WORKING QUADS
向坊弘道さん・"Working Quads"執筆者
Mr. Hiromichi Mukaibo of "WORKING QUADS" writer
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向坊弘道さん:『ワーキング・クォーズ』執筆者:福岡県北九州市
1990年5月、福岡市、清家宅・『Working Quads』編集部にて
[ Photo : Mr. Hiromich Mukaibo ]

"WORKING QUADS"No.3執筆者
"WORKING QUADS"No.8執筆者
"WORKING QUADS"No.9執筆者
"WORKING QUADS"No.10執筆者


[『ワーキング・クォーズ』執筆者]
むかいぼう ひろみち:
福岡県北九州市在住。

「自立をめざして」、『ワーキング・クォーズ』No.3、p.3、1990.6、重度四肢まひ者の就労問題研究会。

「毎月15万円の収入を確保するには」、『ワーキング・クォーズ』No.8、pp.49-51、1992.12、就労問題研究会。

「自立の頃」、『ワーキング・クォーズ』No.9、pp.29-37、1993.12、就労問題研究会。

「外国での挑戦−内面的な苦しみを克服して、より広い世界へ挑戦したある障害者の記録」
Challenge abroad − The Record of a disabled who challenged the wider world after overcaming his annoiance
《障害者の国際化》、『ワーキング・クォーズ』No.10、pp.56-67、1995.3、就労問題研究会。

著書:
『甦る仏教』(グリーン・ライフ研究所)、『よみがえる人生』(樹心社)1992年8月10日初版印刷、定価1600円。
『よみがえる生命』(樹心社)。




    1990年5月、向坊弘道さん、福岡市で


    1997年、向坊弘道さん、フィリピン・ルセナ写真集


    1997年、向坊弘道さん、ネパール写真集


    ・・・・・・・向坊 弘道 さん、"Working Quads"執筆者

    ・・・・・・・日本とフィリピンにおける私の介助者体制、向坊 弘道 さん(1997/4/12)

    ・・・・・・・『はがき通信』ついて、向坊 弘道 さん(1997/4/13)

    ・・・・・・・フィリピン・ルセナについて、向坊 弘道 さん(1997/4/13)

    ・・・・・・・『よみがえる人生』、向坊 弘道 さん(1997/4/15)

    ・・・・・・・『よみがえる生命』、向坊 弘道 さん(1997/4/15)

    ・・・・・・・『甦る仏教』、向坊 弘道 さん(1997/4/22)

    ・・・・・・・『続・甦る仏教』、向坊 弘道 さん(1997/4/22)

    ・・・・・・・「ザルツブルグ先生の印象」、向坊 弘道 さん(1997/5/8、受信)

    ・・・・・・・「私の自立生活の歴史(全文英文) The brief history of my independent living. 」、向坊 弘道 さん (1997/5/19)

    ・・・・・・・「"WORKING QUADS"ホームページの感想」、向坊 弘道 さん(1997/5/20)

    ・・・・・・・阿部勇さんについて、 「見捨てられるのか、重度身障者」、 向坊 弘道 さん(1997/6/7)

    ・・・・・・・キム・チングさんについて、 「疾走れ、キム・チング」、 向坊 弘道 さん(1997/6/7)


向坊弘道さん("Working Quads"執筆者)のホームページ

向坊弘道さん("Working Quads"執筆者)のホームページ

浄土真宗のホームページ(ブルームさんのホームページ、全文英語)



向坊弘道さんの電子メール
 BXE06432@niftyserve.or.jp
 LUCENASHI@msn.com

行って来ます。 各 位 殿 DEAR SIRS

 お元気でお過ごしでしょうか。
HOW ARE YOU?
 通信を送らせていただきます。 
Would you receive my message?
発信人:向 坊 弘 道   
FROM; MR.HIROMICHI MUKAIBO.
グリーンライフ研究所. 向洋興産株式会社. GREEN LIFE INSTITUTION IN JAPAN.
808ー01,北九州市若松区有毛3106. ADDRESS; 3106 ARIGE, KITAKYUSHU
    CITY, 808-01 JAPAN.
NIFTY-ID: BXEO6432. INET ADDRESS: Lucenashi TEL & FAX:093ー741ー2413.
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お変わりありませんか。ご無沙汰しています。私は明日、フィリピンに出発します。来年3月末に帰国します。
「はがき通信」は留守中、太田ヘルパーとサテライト・オフィスの井上氏がやりますので、今まで通りご協力をお願いします。
フィリピン身障者の家はますます入所者が増えています。そのうちに、ぜひおいで下さい。
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以上の通りです。よろしくお願いします。
  合掌    向 坊 弘 道




