない。

 凄いサイレンの音とガラスの割れる音がしていた。たくさんの消防士達が動き回っていた。酸素マスクを着けているのもたくさんいた。大きな消防車が何台も来ていた。

 二階で放水している水が落ちてくる。緊迫したムードだった。

 すべての消防士が会うたびに、
「具合いはどうだ? How are you doing? 」
 と声をかけてくれた。でかい図体をした消防士を見ていると少し安心する。

 アパートの二階の僕の真上の部屋のベッドのマットレスがタバコの火で燃えた、と言っている。

 介助者や消防士達もいるし電動車椅子にも乗っているので、まさか死ぬことはないとは思っていたが、荷物を持ち過ぎた、もっと整理しておかなければならない、そして記録の保管と一応の覚悟は常に必要だろう。しかしまあ人に後ろ指をさされるようなことはしてきてない、一応ベストは尽くしてきたと言うことが救いか、などと考えていた。

 天井からの汚水は激しくなったが峠は越えたらしい。だいぶ下火になったみたいだ。写真をとった。消防士が来て床に敷くキャンバスを貸してくれた。

 消防士に
「どんな具合いだ? How are you doing? 」
 と聞かれたので、
「どうも有難う Thank you. 」
 と答えたら、彼らは
「楽にしろ Take it easy. 」
 と言って帰って行った。





[写真説明7]

[写真説明7]
7.火事、消防士達。
カリフォルニア州オークランド、1996年1月




[写真説明8]

[写真説明8]
8.火事の後、僕の部屋のペンキ塗替えのため居間で生活していた時。
カリフォルニア州オークランド、1996年4月





 次回は緊急事態(入院)、複数のパートタイム介助者体制への移行を中心に報告する予定です。




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「アメリカの一年」第7回報告へ




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清家一雄、代表者、重度四肢まひ者の就労問題研究会

seike@ma4.justnet.ne.jp

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「アメリカの一年」第7回
One Year of the Life in America No.7



アメリカの1年
第7回報告


[2]尿閉による入院と複数のパートタイム介助者体制への移行
 ★尿閉による入院


[写真説明1][1]アルタ・ベイツ病院の6階の病室で。カリフォルニア州バークレー、1986年1月



[写真説明][2]アルタ・ベイツ病院の6階の病室からの眺め。カリフォルニア州バークレー、1986年1月



[写真説明3][3]アービー・メディカルという医療リハビリテーション用品店の前で
カリフォルニア州バークレー、1986年3月



[写真説明4][4]退院後、アルタ・ベイツ病院の玄関の前で。カリフォルニア州バークレー、1986年4月



[写真説明5][5]ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業5期生の3人。
ヒサコ(中野寿子さん、山口市)、イサオ(松兼功さん、東京都)。
サンフランシスコ・ヒルトンホテルの最上階レストランで。“車いすのおてんば娘”撮影時。ディレクターは、山上博己さん。
カリフォルニア州サンフランシスコ、1986年4月



[写真説明6][6]パートタイム介助者と、地下鉄バークレー駅のエレベーター地上口の前で。
デイビッド・ノイシュタット(David Neustadt)。カリフォルニア州バークレー、1986年6月



[写真説明7][7]パートタイム介助者とアパートのリビングで。フランク(Frank)。
カリフォルニア州オークランド、1986年8月



[写真説明8][8]CILバークレー介助者情報サービス部門部長とCILで。
パム・ウォーカー(Pam Walker)。アテンダント・レフェラル。カリフォルニア州バークレー、1986年8月




アメリカの1年 No.7
One Year of the Life in America

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、 アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、 財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[7]、 『脊損ニュース』1988年02月号、 pp.15-19、 全国脊髄損傷者連合会、1988.02
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、 全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
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[写真説明1] [1]アルタ・ベイツ病院の6階の病室で
カリフォルニア州バークレー、1996年1月

アメリカの1年

『アメリカにおける自律生活の実験と
 アテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

            福岡県脊髄損傷者連合会 頸損部長
                          清家一雄

第七回報告


 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)での僕自身の生活のうち緊急事態 (尿閉による入院)と複数のパートタイム介助者体制への移行を中心に報告します。

 御意見・御感想をお待ちしています。


[2]尿閉による入院と複数のパートタイム介助者体制への移行

 ★尿閉による入院


[写真説明1]

[写真説明1]
[1]アルタ・ベイツ病院の6階の病室で
カリフォルニア州バークレー、1996年1月



[写真説明2]

[写真説明]
[2]アルタ・ベイツ病院の6階の病室からの眺め
カリフォルニア州バークレー、1996年1月



[写真説明3]

[写真説明3]
[3]アービー・メディカルという医療リハビリテーション用品店の前で
カリフォルニア州バークレー、1996年3月



[写真説明4]

[写真説明4]
[4]退院後、アルタ・ベイツ病院の玄関の前で
カリフォルニア州バークレー、1996年4月



[写真説明5]

[写真説明5]
[5]ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業5期生の
ヒサコ(中野寿子さん、山口市)、イサオ(松兼功さん、東京都)。
サンフランシスコ・ヒルトンホテルの最上階レストランで。
“車いすのおてんば娘”撮影時。
ディレクターは、山上博己。
カリフォルニア州サンフランシスコ、1996年4月



