WORKING QUADS

嶋田正光さん・"Working Quads"執筆者

夢に向かって一歩一歩。。。。
One Step, And Then Another Towards My Dream


島田 正光、     フィリピン・ルセナ
Masamitsu Shimada   Lucena City, Phillippines
1995、1、9、


[著者紹介]しまだ まさみつ:1950年4月、生れ。2、3歳頃に筋ジストロフィーを発病し、それ以来歩行困難。小学校も両親がおんぶして通学。小学校3年の夏休みから4年の終わりまで療護施設で暮らした。施設内の学校に一人で車イスで通学。1975年、25歳、長崎の国立療養所で、4年半の院内生活。1981年、福岡県筑後市の国立療養所に筋ジス病棟ができ、実家から近いその療養所に転所。1990年7月、筑後国立病院を退院。その後自宅療養。電動車いす利用者。ワープロはキャノン。1990年2月〜3月、約1か月、フィリピン初渡航。1993年、フィリピンで結婚。フィリピン・ルセナ在住。


[ Writer's Profile ] Masamitsu Shimada: Born in April, 1950. Male. Aquired his quadriplegia due to a Musculatr Destolophy when he was 2 or 3 years old. Entered Nagasaki National Hospital in 1975. Lived in hospital for 4 years and 6 months. Moved to Fukuoka-Chikugo National ospital and lived in the hospital for about 10 years. Have been in Phillipine for 1 month in February, 1990, for the first time. Then went back home. Uses a motorchair and a Cannon wordprocessor. Married in Phillipine in 1992. Leading the independent life. Lives in Lucena City, Phillippines.


嶋田正光さん




 私は昭和25年生まれです。2、3歳頃に筋ジストロフィーを発病したので、それ以来歩くことはできませんでした。小学校も両親がおんぶして通学しました。小学校3年の夏休みから4年の終わりまで療護施設で暮らしました。施設内の学校に一人で車イスを使って通える楽しさをはじめて味わいました。


 その後、25歳まで自宅療養を続けましたが、病状が進行して体を動かすこともできなくなりました。寝たっきりの私の介護のために、父に続いて母までもぎっくり腰になり、このままでは一家みんながダメになるのでは、、、と何か不安を感じました。まず自分が家を出なければ、両親はますます体をこわすでしょう。年老いて行くにつれて弱くなるのは明らかです。


 反対する母の重い腰を上げさせて福祉事務所に行ってもらい、やっとのことで施設探しを始めました。そのうちに長崎の国立療養所が見つかり、4年半の院内生活が始まりました。私を心配してくれた母は福岡の実家から遠い長崎まで月に1回は通ってくれました。入所した私はテレビだけの世界だった自宅療養に比べて、現実のきびしさを知ると同時に広い世界を泳ぐ楽しさも味わいました。特に電動車イスが来てからは、街の散歩までできるようになり、まったく夢のようでした。


 規則を破ったり、隠れたりして、外出をするので、医者や看護婦さんにしかられましたが、動き回って外界を知る楽しさは何物にもかえられません。私が夢を抱くようになった原点はここにあると思います。


 福岡県筑後市の国立療養所に筋ジス病棟ができたから、転院して地元に帰ってこないかという母の誘いがあったので調べてみると、そこは規則づくめの厳しい病院だというもっぱらの評判でした。しかし、年をとっていく母の思わしくない体調を見るに忍びず、昭和56年、仕方なしに実家から近いその療養所に転所しました。


 そこでの入院生活は10年に及び、その間いやと言うほど職員と患者の関係を考えさせられました。規則によって患者は荷物同様の扱いを受けます。「お前たちは家庭のやっかい者だ。行き先はないんだから、ここに居れるだけでも幸せと思え」と言ってはばからない職員もあり、泣き寝入りする患者がほとんどです。患者があればこそ国民の血税で給料をもらえるのだということを彼らは考えたことがあるのでしょうか。看護士の一言が患者の神経を逆撫でにすることは度々でした。例えば、患者が必死でワープロを買ったときに「何だ、こんな物を買って」と非難されたこともあります。


 私自身も不満がつのりましたが、生活を病院だけに限定せずに、地域の障害者グループにも参加して院外でのいろんな体験を積みました。自立生活をしている障害者や友人の家庭をかいま見ては、まだ問題が起き続けている入所生活がいやになってくるしまつでした。しかし、全く動かない体を考えると、病院を出ることは夢のまた夢です。病院を一歩出ると、のたれ死にだという強い確信がありました。でも、夢に向かって一歩を踏み出す勇気は失っていませんでした。


 ある日、仲のいい社協の職員の中山さんから「大阪の身障者に会う用事ができたので同行しませんか」という話が舞い込み、さらに「今後、公的な交通機関を使って電動車イスで県外の身障者を次々に訪問し、少しでも自立について勉強して行こう」という二人だけの愉快な規則がまとまりました。これは昭和62年から3年間続きました。


 一回目の大阪旅行では電動車イスで通勤しているグループと話し合ったあと、暗がりの中へ一人一人別れを告げて帰っていく彼らの後ろ姿に深い感動を覚えました。そこには、まさに自立者の微動だにしない尊さがありました。広島では、授産所と施設を経営する偉い人から「あなたの場合、年齢的にも障害的にも自立は不可能です」と宣言され、帰りの新幹線の中では私たち二人の間に空しい沈黙が流れたこともありました。


 滋賀県の筋ジス、金沢さんを訪問した時に、フィリピンで「日本人身障者の家」を経営しているという向坊弘道氏のことを教わったので、さっそく会いに行き、フィリピンでの自立生活についての話を聞きました。その結果、国民年金で十分自立生活ができるということは強く耳に残りました。フィリピンに行くことが自立につながる第一歩だと確信した私は平成2年、理解ある医師に一ヶ月間の許可をもらって、真冬に一人でフィリピンへ旅だちました。飛行機でスチュワーデスさんにシビンを当てるように頼むと代わりに機長がやってくれて、済んだ後で一緒に喜んでくれました。


 フィリピンでの生活は寒さの苦手な私に向いていました。排便は浣腸で出すようになりましたので、同室者に対する恥ずかしさもありましたが、だんだん慣れました。生活費は月に三万五千円という安さだったので、夢の自立生活が見えてきました。日本に帰国して七月に退院し、毎年冬の八カ月をフィリピンで過ごし、残りの四カ月間を日本で老いた父と過ごす自立計画を軌道に乗せました。


 平成5年、一人の子持ちのフィリピン美人と結婚しました。日本に帰国する際は一緒なので一人旅の時よりもだいぶ楽になりました。それに、今は親指しか動かせない全身マヒなので、そばに一年中世話をしてくれる人があれば安心です。心配してくれていた亡き母に今の生活を見せたい気持ちです。これからも自立生活は苦しいことも楽しいこともあると思いますが、夢に向かって一歩一歩進んできた自信を忘れず、感謝の気持ちでさらに遠くへ歩んでいきたいと思っています。


人生は自分のものであるが、自分だけのものではない。(自作)


(終わり)



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