資料 ● ささやか情報交換誌を通して


  • 1996年10月、浜松、はがき通信懇親会。
    後郷法文さん、向坊弘道さん。
  •  ◆ ハガキ通信−−重度身障者の交流誌

     ほとんど寝たきり、車イスに乗れても自分でこげない、時には呼吸器をつけたままの人もある、こんな重度の中の重度の身障者も最近はかなり増えました。

     そんな症状で、頚髄(けいずい=首の骨)を痛めた身障者は高位頚髄損傷者と呼ばれます。つまり、首の骨は7本ありますが、上の骨ほど損傷によるダメージは大きく、身体の自由を完全に奪われます。

     厚生省が車イスに座ってバスケットをしたり自動車を運転している身障者とこれらの重度身障者を同じ一級障害者に認定しているのは問題視されています。

     なぜなら、高位頚髄損傷者は生命を維持するために大変な努力と経費を必要とするので、障害者年金や介助手当だけではまったくお手上げの状態で、もっと援助を手厚くすべきです。

     労災保険の適用を受けている身障者は生活費を支給されるのでほとんど問題はないようですが、私傷(就労中の事故でなく、私生活中の事故)による身障者や無年金者は生活費もほとんどなく、家族の支えにすがってどうにか生きているというのが厳しい現状です。 「身障者にも貴族と乞食がある」と言われるのはそういう理由です。乞食の方は入院してもすぐに追い出されるし、施設に入ろうとすれば満員だし、年を取って途方に暮れている人が少なくありません。

     しかも、不自由な体では行政に訴えたり、同病の身障者と情報を交換することもままなりません。福祉制度の問題点は至る所に見られますが、なかなか是正されないのはどういうわけでしょうか。やがては、国民全体の問題にもなってくると思われます。

     三十八年も高位頚髄損傷者として生きてきた私は、せめて仲間の間で情報交換をしたいと念願していましたが、私の自立生活を調査に来られた東京都神経科学総合研究所の松井和子博士と意見が合い、博士の絶大な協力のもとに、全国の高位頚髄損傷者を任意のメンバーとして情報誌を発刊することになりました。

     ハガキ一枚でもメンバーは自分の体験や工夫を報告し合えるようにと、誌名は「ハガキ 通信」にしました。そうしたら、これまで沈黙を強いられてきた極重度の身障者たちは雄弁に物語を始めました。

     吹けば飛ぶような存在の中にキラリと光る生命の輝き、外から見えなかった生命の世界への洞察、彼らの原稿にあふれる感動と興奮は新しい時代の何かを予告しているようでもあります。

     一九九六年末現在の会員数は約三〇〇名。年間購読料千円で隔月発行の機関誌「ハガキ通信」はA4版で一四ページ内外ですが、いままで知られなかった重度身障者の喜怒哀楽とその生活ぶりが数々の身障者自身による原稿によって知ることができます。


     ◆ ハガキ通信の巻頭《ごあいさつ》

     はじめは1991年秋ごろに十数人の仲間で情報交換を始めたので、軽い気持ちではじめに私の《ごあいさつ》の文章を載せたら、その後毎号これが必要だと松井博士に要請されて何行か挨拶文を書かなければならなくなりました。

     そこで、3回分の《ごあいさつ》欄の原稿をここに掲載します。


    《ごあいさつ》 ・・・1993年11月号より

     いかがお過ごしですか。1993年はどうでしたか? 私は12月2日フィリピンに出発するので、準備をボツボツやっているところです。

     さて、かねてより調査中だったネパール計画が進行中です。車イスで誰でも宿泊が自由にできるように設計され、現地での福祉情報センターの役目もかねたペンションの建設計画です。今はちょうど土地を購入した段階で、これから建築が始まります。現場はカトマンズー国際空港から車で10分の所、ヒマラヤがよく見えます。気候は日本の九州と似ていますし、一泊500円くらいですから、ぜひ皆さんに長期間の利用をしていただきたいと願っています。 ではいいお年を!  合掌


    《ごあいさつ》 ・・・1994年1月号より

     新年明けましておめでとうございます。1994年はひょっとしたら皆さんの足が立つようになるかも知れません。そんな初夢でした。ワッハッハ

     さて先日、別府市太陽の家の友人に久しぶりに会ったら床ズレの特効薬を教えてくれました。イソジン液1/4、グリセリン液1/4、グラニュー糖1/2、の割合で混ぜて患部に塗り、厚いクッションに穴を開けて、患部に当てるといいです。私も500円硬貨ほどの床ズレがわずか一週間で治りました。情報の大切さを痛感しました。今年も皆さんのハガキ通信で本誌を盛り上げて下さい。合掌

    《ごあいさつ》 ・・・1994年3月号より

     春です。できるだけ家から出て外の空気を吸いましょう。去年からバイクの空気浄化用のクッションをベッドや車イスで使って実験してきましたが、蒸れず、床ズレもできず、シッコもよくでる工夫がしてあるので廉価で商品化することになりました。便利な器具や素材があればご連絡を。    合掌



     ◆ 見捨てられるのか、重度身障者

     「ハガキ通信」の会員の一人、阿部勇さんも懸命に障害と戦い、生命の尊厳をかみしめている極重度身障者の一人です。毎日新聞に載った「四角い青空」欄の「第4部、いのちの分岐点、6」を転載しましょう。