[写真説明6]

[写真説明6]
[6]パートタイム介助者と、
地下鉄バークレー駅のエレベーター地上口の前で。
デイビッド・ノイシュタット(David Neustadt)。
カリフォルニア州バークレー、1996年6月



[写真説明7]

[写真説明7]
[7]パートタイム介助者とアパートのリビングで。
フランク(Frank)。
カリフォルニア州オークランド、1996年8月



[写真説明8]

[写真説明8]
[8]CILバークレー介助者情報サービス部門部長とCILで。
パム・ウォーカー(Pam Walker)。
アテンダント・レフェラル。
カリフォルニア州バークレー、1996年8月





 この時のことは「頸髄損傷者の米国留学生活」(松井和子編集・在宅頸髄損傷者・第3 部・東京都神経科学総合研究所出版、全脊連事務局で送料共1000円)と「アメリカの人々 ともう一つの選択肢」(・自立へのはばたき−−障害者リーダー米国留学研修派遣報告19 85・日本障害者リハビリテーション協会)に少し書いてあるので、興味のある方はそれも 読んでみて下さい。



 次回は緊急事態(入院)、複数のパートタイム介助者体制への移行を中心に報告する予 定です。




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「アメリカの一年」第8回
One Year of the Life in America No.8



アメリカの1年
第8回報告


[2]尿閉による入院と複数のパートタイム介助者体制への移行
 ★頚髄損傷者が自律生活を行うための利用可能な資源
    1.物的資源
    [1] 住宅−居住空間
    [2] ドア・オープナー
    [3] ベッド
    [4] 電動リクライニング車いす
    [5] 電気製品
    [6] プッシュダイヤル式スピーカーホン
    [7] ワープロ


[写真説明1][1]アパートのスロープ、レンタルした米国製電動車椅子を使っている。
アパートは、Center for Independent Living in Berkeleyの住宅部門が探してくれたものだった。
カリフォルニア州オークランド、1986年3月



[写真説明][2]アメリカ留学当時のアパートでのぼくの仕事場。
アパートの居間にある机の前でおもにワープロによるデスクワークを行なった。
リクライニングをかなり倒し、お尻に楽な姿勢で作業している。
カリフォルニア州オークランド、1986年3月



[写真説明3][3]ベッド上でのシャンプー・リンス・トレイによる洗髪。
カリフォルニア州オークランド、1986年2月



[写真説明4][4]ボストンのコインランドリー。マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明5][5]渡米直後のアパートでのベッド。1本支柱のモンキーバーで、まだエッグマット、シープスキンが無い。
ベッド、モンキーバーはレンタル。カリフォルニア州オークランド、1995年11月



[写真説明6][6]ベッドサイドの電動車いすの上に置いているスピーカーホン、扇風機。
上の紐はベッド用ライトのスイッチ。カリフォルニア州オークランド、1986年8月



[写真説明7][7]ボストンの友人、エド・ロング(Ed Long)の家で。
電動リクライニング車椅子の上でくつろいでいる。マサチューセッツ州ボストン、1986年8月



[写真説明8][8]ホワイトハウスの横でレーガン大統領夫妻の看板
ワシントンD.C.での自立生活全国評議会(NCIL)。ワシントンD.C.、1986年6月





「アメリカの一年」第9回
One Year of the Life in America No.9



アメリカの1年
第9回報告

 [7] 改造自動車、
    2.資金
    3.情報
    4.人的資源−介助者
 [1] 複数のパート・タイム介助体制への移行
 [2] 必要介助と介助者の賃金
 [3] 募集方法
 [4] 採用時の契約条件


[写真説明1][1]セントルイスCIL所長マックス(Max J. Starkloff)のルノー。
運転はできないが、車椅子のままでの乗降のためのリフトの操作は高位頚損者自身ができる。
ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明2][2]ジム(Jim)、C5頚髄損傷者。
ボストンCILトランジーショナル・ハウスの短期間プログラム・ディレクター。トランジーショナル・ハウスで。
彼の電動車椅子の最高速度は時速13マイル。安全ベルトを使っている。マサチューセッツ州ボストン、1986年6月

 短期間プログラム・ディレクターのジムと会った。彼はC-4・5の頚損者だった。15年前、2人の男に飛びかかられたたかれて受傷し頚髄損傷者になった。ジム自身、古い方のトランジーショナル・ハウスの卒業生だった。



[写真説明3]ジムが彼の改造自動車・フォードのバンへ乗り込んでいるところ。
ジムは特殊な磁気の着いた棒で車の鍵をあけ、リフトを使って電動車椅子のままバンの中に入る。
マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明4]運転席で電動車椅子を最も良い位置でで固定して運転していた。
マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明5]ジム自身が運転できるようにしていた運転席。ブレーキとアクセルは右手で操作する。
左手に短い棒を着けてハンドルに差し込み、それを回す。マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明6]ボストン市内のバス。リフトが大きく乗り降りが非常に楽だった。
マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明7]ボストン市内のバスの中で。快適だった。
マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明8]ヒューストンのNASAで。高校時代の友達と。
テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明9]高校時代の友達と。テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明9]高校時代の友達と。テキサス州ヒューストン、1986年6月





