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柳川毅さん・"Working Quads"執筆者

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「精薄」養護学校の「進路」の問題について

The "COURSE" of a school for "MENTALLY RETARTED CHILDREN"

    柳川 毅
    Tsuyoshi Yanagawa :


柳川毅さん

『ワーキング・クォーズ』No.4、寄稿者
「精薄」養護学校の「進路」の問題について、pp.6-8、『WORKING QUADS』No.4、1990年12月16日発行、
Tsuyoshi Yanagawa :
The "COURSE" of a school for "MENTALLY RETARTED CHILDREN"



 私は現在、福岡市内の「精神薄弱」児のための養護学校に勤めています。 今は中学部の3年生の担任として子供たちの進路の問題で悩んでいます。 その、自分の悩みを書いていきながら、養護学校の大きな問題となっている「進路」についても考えを述べたいと思います。

 中学を卒業した「健常児」のほとんどは高校へと進学し、わずかではあるが残りの数%が「金の卵」として社会に旅立つことになります。就労と進学との二つの道があるのです。「障害児」の場合はどうでしょうか。養護学校の高等部にいくこと、施設にいくこと、在宅になること、就労の4つの道があるのですが、この中の就労はほとんど閉ざされているといっていいと思います。就労のことについては後で述べたいと思います。「障害児」の進路の中の「施設」や「在宅」は「社会に旅立つ」というわけにはいきません。逆に「社会から切り離される」といってもいいのではないでしょうか。

 高等部を卒業してからは「障害児」の進路はより狭く細く、険しくなってきます。大学がないのですから、「施設」と「在宅」と「就労」の3つの道になります。しかしここでも「就労」の道は厳しいのです。(私の学校では過去5年間に仕事についたものは3名しかいません。)つまり、「障害児」の選ぶことのできる道は先へいけばいくほど少なく、細くなっていくのです。

 先ほど「施設」や「在宅」の進路が「社会から切り離される」と言いましたがそのことについてもう少し詳しく述べたいと思います。「施設」にも自宅から通うことができるものとそこで寝泊まりする施設の二通りがあるのですが、どちらにしても「社会の人々」との出会いやふれあいは非常に少ないといっていいと思います。特に自宅から離れて暮らす施設の場合はほとんどが人里離れたところに作られてあり、そこから出ることは本人の意志にはまかされていないのです。ですから彼らの出会う「健常者」は施設の職員でしかないのです。

 「在宅」の場合はどうでしょうか。養護学校を卒業して「在宅」になるという場合「施設」が受け入れられないほど「重たい障害」を背負わされているといっていいと思います。ということは、ほとんど家から出ることなく過ごす時間が生活の中心になるのです。この二つの、「障害児」にとっての進路を見てどうして「社会に旅立つ」ということができるでしょうか。しかも、この二つの進路が「障害児」のほとんどが進んでいる道なのです。

 養護学校にいる子供たちの自宅での生活を調べてみると大半が家庭のなかで、カセットを聞いたり、テレビを見たりしてごろごろとしていることが分かりました。また学年が進むにつれて地域の子供たちとのふれあいが少なくなってきているという事実があるのです。こうしてみると、養護学校の子供たちはずっと「社会から切り離されて」生きているといってもいいのではないでしょうか。

 ここで気を付けなければならないことがあります。それは「精神的な障害をもっている子供たちだから、健常者とのふれあいがなくても寂しいなどと思うことはない。」と考える人がいます。また「情緒障害の子供たちにとってはかえって静かな環境のほうがよい。」という「専門家」も多くいるのです。

 私は養護学校に勤めていますが決して「障害児教育」の専門家ではありませんし、そうなりたいとも考えていません。ですからあくまでただの教育者として子供たちを見てきて感じたことを述べようと思います。

 前者の考えはかなり「障害児」に対する偏見を感じさせます。私は4年間で20数名の子供たちとであってきましたが、その中の一人として寂しさを感じない子どもなどいませんでした。ただ彼らのほとんどがそれを上手に表現することが苦手なのです。いろんな思いが胸の中にはちきれんばかりにいっぱいあったとしても、それらの一つとして「言葉」という形にして相手に伝えることができない自分を思い浮かべることができるでしょうか。彼らはそのなかで苦しみ、いら立ち、また、相手との距離を広げてしまうのです。「情緒障害」の子どもといっても、先ほど述べた理由からほとんどの子どもたちがそうであるといっていいと思います。しかし、「情緒障害の代表といわれる「自閉症」といわれる子どもたちにしたところで「健常者」とのふれあいを嫌っているわけではないのです。しかし、彼らは「管理」を嫌います。管理教育が横行している現在の学校のなかでは彼らはとても生活していけないのです。それは子供たちの問題でしょうか。コミュニュケ−ションの手段としての表現力を、それが未熟である集団の中に閉じ込めて何が解決していくのか疑問です。

 現在のクラスの子どもの中にも「自閉症」といわれる子どもが数人いますが、ちょっとした表情の中に彼らの思いが少しずつ読み取れるようになってきました。これは「専門家」であるからとか「教育者」であるからとかいったものではなく、人間としての問題であると思います。変わった行動、奇声をあげること、見かけの姿などのそういった「見かけの障害」に気を取られていては見えない彼らの「表現」に気づくようになるためには一緒に生きていくしかないのではないでしょうか。

 「障害児」の進路の問題は考えれば考えるほど現実が迷路のようにからまりあって胸が苦しくなってきます。学校は「管理主義」、社会は「能率主義」、その仕組みのなかで「障害児」ははじき出されてしまっています。世界一豊かだといわれる日本の豊かさの実態はこんなものなのです。私自身「管理主義」の学校のなかで管理されているのです。「障害児・者」が本当に豊かに生活できる世の中にならなければ、私たち「健常者」も本当には豊かに生きられないと考えます。しかし、「障害児・者」の豊かさと「健常児・者」の豊かさが別のものであっては意味がありません。つまり、障害児・者」が歩きやすいようにと別の「道」を作ることではないのです。誰でも歩きやすい「道」を作ること、これは非常に難しいのですが、そういう精神で物を考えていくことがこれからは求められているのではないかと思うのです。「障害児・者」も「健常児・者」も気持ちよく歩ける「道」、気持ちよく過ごせる「学校」や「職場」ができるようになってはじめて「豊かさ」を私たちが実感できるようになると思います。

 最後に、自分のようなものに「物を言う」場を与えてくれた清家君に感謝します。自分のつまらない文章でも少しでも外に向かって吠えることが私の教え子たちの「声」の代わりになるのではと思っています。

[編集者ノート]
 柳川毅さんは、普通小学校で、勤務したあと、(若久)養護学校小学部、中学部で、勤務しています。
 現場の声を、お届けします。


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清家一雄、代表者、重度四肢まひ者の就労問題研究会