    【阿部勇さん(24)は、もう7年間も天井を見続けている。動くのは顔の筋肉だけ。ベッドサイドで、人工呼吸器が絶え間なく音を立てる。

     7年前の五月。オートバイ事故で勇さんが東京都内の大学病院に運ばれて来たとき、医師団は「良くて2カ月か3カ月の命でしょう」と口をそろえた。

     「高位頚髄損傷」。首の骨の2番目と3番目が折れていた。脳は無事だったが、神経が断たれ自発呼吸ができなくなっていた。

     気管切開、そして呼吸器の装着。母親の節子さん(55)は、まだ高校3年の息子の将来を思うと、搖れた。

     「先生、一生機械につながれたままになるのなら、治療をやめて下さい」 救急救命センターの若い医師はきっぱりと答えた。「ここは命を助ける所です。無理やりでも治療します」

     70日後、勇さんは大学病院の紹介で埼玉県大宮市の今の病院に転院した。命は取りとめた。しかし、首から下は全く動かない。口は動いたが、声帯を繰れないので声が出ない。

     足立区の家から病院まで2時間以上かかる。「もっと近いところを」と探し始めた節子さんに、医療の現実が立ちふさがった。

     足立区内の病院に、片っ端から電話を入れたが、「人工呼吸器」と言うだけで断わられた。ある病院の医師は「息子さんは3人分の患者にあたるんですよ」と言った。

     介護に手間がかかるため看護婦の負担が増す。入院期間が長くなるほど、病院経営を圧迫する。人工呼吸器を必要とする筋萎縮性側索硬化症患者が、「採算に合わない」と入院を拒否されたケースと同じ構図が、ここにもある。

     寝たきりで体が硬くなるのを防ぐため、リハビリテーションが必要だった。しかし横浜市にある頚髄損傷専門のリハビリ病院でさえ入院を拒んだ。

    「本当は息子さんのような人を受け入れるべきなんでしょうが、病院の経費が限られていて・・・・・・。運が悪いと思ってください」

     朝、勇さんの目の両わきに白い筋がよく残っていた。「泣いていたんだな」 意識は鮮明なのに、言葉にできない息子がふびんだった。

     節子さんは鏡に向かって懸命に読唇術を独習した。今では、唇の動きで会話できる。勇さんも、入院3年目から顔の上に小型のワープロを固定し、割箸をくわえてキーを押せるようになった。

     ワープロ書きの日記がある。

     <(高校の同級生同士の結婚を聞いて)こういう話が来るようになったんだねえ。時間は過ぎているんだね>(ひとりだけ取り残されている感じだよ。17歳のときのまんま> 3年前、呼吸器が外れ、気を失った。病院内で「自殺を図った」という噂が立った。だが日記には、こう書かれている。<自殺ねえ。できる人はぜいたくだよ。したくってもできる訳ないじゃない>

     頚損患者の実態調査を続けている東京都神経科学総合研究所の松井和子主任研究員は矛盾を指摘する。

     「日本では、高度な救命医療技術と、その後のリハビリが結び付いていない。米国やカナダでは、人工呼吸器をつけている人も、リハビリの対象です」

     最近、勇さんはしきりに「家に帰りたい」とこぼす。12人部屋。節子さんは「1人になれないストレスがたまっているのだろうな」と、ベッドの周りを白い布で囲った。布1枚で仕切られただけの空間だが、勇さんは「この方が落ち着く」と唇を動かした。

     節子さんは言う。「息子を助けてくれたことには感謝します。ただ、今後の人生に何か可能性を残してあげたくて・・・」】



     ◆ 疾走れ、キム・チング


     「ハガキ通信」の会員の中には、どうにかしてあげたいと思うほど重症の人、これならいいなあと思える軽い症状の人、寝たまま采配を振っている家庭の主人、大学入試を目指す高校生など様々で、紹介したい人がたくさんあります。

     その中の一人、キム・チングさんは年中うつ向きになって寝たままで、上に向いて寝るということはない身障者です。やはり、頚髄損傷者としてすでに四一年以上も苦難の歩みを続けています。

     一年前に彼はストレッチャーを電動車イスの上に溶接してうつ向きに寝たまま街を走ることを考え出しました。これは長い彼の身障者生活の中でも画期的な挑戦です。街を走っている写真とともに、その喜びを文章にして「ハガキ通信」に寄稿してくれました。屈託のない彼らしく、原稿も次のように独特の躍動感に満ちています。


     【 ストレッチャー型電動車イスに出会って一年・・・キム・チング

    「ハガキ通信」の皆さん、紅葉が美しい晩秋、いかがお過ごしですか。小生は小さい秋を見つけに東に西に走り回っています。

     そうです。ご存知の長いストレッチャー型電動車イスに乗ってです。“小さい秋”に出会うたびに深い感動のため息をついています。紅葉のすばらしさに酔っています。そんな小生のコッケイなスタイルを見て別の意味のため息をもらすご仁もおられるようです。