「アメリカの一年」第10回
One Year of the Life in America No.10



アメリカの1年
第10回報告

 ★社会的自律生活−アメリカでの僕の実際の日常生活様式
 (1) 起きている日・週日の一日の生活の流れ
 [1]朝の介助者(7:00-8:00am)
 [2]午前中の介助者(10:00-12:00am)
 [3]夕方の介助者(5:00-7:00pm)
 [4]夜の介助者(9:00-11:00pm)
 (2) 週末の生活
 (3) 褥瘡の状態が悪く1日中寝ていた日の生活
 (4) ベイエリア以外の研修地に長距離移動で出かけた時のホテルを中心とした生活
 ◆時間管理(とくに介助者との関係)
 ◆食事、
 ◆排泄管理
 ◆金銭管理
 ◆買い物とレンタル
 ◆仕事−調査活動


[写真説明1]アパートの直ぐそばのドラッグストア。
カリフォルニア州オークランド、1986年3月



[写真説明][2]ワシントンD.C.のホテルで、電動車いす用のバッテリーと。
サンフランシスコ空港で持込みを拒否された電動車椅子のウェットバッテリーを、 アイスボックスに入れて、当日の夜の便で、
翌朝ワシントンDCの空港に届くように送ってもらい急場をしのぎ、 ホテルでほっとしている。
ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明3]1986年、全米自立生活全国会議(NCIL)の歓迎会。
ワシントンDCの安全管理の厳重で豪華な上院議員のオフィスビルで。
CILバークレー所長マイケル・ウインター(Michael Winter)とその夫人敦子(Atsuko)。
Atsukoは、ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業の1期生。
ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明4]1986年当時のブッシュ合衆国副大統領。
自立生活全国会議(NCIL)の開会式で会場のホテルに来て演説しているところだ。
ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明5]ホテルの部屋のベットの枕を膝の上に載せて机兼テ−ブルとして使った。
この他にも、ゴミ箱を尿器として使ったり、工夫して、なるべく現地調達で通した。
自立生活全国会議(NCIL)の会場ホテルで。ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明6]ホワイトハウスの前で。
ホワイトハウスは、この日は、中にはいれる日ではなかったので外から眺めただけだった。車椅子用の通行門があった。
4ドル払ってレーガン大統領夫妻の看板と一緒に写真を取った。ワシントンD.C.、1986年6月



[写真説明]ホワイトハウスの横でレーガン大統領夫妻の看板
ワシントンD.C.での自立生活全国評議会(NCIL)。1986年6月



[写真説明6]ホワイトハウスの前で。



[写真説明7]ボストンCILで、職員のポール・タッパー(C7−6頚髄損傷者)とクリフ(脳性まひ痺者)。
マサチューセッツ州ボストン、1986年6月



[写真説明8]ニューヨークの夜、ユニオン・スクェアのカフェで。
ニューヨークはカーブカットも無い活気に溢れた強い者の街だった。
ニューヨーク、1986年6月





「アメリカの一年」第11回
One Year of the Life in America No.11



アメリカの1年
第11回報告

 ★米国内での長距離移動
 @自立生活全国会議に参加し、米国の自立生活運動に関する調査
 AボストンCILとボストンのトランジーショナル・ハウスを訪問し、それぞれで頚髄損傷者の聞き取り調査(第九回報告)
 Bリハビリテーション&リサーチ研究所(TIRR)(ヒューストン)の見学と医師を対象とした聞き取り調査(第二回報告)
 CヒューストンCILの訪問調査
 Dパラクォッドの訪問調査とその所長宅で訪問調査
 Eセントルイスの頚髄損傷者の聞き取り調査
その他である。
 ◆飛行機と電動車椅子
 @載せないと言われたケース
 Aバッテリー液を抜けと言われたケース
 Bそのまま運んだケース
 Cドライセル(ジェル)・バッテリー
 ◆宿泊施設、ホテル
 ◆長距離移動と介助者
 ★ワシントンDCの自立生活全国会議とアメリカの自立生活運動
 ◆街のプロフィール
 ◆自立生活全国会議
 ◆自立生活運動(Independent Living Movement)
 ◆自立生活運動の源流
 @市民権運動(The civil rights movement)
 A消費者運動(Consumerism)
 B自助運動(The self-help movement)
 C脱医療(demedicalization)、セルフケア運動
 D脱施設(deinstitutionalization )、ノーマライゼーション、本流化の運動
 ◆自立生活センター(CIL)の発生と展開
 ◆自立生活運動の法制度的背景
 1973年リハビリテーション法
 1978年修正法
 ◆自立生活サービス
 @情報とレフェラル(Information and referral)による、それがサービスするハンディキャップのある消費者によってコントロールされる非居住型、コミュニティ・ベースの、非営利のプログラム
 A居住型(Residential)の住み込みプログラム、
 B通過的(Transitional)な、比較的依存的生活の状況から比較的自立生活の状況への重度障害をもつ人々の移行を容易にするために企画されたプログラム
 C以上の三つの組合せ
 ◆運動と個人


