私の場合、フィリピンで2度、日本で1度臨死体験をしました。日本での体験
は『よみがえる生命』(樹心社刊)に書いたとおりです。
フィリピンでの体験を思い出してみます。
「日本人身障者の家」を訪れる日本人のうち、半数はフィリピン人を“遅れて
いる”と批評します。しかし、フィリピンの医療水準はかなり高く、薬も医術も
アメリカ直輸入です。医者はほとんどがアメリカで何年も修行して帰国したフィ
リピン人です。彼らは保険制度に守られていないこともあって、患者を診るのに
全神経を集中するようです。
1991年のことです。尿の病気でその5年前にも重体に陥りました。頚髄損傷者
の場合、尿路系の良しあしが寿命を決めるといわれていますが、二回とも尿閉を
ともなう腎不全でした。
そのときは最もひどく、私が重体になって病院にかつぎ込まれたとき、すでに
尿毒症が全身にまわっていて、皮膚はすきまなく紫色に変わっていました。
霊長類は死期を予測できるそうですが、ほんとうに「私はこれでおしまいだ」
とはっきりわかりました。まもなく意識不明におちいり、昏睡状態が二日二晩つ
づきました。生死の境をさまよっている間、フィリピン人たちがチームを作り、
不眠不休で懸命の看護をしてくれました。
血圧がどんどん下がっていき、医者は心配して深夜になんども診察にきまし
た。「血圧が六〇を下まわると元に戻らないから用心するように」と言われてい
たのに、二晩目についに血圧は最高で三〇になり、脈が一分間に2度しか打たな
くなりました。もう死んでいたというか、俗にいう仮死状態です。ドクターは
「日本に親族があれば呼びなさい」と言って、一応サジを投げた格好でした。
詰めていた数人の日本人があわてて日本の弟に連絡をとる一方、付き添ってい
たフィリピン人たちは何とかしてくれと必死になって医者に食い下がりました。
「最後に一本だけ試すべき注射がある。これで死んでも悪く思わんでくれ」と
言って、東の空が白むころ、うやうやしく一本の注射をしてじっと待っていまし
た。
数十分のうちに顔にパッと血の気がさし「あるいは死線を越えたのでは?」と
いう希望がわいてきました。さらに数分すると、みるみるうちに全身の紫色が薄
れてゆき、かわりに普通の肌色が現れてくるではありませんか。みんな手をとり
あって喜びました。
姉夫婦と弟二人は年末の混雑で航空券がなかなかとれなかったので、外務省ま
で電話して交渉しました。やっとの思いでフィリピンに到着し、あわただしく私
の病室にかけこんだとき、私はキョトンとした顔つきで彼らを迎えました。
一部始終を聞いて私のほうが驚きました。二日間も昏睡していたなんて。。。
しかし、いつも思い出すのは、無意識の二日間に阿弥陀仏の前にひれ伏し「どう
かもう一度生かして下さい」と泣いて頼んでいる場面です。「これからは絶対に
自分だけの幸せを考えず、世のため人のために尽くすことを誓いますから」と一
生懸命でした。
でも私の本能はよほど利己的にできているのか、滅私奉公の約束ごとはいつも
反故にしているように感じます。それどころか、いくらかそういう雰囲気を醸す
ことによって好い格好を人さまに見せたり、諸々の欲求を障害者であるために諦
めざるを得ない理由づけに利用しているようにも感じます。
その後、医者はついに注射の名前を明かしませんでしたが、これこそアメリカ
で学んだ起死回生の秘術であっただろうと思われます。
私を助けてくれたのは、“遅れている人たち”の情けであり、“遅れている人
たち”のすばらしい温かさでした。そして、“遅れている人たち”の国で毎年の
冬をぶじに過ごさせてもらっているわけです。
(1998/5/29、電子メール)
(1998/6/2)
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