     しかし大自然の前では、少しも気になりません。小生も天然の美にとけこんだのかな。まさかね。でも自然美は小生を救ってくれます。

     ストレッチャー型電動車イスに出会い、一年が経過しました。すでに一〇〇〇キロメートルを走破しましたが、足回り、電気系統などすべての面で満足すべき結果を得ています。むろん無事故無違反です。交通ルールは厳守。一年間は無事に過ぎましたが、タイヤは丸坊主、肉体的にかなり疲れがでています。

     今後はメカに対する過信も含めて自己規制を厳しく、さらに安全運転に徹して車イス生活を実のあるものにしたいと考えています。

     最初の海岸見物に始まり、桜見物、若葉見物、花火見物、公園散策、ショッピング、通院、図書館通い等の自由な外出をフォローして下さる多くの方々に深謝します。皆さんのご支援なくしてはこの夢のような生き様は考えられません。

     本当に有り難う。    秋の好日を皆さんに    十一月十四日 】



    キム・チングさんは住所が同じ市内だったのでさっそく電話してみました。はじめて障害者に接触する場合、こちらもビクビクです。というのは時には調子の悪い身障者に電話して「何の用だ」と怒鳴られることもあるからです。キム・チングさんの場合はそんな心配をよそに、実に明るい声で応答してくれて、何でもしゃべってくれたのでほっとしました。

     さすがに苦節四〇年、風雪に耐えてこられた強者だな、という感じが伝わってきました。その後、約束の上で訪問してみると、彼は母親と二人で新幹線小倉駅の裏にひっそりと暮らしていました。

     昔は柳の並木通りからひょいと入ってくるお客さんにお母さんが焼き肉やホルモンなどの朝鮮料理を出していたのでしょう、冷蔵庫やカウンターがそのまま残っていて、飯、ビール、焼酎、カルビーなどの値札がにぎやかに下がったままの店内に、今はキム・チングさんのストレッチャー型電動車イスが窮屈そうに駐車?しています。

     この風変わりな車イスで町中を疾走するには少々度胸が要るでしょうが、七三才になる老母をいたわって、彼の車イスは買い物に走り、病院に出かけ、散歩を楽しみます。

     彼とすれ違う人々は車イスの上の腹ばいの人間を見て、一体何が走っているのかと、はじめは用心深く観察しますが、次には彼の勇気と不屈の魂に拍手を送ります。外国人は無年金ですから、横にある猫の額の駐車場から上がる七万円ほどの収入に頼る赤貧の生活ですが、決して希望を捨てないのがキム・チングさんの信条です。

     人生に行き悩み、世の中をさまようことの多い私たちの心に、彼のストレッチャー型電動車イスは明るい希望をふりまきながら疾走します。

     疾走れ! キム・チング、希望と勇気を乗せて。これが街行く人々の彼を見つめる熱き想いです。




    ● フィリピンの日本人障害者の家で

     ◆ フィリッピンでの生活は?


     1994年正月現在、満十二年を迎えたフィリピンG.L.I.P.(日本人障害者の家・政府登録名、グリーンライフ研究所)には2人の重度障害者(島田、向坊)が生活していて、各人が独立した会計です。生活費はヘルパー2人を雇って月額¥35,000くらい。ヘルパーの日給は十二時間働いて一日三〇〇円。生活はわりあい便利です。停電はありませんが、水道は時間給水。井戸水を利用しているので、水洗便所なども使えます。市内のホテルよりきれいで便利です。

     すでに日本人障害者の家を卒業?し、現地でお嫁さんをもらって自立生活をしている薄、高松、両頚髄損傷者も近所に住んでいます。日本から経験滞在を希望する障害者もときおり訪れます。今年は私の帰国する3月までに東京、長野、福岡から3組の来訪が予定されています。

     訪問者は一泊一千円。マニラ国際空港に出迎えに行く場合は自動車のレンタルが灼七千円、現地のヘルパーを雇う場合は一人につき日給三百円が加算されます。

     私たち頚髄損傷者は体温の調節ができないので、冬のフィリピンの暖かい気候は大変助かります。それに、人手は多いので私たちはみんな重度の障害者でありながら自由に外出しますし、時々は旅行もします。風呂はありませんがシャワーを使うのが普通です。

     市内の両替商で円を通貨のペソに交換できます。1ペソは4円。言葉は英語あるいはフィリピン語です。はじめはほとんどの人が簡単な英単語しか知らなかったのに、今はうまくなっています。高松さんは現地のフィリピン語もペラペラです。

     以下は日記のひとこまです。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     一月二日、隣のアパートの主人に二〇日前に貸した五〇〇ペソ(二千円)を請求にいったら3軒先の井戸堀人に貸しがあるからそれと相殺してくれという。井戸堀人に確認するとOKだった。