[写真説明1]ヒューストン空港。
 アメリカン・エアラインのチケット・カウンターの搭乗手続で、「バッテリーの液を抜け」と言われた。
テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明1]ヒューストン空港。
 アメリカン・エアラインのチケット・カウンターの搭乗手続で、「バッテリーの液を抜け」と言われた。
テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明]TIRRのボランティア部長、ニタ(ポリオ)。
 彼女のオフィスは非常に使いやすいように配慮されていた。 TIRRはとにかく大きくて凄い。
そしてたくさんの超重度身体障害者をスタッフとして雇っている。 テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明3]ヒューストンCILで、所長のアランとビッキー。
 複数の障害者による介助者と家賃の分担(Share)という考え方が印象に残った。
テキサス州ヒューストン、1986年6月



[写真説明4]セントルイスの植物園でのランチ。
コリーン、リンダ、ボブ。
ミズーリ州セントルイス、1986年6月



[写真説明5]リハビリテーション・ガゼット編集長、ジニー・ローリーと。
 セントルイスの彼女の自宅で。「建物ではなく、援助のシステムとしてのサービスから始めるべきだ」と言った。
ミズーリ州セントルイス、1986年6月



[写真説明6]障害者が数多く住んでいるパラクォッドのアパートのスロープ。
 正面玄関は厳重で、そこからさらに、僕にはその理由が理解できない何回もターンするランプが続く。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月



[写真説明7]パラクォッドのアパートで。 マイク(C-5・6頚損者。飛び込み事故。パラクォッド理事)とグーゲン。
アパートの部屋には、緊急時コードが寝室とバスルームに安全設備として設備されている。ミズーリ州セントルイス、1986年8月



[写真説明8]ルーシー(登山でC5頚髄損傷者。ピア・コンサルタント)。
セントルイス訪問時の宿舎フォーリスト・パーク・ホテルの前で。
「家族と一緒に生活しているのは経済的な理由から。父と一緒に生活しているので介助者費用の公的な援助はない。
いつまでお金が続くか、これは闘いだ。私にとっての自立生活とは家族や介助者との関係」と言った。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月













アメリカの1年 No.11
One Year of the Life in America

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
1985年11月〜1986年9月、 アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
財団法人 広げよう愛の輪運動基金、 財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
written by Kazuo Seike 清家 一雄:重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
初出:「アメリカの一年」[11]、 『脊損ニュース』1988年06月号、 pp.21-27、 全国脊髄損傷者連合会、1988.06
「アメリカの一年」 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、 全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
"WORKING QUADS" HomePage
[写真説明4]セントルイスの植物園でのランチ。
コリーン、リンダ、ボブ。ミズーリ州セントルイス、1986年6月

アメリカの1年

『アメリカにおける自律生活の実験と
 アテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

            福岡県脊髄損傷者連合会 頸損部長
                          清家一雄

第11回報告


 今回は米国内長距離移動とアメリカの自立生活運動を中心に報告します。



 ★米国内での長距離移動

 米国での調査活動の一環として、ベイエリアでのCILバークレーを中心とした調査活動の 他、ベイエリア以外での調査活動のため、僕は米国内長距離移動を二回行なった。第一回 は、ワシントンDCでの自立生活全国会議(The '86 National Conference on Independent Living)参加(1986年6月18日〜7月1日)で、第二回はセントルイスでのパラ クォッド(paraquad)訪問(8月2日〜11日)だった。そして、その際、次のような調査活 動を実施した。

 @自立生活全国会議に参加し、米国の自立生活運動に関する調査

 AボストンCILとボストンのトランジーショナル・ハウスを訪問し、それぞれで頸髄損傷 者の聞き取り調査(第九回報告)

 Bリハビリテーション&リサーチ研究所(TIRR)(ヒューストン)の見学と医師を対象と した聞き取り調査(第二回報告)

 CヒューストンCILの訪問調査

 Dパラクォッドの訪問調査とその所長宅で訪問調査

 Eセントルイスの頸髄損傷者の聞き取り調査

その他である。

 ワシントンDCへの出発の具体的なきっかけは、CILバークレー所長が、
「自立生活センター全国評議会(The National Council of Independent Living Centers) (NCIL)(代表者は高位頸損者のマックス、パラクォッド・セントルイス自立生活センター 所長)が主催する自立生活全国会議に行く気があるか、介助者を自分で確保できたら、行 き方を教えてやる」
 と示唆してくれたことだった。

 パートタイム介助者の一人と旅行期間中、1日35ドルの賃金と介助者の交通費、宿泊 費を僕が負担するという契約条件がまとまった。並行して日本障害者リハビリテーション 協会と交渉しトップの竹内実行委員長がサンフランシスコに来られた時に許可をもらった。 郵便で会議参加の登録とホテルの予約申込をした。ボストンCILに見学希望の手紙を書き、 ヒューストンの高校時代の友達に連絡した。

 飛行機、ホテル、レンタカーの予約を旅行代理店に頼んだ。米国の航空料金は30日以上 前に予約したら驚くほど安く買える。旅行代理店はJTB(サンフランシスコの日本交通公社) にした 。

「JTBは少し高いが、旅行に行けば必ずトラブルが起きると考えた方が良い。
日本語の通じるスタッフがいるのは便利だ」
 とヒューストンの友達から助言を受けた。

 ワシントンDCでの会議参加の後、ボストン、ニューヨーク、ヒューストンをまわって 7月1日、アパートに帰った。この2週間の睡眠時間の削り込みかたは、僕にとっては大変 なものだった。