     一月四日、ヘルパーが私の眼鏡を落として割る。泣くようにして謝る。しかたなく近所のメガネ屋に持っていかせたら、同じレンズをいれて三〇〇〇円という。日本では一万円だ。助かる。

     一月九日、家を買いたいという薄さんにつきあって電動車イスで町内をひとまわり。めぼしい物件は売れたようだ。3年前までは売りものも多かったのに。高松さんは風邪で出てこない。

     一月十日、町内のディスコ大会がおもしろそうだから、と島田さんと奥さんと息子さんがでかける。今年は暖かく、島田さんがかえってきた夜十時でも摂氏三十度だ。私は大会から響いてくる音楽を聞きながら、残業の大工さんらにつきあう。

     一月十四日、夕方涼しくなって散歩に出かけると、あちこちで遊んでいる子供達が両手を合わせて「ありがとう」と片言の日本語で言う。テレビで毎日そういうシーンが出てくるらしい。今では近くのフィリピン人たちも日本人障害者をすっかり受け入れてくれているのがありがたい。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

     こうして、みんな永住するよりは適当に日本との間を往復しながら生活を楽しんでいるようです。私のように冬の間だけフィリピンに滞在する人も1、2月の平均気温が二十八度なので、健康上助かるわけです。

     なお、当地で結ばれた島田さんと高松さんの両カップルは1993年5月に福岡市のお寺で合同結婚式を挙げましたが、その式の模様が朝日新聞に紹介されていますので、次に転載します。



    ・車イスすが結んだ日比の愛 ・

     【フィリピンの福祉施設で身体障害の自立訓練をしていた日本人男性と、現地の女性ヘルパーのカップル2組が25日、福岡市博多区のお寺で結婚式を挙げた。

     結婚したのは、福岡市南区日佐の島田正光さん(42)とノリ・ビアヘさん(40) 北九州市八幡西区東川頭町の高松祥二さん(40)とリヒーナ・キムラさん(27)。

     島田さんは筋ジストロフィー症、高松さんは交通事故が原因でともに車いすの生活を続けている。

     出会いの場は、フィリピンのマニラ南方約130キロのルセナ市にある・日本人障害者の家・

     北九州市の福祉団体・グリーンライフ研究所・代表、向坊弘道さん(55)が、自立訓練の場として9年前に建てた。

     島田さんらは、日本では介護費用がかさみ、冬場の介護入浴が大変なことなどから5、6年前、向坊さんの紹介で・身障者の家・に入所。年に10ヶ月間ほど現地に滞在し、ヘルパーだった新婦の介護を受けるうちに恋が芽生えたという。 友人らの祝福を受け、高松さんは・早く独立しないといけんと思ってました・と笑顔をみせていた。】

    1933年5月26日 朝日新聞朝刊



     ◆ 育て! 四人の孤児

     人間としての価値は、その人を全体から見ないと分かりません。頭の良しあしだけでは決められません。また、社会的な習慣の違いも考慮に入れなければなりません。

     日本人は小さいときからファミコンやハイテクおもちゃに慣れていて、技術的なことに詳しくなります。学校での試験にも慣れていて、知能テストをするといい結果がでます。 そこへいくとフィリピン人の子供は土の上で遊び、近所の友だちとよく交わり、情操豊かに育つので、人格的にはいい人物ですが、ハイテクについては何も知らない子供が多いので、ちょっと目には無知でバカのように見えるのです。 

     だから、偏差値評価に慣らされている日本人はこの国に来るとたいへん驚くことも多いです。日本人障害者の家を建ててまもなく、デ・メサ家のはしくれに4人の孤児がいるのに気づきました。長男のノリ君は一〇才くらいでしたが、市場の中をネズミのように駆け回り、あちこちで手伝いをしてなにがしかの見返りをもらい、弟たちを養っていました。 感心してみているうちに、私も手伝わなければと思うようになっていくらかづつお金を渡すうちに、彼らは実の子のようになついてきました。そのうちに、毎月定額をノリ君に渡すようにして、私が買った農場に家を建て、安心して兄弟みんなが学校に通えるようにしました。

     電気も水道もない農場に住んでいるので勉強はできないだろうと予想していましたが、4男をのぞいてみんなトップクラスの成績なのには驚きました。

     時には言うことをきかないとノリ君は弟をぶん殴るらしく、下の子が泣いてくることもあったので、誰か面倒を見てくれる人を探さなければと思っていると、4人の男兄弟で、ちゃんと炊事、洗濯、掃除をやってのけるので、また感心しながら見守っていました。

     そんな話を聞いた高石住職や渡辺住職など、浄土真宗の福岡教区西嘉穂組というお寺さんの組合が5年くらい前から義援金を寄せて下さるようになり、私の負担は大きな覚悟?をした割には小さくなりました。

     ノリ君兄弟はときどき私の所に日本語を習いにきます。それで覚えた片言の日本語でノリ君は日本から来たお客さんを案内するので、彼の活躍に感心した日本人が「私の息子と取り替えてくれませんか。私の息子は口もきいてくれませんよ」などと苦笑したこともありました。

     去年の3月、フィリピンでの越冬を終えて日本にひきあげる予定の日に、日本からの見学者の接待で疲れて入院してしまいました。そういう時にはノリ君がよく世話をしてくれるのですが、病院にとまりこんでいる隙をねらって、酒に酔った隣の叔父がノリ君の家に刃渡り五〇センチのボロ(蛮刀)をかざして暴れ込むという事件が起きました。

     ノリ君兄弟のように安定した生活をしていると、うらやましがられたり、ねたまれたりして、時にはいやがらせをされるらしいので困ったものです。暴れた男は昔、私に奨学金を出してもらって大学に通っていた男で、あまりの怠けぐせと嘘の多さに、私に出入りを断られていたものでした。

     彼は私に言い訳をしようとなんども部屋の前を行ったり来たりしていましたが、私は怒ったふりをしていました。外国では“イエス”と“ノー”をはっきり言う必要がありますが、この国では特に、気に入らないときには不機嫌な顔を見せる必要があります。いつもニコニコ、どうでも“いい人”ではこの国の人と長くつきあうことはできません。

     それからすぐに日本に帰った私は事件がどうなったかと心配していましたが、2カ月後にノリ君にヘルパーになってもらってネパールに行く機会がありました。 香港で彼と落ち合った時、事件後の推移を尋ねてみたら「ほぼ仲直りをしました。あのときに逃げ出した家は彼らにあげて、今度、ネパール行きでもらう給料で少しいい家を建てたいと思います」という話でホッとしました。

     ノリ君のように大ファミリーからはみ出しても、元気に生きていこうとする兄弟をみているとこちらまで勇気を与えられるような感じがします。



     ◆ フィリピン人と日本人

     日本ではフィリピンの印象は大変悪いようです。フィリピン人はみんな貧しく、怠けものであり、フィリピンに観光旅行に行けば生きては帰れないように思いこんでいる日本人が多くなりました。

     そこで残念ながら、越冬のために私がフィリピンへ旅立とうとすると「よくそんなところへ行きますね」という冷ややかな反応を見せる人が大部分です。私は「フィリピンはアメリカより犯罪が少ない安全なところなんですよ」と言っても理解しようとする人はほとんどありません。

     フィリピンに来て長く居る日本人でも頭から彼らは遅れていると思いこんでいるものですから、なんでも教えてやろうとコマンド(君臨)したがります。そうなると、彼らはその人を仲間として見ませんから、そういう日本人は“よそ者”のレッテルを貼られます。 こうなるとその“よそ者”は実に苦労がふえることになります。だまされたり、ぼられたり、ということにもなります。“よそ者”にされた日本人はまったく面白くないものですから、彼らを悪者扱いにして悪口をいい始めます。

     そもそも誤解の始まりは“進んでいる”人間として彼らに何か教えてやろうという傲慢な考えにあったわけですが、それさえも気がつかないという、工業国に住む人間の優越感を私たち日本人のほとんどが持っているのではないでしょうか。

     そうして、同じ人種のアジア人どうしの間に誤解と偏見が広がり、お互いに面白くない関係をもたらしていることを私たちは素直に認めねばなりません。

     フィリピンという国は昔から日本と強いつながりがあり、一般的には、フィリピン人は日本人を非常に尊敬しています。日本人は皆、億万長者だと思っています。日本は有色人種の中では白人に対抗できるチャンピオンだという認識が強いです。

     戦争中、日本軍はフィリピンでひどい仕打ちをしたらしく、よく現地人を殴ったり殺したりしています。結果的には米軍がカムバックしましたが、アメリカ人も今は人気はよくありません。

     大戦後、日本が負けたあと、日本軍に協力的であったフィリピン人や日系人たちはひどい報復をうけました。とくに日系人は抗日ゲリラに命を狙われて逃げ回ったために家族は離散し、財産を奪われ、現在も立ち直れずに貧しい悲惨な生活をしています。

     長い間日系人であることを隠して暮らしてきた2世や3世は、近ごろようやく日系人であることを名乗り、誇りにするようになってきました。

     フィリピンで日系人が多い地域は首都のマニラ、夏の避暑地になっている北方高原の都市バギオ、麻で栄えた南端の都市ダバオです。マニラ麻が全盛のころ、ダバオでは日本より高級をもらえるというので、1920年代ですでに一万人の日本人が住みついていました。

     日本人障害者の家があるルセナ市は、マニラから南百キロあまりです。日本人障害者以外にフィリピン人芸能者と結婚した十人内外の日本人が居るらしいのですが、ときどき日本からくるだけですから、横の連絡はまったくありません。

     日本人障害者の家からわずか五分の所にヘネロ・ヤマモト氏が住んでいます。彼は和歌山県出身の父とフィリピン人の母の間に生まれた二世で、元サマール市長です。

     若いときはマニラで夜警のアルバイトなどをしながら苦学して法律学校を卒業、すぐに司法試験に合格して弁護士になり、日系人の中では例外的に出世していい暮らしをしています。