 全部の領収書を一応ザっと計算して、スクラップに整理した。少なく見積って2週間で 5,000ドルぐらい使っていた。日本の両親に国際電話し、
「カードでたくさんお金を使ったので、そのうち請求書が行くだろうから、障害基礎年金 等を口座に入れておいて」
 と言った。


 セントルイス訪問は、パラクォッド所長夫妻と、渡米前から東京で会っていて、彼らの 好意で公式に招待してもらった。




[写真説明1]

[写真説明1]
[1] ヒューストン空港。
 アメリカン・エアラインのチケット・カウンターの搭乗手続で、
「バッテリーの液を抜け」
 と言われた。
テキサス州ヒューストン、1996年6月




 ◆飛行機と電動車椅子

 僕は、ワシントンDC、ボストン、ニューヨーク、ヒューストン、セントルイス、ロサ ンジェルスなどを訪問したが、その長距離間の移動はすべて飛行機を利用した。

 僕が利用した空港はどこでも車椅子で移動可能であり、機内の座席まではガーニーとい う細長い、シートベルト付のキャスターの付いた椅子で、航空会社のスタッフによる介助 で移動した。短時間であるが、その椅子は背もたれが高く、乗り心地が良かった。

 飛行機にはだいたいいつも、日米を問わず、どこの空港でも、どこの航空会社でも、 「一番先に乗れ」と言われていた。そして出るのは一番最後だった。

 電動車椅子使用者が飛行機を利用する場合、問題となるのは電動車椅子のバッテリーの 取扱である。その扱いも航空会社、路線によって差があった。

 @載せないと言われたケース

 サンフランシスコ空港のUSAIR(米国航空会社)では、
「バッテリーはウェットかドライか」
 と聞かれ、
「ウェットで自動車用だ」
 と答えたら、電動車椅子のバッテリーの持込みを拒否された。

「会社の規則だ。飛行機を傷つけるから」
 と言われた。とにかくワシントンDCに行かなければならないので、車椅子から外した バッテリーを、USAIRのカウンターに預けて機内に入った。ワシントン空港から、サンフラ ンシスコのJTBに電話をかけて、バッテリーをアイスボックスに入れて、当日の夜の便で、 翌朝ワシントンDCの空港に届くように送って貰い急場をしのいだ。





 Aバッテリー液を抜けと言われたケース

 ワシントン空港のイースタン航空会社では、
「バッテリーの液を抜いて、(着陸地の)ボストンで水を入れるように」
 と言われた。最初、何のことか分からなかったが、バッテリー液を買う覚悟で、イース タンが用意した箱にバッテリー液を排出した。ボストン空港では、バッテリ−液なしでも 電動車椅子が動いた。ただしバッテリーの性能がかなり劣化していたので、蒸留水をバッ テリーに補充して充電した。


 Bそのまま運んだケース

 他方、ボストン空港のイースタンのエア・シャトルでは、何ら問題なく、電動車椅子で 飛行機のドアまで行き、そののまバッテリーを機内に持ち込むことができた。あんまり簡 単に行ったので、却ってバッテリーがひっくり返って飛行機に穴があいて落ちるんじゃな いかと不気味になった。約30分のフライトだったが、コーヒーのサービス等何もなく、 ただスチュワーデスがチケットを集めたり、乗客がクレジットカードや現金で航空運賃を 払ったりしているだけで、ほとんどバスみたいな感じだった。


 Cドライセル(ジェル)・バッテリー

 東海岸の旅行後、バッテリーの性能が極度に劣下していたし、米国の航空会社のウェッ ト・バッテリーに対する対応が分かったので、ベイエリアでジェル(乾式)・バッテリー を買った。以後は、電動車椅子を持って飛行機で移動しても、バッテリーに関しては、 「ノープロブレム」とか「スーパー!」と言われ、問題がなくなった。




[写真説明]
ワシントンD.C.のホテルで、電動車いす用のバッテリーと。
サンフランシスコ空港で持込みを拒否された電動車椅子のウェットバッテリーを、
アイスボックスに入れて、当日の夜の便で、
翌朝ワシントンDCの空港に届くように送ってもらい急場をしのぎ、
ホテルでほっとしている。
ワシントンD.C.、1996年6月


 ◆宿泊施設、ホテル

 宿泊はホテルを利用したが、ボストンだけは友人のアパートに泊めてもらった。旅行代 理店を通じて予約はいれていたが、ホテルはどこも電動車椅子で利用できた。

 旅行先では、ホテルの部屋のベットの枕を膝の上に載せて机兼テ−ブルとして使った。 この他にも、ゴミ箱を尿器として使ったり、工夫して、なるべく現地調達で通した。

 ◆長距離移動と介助者

 ★ワシントンDCの自立生活全国会議とアメリカの自立生活運動

 ◆街のプロフィール

 ◆自立生活全国会議

 ◆自立生活運動(Independent Living Movement)

 ◆自立生活運動の源流

 @市民権運動(The civil rights movement)

 A消費者運動(Consumerism)

 B自助運動(The self-help movement)

 C脱医療(demedicalization)、セルフケア運動

 D脱施設(deinstitutionalization )、ノーマライゼーション、本流化の運動

(Dejong、「自立生活:社会運動にはじまり分析規範となるまで」、・障害者の自立生活
・障害者自立生活セミナー実行委員会編、p.165以下)。

 ◆自立生活センター(CIL)の発生と展開

(Laurie、"SUMMARY OF INDEPENDENT LIVING" for P.A.C. Meeting on April 18-19, 1985)。