     あわや国会議員というところでしたが、共産ゲリラと妥協しなかったために選挙戦で妨害され、六十才過ぎながら引退して晩年の静かな生活を楽しんでいます。 私たち日本人障害者の世話をよくしてくれるので、全幅の信頼をおいているのですが、彼のような清潔な政治家はきっと再び活躍するチャンスがあるに違いないと私たちの間では話し合っています。

     そういう日本関係者にとっては、日本が憲法上でも平和国家になったのは唯一の誇りです。ODA援助をかなりやっているのもいいことで、戦前の汚名を挽回できます。

     しかし、的外れの援助がかなりあります。近くのダラヒカンという港には巨大な冷凍設備を供与しましたが電気はいつも停電していました。

     援助は彼らの活力を信じて、道路網と電話網を提供すれば十分だと思います。交通と通信の手段の整備によって、彼らのたくましさは未来をきり拓いてゆくでしょう。

     私たち日本人障害者の家にいるものは滞在が長くなると、日本恋いしや懐かしやの想いがつのり、ふだん日本ではあまり口にしない梅干し、らっきょう、たくあんなどを好んで食べるようになります。

     ふだん分からなかった日本のことがよく見えるようになり、気になることはもの申したい気分になります。国際交流とは? 国際貢献とは? 世界平和とは?
    やはり日本にいて頭で空想するのとはだいぶ違うのではないか、という話題が多くなります。とは言え、自分たちでも分からない矛盾がいっぱいあります。

     市内の障害者との交流、小学校への学習用品の寄付などを通じて、感謝の気持ちを表すことなど。。。一部の者たちを援助したところでどうにもなるまい、という批判もあります。援助をするから、彼らが怠けるのじゃあないか、という意見もあります。しかし、彼らの意見も聞かなければ、、、、

     日本よがんばれ、未踏の地に向かって道を拓け、世界の人々に夢と希望を与えてくれ、という声なき声があることを肝に銘じてほしいのです。



     ◆ 念仏婆ちゃんの「日本人障害者の家」訪問記


     福岡市の念仏婆ちゃん、開田チヨトさんは八四才にして、福岡グリーンライフ研究所を主宰する萩原さんの恒例の「日本人障害者の家」訪問ツアーに参加しました。若い念仏同行の山川さんと一緒にフィリピンにまで足をのばした感激を次のように記しています。

      O

     女学生時代に世界地図でフィリッピンの存在を知り、さらに先の大戦で多くの若者が戦火に散って行ったニュースを聞いていましたが、それでも私には遠いフィリッピンでした。

     今回、「日本人障害者の家」のお誘いもあってフィリッピン行きを決意、子供達の心配を感じつつも、最後の海外旅行になるかも知れないというひそかな思いを胸に秘めて、機上の人になりました。

     旅行は2週間の予定です。福岡に帰ってくるころは少しは暖かくなって桜の花の咲き始めるころでしょうか。

     午後3時、武内洞達先生たちの見送りをうけて、萩原さん、山川さんの3人で福岡空港を離陸。

     これから展開されていくフィリピンでのことなどを思い、機内食を食べたりしているうちにマニラ空港に着陸しました。飛行時間約3時間30分です。思ったよりも近い外国でした。

     5、6人の人が大きく私の名前を書いて待っていて下さいました。マニラからルセナまで途中おいしい食事をいただきながら自動車で3時間、夜の10時ごろ「日本人障害者の家」に到着して挨拶を交わすことができました。

     以下思い出されること柄の2、3を書いてみましょう。

     食事は少し焼いた小さなパン、もち米の混じったごはん、日本から持参した調味料で美味しく味つけされた料理などで、いつも美味しく食べることができました。

     それにフィリピン料理と果物が必ず添えてありました。福岡でも食べられるバナナは甘く、表面が黒く中が赤い西瓜、名前も知らない珍しい果物など、豊富です。

     私の周囲には常に5、6名の人達が和気あいあいに過ごしていて、日頃ひとりで過ごしている静けさがかえって懐かしく思い出されることでした。

     さて今回の旅行の目的は「福祉」というテーマでした。

     車で30分ほど走ったルセナ市立第三東小学校に行った時のことです。女校長を始め、先生と大勢の生徒が一斉に走り寄ってきたので、山川さんが「学校は、休学中だろうか」というほどでした。

     校長室でしばらく休憩して、ノリさん、萩原さんが足踏みのミシンを買い求めて来られたので、授業ベルと一緒に学校に寄付しました。後から聞いたのですがミシンは小学校が長年希望していたのだそうで、日本の同行から預かってきたダーナ(布施)によってまた小学校の希望が満たされました。

     市内のヘルマーナという福祉施設は一生独身で社会のために尽くしたクリスチャンの女の人が自分の財産の全てを投じて建てたのだそうです。今も施設の中で住む家がなく、親もない10数名の子供が育てられています。