 ◆自立生活運動の法制度的背景

 1973年リハビリテーション法 (DeJong、前掲、163頁)。

 1978年修正法 (Laurie、前掲)。

 ◆自立生活サービス

 シュトダルト(Stoddard、1980)のカリフォルニアの10の自立生活センターがそのプロ グラムが現実に供給していたサービスのタイプを測定するための調査 (Rubin, Roessler;"FOUNDATION OF THE VOCATIONAL REHABILITATION PROCESS" Second Edition、p.210以下)。

 @情報とレフェラル(Information and referral)による、それがサービスするハンデ ィキャップのある消費者によってコントロールされる非居住型、コミュニティ・ベースの、 非営利のプログラム

 A居住型(Residential)の住み込みプログラム、

 B通過的(Transitional)な、比較的依存的生活の状況から比較的自立生活の状況への 重度障害をもつ人々の移行を容易にするために企画されたプログラム

 C以上の三つの組合せ

(Rubin, Roessler、前掲、p.210以下)。

 ◆運動と個人


[写真説明2]

[写真説明]
[2] TIRRのボランティア部長、ニタ(ポリオ)。
 彼女のオフィスは非常に使いやすいように配慮されていた。
TIRRはとにかく大きくて凄い。
そしてたくさんの超重度身体障害者をスタッフとして雇っている。
テキサス州ヒューストン、1996年6月



[写真説明3]

[写真説明3]
[3] ヒューストンCILで、所長のアランとビッキー。
 複数の障害者による介助者と家賃の分担(Share)という考え方が印象に残った。
テキサス州ヒューストン、1996年6月



[写真説明4]

[写真説明4]
[4] セントルイスの植物園でのランチ。
 コリーン、リンダ、ボブ。
ミズーリ州セントルイス、1986年6月



[写真説明5]

[写真説明5]
[5] リハビリテーション・ガゼット編集長、ジニー・ローリーと。
 セントルイスの彼女の自宅で。
「建物ではなく、援助のシステムとしてのサービスから始めるべきだ」
 と言った。
ミズーリ州セントルイス、1986年6月



[写真説明6]

[写真説明6]
[6] 障害者が数多く住んでいるパラクォッドのアパートのスロープ。
 正面玄関は厳重で、そこからさらに、僕にはその理由が
理解できない何回もターンするランプが続く。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月



[写真説明7]

[写真説明7] [7] パラクォッドのアパートで。
 マイク(C-5・6頸損者。飛び込み事故。パラクォッド理事)とグーゲン。
 アパートの部屋には、緊急時コードが寝室とバスルームに
安全設備として設備されている。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月



[写真説明8]

[写真説明8]
[8]  ルーシー(登山でC-5頸損者。ピア・コンサルタント)。
セントルイス訪問時の宿舎フォーリスト・パーク・ホテルの前で。
「家族と一緒に生活しているのは経済的な理由から。
父と一緒に生活しているので介助者費用の公的な援助はない。
いつまでお金が続くか、これは闘いだ。
私にとっての自立生活とは家族や介助者との関係」
 と言った。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月





 次回の最終回で、
何故普通の頸髄損傷者が日本で一人暮しができないのか、
どの様な条件整備が行なわれれば可能になるのか、
日本での展望、
頸髄損傷者などからの感想特集などにつなぐつもりですが、
皆様のメッセージ(具体的提案)をいただければ幸いです。
ご意見、ご感想をお待ちしています。

(連絡先:〒 福岡市・・・ Tel.・・・/FAX・・・)



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清家一雄、代表者、重度四肢まひ者の就労問題研究会










「アメリカの一年」第12回
One Year of the Life in America No.12



アメリカの1年
第12回報告


頚髄損傷者の自由の達成、日本での展望と課題
★頚髄損傷者の不自由と強さ
 ◆頚髄損傷者の自由達成の具体的な現れとしての仕事
★健康
★介助者サービス
★住居と物的資源
★通信と移動
★将来への展望
終わりに
読者からの声
 ◆頚髄損傷者(他の四肢麻痺者も含む)からの声
 ◆その他の人の声
謝辞
1988年6月16日
The Termination of my Journey
Thanking for Everything


[写真説明1]マクシー。メジャーリーグのボールゲームを見るために野球場に行った。
 パラクォッド所長夫人が、「赤ちゃんを抱っこしなさい。写真を撮ってあげる」 と言った。
赤ちゃんは可愛かったが、僕は、「もしおっことしたら大変だ。頼むからじっとしていろ」と必死だった。
ミズーリ州セントルイス、1986年8月



[写真説明][2]グランドキャニオン遊覧飛行機。
 初めてプロペラ機に乗った。車椅子で機体の真下まで近づいて、操縦士達が抱え上げてくれた。
機体が小さくて、9人乗りぐらいだった。乗ったり降りたりも大変だったが、座席も小さく中で座っているのも大変だった。
風船みたいにフワリフワリ飛ぶ。ジュースのコップが搖れないジェット機とはまったく異なる乗り心地だ。
しかし、低空を低速で飛ぶので機内からの眺めはよい。
 足もとに不毛の大地が延々と続く。凄い景色。とにかく雄大。人生観は変わらないまでも、強烈な印象だった。
双発プロペラ機からラスベガスを見下ろすと、プ−ル付きの家ばかりだった。グランドキャニオン、1986年9月



[写真説明3]ディズニーランドで栗鼠と。
 ディズニーランドは天気だけは最高に良かった。僕にとってはディズニーランドはそれほど面白くはなかった。
僕はやはり人間からより多くの刺激を受ける。大人が楽しむと言う子供向けの遊園地では退屈してしまった。
電動車椅子でなかったせいもあるのかもしれない。カリフォルニア州ロサンジェルス、1986年9月



[写真説明4][4]メキシコのチュワナ。
 陸続きの国境は初めてだった。国境を越えてメキシコに入るのは何も問題はない。
 チュワナは原色が目につく雑然とした町だ。アメリカに比べるとさすがにゴミゴミしている。
しかし、人間は多く活気はありそうだ。
 アメリカに戻る国境はチェックが行われ、混でいて、どのゲートも長い列が出来ていた。
 国境の物売り。人形などを買った。子供が喧嘩していた。国境のゲートでパスポートを見せた。
メキシコ・チュワナ、1986年9月



[写真説明5]ロサンジェルスの夜。
 ダウンタウンの高層ビル群が見えてきた。LAの中心街も東の方は荒廃していて見るからに治安が悪そうだった。
が、メインストリートのビルの高さ豪華さはさすがだった。
ニューヨークほどではないがアメリカの富が集中しているという感じだ。
ただLAの方が遥かに広い。道路も発達していてい、スペースが十分にある。
 ガイドブックに載っていたレストランに行った。凄く高級そうなホテルの最上階にあった。
丘の上にあるので高さも高い。ホテルの駐車場の料金が高い。
レストランも覚悟して行ったが、それほどムチャクチャには高くなかった。
 景色は凄く良かった。LAの大平野が一望できた。
しかもそれが美しい豪華な夜景に変わっていく。ヘリが飛んでいた。大都会だ。
カリフォルニア州ロサンジェルス、1986年9月



[写真説明6]ハワイのホテルで。
 ワイキキビーチに面した応接間からバルコニーに出て見た。ダイアモンドヘッドが見えた。
ベッドルームの窓は太平洋に面していた。窓を閉めるとエアコンがかかる。
ハワイ、1986年9月



[写真説明7]成田空港。
 日本に帰ってきた。愛の輪基金新事務局長とリハ協職員が迎えに来てくれていた。
成田国際空港、1986年9月



[写真説明8]福岡空港。
 福脊連会員の人達、高校の友人、両親が出迎えにきてくれていた。
とうとう家に帰ってきた。
 旅の終わり。すべてのものに感謝。
福岡国際空港、1986年9月

The Termination of my Journey
Thanking for Everything








終わりに

 何もしないで節約・現状維持するのには限界がある。
まして頚髄損傷者の自由達成という問題を解決するためには、頚髄損傷者自身が、活動して人生の行動半径を広げて行き、生産的な人間になるほうがよいだろう。

 そのためにはどうすれば良いだろうか。
[1]障害をもつ個人の生き方と
[2]援助のシステムのあり方が問題になるだろう。

 複数パートタイム介助者体制という援助システムに関してアメリカで実際に生活し実験し、その有効性を実証できたと思う。
それとともに物的資源と精神的にしっかりすることの必要性についても明らかになった。

 現在、日本でアメリカの体験を生かしながら生活している。
そして頚髄損傷者の自由達成という問題に対する、日本での解決策・限界を越えた実践的提言・展望として有料介助者サービスとサービス費用の援助を提言した。

 日本での住居入手などさらにまた限界が生じている。
また個々の問題解決に取り組むことに戻らなければならないだろう。
こういったことの繰り返しにより、頚髄損傷者の自由達成という課題は少しづつ解決され、頚髄損傷者の個人の尊厳、自由の実現、生活の質という目標・価値の実現に向かって少しずつ前進するのかもしれない。


 あまりにも自分自身の問題について書いてしまった。
事実を客観的に把握して伝えているかどうか、主張が視野の狭いものになっていて独りよがりになっていないかどうか非常に不安だ。

 てれもあった。
全部は書いていない。
ただ、ストレートには書いていないが、
「目を覚ませ頚損!」
というメッセージを送り続けてきたつもりだった。



読者からの声
 ◆頚髄損傷者(他の四肢麻痺者も含む)からの声

「お疲れさまでした!!  ひとつのことを決めて、つらぬき通すのは大変なこと。ほんとうにご苦労さまでした」

謝辞

 「アメリカの一年」連載にあたっては、東京都神経科学総合研究所松井和子先生と井沢隆事務局長にとくにお世話になった。伊藤全国脊髄損傷者連合会会長、白石前福脊連会長のご配慮もあった。また、介助サービスなしには生存さえ不可能な僕の執筆を実際に可能にしてくれたのは日本の介助者達だった。ここにあつく謝意を表する。