     その子供達に武内先生から寄付された文房具、島根県の西楽寺さんからの”折り紙の帽子”と福岡の同行からのお菓子を私の手から手渡すことが出来、ありがたい思いでした。 教室に入る時は生徒達が合唱で迎えてくれました。それらの教室には便所が備えてあり、珍しいと思いました。

     また「日本人障害者の家」に近い小学校も尋ねました。ここも日本人の身障者に馴染みのところでしょうか、マンドリンクラブの生徒さんが、女先生の指揮で上手に合奏を聞かせてくださいました。

     曲は知らないけれども、合奏も指揮も心からなごむ姿に、私達も心が暖まる思いでした。

     7日の日曜日、この日も晴天でした。10時頃からカラ・デ・オロ海水浴場へ14、5名で出かけました。

     車の中は言葉は解らないままに賑やかで楽しい時間でした。田園の中を走るので信号がありませんし、自分の都合のいい所で乗り降りできるので便利だなと思いましたが、車の乗り降りは大変でした。

     日本の田園風景と違って米が年3回収穫されるます。苗代の隣は稲穂が実り、まだ青々した田もあって面白く、道端にはバナナの樹が並んでいて、その間に貧しそうな家が建っています。

     おそらく電気や水道はおろか、台所さえも無いような、屋根はヤシの葉か何かで覆ってある家でした。

     洗濯は濁ったような川の水で洗い、洗い終った着物は太陽光で漂白するためにそこらの草むらにひろげてあります。普通の家でも洗濯物は針金を張って、それに吊るしてあります。日本のように竹竿になるような竹がないからだそうです。

     現地の人は朝起きると1番に水にかかり、体を清めるのだそうです。家に風呂がないせいもありましょう。水にかかることで清潔の保持と宗教的な清めを同時にはたしているのです。

     この海水浴場は有料だそうです。日曜日でたくさんの人で混んでいました。海は遠浅で、珍しいことには”着の身着のまま”で海に入るのです。濡れてもしばらく浜で遊んでいるうちに乾いてしまいます。

     以前萩原さんから「雨が降っても傘は要りません」と聞いても納得いかなかったのですが、実際の体験でわかりました。私も着たまま海に入り、そして乾かしてしまいました。 午後3時頃帰宅、サマールの前ヤマモト町長宅のパーティに招待されていましたので、和服に着替えて大勢で出かけ、沢山のご馳走に舌鼓を打ちました。町長の父親は日本人の方だそうです。しばらくよもやまの話をしましたのも恵まれた機会でした。

     「日本人障害者の家」にはたくさんのお客の出入りがあり、差別なく、長いおつき合いのように打ち解け、飾り気が全くなく、言葉が分かったらさぞ楽しかっただろうと残念です。

     台所のフキンに古いシャツを使用していたので、新しいタオルに取り替えたら、いつの間にか古いシャツに変わっていたので苦笑しながらも、物を大切にしていることと判断しました。

     雨はスコール。ゴミ取り車は来ないので、川に流したり、燃やしたり。家も土地も物価も安い。服装も簡単。すべてに競争が少ないのか、争う心は少なく、明るい態度です。日本人への感化は大きなものがあると感じられ、私のキョウマン心が恥ずかしい。

     有難いことには、車イス生活者がみんな求道者であったことです。

     「人と生まれた所詮は聞法より外にありません。仏さまは方便として障害者となしてまでも、法のご縁を与えて下さるのではなかろうかと思います。

     生かされていること一切が人手を取らなければならないことを身をもって体験しておられるではありませんか。考え、味わう時間も充分与えられ、しかも金銭の心配も少なく、有難いことではありませんか。

     あなた達は幸せ者ですよね」と申しました。

     きっとフィリピンに仏法の華を咲かせて下さる方々と信じられました。また法の華咲くことを念じ「日本人障害者の家」の働きを喜ばせていただきます。

     島田さん、薄さん、高松さん、フィリピン人のお嫁さんたちの感化を期待しています。あなた達が「フィリピンでなきゃ、お婆ちゃんとの出会いはなかった」と喜んで下さったこと、不思議な御縁と思っています。

     この度の旅行、わずか2週間でしたが、平年よりも涼しい季節にも恵まれてずいぶん過ごしやすかった日々。それに加え現地の人の暖かい眼差しなど、みなさんの並々ならぬ尽力にも感謝申し上げます。

     山川さんにも私の分まで働いて下さり、フィリピンの人々と仲良く過ごして下さって有難うと深くお礼を申し上げます。

     以前行った韓国にも仏法がありました。それは韓国の仏法です。フィリピンにはフィリピンの風光に合った仏法がありました。私にも私に合った仏法がありました。

     それがお念仏という仏法であることを確かめながら、無事おかげさまで帰国して、あの素晴らしかったフィリピンの人々との出会い、そしてその自然と風光を書き表すことの難しさをかみしめています。         

    おわり




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    清家一雄、代表者、重度四肢まひ者の就労問題研究会