 この・アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告・には、アメリカの介助者達を初めとする、数え切れない人達の協力と援助があった。受入れ先のCILバークレー所長夫妻、パラクォッド所長夫妻、アパートで火事に会った時の消防士達、体調を崩した時世話になった医師や訪問看護婦、その他多くの人々のサービスや援助を米国内で受けることができた。また、ピア・カウンセラーとして協力された米国の障害者の方々、ロールモデルとして協力された自立生活運動の活動家の人々や、その他の調査に協力された友人達に深く感謝の意を表する。

 その米国留学に協力援助された日本障害者リハビリテーション協会、広げよう愛の輪運動基金、総合せき損センター赤津隆院長、同センター岩坪暎二泌尿器科部長、松尾清美氏および医用工学研究室研究員、九州リハビリテーション大学アイリーン山口、山口ともね両先生、向坊弘道氏、溝口博外科整形外科病院院長、北島医師、および家族に深く感謝する。


1988年6月16日



The Termination of my Journey
Thanking for Everything









1986 0904. LA NIGHT

1986. LA
アメリカ合衆国カリフォルニア州、ロサンゼルス、LA、
The International Love Circle
ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業
広げよう愛の輪運動基金




ロサンゼルスの夜
1986 0904. LA NIGHT


1986年09月04日、当時、29歳。
『アメリカの一年』One Year of the Life in America。


ロサンジェルスの夜。
ダウンタウンの高層ビル群が見えてきた。
LAの中心街も東の方は荒廃していて
見るからに治安が悪そうだった。
が、メインストリートのビルの
高さ豪華さはさすがだった。
ニューヨークほどではないが
アメリカの富が集中していると言う感じだ。
ただLAの方が遥かに広い。
道路も発達していてい、
スペースが十分にある。



 ガイドブックに載っていたレストランに行く。
く高級そうなホテルの最上階にあった。
丘の上にあるので高さも高い。
ホテルの駐車場の料金が高い。
レストランも覚悟して行ったが
れほどムチャクチャには高くなかった。



 景色は凄く良かった。
LAの大平野が一望できた。
しかもそれが美しい豪華な
夜景に変わっていく。
ヘリが飛んでいた。
大都会だ。







終わりに

 何もしないで節約・現状維持するのには限界がある。
まして頚髄損傷者の自由達成という問題を解決するためには、
頚髄損傷者自身が、活動して
人生の行動半径を広げて行き、
生産的な人間になるほうがよいだろう。





 そのためにはどうすれば良いだろうか。


[1]障害をもつ個人の生き方と


[2]援助のシステムのあり方が問題になるだろう。





 複数パートタイム介助者体制という
援助システムに関して
アメリカで実際に生活し実験し、
その有効性を実証できたと思う。
それとともに
物的資源と
精神的にしっかりすることの
必要性についても
明らかになった。





 現在、日本で
アメリカの体験を生かしながら
生活している。
そして頚髄損傷者の自由達成という
問題に対する、
日本での解決策・限界を越えた
実践的提言・展望として
有料介助者サービスと
サービス費用の援助を提言した。





 日本での住居入手などさらにまた限界が生じている。
また個々の問題解決に取り組むことに戻らなければならないだろう。
こういったことの繰り返しにより、頚髄損傷者の自由達成という課題は少しづつ解決され、頚髄損傷者の個人の尊厳、自由の実現、生活の質という目標・価値の実現に向かって少しずつ前進するのかもしれない。


 あまりにも自分自身の問題について書いてしまった。
事実を客観的に把握して伝えているかどうか、主張が視野の狭いものになっていて独りよがりになっていないかどうか非常に不安だ。

 てれもあった。
全部は書いていない。
ただ、ストレートには書いていないが、
「目を覚ませ頚損!」
というメッセージを送り続けてきたつもりだった。



読者からの声
 ◆頚髄損傷者(他の四肢麻痺者も含む)からの声

「お疲れさまでした!!  ひとつのことを決めて、つらぬき通すのは大変なこと。ほんとうにご苦労さまでした」

謝辞

 「アメリカの一年」連載にあたっては、東京都神経科学総合研究所松井和子先生と井沢隆事務局長にとくにお世話になった。伊藤全国脊髄損傷者連合会会長、白石前福脊連会長のご配慮もあった。また、介助サービスなしには生存さえ不可能な僕の執筆を実際に可能にしてくれたのは日本の介助者達だった。ここにあつく謝意を表する。

 この・アメリカにおける自律生活の実験と介助者サービス事業に関する調査報告・には、アメリカの介助者達を初めとする、数え切れない人達の協力と援助があった。受入れ先のCILバークレー所長夫妻、パラクォッド所長夫妻、アパートで火事に会った時の消防士達、体調を崩した時世話になった医師や訪問看護婦、その他多くの人々のサービスや援助を米国内で受けることができた。また、ピア・カウンセラーとして協力された米国の障害者の方々、ロールモデルとして協力された自立生活運動の活動家の人々や、その他の調査に協力された友人達に深く感謝の意を表する。

 その米国留学に協力援助された日本障害者リハビリテーション協会、広げよう愛の輪運動基金、総合せき損センター赤津隆院長、同センター岩坪暎二泌尿器科部長、松尾清美氏および医用工学研究室研究員、九州リハビリテーション大学アイリーン山口、山口ともね両先生、向坊弘道氏、溝口博外科整形外科病院院長、北島医師、および家族に深く感謝する。


1988年6月16日




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